Capital gains: My reply to Alyssa Battistoni
Friday, May 14, 2021
Posted by Branko Milanovic
アリッサ・バティストーニは、私の“Capitalism alone”〔『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』〔西川美樹訳、みすず書房、2021年〕〕への優れた書評で、私の本を非常に的確に要約し、良い指摘をたくさんしてくれたので、ぜひ一読されることをお勧めする。しかし、バティストーニは、本書で提示されたアイデアに同意しない点を3つ挙げている。
扱う資本主義は2種類だけなの?どうして他の資本主義に言及がないの?
〔訳註:まず、バティストーニは書評で次のように指摘している。中国、ベトナム、マレーシアなど、「政治的資本主義」の定義に当てはまる例としてミラノヴィッチが挙げた11カ国は、歴史的な経緯を共有しているものの、それぞれに大きな違いがある。ミラノヴィッチが考案した「政治的資本主義」というカテゴリーがどれほど有用なものなのか疑問である。ロシアやブラジル、インドやサウジアラビアをどのように理解すればよいのか。〕
第一に、本書が扱うのは、アメリカに代表される「リベラル資本主義」と、中国がその最適な例と考えられる「政治的資本主義」の二つだけである。この枠組みでは、他の国々、特にラテンアメリカや、アフリカの一部の国々、ロシアがどこに位置づけられるのかについては論じられていない。確かに私は、古典的な資本主義、社会民主主義的な資本主義、そして「リベラル能力資本主義」の区別から始めている。だが本書の目的は、資本主義の分類法を確立することではない。西欧諸国と米国に関しては、部分的な違いはあるものの(もっともその違いも「少なくなって」はいるが)、同じ種類の「リベラル資本主義」に属していると考えている。この30年間、西ヨーロッパは、米国型の資本主義の方向に向かっているようである。その証拠に、ほとんどすべてのOECD諸国で不平等が拡大している。またそれだけでなく、北欧諸国でも限界税率が下げられ、労働組合の密度が低下し、富の集中も非常に高まっている。さらに、イスラエルやスウェーデンのように、かつては社会民主主義的と考えられていた国々でさえ、過去30年間に格差の大幅な増加を記録しており、その割合は米国よりも高くなっている。
なぜ世界の他の地域が議論の対象になっていないのかについては、私が「政治的資本主義」を定義し、研究したいと考えた非常に特殊な経緯と関係がある。第3章での私の目的は、「政治的資本主義」の出自を示し、共産主義の一般的な歴史的役割を提示することにあった。この章では、ロシア革命後に起こった政策の重要な変化から始めている。1920年のいわゆる「東転」によって具現化された変化だ。レーニンとM・N・ロイの扇動によって、反帝国主義闘争(反帝闘争)に〔従事する対象は〕拡大され、〔闘争を行うのは〕労働者階級だけでなく、植民地諸国の「民族ブルジョアジー」 [1]植民地支配国の資本に対して、土着の生産活動により富を蓄積した資本家 を含めることが決定された。
この大きな変化によって、反帝闘争が、世界中の共産主義運動において不可欠な一要素となった。私は本書で、この変化が共産主義政党に2つの目標を突きつけたと主張している。〔各地の共産主義政党にとって、植民地〕諸国を独立させること、そして成長を妨げる封建的あるいは準封建的な制度を破壊することが目標となった。この2つの目標を達成した上で、国内に固有の資本主義を作り出したことが、共産主義の世界史的役割だったと、今になってようやく理解できる。共産主義政党やその他の左翼政党は、非西洋(および植民地)諸国において、西洋における国内ブルジョアジーが果たした役割と機能的に同じ役割を果たした。中国、ベトナム、タンザニア、アルジェリア、アンゴラ、エチオピア、シンガポール、さらにはマレーシアがこのパターンによく当てはまる。インドとインドネシアでは、〔左翼政権は樹立されなかったが〕左翼と共産主義の組織が強力で(インドネシアは世界で2番目に共産党の数が多かった)、革命を明らかに左翼的な方向に推し進めたので、、ある程度はこのパターンに当てはまる。インドネシアでは、クーデターによってインドネシア共産党(PKI)が壊滅し、100万人近い人々が亡くなり、左翼・共産主義の影響は終わりを迎えた。しかしインドでは、左翼と共産主義者の影響が続き、それは初期の国有化や計画経済に反映された。この影響がなければ、インドとイギリスのブルジョアジーは共謀し、インドを「ソフトな」植民地関係の中に閉じ込めていた可能性が非常に高かっただろう。
