David Miles “Brexit realism: What economists know about costs and voter motives“, (VOX, 03 August 2016)
Brexitレファランダムは、EU離脱には多大な経済的コストが伴いそうだということを英国民に感得させられなかったエコノミストの失敗だった、そう考える人もいる。本稿では次の2点を指摘しつつ、もっと細やかな見解を主張したい。第一に、問題のコストについて、本当にコンセンサスなど在るのか、この点が疑問に付される。確かに主だった推定値は全て負の値をとっていたが、その数値はどちらかと言えば小さなものから、ほぼ10%近くに至るまでと幅広く – これをコンセンサスと言うのはかなり無理筋に思える。付け加えれば肝心のそのメカニズム – つまりBrexitの生産性成長へのインパクト – というのはエコノミストが本当の意味で理解しているものではない。第二に、合理的な投票者が同コストをEUの決定からより大きな独立性を得る為の容認可能な代償として受入れるという場合も考えられること。エコノミストは、こうした選択をした投票者は無知であるとか非合理的であるとか或いは経済的素養を欠いているとか、そういった事を教える者ではない。
編集者注: 本稿は初めVoxEUのebook 『Brexit Beckons: Thinking ahead by leading economists』 中の1章として刊行された。同ebookはこちらから無料でダウンロード可能。
エコノミストのコミュニティはいま或る種の苦悩を抱えている。Brexitは多大な経済的コストを生じさせるものだという、一部からは圧倒的コンセンサスとさえ見做されているこの命題を、英国の投票権者に感得させることに失敗したという感覚が彼らを責め苛んでいるのだ。The Times (2016年6月28日) に宛てた思慮深い書簡のなかで英国財政研究所 [Institute for Fiscal Studies (IFS)] のディレクターであるポール・ジョンソン氏は次のように述べている: 「…明らかなのは、エコノミスト達の警告が多くの人から理解も信用もされていなかったことです。ですから我々エコノミストはいま、何故そういった事態が起きたのか、何故我々の間でほぼ一致をみた見解が彼らに届かなかったのか、これを己に問うてみる必要が有ります」。
Brexitレファランダムを受けCentre for Macroeconomicsがアカデミックなエコノミストの見解をしらべて行った最新調査では、次のような質問が為されている:
- 「経済学専門家には政策画定者ならびに広く社会一般とより効率的な意思疎通を行う能力およびエコノミストが統一見解を持っている時にはそれを明らかにする能力を向上させるような制度改革が必要である、という意見に同意しますか?」
- 「我々は協働の取組みを通じてこうした改善の実現支援を行う為のリーダーシップを導入する必要が有る、という意見に同意しますか?」
コンセンサスは在ったか?
しかし英国のEU離脱にまつわるコストにコンセンサスなど本当に存在するのだろうか? 中央推定値周辺に或る種のコンセンサスが在るとしても、そうした推定値の不確かさや、不確実性の大きさについて、見解の一致は在るのだろうか? そして仮にエコノミストの統一見解というのが過去には在ったとしても、それが無視されたというのは本当にそれほど明らかなのか?
レファランダムを間近に控えた時期に公刊されたIFSのレポートBrexit and the UK’s Public Financesには、BrexitがGDPに及ぼす長期的インパクトに関する諸推定値の包括的要約が掲載された (Emmerson et al. 2016)。同レポートの表3.1 (下の表1はそれを再掲載したもの) に2030年度のGDPへの影響の推定値が示されているが、その数値は数パーセントのコストにはじまりほぼ10%に至るまで幅広い。殆ど全ての推定値が負の影響を伝えているという意味でなら、確かにこれを以てコンセンサスが在るとも言えよう。しかし諸推定値間の差は非常に大きいので、これを 『統一見解』 とするのは無理が有る。
我々は肝心な経済決定因子を把握していない – 生産性成長
その原因となっているファクターの1つに、GDPに長期的悪影響を及ぼす可能性の有るメカニズムが十分には把握されていないことがある。決定的ファクターの1つ – と言うよりまさに決定的ファクターそのものであるのはほぼ間違い無いのだが – は、英国がEU外部に置かれる結果として、これから先、生産性がどのように変化してくるか、これなのだ。その経路の1要素をなすのは先ずBrexitと外国直接投資の関係、次に外国直接投資と生産性の関係だが – どちらも決して容易に予測できるものではない。
表1 Brexitのインパクトに関する諸研究のIFSによる要約
原注: a [左列下から3行目の “Oxford Economics”] について: 穏健な政策シナリオをもったFTAが中央推定値とされている; 範囲は 『リベラルな関税同盟』(-0.1) から 『ポピュリスト的MFN [最恵国待遇] シナリオ』(-3.9) まで; b [右列最下行の “Budget, trade”] について: 規制のインパクトは個別に査定されている。なお、推定値は2030年度のGDPへの影響を表すもの。
出典: Emmerson et al. (2016).
