●David Glasner, “Central Banking Is Not Central Planning”(Uneasy Money, July 28, 2011)
「続・金(ゴールド)とイデオロギー」と題した数日前のエントリーでも指摘したことだが、金本位制信者は「中央銀行」を「中央計画当局」と同一視して難詰(なんきつ)するのがお好きなようだ。こんな感じで中央銀行を中傷する風習がいつ頃からはじまったかは知らないが、金本位制信者の間ではFedを叩く時の常套手段になっているようだ。試しに、Googleの検索バーに「central banking」(中央銀行)と 「central planning」(中央計画)という単語を並べて入力してみたら、54,600件もヒットした。 検索結果の1ページ目に掲載されていたリンクのタイトルを掲げると、以下の通り。
- Robert Blumen, “Will Central Bankers Become Central Planners?”(「中央銀行は中央計画当局になろうとしている?」) Mises Daily July 31, 2006.
- Jeff Cooper, “The Fed: From Central Banking to Central Planning.”(「Fed:中央銀行から中央計画(計画経済)へ」) Minyanville.com December 8, 2010.
- Ajay Shah, “Central Banking, Not Central Planning,”(「中央銀行、それは中央計画(計画経済)・・・じゃあない」) Financial Express October 30, 2009.
- Richard Ebelling, “Monetary Central Planning and the State.”(「通貨版中央計画と国家」) Freedom Daily November 1999.
- Thomas Dilorenzo, “The Malicious Myth of the ‘Libertarian’ Fed,”(「『リバタリアンなFed』という悪意ある神話」) Lewrockwell.com, May 8, 2009.
- Steve Stanek, “We Mocked Soviet Central Planning; Why Not Mock America’s Central Planning.”(「ソ連における中央計画(計画経済)は馬鹿にしてきたのに、アメリカにおける中央計画(計画経済)はどうして馬鹿にしないのか」) blog.heartland.org, April 29, 2011.
- Michael Brendan Dougherty, “Bernanke Reinvents Central Banking as Central Planning.”(「中央銀行を中央計画当局へと作り変えしバーナンキ」) Thedailypaul.com, November 6, 2010.
- Richard M. Ebelling, “Ninety Years of Central Planning in the United States.”(「アメリカにおける中央計画(計画経済)の90年」) Freemanonline.com, July 7, 2011.
- Detlev Schlichter, “Nothing Solved.”(「何も解決されちゃいない」) ThePaperMoneyCollapse.com April 28, 2011.
作為の罪ないしは不作為の罪でFedを非難するのは、いわれのない非難だ・・・って言いたいわけじゃない。Fedは、我々をかれこれ3年も苦しめ続けている不況――ブラッド・デロングが言うところの「小恐慌」(Little Depression)――に対して大きな責任を負っている。あれこれと過失や間違いを犯してきたかもしれないが、だからといって、Fedを中央計画当局と同一視していいというわけじゃない。振る舞いが気に食わない個人や機関を叩くために、全体主義的な統制や個人の権利の抑圧といったイメージがつきまとう「中央計画(計画経済)」という言葉の凶器を持ち出すというのは、どこかみっともないところがある。
前回のエントリーでは、金本位制を称えながら、「中央計画(計画経済)」という言葉を持ち出してFedに過剰攻撃を加えている例としてジュディ・シェルトン(Judy Shelton)の発言を取り上げたわけだが、そのエントリーのコメント欄でR. H. Murphyがジェフリー・フンメル(Jeffrey Hummel)の最新の論文(pdf)にリンクを貼ってくれていた。フンメルの論文では、1930年代の大恐慌の原因だったり、(深刻な景気後退への対応も含めて)金融政策の適切な役割だったりに対するミルトン・フリードマンとベン・バーナンキの見解が比較されている。フンメルの仕事はあまり詳しく追っていないこともあって、件の論文を読みながら心地よい驚きを味わわせてもらった。多くを学ばせてもらったが、理論面で同意できないところもある。不況の最中に金融仲介機能が麻痺したらどんな結果が待っていそうかについて腰を据えて検討してみてもよさそうなのに、それもしないでバーナンキの懸念(金融仲介機能が麻痺する可能性に対する懸念)をあまりに簡単に退(しりぞ)けているようだし、大恐慌の原因に関するフリードマンの見解がまるで最終結論であるかのように扱われている。実のところ、フリードマンは、大恐慌を引き起こした「金融ショック(金融的な攪乱)」の性質を見誤っているのだ。「金融ショック」の真因ではなく、その真因に付随して起きた現象でしかない銀行危機(銀行破綻)にあまりに囚われ過ぎているのだ。
フンメルの論文にわざわざ言及したのは、大恐慌に関するフリードマンの説明に異を唱えるためじゃない。フンメルが論文の結論部で述べていることを問題にしたかったのだ。フンメルによると、バーナンキは中央銀行に委ねられた役割――フリードマンが適切と見なした役割――を逸脱してしまっている、という。世間では評判が悪いアラン・グリーンスパンだが、経済危機下で金融市場全体に流動性を潤沢に供給したグリーンスパンの対応をフンメルは擁護している。その一方で、バーナンキは、2008年に金融危機が初期段階に入り、景気が急速に悪化していたにもかかわらず、グリーンスパンの例には倣(なら)わずに、マネタリーベースが増えないように気を配りながら、苦境に陥っている特定の部門にだけ狙いを定めて流動性の供給を試みたという。重要な指摘だし、手厳しい批判でもある。しかし、仮にその通りだったとしても――その通りだと私も思う――、バーナンキが「中央計画」に乗り出しているっていうフンメルの評価はどうだろう? 「介入」――あるいは、「ディリジスム/管理・統制」――ではあるかもしれないが、「中央計画」ではないだろう。
ミーゼスやハイエクが繰り広げた中央計画(計画経済)に関するかつての議論に立ち返ると、「中央による計画」を練り上げるために必要となる情報をかき集めることなんてとてもできないために、中央計画(計画経済)はうまくいかないとされた。 ハイエクは『隷従への道』で中央計画(計画経済)への批判をさらに発展させて、計画経済という経済体制は全体主義的な政治体制へと不可避的に行き着かざるを得ない理由を説明した。ハイエクは、経済に対する「介入」はどんなものであれ、やがては全体主義を招かざるを得ないと語っているのだ・・・なんていう誤った解釈が――ハイエクに批判的な論者によってだけでなく、(この上ない無知をさらけ出している)自称ハイエク支持者の多くによっても――加え続けられているが、ハイエクは憤慨しながら「そんなことは言ってない」と反論し続けた。「中央銀行」を「中央計画」(計画経済)の一種であるかのように見なしている面々も同じ過ちを犯しているのだ。「介入」と「中央計画(計画経済)」を取り違えて、「介入」と「全体主義」を結び付けるという過ち――ハイエクがいわれなき攻撃を加えられることになった過ち――を。
中央銀行(central banking)を擁護しようっていうんじゃない。明晰な思考(clear thinking)を擁護したいのだ。