上述したように、「政治的資本主義」は、左翼政党による民族解放闘争にルーツを持つことが明確に示されている。今日存在する「政治的資本主義」のルーツが異なることについて議論するのは有益でないと、私は考えた。この私の考えは、むろんロシアにも当てはまる。こう解釈すれば、ロシア革命の歴史的な役割も二義的なものとなる。つまり、ロシア革命は、植民地化された国々が自由と新しい資本主義の創造への道を歩み始めたグローバルな政治的出来事の一環と見なすことができるのだ。
私の研究目的は、「政治的資本主義」や「リベラル資本主義」のそれぞれ出自を無視し、分かりやすく一般化することではなかったので、他の「政治的資本主義」の国々を考察対象にはしていない。当然その気になれば、ヨーロッパに多くある他の「政治的資本主義」の国々を取り上げることもできたのである。例えば、ロシア、ベラルーシ、ハンガリー、セルビア、モンテネグロ、トルコなどは、「政治的資本主義」システムの理想的で典型的な見解に当てはまる例として、おそらくふさわしい国になっていただろう。
多層的市民権
〔訳註:次に、バティストーニは以下のように批判する。ミラノヴィッチが提唱する「多層的市民権」(後述)の制度では、移民は使い捨ての労働力として扱われる。彼は現行制度を維持しつつ国境を強化すること、つまり移民政策の右傾化を受け入れることを提案しているが、これは反移民の動きを抑えるというよりも、むしろ煽る恐れが大きい。彼の表向きのプラグマティズムは、資本家の利益を守るために移民をスケープゴートにするイデオロギーを強化するだけである。〕
アリッサ・バティストーニよる2つ目の批判については、多くのレビュアーからも同様の批判が寄せられている。これは、私が提案した「多層的市民権」に関するものだ。多くの読者がご存知のように、外国人労働者は就労目的でのみ豊かな国に来て、一定の年数(例えば5年)を期限に滞在を許可し、特定の仕事にしか従事できないようにする措置を、私は提案してきた。実際、外国人労働者はこの措置によって、賃金、昇進、事故からの保護、医療などの点で、国内労働者と同じ条件を享受することができる。しかし、市民権取得への道は開かれているわけではなく、契約期間が過ぎれば、母国への帰国が求められることになる。このアプローチには、一種の底辺層(アンダークラス)を生み出す恐れがある等、多岐にわたる批判が寄せられている。さらにバティストーニは、右派の反移民政党をなだめるための特殊な「例外規定」では何の成果も得られないとの見解を示している。 外国人嫌いや移民に反対する人々は、そのような施策を取ったとしても、外国人や移民への態度を改めることはないからだ。
しかし、私の提案を理解するのに、どのようにその考えに至ったかを見ずに、単にその提案の最終的な結論に焦点を当てるのは間違っている。労働力の自由な移動は、資本の自由な移動と同様に、世界の所得を増加させ世界の貧困を減らすことに間違いなくつながるという事実の指摘から始めることで、私はこの提案に至ったのである。もし、国際的な労働力の移動が所得の増加につながらないのであれば、国内での労働力の移動も止めなければならないはずだ。よって、この労働力の移動とその経済的影響との関係は、背理法(帰謬法)によって簡単に証明できると思う。言い換えれば、メキシコからカリフォルニアに来る労働者が経済にとって良くないのであれば、カリフォルニアからニューヨークに来る労働者も経済にとって良くないはずである。これは明らかに間違っている。従って、世界中の労働力の自由な移動は、経済全体としては良いことであるはずだ。
一部の人々の間で移民が受け入れられないのは、「市民権レント」と私が定義している利権が存在するからだ。「市民権レント」とは、人々の教育や努力のレベルが同じであっても、豊かな国に生まれたことによって、貧しい国に生まれた場合よりも多く得られる所得利益のことである。これは、同じ国の中において、同じ人が裕福な家庭に生まれたことによって、貧しい家庭に生まれた場合よりも多く「レント」(超過利潤)を享受できる点とよく似ている。豊かな国の多くの人々にとって、移民の増加は「市民権レント」の希薄化を意味する。なぜなら、彼らは一部のサービス(無料の医療や教育)への容易なアクセスを失うことを恐れ、賃金が下がることを恐れ、失業給付が下がることを恐れ、仕事を失うことを恐れているからだ。このように、〔客観的に見て〕移民が世界的に見て有益であっても、移民反対派は移民が自分たちの福祉にマイナスの影響を与えるかもしれないと考えているため、移民に対して嫌悪感を抱いている。他にも、文化的、民族的、宗教的な理由で移民を嫌う人もおり、彼らは自身の移民への憤りは経済とは関係ないと言う。したがって、〔経済的理由以外での〕こうした嫌悪もまた考慮に入れなければならない。
