再投稿のまえおき――日本に(また)向かう空の便で,今日はトランジットにいる.そこで,このサブスタック初期に書いた日本関連の記事をひとつ再投稿しよう.移民流入ブームから観光ブームのあいだに,近年,日本はずっと国際的になっている.とくに東京と京都がそうだ.ただ,世の中の人たちが思っているほど日本が同質だったことは一度もない.「日本はなんらかの意味で人種的に純粋で,外国人嫌いで,閉鎖的な国だ」という考えに立脚して日本は同質だと捉える見解は,どれもずいぶんな戯言だ.今回も,そういう考えを抱いている人を見かけても訂正してあげない方がいいかもしれない.ホントのことを知っちゃったら,日本に行きたがる人がさらに増えちゃうかもしれないからね!
それは「同質」の定義しだいだね
もうね,あともう一度でも「日本は同質な社会だ」とか聞かされたら,憤慨するままに一本記事を書いちゃうよ.というか,これがその記事か.
アメリカに暮らしていてなにかの会話の拍子で「同質な社会」なんて言葉を聞くことがあるとしたら,十中八九,それはスカンジナビアか日本のことだ.右派の一部には「日本は人種に混じりっけがない楽園」と思ってる人たちがいるし,左派の一部には「日本は外国人嫌いと鎖国の砦」と思ってる人たちがいる.両者に共通してるのは,「日本にいる人はだいたいみんな日本人で,政府はそれを維持しようと意図している」という考えだ.
「そういう考えって正しいんじゃないの?」 そうだね,ここはひとつ,「ンなわけあるかクソボケどもが! 日本のことをぜんぜんわかっとらんやんけ!」とうっかりぶちまけないようにガマンしておこうかな.実のところ,これはかなり面白くて細やかな話題だからね.ぼくらアメリカ人にとっても,日本人みずからにとっても,その答えは「同質」という言葉の意味に左右される.そして,これは,「自分がどこに帰属してるのか」「国民であるとはどんなことか」「公共政策はどうあるべきか」という興味深い問いにもつながってくる.
さてさて.そういう問いに答える前に,まずは,いくつか事実を確かめておく必要がある.
日本の 98% は日本人なんでしょう?
こういう話題の話でとくによく耳にする統計に,日本は「98%日本人」だというのがある.たしかに,2018年国勢調査の報告書を見ると,人口の 97.8% は「日本人」とある.(ただ,長らく「99%」だったのに比べて下がっている点は留意しておいていい.)
ただ,たいていの人は,ここでいう「日本人」が日本国の市民という意味なのを理解してなさそうだ.これは,人種や民族の数字とはちがうんだ.ここでいう日本人には,日本生まれのマイノリティ人種の市民や,帰化した市民も含まれている.合衆国だと,これに相当する数字は 93.3% だ.
合衆国は「93.3% アメリカ人」だよって聞かされたとして,じゃあ合衆国は同質な国だって結論をキミなら導く? だって,日本に関して「98% 日本人」って統計を引用する人たちは,まさにそういう結論を導いてるわけだよね.
「なるほどね,じゃあ,日本のどれくらいの人たちが民族的な日本人なの?」 まず,ぼくらが「日本人」と何気なく呼んでる民族は,正式には「大和民族」という.そして,日本の人たちの何割が大和民族かっていうと,実のところわかってなかったりする.政府が調べてないからだ.
いや,キミの読み間違いじゃないよ.日本の政府は,わざわざみんなに人種を訊ねたりしてないんだよ.人種の純粋さに執着してる国にしては,不思議な行動だよね? この件については,ちょっとあとで取り上げよう.
