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チャド・ジョーンズ「新しいアイデアについての新しいアイデア: ノーベル賞受賞者、ポール・ローマー」

●Chad Jones, “New ideas about new ideas: Paul Romer, Nobel laureate”(VoxEU, October 12, 2018)

ニューヨーク大学のポール・ローマー氏は、「技術革新を長期的マクロ経済分析に統合した功績により」、ウィリアム・ノードハウス氏と共同で2018年のノーベル経済学賞を受賞した。本コラムでは、彼の主要な洞察と経済成長の過程に関するわれわれの理解に対する彼らの広範囲にわたるインプリケーションについて解説する。

ポール・ローマー氏が1980年代初期に経済成長に関する研究を始めたとき、経済学者の間での従来の見解――たとえば大学院で教えられているモデル――は、生産性の成長は経済の残りのどんなものによっても影響され得ないものであった。ソロー(Solow 1956)のように、経済成長は外生であった。

ローマーは、技術進歩は経済的なインセンティブに反応する研究者や起業家、発明家による努力の結果であるということを強調して、内生的経済成長理論を発展させた。彼らの努力に影響を与えるいかなるもの――たとえば税政策や研究基金や教育――は、潜在的に長期的な経済の見通しに影響を与えうるのだ。

ローマーの非常に重要な貢献は、アイデアの経済性といかにして新しいアイデアの発見が経済成長の中心にあることを明確に理解していることである。彼の1990年の論文は分水嶺である。それは、ソローのノーベル賞受賞業績以降の成長に関する文献の中で最も重要な論文である。

その論文の歴史は魅力的である。ローマーは約10年間成長に関して研究を続けてきた。1983年の論文と1986年の論文は、成長論のトピックに取り組んでおり、知識とアイデアは成長にとって重要であると示唆している。もちろん、あるレベルでは、誰もがこれが真実であるに違いないことを誰もが知っていた(そして、以前の文献にもこれらを含むものはある)。

しかし、ローマーが未だ理解していなかったものであり、未だに完全に評価された研究がなかったのは、知識とアイデアは成長にとって重要であるということがいかにして実現されるのかに関する詳細な本質であった。彼がついに成長を深く理解した証拠の1つは、1990年の論文の最初の2つのセクションが、かつての暗い部屋を照らす照明スイッチとしての最低限必要な数学しかない文章でほぼ全てが非常に明快に書かれていているということである。

以下に主要な洞察を示す。アイデアは、何かをしたり作ったりするためのデザインや青写真であるが、非競合的であるという点で他のほとんどどんな財とも異なっている。古典的な経済学における標準的な財は競合的である。すなわち、高速道路を走行する人や特定の手術の技術を必要とする人や灌漑のための水の利用が多ければ多いほど、それらは行き渡らなくなる。この競争は、ほとんどの経済の中心にある希少性の根底にあり、厚生経済学の基本定理を生み出す。

対照的に、アイデアは非競合的である。ピタゴラスの定理やプログラミング言語であるJavaや最新のiPhoneのデザインを利用する人が増えれば増えるほど行き渡るアイデアが減る、ということはない。アイデアは利用によって使い尽くされることはなく、一旦発明されれば、いかなる人数であっても同時にあるアイデアを利用することは技術的に可能である。

一例として、ローマーのお気に入りの例である経口補水療法を考えてみよう。近年まで、途上国では何百万もの子供が下痢によって亡くなっていた。問題の一部は、子供たちが下痢を患っているのを見ている両親が液体を摂取させないようにすることである。脱水が始まり、子供は死ぬだろう。

経口補水療法は、数種類のミネラル、塩類、少量の砂糖を水に溶かして正しい比率で溶解させることで、子どもに水分を補給し、命を救う救命策である。このアイデアが発見されてから、そのアイデアは毎年何人もの子供を救うために使われえた。アイデア(化学式)が、より多くの人々が使用するにつれて次第に希少になるということはない。