〔反対派による〕経済的・非経済的理由から、移民が拒絶されてしまえば、受け入れ国(EUやアメリカ)はドアを閉めてしまうのではないかと私は危惧している。これは世界にとって良いことではなく、受け入れ国自身にとっても経済的に良くないだろう。これを避けるためにはどうすればいいのか? そこで私がたどり着いた議論の最終地点が、移民を受け入れる意思と、移民に与えられる政治的権利の数との間にはトレードオフがあるのかという点である。つまり、私の提案は、もし移民に〔受け入れ国〕市民が受けているような一連の権利が与えられなければ、追加の移民を受け入れるつもりがあるかを、人々に例え話として問うことである。受け入れ国の人々が、移民には少ししか権利が与えられず、帰国義務がある場合のみ、もっと多くの移民を受け入れる意思を示したとしよう。もしそうなれば、それを以って、〔受け入れ国市民による〕移民を受け入れる意思と、移民に与えられる政治的権利の度合いとの間に、負の相関関係が存在するのを、私は立証できることになる。このようにして、私は「多層的市民権」という考えにたどり着いたのである。「多層的市民権」は、移民とそれに伴うすべてのポジティブな要素を活かすための試みである。
私は、この「多層的市民権」が議論され、批判され、場合によっては改善されるべきであるとの意見に全面的に同意するし、その必要性を認める。しかし、私の議論の終着点だけを取り上げ、終着点に到着する前までに私が行ったあらゆる指摘を無視して、その終着点だけに焦点を当てるのはフェアではないと思う。それよりも、それぞれの(あるいは少なくともいくつかの)論点について議論し、それらが妥当と思われるかどうか、そしてその論点から私の提言が導かれるかどうかを証明した方がよいだろう。
この私のアイデアは、市民は歴史的に国民国家において「土地と結びついている」ことによって市民権を有するとの伝統的な見解から今や脱却しつつある、という文脈でも検討されるべきだと思う。「土地と結びついている」とは、市民は通常、市民権を持つ国に住み、そこで働き、その国での仕事や投資から収入を得ているということでだ。しかし最近では、国籍を持たない国に住むだけでなく、国籍を持たない国で得た収入を受け取る人も増えている。例えば、フランスに住んでいるアメリカ人が、アメリカから社会保障を受け取っている場合、その社会保障費は、中国に投資しているアメリカ企業が納めた税金から支払われているかもしれない。すると、収入は中国で生まれ、フランスに送金され、消費に使われており、アメリカはその経由地に過ぎなくなる。この例では、市民権が「観念的」な商品であり、架空の商品であり、紙切れであることが示されている。「土地と結びついてる」標準的な市民権はもはやほとんど形骸化してしまっていて、市民権はいくつかの特典を与えるだけの紙切れになってしまっているのなら、そのような架空の商品は、より少ない特典しか得られない見掛け倒しの商品に変換することも可能であるという私の主張を補強することになる。言い換えれば、「多層的市民権」を容易に受け入れるのが可能となるのである。
この最後の議論が重要なのは、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに『資本主義だけ残った』の書評を寄せたロバート・カットナーのように、「ミラノヴィッチは市民権の本当の意味を理解していない」と非難する人がいるからである。私の考えでは、この種の批判者は、市民がお互いに言葉で言い表せない絆を共有しているという古い考え方を持っている。しかし、その絆は日に日に弱まっており、今では市民権がもたらす経済的なメリットで成り立っている。この絆がいったいどれほど強いものなのかを示す好例が、新型コロナの流行の初期段階に見られた現象である。多くのアメリカ人が、アメリカのパスポートがヨーロッパの多くの国で受け入れられなかった時に、世界を旅するために第2の市民権を得ようと躍起になっていた。カットナーが示唆するように、アメリカ人の絆がそれほど強いものであれば、アメリカのパスポートを別の国のものに替えようとは思わなかっただろうし、その結果、他の共同市民と運命を共にすることもなかっただろう。
資本主義と気候変動
〔訳註:また、バティストーニは、本書は資本主義の未来をテーマにしているにも関わらず、気候変動についてはほんの少ししか触れられていないと指摘している。資源の不足は技術革新が補うとするミラノヴィッチの考えについて、生態系の問題を完全に誤解しているという。問題は原材料の不足にではなく、居住環境を維持する生態系の機能の破壊にあるからだ。気候変動を無視することは、無責任であるだけでなく、ミラノヴィッチの提案の大きな限界を示している。地球自体の変化を考慮せずに、資本主義を改革できると考えるのは愚かなことだと強く批判している。〕
