“Is debt a burden on future generation? It depends” by Noah Smith from Noaphinion
政府債務って次世代への負担になるんだろうか?PaulKrugmanは違うと言ってるし、NickRoweによると正しいんだそうな。私は二人が別の話題について話してるんだと思う。
Krugmanはこうだ。「2012年に目が覚めたら、9兆ドルの政府債務があったとしよう。これって債務が全くないことよりマズいのだろうか?さて、すべての債務は国内債務だとしよう(返済するのに外国人のために働かなくてもいいからね)、次にデフォルトはしないとする(経済が崩壊するから)。そうすると『ノー、問題はない』という答えになる。債権者の中には儲ける人もいるだろうし、そうじゃない人もいるだろう。でも全体を見るとプラマイゼロになるはずだ。」
Nick Roweはこうだー「2012年から考え初めて、次の十年間債務を積み重ねていったとする。2042年に生きる僕らの子孫は、政府債務がゼロな場合と比べて不幸になるんだろうか?『イエス』が答えだ。」 Roweはどうしてそうなるかを「世代重複」モデルを使って説明している。このモデルでは全ての財が劣化しやすく、債務はGDPより早く成長するとする。だとすると、政府は高齢世代が追加消費できるように借金をする。で、若年世代に増税をして借金を返すらしい。そうすると・・・あら不思議!若者に負担を丸投げしちゃったぞ!
でも、Roweのモデルにはちょっと面白い所がある。政府は借金してそれを若者に肩代わりさせなくてもいい。借金をせずに若年層に増税して、課税収入を高齢者にあげても結果は同じだ(若者から多額の出資金を集める社会保障システム、と言える)。Roweのモデルだと、政府債務は若者から高齢者にいくら消費が移転できたかトラックするための会計システムに過ぎない。だけど債務そのものは大した問題じゃない、消費の移転が問題なんだ。
私はRoweの意見は政府債務の現実について大事なことを言ってると思う。借金の問題じゃなくて、異時点間選択(訳注:Wiki参照)の問題なんだ。いくら借金を重ねるかじゃなくて、未来にする消費を現在に動かすか、今する消費を将来にするかが問題なんだ。
現実には、時間を超えて消費をするには投資をすればいい。Nick Roweのおもちゃみたいなモデルには投資が考慮されてない(すべての消費財は腐りやすい財だからだ)、でも現実では、消費を未来に送る方法は生産的資産、たとえば建物、機会、教育、アイデアへの投資だ。未来にする消費を現在にするには、投資を減らして今たくさん消費をすればいい。
では、政府が債務を削減したとすると、将来の消費を今に回したことになるのだろうか、それとも今の消費を将来にしたことになるんだろうか? 答えは―何にカネを使うかによる だ!! (“アハ!” “でもさ、投資は貯金と同じじゃないか。借金はマイナスの貯金だろう?借金が多くなれば投資が減るじゃないか!” あなたがこう言ってるのが聞こえる。じゃあ私はクルーグマンに頼るとしよう。”政府にとってはカネを借りることでも、それは結局誰かが貯金をして、そのお金で国債を買って借金を支えることになるんだ。 異議を却下する!”)
さて、議論に戻ろう。何に投資をするかによるんだった。もし政府が借金をして生産的資産に投資をしたとする―建物、インフラの修理、新しいアイディアの研究、学校の発展なんかだ。そしてこれらの投資プロジェクトが政府債務の利子を上回るリターンをあげられるなら、債務(より正確には借金でファイナンスされた支出)は我々の消費を子孫へと移行する,その反対はない。ポイントは国内から借りようと国外から借りようとこうなることだ。しかし、もし政府が調達した資金を消費に回したとしたら―例えば全国民にバースデイケーキをあげるとか―そうしたら債務でファイナンスされた支出は将来の子孫から我々に消費を移行することになる。。。将来の世代に負担を先送りしたのだ。
さて、民間企業もこういった世代間の消費のやり取りをプラマイゼロにすることができる。公的債務が増えてバースデイケーキのような消費財に使われたとしたら、民間企業は自身の資金をトラックとか建物のような、生産的資産にそれ以上に投資すればいい。そうすれば子孫の負担を減らすことができる。そのためにどれだけやればいいか、に答えるにはもっと議論がいるだろう。
要するにポイントはこうだ。―政府債務を増やすのは次世代の負担になるか?と聞かれたら、問題は政府が借りたカネを何に使おうとしているか問題なんだ。アメリカは政府だけが安く投資できるような生産的資産へあまり投資していない、と私は思ってる。例えば道路、橋、電気グリッド、高速ネットインフラ、そして基礎研究なんかだ。政府がこれらに投資するために借金したとしたら、子孫のためになる。将来の重荷になんかならないはずだ。