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ビル・ミッチェル「国債の発行は必要ない」(2015年9月3日)

Bill Mitchell, “There is no need to issue public debt“, – billy blog, September 3, 2015.


先週催されたロンドンでのイベントで、政府は国債を発行するべきではないという話をした。国債発行の機会費用は利益を上回るからだ。現代貨幣理論(MMT)の目で見れば、財政赤字を政府債務と一致させる特段の必要性はなく、財政赤字は、Overt Monetary Financing(OMF)と呼ぶ金融オペレーションで運営されるべきなのだ。驚いたことに、聴衆から政府債務の発行は続けるべきではないかという声も出ていた。私の理解が正しければ、その根拠は、国債は労働者が将来のために貯蓄する安全な避難所を政府が提供するためにあるからだ。つまり、労働者が苦労して得た貯蓄を保持しておく無リスク資産を提供するためだけのために、国債の発行にまつわる複雑な仕組みを維持すべきというご意見だ。その目的のためなら、政府はその通貨発行能力を、公的に運営する国民貯蓄基金に行使した方がはるかにシンプルなものになる。債務は一切不要なのだ。
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ビル・ミッチェル「マンキューの『原理』は洗脳だ」(2009年12月29日)

Bill Mitchell, “Do not learn economics from a newspaper“, – billy blog, December 29, 2009.
(訳注:10年前のエントリで、リンクはいろいろ切れていますがそのままにしています。また、原題は「新聞で経済学を学ぶな」という感じですが、著者が別エントリでこの文書を次のように紹介していることからタイトルを変えています。
Do not learn economics from a newspaper – for more discussion on why these principles are just an ideological brainwashing exercising.)


先週末、 [Read more…]

ビル・ミッチェル「政府のB/Sなどという愚かな道を行くIMF」(2018年10月16日)

Bill Mitchell, “IMF continues to tread the ridiculous path“, Bill Mitchell – billy blog, October 16, 2018.

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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 2」(2009年2月23日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 2“, Bill Mitchell – billy blog, February 23, 2009.

Part1の翻訳はこちら

Part3の翻訳はこちら


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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 1」(2009年2月21日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 1, Bill Mitchell – billy blog, February 21, 2009.

Part2の邦訳Part3の邦訳


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ビル・ミッチェル「MMT(現代金融理論)の論じ方」(2013年11月5日)

いわゆるMMT(Modern Monetary Theory)を主導する一人 Bill Mitchell のブログ Bill Mitchell – billy blog の翻訳許可を得ました! 第一弾は、5年前のこちらです。
How to discuss Modern Monetary Theory (November 5, 2013)


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ニック・ロウ 「政府負債は子供世代の負担でしょう(リカーディアン均衡になると信じていないなら)」(2011年12月28日)

Debt is too a burden on our children (unless you believe in Ricardian Equivalence), December 28, 2011)
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実は外で雪かきをしながら、将来世代の負担としての政府負債に関するエントリを書こうか考えていた。それと、この問題に関するマクロ経済学者の考えが30年ほど前に静かに転換したこと。そして我々プロはある意味「記憶を改ざん」したということについて(Timur Kuranの “preference falsification” のような話。訳注:himaginary氏による関連情報)。経済学を知らない無学な田舎者だけが信じることだとかつては思っていたようなことを,今は自分たちが信じている。

そしてこう結論した。「いや、古い議論を蒸し返す意味はないな。例の「自分自身に借りている」という話はもう誰も信じていないし。」

で、屋内に戻りクルーグマンのエントリを読んだ。どうやら書かないでおこうと決めたことを書かなければならなくなった。

「高水準の負債が何の問題も引き起こさないということではない。問題は確かに起こり得る。でもそれは分配及びインセンティブについての問題で、一般に理解されているように負担になるという問題ではない。ディーンが言うように、子供たちに負担を押し付けるという言い方は特に無意味だ。我々が続く世代に残すのは、我々の子供たちのうちの誰かが別の子供たちにいくばくかの金を支払わなければならないという約束であって、それは負担とはぜんぜん違う問題だ。」

