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フィリップ・アギオン et al.「イノベーション、不平等、社会的流動性」(2015年7月28日)

●Philippe Aghion, Ufuk Akcigit, Antonin Bergeaud, Richard Blundell, David Hemous “Innovation, income inequality, and social mobility” 28 July 2015

ここ数十年、特に先進国において、トップ所得格差は加速的に拡大し続けてきた。本コラムでは、イノベーションがトップ所得格差の拡大を説明しており、社会的流動性を強化することを主張する。特に、社会的流動性に対するイノベーションのポジティブな効果は新しいイノベーターによる。 [Read more…]

チャド・ジョーンズ「新しいアイデアについての新しいアイデア: ノーベル賞受賞者、ポール・ローマー」

●Chad Jones, “New ideas about new ideas: Paul Romer, Nobel laureate”(VoxEU, October 12, 2018)

ニューヨーク大学のポール・ローマー氏は、「技術革新を長期的マクロ経済分析に統合した功績により」、ウィリアム・ノードハウス氏と共同で2018年のノーベル経済学賞を受賞した。本コラムでは、彼の主要な洞察と経済成長の過程に関するわれわれの理解に対する彼らの広範囲にわたるインプリケーションについて解説する。

ポール・ローマー氏が1980年代初期に経済成長に関する研究を始めたとき、経済学者の間での従来の見解――たとえば大学院で教えられているモデル――は、生産性の成長は経済の残りのどんなものによっても影響され得ないものであった。ソロー(Solow 1956)のように、経済成長は外生であった。

ローマーは、技術進歩は経済的なインセンティブに反応する研究者や起業家、発明家による努力の結果であるということを強調して、内生的経済成長理論を発展させた。彼らの努力に影響を与えるいかなるもの――たとえば税政策や研究基金や教育――は、潜在的に長期的な経済の見通しに影響を与えうるのだ。

ローマーの非常に重要な貢献は、アイデアの経済性といかにして新しいアイデアの発見が経済成長の中心にあることを明確に理解していることである。彼の1990年の論文は分水嶺である。それは、ソローのノーベル賞受賞業績以降の成長に関する文献の中で最も重要な論文である。

その論文の歴史は魅力的である。ローマーは約10年間成長に関して研究を続けてきた。1983年の論文と1986年の論文は、成長論のトピックに取り組んでおり、知識とアイデアは成長にとって重要であると示唆している。もちろん、あるレベルでは、誰もがこれが真実であるに違いないことを誰もが知っていた(そして、以前の文献にもこれらを含むものはある)。

しかし、ローマーが未だ理解していなかったものであり、未だに完全に評価された研究がなかったのは、知識とアイデアは成長にとって重要であるということがいかにして実現されるのかに関する詳細な本質であった。彼がついに成長を深く理解した証拠の1つは、1990年の論文の最初の2つのセクションが、かつての暗い部屋を照らす照明スイッチとしての最低限必要な数学しかない文章でほぼ全てが非常に明快に書かれていているということである。

以下に主要な洞察を示す。アイデアは、何かをしたり作ったりするためのデザインや青写真であるが、非競合的であるという点で他のほとんどどんな財とも異なっている。古典的な経済学における標準的な財は競合的である。すなわち、高速道路を走行する人や特定の手術の技術を必要とする人や灌漑のための水の利用が多ければ多いほど、それらは行き渡らなくなる。この競争は、ほとんどの経済の中心にある希少性の根底にあり、厚生経済学の基本定理を生み出す。

対照的に、アイデアは非競合的である。ピタゴラスの定理やプログラミング言語であるJavaや最新のiPhoneのデザインを利用する人が増えれば増えるほど行き渡るアイデアが減る、ということはない。アイデアは利用によって使い尽くされることはなく、一旦発明されれば、いかなる人数であっても同時にあるアイデアを利用することは技術的に可能である。

一例として、ローマーのお気に入りの例である経口補水療法を考えてみよう。近年まで、途上国では何百万もの子供が下痢によって亡くなっていた。問題の一部は、子供たちが下痢を患っているのを見ている両親が液体を摂取させないようにすることである。脱水が始まり、子供は死ぬだろう。

経口補水療法は、数種類のミネラル、塩類、少量の砂糖を水に溶かして正しい比率で溶解させることで、子どもに水分を補給し、命を救う救命策である。このアイデアが発見されてから、そのアイデアは毎年何人もの子供を救うために使われえた。アイデア(化学式)が、より多くの人々が使用するにつれて次第に希少になるということはない。

アイデアの非競合性はどのように経済成長を説明しているのだろうか。鍵となるのは、非競合性が規模に対する収穫逓増を生じることである。標準的な再現性の議論は、生産の規模に対して収穫一定であることを根本的に正当化している。工場からのコンピュータの生産を倍増したい場合、実行可能な方法の一つは、通りの向こう同等の工場を建設し、その上で同等の労働者や材料などを運び込むことである。すなわち、工場をその通りに再現すればよいのである。このことは、競合性のある財を用いた生産は、少なくとも有用なベンチマークとして、収益が一定であるプロセスであることを意味している。

ローマーが強調したことは、アイデアの非競合性は、この再現性の議論の不可欠な部分であるということである。すなわち、企業は新しいコンピュータ工場が建設されるたびにコンピュータのアイデアを再考する必要はないのである。代わりに、同じアイデア――一連のコンピュータの作り方の詳細な手順――は、新しい工場で使用することも、実際には任意の数の工場で使用することも可能である。なぜなら、それは非競合的だからである。

競合的な投入物(工場、労働者、資材)には規模に関する収穫一定があるので、競合的な投入物とアイデアを同時に考えると規模に関する収穫逓増がある。すなわち、競合的な投入物とアイデアの質または量を二倍にすると、総生産は二倍以上になる。

ひとたびリターンを増やすと、成長は自然についてくる。一人当たりの生産量は、知識の総ストックに依存する。すなわち、知識ストックは経済のすべての人々の間で分割する必要はないのである。

このことをソローモデルにおける資本と対照してみよう。一台のコンピュータを追加すると、一人の労働者がより生産的になる。新たなアイデア――最初のスプレッドシートまたはワープロ用のコンピュータコード、またはインターネット自体を考えよ――を追加すると、いかなる数の労働者であってもより生産的になる。非競合性を伴って、一人当たり所得の成長は一人当たりのアイデアの成長ではなく集計的なアイデアの総ストックの成長に結びついている。

いかなるモデルであれ、人口増加が原因で、集計で成長するのは非常に容易である。ソローモデルでさえそうである。自動車産業の労働者が増えると、より多くの車が生産される。ソローにおいては、自動車労働者1人当たりの自動車需要が伸びる必要があるため、1人当たりの成長を維持できない。

しかし、このことはローマーの場合には当てはまらない。研究者が多ければ多いほどより多くのアイデアを生み出すが、このことは、非競合性のために誰しもをより幸せにする。25年であれ100年であれ1,000年であれ、歴史を通して、世界は、アイデアの蓄積とアイデアを生み出す人々の数の両方の成長によって特徴付けられている。ローマーの洞察によれば、これは長期的に指数関数的な成長を維持するものである。

最終的に、非競合性と結びついた収穫逓増は、外部性のない完全競争均衡は存在しないということを意味し、資源の配分を分散させることができない。代わりに、いくつかの出発が必要である。

ローマーは、新しいアイデアの発見に対する不完全な競争と外部性の両方が重要である可能性があると強調した。独占的競争は起業家がイノベーションするインセンティブとして効果を発揮する利益を提供する。そして、発明者と研究者は、のちに先人の洞察から恩恵を受ける。

経済成長に関する研究は、ローマーの貢献によって非常に影響を受けており、後に続くわれわれはみな、巨人の肩の上に立っている。知識のスピルオーバーに適切に報いることは難しいかもしれないが、今年のノーベル経済学賞は報酬を受けるには十分である。

参考文献

Romer, Paul M (1986), ‘Increasing Returns and Long-Run Growth’, Journal of Political Economy 94: 1002-37.

