ジョセフ・ヒース「ポピュリズムを分析する:ファスト&スローの観点から」(2025年10月20日)

鍵となるのは、ポピュリズムを、特定の認知スタイルを特権化する政治戦略と見なすことだ。

近年の右翼ポピュリズムの台頭を懸念する学者気質の人間なら、この現象への理解を深めるために、自然と政治学の文献にあたることになるだろう。だが、いざ文献を読んでみると失望することになる。このテーマに関して政治学者の見解が割れていることにすぐ気がつくからだ(ポピュリズムに関する膨大な文献の適切なスナップショットを提供するものとして、このレビュー論文が挙げられる)。「ポピュリズムとは何か」に関してはそこそこの合意があるが、最も広く受け入れられている定義は、表層的かつミスリーディングだ。これは、ポピュリズムの力に対抗する上では気がかりなことである。

最も重要な点は、学者たちがポピュリズムの一番困惑させられる側面にきちんと向き合ってこなかったことだ。それは、インテリに批判されればされるほど、ポピュリズムが伸長するという事実である。結果、多くの学者は未だに、古い戦略を使って古いゲームをプレイし続けている——メタゲームが変わっているとは気づかずに。

学者たちの議論がどこで間違ってしまったのかを突き止めるのは難しくない。ポピュリズムを(社会主義やリベラリズムと同様に)政治的イデオロギーとして扱うという初期の議論方針が、不幸なほどたくさんの論者たちを誤った方向へと導いてしまったのだ。このようなポピュリズムの扱い方はすぐさま厄介な問題をもたらす。ポピュリズムは、従来的な意味での政治的イデオロギーの多くと整合的であるように思われるからだ。具体的に言えば、ポピュリズムには左翼的形態(例えばチャベス)もあれば右翼的形態(例えばボルソナロ)もある。そのため、もしポピュリズムが政治的イデオロギーなら、それは奇妙な種類のイデオロギーだ。従来的なイデオロギーと違って、他の見解を排除しないように見えるのだから。

これに対してすぐ思いつく代替案は、ポピュリズムを一種の戦略として扱うことだ。すなわち、ポピュリズムを、民主的な選挙制度において優位に立つために利用される戦略と見なすのである。これは先ほどのアプローチよりも有望だが、やはり問題がある。ポピュリズムがイデオロギーではなく単なる戦略であるなら、あらゆるポピュリズム運動において特定の考え方(外国人への敵愾心、中央銀行への不信など)が共通して現れているように見えるのはなぜなのだろう? そして、ポピュリズムが選挙戦略に過ぎないなら、なぜポピュリストの統治はあのような形態をとるのだろう? つまり、なぜポピュリストは、例えば法の支配を掘り崩すこと(司法に敵対し、司法の独立性を制限することなど)にあれほど熱心なのだろう?

これを受けて多くの人が、最初の見解を薄めたようなバージョンを受け入れるようになった。つまり、ポピュリズムは、イデオロギーはイデオロギーなのだが、「薄い」イデオロギーなのだ、と言うのである。最もよく引かれる定義は、カス・ミュデによるものだ。

私はポピュリズムを次のように定義する。すなわち、ポピュリズムとは、社会は究極的に2つの同質的かつ敵対的な集団、つまり「純粋な人々」と「腐敗したエリート」に分かれるとし、政治は「人々」の一般意思(volonté générale)の表現であるべきだと主張するイデオロギーである。

この定義の大きな問題は、ポピュリズムには左翼的形態も右翼的形態も存在するという事実と整合するよう、定義をミニマルにせざるを得ず、その結果、あまりにミニマルすぎて、ポピュリスト運動の具体的な特徴の多くを説明できなくなってしまっていることだ。例えば、ポピュリズム運動における「人々」は、なぜいつも文化的に同質的な大衆として概念化されるのだろうか。非常に多元的な社会においてすらそうなのだ(わざわざ「普通のフランス人(la France profonde)」とか「本当のアメリカ人(real Americans)」といった形で、そうした「人々」像を新たに作り上げなければならないにもかかわらず)。さらに、この定義を見ると、左派もポピュリズムを大いに利用できそうなものだが、実際にはポピュリズムの台頭はヨーロッパ中でほぼ一様に右派を利してきた。

