アダム・トゥーズ「ガザ地区は『脱開発』から『使い捨て』と『破壊』の地へとなった」(2023年10月15日)

ガザとそこに住まう住民は、なぜここまで孤立し、完全に物のように扱われているのだろう?

イスラエルは、ハマスへの大規模な報復行為を準備するにあたって、ガザ地区北部の住民に避難指示を出した。これはつまるところ、イスラエル国防軍による、100万人に向けての差し迫る破壊の通告である。イスラエル国防軍がこうした指示を出したのは、民間人の犠牲を最小限に抑えたいと考えているからだ。この〔ガザ地区北部から脱出する〕多量の人はどこに行けばいいのか? どうやって自活すればいいのか? といった現実的で人道的な問題とは別に、以下のような問題を直視せねばならないだろう。こうした指示を出される、ガザ地区とはどうのような場所なのか? 200万人以上の住人を抱えるこの領土は、なぜこのように処分されるのか? 都市の破壊だけを目的にするような冷酷な軍事作戦の論理に反発する強力な土地所有者がいないのはなぜなのか? ガザとそこに住まう住民は、なぜここまで孤立し、完全に物のように扱われているのか?

**

ガザは昔から今のような状態だったわけではない。ガザは東地中海に面した好位置にあり、5000年以上前から人類が定住する場所だった。アフリカとアジアを往来する旅行者や商人の自発的な中継地点であり、旧約聖書でも大きく扱われている。ガザは、海岸平野に沿った5つの都市から形成されていたペリシテ同盟の一都市だった。ガザには、ダビデ王とアレクサンダー大王も訪れている。1516年にオスマン帝国の支配下に入り、第一次世界大戦でのパレスチナ支配を巡る戦いの主戦場となり、三度にわたる大規模な戦闘の末、1917年にようやくイギリス軍が占領に成功した。

イギリスの委任統治下のガザでは、1929年に〔パレスチナ人による〕暴動〔嘆きの壁事件〕が起こり、この間に、都市内の小規模ながらも古くから続いてきたユダヤ人コミュニティは、虐殺の危険性から〔イギリスによって〕テルアビブに避難させられた。1948年、イギリス軍の撤退に伴い、〔第一次中東戦争で〕エジプト軍がガザを含む周辺の沿岸部を占領した。当時のガザ地区の人口は、4つの小さな町――ガザ、デイル・アル・バラ、ハーンユーニス、ラファに住む約8万人のパレスチナ人からなっていた。〔エジプトの占領後〕数週間のうちに、この小さな細長い土地は、ハガナー〔訳注:イスラエル国軍の元になったユダヤ人の義勇軍〕の民族浄化に直面したパレスチナ南部の村や町から逃れてきた15万人以上のパレスチナ人難民の避難場所となった。結果、ガザ地区の人口は3倍に増え、現在のような過密状態の難民避難場所となった。

1948年以降、国連は、ガザだけでなく、ヨルダン、レバノン、シリア、ヨルダン川西岸の難民を支援するUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)という機関を設立した。その後20年間、エジプトの統治下にあったガザの住民は、仕事や教育のためにエジプトに行くことができている。

その後、1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルは、シナイ半島とヨルダン川西岸への支配の拡大を開始した。1967年にイスラエルがガザで行った最初の国勢調査では、ガザの人口は394,000人で、そのうちで少なくとも60%が難民だった。イスラエルはこの占領地域を幅広く統治するために、〔イスラエル国防相〕モシェ・ダヤンによって「オープン・ブリッジ政策」が実施された。軍の駐屯を最小限とし、ガザとヨルダン川西岸地区を可能な限りイスラエル経済に統合したのだ。1981年、ガザとエジプトとの間に初めて正式な国境が引かれ、地区の南部にあるエジプトとの国境の町ラファには検問所が設置された。一方、ガザの労働者は〔パレスチナ自治区より〕はるかに高い賃金に惹かれて、約45%がイスラエルで雇用されるようになった。

結果、イスラエル経済との関係性のダイナミズムから、ガザの所得は大幅に増加した。しかし、サラ・ロイが「脱発展」という言葉を生み出したのもこの時期だ。1987年にロイが指摘したように、ガザでは所得は上昇する一方で、発展はしなかった。実際、ガザは、組織的に脱発展させられていった。パレスチナ人労働者は、イスラエルで低賃金労働に従事させられ、パレスチナ人自身によるビジネス部門や、地主や資産所有者の地位に基づいての利益は得られなかった。1970年から1985年にかけて、ヨルダン川西岸とガザ地区でのGDPは増加したが、パレスチナ経済の総雇用は停滞した。パレスチナ自治区では実質所得が急増する一方、生産は停滞し、イスラエルとの貿易赤字は拡大した。

