ヒンドゥー教徒とイスラム教徒どうしの寛容がインドの港湾都市で発達した理由について,Saumitra Jha が秀逸な論考を書いている:
寛容の各種制度は,どんなところに生まれるのだろうか? 歴史・フィールドワーク・データを組み合わせてみると,こんなことが見えてくる――寛容の制度が発達する場所は非常に限定されており,ふたつの条件が満たされている.第一に,ヒンドゥー教徒とイスラム教徒に,いっしょに働くインセンティブがある必要がある:たとえば,お互いに競争するのではなく,お互いを補完する仕事の関係に携わるといったことがこれにあたる.第二に,この補完関係は頑健でなくてはいけなかった:片方がその補完部分を模倣・複製したり,もう片方が補完していることの出処を盗み取ったりするのが困難でなくてはいけなかった.
こうした事例のなかでも重要なのが,港だ――たとえば,マハトマ・ガンディーの故郷であるポルバンダルがそうした港町の一例で,中世にははるか中東まで交易を広げていた.1000年近くにもわたって,1年に1ヶ月,ハッジのあいだ,メッカは世界最大の市場になってきた――そして,メッカを訪れるにはイスラム教とでなくてはならなかった.このため,港のイスラム教徒たちは――インドのみらず,アフリカの沿岸部やマレー半島や,さらに他の地域ですら――海外交易と海運に非常に長けていた.そして,そのことに恩恵を受けたのは当人たちだけでなく,彼らと船舶でつながっていた地域共同体もまた,便益を得ていた.
さらに,海外交易におけるこの相補関係をもたらしていたのは,無形でつかみどころのない交易ネットワークだった.ハッジの規模はあまりに大きかったため,ヒンドゥー教徒たちには類似のものが模倣できなかった.当然ながら――16世紀以降のヨーロッパからの植民地介入によって破壊されるまで――イスラム教徒たちはインド洋全域で海外交易を支配していた.その範囲は,西はザンジバル諸島の沿岸部から,マレーシア,そして東は中国にまで広がっていた.
中世インドの沿岸部各地にある自然の湾岸に,港がうまれてゆき,こうした交易関係を支えた.そうした港には,さまざまな規則が発生したばかりか,交易・集団内の信頼・宗教的寛容を支える思想信条や組織もうまれた.そのため,3世紀のちになっても――ヨーロッパの植民地介入によってイスラム教徒たちの交易面の優位が消え去り,港の多くが沈泥に埋もれて交易で用をなさなくなったあとにも――こうした思想信条・規範・組織の遺物は,人々どうしのやりとりのあり方を形づくりつづけた.平和と寛容の各種制度は,かつてそれらを維持していた経済的インセンティブよりも長生きしたのだ.
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