ノア・スミス「経済学者はマルクスを読むべきか?」(2025年1月13日)

経済学者はマルクスを読むべきである。それも、こうした歴史を全て頭に入れて読むべきだ。それは、社会科学のアイデアが現実の政治や制度に対して、最大限の思い上がりをもって徹底的に適用されたとき、いかにして未曽有の危害を生み出し得るのか、を思い出させてくれる分かりやすい事例である。

先日、ノースウェスタン大の経済学者、ベン・ゴラブ(Ben Golub)がこんなツイートをしていた。

ベン・ゴラブ:ときどき思い出すのが、経済学を研究していると言ったら、(例えば)歴史学を専攻している学生から、スミスやマルクスをきちんと学んでいないのかと驚かれたことだ。

マウント・ホリヨーク大学の英文学者、アレックス・マスコウィッツ(Alex Moskowitz)は、ほとんどの経済学者がスミスもマルクスも読んでいないことを受けて、経済学を「フェイク」呼ばわりし、「経済学はその知識生産の手段を適切に歴史化してこなかった」と断じた

アレックス・マスコウィッツ:経済学者は毎日毎日、経済学が学問としてフェイクであることを白日の下に晒している。
経済学はなぜ真の学問ではないのかとこれまでたくさんの人に質問をされた。それは、経済学が自らの知識生産の手段を適切に歴史化してこなかったからだ。マルクスやスミスを読んでいない経済学者を見ればそれは明らかだ。
学史の知識はその学問の知識の根幹部分だ。経済学の博士号を持つ人は、マルクスやスミスの知識を応用するためではなく、自身の学問が拠って立つ経済思想・社会思想の歴史を理解するために、スミスやマルクスを読むべきだ。
デュボイスを読んだことのない社会学者とか、フロイトを読んだことのない心理学者を考えてみればいい。そういう学者はどういう風に見えるだろう?

マスコウィッツは正しいのだろうか? 経済学者はみな、アダム・スミスやカール・マルクスを読み、「きちんと学び」、理解すべきなのだろうか? 経済学者のほとんどはそういうことをしていないから、経済学は「フェイク」なのだろうか?

まず最初に、思想史を研究することが常に有用なわけではないと指摘しておくのは重要だ。医師のほとんどはガレノスの著作を読まないし、物理学者のほとんどもアイザック・ニュートンの著作を読まない。それと全く同様に、経済学者も需要と供給を理解するためにアルフレッド・マーシャルのオリジナルの著作を実際に読む必要はないし、ゲーム理論を理解するためにナッシュの原論文を読む必要はない。科学において最も役に立つ概念は、提唱者の思考プロセスから離れ、独立している(stand alone)。そうした概念が強力なのはまさに、提唱者の思考から独立しているからである。ニュートンの法則やナッシュ均衡の由来を知らなくても、誰でもそれを使って現実世界の問題を解くことができるのだ。

アマゾン社でゲーム理論を使ってオンライン・マーケットを設計している経済学者の立場になって考えよう。リベラル・アーツ・カレッジで教えている英文学の教授があなたに向かって、「経済学なんか全部フェイクだ」、だって経済学者はマルクスを読んでいないだから、と怒鳴ってきたとしよう。この光景はちょっとシュールに見える。

だがここでは、経済学者はそもそも/いつ、経済思想史を学ぶべきなのかという問題を脇に置いて、経済学者も実は経済思想史を学んでいる、ということを指摘したい。ただ、マスコウィッツが好むやり方ではないというだけだ。

経済学の博士課程の学生だった頃、私は現代の経済的思考の枠組みを作る上で非常に影響力を持った昔の基礎的な論文をたくさん読まされた。経済学のカノン(正典)が実際にはどんな感じなのかを示すために、4つほど例を挙げたい。

1. ポール・サミュエルソン「貨幣という社会的仕組みが存在する場合としない場合の、正確な消費-ローン・モデル」(1958)