この極めて不均衡な交流には、不満と憤りが渦巻いていた。イスラエル国内の労働市場は、強力な労働組合が存在し、労働者は強い権利を持ち、厳しく規制されていたのに対し、パレスチナ人労働者は好きに雇用・解雇できる労働調整弁として機能していた。パレスチナ人労働者への差別・低賃金状況は、1980年代初頭のイスラエルの経済危機によって深刻化の一途を辿り、この影響は下層階級だったパレスチナ人に最も重くのしかかった。1987年、こうした憤りは第一次インティファーダで暴発した。

1987年12月、ガザ地区のシャバリヤ難民キャンプでパレスチナ人労働者を乗せた車両がイスラエルのトラックにはねられ、4人が死亡した。それに続く抗議活動とイスラエル軍との衝突の渦中から、パレスチナとイスラエルの関係を不可逆的に変えることになる新しい闘争のうねりが生じた。パレスチナ人労働者が民族主義的なストライキによってイスラエルでの労働をボイコットしたため、1990年代のイスラエルは組織的に域外からの外国人労働者の呼び込みを拡大した。イスラエルでのパレスチナ人以外の外国人労働者は1993年には2,000人だったが、ルーマニア、タイ、フィリピン等の労働局からの調達によって1996年には10万人にまで増えている。ガザは不必要となった。

一方、パレスチナ自治区では新たなる反抗勢力が出現した。ハマスである。ハマスは1987年末にエジプトのムスリム同胞団と関係があるガザの活動家らによって結成され、1988年初頭には「ハマス」と名乗るようになった。ハマスは数十年にわたって、パレスチナ側に立って戦闘・交渉を行い、1980年代後半には和平を模索していたパレスチナ解放機構(PLO)に反対し、イスラエルの破壊とイスラム国家の樹立という大義に身を投じることになる。

PLOがオスロ合意を交渉する渦中で、過激派は和平の頓挫を意図して爆破テロや攻撃活動を激化させた。これに対し、イスラエルはガザへの厳しい管理を強めた。その結果、奇妙な一連のコントラストが生まれた。1994年、シモン・ペレスによる「新しい中東」というビジョンの下、イスラエルとパレスチナはパリ経済協定を交渉し、統合と収束を約束した。しかし、同時にイスラエルは治安対策として、ガザ地区の外部世界からの封鎖を繰り返し実施した。パリ経済協定が締結された1994年、イスラエルはガザ地区を囲む金網フェンスの最初の建設を開始した。

2000年、第二次インティファーダでは自爆攻撃と銃撃、さらにイスラエル側の大規模な報復を伴い、ガザ地区の封鎖は強化された。ガザ地区の領域全体を高い壁が取り囲むことになった。1998年には、パレスチナにイスラエルやエジプトに支配されていない広い地域へのアクセスをもたらすはずだとされたガザ国際空港(ヤーセル・アラファト国際空港)が開港した。2001年の9.11のテロの数カ月後、イスラエルはガザ国際空港のレーザーアンテナを破壊し、滑走路を爆撃した。ガザ経済の柱となっていた漁港は、武器の密輸を防ぐためにイスラエル海軍に封鎖された。

しかし、ガザの完全な孤立はこれ以降となる。

2005年、アリエル・シャロン政権下のイスラエル政府は、ガザ地区から強制的に撤退し、ユダヤ人武装勢力がガザ地区に建設した入植地を取り壊した。そして2006年、ハマスはガザ地区の選挙で劇的な勝利を収め、残忍な内戦の後、2007年にファタハをガザ地区から追放した。これに対して、イスラエル政府は、ガザ地区を「敵対的領土」と宣言し、完全な包囲下に置いた。包囲後の最初の3年間で、ガザ地区から外に出ることを許された商用トラックは259台にすぎず、事実上ガザの輸出産業は麻痺することになった。

結果、ガザ地区は物理的に孤立しただけでなく、ガザ地区とヨルダン川西岸地区で、根本的に異なる経済発展を辿ることになる。

出典:IMF

ヨルダン川西岸地区はイスラエルに依存する形での経済成長(ロイのいうところの脱開発)を続けているが、ガザ地区の経済は1990年以降ほとんど成長しておらず、2006年にハマスが政権を握ってからは全く成長していない。人口増加を考慮すると、ガザの一人当たりのGDPは、1990年半ばの半分であり、これはヨルダン川西岸地区が到達した水準の1/3となる。ガザの貧困率は50%を超えているのに対して、ヨルダン川西岸地区では14%だ。現在の紛争直前の失業率は40~50%の間で推移している。