問題を解く鍵は、この定義を具体化する際に付け加えられがちな次のような主張に見出せる。すなわち、〔ポピュリズムの定義に出てくる〕人々の「一般意思」というのは、なんでもよいわけではなく、「常識(common sense)」と呼ばれる具体的な形をとっている、というものだ。フランク・ランツが洞察していたように、常識の重要な特徴は、「突飛な空論を必要としないことだ。常識は自明に正しい」(これは、「人々」と「エリート」を分かつまずもっての基準と考えられる。人々は「常識」を持っているが、エリートは「突飛な空論」に飛びつく、というわけだ)。そしてこの「常識」と「突飛な空論」の区別は、信念体系のイデオロギー的内容ではなく、信念の生産において用いられる認知形態に基づいている。より具体的に言えば、この2つはダニエル・カーネマンの言う「ファスト&スロー」に基づいて区別されている。

カーネマンによって人気となったこの見解は、心理学では二重過程理論として知られている。このアイデアは、大雑把に言うと、人間は2つの異なる認知スタイルを利用できるというものだ。ダニエル・デネットはかつてこれを巧みな比喩で語っていた。彼によれば、人間の意識は「進化によって備え付けられた並列のハードウェアによって(非効率な形で)実行される直列の仮想マシン」だ。このハードウェア/ソフトウェアのアナロジーは完璧というわけではないが、重要な真理を捉えている。私たちは、何百年も昔の霊長類の脳を引き継いでいる。それは進化の産物であり、たくさんの備えつきのモジュールを含んでいる。これによって私たちは、労力なしに超高速で複雑な計算を実行できる(例えば、顔貌認識や、歩行中のバランス維持、移動する物体の軌道の予測、事象の確率の推測など)。私たちは、こうした認知プロセスのアウトプットを「直感」と呼ぶ。その答えがどう導き出されたか分からず、ただ答えが提示されるだけだからだ。

これに加えて、私たちは進化的により最近のシステムも有している。これによって、数学的、論理的、仮説的、戦略的な推論といった、認知的に「デカップリング」された操作を実行することが可能となる。これは基本的に、ソフトウェア・システムだ。というのも、それが上手く機能するためにには、文化的なインプット(言語、書記システム、アラビア数字、尺度や図表など)が必要となるからである。残念ながら、このシステムは直感システムと違って、遅く、労力がかかり、注意を必要とする(それは、このシステムが、直列の推論を行うよう設計されたわけではないハードウェア上で、「非効率」に実行されるためだ)。この「分析的システム」の作動は労力がかかるため、私たちが世界に向き合う際の標準的なモードは、キース・スタノヴィッチが「認知的倹約(cognitive miserliness)」と呼ぶ傾向を示す。つまり、可能な限りは直感に頼って、直感が失敗した場合(問題解決的な認知モードの限界が明らかになった場合)にのみ、より労力のかかる分析的な処理スタイルに切り替えるのだ。言い換えれば、私たちは、ほとんどの時間を認知的な自動運転で過ごして、そうするよう迫られた場合だけ真剣に思考するのである。

2つのシステムが同じ結果を出すなら、このことは大して問題にならない。問題は、2つのシステムがときに異なる結果を出すことだ。特に、直感システムは進化の産物であるため、問題解決にあたってたくさんの間に合わせのトリック(つまりヒューリスティックス)を利用している。こうしたトリックはたいてい上手く働くが、常に上手くいくわけではない。直感システムはまた、残念ながら、学習できない場合がほとんどだ。結果、直感にはバグが存在するのだが、デバッグすることはできない。かわりに、分析システムが介入して、直感的反応を抑制し、正しい答えに置き換えなければならない。

これの例として、人間のハードウェアにおける最も有名なバグの1つを取り上げよう。それは、「直観物理学(intuitive physics)」を用いて弾道軌道を予測する際に生じるバグだ。このシステムは、野球でボールをキャッチする際には上手く働くが、特定のケースでは誤った予測を生み出す。最もよく知られているケースは、既に動いている物体が落とされる場合の軌道だ。私たちの直感システムは、物体は真下に落ちると予測するが、実際には前方への勢いが保たれるので、弧を描いて落下する。このバグは、子どもの描く絵によく見られる。下の絵は、私の息子が8歳のときに描いた絵で、やや時代遅れな攻囲戦を描いたものだ。