アイデアの非競合性はどのように経済成長を説明しているのだろうか。鍵となるのは、非競合性が規模に対する収穫逓増を生じることである。標準的な再現性の議論は、生産の規模に対して収穫一定であることを根本的に正当化している。工場からのコンピュータの生産を倍増したい場合、実行可能な方法の一つは、通りの向こう同等の工場を建設し、その上で同等の労働者や材料などを運び込むことである。すなわち、工場をその通りに再現すればよいのである。このことは、競合性のある財を用いた生産は、少なくとも有用なベンチマークとして、収益が一定であるプロセスであることを意味している。

ローマーが強調したことは、アイデアの非競合性は、この再現性の議論の不可欠な部分であるということである。すなわち、企業は新しいコンピュータ工場が建設されるたびにコンピュータのアイデアを再考する必要はないのである。代わりに、同じアイデア――一連のコンピュータの作り方の詳細な手順――は、新しい工場で使用することも、実際には任意の数の工場で使用することも可能である。なぜなら、それは非競合的だからである。

競合的な投入物(工場、労働者、資材)には規模に関する収穫一定があるので、競合的な投入物とアイデアを同時に考えると規模に関する収穫逓増がある。すなわち、競合的な投入物とアイデアの質または量を二倍にすると、総生産は二倍以上になる。

ひとたびリターンを増やすと、成長は自然についてくる。一人当たりの生産量は、知識の総ストックに依存する。すなわち、知識ストックは経済のすべての人々の間で分割する必要はないのである。

このことをソローモデルにおける資本と対照してみよう。一台のコンピュータを追加すると、一人の労働者がより生産的になる。新たなアイデア――最初のスプレッドシートまたはワープロ用のコンピュータコード、またはインターネット自体を考えよ――を追加すると、いかなる数の労働者であってもより生産的になる。非競合性を伴って、一人当たり所得の成長は一人当たりのアイデアの成長ではなく集計的なアイデアの総ストックの成長に結びついている。

いかなるモデルであれ、人口増加が原因で、集計で成長するのは非常に容易である。ソローモデルでさえそうである。自動車産業の労働者が増えると、より多くの車が生産される。ソローにおいては、自動車労働者1人当たりの自動車需要が伸びる必要があるため、1人当たりの成長を維持できない。

しかし、このことはローマーの場合には当てはまらない。研究者が多ければ多いほどより多くのアイデアを生み出すが、このことは、非競合性のために誰しもをより幸せにする。25年であれ100年であれ1,000年であれ、歴史を通して、世界は、アイデアの蓄積とアイデアを生み出す人々の数の両方の成長によって特徴付けられている。ローマーの洞察によれば、これは長期的に指数関数的な成長を維持するものである。

最終的に、非競合性と結びついた収穫逓増は、外部性のない完全競争均衡は存在しないということを意味し、資源の配分を分散させることができない。代わりに、いくつかの出発が必要である。

ローマーは、新しいアイデアの発見に対する不完全な競争と外部性の両方が重要である可能性があると強調した。独占的競争は起業家がイノベーションするインセンティブとして効果を発揮する利益を提供する。そして、発明者と研究者は、のちに先人の洞察から恩恵を受ける。

経済成長に関する研究は、ローマーの貢献によって非常に影響を受けており、後に続くわれわれはみな、巨人の肩の上に立っている。知識のスピルオーバーに適切に報いることは難しいかもしれないが、今年のノーベル経済学賞は報酬を受けるには十分である。

参考文献

Romer, Paul M (1986), ‘Increasing Returns and Long-Run Growth’, Journal of Political Economy 94: 1002-37.

Romer, Paul M (1990), ‘Endogenous Technological Change’, Journal of Political Economy 98(5): S71-102.

Solow, Robert M (1956), ‘A Contribution to the Theory of Economic Growth’, Quarterly Journal of Economics 70(1): 65-94.

ビル・ミッチェル「量的緩和 101」(2009年3月13日)

Bill Mitchell, “Quantitative easing 101“, Bill Mitchell – billy blog, March 13, 2009.

