アメリカ経済学会(AEA)が発行するJournal of Economic Perspectiveがアメリカの所得上位1%と残り99%の分配についての論争を特集している。経済学101では第一弾として “アメリカのトップ1%は成長の果実を(不当にも)独り占め“でBivens and Mishelを紹介した。第二弾としてグレゴリー・マンキューの”Defending the One Percent“を紹介する。
第一弾の”アメリカのトップ1%は成長の果実を(不当にも)独り占め“では所得トップ1%の所得の伸びの大部分はレントである、ゆえに非効率であるという主張がなされたが、マンキューは効率的である、と主張している。
1. 不平等は非効率か?
マンキューは、所得(分配)の不平等に関する議論は必然的に社会的・政治的規範を含んでしまうが、もし不平等が同時に非効率を生むものであるならば、ある分配がパレート基準 [1]ある状態において、そこからのいかなる変化も必ず誰かの効用を引き下げてしまうような状態にあるかどうかを満たすかどうかがまず最初のチェックポイントになる、と述べる。しかし、
As far as I know, no one has proposed any credible policy intervention to deal with rising inequality that will make everyone, including those at the very top, better off.
(私の知る限り、所得最上位層も含めてすべての人がベターオフされるような(パレート基準を満たすような)不平等への政治的介入で説得力のあるものはひとつもない。)
ある分配がパレート非効率的であるならば、その分配を政治的介入によってパレート改善すべきであることに異論のある経済学者はほぼいないであろう。誰の効用を引き下げることなしに、再分配することで誰かの効用を引き上げることが可能だからである。しかし、現実問題として所得上位者の所得を政治的に移転することで社会全体での生産が拡大(分配できるパイが増える)したとしても、所得上位者の効用は低下するためパレート改善にならないことがほとんどである。
そこで考えられるのがカルドア・ヒックスの補償原理である。再分配によって経済全体の所得(生産)が増えて、不利益を受けた人に不利益を受ける前と少なくとも同水準の効用を与える補償が(仮想的に)できれば、その再分配は社会的に望ましい、と考えるのである。
Bivens and Mishelではまさにこの点において再分配の正当性を主張しているわけである。また、スティグリッツもThe Price of Inequality(『世界の99%を貧困にする経済』)で同様の主張を行っている。トップ1%はレントであり、そこを原資として所得移転を行っても経済の生産量は変わらない、というのである。
しかし、マンキューはこれを次のような理由で退ける。
I was not convinced. Stiglitz’s narrative relies more on exhortation and anecdote than on systematic evidence. There is no good reason to believe that rent-seeking by the rich is more pervasive today than it was in the 1970s, when the income share of the top 1 percent was much lower than it is today.
([この本を読んで]私は納得しなかった。この本は体系的な証拠よりも警句や逸話に依存している。今日よりもはるかに所得シェアが低かった70年代よりも、いまの富裕層によるレントシーキングが盛んであると信じる理由は見当たらない。)
そして、彼がより妥当性を見出している本がClaudia Goldin and Laurence KatzによるThe Race between Education and Technologyである。
この本では、熟練を必要とする技術の進歩は熟練労働の需要を増加させると主張されている。このような技術の進歩は熟練労働者と非熟練労働者との所得格差を増加させるので、そのような格差を是正するには、熟練労働者の供給を、需要の増加よりもさらに速いペースで増加させることが必要となる。需要の増加ペースが供給のそれよりも上回ると熟練労働者の賃金が継続的に上昇し、非熟練労働者との差が広がるからであり、逆に供給ペースが上回れば賃金は低下し、格差は広がらないのである。
70年代まで格差が小さく、80年代以降格差が広がっているのは、当該期間において熟練労働の供給ペースに変化があったためである、としている。とくに教育の充実ペースが低下したのが80年代以降の格差拡大の原因であり、所得格差はレントシーキングの結果ではなく、
rather about supply and demand.
(むしろ供給と需要の問題なのである。)
また、レントシーキングが不平等拡大の主因である、とするスティグリッツの診断が正しかったとしても、実はそれはより深い問題の表層を判断しているだけで、所得税の累進強化という処方は非効率性を改善するわけではない、とマンキューは言う。
For example, if domestic firms are enriching themselves at the expense of consumers through quotas on imports (as is the case with some agribusinesses), the solution to the problem entails not a revision of the tax code, but rather a change in trade policy. I am skeptical that such rent-seeking activities are the reason why inequality has risen in recent decades,
(例えば、国内企業が輸入規制を通じて消費者の便益を犠牲にすることで利益を拡大しているとすれば、この不平等の是正は税制の見直しではなく、そのような貿易政策の変更を必要とするのである。私はこのようなレントシーキング行動が近年の不平等拡大の理由かどうかは懐疑的である。)
結局のところ問題になるようなレントシーキングはない、とした上で金融業界のように経済にとって重要なセクターに優秀な人材が集まるのは当然だし、それを阻害することは経済の効率性を阻害することになるわけだから、トップ1%の問題は平等性にあるのではなく、トップ1%の優秀な人間が社会的にも生産性の高い領域で活躍できる下地を作ることにある、とマンキューは言う。
we shouldn’t be concerned about the next Steve Jobs striking it rich, but we want to make sure he strikes it rich in a socially productive way.