おそれながら、これは純然たる間違いだ。経済学を知らない田舎者ー国の負債は子や孫の負担になると考えるーは基本的に正しいのだ。正に「特に無意味」とは対極だ。リカーディアン均衡になると信じているのでなければ。

クルーグマンの続編エントリ

「これを肯定するのに右翼である必要はない。限界税率がとても高くなり生産性が損なわれることになるだろう。よって実質GDPは大きく落ち込む。

負債の負担の問題はインセンティブに関することで、誰かに資源を移転することではないと言ったのはそういうことだ。

……

つまり、借り過ぎた家計に喩えるのは完全に間違いということ。残念ながらこのつまらない例えが全国を覆ってしまっているが。」

いや、インセンティブの問題に過ぎないということはない。そして誰かへの資源の移転は確かにある。家計に喩えるのはつまらないことではないし、完全な間違いでもない(もちろんあらゆる喩えのご多分に漏れず、物事を完璧に描写するわけではない。)

昔、私たちは皆NB(訳注:Not burden、「負担でない」)と信じていたものだ。少なくとも、教育を受けた洗練された人々は皆NBと信じていた。B(訳注:burden、「負担である」)と信じていたのは無学で洗練されていない人だけだった。私たちは皆うぬぼれて「そのへんの人」は間違っていると見なしていた。実際、BかNBかのどちらを信じるかは、その人が教育され洗練されているかどうかのクイックテスト足り得た。教育され洗練された人々の中にもBと信じていた人や、NBであることが自明だとは本当に理解していなかった人たちもいたかもしれないが、皆それを隠していた。自分が教養がなく洗練されていないと他の人に思われたくなかったからだ。

1980年代のいつだったかに参加したチャールトンでの経済学セミナーを覚えている。招待講演者は年長の男性で、アメリカのトップ校から来たオールドケインジアンだった(名前は忘れてしまった)。セミナーの途中で彼はこう言った。「聴衆の皆さんは経済学の素養があるのでBだと信じている人はいませんね。」 そう言って彼は黙って室内を見渡した。私は顔が熱くなった(あとで院生に聞くと私の顔は真っ赤だったそうだ)。私は挙手し、自分はBと思うと言ったものだ。

ジェームス・ブキャナンは洗練されたマクロ経済理論家ではなかった。彼はマクロはやらなかった。彼は政治の経済学と公共選択をやっていた。マクロ理論の権威では全くない。ジェームス・ブキャナンはBだと論じた。彼も私と同じ田舎者だった。(そりゃ自分でもわかってるけれど、なんでそんなこと聞くの?)

ところが、ある時突然、洗練され教養のある人々が皆Bと信じるようになったようだった。とても静かな革命だった。目に見える議論は兆候すらなかった。ある日まで我々は皆(私が言っているのは教育を受けた洗練された人々)NBを信じていた。そして翌日は皆Bを信じるようになっていた。Bと信じている「そのへんの人々」を見下すのをやめた。自分が以前NBと信じていたことを口にすることすらなかった。昔の記憶から古い信念を消し去ったのだ。ソビエトの写真のように。話題にすることが恥ずかし過ぎる事柄になったのだ。

このような記憶抹消や信念の静かな反転には危険がある。「メモが回ってこない」人たちがいて、古いNBを信じ続けている。我々(洗練され教養のある人々)も皆かつてそうだったようにだ。付け加えれば、このことは信念一般について、我々はそれを信じることがファッショナブルであるものを信じるものなのかもしれない、ということを示唆している。(我々はこれをやっている。しょっちゅう。我々の信念、とりわけ教養的で洗練された信念の多くが実にくだらないのはこの理由からだ)。

ポール・クルーグマンは私よりはるかに優れた経済学者だ。ただ「メモ」が彼には回らなかった。古い箱に押し込んでいた記憶を再び開くときが来たのだろう。

BとNBの違いの核心を突くため、単純にした仮定を置こう。(そう、もちろんこれらの仮定は偽であり非現実的だ。しかし両者が合意している領域を除外することよって、合意していない領域に集中できるというわけだ。)