経済学には、「重複世代(OLG)」モデルという重要なモデルがある。これは基本的に、高齢世代、若年世代、中年世代が経済においてどう相互作用するかのモデルだ。世代間の相互作用という観点からたくさんの経済現象について考えることができる。

例えば、若年世代は一般に、生活を始めるためにお金を借り入れる必要がある(学生ローン、最初の家、車など)。そして人々は、若年期から中年期にかけて働いて貯蓄し、退職後には貯蓄を取り崩さなければならない。これは興味深い相互作用を生み出す。高齢世代は、蓄積した資産(家、株式など)を若年世代や中年世代に売らないと消費ができないからだ。

こうしたことを考えついたのはポール・サミュエルソンが初めてではない。だがそれを多くの人が扱えるような非常に単純な数学モデルで定式化したのはサミュエルソンが初めてだ。そしてこのモデルは今でも広く使われ続けている。この論文でサミュエルソンは次のような問題を指摘している。急速な人口成長が生じている場合、若年世代が多くなりすぎて、人口の少ない高齢世代が貸し出せるよりも多くの額を若年世代が必要とするかもしれない。この場合、一番良いのは、若年世代から高齢世代へ順にお金を移転していき、互いに貸し出せるくらいお金を持てるようにすることだろう。

これこそ社会保障の背景にある考え方だと気づいた読者もいるのではないだろうか。

2. ポール・サミュエルソン「公共支出の純粋理論」(1954)

公共経済学で最も重要な概念の1つは「公共財」だ。公共財とは、民間セクターが独力で十分に供給できず、そのため政府が供給すべき(そして供給できる)財である。この概念も、ポール・サミュエルソンが最初に考えついたものではない。だがOLGモデルと同様、サミュエルソンはその仕組みを数学的に示した最初の人だった。

この論文でサミュエルソンは、財が非競合的(ある人がそれを利用しても、他の人がそれを利用するのを止める必要はない)かつ非排除的(他の人がそれを利用するのを防げない)なら、民間セクターはその財を十分に供給できないだろう、と指摘した。古典的な例は灯台だ。灯台はどんな船からも見えるから、ある船が灯台の明かりを利用しても別の船が利用する明かりを利用することは必ずしも妨げられないし、特定の船が明かりを利用するのを妨げることもできない。そのため、灯台を建てることはどんな民間企業にとっても危険な投資だ。本質的に、フリーライダーを大いに促すからである。

解決策は、政府が介入して灯台を建てることだろうか、それとも、同じくらい上手く機能する民間主体間の取り決めを実行することだろうか。これは経済学において論争の種であり続けている。さらに、公共財の本質的特徴は非競合性と非排除性でなければならないのかという問題もある。それでもこのサミュエルソンの原論文は、公共財に関する議論全体の大方を創出したものであり、その影響力は強調してもしきれない。

3. ジョージ・アカロフ「レモン市場」(1970)

新車を買ったことのある人なら、「ディーラーの駐車場から出た瞬間に車の価値は大幅に下がる」というのを知っているだろう。なぜか? 同じ車なのに、1時間前と何が違うというのか? 最もありそうな答えは、買ってすぐの車を売ったりしたら、その車には欠陥があると思われてしまうだろう、というものだ。

この洞察が、アカロフの論文の基礎をなしている。アカロフの論文は、市場がどのようにして情報の非対称性(買い手が知らないことを売り手が知っている状況)のために機能不全に陥るか、をテーマにしている。中古車の場合、このプロセスは「逆選択」と呼ばれる。売り手は低品質の車を本当の価値よりも高い価格で売りたいので、車の状態を偽る、ということだ。アカロフは単純な数値例を使って、逆選択がいかにして取引を完全に機能不全に陥らせ得るかを示している。買い手は「レモン」(低品質の商品)を掴まされるかもしれないので中古車を売り手の言い値で買おうとせず、それゆえ中古車ディーラーは高品質の車を市場に放出せず手元に留めてしまうのだ。