**

ガザの人々は、こうした絶望的な状況に置かれたことで、臨機応変的な間に合わせ対応を行った。ガザにおける、生存と繁栄のための闘いにおいて最も目立った局面が到来したのだ。「トンネル経済」時代である。

今の我々が、ガザのトンネルと聞いて思い起こすのは、主に軍事的なものであり、他には人質を拘束するための場所としてだろう。しかし、ガザのトンネル・システムは、何よるもまずエジプトへの通路の確保と、経済的な生存手段として始まった。

2012年に『パレスチナ研究』誌に掲載された、ニコラス・ペラムによるトンネル経済の出現についての論説は、長くなるが引用する価値がある。

2007年、ハマスがガザの商業地区を軍事占領したことが、トンネル貿易の転機となった。これによって、すでに行われていたイスラエルによる封鎖は強化された。エジプトは〔ガザ地区と繋がる町〕ラファ検問所を閉鎖した。イスラエルはガザを「敵対的存在」と指定し、2007年11月に国境地域へのロケット弾攻撃を行った後、食料供給を半減させ、燃料の輸送も断った。2008年1月、ハマスによるスデロットへのロケット弾の攻撃が行われた後、イスラエルは燃料の全面封鎖を発表し、7品目を除く全ての人道的支援物資の運び込みを禁止した。ガザへのガソリン供給が途絶えると、住民は道端に車を捨て、ロバを購入した。ハマス支配への脅迫を目的とし、海上ではイスラエルによる封鎖、陸上ではエジプト・イスラエル共同による封鎖が敷かれ、ガザへの人道危機が差し迫ることとなった。イスラム支持者たちはこの抑圧を打ち破ろうと、エジプトと繋がっているウィークポイントを標的に選んだ。2008年1月、ハマスの軍事勢力部門は、ラファのエジプトとの交差路になっている壁の一部をブルドーザーで破壊し、何十万人ものパレスチナ人がシナイ半島に流出できるようになった。長期にわたって抑え込まれていた消費者需要は開放されたが、その措置は短期的な救済にしかなからなかった。11日とたたずに、エジプト軍はパレスチナ人を押し戻すことに成功した。エジプトはその後、施錠された〔ラファ検問所の〕扉を守るための軍隊を増強し、要塞化された国境の壁を築いた。ガザへの包囲が強まるにつれ、ガザでの製造業の雇用者数は、2008年半ばには35,00人から、860人に激減し、ガザの国内総生産(GDP)は、2005年の水準から、実質で1/3に落ち込んだ(同時期のヨルダン川西岸ではGDPは42%増えている)※6。 地上からのアクセスが遮断される中、イスラム主義者は運動として、地下に穴を採掘する産業プログラムの監督を行うようになった。トンネルを一つ建設するには8万ドルから20万ドルかかるため、モスクや〔パレスチナへの〕慈善ネットワークは、非現実的な事業を推進し、ネズミ講的宣伝を行ったが、これは大失敗に終わった。〔トンネル建設の〕提唱者らは、営利目的のトンネル事業を「抵抗」活動を褒め称え、作業中に殺害された労働者を「殉教者」と称えた。ハマスは、パレスチナ自治政府軍(PS)として、国家治安部隊(NSD)を再編したが、構成員は主にイズ・アル・ディーン・アルカッサム旅団(IBQ)から成っており、数百人に(ファタハの)パレスチナ自治政府軍からの脱走兵も加わっていた。国家治安部隊(NSD)は、国境を警備し、時にはエジプト軍と銃撃戦を繰り広げた。一方で、ハマス政権は、〔インフラ〕建設活動も監督している。ハマスが運営するラファ自治体は、何百台もの巻き上げ機に向けて送電網を整備し、ガザでは消防サービスを保持し、トンネルに燃料を送り込んだ際に生じた火災の消火活動を行った。ハマス政治局のガザ地区を統括しているマフムード・アル・ザハールは、「電気も水も食料も外から来なくなったのでトンネルを作らなければならなかった」と語っている。ハマスのメンバーを含む民間投資家らは、モスクのネットワークや、国境を超えた家族との連帯からなる資金調達網を立ち上げた。弁護士らは、商業用トンネルを建設・運営する契約書を起草した。〔トンネル建設の〕契約書には、パートナーの人数(一般には4~15人)、株式の価値、株主利益を分配する仕組みなどが詳細に記されていた。〔一つの〕トンネルを建設する際の典型的なパートナーシップは、ガザの社会的横断性の反映となっており、例えば、ラファの陸路交差点の運搬員、急パレスチナ政府の治安担当者、農業労働者、大卒者、非政府組織(NGO)職員、採掘業者などからなっていた。アブ・アフマドは、タクシー運転手として1日30~70イスラエル・シュケルの収入を得ていたが、2万ドル相当の妻の宝石を投資資金にして、他の9人と組んでトンネルベンチャーを立ち上げている。トンネルに投資した者は、すぐに元手を取り返すことができた。トンネルが完全に稼働すれば、1ヶ月で建設費を回収できたからだ。各トンネルは国境の両側で共同経営され、ガザとエジプトのトンネル所有者は一般的に収益を均等に分配した。(…)2008年12月の「キャスト・レッド」作戦の前夜までには、トンネルの数は2005年半ばの政治色の強い数十本トンネルから、少なくとも500本にまで増加している。トンネル貿易の収入は、2005年の年の月平均での平均3000万ドルから、3600万ドルに増加した。ハマスへの国際的なボイコットからのガザ経済の急激な縮小もある程度緩和された。

