経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

フィリップ・アギオン et al.「イノベーション、不平等、社会的流動性」(2015年7月28日)

●Philippe Aghion, Ufuk Akcigit, Antonin Bergeaud, Richard Blundell, David Hemous “Innovation, income inequality, and social mobility” 28 July 2015

ここ数十年、特に先進国において、トップ所得格差は加速的に拡大し続けてきた。本コラムでは、イノベーションがトップ所得格差の拡大を説明しており、社会的流動性を強化することを主張する。特に、社会的流動性に対するイノベーションのポジティブな効果は新しいイノベーターによる。 [Read more…]

チャド・ジョーンズ「新しいアイデアについての新しいアイデア: ノーベル賞受賞者、ポール・ローマー」

●Chad Jones, “New ideas about new ideas: Paul Romer, Nobel laureate”(VoxEU, October 12, 2018)

ニューヨーク大学のポール・ローマー氏は、「技術革新を長期的マクロ経済分析に統合した功績により」、ウィリアム・ノードハウス氏と共同で2018年のノーベル経済学賞を受賞した。本コラムでは、彼の主要な洞察と経済成長の過程に関するわれわれの理解に対する彼らの広範囲にわたるインプリケーションについて解説する。

ポール・ローマー氏が1980年代初期に経済成長に関する研究を始めたとき、経済学者の間での従来の見解――たとえば大学院で教えられているモデル――は、生産性の成長は経済の残りのどんなものによっても影響され得ないものであった。ソロー(Solow 1956)のように、経済成長は外生であった。 [Read more…]

サイモン・レン・ルイス「なぜBrexitは新自由主義的なのか」(2018年8月24日)

●Simon Wren-Lewis, “Why Brexit is a neoliberal project” (mainly macro, Friday, 24 August 2018

一般的に、新自由主義と言えば市場を礼賛しグローバル化を促進するといったビジネスサイドに立つ考え方のことだ。Brexitはイギリス企業の市場規模を小さくするのでグローバル化とは逆の動きになる。よってイギリス財界の多数が望むというものではないはずなのだが、実はBrexitは新自由主義的と言えるのだ。どういうことだろうか?

良い出発点は、自由貿易とは何かについての議論に戻ることである。ほとんどの人と、そして間違いなくほとんどの経済学者は、自由貿易は「貿易をする自由」を意味していると考えるだろう。この定義に従えば、企業が多くの国においてはるかにより容易に貿易することを可能にする国家間に渡って規制を調和させることは自由貿易を増大させている。理想は単一市場であるが、それはEUが財および多くのサービスについて達成したものである。 [Read more…]

ジョセフ・ヒース「規制について真剣に考えてみよう」(2014年7月7日)

●Joseph Heath, “Thinking seriously about regulation”(In Due Course, July 7, 2014)

私はちょうど今、ダニエル・カーペンターのReputation and Power: Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDAという本を読み終えた。この本の全てが素晴らしかったというわけではないけれども、アメリカ食品医薬品局(FDA)の歴史についての700ページの本にしてはかなりよかった。私がこの本を手に取ったのは、去年の秋の3カ月間で、2人がこの本を私に勧めたからである。もしそれが本当に驚くべき本でないならば、2人の人がそれぞれに私のところに来て「FDAについての700ページの本を読むべきだ」と言うのは何の偶然なのだろう、と思ったのである。 [Read more…]

Stephan Brunow, Antonia Birkeneder, Andrés Rodríguez-Pose「ドイツにおける創造的な労働者と科学志向の労働者、そしてイノベーション政策」(2018年7月21日)

Stephan Brunow, Antonia Birkeneder, Andrés Rodríguez-Pose “Creative and science-oriented workers and innovation policy in Germany” (Vox.EU, 21 July 2018)

 

研究はますます、都市、およびとりわけ大都市をイノベーションの現代的な駆動力にするための基本的な力として、創造的な労働者と科学志向の労働者の集中度の上昇を指摘するようになっている。このコラムでは、これがドイツでも当てはまるかについて検証する。結果は、創造的な労働者のイノベーションは企業の境界によって制約されるのに対して、科学志向の労働者は多くのイノベーションのスピルオーバーを生み出しているということを示唆している。ドイツにおいてイノベーションを生み出すための政策は、「クリエイティブな労働者」というよりむしろ「オタク」に焦点を置くことによってより多くのリターンを生み出す傾向にあり、イノベーション政策は、大都市を越えて、「オタク」にとって魅力的であると証明されたより広い範囲の領域に向かうべきである。 [Read more…]