レモン問題はどうすれば解決できるだろう? 1つの方法は、車の状態についてチェックしてもらうために整備工にお金を払うことだ。だがこれはお金がかかる。もう1つの方法は、政府が法律を通して、中古車ディーラーが購入を希望する買い手に対し、車の品質に関する重要な情報を提供するよう強制するすことだ。

これは明らかに健康保険にも適用できる。逆選択は、買い手が売り手から情報を隠す場合にも生じ得るからだ。保険の加入希望者は、保険料を低くするために、自身の病気を保険会社から隠そうとする。そのため健康な人は高すぎる保険料を支払わなければならなくなり、保険市場に入れなくなる。健康保険を買わない人を罰するACA(オバマケア)のような法律は、まさにアカロフがこの論文で述べたような原理に基づいて、健康な人が保険市場から出ていくのを防ごうとするものだ。

4. ケネス・アロー「不確実性と医療の厚生経済学」(1963)

この論文が興味深いのは、数理経済学の功績で有名な研究者の論文なのに、ほとんど数式が出てこないことだ。この論文は基本的に、様々な論理的論証を行うエッセイだ。アローは、医療(健康保険を含む)がなぜ他の市場と異なるのかを説明しようとしている。そして、医療がなぜ他と異なるのかについて様々な理由を挙げている。例えば次のような理由だ。

  • 健康保険はたくさんの情報の非対称性に服している。既に述べた逆選択に加えて、「モラルハザード」(すなわち、保険に守られるほど保険加入者は向こう見ずになる)の問題もある。
  • 医療は、死のリスクなど極端なリスクを含んでいる(アローはここで、明確に述べてはいないが、患者も医療提供者もこのような極度の不確実性の下で合理的意思決定を下すのが得意でないかもしれない、と示唆している)。
  • 人間は医療に関して強力な道徳規範を有している。私たちは、基本的な医療は普遍的な人権であり、医師は利潤を追求するビジネスパーソンのようにふるまうべきでないと考えがちで、医療を提供する前に料金を支払わせることには倫理的に嫌悪感を覚える、などなど。
  • 伝染病は外部性を生み出す。1人が病気になれば、他の人も危険に晒される。
  • 規模に関する収穫逓増と新規の医療提供者に対する参入制限が、医療市場において参入障壁となり競争を制約している。
  • 医療提供者は通常、価格差別を行っており、支払い能力に応じて患者から異なる料金をとっている。

こうした要因により、医療市場はその他のほとんどの市場よりも極度に複雑である。医療産業が強い規制の下に置かれているのはこのためだ。豊かな国の多くが進んで医療保険制度を国有化しているのもこのためかもしれない。

***

さて、以上が現代の経済学部で多く(ほとんど?)の博士課程の学生が読まされる、経済的思考の根幹となっている論文の例だ。こうした論文が生み出した考え方と方法は、近年の経済学研究でも中心であり続けている。マスコウィッツの言葉で言えば、こうした論文を読むことで、経済学者は「知識生産の方法を歴史化」しているわけだ。

これは〔現代の経済学において〕大部分隅っこに押しやられているカール・マルクスの思想とは対照的だ。

これは、現代の経済学者が自由市場を信奉する新自由主義者で、市場の力を支持し政府介入を拒否しているからなのだろうか? もちろん違う。ここで挙げた論文はどれをとっても、市場がどのように失敗し、そうした失敗の結果いかにして政府介入が必要となるかをテーマとしている。これらの論文はマルクス主義の諸概念(労働価値説、疎外、搾取、商品物心崇拝、資本主義の不可避的崩壊)に依拠していない [1] … Continue reading 。だが経済学の思考世界はマルクス主義と新自由主義とを両極とする一次元の軸によって定義されるものではない。市場は、マルクスが考えもしなかった問題をたくさん抱えているのだ。

アレックス・マスコウィッツが経済学についてどれほど学んできたのか私は知らない。とはいえ、賭けてもいいが、彼はポール・サミュエルソン、ケネス・アロー、ジョージ・アカロフの基礎的な経済的思考について(あるいは現代の経済学研究一般について)大して知らないだろう。では、マスコウィッツはなぜ、マルクスが経済学の基礎的なカノンの一部と見なされるべきだと宣言する資格が自分にあると思ったのだろう?