注目すべきは、カタパルト(投石器)から投げられた石が弧を描いて落ちるということは正しく理解しているのに、飛行機から落とされた爆弾の軌道は間違っている点だ。驚くべきことに、私たちはみな、全く同じバグを頭に抱えている。違うのは、ほとんどの成人(だといいのだが……)が、この場合の正しい答えを明示的な知識として持っており、脳が間違った直感を与えてきた場合、その反応を意識的に乗り越えて、正しい予測に置き換えることだ。残念ながら、この認知的オーバーライドは、注意と労力を要する。結果、ほとんどの人は、爆弾の軌道を正しく予測するよう求められたら、しばらく立ち止まって考えなければならない。

以上の議論は政治とはなんの関係もない話と思われるかもしれないが、そうではない。私たちは、物理的世界における事象を解釈・予測するための備え付きの型をたくさん持っている。それと全く同様に、社会的インタラクションを処理するための備え付きの型もたくさん持っているのだ。そして、そちらもまたバグでいっぱいである。いっそう悪いのは、物体の動きの基本法則は20万年前から同じである一方、人間社会のルールは根本的に変化してきたことだ。そのため、様々な社会状況によって引き起こされる直感的反応の多くは、かつての小規模社会においては適切だった一方、〔現代の〕大規模な社会では全くもって不適切となっている。このことが意味するのは、現代世界で暮らすことが、私たち全員に、極めて要求の高い認知的負担を課すということだ。

具体例を挙げよう。人間のパターン検出システムにはよく知られたバグが存在する。他人の行動変容を動機づける上で、罰の効力をひどく過大評価してしまうのだ。私たちは、たいへん悪い行いには罰を、たいへん良い行いには報酬を与えがちだ。しかし、「平均への回帰」のために、罰の後は行動が改善し、報酬の後は行動が悪化することが多くなる。こうして、罰は行動変容に効果的であり、報酬は逆効果をもたらす、という印象が生まれる。インセンティブに関する「常識」的な考えの多く(例えば「鞭を惜しむな、子どもがダメになる」)は、この幻想が生み出したものだ。

そのため、記録をつけたり、パフォーマンスを追跡したり、報酬/罰と行動の関係を分析したりして、行動が実際にどう変化するかを調査した人は、常識に反する見解を抱くようになる。これは社会科学者に限った話ではない。動物のトレーナーですらそうなのだ。こうした人たちはみな、報酬は少なくとも罰と同じくらいに効果的であり、罰より効果的な場合もある、ということに同意するだろう。これは、専門家の意見と世論の間に大きなずれを生み出す。

このエリートと人々の見解の相違が、いかにしてある種の状況を生み出し、それが民主主義体制において政治的利益を得るのにどう利用できるか、を理解するのは難しくない。罰に関する専門家の見解は、徐々に社会へ浸透していき、教育されたエリート(そして、専門家の意見に従う人々)の行動に影響を及ぼしがちだ。こうして、エリートたちの間で一連の見解や実践が生じる。寛容な子育て、学校における体罰の廃止、犯罪に対する懲罰的でない姿勢、死刑への反対などだ。これらの見解は基本的に、多数派の考えと一致しない。そのため、一般市民は次のように考え始める。すなわち、少年非行や都市の混乱といった根深い社会問題は、種々の制度(司法制度だけでなく、学校や親なども含む)が十分に懲罰的でなくなっているために生じている、と。彼ら彼女らの観点からすると、解決策は単に常識に従うことだ。犯罪者に厳しくあたればいいだけのことである。エリートがこうした明白な真理に抵抗するのは、まさにエリートの側が間違っている(「突飛な空論」に唆されている、現実から遊離している)ことの証だ。

残念なことに、人々がエリートを信頼しないことが正しい場合もたくさんある。分析的推論は、直感的認知を代替するものとしてはお粗末なこともあるのだ。近代合理主義の傲慢さを細かくあげつらう文献はいくらでも挙げられる。エリートはまた、流行りの理論にも飛びつきがちだ(そして近年見られるように、モラル・パニックにも陥りやすい)。だがその場合でも、知的流行に対抗して立ち上がろうとする他のエリートを見つけるのはさほど難しくない。しかしながら、特定の領域では、エリート間で非常に強固な合意が形成されている場合もある。常識が単に間違っているような領域では、こうした合意が特に強く生じがちである。証拠を検討し、分析的推論を行おうとする者なら誰でも、エリートの見解を共有するようになるからだ。結果、こうした領域では、「人々」が認知的エリートの中から仲間を見つけるのが実質的に不可能となる。これは怒りと憤りを生み、時を経るごとにそれらが蓄積されていく。