Romer, Paul M (1990), ‘Endogenous Technological Change’, Journal of Political Economy 98(5): S71-102.

Solow, Robert M (1956), ‘A Contribution to the Theory of Economic Growth’, Quarterly Journal of Economics 70(1): 65-94.

サイモン・レン・ルイス「なぜBrexitは新自由主義的なのか」(2018年8月24日)

●Simon Wren-Lewis, “Why Brexit is a neoliberal project” (mainly macro, Friday, 24 August 2018

一般的に、新自由主義と言えば市場を礼賛しグローバル化を促進するといったビジネスサイドに立つ考え方のことだ。Brexitはイギリス企業の市場規模を小さくするのでグローバル化とは逆の動きになる。よってイギリス財界の多数が望むというものではないはずなのだが、実はBrexitは新自由主義的と言えるのだ。どういうことだろうか?

良い出発点は、自由貿易とは何かについての議論に戻ることである。ほとんどの人と、そして間違いなくほとんどの経済学者は、自由貿易は「貿易をする自由」を意味していると考えるだろう。この定義に従えば、企業が多くの国においてはるかにより容易に貿易することを可能にする国家間に渡って規制を調和させることは自由貿易を増大させている。理想は単一市場であるが、それはEUが財および多くのサービスについて達成したものである。

多くの新自由主義者はそのように考えるだろう。しかしそうでない新自由主義者は自由貿易をいかなる種類の政府の介入からも自由という意味とみなすだろう。単一市場は、そのルールや規制が破られているか否かを判断する法廷があるので、その意味では自由ではないように思われる。彼らの理想はあらゆる種類の国家規制から可能な限り自由な貿易となる。彼らは、調和のとれた規制ではなく最小限の規制を欲しているのである。

もし自由貿易を貿易に関する規制から自由であることという意味とみなすのがおかしいように思われるなら、おかしいと思うべきではない。どれほど多くの新自由主義者がまさに彼らがよくその意味で用いている自由市場という用語を使っているかを考えてみよう。役員報酬が自由市場によって決定されるという人がいるとすれば、その人は経済学者が市場の不完全性と呼んでいるであろう意味から離れて市場という単語を使用しており、単に政府の干渉から解放された市場を意味しているのである。オルドリベラリズムと異なり、この種の新自由主義者は、独占生産者のいる市場を自由という一方で、競争政策が独占を破った市場を政府の介入を被っているというだろう。

私は、Brexitの賛同者が強調するグローバル・ブリテンという考えは、Brexitが貿易に制約を与えるという厄介な事実から純粋に目をそらすことであるという独自の考えを持っていた。私は、自分はフェアではなかったと思う。真に新自由主義的であることは、Brexit賛成者が貿易を破壊することを望むのではなく、貿易は可能な限り規制をなくさなくてはならないことである。したがって、イギリスが、単一市場よりも規制が弱いアメリカや新興市場と取引することは、はるかに優れている。Brexitの賛同者の観点からの単一市場の問題は、それが様々な種類の強い規制に固執していることである。

このことは、なぜそれほど多くのBrexit賛成者がまた強固な新自由主義者であるように表面上見えるのかを説明する一助となる。より大きな市場へのアクセスの利益のために規制に対して妥協しようとしてきたオズボーンやキャメロンのような別の新自由主義者とは対照的に、Brexitはある種の新自由主義者にとってはある種のユートピアのための努力のようなものである。そして、新自由主義者は、それがまったく違うものであるように見せることによって国民が彼らのユートピアに投票するように欺くことについて何の懸念も持たない。同様に、彼らは、彼らのやっていることが最終的に自分たちの利益になることを理解できない企業に時間をかけて関わろうとはほとんどしない。マーケティングとしての政治は、より上手く描写すれば国民全体に対する欺瞞であるが、一般的な新自由主義的な形質である。

Brexitの賛同者は、新自由主義の理想の境地に関する彼ら自身のビジョンに触発されたグループ以外の何物でもない。オズボーンやキャメロンは小国に向けた解決策を用意していたが、Brexitの賛同者は可能な限りの少ない規制を望んでいた。どちらも、彼らのビジョンを欺瞞によって達成して、彼らが望むものを得るために語られていない欺瞞と不快さに満ちたダメージを経済に与えることにためらいがない。すべての善良なレーニン主義者のように、彼らは最終的に(Rees-Moggによれば50年後には)それが割に合うと信じている。このことは、もし新自由主義者が新自由主義の道を進めば、われわれは彼らのビジョンがもう一つの新自由主義のファンタジーであることを証明するためだけに半世紀にわたる経済的なダメージに耐えることになるだろうということを意味しているのだ。

ジョセフ・ヒース「規制について真剣に考えてみよう」(2014年7月7日)

●Joseph Heath, “Thinking seriously about regulation”(In Due Course, July 7, 2014)

私はちょうど今、ダニエル・カーペンターのReputation and Power: Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDAという本を読み終えた。この本の全てが素晴らしかったというわけではないけれども、アメリカ食品医薬品局(FDA)の歴史についての700ページの本にしてはかなりよかった。私がこの本を手に取ったのは、去年の秋の3カ月間で、2人がこの本を私に勧めたからである。もしそれが本当に驚くべき本でないならば、2人の人がそれぞれに私のところに来て「FDAについての700ページの本を読むべきだ」と言うのは何の偶然なのだろう、と思ったのである。

彼らが私にこの本を進めていた理由は、私が行政の裁量とそれが公務員によって処理される方法に関心があったからである(ここを参照)。これは、私が政府の執行部で持つようになった一般的な関心の一部であり、執行部が規範的政治哲学において深刻に理論づけが不十分であるという見解に沿っている。

しかし、カーペンターの本は、プロジェクトの一環としてもっと興味深い。そのプロジェクトは、アメリカの学者グループ(トービン・プロジェクトの多くの人たち)による、規制についてもっと真剣に考えようとし、過去50年間の規制をめぐる議論を支配してきた、いわゆる「公益」と「レント・シーキング」あるいは「規制の虜」の理論との間に、古くさくて高度に定型化された対立を破ろうとする最近の試みである。