その理由の一部はもちろん、マスコウィッツが個人的にマルクスの思想を好んでおり、価値を見出していることにある。マスコウィッツはマルクスの思想を他の左派哲学者と関連づける研究を行っており、マルクスについての授業も持っている。マスコウィッツが自身の好む思想家を経済学者にも研究してもらいたいと思うのは自然なことだ。

同じように私も、英文学者に対して、アーシュラ・K・ル=グウィンを英文学の基礎をなす知識人の1人と見なしてもらいたいと思っている。私はアーシュラ・K・ル=グウィンが好きだからだ。実際私の主張は正当かもしれず、英文学の教授の中にもル=グウィンについて教えている人はいる。とはいえ私は英文学の博士号を持っていないし、人文学のアカデミアの中で暮らしてきたわけでもないから、私の主張はアマチュアの部外者の発言でしかない(そしてもし私がそういう主張をするなら、マスコウィッツよりももう少しおちゃらけた様子で、もう少し攻撃性を薄めたコメントをするだろう)。

マルクスを経済学のカノンに含めるべきだとマスコウィッツが要求するもう1つの理由は、マルクスの文章が文学的で、論述的で、(人文学の研究者である)マスコウィッツでも理解できるような(あるいは少なくとも、自分はこれを理解していると思えるような)非数学的なスタイルで書かれているからだ。サミュエルソン、アロー、アカロフは自身の考えの大部分を数学の言葉で表現しているので、マスコウィッツの受けた教育を考えれば、とても理解しやすいものとは言い難いだろう。自分の知識で理解できる研究を、自分にとってよく分からない研究よりも優先させようとするのは、人間の自然な傾向だ。だがこれは「街灯下で鍵探し」問題の一種である。

そういうわけで、ここで際立っている問題は「マルクスは経済学の基礎的なカノンの一部であるべきか?」ではなく、「経済学の基礎的なカノンについて決める権限が自分にある、と英文学者が思ってしまったのはなぜか?」だと私は考える。

そしてもちろん答えは「政治」というものになるだろう。マスコウィッツの腹を探りたいわけではないが、彼はある種の「左翼同志」のように見える。

アレックス・マスコウィッツ:彼らは実際には、アメリカ国旗が白人至上主義、セトラー・コロニアルなジェノサイドと暴力を象徴している、ということを語らずも大声で主張している。

パレスチナを支持する学生団体:コロンビア大学は、今期の残りを〔対面授業とオンデマンド授業の〕ハイブリッドにするとアナウンスした。

アレックス・マスコウィッツ:大学は、公衆衛生のためにはzoomを使えないのに、人々が戦争とジェノサイドに反対しているときはzoomを使えるようだ。

アレックス・マスコウィッツ:民主党がなければバーニー〔・サンダース〕が4年間政権を担っていただろうことを忘れてはいけない。

私の経験上、人文学や社会科学を研究する左翼の学者の多くは、非STEM系学問を単一の統一された団体(様々な領域における知識追求の努力の集まりではなく、資本主義、セトラー・コロニアリズム、白人至上主義などに対抗する単一の政治闘争活動)と見なしている。この世界観において経済学者が受け入れられるとしたら、左派の闘争活動にぴったり噛み合った思想を持つ経済寄りの思想家(例えばカール・マルクス)を支持している場合だけだろう。

そして実際、それこそ経済学者がマルクスを読むべき最も重要な理由だと私は考えている。革命闘争としての歴史というマルクスの歴史観は、擬似経済思想が政治や歴史の問題にあまりに無思慮に適用されるとどうなってしまうかを示す反面教師なのだ。

マルクスを実際に読み、その著作について深く思考した経済学者の1人に、ブラッド・デロングがいる。2013年の記事で、デロングは自身の経済学的思考に照らし、マルクスのどこが正しくどこが間違っていたかを説明しようとしている