(我々は次のスティーブ・ジョブズがリッチになることを心配するのではなく、社会的に生産的な分野でリッチになれないことを心配すべきなのである。)
2. 必要なのは機会の平等である
経済学者、とくに右派の経済学者は機会の平等を重要視する傾向がある。マンキューもそのうちの一人である。なぜなら、機会の平等そのものが社会的ゴールであるだけでなく
economists recognize that the failure to achieve such equality would normally lead to ineffificiency as well.
(機会の平等が与えられなければ、通常は非効率性をもたらすことを経済学者は認識している)
からだ。
機会の平等を測るためにスティグリッツは所得の世代間の変化に注目している。仮に完全な機会の平等が実現しているならば、生まれとは無関係に所得が分布するであろう。つまり、親が金持ちであろうと、貧しかろうと、同じ比率で所得がばらつくことが要請されるわけだが、もちろん現実はそうではないから、スティグリッツは「アメリカは機会均等の国ではない」と結論付ける。これに対しマンキューは「機会の平等以外にも遺伝の様々な要素が所得に影響する」と反論する。IQは所得と強い相関があり、IQの高低は遺伝することが知られている。また、意志の強さや集中力、社交性なども遺伝的な要素があり、それらも所得の関連があるため、機会が平等であったとしても、親の属性によって子の所得は異なる分布を持ちうる。
これらの研究は生物学あるいは遺伝学の領域にとどまらず、遺伝経済学(genoeconomics)という経済学の一分野になりつつある。双子を使った研究でBenjamin et al. (2012) は学習到達度と所得は家庭環境の違いとの相関が最も小さい項目である、と報告している。世帯所得の分散の33%が遺伝的に説明でき、11%が家庭環境、残りの56%が家庭以外の環境によって説明できる、と推計している。家庭以外の環境を提供するのは誰なのか、という疑問は浮かぶがマンキューは11%の方を重視する。
If this 11 percent figure is approximately correct, it suggests that we are not far from a plausible definition of equality of opportunity—that is, being raised by the right family does give a person a leg up in life, but family environment accounts for only a small percentage of the variation in economic outcomes compared with genetic inheritance and environmental factors unrelated to family.
(もしこの11%という数字が概ね正しいのなら、機会の平等はそれなりに与えられていると言って良いのではないだろうか。良い家庭に恵まれれば若干の下駄は履けるが、そのような家庭環境が経済的結果の分散に与える影響は、遺伝や家庭とは関係ない環境要因に較べると限定的と言えるからだ。)
所得分布の歪みは非効率的でもなければ、機会の不平等の結果でもない、というのがマンキューの結論である。
3. ザ・ビッグトレードオフ
アーサー・オーカンは Authur Okun (1975) で平等と効率の間の大きなトレードオフについて述べている。平等の実現のために移転を行うと、そのプロセスで”漏れ”が生じるため、非効率性を生む、というのである。オーカンは平等そのものに規範的価値を認めるため、そのような非効率を受け入れてでも再分配を重視するが、マンキューは次のように考える。
But because we are also concerned about effificiency, the leak will stop us before we fully equalize economic resources.
(しかし我々は同時に効率性も問題にするから、”漏れ”の問題は平等を実現させる障害になるであろう。)
この点を情報の非対称性を使って論じたのが Mirrlees (1971) である。生産性の違いのある労働者と社会全体の厚生を最大化したい為政者がいるが、為政者はどの労働者が高い/低い生産性を持っているかが分からないようなモデルを考えた。労働者は自らの生産性を調整できなず、為政者から観察できるのは所得(生産性に実効労働を乗じたものに等しいと仮定)のみとする。このとき、その情報を元に所得移転をしようとすると、生産性の高い労働者は(実効労働を減らし所得を調整することで)生産性が低いフリをするインセンティブが働き、極論すれば、すべての労働者が低生産性労働者として振る舞うようになり、結果としてそれぞれが自分の脳力を発揮した時よりも総生産が減少するという意味で非効率的になってしまう。
この時重要になるのが実効労働の弾力性となる。弾力性が低ければ所得移転に伴う労働の減少は起きないので、非効率性は生じないが、弾力性が高ければ非効率性は大きな問題となる。
これらの考え方の基礎には功利主義と(サミュエルソン的な意味での)社会的厚生関数の存在の仮定がある。これらの基礎を受け入れたとしても功利主義にはいくつかの問題があるため、社会的厚生関数を持つ為政者という功利主義的な考え方を再分配の議論のベースに置くのは適切ではない、とマンキューは論じる。
4. 功利主義が抱える難点
For economists, the utilitarian approach to income distribution comes naturally. After all, utilitarians and economists share an intellectual tradition: early utilitarians, such as John Stuart Mill, were also among the early economists. Also, utilitarianism seems to extend the economist’s model of individual decision making to the societal level. Indeed, once one adopts the political philosophy of utilitarianism, running a society becomes yet another problem of constrained optimization. Despite its natural appeal (to economists, at least), the utilitarian approach is fraught with problems.