ここで、大まかにどのように古くさい議論が機能してきたかを紹介しよう。「公益」の理論によると、規制は市場の失敗への対応によって生じる。市場競争は、なんらかの一連のルールに従って行われる。最小限のものは、財産権と契約法によって定義されたものである。しかしながら、多くの場合においてこれらの規則は健全な形態、すなわち全ての者への利益を生み出す競争を促進するのには不十分である。所有権のシステムの不完全さは企業が公害のような負の外部性を生み出すのを許すかもしれない。あるいは、情報の非対称性は、消費者に、もし彼らがよく情報を与えられていたとしたら購入しないものを購入するように導くかもしれない。そして、賢明で慈悲深い政府は、市場参加者がこれらの戦略を採用するのを防ぐために、規則を調整したり新しい規則を導入したりすることによって介入するだろう。その意図は、NHLのようなスポーツ団体がゲームを改善するためにルールを調整するときとは異なるものではない(私の好きな例は、2008年にホッケーに”ショーン・エイヴリー・ルール“を導入したものである)。

これはしかし、実証的な記述というよりは、規制がどのように機能すべきかについての規範モデルに過ぎない。国が何らかの規制を導入すれば公共の利益になりうるというストーリーだ。よって重要な実証的、制度的疑問が無数に湧き上がる。現実の政治家や官僚は完全に賢明ではな、く、情報は完全でなく、完全な善意の人物でもない。彼らがどうして「公共の利益」を認識できるのだろうか。また、法制化にあたり彼らが促進させるべきインセンティブはどんなものであるべきだろうか。このように、現実世界の規制は、「公共の利益」理論が推奨するように最適化されたものとは程遠いと考えるべき理由は明らかにたくさんあるのだ。

したがって、「公益」という見方について疑いの余地はかなりあるのであり、どれほど公益の考慮が実際に規制上の意思決定に情報を与えるのかについて程度の差はある(確かに、制度理論としての「公益」観の素直な支持者を見つけることは困難である。これはおそらく最も近い)。しかし、現実世界の規制に関する経験に基づいた懐疑論をもたせるこれらの疑いの追求というよりはむしろ、規制国家の批判者が惹かれたのは、ばかげたネガティブな風刺である、いわゆる「規制の虜」理論である。この見解によると、規制は公共の利益に関するものでは全くなく、逆に、どこからでも公衆に対する陰謀である。規制は、組織化された利益団体が競争を制限したり非生産的移転を達成しようとしたりするために政府の強制力を利用しようとするから存在する。小規模で集中した利害関係は、より拡散した集中していない利害関係よりも集団行動の能力が大きいため、成功する。

この「レント・シーキング」の見方に沿えば、カナダの乳製品供給管理システムのようなものはまったく規制による介入である。カナダの乳製品供給管理システムは生産と同様に酪農業への参入を規制しており、それによって価格を上げ割り当てを有している農家に対してレントを生み出している。このレントは、オープンな市場競争の条件下に比べてより高い価格を乳製品に対して支払っている消費者からの非生産的移転を示している。農家はこのレントを持ち逃げすることができるのは、彼らは組織化されているのに対し消費者は組織化されておらず、それゆえにこのシステムを取り除こうとする恐れがあるいかなる政治家も、高度に組織化され持続的な抗議を受ける恐れがあるからである。一方で、消費者は、単に、一リットルの牛乳のために「あまりにも多く」ドルを支払うことによっては十分に扇動されず、その結果そのことについて何もしない。(実際に、カナダにおける酪農のカルテルに対して実際にロビー活動をしていると私が聞いた唯一の組織化されたグループは、カナダの大手ピザチェーンである。というのは、彼らは非常に多くのチーズを購入しているからである。他の集中的な利益に対して効果的に行動するためには集中的な利益が必要である、という一般的な点を確認しておく。)

乳製品の供給管理の政治において見ることができるように、明らかに「レント・シーキング」理論には一理ある。しかし、この理論を一般化し、環境や消費者保護の法律を含む全ての規制が同じ一般的なパターンに従っているというのは、かなり乱暴な主張である。さらに、「規制の虜」という話は40年以上にわたり規制緩和の根拠として右派の政治家によって用いられてきたけれども、彼らのうちどれだけの者がそれを実際に信じているのかは定かではない。なんと言っても、権利を持つ人々が規制監督に関心を持っていれば、規制当局に任命されている人たちについて、彼らの任命者が規制された利益からできるだけ離れていることを確かめるために、慎重になるかもしれないと思うだろう。しかし右派の政党は、産業界と非常に密接な関係にある人々で政府機関を満たそうとし、まさにその反対のことをしようとする傾向がある。それによって、規制の虜を積極的に促すように見える。

思うに、この理由の一部は、「規制の虜」理論には規制を改善する方法に関する理論が実際にはないということである。規制は、この理論の中心では、単なるレント・シーキングの実践であるので、唯一の解決策は規制の撤廃である。「より良い規制」は、この観点からは、言葉の上で矛盾しているものである。これは、規制当局に対するある種の不健全なシニシズムを奨励している。

ここで、この古い議論から一歩前進して、様々な形態の市場の失敗を修正するために規制のために緊急のニーズがあるが、そのような規制を制定するための正しい方法で政府の機構を調整することは容易ではない、viz.という賢明な見解を採用するとしよう。すると、この機構が特定の利益集団によって虜にされ、それゆえに規制介入の意図を覆す危険が常にある。そうすると、一連のかなり簡単で実用的な質問をしたくなるかもしれない。例えば、どのようにして規制が実際に交易に資していることを保証しようとしているのか、どのように規制の虜が発生し、そしてどのような条件が規制の虜をより発生しやすく、あるいはより発生しにくくするのか、政府機関が規制の虜になった場合をどのように見分け、どのようにその状況を修復できるのか、どのような力が規制機関を公益の権限を推進する上で、より効果的またはより効果を少なくするのかなどである。

これらがトービン・プロジェクトのグループが議論していた問題である(例えばこれ)。驚くべきことに、これらの問題に関する真剣な実証研究は事実上全く行われていない。(規制の虜理論の支持者は、実証研究ではなく、先験的な推論の合成にほぼ完全に頼っていた。すなわち、彼らは、経済学に準ずるモデルのセットから規制の虜の現実性を単に「演繹」していたのである。)

FDAに関するカーペンターの本はこの広い現在の考えにフィットしており、その点で非常に重要である。私は彼の明示的な理論的概念であるviz.の「力」と「評判」が特に啓発的であるとは感じなかった。しかしながら、彼の暗黙のフレームワークは非常に興味深かった。彼の中心的な確信は、組織文化が、FDAのような機関が新しい状況に直面し調査する際に、すなわち産業を扱う際に積極的、妨害主義的、対立的、懐柔的、無関心的などになるかどうかを決定する際に、非常に強力であるということのように思われる。

たとえば、私はサリドマイド事件に関するカーペンターの議論から、非常に多くを学んだ。私はその話の概要を知ってはいたが、FDAのおかげでアメリカ合衆国ではサリドマイドによって引き起こされた先天異常は一件もなかった。一方、アメリカ市場でサリドマイドの承認を拒否した科学者(フランシス・ケルゼイ)は少し運が良かった。というのは、サリドマイドが先天異常を引き起こしたと疑う特別な理由はなかったのだ。彼女は、主にはその薬を推薦した企業を信用しておらず、一連のはるかに小さな問題について懸念していたため承認を先延ばしにしたのである。彼女は十分長い間承認を遅らせたが、先天異常はその薬が広く用いられていたヨーロッパで現れ始めた。このことによって彼女は国家的な英雄となり、FDAはその後の少なくとも20年間は、事実上揺らがぬ特権と権威を与えられた。