クラウディオ・ミケラッチ et al.「アメリカ人はヨーロッパ人より働くが、ヨーロッパ人が怠けているとは思わないでほしい」(2007年9月)

[Claudio Michelacci, Josep Pijoan-Mas, “Americans do work more than Europeans, but please don’t think that Europeans are lazy,” 17 September, 2007]

 

こんにちではアメリカ人は多くのヨーロッパ人より働くけれども、このことは1970年代には当てはまらなかった。ヨーロッパ人はアメリカ人より怠け者になってしまったのだろうか?もちろんそうではない。つまり、大西洋の両岸を越えた労働時間の違いは、単に仕事人生をめぐる労働者のインセンティブの違いを反映しているだけなのだ。

 

アメリカと大陸ヨーロッパにおける総労働時間は、過去35年間で非常に異なる変化をした。1970年代には、アメリカよりもフランスやイタリアやドイツのようなヨーロッパ諸国のほうが一人当たり平均労働時間はわずかに長かった。こんにちのアメリカ人はヨーロッパ人より30%多く働く。これらの違いは重要であり、またこれらが現在のアメリカとヨーロッパの1人あたりGDPの違いのほとんど全てを説明する。つまり、1人あたりGDPはこんにちではフランスやドイツよりアメリカのほうが30%高い一方で、労働時間あたりのGDPによって測定される生産性は大まかに見れば等しいのである。このことは、アメリカ人がこんにちヨーロッパ人より豊かなのは、アメリカ人の方がより生産的だからではなく、単にアメリカ人の方が長く働くからだということを意味する。 [Read more…]

スコット・サムナー「なぜオーストラリアは26年間不況を経験していないのか」

[Scott Sumner,”Why Australia hasn’t had a recession in 26 years,” The Money Illusion, July 18th, 2017]

 

過去の投稿において、私は、オーストラリアは名目GDPを適切に成長させ続けることによって26年間不況を回避してきたことを指摘した。コメント者の中には、オーストラリアは金融政策ではなく、むしろ鉱業ブームによって恩恵を受けている“ラッキーな国”である、と示唆するものもいた。その理論は意味をなさない。なぜなら経済が非常に不安定な商品の輸出に輸出している場合、大規模かつ高度に多様化した経済を伴った国に比べてより不安定なビジネスサイクルになるだろうからである。いずれにせよ、近年のデータは完全にその説を棄却している。 [Read more…]

タイラー・コーエン「ウクライナ: 何が間違っていたか、そしてどう立て直すか」(2015年5月)

[Tyler Cowen, “*Ukraine: What Went Wrong With It and How to Fix It,*” Marginal Revolution, May 22, 2015]

 

これはアンダース・オースランドの新しい本であり、全面的に参考になる。以下は私が学んだいくつかのことである。

 

  1. ウクライナの若者の80%が何らかの高等教育を受ける。
  2. ウクライナのGDPに占める年金支出は2010年頃には約18%で、世界最高水準の年金支出である。そのほとんどは老齢年金であり、寿命は68.5歳と比較的短く、UNDPによるとこれは世界で122番目である。
  3. この本の出版時点で、ウクライナの公的支出はGDPの53%を占める
  4. ウクライナはお金を使い果たしつつある…” オーケー、これは既に知っていることだ。
  5. 平時において1989年から1999年にウクライナがまずくいった以上にまずくいった経済はない。公式な統計によれば、10年間で、ウクライナのGDPは合計で61%急落した。しかしながら、このいくらかは闇市場の成長によって相殺された。
  6. ドンバス[1]は含まれているけれども、クリミアはもはやウクライナのGDPの公式統計に含まれていない

 