(経済学者にとって所得分配に対して功利主義的なアプローチをすることはごく自然なことである。もともと功利主義者と経済学者は知的伝統を共有しているからである。ジョン・スチュワート・ミルのような初期の功利主義者は同時に初期の経済学者の一人でもあった。また、功利主義は経済学における個人の意思決定モデルを社会的レベルに拡張したものとも言える。事実、功利主義を受け入れてしまえば、社会運営はごくありふれた制約付き最適化問題になってしまうのである。功利主義アプローチは(少なくとも経済学者にとって)魅力的であるが、数々の問題をはらんでいる。)
功利主義の問題点としてはまず、効用の個人比較や交換が必要になる点があげられる。また、地理的な問題も生じる。国内の所得分布の歪みを問題にする経済学者は多いが、国際的な所得分布の歪みについては微妙だ。功利主義に基づけばそのような歪みに対しても同じような主張を行うべきだが、そのような国境を超えた所得移転について積極的な主張をする経済学者は少ない。さらに、マンキュー自身もWeinzierlとの共同論文で次のように指摘する。生産性と相関を持つ特徴、例えば身長、に依存した税制は所得に依存した税制とは異なりインセンティブ整合的であり、ゆえに功利主義的に望ましいものであるが、現実にはそういった税制を望ましいと考える人は少ない。望ましいと考える人が少ない功利主義に基づいたシステムはそもそも功利主義的といえるのだろうか?というのがマンキューの批判である。そして4つ目に功利主義モデルが我々の道徳的直観を正しく捉えていない可能性を指摘する。情報の非対称性のないモデルで考えたときでさえ問題が生じるのだ。そのようなモデルでは、いくつかの仮定のもとでの最終的な結論は生産性の高い労働者がより長く働き、労働の不効用を受け入れ、生産性の低い労働者はより長い余暇と、高生産性の労働者と同水準の消費を楽しむということになる。が、しかしこれは本当に平等といえるのだろうか?
5. 左派への反論
It is, I believe, hard to square the rhetoric of the Left with the economist’s standard framework.
(左派のレトリックを経済学者のスタンダードなフレームワークと両立させるのは難しいだろうと私は考えている。)
マンキューは次の3点が左派の主な主張であるとし、それぞれに反論を加えている。
- 税制が逆進的である。
- トップ1%の所得は彼らの社会への貢献を反映したものではない(レントーシーキングである)。
- トップ1%は社会インフラに対し相応な応益税を支払っていない(公共財にフリーライドしている)。
まず、税制の実質的な累進度に関しては国税であるアメリカ連邦政府の所得税については議会予算局(Congressional Budget Office)が報告書を提出している。例えば2009年について所得下位20%(平均所得23,500ドル)の実効税率は1%、中間の20%(平均所得64,300ドル)の実効税率は11.1%、上位20%(平均所得223,500ドル)の実効税率は23.2%、上位1%(平均所得1,219,700ドル)の実効税率は28.9%であった。
億万長者であるウォーレン・バフェットは自分自身を例にしてアメリカの金持ちは十分な税を負担してないと訴えた。彼は課税所得の17.7%しか納税していないと主張したのである。これに対してマンキューは、バレットの所得は給与所得だけでなく譲渡所得(キャピタルゲイン)や配当も含んでいるはずで、それらの見た目上の税率は低いが、資本や利益に対して既に課税されている分を考慮していないことを指摘する。
2点目のレントシーキングについてマンキューは
The key issue is the extent to which the high incomes of the top 1 percent reflflect high productivity rather than some market imperfection.
