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Archives for 1月 2017

タイラー・コーエン 「歯医者に『いい仕事』をしてもらうにはどうすればいい?」(2006年4月25日)

●Tyler Cowen, “How to motivate your dentist” (Marginal Revolution, April 25, 2006)


昨日のことだ。歯医者に行ったのだが、すぐに家に戻ってこれるのがわかっていたこともあって(なんてことはない。たかが根管治療に過ぎなかったのだ)、読むものを何も持っていかなかった。そのため診察台に座っている最中は手持ち無沙汰で暇だったので、歯医者がどのようなインセンティブに直面しながら(あるいはインセンティブ無しで)治療にあたっているのかについてあれこれと考えを巡らせていた。その成果を以下に語らせてもらうことにしよう。

私のかかりつけの歯医者はかなりの腕利きだ。とは言っても、その医者がどれだけの「意欲」(やる気)を持って仕事に取り組むか(一生懸命働こう、いい仕事をしようという気になれるかどうか)という問題になるとどの患者に対しても同じだけの意欲を持って接するというわけにはいかず、この面(医者が歯の治療にどれだけの意欲を持って向き合うかという面)で患者ごとにバラツキが出てくることはどうしても避けられないことだろう。

(歯医者に対して)金銭的なインセンティブ1が何も与えられないようであれば、歯医者は患者の痛みを和らげるために相応の努力を注ごうとはしないことだろう。「評判」がかかっているじゃないか、という意見もあるだろう2。しかしながら、カーネマン(Daniel Kahneman)らの研究によると、「痛みの長さ」と「痛みの記憶」との間にはこれといった関係は見られないらしい3。そうだとすると、患者の声を集めた「評判」は歯医者の仕事ぶりの良し悪しを測るシグナル(指標)としてはいくらか欠陥があることになる。また、その歯医者の「評判」がどのようなものであれ、どの患者もその「評判」から予想される「平均的な」治療よりも(その歯医者が担当する他の患者の誰よりも自分のことを)ずっと手厚く扱って欲しいと思うことだろう。

歯医者の「仕事ぶり」(パフォーマンス、成果)が見事なものだったと思うのであれば帰り際にボーナス(チップ)を払うようにしたらいいんじゃないか? そういう意見もあるかもしれないが、そうなると患者にできるだけ痛みを与えないようにしようと試みられてそれが行き過ぎてしまうかもしれない。例えば、「歯が欠けたというお話ですが・・・、心配しないで大丈夫ですよ。治療の必要はないようですね」といった具合にだ4

ちなみにだが、昨年からかかりつけの歯医者を変えることにした。それまで通っていた歯医者では歯のクリーニング中に余計な痛みを与えられてそれを我慢しなければならなかったからだ。

自分も同業者(歯医者)であるかのように装うというのはどうだろうか?5(この手を試す場合はこちらのサイトが役に立つだろう) あるいは弁護士であるかのように装うというのは?6 「顔の広さ」(人脈の広さ)を仄めかすというのはどうだろうか?7

かかりつけの歯医者を変えたという話は先にしたが、新しい担当医の前では何も怖くはないかのように装うようにしている。また、帰り際に「今日もいい仕事ぶりでした」と口頭で伝えるようにもしている。その担当医が「私は名医だ」というセルフイメージ(自己認識)を持ってくれるようになれば結果として「いい仕事」を引き出せるのではないかと慮(おもんぱか)ってのことだ。「成果給」(仕事ぶりに応じたボーナス(チップ)の支払い)はそううまくはいかないのではないかというのが今のところの見立てだ。

他に何か「こうすればいい」という案はないだろうか?

  1. 訳注;少し後で出てくるが、歯医者のその日の「仕事ぶり」に応じて治療終了後にボーナス(チップ)を支払うというのは金銭的なインセンティブの一例。 []
  2. 訳注:「あそこの歯医者は行かない方がいい。痛いのなんのって」という悪評が立つとお客(患者)の入りが悪くなるかもしれない。そのため、歯医者としてはそのような悪評が立たないようにしようと気を遣う(患者に余計な痛みを与えないように気を付ける)可能性がある。 []
  3. 訳注;治療の時間(痛みを経験する時間)が長ければ長いほどその痛み(治療)の記憶が後々まで(不快な記憶として)強く残るかというとそういうわけではない、ということ。このことに関しては例えばこちらのブログ記事(“書評- D・カーネマン, Thinking, fast and slow -④”(Flip-Flop|フリップ-フロップブログ, 2012年1月16日))を参照のこと。 []
  4. 訳注;治療の痛みが少なければ患者も満足してくれるだろう(そして帰り際にボーナスを支払ってくれるだろう)と当て込まれる結果として(痛みの伴う)必要な治療が先延ばしされてしまい、長い目で見ると患者のためにならないかもしれない、という意味。 []
  5. 訳注;相手(患者)も同業者らしいということになると手抜きや不必要な治療もすぐに見破られるかもしれない、と感じて歯医者も緊張感を持って治療にあたるようになる可能性がある。 []
  6. 訳注;「変な治療でもしようものなら訴訟を起こすぞ!」という脅しになる。 []
  7. 訳注;顔が広いと思われると歯医者の態度も変わる(丁寧に治療してくれる)かもしれない。数多くいるらしい知り合いに「腕利きの歯医者」として紹介してもらえれば新規の客(患者)を大勢獲得できるかもしれないからだ。 []