一部の読者が私に「量的緩和について説明してほしい」というコメントをくれた。彼らも視聴したことだろうが、数日前のABC 7.30 Report segmentでは、イングランド銀行(BOE)総裁のインタビューが行われていた。彼は非常に悲惨な状況にある英国経済において、融資への刺激を通じて経済活動を刺激するため、最新の戦略として “大量のポンドを刷る” というBOE(イングランド銀行)の計画を作り上げた人物だ。今一度我々は、量的緩和の実態について情報を得て、学習する必要がある。量的緩和は、需要減退と失業増加が生じている状況において、統治政府が取る戦略として決して望ましいものではないということを理解する必要がある。また我々は、 ”紙幣印刷” という呪文を脳内から除去すべきだ。

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ビル・ミッチェル「バランスシート不況と民主主義」(2009年7月3日)

Bill Mitchell, “Balance sheet recessions and democracy“, Bill Mitchell – billy blog, July 3, 2009.

 

常連読者から、東京を本拠地とするエコノミストであるリチャード・クーが書いたレポートが送られてきた。当該レポートでは、長引く不況と民主主義の関係についていくつかの興味深い問題提起がなされている。クーは、いわゆる ”失われた10年” において日本で起こったことを描写する言葉として “バランスシート不況” という用語を創造したことで、ここ10年あるいはそれ以上に渡り、ある意味有名になった。彼は現在の世界経済危機についてもその分析を適用している。彼は現代金融理論家(modern monetary theorist)ではないが、大規模財政介入の必要性と、量的緩和邦訳)の無益さを理解している。このブログ記事では、その全てについて論じる。

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ビル・ミッチェル「貨幣乗数 ― 行方不明にて、死亡と推定」(2010年7月16日)

Bill Mitchell, “Money multiplier – missing feared dead“, Bill Mitchell – billy blog, July 16, 2010.

 

 

今日はブログ記事を書くつもりではなかったのだが、気が変わった。短い記事を一つだけ書こうと思う。主流派経済学者によって今なお生き残り続けている教条的主張として、「中央銀行が未だにマネーサプライをコントロールしており、貨幣乗数は生きているが、少しの間消えているだけなのだ」というものがあるように思う。この最近の主流派のポストは、金融システムとその運用機関に関して、主流派マクロ経済学者が未だ継続中の誤った主張の典型例である。貨幣乗数は死んだわけではない、というのが事実だ――私はそれを確信を持って言える。なぜなら、貨幣乗数などそもそも存在したことがないということを知っているからだ!

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スコット・サムナー「なぜオーストラリアは26年間不況を経験していないのか」

[Scott Sumner,”Why Australia hasn’t had a recession in 26 years,” The Money Illusion, July 18th, 2017]

 

過去の投稿において、私は、オーストラリアは名目GDPを適切に成長させ続けることによって26年間不況を回避してきたことを指摘した。コメント者の中には、オーストラリアは金融政策ではなく、むしろ鉱業ブームによって恩恵を受けている“ラッキーな国”である、と示唆するものもいた。その理論は意味をなさない。なぜなら経済が非常に不安定な商品の輸出に輸出している場合、大規模かつ高度に多様化した経済を伴った国に比べてより不安定なビジネスサイクルになるだろうからである。いずれにせよ、近年のデータは完全にその説を棄却している。

ステファン・キッチナーは、かつてオーストラリア準備銀行の役人であったウォーウィック・マッキビンの見解について議論している非常に興味深い記事に私を導いた。

元オーストラリア準備銀行役員のウォーウィック・マッキンビンは、世界の中央銀行は、家計や政府の巨額の債務負担が安全に解消されるよう、名目所得の伸びを目標とする公的金利のシステムに切り替えるべきだと述べている。

“インフレーションは、価格の期待を縛り、中央銀行が資産を引き下げないという自信を人々に与えたため、良い中間段階になった”と、彼は水曜日のシドニーでの主要な経済会議で語るだろう。

1970年代や80年代、それに90年代の初期と同様に、“高いインフレ率の時にはそれが重要なのだ。”