マルクスという経済学者は6つの大きな思想を残した。その一部は一世紀半を経た今でも非常に価値あるものだが、残りはそうでもない……

マルクス……は現代の市場経済を苦しめる金融危機や不況の発作が、容易に対処可能な一時的現象ではなく、システムの深部の機能不全であると認識した最初の人々のうちの1人だった。

カール・マルクスは、産業革命……によって、文盲で非人道的な扱いを受け、餓死寸前で働きすぎの大量の奴隷に頼らずとも、人々が知恵を愛す生活を送れる社会の可能性が開かれたことを認識した最初の人々のうちの1人だった。

経済学者マルクスは、イングランドにおける近代資本主義の発展の経済史について、多くのことを正しく理解していた。全てではないが、1500-1850年の時期を扱った経済史家として取り組む価値のある研究者だ。最も重要なのは、産業化の便益が現れ始めるには長い時間(数世代)がかかるという考察だと私は思う……

[しかし]マルクスは、資本は労働の補完物ではなく代替物だと考えていた。それゆえ市場システムはよい(あるいは、そこそこよい)社会を実現できず、非常識な贅沢と大衆の貧困しかもたらせない〔とマルクスは考えた〕。これは経験的問題だ。マルクスの信念は単純に誤っていたように思われる……

マルクスによると……人々は自身の職を、名誉を得るための手段、あるいは自分がそのために生まれてきたもの、同胞たる人類へ奉仕する手段、と考えるべきだ。人が自己利益やインセンティブではなく純粋な善意からのみ互いに助け合うような世界の追求は、人々を危険な道へ導く。公共的な善意のために金銭的関係を廃止しようとする社会は、幸せな場所へ辿り着かない。

資本主義市場経済では、歴史のごく短い期間を除き、許容可能な水準の所得分配をもたらすことが不可能である、というのがマルクスの考えだった。……だが「不可能」というのは明らかに強すぎる言葉だ。……社会民主主義、累進所得税、大規模で確立されたセーフティネット、高い水準の公教育、階層上昇の経路の確保、そして20世紀の社会民主主義的な混合経済国家の道具立て一式は、資本家の繁栄が大きな不平等と悲惨を伴うはずだというマルクスの危惧を払拭するだろう。

この要約(私にはとてもフェアに思える)は、マルクスがそこそこ興味深いがあまり重要でない経済思想家であることをハッキリと示している。彼は経済学的なアイデアにちょっと手を出してみた政治哲学者であり、大きなトレンドを見抜いてはいたが、他人の考えをひどく誤解し、最終的には経済学という分野全体の方法論や基礎概念にほとんど足跡を残せなかった(デロングのスライド動画他のコメントも参照)。

だがマルクスの名前が残っているのは、その経済学的アイデアのためではない。階級闘争と革命の政治哲学のためだ。この点についてデロングは、正しくも辛辣な言葉を述べている。

輝かしいユートピアの未来が訪れるという大きな予言は、誤りであることが運命づけられている。新しいエルサレムが天から下ってきたりしない。だがマルクスは明らかに、あるレベルではそういうことを考えていた。

社会民主主義はイデオロギーに基づく右翼の攻撃の前に敗れざるを得ず、所得不平等は上昇し、システムは崩壊するか転覆されるだろう[とマルクスは考えていた]。だがこれについても誤りだと私は考える。

加えて、「プロレタリアの独裁」というマルクスの思想は明らかに、人類の偉大な思想の系譜の中で輝かしい部分ではなかった。今日では、政治活動家としてのマルクスにはほとんど見るところがないと私は考える。

マルクスのプロレタリア革命のビジョンの実地での実験は、単なる失敗ではなく、人類の大きな悲劇となった。ここで私が2018年にブルームバーグで書いた記事を引用しよう。