こうして蓄積された不満は、ポピュリスト政治家にとって格好の餌となる。民主的な政治制度は、世論に強く反応するとはいえ、それでもエリート支配のシステムであることにはかわりない。そのため、ある種の問題に関しては、人々がどれだけ動揺し怒っていようと、政治家たちがその声に聞く耳を持たないということがあり得る。こうして、エリート、あるいはエリートに支配された制度(例えば政党)を迂回して、溜まりに溜まった怒りを利用し、「人々」の側についた英雄というポジションをとろうとするインセンティブが生まれる。ポピュリズム政治において注目すべきは、ポピュリストが「人々」のあらゆる利益を代弁しているわけではない、という点だ。ポピュリストたちは、常識とエリートの見解が最も大きく乖離する特定の問題に絞って、「人々」の意見を代弁しているのである。

この観点からすると、ポピュリズムがなぜ効果的な政治戦略となり得るのか、なぜソーシャルメディアの時代に大きな威力を振るうようになったのかを理解するのは難しくない。カーネマンの著書『ファスト&スロー』のタイトルからも分かるように、直感的認知の中心的特徴は「速い」ことだ。対して、分析的推論は「遅い」。これが意味するのは、コミュニケーション速度の速まりは、分析的思考よりも直感的思考を有利にするということだ。ポピュリストは常に、最高の30秒テレビCMを作ることができる。この問題をさらに増幅させたのがソーシャルメディアだ。ソーシャルメディアによって、あらゆるゲートキーパーが取り払われ、エリートが公共的なコミュニケーションをコントロールすることができなくなった。こうして、エリートを迂回し、不満を持つ人々に直接訴えかけることが容易になった。その結果、分析的な思考スタイルにひどく敵対的なコミュニケーション環境が生じた。

その帰結をきちんと考えれば、左派が(特に先進国において)こうしたコミュニケーション環境の変化をほとんど活用できていない理由はすぐ分かる。人々は、経済的エリートに対して反逆を起こしているわけではない。認知的エリートに対して反逆を起こしているのだ。もっと狭く言うと、これは実行機能に対する反乱だ。より一般的に言うと、これは、搾取、周縁化、依存、スティグマから逃れる上で、絶え間なく認知的な抑制とコントロールを要求する、現代社会に対する反乱である。エリートは社会全体を操作しているため、社会的世界を上手く渡っていくために、エリートが持つような認知的スキルを駆使しないといけない場面がますます増えている(分析的処理を行わずに、銀行口座を開いたり、アパートを借りたり、税還付を申請したりできるだろうか?)。そして左派は、進歩を支持している以上、個人に重い自己抑制の負担を課すような現代社会の諸特徴を、さらに強めようとするものだ。

こうして見れば、言葉の取り締まりといったかなり些末に思える問題に、人々がなぜこれほど動揺しているのかは容易に理解できる。発言においてポリティカル・コレクトネスを要求し、その要求を果たせない人間を罰して追放することの問題は、あらゆる会話をストループ課題にして、エリートがセルフコントロール能力を顕示する機会にしてしまうことだ。こうなると、普通の人々は、会話中、すぐ頭に浮かぶような馴染み深い言葉(例えば「ホームレス」)を強く抑え込みながら、明示的認知を用いて、近年好ましいとされている言葉(例えば「住まいがない人」)で置き換えなければならなくなる。エリートは、これが多くの人々に負担を課すことに鈍感なだけでなく、その事実を積極的に無視しようとする。結果、エリートがこうした認知的操作をいとも容易く行うことは、自身の優位性を見せつけるだけでなく、相手に劣位を強く意識させることにもなる(この観点からすると、they/themという代名詞を使うよう求める動きが、一部の人々を激しく動揺させていることは驚くにあたらない。複数形の代名詞を導入すると、動詞の形を変化させる必要が出てくるため、認知的な要求がいっそう高くなるのだ)。