レートリル/アミグダリン(あんずの核に由来する急性の癌の療法)の販売を却下したことに対する、70年代にFDAが耐えた公的な圧力についての興味深い議論もある。この話は、基本的には、FDAが企業の大々的な公的なキャンペーン(大規模な密輸ネットワークの開発や死に瀕している他ならぬスティーブ・マックイーンの有名人の圧力などを含む)に抵抗したが、大規模な研究によって薬が効果がないことがわかったとき、究極的に非難が不当であった、というものである。このことが後に、最初のプラチナがベースの化学療法剤が承認のために提出されたときに懐疑的な方向に向かい、迅速な承認のための公的圧力に直面して抵抗する傾向を強めた(これは間違ったことであった)。そこで繰り返しになるが、どのように組織が振る舞ってきたのかを理解する鍵は、その組織の歴史を観察することである。

全体的に見れば、私は、この本を読んだ人は誰も、規制の仕組みの一般的な説明として、規制の虜理論を真剣に受け止めることはできないと考える。非常に明確に理解されることは、FDAは、公共の利益がどこにあるのか、それがその任務をどのように解釈するかについての実質的な裁量という、常に強い独立した概念を常に持っているということである(私の目的のためにいえば、1962年に明示的な権限を受ける以前の、政府機関が薬の有効性に対する研究へのコミットメントを正当化する方法の議論は、特に興味深いものである)。カーペンターはFDAが業務をうまくやっているかまずくやっているかについて実はどちらの立場にもついていない。私の疑念は、彼がFDAの承認プロセスがどれほどフラストレーションが溜まるものかを控えめに表現しているということである。それにもかかわらず、その本はFDAがどのようにその業務を行なっているのか――たとえばFDAが素早く動くのかゆっくりと動くのかや、法律第一主義なのか柔軟なのかや、積極的なのか受動的なのかなど――を決定する力についての非常に素晴らしい像を提供した。この点において、カーペンターの著書は、これまで非常に欠けているものであった、規制の対象についての重大な学識の一例である。

Stephan Brunow, Antonia Birkeneder, Andrés Rodríguez-Pose「ドイツにおける創造的な労働者と科学志向の労働者、そしてイノベーション政策」(2018年7月21日)

Stephan Brunow, Antonia Birkeneder, Andrés Rodríguez-Pose “Creative and science-oriented workers and innovation policy in Germany” (Vox.EU, 21 July 2018)

 

研究はますます、都市、およびとりわけ大都市をイノベーションの現代的な駆動力にするための基本的な力として、創造的な労働者と科学志向の労働者の集中度の上昇を指摘するようになっている。このコラムでは、これがドイツでも当てはまるかについて検証する。結果は、創造的な労働者のイノベーションは企業の境界によって制約されるのに対して、科学志向の労働者は多くのイノベーションのスピルオーバーを生み出しているということを示唆している。ドイツにおいてイノベーションを生み出すための政策は、「クリエイティブな労働者」というよりむしろ「オタク」に焦点を置くことによってより多くのリターンを生み出す傾向にあり、イノベーション政策は、大都市を越えて、「オタク」にとって魅力的であると証明されたより広い範囲の領域に向かうべきである。

 

「創造的でイノベーティブで心の広いみなさん…この都市で機会を見つけてください。」このスローガンのもと、ベルリンは2008年にブランディングキャンペーンを開始した。キャンペーンの目標は、ベルリンのイメージを、観光客とより重要なことにはアントレプレナーを惹きつける事ができる、華やかで多様性があり寛容な大都市として磨くことだった。創造性とイノベーティブさは、このようにしてベルリンの経済のアジェンダのまさに最重要課題に据えられた。

しかし、ベルリンは、創造性と革新性に関する経済的評判を確立しようとする都市の中の例外ではない。事実上、すべての都市は創造性と革新を同じコインの両面とみなしている。野心的な「スマートな都市」は、イノベーションと経済のはしごを登るという目的で、創造的な階層をますます呼び寄せようとしている。それはしばしば現地の設備と住環境の改善という方法による(Florida 2004, Partridge 2010)。よりイノベーティブで創造的な都市はより一生懸命に考えている。それらはまた、将来の福祉と成長の拠点とも考えられている。したがって、創造性とイノベーションはより良い生存性と進歩のための前提条件とみなされる。したがって、創造性とイノベーションは、最もスマートな都市と都市開発戦略の中心となっている(Florida 2014, Lee and Rodríguez-Pose 2016)。

科学志向の労働者は、一般に、創造的な労働者ほど注意を引いてこなかった。科学志向の労働者は高度に熟練しており、頻繁にイノベーションをもたらす非日常業務を行う傾向が非常に頻繁にある(Hyde et al. 2008)。しかし、創造的な労働者を引きつけることを目標としたますます多くの公共政策――Florida (2004)にしたがえば――とは対照的に、科学志向の労働者の追求により慣れているので、都市や地域はこの課題を企業に任せている。それゆえに、後に残る疑問は、創造的な個人――Marrocu and Paci (2012)が「ボヘミアン」と呼ぶところのもの――あるいは理工系の分野で創造的な活動を行っている高度に熟練した専門家によってもたらされたイノベーションの利益のどちらがより多くあるのかと関連している。どのタイプの都市と地域がこれらの二種類の労働者を惹きつけるための政策から最も利益を得るのかに関する疑問もまた存在する。われわれは、ドイツに焦点を当てた近年の論文でこれらの疑問を探っている。

 

ドイツでは「ボヘミアン」と「ギーク」は同じ場所に入り混じっているのか?

学術的な研究においては、創造的な労働者と理工系の労働者の両者ともに、彼らの才能を発達させる最大の機会を提供する場所――すなわち都市――に群れるというのが支配的な見解であってきた。そしてより大きくより人口密度が高い都市ほど、より良い。しかしながら、このことはドイツには当てはまらないように思われる。図1は、NUTS 3レベル[1]でのドイツの地域全体の創造的な労働者および理工系の職業の地域シェアをマッピングしている。上の図は創造的な労働者の分布を描写している。二、三の例外はあるが、ドイツの創造的な労働者は、実際に、基本的には大都市の住民である。彼らは都市に集中している――そこでは彼らの割合は労働力全体の4%を超えている。下の図は理工系の労働者の分布を示している。ドイツの「オタク」は、対照的に、「ボヘミアン」に比べてはるかに都市に集中していないのである。科学志向の労働者は、バイエルン州やバーデン=ヴュルテンベルク州のような経済的に強い地域に位置している傾向にある。それは、それらの地域が彼らを好むか、あるいは彼らが連続して存在することがそれらの地域をより豊かにしたからである。対照的に、彼らの数はその数は主に農村地域ではかなり低く、そしてあるいはまたはドイツ東部と北部の地域に遅れている。ベルリンやミュンヘンのような大都市は創造的な労働者のシェアが高いが、それと比較すると理工系の労働者のシェアはかなり低い。

図1. 2014年の全ての労働者に対する創造的な労働者および理工系の労働者の地域分布)

a) 創造的な労働者

b) 理工系労働者

Source: IAB-ES data based on all regional employees in both groups to provide regionally representativeness.  BKG Geodatenbasis 2015.