マイルズ・キンボール 「『恐怖に対する祈り』 ~歯科恐怖症を和らげる魔法の言葉?~」(2012年8月27日)

●Miles Kimball, “The Litany Against Fear”(Confessions of a Supply-Side Liberal, August 27, 2012)


明日は歯医者に行く予定になっているのだが、どうやら根管治療待ったなしのようだ1。歯医者の診察台に座るたびに我が身に迫り来る「中型」の「恐怖」に立ち向かうために個人的にきまって頼りにしてきたのが「ベネ・ゲセリットの祈り」――フランク・ハーバート(Frank Herbert)〔日本語版ウィキペディアはこちら〕のSF小説『デューン』シリーズ〔日本語版ウィキペディアはこちら〕に出てくる「ベネ・ゲセリットの恐怖に対する祈り」――だ。以下に引用しておこう。

恐れてはいけない。
恐怖は心を殺すもの。
恐怖は何もかも忘れさせてしまう小さな死。
我が身に迫り来る恐怖に立ち向かうとしよう。
恐怖が我が身を横切るのを、恐怖が我が身を通り抜けるのをただただ放っておくとしよう。
そして恐怖が我が身を去るのを待つとしよう。心の目を使って恐怖が辿った軌跡をなぞるのはその後(恐怖が我が身を去った後)でのことだ。
恐怖が去った後にはもう何も残ってはいない。
そこにあるのは(後に残るのは)ただ私だけ。

  1. 訳注;歯の根を治療しないといけなくなりそうだ、という意味。 []

ジョバンニ・ファッキーニ, ヨタム・マルガリート, 中田啓之 『移民移入に対する世間の反感を情報キャンペーンで迎え撃つ』 (2017年1月9日)

Giovanni Facchini, Yotam Margalit, Hiroyuki Nakata,”Countering public opposition to immigration with information campaigns” (VOX, 09 January 2017)


 

諸般の極右政党が世界中で相当な選挙成果を挙げる近時の状況、その一端を担っているのが強硬な反移民移入レトリックである。本稿では、移民移入の良い面に関する情報への露出を通しこうした世間の敵対感情を緩和できないか、この点を見定めるべく日本で実施された或る実験の結果を紹介する。結果、この種の情報露出を通し、個人の移民移入支持傾向が43%から72%ほど上昇する事が判明した。移民移入に対する敵対感情の払拭をめざす政策画定者にとって、情報キャンペーンは極めて有望な道であるようだ。

移民移入は依然として移住先となった多くの国の政治討論における重要問題である。諸般の極右政党は強硬な反移民移入レトリックを駆使し、オーストリア (Halla et al 2016)、フランス、ドイツ (Otto and Steinhardt 2014)、オランダ、スイス (Rydgren 2008) などの国で相当の選挙成果を挙げている。移入民に対するあからさまな敵意や人種主義を顕示する行為のみならず暴力行為までもが急激に増加しており、数多くの公的調査で移民移入に対する懸念の高まりと異例なレベルの反感が示されている。こうした反対に何を以て臨むべきか? その答えは恐らく人々の移民移入に関する見解がどの程度生理的なものであるのかに依存する – つまり問題は、多くの場合変化を容れ難い強固な皮膚感覚にどの程度根付いているのか、この点に掛かっている。換言すれば、移民移入から見込まれる経済的・社会的便益に係る情報への露出を通し、世間の敵対感情を緩和することは可能なのか? 最近の論文で我々は、日本における大規模な全国的実験を実施し、この問題に挑んだ (Facchini et al 2016)。本実験結果は、情報への露出が移民移入問題に対する態度の変容をめざすにあたり実際に有効となり得ること、しかもその効果は短い期間に留まらないことを示しており、反移民移入感情の緩和を図る大規模情報キャンペーン採用の有望性が示唆されている。

実験設定

本研究のフォーカスを置いた日本は、低出生率・人口の急激な高齢化・幾つかの経済部門における切実な労働力不足の結果、人口動態・経済面で相当な困難に直面している。それにもかかわらずこれまで日本政府は移入民に対する門戸開放には頑なに抵抗してきたが、そうした背景の少なくとも一部を成していたのが世間からの広い反感であった。