“しかし、本当に成長とインフレーションである非常に明示的な所得ターゲットがあるなら、同じ信用度をもつことができる”、と彼は言う。

彼は、オーストラリアでは、そのことは、準備銀行は名目GDP——本質的には、どのくらいその経済がその経済の生産した財やサービスに支払われているかの尺度——の成長を約6%に保とうと試みようとしていることを意味すると示唆している。

オーストラリアは人口増加率が1.4%であるので、オーストラリアの名目GDPの成長率がアメリカ(人口増加率=0.7%)や日本(人口減少中)の名目GDPの成長率より高いのは不思議ではない。それにもかかわらず、私は、6%は少し高いので、オーストラリアには5%にいくぶんか近い成長率を勧めたい。一方で、6%でさえ2008年以降連邦銀行や欧州中央銀行、日本銀行によって実施されている一連の政策に比べればはるかに良いだろう。

オーストラリア国立大学クロフォード校出身のマッキビン教授は、公式の2%から3%のインフレターゲットは“サイクル全体”にしか適用されないので、実際に準備銀行はすでに“曖昧な名目の”所得ターゲットを追求している、と認める。

このことは、オーストラリアは大恐慌[1]の間、隠れて名目GDP目標を行っている国であったと示唆してきた様々な市場のマネタリストの主張を裏づけしている。

私は、日本のような国にとって名目所得ターゲットの最大の利点は、それが公的債務の負担を減じうるということであると主張した。マッキビンは同様の議論を行っている。

”高い公的および私的な所得に占める負債の割合の持続可能性は過去以上に高い名目所得の成長を必要とするので、今後数十年にわたって問題になるであろうことは、名目所得の成長であろう。”

興味深いことには、6%のターゲットでさえいますぐに金融引き締めが必要なように思われることである。

彼の提唱した所得ターゲットのスキームによれば、1.5%というこんにちの準備銀行のキャッシュレートは、第一四半期に前の3か月に比べて名目GDPが2.3%上昇したことと、1年前に比べて7.7%上昇したことを考慮すればおそらく低すぎる。“現在、中央銀行は名目所得基準による緩やかな金融政策を取っているだろうし、名目所得の伸びが急速に高まっているため、このルールに従って政策を強化することを期待している。”

待ってほしい。それが正しいはずはない。私の批判者は、オーストラリアは鉱業ブームから恩恵を受けている単にラッキーな国だった述べている。いまや鉱業開発が衰退しつつあるのだから、うまくいっているはずがない。それとも私が何か間違っているのだろうか?

エコノミスト誌は賢い国がいかにして再分配を扱って斜陽化する部門からはずすかを説明している。

鉱業ブームがしりすぼみになると、準備銀行はベンチマークの“キャッシュ”レートを2011年の4.75%から1.5%に下げた。オーストラリアドルは急速に下落した(6年前のピーク時には1.10ドルだったのに対し、現在では0.76ドルの価値である)。安い通貨と低い利子率によって、より高齢化が進んでいてより人口の多いニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州は経済が賑わった。不動産開発業者はより多くの家を建てる、農家はより多くの食糧を輸出し、外国人(留学生と観光客の両方)がより訪れた。たとえば、オーストラリアは昨年、過去最高となる120万人の中国人を迎え入れた。

再配分が不況を引き起こすのではなく、金融引き締めが引き起こすのだ。

かつて、私はオーストラリアは名目GDPよりむしろ被雇用者の合計の補償を目標にしたい可能性があると主張した。それはなぜなら、労働市場に大きな影響を与えることなく鉱物の輸出価格の変動は名目GDPにおける大幅な変動を生じうるからである。過去12か月、被雇用者への保障は1.4%しか増えなかったが、これは名目GDPの7.7%の上昇をはるかに下回る。この類の不一致はアメリカにおいては見られない。それゆえに恐らくオーストラリアは金融引き締めを必要としないのだろう。)

 