仮定:閉鎖経済、投資およびあらゆる実質資本はゼロ。税は歪みのない一括税で、徴収コストはゼロ。実質金利はプラスで実質成長はゼロ。完全雇用水準の生産があるものとする。生産する財はリンゴのみ。リンゴは保存できない。経済主体は同質、世代は重複。以上、おかしな仮定はない。

政府は借り入れによって得た100リンゴを現役世代に配るとしよう。このことは将来世代の負担を生み出すだろうか? イエスかノーか? BかNBか?

私の答えはイエス、Bだ。間違いなく将来世代の負担が作り出されている。将来世代の負担にならないとすれば、リカーディアン均衡が成り立つ場合だけだ。リカーディアン均衡では、人はそれが将来世代の負担になると認識するので、もらった支払いを全部利息ごと貯蓄し、遺産として子の世代に渡す。子も、将来世代の負担を無くしたいからという全く同じ理由で次の世代に渡していく。

洗練されていない無知無教養な人物は基本的に正しい。負債は彼の子や孫の負担だ。バロー=リカード風にそれを予想して遺産を増やすことによって帳消しにしようとした時のみ、負担は消える。

いやいや、私の議論にタイムトラベルは出てこない。今から100年かけてリンゴを育て、それをタイムマシンに乗せて今食べるようなことは必要ない。あたかもそれができるかのような。

私の議論は明快だ。世代重複モデルについて考えれば明らかだ。そして世代重複モデルなど一度も考えたことのないような、洗練されておらず無教養な田舎者にとっても同じくらい明らかなことだ。

政府が世代A全員から100個のリンゴを借り、全員に100個分の支払いをする。これはちょうど、政府が単純にリンゴ100個の借用証書を渡すのと同じだ。借用証書は国債だ。

ここまででAのリンゴ消費に変化はない。

世代Aは若いB世代のメンバーに債権を売る。ここで世代Aはプラス110個のリンゴを得て(金利は一世代10%とする)、これを食べる。世代Aが死ぬ。

世代Aの収支はプラス。世代Aは全員110個多くのリンゴを食べる。現在価値で見ると110個のリンゴは支払いを受けたときのリンゴ100個分の価値に等しい。

世代Bは若いうちはリンゴを110個少なくしか食べられないが、晩年に121多く食べる。そしてC世代のメンバーに債権を売る。世代Bは生涯で11多くのリンゴを食べるが、現在価値で見ればプラスマイナスゼロだ。金利は「若いころのリンゴは少なくなるけれども、晩年に取り戻せるよ」と説得できる水準である必要がある。そうでなければ彼らは世代Aから債権を買わない。と言うわけで、Bはプラスマイナスゼロ。

しかし(仮定から)負債はGDPよりも増えるのが早い。政府はこれが維持不可能と知る。結局は次の世代が前の世代から債権を買えなくなるので、永遠にロールオーバーすることができない。そこで政府は負債を償還するために、若き世代Cの人々に一人121リンゴの税を課し、これを原資に世代Cから債権を買い戻す。

世代Cのリンゴは121少ない、ということになる。

世代Aはリンゴを多く食べ、世代Cは少ない。これはちょうど、世代Cの口から世代Aの口へリンゴが時間移動するのと同じだ。(タイムマシンを通ることで利子が差し引かれる)

そう、政府負債は将来世代の負担なのだ。

場合によっては将来世代の負担を帳消しにできるだろうか。イエス。

リカーディアン均衡が意味するところでは、個人が次の世代の子供たちに債権を「売る」のではなく「贈与」することにすれば負担を帳消しにすることになる(訳注:従って余分のリンゴを食べない)。よって、リカーディアン均衡を信じる限りにおいて、国の借金は負担でないと議論してもよい。しかしそれは、各個人がそれを負担と見なし、それを帳消しする行動をとるがゆえに負担ではなくなるという話なのだ。ここでも無知無教養な人は正しい。