ハマスは、トンネル委員会を設置し、トンネル取引を規制するようになった。この委員会は、手数料を徴収し、警備を組織し、取引する商品の種類を規制した。『パレスチナの政治経済』(2021)に収録された一連の優れた論考の中で、タニラは以下のように書いている。

ハマスによる信託統治下では、小規模な事業者たちは、商品や生活必需品の物流を可能とする、中高度のトンネルの建設に資本を投資することが許された。トンネル労働者(トンネル採掘の責任者)も、各トンネルを通じて生み出される収益に具体的な割り当てを持つ形で、トンネルの所有権の一部を有している。同時に、ハマスもトンネルの収益の25~40%を懐に入れた(…)。貿易業者たちは、エジプトからの密輸品が非常に安いことから恩恵を得ている。(…)商品は、イスラエル国内での課税済みの商品価格と同額で地元の市場で販売されたからだ。(…)それゆえ、新規参入した貿易業者は大きな利益を上げる事が可能となった。(…)安全保障上の高いリスクと、その配慮の関係から(…)ハマスが〔貿易に〕関与することを許可したのは、審査した少数の貿易業者だけだった(…)。

2010年初頭の最盛期には、ハマスはトンネル・システムから年間7億5,000万ドルの収益を得ていた可能性が高い。重要なのは、2008年から2009年にかけてのイスラエルとの悲惨な衝突の後、ガザでの住宅の建設や再建に必要だった建設資材の調達を、トンネルシステムによって可能としたことだ。UNCTAD(国連貿易開発会議)は以下のように報告している。

(…)2007年から2013年の間に、ガザとエジプトの間にあった12kmの国境の下には1,532本の地下トンネルが走っていた。(…)トンネル貿易の規模は、公式ルートを経由した規模より巨額だった(世界銀行, 2014a)。国連人間居住計画によると、イスラエルによって搬入が許された資材の量では、2008年12月と2009年1月の軍事作戦で破壊されたガザの6,000戸の住宅の再建には、80年かかるとされた。しかし、トンネルを通じた巨大な輸入量によって、この期間は5年に短縮された(Pelham, 2011)。同様に、ガザの発電量は、2013年6月にはエジプトからトンネルを経由して持ちこまれたディーゼル燃料(1日100万)によって稼働していた(OCHA, 2013)。※5

エジプトでは、圧政を強いていたムバラク政権がアラブの春で打倒され、ムスリム同胞団がカイロを支配したことで、トンネル経済は2011年から2013年にかけてピークに達した。物資がガザに流入し、建設部門が活況を呈する中、ガザの一人当たりのGDPは2008年の最低水準から回復する。しかし、その後に、二重の災難が襲った。

2013年、エジプトでは軍が権力を掌握し、ハマスの盟友〔ムスリム同胞団〕を打倒した。翌年の2014年には、イスラエスがハマスに対して50日間の戦争を開始した。結果、完全な荒廃をもたらした。ガザ地区は数万発の砲弾と爆弾によって壊滅的な砲撃を受けただけでなく、イスラエルとエジプトの共同作戦によってトンネル・システムは閉鎖された。