追伸 デーヴィッド・ベックワースがNGDPと政策立案者の直面している知識の問題についての新しいポリシーペーパーを書いている。いつもどおり、デーヴィッドはいくつかの良いグラフィックを用いている。

[1]本文では“the Great recession”と表記されている。もちろんこれは1929年に端を発する大恐慌のことではなく、2008年のリーマンショックに端を発する不況のことである。

ビル・ミッチェル「明示的財政ファイナンス(OMF)は財政政策に対するイデオロギー的な蔑視を払拭する」(2016年7月28日)

Bill Mitchell, “Overt Monetary Financing would flush out the ideological disdain for fiscal policy“, Bill Mitchell – billy blog, July 28, 2016.

 

3人の金融機関系の経済学者(二人はBIS、一人はタイ中央銀行)が書いたHelicopter money: The illusion of a free lunch (2016年5月24日)という記事がある。この記事では、明示的財政ファイナンス(OMF)、つまり中央銀行の金融的キャパシティで財政赤字拡大を実現し、非金融主体への政府債務を発行しない政策について ”話がうますぎる” 、 ”大きな代償を支払うことになる” と論じられ―― ”金融政策を永久に喪失することになる” と要約されている。彼らが行っている議論は、現代金融理論(MMT)の提唱者が20年以上に渡って発表してきた研究と極めて整合的である。その研究は今、主流派の銀行システム分析の打破を始めている。

しかし、彼らが導いた結論はオリジナルのMMT提唱者たちには支持されない。MMT提唱者たちは、OMFを極めて望ましい政策方針と見なしている。政府が本来備えている金融的キャパシティをよく表現するものだからだ。さて、件の記事では、”フリーランチ”という言葉が何を意味するかのついての疑問も提示している。このフリーランチという言葉は、マネタリストであるミルトン・フリードマンによって広められた(ただし、彼の発案ではない)。経済学におけるこの言葉は、「政府の介入はコストを生ずる」という主流的見解とセットで使用されている。しかし、今一度“フリーランチというものはない”という言葉の本当に意味するところを検討すれば、我々が(実物資源制約を強調する)MMTの体系に非常に近い形で扱っているということが分かり、また、通貨発行権を持つ政府(currency-issuing governments)に適用されている金融的制約の誤謬も明らかになる。

 

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ラヴィ・カンブール「グンナー・ミュルダールと『アジアのドラマ』の文脈」

Ravi Kanbur “Gunnar Myrdal and “Asian Drama” in context“, VoxEU, 09 March 2018

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマ』は50年前に出版された。一見すると、経済的に停滞したアジアの現実という観点から見れば、本書には近代の開発経済学者に提供しうるものはほとんどないように思われる。しかし、このコラムでは、ミュルダールが提起した問題は開発にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるということを主張したい。

 

グンナー・ミュルダールの『アジアのドラマーー諸国民の貧困の一研究』は50年前に出版された(Myrdal 1968)この本の序文は“HABENT SUA FATA LIBELLI(本にはそれら自身の運命がある)”というラテン語のフレーズで始まっており、これには例外がない。この本は非常に時間を経ており、そして経済的に停滞したアジアの現実という観点で見ているが、これはいまや明らかに時代遅れである。それゆえに一見すると、本書には近代の開発学者に提供しうるものが少ないように思われる。それでも、本書とミュルダールは、共鳴し続けており、われわれが無視している問題を、開発経済学および経済学全般の貧困に導入し、強調したと主張することができる。