より一般的な話になるが、何が近年の英国労働生産性を動かしてきたのかについて、エコノミストの理解は極めて乏しい。2007-2008年の金融破綻以降の期間をみると、英国の労働生産性はすでに、同金融破綻の間際に予期されていた所から恐らく15%かそれを超える程度低い水準に達している。イングランド銀行は何千ものエコノミスト時間を出動し、この凋落の原因解明に向けた活動に充ててきた。が、破綻から8年も経過し、多くの経済指標 (例: 失業率、銀行資金調達ストレスや信用供与能力) が一見したところ通常といってよい状態にまで回復した現在になっても、生産性がこれほど貧弱に留まっている理由は、平たく言えば依然として謎のままなのだ。
Brexitの長期的コストにとって唯一無二の重要性をもつ決定因子 – 即ち生産性へのインパクト – だが、金融破綻後の英国一人当たり産出量の変転を目の当たりにしたあとは我々エコノミストとしてもやはり、その予測に些か自信を持ち難くなっている。
貿易関連のインパクトは比較的推定し易い
Brexitに由来するGDPへの悪影響であっても、純粋に貿易関連的側面に限れば比較的信憑性の有る推測ができるかもしれない。そしてこの領域で働いている経済メカニズムはもっと直観的なものである: つまり、貿易の減少が専門化の減少を意味するのなら、国はより多くの資源を自らが比較優位を持っていない領域に注ぎ込むことになる訳だ。経済の開放性が生産性と繋がっていることを示す実証研究データは非常に多い。そしてこうした実証データの中には極めて目を惹くものがある – 例えば北朝鮮と韓国を見て欲しい。実際のところ、開放性を相当程度落とした経済への退行は、所得に対し極めて有害に働くものとなる可能性が圧倒的に高いのだ。とはいえこうした観測が、EU外部に置かれた英国の先行きに対しどれ程の関連性をもっているのかは、全く明らかではない。
何れにせよ、Brexitの純粋に貿易のみに関する影響 (つまり、時を経る中で現れてくる生産性成長への潜在的悪影響を脇に置いた場合) は、むしろ小さく推定されることが多い。Centre for Economic Performanceによる或る研究は2030年度のGDPに対する貿易の影響をGDPの1.3%から2.6%の間に位置付けている (Dhingra et al. 2016)。GDPの1-3%を些事に過ぎないと片付ける人はいない。しかしこういった数値を見る際には文脈の考慮が大事である – 現在の英国GDPは、2008年金融破綻以前の時期において同国の経済トレンドだと思われていたものが持続していた場合とくらべると、ほぼ20%も低くなっているのだ。
投票者が経済的推定値を無視していることを我々エコノミストが知っているというのは本当か?
しかし想像力を働かせ、BrexitがGDPに及ぼす長期的影響に関するこの些か幅の広い中央推定値を脇に置き、さらにこうした中央推定値のいずれに関しても当てはまる巨大な不確実性にも目を瞑り、ただエコノミストの間には影響について1つのコンセンサスが在った、そしてそのコンセンサスとはBrexitは所得に対して極めて有害に働くというものだった、そういう見解に従ってみよう。さて、そうしたコンセンサスが (実際に存在していた限りでの話だが) 離脱に票を投じた人達から無視されたことを示す証拠とは、一体どんなものなのか? 思うに我々はエコノミストとして、この点に関して如何に無知であるか、それについて飽くまで現実的になるべきだろう。
1つ明らかな事が在る。合理的な投票権者ならば、EU離脱に経済的コストが伴うだろうことを認容したうえでなお、英国が限定的な発言権しかもたない或る種のEU決定を受け入れなくて済むようにする為の代償としてなら認容可能であると考える場合も在り得るだろう。そしてこの種の決定は明らかに実在する – 欧州司法裁判所の判決や金融規制に関する法令をはじめ (例: 銀行分野での上限平準化 [maximum harmonisation] に基づき資本規制を創設する奇妙な決定、或いはボーナスに関するEU規制)、人々の入国権を認容する過程に関してもそうで、こうした人々に市民権を付与するかどうかを決定するのは他のEU諸国なのだ。
エコノミストは、こうした決定に拘束されるのを避ける方を価値有りとし、その代わり数パーセント分所得が減少する可能性を容認する人が無知であるのか、非合理的であるのか、或いは経済的素養を欠いているのかについて、語るべき言葉を殆どもたない。久しきに亘り多くの欧州委員会出身者が 『絶えず緻密化する連合』 の望ましさ、さらにはその必要性を、念仏の如く唱えてきた。エコノミストは確かにあなたに模範解答を教える。しかしそれは飽くまで次の問いに向けたものである。すなわち、「そういった事態を避けるのに、私はどのくらいの代償を支払う必要があるのか?」、と。
そして、この至極曖昧な 『絶え間なく緻密化する連合』 なるコンセプトがこのさき損害をもたらしかねないにしても、そのリスクの回避には前述の代償を支払うだけの価値は無いというのが、たまたま私の考えだった、それだけのことだ。とはいえ私は、他の見解をもっていた人達は無知なのか、さもなければ酔っぱらっていたのだろうとか、そんな風には思っていない。そうした投票のもたらす経済的帰結を理解していれば彼らだって別の票を投じたに違いない、という考え方は正しくないのである。
参考文献
Dhingra, S., G. Ottaviano, T. Sampson and J. Van Reenen (2016), “The consequences of Brexit for UK trade and living standards”, Brexit Analysis No. 2, London: Centre for Economic Performance.
Emmerson, C., P. Johnson, I. Mitchell and D. Phillips (2016), Brexit and the UK’s Public Finances, London: Institute for Fiscal Studies.
もっともらしい数字を出されても未来は数学的に予測不能ですよねw