あるいは、この負債を子供の教育投資の原資に充てても負担を帳消しにすることができる。またあるいは、常に金利が成長率よりも低いとの仮定を加えれば「ノン・ポンジー」条件にならないので、将来世代に増税しなくても負債を永遠に利息付きでロールオーバーすることができ、よって世代Aが多くのリンゴを食べても、続く世代のリンゴが少なくなることはない(上の世代Cが現れず、Bの状況が続く)。

同様に、上の単純な仮定群はすべて、緩めても基本的な結論がほぼ同じになると示すことができるのだが、それは別の機会に。

サイモン・レン=ルイス「政府負債は将来世代の負担か?もしくは最後の世代のパラドックス」(2011年12月30日)

Is government debt a burden for future generations? or the paradox of the last generation.mainly macro, December 30, 2011)
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クルーグマンが「負債は(ほぼ)我々が自分自身に負うカネだ」と題された良いエントリーを書いている。その論点は、学生がマクロ経済学がミクロ経済学とどう異なるか理解するのを助けるために私もしょっちゅう使っているものだ。政府は負債の金利を支払うために増税しなければならないので、政府負債は納税者の「負担」であるように見える。しかし当の納税者が貸し手であるならば金利を受け取るわけで収支は全く悪化しない。さて、この考え方はもっと拡張することができるだろう。政府が(必要と思われているより)余分に借り越す分について、それが将来世代の負担になると考えるのは確かに筋が通る。

議論に踏み込む前に二つのファクター、非常に重要だがここでは無視するファクターについて述べておくべきだろう。第一に、増税はインセンティブを歪めるため、そのコストがかかると言える。第二に、政府負債は資本を創出する他の貯蓄ツールと置き換えることができるので、投資や資本蓄積を減らし、さらに産出も減らす面がある。以上のこの二点についてはもっと論じるべきことがあるが、それは別の機会に譲る。ここではトータルの収支に焦点を当てたいので上記二点は考えない。

次のような明白なパラドックスを考える。一時的な減税によっていくぶん負債が増えたとする。この減税された世代を「減税世代」と呼ぼう。また、この負債は「永続的」なものとする。決して返済されることはなく、また貸し手は金利を受け取り続ける。この債権は国内に売られるものとする。当然、減税された人の収支は改善する。ここで上に書いたように、将来世代の単純収支は悪化しない。つまり、全体としては税金は取られるが、金利で返ってくる。フリーランチを得ているように見える。減税世代は恩恵を受け、将来世代は損をしない。
(ここはミスがある。下のニック・ロウのコメントと私の返答をみよ。どういうミスなのかは別のエントリにて。ここの議論への影響はない。)

このパラドックスの原因は何だろう。では、この負債が永遠ではなく千年後に返済しなければならないものだとしてみよう。その時政府は増税して負債を返す。千年後に税金を払うこの世代はずいぶん損をする。この世代の収支は減税世代の恩恵と同じだけ悪化する。この場合パラドックスは消えている。返済しなければならない最後の世代が存在しない場合にパラドックスが現れる。

賦課方式の社会保障スキーム(未積立て)にも同パラドックスが現れる。政府が年金制度を創設するとする。働いている世代が拠出したお金を使って年金を支払われるというものだ。この制度を導入する際にちょうど引退の時期に当たった人の収支はとても良くなる。「タダで」年金を受け取れる。引退の時に受け取る年金を支払った人も基本的に損はしない(基本的に、と書くのはこの「強制貯蓄」からのリターンがどのくらいかの心配もするべきだからだが、この議論では戻ってくるということ自体が重要だ)。ここでもまたフリーランチを得ることになるが、それはこの年金制度に終わりがないということが前提だ。終わりがあるならば、最後の世代が積立を支払ったのに年金が受け取れないということになる。彼らの損失は導入の時に引退した人々が得た恩恵に相当する。