 

創造的な労働者と理工系の労働者の間のこの違いはドイツにおいてイノベーションの地理に影響を与えているのか?

ドイツの「ボヘミアン」と「オタク」の地理の違いはドイツ企業がイノベーションをするための能力にどのような影響を与えるのだろうか。1998年から2015年の期間の11万5000以上の企業レベルの観察を網羅したわれわれの計量経済学的な分析では、実際に、ドイツにおけるイノベーションは、創造的な労働者および理工系の労働者の雇用のシェアと相関関係がある。より多くの「ボヘミアン」とより多くの「オタク」を雇用している企業は、そうでない企業に比べてよりイノベーティブである。この関係は、企業レベルのイノベーションにも影響を及ぼす多数の地域的、部門的、およびその他の施設関連の特性のコントロールに対して揺るがない。

しかしながら、創造的な労働者と理工系の労働者の役割は、企業という壁の外では大きく異なる。創造的な労働者は企業という境界の中でイノベーションをもたらしているようにしかみえないのに対し、理工系の労働者は、イノベーション能力を周辺の領域に拡張することが可能である――それに加えて、イノベーションに全体的な影響が強い。

 

創造的な労働者ではなく科学的な労働者のための公共政策

これらの結果は、ドイツの都市や地域においてイノベーションを駆り立てるために実施されてきた公共政策について思考の糧を提供する。都市や地方をよりスマートでよりイノベーティブにすることを目標とする地方の意思決定者にとって、この分析の結果は、方向性において、創造的な労働者と理工系の労働者を惹きつける政策は両方ともに、イノベーションという形で重要なリターンを生み出しうるということを指摘している。しかし、これに加えて限られたリソースに直面したとき、理工系の労働者を募集することは、独創的な労働者に専念するよりも、より大きな価値を提供しうる。創造的な労働者は主に会社内のイノベーションを促進するため、より多くの政策を導入することによる公的利益はより限定的になる。したがって、公共部門が民間企業によるイノベーションの創出と割り当てを助成するのではなく、個々の企業は、適切なスキルを持つ人材を採用することによって、創造性を高めるための努力を強化するだろう。対照的に、ドイツの理工系の労働者は、会社を超えて、同じ都市およびまたはあるいは地方の周辺企業や周辺地域に流出する恩恵を提供する。理工系の労働者はまた、最大規模の都市集積を超えたイノベーション能力を活発化させ、中小都市におけるイノベーションと経済的ダイナミズムにとってより大きな役割を果たしうる。このことは、結局のところ、ドイツの都市や町をよりスマートにするために、公共資源を使って理工系の労働者を引きつけることをより正当なものだと主張している。

 

References

Brunow, S, A Birkeneder and A Rodríguez-Pose (2018), “Creative and science oriented employees and firm-level innovation”, Cities 78: 27-38.

Florida, R (2004), The rise of the Creative class and how it’s transforming work, leisure, community and everyday life, Basic Books.

Glaeser, E (2005), “Review of Richard Florida’s The rise of the Creative Class”, Regional Science and Urban Economics 35(5): 593–596.

Hyde, J S, S M Lindberg, M C Linn, A B Ellis and C C Williams (2008), “Gender similarities characterize math performance”, Science 321(5888): 494-495.

Lee, N and A Rodríguez-Pose (2016), “Is There Trickle-Down from Tech? Poverty, Employment, and the High-Technology Multiplier in US Cities”, Annals of the American Association of Geographers 106(5):  1114-1134.

Marrocu, E and R Paci (2012), “Education or Creativity: What Matters Most for Economic Performance?”, Economic Geography 88(4):369–401.

Partridge, M D (2010), “The duelling models: NEG vs amenity migration in explaining US engines of growth”, Papers in Regional Science 89(3): 513-536.

 

[1]NUTS 3レベルとは、ドイツの地方行政区分の区分法の一つである。NUTS 1レベルは州(Land)単位で区分したもの、NUTS 2レベルは州の下にある県(Regierungsbezirk)単位で区分したもの、NUTS 3レベルとは県の下にある郡(Landkreis)や独立市(Kreisfreie Stadt)単位で区分したものを指す。

クラウディオ・ミケラッチ et al.「アメリカ人はヨーロッパ人より働くが、ヨーロッパ人が怠けているとは思わないでほしい」(2007年9月)

[Claudio Michelacci, Josep Pijoan-Mas, “Americans do work more than Europeans, but please don’t think that Europeans are lazy,” 17 September, 2007]

 

こんにちではアメリカ人は多くのヨーロッパ人より働くけれども、このことは1970年代には当てはまらなかった。ヨーロッパ人はアメリカ人より怠け者になってしまったのだろうか?もちろんそうではない。つまり、大西洋の両岸を越えた労働時間の違いは、単に仕事人生をめぐる労働者のインセンティブの違いを反映しているだけなのだ。

 

アメリカと大陸ヨーロッパにおける総労働時間は、過去35年間で非常に異なる変化をした。1970年代には、アメリカよりもフランスやイタリアやドイツのようなヨーロッパ諸国のほうが一人当たり平均労働時間はわずかに長かった。こんにちのアメリカ人はヨーロッパ人より30%多く働く。これらの違いは重要であり、またこれらが現在のアメリカとヨーロッパの1人あたりGDPの違いのほとんど全てを説明する。つまり、1人あたりGDPはこんにちではフランスやドイツよりアメリカのほうが30%高い一方で、労働時間あたりのGDPによって測定される生産性は大まかに見れば等しいのである。このことは、アメリカ人がこんにちヨーロッパ人より豊かなのは、アメリカ人の方がより生産的だからではなく、単にアメリカ人の方が長く働くからだということを意味する。

労働時間の顕在化しつつある差は、部分的には労働力化率(アメリカにおいてより多く増えてきている)の変化や失業率(ちょうどヨーロッパで増えてきている)による。しかし、他の相当な部分は、違いの3分の1から2分の1を説明するダイナミクスである、労働者一人当たりの労働時間と関係がある。

ひとたび雇われれば、何時間働くかの決定は多くの労働者にとって自発的なものである。もちろん、たとえば、国や仕事のなかには、現行の規制が最大限どの労働時間を制限しているもののように例外もあるが、規則は必ずしも拘束力を持っているわけでもなければ施行されているわけでもない。実際のおよび望ましい労働時間の差はヨーロッパ人にとっては実際に小さいものであり、また、それでもなお過去数十年で小さくした。だから、アメリカとヨーロッパにおける一人当たり労働時間の分岐しつつある変化について心配しすぎる必要はないといえる。こんにちのヨーロッパ人は、単に、より余暇を享受し始めたので労働時間の活動により短い時間を捧げているだけなのである。