グンナー・ミュルダールは1974年にノーベル経済学賞を受賞した[1]。しかし彼はそれ以前にいくつかの生涯の業績を達成している。彼はスウェーデンの伝統の影響を受けた優れた経済学者であり[2]、因習打破主義者となり経済学の方法論的な基礎に疑問を呈し、のちにケインズの一般理論においてみられるマクロ経済学に関する洞察力(スウェーデン語で出版されている)を持つストックホルム学派の創設者であり、スウェーデンの福祉国家の知的および政治的な創設者の一人であり、アメリカにおける人種差別待遇廃止の基礎としての役割を果たした、記念碑的な『アメリカのジレンマ――黒人問題と現代の民主主義』(Myrdal 1944)の著者であった。第二次世界大戦後は、彼は国連欧州経済委員会の長として鉄のカーテンを超えて経済と政治の関係に取り組み、そしてもちろん1968年の3巻におよぶ『アジアのドラマ』の著者であった。しかし『アジアのドラマ』は決して彼の最後の仕事ではない。彼はその最高傑作の出版ののち20年生き、晩年に健康状態が悪化するまで、十分に経済発展についての議論に関わった。実際、彼のノーベル賞受賞スピーチ(Myrdal 1975)はほとんどが経済発展の話題についてであった。

 

ミュルダールの最高傑作

グンナー・ミュルダールは出版の10年以上前の1957年にアジアのドラマに関する仕事を始めた。その時の世界の見方は、彼が1957年に書いたものによく表れている。

  • “…非常に豊かな少数の国のグループと、はるかにより多くの非常に貧しい国のグループがある。前者のグループに含まれる国は全体的に、継続的な経済発展のパターンがしっかりと定着している。それに対して、後者のグループでは、平均所得水準が懸念される限り、多くの国々が停滞やさらには地位の低下から脱出できないという絶え間ない危険にさらされているおり、発展が遅い。そしてそれゆえに、全体として、ここ数十年、先進国と発展途上国の間の経済格差は増大してきている。”

中国やインドやベトナムやその他の多くの国の爆発的な成長に伴って、最近四半世紀のアジアの発展の現実に関して最も食い違っているのは、半世紀以上前のこのフレーミングである。アジアのドラマは主には南アジアに焦点を当てているものの、この本では中国やその他のアジアの国もしばしば同様に描かれている[3]。当時のほとんどの他の人と一緒で、ミュルダールもインドや中国の経済が半世紀と少しの間にアメリカ経済の規模のライバルになるだろうとは予測しなかったのである。

 

21世紀における開発の言説との関係

しかしながら、21世紀の開発に関する言説には、『アジアのドラマ』とアジアのドラマ前後のミュルダールの強い痕跡が見られる。なぜなら、ミュルダールが彼の生涯およびアジアのドラマを通して提起した問題は、発展にとってだけでなく経済に関するわれわれの学問と政治経済学という広範な領域にとっても基礎をなすものであるからである。ここに、そうした3つのテーマを挙げる。

これらの第一のものは分析における価値の役割である。ミュルダールは、経済学は価値判断を前提としている[4]と主張し、1930年代に最初に主張してからは決して意見を変える[5]ことはなかった。彼はこのことについては19世紀から活発な議論がなされているが、自然科学に匹敵する地位を達成しようと、彼の時代の経済学は経済学自体を、価値観を含まないものとして描写することを試みていたと主張した。しかし経済学の本質を考慮すると、このことは明らかに当てはまらず、また不可能でもある。価値観を含まないふりをするよりはむしろ、彼は価値観を明確にするべきだと提案し、彼の提案を『アジアのドラマ』の中で非常に徹底的に実行した。

『アジアのドラマ』に関する研究から現れる第二のテーマは、グンナー・ミュルダールの生涯の業績の相対的なコンテクストは、社会を理解するためはおろか、経済それ自体を理解するためにも狭い経済学の原則を超えることが必要だということであった。業績をとおして、ミュルダールは経済学の中心的な信条を健全に尊重し続けた。実際、『アジアのドラマ』に関するレビューの中にはこの点に非常に注意しているものもある。しかし、彼の主要な主張は、経済的な事実を説明しようと試みるときや経済政策の処方箋を作るときに、社会的、文化的、政治的なコンテクストを十分に理解することの必要性であった。このことは支配層のエリートの役割や、彼が「軟性国家」[6]とよぶところの政策形成と政策実施の間の違いに関する議論の中でやり通されている。