[1] 訳者注: ドンバスとは、ウクライナ東部の地域であり、「ドネツク人民共和国」や「ルガンスク人民共和国」を名乗る勢力が分離独立を主張している。

ラヴィ・カンブール「グンナー・ミュルダールと『アジアのドラマ』の文脈」

Ravi Kanbur “Gunnar Myrdal and “Asian Drama” in context“, VoxEU, 09 March 2018

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマ』は50年前に出版された。一見すると、経済的に停滞したアジアの現実という観点から見れば、本書には近代の開発経済学者に提供しうるものはほとんどないように思われる。しかし、このコラムでは、ミュルダールが提起した問題は開発にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるということを主張したい。

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマーー諸国民の貧困の一研究』は50年前に出版された(Myrdal 1968)この本の序文は“HABENT SUA FATA LIBELLI(本にはそれら自身の運命がある)”というラテン語のフレーズで始まっており、これには例外がない。この本は非常に時間を経ており、そして経済的に停滞したアジアの現実という観点で見ているが、これはいまや明らかに時代遅れである。それゆえに一見すると、本書には近代の開発学者に提供しうるものが少ないように思われる。それでも、本書とミュルダールは、共鳴し続けており、われわれが無視している問題を、開発経済学および経済学全般の貧困に導入し、強調したと主張することができる。

グンナー・ミュルダールは1974年にノーベル経済学賞を受賞した[1]。しかし彼はそれ以前にいくつかの生涯の業績を達成している。彼はスウェーデンの伝統の影響を受けた優れた経済学者であり[2]、因習打破主義者となり経済学の方法論的な基礎に疑問を呈し、のちにケインズの一般理論においてみられるマクロ経済学に関する洞察力(スウェーデン語で出版されている)を持つストックホルム学派の創設者であり、スウェーデンの福祉国家の知的および政治的な創設者の一人であり、アメリカにおける人種差別待遇廃止の基礎としての役割を果たした、記念碑的な『アメリカのジレンマ――黒人問題と現代の民主主義』(Myrdal 1944)の著者であった。第二次世界大戦後は、彼は国連欧州経済委員会の長として鉄のカーテンを超えて経済と政治の関係に取り組み、そしてもちろん1968年の3巻におよぶ『アジアのドラマ』の著者であった。しかし『アジアのドラマ』は決して彼の最後の仕事ではない。彼はその最高傑作の出版ののち20年生き、晩年に健康状態が悪化するまで、十分に経済発展についての議論に関わった。実際、彼のノーベル賞受賞スピーチ(Myrdal 1975)はほとんどが経済発展の話題についてであった。

 

ミュルダールの最高傑作

グンナー・ミュルダールは出版の10年以上前の1957年にアジアのドラマに関する仕事を始めた。その時の世界の見方は、彼が1957年に書いたものによく表れている。

  • “…非常に豊かな少数の国のグループと、はるかにより多くの非常に貧しい国のグループがある。前者のグループに含まれる国は全体的に、継続的な経済発展のパターンがしっかりと定着している。それに対して、後者のグループでは、平均所得水準が懸念される限り、多くの国々が停滞やさらには地位の低下から脱出できないという絶え間ない危険にさらされているおり、発展が遅い。そしてそれゆえに、全体として、ここ数十年、先進国と発展途上国の間の経済格差は増大してきている。”

中国やインドやベトナムやその他の多くの国の爆発的な成長に伴って、最近四半世紀のアジアの発展の現実に関して最も食い違っているのは、半世紀以上前のこのフレーミングである。アジアのドラマは主には南アジアに焦点を当てているものの、この本では中国やその他のアジアの国もしばしば同様に描かれている[3]。当時のほとんどの他の人と一緒で、ミュルダールもインドや中国の経済が半世紀と少しの間にアメリカ経済の規模のライバルになるだろうとは予測しなかったのである。

 

21世紀における開発の言説との関係

しかしながら、21世紀の開発に関する言説には、『アジアのドラマ』とアジアのドラマ前後のミュルダールの強い痕跡が見られる。なぜなら、ミュルダールが彼の生涯およびアジアのドラマを通して提起した問題は、発展にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるからである。ここに、そうした3つのテーマを挙げる。

これらの第一のものは分析における価値の役割である。ミュルダールは、経済学は価値判断を前提としている[4]と主張し、1930年代に最初に主張してからは決して意見を変える[5]ことはなかった。彼はこのことについては19世紀から活発な議論がなされているが、自然科学に匹敵する地位を達成しようと、彼の時代の経済学は経済学自体を、価値観を含まないものとして描写することを試みていたと主張した。しかし経済学の本質を考慮すると、このことは明らかに当てはまらず、また不可能でもある。価値観を含まないふりをするよりはむしろ、彼は価値観を明確にするべきだと提案し、彼の提案を『アジアのドラマ』の中で非常に徹底的に実行した。