しかし、アメリカ人とヨーロッパ人が本質的に違うものになってきたというわけだ、というのは本当だろうか?おそらくそうであろう。しかし、総労働市場の条件がアメリカとヨーロッパとで非常に違うふうに変化したというのもまた事実である。過去30年の間、賃金格差はアメリカでは相当拡大したのに対しヨーロッパではわずかにしか拡大しなかった一方で、失業率はヨーロッパでは上昇したがアメリカでは上昇しなかった。こんにち、ヨーロッパに比べてアメリカでは失業のリスクがより小さく、就職はより容易であり、キャリアのはしごを登ったり高い給料の職に雇われたりするより大きな可能性がある。このことはアメリカ人とヨーロッパ人の仕事人生の間の極めて異なるインセンティブを示唆している。

われわれの最近の研究(※追記:リンク切れ)は、インセンティブにおけるこれらの違いが、大西洋の両岸をまたいでの労働時間において観測された違いを説明できることを示している。現在の仕事における昇進やより良い職を得ることはハードワークを要し、また労働者も努力の価値がある場合にのみそうするのを厭わない。これが左遷の場合だと、労働時間は短くなる。このことは過去30年間のヨーロッパにも当てはまる。アメリカン・ドリームによってアメリカ人が一生懸命働くように、ヨーロッパの不振な経済パフォーマンスによってヨーロッパの労働者は長時間働く気を削がれているのである。だから、ヨーロッパ人を余暇活動に時間を捧げすぎであると責めるよりはむしろ、ヨーロッパの市場をより自由化するほうが価値はある。ヨーロッパの労働者に仕事人生に関するより強力なインセンティブを与えれば、アメリカとヨーロッパの間のアウトプットの差を縮める最も効果的な方法となろう。

スコット・サムナー「なぜオーストラリアは26年間不況を経験していないのか」

[Scott Sumner,”Why Australia hasn’t had a recession in 26 years,” The Money Illusion, July 18th, 2017]

 

過去の投稿において、私は、オーストラリアは名目GDPを適切に成長させ続けることによって26年間不況を回避してきたことを指摘した。コメント者の中には、オーストラリアは金融政策ではなく、むしろ鉱業ブームによって恩恵を受けている“ラッキーな国”である、と示唆するものもいた。その理論は意味をなさない。なぜなら経済が非常に不安定な商品の輸出に輸出している場合、大規模かつ高度に多様化した経済を伴った国に比べてより不安定なビジネスサイクルになるだろうからである。いずれにせよ、近年のデータは完全にその説を棄却している。

ステファン・キッチナーは、かつてオーストラリア準備銀行の役人であったウォーウィック・マッキビンの見解について議論している非常に興味深い記事に私を導いた。

元オーストラリア準備銀行役員のウォーウィック・マッキンビンは、世界の中央銀行は、家計や政府の巨額の債務負担が安全に解消されるよう、名目所得の伸びを目標とする公的金利のシステムに切り替えるべきだと述べている。

“インフレーションは、価格の期待を縛り、中央銀行が資産を引き下げないという自信を人々に与えたため、良い中間段階になった”と、彼は水曜日のシドニーでの主要な経済会議で語るだろう。

1970年代や80年代、それに90年代の初期と同様に、“高いインフレ率の時にはそれが重要なのだ。”

“しかし、本当に成長とインフレーションである非常に明示的な所得ターゲットがあるなら、同じ信用度をもつことができる”、と彼は言う。

彼は、オーストラリアでは、そのことは、準備銀行は名目GDP——本質的には、どのくらいその経済がその経済の生産した財やサービスに支払われているかの尺度——の成長を約6%に保とうと試みようとしていることを意味すると示唆している。

オーストラリアは人口増加率が1.4%であるので、オーストラリアの名目GDPの成長率がアメリカ(人口増加率=0.7%)や日本(人口減少中)の名目GDPの成長率より高いのは不思議ではない。それにもかかわらず、私は、6%は少し高いので、オーストラリアには5%にいくぶんか近い成長率を勧めたい。一方で、6%でさえ2008年以降連邦銀行や欧州中央銀行、日本銀行によって実施されている一連の政策に比べればはるかに良いだろう。

オーストラリア国立大学クロフォード校出身のマッキビン教授は、公式の2%から3%のインフレターゲットは“サイクル全体”にしか適用されないので、実際に準備銀行はすでに“曖昧な名目の”所得ターゲットを追求している、と認める。

このことは、オーストラリアは大恐慌[1]の間、隠れて名目GDP目標を行っている国であったと示唆してきた様々な市場のマネタリストの主張を裏づけしている。

私は、日本のような国にとって名目所得ターゲットの最大の利点は、それが公的債務の負担を減じうるということであると主張した。マッキビンは同様の議論を行っている。

”高い公的および私的な所得に占める負債の割合の持続可能性は過去以上に高い名目所得の成長を必要とするので、今後数十年にわたって問題になるであろうことは、名目所得の成長であろう。”

興味深いことには、6%のターゲットでさえいますぐに金融引き締めが必要なように思われることである。

彼の提唱した所得ターゲットのスキームによれば、1.5%というこんにちの準備銀行のキャッシュレートは、第一四半期に前の3か月に比べて名目GDPが2.3%上昇したことと、1年前に比べて7.7%上昇したことを考慮すればおそらく低すぎる。“現在、中央銀行は名目所得基準による緩やかな金融政策を取っているだろうし、名目所得の伸びが急速に高まっているため、このルールに従って政策を強化することを期待している。”

待ってほしい。それが正しいはずはない。私の批判者は、オーストラリアは鉱業ブームから恩恵を受けている単にラッキーな国だった述べている。いまや鉱業開発が衰退しつつあるのだから、うまくいっているはずがない。それとも私が何か間違っているのだろうか?

エコノミスト誌は賢い国がいかにして再分配を扱って斜陽化する部門からはずすかを説明している。

鉱業ブームがしりすぼみになると、準備銀行はベンチマークの“キャッシュ”レートを2011年の4.75%から1.5%に下げた。オーストラリアドルは急速に下落した(6年前のピーク時には1.10ドルだったのに対し、現在では0.76ドルの価値である)。安い通貨と低い利子率によって、より高齢化が進んでいてより人口の多いニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州は経済が賑わった。不動産開発業者はより多くの家を建てる、農家はより多くの食糧を輸出し、外国人(留学生と観光客の両方)がより訪れた。たとえば、オーストラリアは昨年、過去最高となる120万人の中国人を迎え入れた。

再配分が不況を引き起こすのではなく、金融引き締めが引き起こすのだ。

かつて、私はオーストラリアは名目GDPよりむしろ被雇用者の合計の補償を目標にしたい可能性があると主張した。それはなぜなら、労働市場に大きな影響を与えることなく鉱物の輸出価格の変動は名目GDPにおける大幅な変動を生じうるからである。過去12か月、被雇用者への保障は1.4%しか増えなかったが、これは名目GDPの7.7%の上昇をはるかに下回る。この類の不一致はアメリカにおいては見られない。それゆえに恐らくオーストラリアは金融引き締めを必要としないのだろう。)

 

追伸 デーヴィッド・ベックワースがNGDPと政策立案者の直面している知識の問題についての新しいポリシーペーパーを書いている。いつもどおり、デーヴィッドはいくつかの良いグラフィックを用いている。