バティストーニの3つ目の批判は、私の意見では、最も簡単に答えられるものである。彼女は、『資本主義だけ残った』で気候変動についての議論がなされていないことを「無責任」と批判している。なぜなら、資本主義の発展は地球の限界に達しつつあり、気候変動による大惨事や、多くの人々の(特にアフリカの人々の)生活の損失をもたらす可能性があるからだ。この批判は、誤解というか、いい加減な考えに基づいているので、比較的簡単に答えられると思う。気候変動の原因は経済成長であって、資本主義それ自体ではない。経済成長とは、貧しい国でも豊かな国でも、貧しい人でも豊かな人でも、より良い生活をしたい、より多くの商品やサービスを手に入れたいという願望からくるものである。気候変動の原因は、これらの〔願望によって促される〕商品やサービスの生産と消費〔経済成長〕にある。したがって、気候変動を食い止めたいのであれば、CO2排出量の多い商品やサービスの生産を減らす必要がある。しかし、税金や補助金を組み合わせてそれを達成しても、資本主義は決して変わらない。
アレクサンドリア・オカシオ=コルテスにしろ、バーニー・サンダースにしろ、グレタ・トゥーンベリにしろ、気候変動の活動家は、どんなに急進的な立場をとっていても、大手石油企業を国有化することや、排出量に責任のある多くの企業を労働者評議会で運営することを提案していないし、「悪質」な企業の利益を没収することも提案していない。もしこのような運動が行われれば、少なくとも一部の分野では、資本主義の終焉を意味するだろう。しかし、そのような考えは、彼らの口からは一切語られていない。気候変動と闘う人たちは、経済のごく一部でも資本主義を効果的に止めるような政策を提唱していない。彼らが提唱しているのは、税金や補助金、消費の抑制、炭素許可証、道徳的説得(あるいは道徳的羞恥心)などの具体的な施策の組み合わせであり、結果的に排出量の削減につながるものだ。
電力会社であれ、石油会社であれ、食肉生産者であれ、エアコンを使用している人であれ、気候変動の原因となる製品が安いか高いかの一連のインセンティブ下で行動することになるだけなので、それぞれの主体は資本主義の枠組みの中で機能し続ける。会社は依然として民間企業であり、会社の目的は利益の最大化であり、個人の目的は富の最大化であることに変わりはない。ただ、そうした営みが、価格の異なる構造の下で行われるだけである。価格構造が異なることで、気候変動が抑制されるのを期待できるだろうが、資本主義を終わらせることとは一切関係がない。この本は、「資本主義が何であるのか」について書かれた本なので、「資本主義の生産様式の有り様」については一切話題にしておらず、〔生産様式の〕提案について私はほとんど言うべきことはない。多くの「ノイズ」にもかかわらず、気候変動と(正確な定義における)資本主義は、最も声高な反対者の言葉であったとしても実際には互いに独立した現象である。気候変動に関してどのような政策が採用されようとも――それが現在提案されている最も過激な種類のものであったとしても――経済システムとしての資本主義にはほとんど影響を与えないだろう。そのような政策は、一部の企業や生産部門の利益率を下げることはできても、資本主義部門の中で利益を再分配するだけで、システムとしての資本主義を終わらせるものではない。誤解を恐れずに言えば、資本主義と強欲は、異なる相対的価格の下で追求されることになるだろう。
〔訳注:本サイトの『資本主義だけ残った』に関するエントリは以下となっている。
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:フランス語版出版に際して、マリアンヌ紙によるインタビュー」(2020年9月11日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:ブルガリア語版出版記念インタビュー」(2020年12月26日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』ギリシャ語版出版記念インタビュー」(2021年1月16日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』の著者が明かす四つの重要な裏テーマ」(2019年9月24日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』世界の芸術家の役割」(2021年2月8日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』 いくつかのマルクス主義的論点:ロマリック・ゴダンの書評への返答」(2020年10月4日)〕
References
↑1 | 植民地支配国の資本に対して、土着の生産活動により富を蓄積した資本家 |
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