このように、必ずしも政府負債が将来世代の負担であるとは限らない。決して返済されないとしたら。ただし、これは現実的で賢明な想定ではない。私の考えでは意味を持つのは次の場合だ。長期の負債計画を持つ政府は、目標値を超えた分の負債はどこかで返済しなければならないとする。もしそうなら、いま負債増加はそれを返済する将来諸世代の負担になる(政府はゆっくり負債を目標水準に戻すので)。

緊縮でなく財政出動を推進する我々は、これによって今考えを改める必要があるのだろうか。ノー。トータルで見て、便益がコストを上回り続けているだろう? 1930年代の大恐慌を避けるためだった拡張的財政が今の税を少し高くしているからといって、やらないほうがよかったという議論を本当にしたいだろうか? そんなわけはないだろう。

(以下、コメント欄から訳者抜粋)

Nick Rowe 14 January 2012 at 21:26

サイモンへ。もし自分が誤解していなければ、少しおかしい。
標準的な世代交代モデルで、永続的な負債とすると、その金利を支払うための税を課される世代はすべて収支悪化となる。生涯消費の現在価値という意味でも、生涯効用の意味でも。直感としては、有利子の場合、全員が消費を後ろに延期する形になるとし、得られる利子の方は代表的個人にとって(一括税として)得た瞬間に課税されて相殺となる。

しかしながら、永遠にその金利が成長率を下回るならば、その負債は増税することなく永遠にロールオーバーすることができる。将来世代の負担がゼロになるのはその場合だけだ。サミュエルソン58。

一時点で捉えるとこの負担を見逃してしまう。そうではなく、各世代の生涯消費(または生涯効用)の現在価値で見る必要がある。

僭越ながら、クルーグマンはこの見逃しをしている。

君はこれについての私のエントリを読んでくれただろうか。


Mainly Macro 15 January 2012 at 11:11

ニックへ。君が正しい。超過負債は返済すべきものであるがゆえに将来世代の負担になるという論点に注力したので、クルーグマンの展開した議論には無批判になってしまった。基本的な論点を混乱させないように、ここでは他の貯蓄ツールとの比較や、動学効率性、リカードの等価定理を避けたのだが、上で書いた返済されない負債の例はご指摘の通り、少しおかしい。(悔しいが、おそらくポールに対するブラッドの言い回しに気を取られてしまったせいで、知っていたはずのことを忘れてしまった。)
とは言え、これでエントリの基本的なメッセージが変わるとは思わない。これは税の歪みやクラウディングアウトと同種の問題で、超過負債が永遠であるべきと考えるのは間違いだ。だからもしそうだったら(それが負担であろうがなかろうが)何が起こるかについての議論は、政策的な関心と言うより、学術的な関心からの議論だ。

ジョセフ・ヒース 「偽善」についてのメモ (2014年12月12日)

A note on hypocrisyIn Due Course, December 12, 2014)

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この件は昔から個人的なイライラの元なのです。偽善とは何かということについて、とても多くのジャーナリストたちさえ明瞭な理解をしてないように感じられるのです。簡単のため、日常的な偽善の定義、「していることが言っていることと違う」という定義で話を進めましょう。これは立派な定義なのですが一つ問題があって、誰かを偽善だとして咎めようとするときに相手が言っていることを注意深く観察することが重要になります。特に、ルール一般がどうあってほしいかの話なのか、それとも、所与のルールの下でどんな行動をとりたいのかの話なのかの区別に注意を払うことが大事です。(Viktor Vanberg と James Buchanan は「構造的選好」(constitutional preferences)、「行動の選好」(action preferences)という語を導入しこの二つを区別しました。この呼び方はベストではないかもしれませんが、この区別に関する彼らの議論は重要なものです)。

具体例を挙げましょう。先日私は、ビル・ゲイツが選んだ2014年の5冊 についての小さな記事を読みました。うち一冊はトマ・ピケティの「21世紀の資本」だったのはウケました。ゲイツはこう言ったそうです。「著者のいちばん重要な結論に賛成だ。不平等の問題はますます大きくなっており、政府はこれを緩和する役割を果たすべきだ。著者の業績を称えるとともに、これが賢人たちが不平等の原因を探求したり解決するためのきっかけになることを期待する。」と。