[1]本文では“the Great recession”と表記されている。もちろんこれは1929年に端を発する大恐慌のことではなく、2008年のリーマンショックに端を発する不況のことである。

タイラー・コーエン「ウクライナ: 何が間違っていたか、そしてどう立て直すか」(2015年5月)

[Tyler Cowen, “*Ukraine: What Went Wrong With It and How to Fix It,*” Marginal Revolution, May 22, 2015]

 

これはアンダース・オースランドの新しい本であり、全面的に参考になる。以下は私が学んだいくつかのことである。

 

  1. ウクライナの若者の80%が何らかの高等教育を受ける。
  2. ウクライナのGDPに占める年金支出は2010年頃には約18%で、世界最高水準の年金支出である。そのほとんどは老齢年金であり、寿命は68.5歳と比較的短く、UNDPによるとこれは世界で122番目である。
  3. この本の出版時点で、ウクライナの公的支出はGDPの53%を占める
  4. ウクライナはお金を使い果たしつつある…” オーケー、これは既に知っていることだ。
  5. 平時において1989年から1999年にウクライナがまずくいった以上にまずくいった経済はない。公式な統計によれば、10年間で、ウクライナのGDPは合計で61%急落した。しかしながら、このいくらかは闇市場の成長によって相殺された。
  6. ドンバス[1]は含まれているけれども、クリミアはもはやウクライナのGDPの公式統計に含まれていない

 

[1] 訳者注: ドンバスとは、ウクライナ東部の地域であり、「ドネツク人民共和国」や「ルガンスク人民共和国」を名乗る勢力が分離独立を主張している。

ラヴィ・カンブール「グンナー・ミュルダールと『アジアのドラマ』の文脈」

Ravi Kanbur “Gunnar Myrdal and “Asian Drama” in context“, VoxEU, 09 March 2018

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマ』は50年前に出版された。一見すると、経済的に停滞したアジアの現実という観点から見れば、本書には近代の開発経済学者に提供しうるものはほとんどないように思われる。しかし、このコラムでは、ミュルダールが提起した問題は開発にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるということを主張したい。

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマーー諸国民の貧困の一研究』は50年前に出版された(Myrdal 1968)この本の序文は“HABENT SUA FATA LIBELLI(本にはそれら自身の運命がある)”というラテン語のフレーズで始まっており、これには例外がない。この本は非常に時間を経ており、そして経済的に停滞したアジアの現実という観点で見ているが、これはいまや明らかに時代遅れである。それゆえに一見すると、本書には近代の開発学者に提供しうるものが少ないように思われる。それでも、本書とミュルダールは、共鳴し続けており、われわれが無視している問題を、開発経済学および経済学全般の貧困に導入し、強調したと主張することができる。

グンナー・ミュルダールは1974年にノーベル経済学賞を受賞した[1]。しかし彼はそれ以前にいくつかの生涯の業績を達成している。彼はスウェーデンの伝統の影響を受けた優れた経済学者であり[2]、因習打破主義者となり経済学の方法論的な基礎に疑問を呈し、のちにケインズの一般理論においてみられるマクロ経済学に関する洞察力(スウェーデン語で出版されている)を持つストックホルム学派の創設者であり、スウェーデンの福祉国家の知的および政治的な創設者の一人であり、アメリカにおける人種差別待遇廃止の基礎としての役割を果たした、記念碑的な『アメリカのジレンマ――黒人問題と現代の民主主義』(Myrdal 1944)の著者であった。第二次世界大戦後は、彼は国連欧州経済委員会の長として鉄のカーテンを超えて経済と政治の関係に取り組み、そしてもちろん1968年の3巻におよぶ『アジアのドラマ』の著者であった。しかし『アジアのドラマ』は決して彼の最後の仕事ではない。彼はその最高傑作の出版ののち20年生き、晩年に健康状態が悪化するまで、十分に経済発展についての議論に関わった。実際、彼のノーベル賞受賞スピーチ(Myrdal 1975)はほとんどが経済発展の話題についてであった。

 

ミュルダールの最高傑作

グンナー・ミュルダールは出版の10年以上前の1957年にアジアのドラマに関する仕事を始めた。その時の世界の見方は、彼が1957年に書いたものによく表れている。

  • “…非常に豊かな少数の国のグループと、はるかにより多くの非常に貧しい国のグループがある。前者のグループに含まれる国は全体的に、継続的な経済発展のパターンがしっかりと定着している。それに対して、後者のグループでは、平均所得水準が懸念される限り、多くの国々が停滞やさらには地位の低下から脱出できないという絶え間ない危険にさらされているおり、発展が遅い。そしてそれゆえに、全体として、ここ数十年、先進国と発展途上国の間の経済格差は増大してきている。”

中国やインドやベトナムやその他の多くの国の爆発的な成長に伴って、最近四半世紀のアジアの発展の現実に関して最も食い違っているのは、半世紀以上前のこのフレーミングである。アジアのドラマは主には南アジアに焦点を当てているものの、この本では中国やその他のアジアの国もしばしば同様に描かれている[3]。当時のほとんどの他の人と一緒で、ミュルダールもインドや中国の経済が半世紀と少しの間にアメリカ経済の規模のライバルになるだろうとは予測しなかったのである。

 

21世紀における開発の言説との関係

しかしながら、21世紀の開発に関する言説には、『アジアのドラマ』とアジアのドラマ前後のミュルダールの強い痕跡が見られる。なぜなら、ミュルダールが彼の生涯およびアジアのドラマを通して提起した問題は、発展にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるからである。ここに、そうした3つのテーマを挙げる。

これらの第一のものは分析における価値の役割である。ミュルダールは、経済学は価値判断を前提としている[4]と主張し、1930年代に最初に主張してからは決して意見を変える[5]ことはなかった。彼はこのことについては19世紀から活発な議論がなされているが、自然科学に匹敵する地位を達成しようと、彼の時代の経済学は経済学自体を、価値観を含まないものとして描写することを試みていたと主張した。しかし経済学の本質を考慮すると、このことは明らかに当てはまらず、また不可能でもある。価値観を含まないふりをするよりはむしろ、彼は価値観を明確にするべきだと提案し、彼の提案を『アジアのドラマ』の中で非常に徹底的に実行した。

『アジアのドラマ』に関する研究から現れる第二のテーマは、グンナー・ミュルダールの生涯の業績の相対的なコンテクストは、社会を理解するためはおろか、経済それ自体を理解するためにも狭い経済学の原則を超えることが必要だということであった。業績をとおして、ミュルダールは経済学の中心的な信条を健全に尊重し続けた。実際、『アジアのドラマ』に関するレビューの中にはこの点に非常に注意しているものもある。しかし、彼の主要な主張は、経済的な事実を説明しようと試みるときや経済政策の処方箋を作るときに、社会的、文化的、政治的なコンテクストを十分に理解することの必要性であった。このことは支配層のエリートの役割や、彼が「軟性国家」[6]とよぶところの政策形成と政策実施の間の違いに関する議論の中でやり通されている。