以上の分析は、ポピュリズムが、単なる戦略であるにもかかわらず、特徴的なイデオロギー的内容やトーンを持つ理由を説明する。鍵となるのは、ポピュリズムを、特定の認知スタイルを特権化する政治戦略と見なすことだ。

直感的な認知(あるいはシステム1)の特権化により、ポピュリスト運動の多くに見出される様々な特徴が生み出される。以下は、網羅的ではないリストだ。

1. 特定の問題に関するエリートへの不満。刑事司法は不満の種であり続けている。その一因は、エリートが、口では「犯罪に厳しくあたる」と言っている場合ですら、刑罰は法の枠組みの中で課されるべきだと考えていることだ。こうして、ロドリゴ・ドゥテルテやドナルド・トランプのようなポピュリスト政治家がつけ入る隙が生まれた。ドゥテルテはフィリピンで、警察に即決処刑〔裁判を経ない処刑〕の権限を与え、トランプはアメリカで、都市警察による「現場の正義(street justice)」の回復を明示的に承認し、アメリカ軍を使って(現時点では国際水域においてのみだが)即決処刑を実行してきた。エリートと人々の間でこうした見解の不一致が生じる領域は他にもある。目下最も重要なのは、移民と国際貿易の問題だ。例えば、経済学者は、輸入品への関税は輸出品への課税と等価だと理解しているが、その結論に至る推論の連鎖を、人口の20%以上が理解できる(理解しようとする)という状況はありそうにない。同様に、移民は労働の供給だけでなく需要も増やすため、失業を生み出さないという事実は、直感に強く反する。だが、エリートはこうした事実を理解しているため、移民が労働市場に及ぼす影響に関して、一般市民よりもはるかに冷静だ(エリートは、人々が自分たちと異なる見解を持っているのはレイシズムのためだ、として一般市民を道徳的に非難することで、事態を悪化させてしまう。エリートはこうした道徳非難を行うことで、自分たちの賢さだけでなく、道徳的な優位をもアピールしているのだ)。

    2. 集合行為問題。ポピュリストは、どんな集合行為問題に直面しても、それを悪化させずにはいられない(例えば気候変動)。なぜか。誰しも、悪いことが起きれば、自分以外の誰かを非難したくなるものである。そして、集合行為問題において、自分が被っている悪影響は実際に他人のせいで生じている。だがここで見落とされがちなのは、この状況が対称的であるということだ。他人が被っている悪影響は、あなたのせいで生じているのである。そのため、この状況から抜け出すには認知的な洞察が必要だ。一歩立ち止まって、フリーライドのインセンティブがあるとしても、それを控えなければならない、と気づく必要があるのだ。だが直感に従えば、正しい反応は他人を罰することだ。そして他人を罰する一番良いやり方は大抵、こちらが裏切ることだろう。そのため、直感的な反応が提示する処方箋は、集合行為問題を底辺への競争に変換する。文明が野蛮に堕していき、逆方向に進まないのはこのためだ。

    3. コミュニケーションのスタイル。ポピュリスト政治家の非常に目立った特徴の1つは、その話術のスタイルだ。台本がなく、意識の流れそのままに喋っているかのような話し方をするのだ(例えば、「こんにちは大統領」というテレビ番組でのウゴ・チャベスの話し方を見てみよう。トランプが全く同じようなことを話し方をしそうだと容易に想像できないだろうか)。この点が重要なのは、主流派の政治家が好むような、抑制され計算された話し方(フランス語には、「木製の言葉(langue de bois)」というピッタリの言い回しがある)のまさに対極にあるからだ。ポピュリスト政治家が、発する言葉全てデタラメだったとしても、多くの人から「誠実」だと思われているのはこのためだ。エリートは普通、発言の内容に注目して、話し方は気にかけない。エリート自身が抑制された話し方を用いており、他人が抑制された話し方をしていても気にならないからである。しかし、ドナルド・トランプの口調を聞いていると、彼が考えたことをそのまま話しているというのは全く明らかだ。実際、トランプはどう見ても、それ以外の話し方をするのに必要となる言語的な自己抑制を欠いている。人々がトランプを信頼しているのはこのためだ。特に、信頼に値するかどうかを判断するにあたり、分析的な評価ではなく、直感的な手がかりに頼るような人にとっては特にそうだ(下品さをアピールするのも、ポピュリスト政治家がよく使う戦術の1つだ。これは、言語的な抑制の欠如を示すための手段だ。古風な政治家は、これを真似ようとして失敗することがある。重要なコミュニケーション的効果を生み出しているのは、下品さではなく、抑制の欠如にあるということに気づけていないからだ)。