『アジアのドラマ』に関する研究から現れる第二のテーマは、グンナー・ミュルダールの生涯の業績の相対的なコンテクストは、社会を理解するためはおろか、経済それ自体を理解するためにも狭い経済学の原則を超えることが必要だということであった。業績をとおして、ミュルダールは経済学の中心的な信条を健全に尊重し続けた。実際、『アジアのドラマ』に関するレビューの中にはこの点に非常に注意しているものもある。しかし、彼の主要な主張は、経済的な事実を説明しようと試みるときや経済政策の処方箋を作るときに、社会的、文化的、政治的なコンテクストを十分に理解することの必要性であった。このことは支配層のエリートの役割や、彼が「軟性国家」[6]とよぶところの政策形成と政策実施の間の違いに関する議論の中でやり通されている。

しかし支配エリートや腐敗、軟性国家は『アジアのドラマ』とミュルダールの生涯の業績において私が第三のテーマだと考えるものを前面に持ち出す。これは、国家と市場との間のバランスを発見するための絶え間ない努力である。その努力は、公の知恵によって導かれるべき国家と、可能な限り干渉を最小限に抑えて、個々の裁量に任せなければならないものとしてエドマンド・バーク(1795)によって立派に表現されている。

私は、これが実質的に政治経済学の永遠の問いであるとカンブール(2016)において主張した。ケインズ(1926)は、同様に有名な自由放任主義批判の中でこれに言及した。明白な市場破綻に直面した介入主義的スタンスと、政府の失敗の実現に対する撤退との間のシーソー、そしてそのバランスが崩れたところは、開発援助および開発不足の罠から脱出する方法としての計画の不足と、エリートと軟性国家に人質を与える罠としての計画それ自体の間で常に揺れ動いていることに関する、グンナー・ミュルダールの彼自身および彼の考え方のサイクルに伴う具体的な努力とにおいて見られる。

 

過去半世紀で、開発に関する視点は劇的に変化してきた。しかし、ここで議論された三つのテーマを含む基本的な緊張は未だにわれわれとともにある。いまとなっては過去50年間でコンテクストが変化したにもかかわらず、それらは過去10年間の全てではないにしてもほとんどの「全体像」や「概観」の本において、何らかの形で見つかるだろう。これらの緊張とのミュルダールの努力は、21世紀の開発の言説に対する彼の究極的な遺産である。

 

参照

Barber, W J (2008), Gunnar Myrdal, Palgrave Macmillan.

Burke, E (1795), “Thoughts and Details on Scarcity. Originally Presented to The Right Hon. William Pitt, in the Month of November”, published in F Canavan (ed.), Select Works of Edmund Burke, Liberty Fund (1990).

Kanbur, R (2016), “The End of Laissez Faire, The End of History and The Structure of Scientific Revolutions”, Challenge 59(1): 35-46.

Kanbur, R (2017), “Gunnar Myrdal and Asian Drama in Context”, CEPR Discussion Paper No. 12590.

Keynes, J M (1926), “The End of Laissez-Faire”, in The Collected Writings of John Maynard Keynes, Volume IX, Essays in Persuasion, Royal Economic Society, Palgrave MacMillan (1972).

Myrdal, G (1944), An American Dilemma: The Negro Problem and Modern Democracy:  Volumes I and II, Harper and Row

Myrdal, G (1954), The Political Element in the Development of Economic Theory, Harvard University Press.

Myrdal, G (1957), Economic Theory and Underdeveloped Regions, Harper and Row.

Myrdal, G (1968), Asian Drama: An Inquiry into the Poverty of Nations (Volumes, I, II and III), A Twentieth Century Fund Study, Pantheon.

Myrdal, G (1975), “The Equality Issue in World Development”, 1974 Nobel Lecture.

Rosen, G (1968), “Review of ‘Asian Drama’”, American Economic Review 58(5): 1397-1401.