しかし支配エリートや腐敗、軟性国家は『アジアのドラマ』とミュルダールの生涯の業績において私が第三のテーマだと考えるものを前面に持ち出す。これは、国家と市場との間のバランスを発見するための絶え間ない努力である。その努力は、公の知恵によって導かれるべき国家と、可能な限り干渉を最小限に抑えて、個々の裁量に任せなければならないものとしてエドマンド・バーク(1795)によって立派に表現されている。

私は、これが実質的に政治経済学の永遠の問いであるとカンブール(2016)において主張した。ケインズ(1926)は、同様に有名な自由放任主義批判の中でこれに言及した。明白な市場破綻に直面した介入主義的スタンスと、政府の失敗の実現に対する撤退との間のシーソー、そしてそのバランスが崩れたところは、開発援助および開発不足の罠から脱出する方法としての計画の不足と、エリートと軟性国家に人質を与える罠としての計画それ自体の間で常に揺れ動いていることに関する、グンナー・ミュルダールの彼自身および彼の考え方のサイクルに伴う具体的な努力とにおいて見られる。

 

過去半世紀で、開発に関する視点は劇的に変化してきた。しかし、ここで議論された三つのテーマを含む基本的な緊張は未だにわれわれとともにある。いまとなっては過去50年間でコンテクストが変化したにもかかわらず、それらは過去10年間の全てではないにしてもほとんどの「全体像」や「概観」の本において、何らかの形で見つかるだろう。これらの緊張とのミュルダールの努力は、21世紀の開発の言説に対する彼の究極的な遺産である。

 

参照

Barber, W J (2008), Gunnar Myrdal, Palgrave Macmillan.

Burke, E (1795), “Thoughts and Details on Scarcity. Originally Presented to The Right Hon. William Pitt, in the Month of November”, published in F Canavan (ed.), Select Works of Edmund Burke, Liberty Fund (1990).

Kanbur, R (2016), “The End of Laissez Faire, The End of History and The Structure of Scientific Revolutions”, Challenge 59(1): 35-46.

Kanbur, R (2017), “Gunnar Myrdal and Asian Drama in Context”, CEPR Discussion Paper No. 12590.

Keynes, J M (1926), “The End of Laissez-Faire”, in The Collected Writings of John Maynard Keynes, Volume IX, Essays in Persuasion, Royal Economic Society, Palgrave MacMillan (1972).

Myrdal, G (1944), An American Dilemma: The Negro Problem and Modern Democracy:  Volumes I and II, Harper and Row

Myrdal, G (1954), The Political Element in the Development of Economic Theory, Harvard University Press.

Myrdal, G (1957), Economic Theory and Underdeveloped Regions, Harper and Row.

Myrdal, G (1968), Asian Drama: An Inquiry into the Poverty of Nations (Volumes, I, II and III), A Twentieth Century Fund Study, Pantheon.

Myrdal, G (1975), “The Equality Issue in World Development”, 1974 Nobel Lecture.

Rosen, G (1968), “Review of ‘Asian Drama’”, American Economic Review 58(5): 1397-1401.

 

脚注

[1] 彼は「貨幣理論および経済変動理論に関する先駆的業績と、経済現象・社会現象・組織現象の相互依存関係に関する鋭い分析を称えて」フリードリヒ・ハイエクとノーベル経済学賞を分け合った。多くの人は、自由市場の象徴であるハイエクが社会民主的な干渉主義の擁護者であるミュルダールとペアになるのは奇妙で皮肉だと考えた。

[2] 話の通り、彼は法律を専攻として卒業したが法律に幻滅した。彼の妻であるアルバ・ミュルダール(彼女自身が象徴的な人物でありのちのノーベル平和賞受賞者である)は、彼にグスタフ・カッセルの Theoretische Sozialokonomie(邦題; 『社会経済の理論』)を買ったところ、彼は経済学に没入し、発刊された1899年以降のEkonomisk tidskriftというスウェーデンの経済ジャーナルのすべての号を読みとおした。 (Barber 2008 および Kanbur 2017 を参照せよ)。

[3] 彼は例えば、現代史における最も壮大な貧困削減のためこんにちでは確実に信じられない、『貧困に苦しむ中国』(Myrdal 1968:11)の記述を参照している。

[4] Myrdal (1954).