こう言うと決まって「偽善だ!本当に不平等を解決する気があるなら自分の金をばらまくんじゃないのか?」という反応がありますね。知っての通りゲイツは自分の巨額のお金を—あなたや私が稼いだ以上の額を—ばらまいてきましたし、彼の子供たちに残す額にも厳しい上限を設定しています。しかしそれでもまだ彼はクロイソス級のリッチマンですし、彼があと20億ドルもばらまけば不平等をそれだけ緩和することになるのも確実です。さて、では彼自身が自分のお金でもっとできることがあるのに、政府に対して不平等の緩和のためより積極的な役割を果たすよう求めるのは、果たして「していることが言っていることと違う」ということになるのでしょうか。

答えは「ノー」。その理由は「構造的選好」と 「行動の選好」 の区別にあります。
ほとんどの人は、ある問題について自分個人がどれだけの義務を負うのかは、他の人々がどれくらいのことをしているかにある程度依存していると考えています。その人は同時に、他の人々がもっと多くのことをすればよいのにと思っているかもしれないし、また、他の人がそうするなら自分も喜んでそうするつもりもある、という場合もあります。つまり、自分を含む全員がXをするというルールに変えることを常に支持するけれども、同時に、そのようなルールがまだないのであれば自発的にXをすることはしない、ということがあり得るわけです。これは単純明快なポイントなのですが、公共の議論においてしばしば無視されています。(ジェラルド・コーエンの著書、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』はこの単純なポイントに焦点を当てていればはるかに短い本にできたといつも思うのですが、考えてみればそれができないことがコーエンのこの仕事の欠点の一つなのでしょう。)

さて私は、税はあと1%高い方がいいと考えているのですが、かと言って自発的に余分に払うことはしていません。私のずる賢い会計士は私の税負担を減らすために様々な手法を駆使しています。大学教授はもっと授業をするべきだと考えていますが、自発的にクラスを増やしたりはしません。気候変動と戦うために私たちはあらゆる手段を講じるべきだと考えますが、私自身は明らかにサステナブルな水準以上の炭素エネルギーを消費しています。それでも私が偽善ということにはなりません。

とは言え、「みんなだってそうしている」、「みんながやるなら喜んでやるけれど」という言い訳を余りにも利己的に使いすぎる人のことを、何か一つの言葉で記述しようという考えが間違っているというわけではありません。たとえば、気候変動に対してのカナダの態度ですが、「構造的な」水準で言えば炭素使用量緩和の枠組みを決めたいと私たちは皆が思っていますが、個々の行動の水準においては、全員が計画に同意できるまで何も実行する準備がないわけです。個人レベルのアナロジーで言えば、「皆が正直に税を払うべきだと思う」と言いながら、どこかの誰かが税を回避しているということを知ると「なんで自分が払わなければならない?」と言って、あらゆるスレスレの税回避手段を駆使するような人。

一般化するとこういうことです。ある行動Xは全員の義務であるべきという構造的選好を持っているような人であっても、それが全員の義務になっていない状況においては行動Xをとる義務はありません。とは言え構造的選好はあなたの行動を緩やかに制限するはずです。つまりXと正反対のことは選択すべきではない、というように。これを犯してしまう不道徳にも名前があれば良いですね —「偽善」は明らかにこれを表現するための適切な言葉ではないので。

そうそう、偽善の正当な例をお望みでしたら、こういうのがそうでしょう。

ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは,現代の大学界隈に見られる多種多様なふるまいをジャーナリストたちがひとしなみに「ポリティカル・コレクトネス」の一語でくくってしまいがちだとぼやきました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

この章の締めくくりは控えめな勝利宣言です。

左翼は、実際の問題を特定しながらそれを間違った原因に帰着させてしまったため、政策としての解決策を提示することが難しいということになったのだ。(177)

このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えたくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実際の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。