(争点はトップ1%の所得がどの程度が生産性を反映し、どの程度が市場の不完全性を反映したものなのか、という点である。)
と述べる。この点について経済学者間の合意はないとした上で、マンキュー自身の予想としてはほとんどの高所得者はレントシーキングの結果所得を得ているのではなく、彼らの社会への貢献を反映した所得を得ているものだとしている。左派はこの点について、CEOの高い報酬は取締役会は株主の利益を代表するのではなくお手盛りで決定されたものであると批判するが、マンキューは所有と経営が分離されていないような非上場会社のCEOの報酬も、上場企業と同様に上昇していることから、この批判は適当ではないと反論する。
3点目は、金持ちはより多くの社会資本を利用しているから、それに応じて税を負担するべきである(応益税)、という左派の論理だが、これは実証されるべき問題である。さらに、政府のサイズはGDPに比較して徐々に大きくなっているが、それは道路を作ったり法整備をしたり、よりよい教育システムを作るためではなく、所得移転を行うために大きくなってきたという経緯を考えると応益税という考え方は無理があるだろう、というのがマンキューの主張である。
結論として、マンキューは左派の主張はもっともであるが、いずれも前提条件が間違っているから受け入れることはできない、とする。税制が逆進的なら累進的にするべきだが、すでに累進的だ。レントシーキングがあるならそれをなくすシステムを構築すべきだが、レントシーキングの事実はない。金持ちが社会資本にフリーライドしているなら課税すべきだが、実際にはフリーライドしていないからだ。
My disagreement with the Left lies not in the nature of their arguments, but rather in the factual basis for their conclusions.
(左派との意見の相違は彼らの議論の本質的な部分からではなく、彼らの導く結論についての事実認識から生じるのである。)
6. 功利主義とは別の哲学的フレームワークが必要
所得の再分配を根拠付ける功利主義とは別の社会哲学としてジョン・ロールズの Rawls (1971) が挙げられる。「原初状態」と「無知のヴェール」という概念を使って再分配を根拠付けることができる。仮に人間が才能に恵まれるか恵まれないかいずれかの状態で生まれるとする。そして、人間が生まれる前(原初状態)にはどのようなタイプに自分が生まれるかわからない(無知のヴェール)が、才能に恵まれなかった場合には所得移転を受け、才能に恵まれた場合には所得移転を与える社会契約を結べるような思考実験を考える。この時、人々が皆リスク回避的ならば、そのような社会契約を行うことに合意するであろう。生産性の高い人間から生産性の低い人間へ政府が所得移転をすることはこのような考え方で正当化することが可能である。
マンキューはさらなる例として腎臓を挙げる。腎臓病を患う人と患わない人のいずれかに生まれるとすれば、先ほどの議論をそのまま踏襲すれば、人々は健康な人は腎臓病を患った人に腎臓を提供する義務を負うことに合意するはずである。しかし、
No doubt, if such a policy were ever seriously considered, most people would oppose it. A person has a right to his own organs,
(そのような政策が真面目に検討されたとしたら、殆どの人が反対するに違いない。人は自分の臓器に関する自由の権利を持っているのだ。)
腎臓について 無知のヴェールと原初状態の議論で導かれた臓器提供義務が、自分の臓器に関する自由の権利を否定するものでないのなら、
why should it supersede the right of a person to the fruits of his own labor?
(自分の労働の高いに関する自由の権利も否定できない、と考えるべきなのではないか。)
そこでマンキューは別の社会保障的視点を提案する。ヴィクセル(Knut Wicksell 1896)やリンダール(Erik Lindahl 1919)によって提唱された「公正な税制(just taxation)」にも共通するが、Mankiw (2010)で提案しているのは次のような方法である。
If the economy were described by a classical competitive equilibrium without any externalities or public goods, then every individual would earn the value of his or her own marginal product, and there would be no need for government to alter the resulting income distribution. The role of government arises as the economy departs from this classical benchmark. Pigovian taxes and subsidies are necessary to correct externalities, and progressive income taxes can be justified to finance public goods based on the benefits principle. Transfer payments to the poor have a role as well, because fighting poverty can be viewed as a public good.
(もし経済がいかなる外部性も公共財も持たない古典的な競争均衡であったならば、すべての個人は自らの限界生産の価値に等しい所得を得るだろう。そしてその結果としての所得分配に政府が介入する必要はないであろう。政府の役割はこの古典的なベンチマークから乖離した時に生じる。外部性を修正するためにはピグー税・補助金を、公共財を賄うために受益原理に基いて累進税が正当化され、貧困との戦いは公共財であるという認識から所得移転が正当化されるのである。)
とは言え結局のところ、これは規範的な問いであり、哲学的な溝を経済学が埋めることはできない、というのがマンキューの結論である。
References
↑1 | ある状態において、そこからのいかなる変化も必ず誰かの効用を引き下げてしまうような状態にあるかどうか |
---|
0 comments