毛沢東の下で何千万もの人々が餓死したこと、ヨシフ・スターリンの下で何千万もの人々がパージされ、餓えるかグラーグ〔強制収容所〕へ送られたこと、百万もの人々がカンボジアのキリング・フィールドで虐殺されたことを忘れることはできない。マルクス自身はジェノサイドを決して支持していなかったとしても、こうした途方もない残虐行為と破滅的な経済的失策は全て、マルクス主義の名の下で行われたものだ。20世紀の共産主義は常に、人道に対する罪か、過酷な貧困、あるいはその両方をもたらしたと思われる。そして、21世紀の最も劇的な社会主義の実験場であったベネズエラは、完全な経済崩壊に陥っている。

この驚くべき失敗の記録を目にすれば、マルクスの中核的思想に、本質的にひどく間違った点があるのではないかと思ってしまうはずだ。マルクスの擁護者は、スターリン、毛沢東、ポル・ポトはマルクス主義を曲解し戯画化した事例に過ぎず、マルクス自身の思想は未だ一度も試みられていない、と言うだろう。西洋諸国の介入や石油価格の変動を持ち出す者もいるかもしれない。中国の近年の成長を共産主義の成功のストーリーとして挙げる者すらいるだろう(中国経済が毛沢東の悲劇から回復したのは、大規模な経済改革と民間セクターの急成長の後だということから都合よく目を逸らして)。

こうした言い訳はどれも虚しく響く。ベネズエラのような国を経済的自殺に向かわせ続けている思想には、本質的な欠陥があるはずだ。共産主義の指導者の残虐性と狂気は歴史の気まぐれなんかではなく、進化(evolution)より革命(revolution)を好んだマルクスの思想に由来するのかもしれない。体制の転覆は大抵、大惨事となる。成功した革命というのはアメリカ革命のようなもので、地方の制度は大部分無傷のまま残る。ロシア革命や中国の国共内戦のような暴力的な社会転覆は大抵、社会的な分断と苦い経験をもたらし、スターリンや毛沢東のような機会主義的で誇大妄想な指導者の台頭を招く。

この記事でも書いたことだが、人々が挙げる「社会主義」の成功例(現代の北欧社会)は実際には社会民主主義だ。北欧国家が混合経済を実現したのは、漸進的な革命プロセスを通じてである。それは、マルクスが予測し支持した革命的な社会変動とは似ても似つかないものだった。

経済学者はマルクスを読むべきである。それも、こうした歴史を全て頭に入れて読むべきだ。それは、社会科学のアイデアが現実の政治や制度に対して、最大限の思い上がりをもって徹底的に適用されたとき、いかにして未曽有の危害を生み出し得るのか、を思い出させてくれる分かりやすい事例である。マルクス主義はもしかすると、社会科学の過誤としては人類史上最大のものかもしれない。

これは経済学者に対する警告となるはずだ。オークションという狭いテーマに関する理論や、貧困撲滅政策のためのランダム化比較実験は、つまらない研究(small potato)に見えるかもしれないが、何千人もの子どもの頭を木に叩きつけて殺すなんて結末には至らない理由を思い出させてくれる。数式と統計的な回帰分析を用いる現代の経済学は、適切に飼いならされた学究の姿を示している。知性は真理を求める平凡な研究の範囲内で発揮され、方法論的謙虚さのガードレールに囲われている。アレックス・マスコウィッツが象徴するような学究の形は、偉大な古典の研究がほとんどそのまま大々的な歴史理論、そして革命や戦争への呼びかけに繋がるものだ。それはマルクスの残した真の遺産を体現しており、依然として有害で野蛮なものだ。

[Noah Smith, Should economists read Marx?, Noahpinion, 2025/1/13.]

References

References
1 原注:偶然にも、私はマルクスの『資本論』を呼んだことがある。だが読んだのは私が物理学専攻の学部生だった頃で、現代経済理論と関係づけながらマルクスについて考えていたわけではなかった。また、同時代のドイツの哲学者のほとんどと同様、無意味なほど難解でイライラするほど曖昧な本だと思っていた。
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