2015年5月には、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)からの食料配給だけを頼りとするパレスチナ難民の数は、86万8千人に増加した。これは、ガザ地区の人口の半分、UNRWAへの登録難民の65%に相当する人数だ(UNRWA, 2015b)

ガザ経済が対処を迫られた脅威は、爆撃と孤立だけではなかった。IMFのデータが示しているように、ガザの経済は2014年のショックから〔翌年には〕立ち直ったが、2017年には金融危機に見舞われ、政府支出が抑制された。タニラはこの緊縮財政の悲惨なエスカレーションを以下のようにまとめている。

・ガザ地区の政府(公共)支出は減少を続け、2016年の9億8,500万ドルから、2017年には8億6,000万ドル(12.6%減少)、2018年には8億4,900万ドル、2019年には最終的に7億8,800万ドルとなった。つまり、ガザ地区におけるパレスチナ自治政府の支出は2017年から20%減少したことになる(PCBS 2019)。
・一人当たりGDPは、2016年の1,731ドルから、2017年には1,557ドルに、2018年には1,458ドルに、最終的に2019年には1,417ドルにまで減少した。つまり、2016年と比較して18%の減少である(PCBS 2019)。
・投資総額は、2016年の6億2,300万ドルから、2019年には4億4,000万ドルに減少した。地元投資家は、新規投資の成功の可能性が非常に低いため、新しい投資活動に従事する能力を喪失している(PCBS 2019)。
・2017年のハマスとファタハの和解合意が履行されなかった後に、ガザ地区では、ハマス政府による徴税が強化された。
・電力危機は継続し、民間部門では追加のコストが派生し、生産と運用におけるコストは増加した。
・2018年から始まった国連パレスチナ難民救済事業機関の予算へのアメリカによる支援の停止は、ガザ地区の現金支援受給者の60%以上に影響与えた(UNRWA 2018)。一方、国連世界食糧計画(WFP)は、2017年12月に〔ガザ地区の〕数千もの貧困家庭への支援を縮小した(WFP 2017)。

パレスチナ当局の財政難をさらに深刻にしているのは、イスラエルが1994年のパリ経済協定に基づいて〔パレスチナ側に支払う〕税収を定期的に差し押さえていることだ。

こうした圧力の影響の下、現在の暴力的な暴発の前から、ガザの経済発展について希望を見出すことはますます困難となりつつなる。一人当たりGDPは1,500ドルにまで落ち込んでいる。ガザの失業率は40~50%の間で推移しており、この数値はヨルダン川西岸の約3倍である。

シール・ヒーバーがデータとして示しているように、ガザの賃金はイスラエル/パレスチナの人種ピラミッドの最底辺で停滞している。

1980年代、ロイが「脱開発」という考えを初めて提唱した時、彼女が目的としていたのは、ガザの所得は伸びていても発展していないと主張することにあった。2014年以降、この主張すらも楽観的すぎるように見える。ガザでは経済そのものが消滅したのだ。「天井のない監獄」という言葉は、ほぼ誇張ではない。

ロイのこの金字塔的な著作の2014年の最終版では以下のように書かれている。

彼女は、過去48年間のガザ地区の軌跡とは、イスラエルに経済的に統合され深い依存状態となり、ヨルダン川西岸との領土的結びつきから切り離され、さらにイスラエルからも切り離され、継続的な軍事攻撃にさらされる孤立した使い捨ての飛び地へと再構築されたと主張している。

以上が、冒頭の疑問への解答である。今回、ガザの半分もの人が、単に飛び地の端から端へと移動するように命じられたのだ。これら住民には財産もなく、外部とも繋がりもほとんどない。つまるところ、彼・彼女らは、援助とわずかな密輸品に依存している。ロイが端的に表現したように「孤立して使い捨てられる」存在となってしまった。イスラエル国防軍は、ハマスの戦闘員を殺害し、軍事インフラを破壊することに集中するため、邪魔者を排除しようとしている。なので、住民らが移動する時が来ている。


この件についてのキャメロン・アバディをゲストにした私のポッドキャストはこちらで聞くことができる。

[Adam Tooze,“Chartbook 245: Gaza, beyond de-development to disposability and destruction” Chartbook, 15 October, 2023]
Total
0
Shares
2 comments
  1. 非現実性に高い収益率unrealistically→非現実的な 
    持ち壊れた→持ち込まれた  brought through
    燃料を組み上げる→汲み上げる pump fuel を汲み「上げる」と訳すのもどうかと思いますが

    1. ありがとうございます。またご指摘いただけると幸いです。

コメントを残す

Related Posts