●Tyler Cowen, “Why economics was late in starting”(Marginal Revolution, April 5, 2008)
「経済学がそれなりに発展を遂げるまでに18世紀の中頃まで待たねばならなかったわけだが、それはなぜなのか?」という問いをつい先日投げかけたばかり〔拙訳はこちら〕だが、それとの関連で二点ほど指摘しておきたいと思う。まず一点目。グレゴリー・クラークの研究が明らかにしているように、西洋世界が(「マルサスの罠」から抜け出して)持続的な経済成長の段階――人口1人当たりの所得が継続的に拡大していく段階――に足を踏み入れたのはようやく17世紀(17世紀のイングランド)になってからであり、経済問題を考察の対象にしようとの気運が急速に高まりを見せたのはその段階に至って以降のことだ。まずはじめに登場したのが重商主義者のグループであり、その後に続いたのがアダム・スミスをはじめとした自由貿易論者たち。ダドリー・ノース(Dudley North)だとか、ニコラス・バーボン(Nicholas Barbon)だとかといった面々だ。
次に二点目。18世紀の経済思想(ひいては社会科学)の世界で中心に位置していたのは、「私悪すなわち公共善」というアイデアだった。そのアイデアの起源は、1720年に出版された(フランスで流行していたジャンセニスムの影響を色濃く受けて書かれた)バーナード・マンデヴィルの『蜂の寓話』 [1]訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事も参照されたい。 ●アレックス・タバロック … Continue reading。マンデヴィルが暮らしていたのは、同時代の他の国に比べて公権力による検閲が緩かったオランダ共和国だったという事実は無視できないだろう。私はシュトラウス(レオ・シュトラウス)主義者ではないが、検閲が思想(経済思想)の発展に及ぼした影響という視角はしばしば見過ごされがちなのだ。
17世紀のスペインではサラマンカ学派の面々によって限界効用理論が高度な段階にまで発展させられていたが、その後が続かなかった。時代を下って19世紀のイギリスではサミュエル・ベイリー(Samuel Bailey)だとかマウンティフォート・ロングフィールド(Mountifort Longfield)――ロングフィールドの主著である『経済学講義』が出版されたのは1834年――だとかという面々が(後にアルフレッド・マーシャルが築き上げた体系の重要な一部と似通った)重要な貢献を成し遂げていたが、同時代人には見向きもされなかった。彼らの貢献の重要性が周りには理解できなかったためだ。「周りに理解されなかったのはなぜなのか?」という疑問は、「経済思想(経済学)が発展を遂げるまでにこんなにも時間がかかったのはなぜなのか?」という問題を考える時の中心テーマとなることだろう。
単なる過去の話というにとどまらないかもしれない。今でも我々の周囲には非常に重要なアイデアが転がっているのに、その価値に誰も気付けていない可能性だってある。そのアイデアの生みの親自身でさえも、その重要性がわかっていないかもしれないのだ。
References
↑1 | 訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事も参照されたい。 ●アレックス・タバロック 「経済学者の間で脈々と受け継がれる『既成道徳の転倒』という伝統芸」(2016年7月25日) |
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