    4. 反リベラリズム。ポピュリストは、法の支配を尊重することにひどく難を抱えている。ポピュリストは、自分のとった行動を説明する際、自分の考えがいかに正しいかを長々と語りがちだ。ルールというのは悪いことをしている人を止めるためのものだと考えているのである。ポピュリストは自分のことを、良いことをしようとしている良い人だと考えているから、なぜ自分がルールに縛られるべきなのか理解できない。自分たちと他の政党を対称的に扱うことが不得意なのである(アメリカ人は現在、このことを見せつけられ続けている)。残念ながら、リベラルな政治哲学について教えたことのある学者なら知っているように、あらゆるリベラルな原理の根底には、本質的に高度な抽象化がある。ジョン・スチュアート・ミルはこれを、「迫害者の論理」の拒否と呼んだ。迫害者の論理というのは、「私たちは正しいのだから、相手を迫害しても問題ない。相手は間違っているのだから、私たちを迫害してはならない」という考え方だ〔リベラルな原理は、こうした自然な考え方を拒否するため、抽象的思考を要求する〕。こうした高度な抽象化は、他のリベラルな制約の多くにもつきものである。例えば、ポピュリストは、弁護士は「犯罪者を庇っている」と不満を述べがちだ。もちろん、弁護士が弁護しているのは、〔犯罪者ではなく〕犯罪を告発された人であり、そうした人々の多くが実際に犯罪者であるとしても、弁護士を交えた裁判によって判決が下るまで、彼ら彼女らを犯罪者と呼ぶことはできない。だが、このことを理解するには認知的にデカップリングされた表象が必要となる。同様に、ポピュリストは利益相反ルールに従うことがひどく苦手だ。利益相反ルールは、判断の際に不適切な影響を受け得る状況に人々が置かれないようにするために設計されている。だが、そのような仮説的状況を直観的に理解することは不可能だ。そのため、実際に悪いことをしていないならそうした行動を認めるべきだとする強い欲求が生じる。

    5. 陰謀論。多くの人は、なぜポピュリストがこれほど陰謀論、あるいは「陰謀的」思考に引き込まれるのかと疑問に思ってきた。これもまた、直感的思考の特権化の直接の帰結だ。人間の思考に潜む自然なバイアスは、陰謀論へと向かいがちだ(アポフェニア、過剰な主体性検知確証バイアスによって)。そうした思考に対し合理的な疑いを投げかけられるようになるには、偽陽性を排除するための明示的な検証手続きを課す必要がある。言い換えれば、陰謀的思考を積極的に抑制する必要があるのだ。ポピュリストは、こうした直感の抑え込みに必要な認知スタイル〔システム2〕を拒否する限り、種々の非合理な思考パターンに引き込まれてしまう。多くの人は、エリートから批判を受けると、陰謀的思考をさらに強めがちだ。なぜなら、エリートが押し付けてくる認知スタイルこそ、まさに人々がエリートを最も嫌っている点だからだ。

    以上は簡潔なリストに過ぎない。もっとたくさんの事項を追加できるだろう。とりわけ、ここでは左翼ポピュリズムについてほとんど何も述べていない(なぜそれが一部のケースで成功を収めながらも、現代の豊かな民主社会で上手くいきそうにないのか、など)。関心のある読者は、私が10年前に書いた本、『啓蒙思想2.0』を読んでほしい。その本で私が焦点を当てたのは、ポピュリズムそれ自体ではなく、「常識保守主義」の台頭だ。残念ながら本書は第一次トランプ政権が誕生する直前に刊行されたので、すぐに内容が古臭くなってしまった。アップデート版を書くことも考えたが、それは大変すぎると判断して見送った。とはいえ本書は、上で述べたような主張全てに関して詳細な議論を展開している。ポピュリズムの強みと弱みをよりよく理解する上で、二重過程の心理学を分析枠組みとして用いることに関心のある読者はぜひ読んでほしい。

    [Joseph Heath, Populism fast and slow, In Due Course, 2025/10/20.]
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