しかし支配エリートや腐敗、軟性国家は『アジアのドラマ』とミュルダールの生涯の業績において私が第三のテーマだと考えるものを前面に持ち出す。これは、国家と市場との間のバランスを発見するための絶え間ない努力である。その努力は、公の知恵によって導かれるべき国家と、可能な限り干渉を最小限に抑えて、個々の裁量に任せなければならないものとしてエドマンド・バーク(1795)によって立派に表現されている。

私は、これが実質的に政治経済学の永遠の問いであるとカンブール(2016)において主張した。ケインズ(1926)は、同様に有名な自由放任主義批判の中でこれに言及した。明白な市場破綻に直面した介入主義的スタンスと、政府の失敗の実現に対する撤退との間のシーソー、そしてそのバランスが崩れたところは、開発援助および開発不足の罠から脱出する方法としての計画の不足と、エリートと軟性国家に人質を与える罠としての計画それ自体の間で常に揺れ動いていることに関する、グンナー・ミュルダールの彼自身および彼の考え方のサイクルに伴う具体的な努力とにおいて見られる。

 

過去半世紀で、開発に関する視点は劇的に変化してきた。しかし、ここで議論された三つのテーマを含む基本的な緊張は未だにわれわれとともにある。いまとなっては過去50年間でコンテクストが変化したにもかかわらず、それらは過去10年間の全てではないにしてもほとんどの「全体像」や「概観」の本において、何らかの形で見つかるだろう。これらの緊張とのミュルダールの努力は、21世紀の開発の言説に対する彼の究極的な遺産である。

 

参照

Barber, W J (2008), Gunnar Myrdal, Palgrave Macmillan.

Burke, E (1795), “Thoughts and Details on Scarcity. Originally Presented to The Right Hon. William Pitt, in the Month of November”, published in F Canavan (ed.), Select Works of Edmund Burke, Liberty Fund (1990).

Kanbur, R (2016), “The End of Laissez Faire, The End of History and The Structure of Scientific Revolutions”, Challenge 59(1): 35-46.

Kanbur, R (2017), “Gunnar Myrdal and Asian Drama in Context”, CEPR Discussion Paper No. 12590.

Keynes, J M (1926), “The End of Laissez-Faire”, in The Collected Writings of John Maynard Keynes, Volume IX, Essays in Persuasion, Royal Economic Society, Palgrave MacMillan (1972).

Myrdal, G (1944), An American Dilemma: The Negro Problem and Modern Democracy:  Volumes I and II, Harper and Row

Myrdal, G (1954), The Political Element in the Development of Economic Theory, Harvard University Press.

Myrdal, G (1957), Economic Theory and Underdeveloped Regions, Harper and Row.

Myrdal, G (1968), Asian Drama: An Inquiry into the Poverty of Nations (Volumes, I, II and III), A Twentieth Century Fund Study, Pantheon.

Myrdal, G (1975), “The Equality Issue in World Development”, 1974 Nobel Lecture.

Rosen, G (1968), “Review of ‘Asian Drama’”, American Economic Review 58(5): 1397-1401.

 

脚注

[1] 彼は「貨幣理論および経済変動理論に関する先駆的業績と、経済現象・社会現象・組織現象の相互依存関係に関する鋭い分析を称えて」フリードリヒ・ハイエクとノーベル経済学賞を分け合った。多くの人は、自由市場の象徴であるハイエクが社会民主的な干渉主義の擁護者であるミュルダールとペアになるのは奇妙で皮肉だと考えた。

[2] 話の通り、彼は法律を専攻として卒業したが法律に幻滅した。彼の妻であるアルバ・ミュルダール(彼女自身が象徴的な人物でありのちのノーベル平和賞受賞者である)は、彼にグスタフ・カッセルの Theoretische Sozialokonomie(邦題; 『社会経済の理論』)を買ったところ、彼は経済学に没入し、発刊された1899年以降のEkonomisk tidskriftというスウェーデンの経済ジャーナルのすべての号を読みとおした。 (Barber 2008 および Kanbur 2017 を参照せよ)。

[3] 彼は例えば、現代史における最も壮大な貧困削減のためこんにちでは確実に信じられない、『貧困に苦しむ中国』(Myrdal 1968:11)の記述を参照している。

[4] Myrdal (1954).

[5] waverの原義は「揺れる」や「迷う」であるが、「(気持ちが)揺れなかった」という意味から「意見を変えることはなかった」と訳した。

[6] 「軟性国家(原文: Soft state)」とは、ミュルダールが独自に用いた用語であり、法律制度に欠陥があるなどの理由により、法が遵守されず、行政に不正や汚職が蔓延している国家のことを指す。

タイラー・コーエン「テック産業では、われわれはわれわれが制御できないことを恐れる」

[Tyler Cowen, “In tech, we fear what we can’t control” Marginal Revolution, March 21, 2018]

当記事は私のブルームバーグのコラムの話題であり、これはその記事の一部である。

ドローンと同様、自動運転車[1]は、特に強力な恐ろしいいくつかの特徴を持っている。それらは新しくて心躍る技術であり、そしてそれゆえにそれらについての話はよく検索されている。われわれは実際にはどの程度それらが安全なのかを知らないので、人々は、リスクの特定のレベルが何であれ、その不確実性によってそれ以上に怯えるのである。とりわけ、定義上、自動運転車は人間が直接的に制御していないように感じるものを含む。それは空を飛ぶことはふつう、車を運転することより安全であるにもかかわらず、多くの人々が車を運転するときに比べて空を飛ぶときにより重大な危険を感じるのに似ている。自動運転車は運転者の制御に関する多くの問題を提起している。その問題とはすなわち、後部座席で眠っていても構わないか、あるいは運転に常に注意しておかなくてはならないのかということである。そのことは、われわれの精神および感情を制御の問題により一層集中させる。

そして、

最近のFacebookやケンブリッジ・アナリティカをめぐる騒動は幾分似た問題を反映している(これこれを参照せよ)。アメリカ人のほとんどであれば、この件に関して何が間違っていたのかを明確かつ正確に表現できるであろうか。おそらくそうではないだろう。しかし人々は、SNSや個人的なデータやアルゴリズムのこととなると、彼らは明らかに制御できていないと感じていることを確実に知っている。その出来事および法的責任の不明確さが実際のところ問題の一部となっているのだ。

情報技術の世界に関する新たな話や批判を目にするとき、私はもはやテック企業が人気があるかを問わない(彼らが行なっているので)。その代わりに私は投票者が、北朝鮮の核兵器や常軌を逸したアメリカの大統領やどこにでもあるアルゴリズムを伴った世界が制御されていると感じているかを疑問に思う。彼らはその投票を行なっていない。なぜ、完全雇用のときに、ロボットがわれわれをみな失業者にしてしまうという記事が非常に人気なのかと疑問に思ったことはないだろうか。

われわれはまさに私が”制御している感覚の再確立”とよぶところの、アメリカ社会のための新しいメタ・ナラティブに突入しようとしている。残念なことに、実際の制御よりむしろ制御しているという感覚を追求するとき、しばしば両方とも手に入っていないのだ。

全てお読みいただきたい。

[1] 原文では”driverless car”であり「無人運転車」とでも訳すべきなのだろうが、「自動運転車」という用語が最も定着していると思われる。本稿においてもこの訳語を用いることとした。