[5] waverの原義は「揺れる」や「迷う」であるが、「(気持ちが)揺れなかった」という意味から「意見を変えることはなかった」と訳した。

[6] 「軟性国家(原文: Soft state)」とは、ミュルダールが独自に用いた用語であり、法律制度に欠陥があるなどの理由により、法が遵守されず、行政に不正や汚職が蔓延している国家のことを指す。

ビル・ミッチェル「銀行融資は―準備預金ではなく―自己資本によって制約されている」(2010年4月5日)

Bill Mitchell, “Lending is capital- not reserve-constrained“, Bill Mitchell – billy blog, April 5, 2010.

 

今日、バーゼル委員会の「自己資本比率規制を強化し、銀行規制体制強化のための新しい流動性ルールを導入するべきだ」という新しい提案文書をずっと読んでいる、全てを読み切るにはあまりにも膨大な文書だ。さて、私はこの新しい提案に関する二つの異なる見解に遭遇した。一部の評論家は「自己資本比率規制は銀行の信用創造能力を阻害するものであり、したがって規制が経済成長に歯止めをかけるだろう」と論じている。もし自己資本比率規制が強化されれば、そうしなかったときよりも成長率は低くなるだろう、というわけだ。一方で、著名な”進歩的”経済学者は、そうした見解に異議を唱えたが、同時に主流派マクロ経済学の迷宮の中で混乱状態に陥っていた。そうした混乱は、自己資本比率規制と法定準備制度がたびたび混同されてしまうという事実を明確にさらけ出すものだった。 [Read more…]

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げはインフレ促進的ではない」(2009年12月14日)

Bill Mitchell, “Building bank reserves is not inflationary“, Bill Mitchell – billy blog, December 14, 2009.

 

今日私は仕事でDubboにいる。Dubboはニューサウスウェールズ州の西部で、州の中でも外れた辺鄙なところにある。普通の人々はしばしば通り過ぎてしまうこのオーストラリアの田舎では、美しい景観が楽しめる。私のこの実地見学は、この地域の土着のコミュニティについて私が継続的に行っている研究と関係がある。この研究についてはいつか報告しよう。さて、今日の記事は、私が昨日に準備預金について展開したテーマの続きだ。昨日の記事―Building bank reserves will not expand credit邦訳)では、準備預金の動態について検討したが、時間が無かったので、いくつかの論点を残してしまっている。一つの論点は、準備預金拡張がインフレーションに与える影響の可能性についてだ。これは、危機に対する金融政策の効果に関する時代遅れな考えについての主流派たちの病的熱狂の核心的部分だ。結論については安心してほしい――金融政策についての唯一の問題は、それが無効であり、より大きい財政政策の努力が必要だというところだ。 [Read more…]

ビル・ミッチェル「準備預金の積み上げは信用を拡張しない」(2009年12月13日)

Bill Mitchell, “Building bank reserves will not expand credit“, Bill Mitchell – billy blog, December 13, 2009.

 

ポール・クルーグマンは、彼の最新のニューヨークタイムズの記事(2009年12月10日) Bernanke’s Unfinished Missionで、マクロ経済学について本当はあまり理解していないということを露呈した。時折、誰かコラムニスト(の書いたもの)を読むときに、疑わしきは罰せずの精神で、書かれていない背後の意味を見つけようとすることが誰にでもあるだろう。クルーグマンは、他のコラムニスト同様、時々は明らかに正しいことを言ったり、現代金融理論(MMT)に整合的な議論を行ったりしてはいる。しかしそれでも、馬脚を現すような記事がいつも現れ、それによって結局「このアナリストは本当は分かってない」ということが明らかになってしまう。クルーグマンの場合、日本の”失われた10年”の政策論議に対して彼が行った悲惨な介入から何も学ばなかったようである。 [Read more…]