ともあれ,たぶん,人々の自認する民族について民間企業が高品質な調査をやっているだろうけど,ぼくの手元にそういう統計はない.ぼくも調べてみるつもりだ.その一方で,いろんな情報源では,大和民族の割合はだいたい 90% ちょっとと書かれている.これはかなり高い割合だ――1950年に「白人」と自認していたアメリカ人の割合とだいたい同じくらいだね.でも,これには先祖が混交してる人たちも含まれてる(記事の冒頭に載せた画像に描かれてるアニメキャラみたいな人たちだね).そして,大和民族じゃない人たちが日本に移住する重要な方法が婚姻なので,大和民族を自認する人たちの子孫にあたる人たちの割合は,おそらく 90% を割り込んでる.
それに,もちろんこういう割合の数字では地域ごとのばらつきが考慮されてない.2018年に,東京都で成人を迎えた人たちの 8人に1人は外国生まれだった.この数字には民族的マイノリティや混血の先祖を持つ人たちは含まれていない.それに加えて,コロナウイルス以前の大規模な観光ブームもあったから,日本の首都はもはやあまり同質に感じられない.
でも,彼らはみんなアジア人だよね?
西洋から日本にやってきた観光客たちは,同質な国だって感じる場合が多い.あたりを見渡せば,目に映る人たちはみんな東アジア人の見た目をしてるからだ.というか,近年,日本に来た観光客たちがそうやって目にしてるのは,中国人だったりする.コロナウイルス以前は,日本のあちこちの都市に中国人たちが押し寄せてた.日本の現地の人たちと〔アジア系〕観光客を見分けられないんだとしたら,東京にやってきてあちこち歩き回ってはあたりを見渡して「うーん,自分の目には,ここの人たちはみんな日本人っぽくみえるなぁ」と言ってる西洋人が,朝鮮・韓国系や中国系やブラジル系の2世や3世などなどの日本人住人たちを見分けられるかっていうと,それは無理そうだよね.
それに,「東アジア人」みたいな人種的なマイノリティ集団のなかでさらに民族による区分があるのに,それらが西洋社会ではまるっとひとくくりにされがちだ.でも,日本ではそういうちがいに存在感があって,注意を向けられやすい.2010年代の前半に,「○○人死ね」というプラカードを掲げながら民族的に韓国・朝鮮系の地域を行進した憎悪扇動集団がいた.彼らには,間違いなく〔韓国・朝鮮系という〕区別が見えていたわけだ.ブラジル系の住人たちは,その大半が日本人の子孫だったりする――アジア人にも何人にも見える――けれど,他とちがう民族として扱われていて,差別を受けることもよくある.などなど.
だから,通りを歩いてる人たちを見て〔人種的・民族的な〕集団の区別がアメリカ人には識別できないとしても,日本の社会ではそういう区別が大きな意味をもっている.つまり,日本の人たちが経験してる民族的な多様性は,外から日本にやってきた人たちが認識する以上に大きい.
「一国家,一文明,一言語,一文化,一民族」
2005年,当時外務相だった麻生太郎がこう発言した――日本は「一国家,一文明,一言語,一文化,一民族」の国だ.こういう表現を使った政治家は,べつに彼がはじめてだったわけじゃない.
さっきのデータをふまえると,事実を述べようとした発言というよりも人々を鼓舞しようとした発言なのは明らかだ――つまり,自分たちの国をそういう風に考えるよう日本の人たちに呼びかける発言だった.これは,多様性から同質性をつくりだしたいという欲求だった.〔国外から日本に移り住んだ人々やその子孫が〕同じ文化や同じ言語を身につけて同化し,自分は日本の国民だと自認するようになっていくことで同質性をつくりだすことを希求する発言だった.
実のところ,同質性に向かおうとするこの欲求は,国籍のレベルだけで機能しているわけではなく,自分がどの民族に属していると考えるかって観点でも機能している.長らく先祖代々にわたってアメリカに暮らしてきた家系のアメリカ人の多くは,自分を「白人」だと自認している.それと同じように,長らく代々に渡って日本に暮らしてきた人たちも,自分を「大和民族」だと自認している.アメリカ以上に日本では人種や国籍がいっそうややこしく絡み合っている.総じて,韓国・朝鮮系やブラジル系などなど,現存するいろんなマイノリティ集団は,言語や身体的なちがいではなく市民権にもとづいて排除されている.日本の市民権は出生地主義ではない.だから,日本生まれ日本育ちで日本語以外の言語を話さない人たちのなかにも,外国のパスポートを所持している人は多い.