 

脚注

[1] 彼は「貨幣理論および経済変動理論に関する先駆的業績と、経済現象・社会現象・組織現象の相互依存関係に関する鋭い分析を称えて」フリードリヒ・ハイエクとノーベル経済学賞を分け合った。多くの人は、自由市場の象徴であるハイエクが社会民主的な干渉主義の擁護者であるミュルダールとペアになるのは奇妙で皮肉だと考えた。

[2] 話の通り、彼は法律を専攻として卒業したが法律に幻滅した。彼の妻であるアルバ・ミュルダール(彼女自身が象徴的な人物でありのちのノーベル平和賞受賞者である)は、彼にグスタフ・カッセルの Theoretische Sozialokonomie(邦題; 『社会経済の理論』)を買ったところ、彼は経済学に没入し、発刊された1899年以降のEkonomisk tidskriftというスウェーデンの経済ジャーナルのすべての号を読みとおした。 (Barber 2008 および Kanbur 2017 を参照せよ)。

[3] 彼は例えば、現代史における最も壮大な貧困削減のためこんにちでは確実に信じられない、『貧困に苦しむ中国』(Myrdal 1968:11)の記述を参照している。

[4] Myrdal (1954).

[5] waverの原義は「揺れる」や「迷う」であるが、「(気持ちが)揺れなかった」という意味から「意見を変えることはなかった」と訳した。

[6] 「軟性国家(原文: Soft state)」とは、ミュルダールが独自に用いた用語であり、法律制度に欠陥があるなどの理由により、法が遵守されず、行政に不正や汚職が蔓延している国家のことを指す。

タイラー・コーエン「テック産業では、われわれはわれわれが制御できないことを恐れる」

[Tyler Cowen, “In tech, we fear what we can’t control” Marginal Revolution, March 21, 2018]

当記事は私のブルームバーグのコラムの話題であり、これはその記事の一部である。

ドローンと同様、自動運転車[1]は、特に強力な恐ろしいいくつかの特徴を持っている。それらは新しくて心躍る技術であり、そしてそれゆえにそれらについての話はよく検索されている。われわれは実際にはどの程度それらが安全なのかを知らないので、人々は、リスクの特定のレベルが何であれ、その不確実性によってそれ以上に怯えるのである。とりわけ、定義上、自動運転車は人間が直接的に制御していないように感じるものを含む。それは空を飛ぶことはふつう、車を運転することより安全であるにもかかわらず、多くの人々が車を運転するときに比べて空を飛ぶときにより重大な危険を感じるのに似ている。自動運転車は運転者の制御に関する多くの問題を提起している。その問題とはすなわち、後部座席で眠っていても構わないか、あるいは運転に常に注意しておかなくてはならないのかということである。そのことは、われわれの精神および感情を制御の問題により一層集中させる。

そして、

最近のFacebookやケンブリッジ・アナリティカをめぐる騒動は幾分似た問題を反映している(これこれを参照せよ)。アメリカ人のほとんどであれば、この件に関して何が間違っていたのかを明確かつ正確に表現できるであろうか。おそらくそうではないだろう。しかし人々は、SNSや個人的なデータやアルゴリズムのこととなると、彼らは明らかに制御できていないと感じていることを確実に知っている。その出来事および法的責任の不明確さが実際のところ問題の一部となっているのだ。

情報技術の世界に関する新たな話や批判を目にするとき、私はもはやテック企業が人気があるかを問わない(彼らが行なっているので)。その代わりに私は投票者が、北朝鮮の核兵器や常軌を逸したアメリカの大統領やどこにでもあるアルゴリズムを伴った世界が制御されていると感じているかを疑問に思う。彼らはその投票を行なっていない。なぜ、完全雇用のときに、ロボットがわれわれをみな失業者にしてしまうという記事が非常に人気なのかと疑問に思ったことはないだろうか。

われわれはまさに私が”制御している感覚の再確立”とよぶところの、アメリカ社会のための新しいメタ・ナラティブに突入しようとしている。残念なことに、実際の制御よりむしろ制御しているという感覚を追求するとき、しばしば両方とも手に入っていないのだ。

全てお読みいただきたい。

[1] 原文では”driverless car”であり「無人運転車」とでも訳すべきなのだろうが、「自動運転車」という用語が最も定着していると思われる。本稿においてもこの訳語を用いることとした。