こういう事情で,時間経過とともに日本は同質に向かいがちとなっている.日本でいちばん大きくいちばん存在感の大きいマイノリティである在日朝鮮人は,異民族間の結婚や帰化によって着実に日本人になってきている.
もちろん,この点で見た目による区別は重要でなくなる.たとえば孫正義みたいな風貌の人が自分は「日本人」だと言ったら,それを事実として受け入れるのはごくかんたんだ.というか,孫正義はれっきとした日本の市民だ.世間の多くの人たちが彼を韓国・朝鮮系のマイノリティだと思っている理由はただひとつ,メディアが彼の家系を調べて報道したために広く知れ渡ってるからに他ならない.
他方で,宮本エリアナみたいな人たちを「日本人」だと孫正義にくらべてずっと受け入れにくく感じる日本人もいる.実際,宮本が2015年にミスユニバース日本代表に選ばれたときには,猛烈な人種差別的反発が起きて,他の日本人たちが彼女の擁護に回る顛末もあった.
つまり,見た目が〔従来の典型的な日本人と〕異なる日本国籍の持ち主たちが台頭してきたことで,他の豊かな国々が対応中の外見・人種・アイデンティティ・国籍に関わるいろんな問題に,日本もまた格闘しなくてはならなくなってきているんだ.そういう問題と困難を深掘りして取材したものとしては,2013年のドキュメンタリー『ハーフ』をおすすめする.心強い点を挙げると,人種的な排除はいまのところ日本で論争に負けつつあるように思える.混血の日本人として2人目のミスユニバース日本代表に吉川プリアンカが選ばれたときに起きた反発は,前回にくらべてはるかに小さかった点に,その傾向ははっきりと表れている.
文化的に同質であろうとして苦闘するふつうの国
日本は,混じりけのないひとつの人種が暮らす島じゃない.逆に,移民の流入・多様性・マイノリティの権利・人種差別・国籍に関わるあれこれのごくふつうの問題に対応中の,ごくふつうの豊かな国だ.そうした論争の多くは,ヨーロッパやアメリカで交わされている論争と似通って見える.たとえば,マイノリティいじめをとりあげた広告をナイキが日本で流したときには賛否が分かれた.
こうした分野での日本の独自性は,比較的に小さい.移民受け入れの流れに日本は乗り遅れたけれど,2013年に安倍晋三首相の下で,ついにその間口を広げた:
日本がナショナリズムと同化で〔日本人の〕同質性を断固として追求しているのは,とりたてて異例なものでもない――同質性の追求に関しては,デンマークやフランスの厳格さに比べてずっと穏やかだし,20世紀前半のアメリカより穏やかですらある.民族・人種の多様性に関する統計の収集をあくまで拒んでいるのは,異例だ(追記: 実はフランスも同じだったよ!) ただ,統計をとっている関係省庁に多様性を無視させるだけでしだいに同質度が高まるものなのかどうかは,まだわからない.
日本の指導者たちが今後も同質性を追求し続けるのか,なんらかのかたちで多文化併存を歓迎するのかは,今後明らかにされるべき問いだ.それに,今後どういう人たちをマイノリティと日本の人たちが考えるのかも,どういう人が日本の人種・国民に該当すると将来かんがえられるようになるかも,定かでない.ただ,ひとつはっきりしているのは,こういう尺度で日本は多くの西洋人たちが思っているよりもずっと異例でないという点だ.
[Noah Smith, “How homogeneous is Japan really? (repost),” Noahpinion,August 1, 2023; Translation by optical_frog]