今回の実験は同国民を代表するサンプル個人9千名を用いて実施された。狙いとなるのは、移民移入から潜在的に見込まれる経済・社会的便益にまつわる情報に個人を露出することが、移民移入政策に対する世間の選好のシフトに繋がるのかの検証である。社会的望ましさによるバイアス [social desirability bias] ないし 『要求効果 [demand effects]』 を回避するため、回答者には本研究が対移民移入態度にフォーカスしたものである旨を伝えていない。その代わりに、参加者には日本の高校における読解力試験に用いられているテキストの続用可能性を判断してもらう旨を告知した (一定の課題取組水準を確保するため、回答者には幾つかの側面からテキストを評価してもらう段取りとなっている)。参加者に配布した2つのテキストはともにおよそ200字のレポートで、短い新聞記事の様に読める体裁になっている。第一の記事は或る日本人画家の生前の体験を綴ったもので、全ての参加者に割り当てられた。その上で、対照グループに対しては、第二の記事として冥王星についての最近の諸発見を扱ったものを一つ読んでもらった; 処置グループに対しては、これに代え、日本における社会経済的問題を論じた第二の記事を一つ読んでもらったが、こちらではこうした問題との取組みにあたって移民移入が手助けとなる可能性が取上げられている。

以上の情報への露出が参加者の移民移入政策に対する態度に何らかの影響を及ぼしたかを見定めるため、サンプルの3分の2に対しては読解を終えた時点で、移民移入問題も含む政策問題に関する一連の質問に回答してもらった。サンプルの残る3分の1にあたる参加者 (3千名の回答者) にはこうした質問を表示していない [not prompted with those questions]。それに代え、これら参加者には読解評価を終えて10-12日経過してから同サーベイへの協力を依頼した。

同情報処置は大きく4つのグループに分類される。第一グループには人口動態的処置への露出が行われた。これはこの先数十年間でさらに深刻化すると予想されている相当の人口減少に対する関心を呼び起こそうというものである。この介入では、移民移入が人口縮減問題を軽減する可能性について、回答者に思いを馳せてもらう事が目標となる。第二の処置グループは労働市場枯渇にフォーカスしたもので、重要経済部門における労働者の過小がもたらす負の影響、そしてなぜ移民移入がこうした状況打開の手掛かりとなるのかを取上げている。第三グループは比較検討処置への露出を行う。同処置には日本への移住の相対的な規模を他のOECD諸国におけるそれと比較検討した情報などが含まれる。他の富裕な国々の社会に浸透している規範への協調性を引き出すことにより、移民移入の妥当な水準に関する日本人回答者の見解に影響を及ぼし得るか、この点を明らかにしようとしたのである。

最後の第四処置は、人口の高齢化とその帰結に関連し、移民移入が果たし得る役割に注目したもの。この問題の日本における顕著性を考慮し、3つのサブグループを設け、同現象の持つ次の3つの異なる側面への関心を呼び起こす工夫をした: すなわち、年金システムの維持可能性・長期的なケア提供業者の必要性拡大・医療システムの資金不足である。これら何れのケースにおいても、移民移入が問題の軽微化のための考え得る道として取り上げられている。

以上論じた処置に加え、さらに情報がどの様に伝達されていたか、すなわち統計情報の要約という形で伝達されたのか、それとも特定個人 (典型例) 談の一部という形で伝達されたのか、この点にも踏み込んだ。

上記処置が回答者の持つ移民移入に関する見解に及ぼした影響を見定めるにあたって、次の3つの質問を行った。1つ目の質問では移民移入政策に関する一般的な選好について (『もっと移入民を』 指標); 次の質問では短期的移住 [temporary migration] について (『短期ビサ [temporary visa]』 指標); そして第三の質問では移入者数増加を求める請願への署名に回答者がどの程度意欲的か (『請願』 指標)、それぞれ尋ねた。見易さの考慮から回答には二値化を施しており、1は移民移入賛成に傾くスタンスを示す。

結果

下の図1に掲載されているものがベースライン結果になる。各処置の効果を報告し、対照グループを参照に付した。

図1 情報処置の政策スタンスへの影響 (棒線は95%信頼区間)

結果は極めて印象的である。先ず、最上部のパネルをご覧頂きたい – 本分析 [1] の示す所では、非-処置サンプル中の個人だと、移民移入レベルの増加を支持する者は同集団中たった29%に過ぎない。しかし移民移入の経済的便益の幾つかに関わる情報提供した場合では、個人の意見に、大幅かつ有意な正の効果が確認されている。これは全ての処置に当て嵌まる。効果の範囲は12%から21%ポイントで、これは何らかの情報処置に露出した個人は、対照グループ中の個人と比べ、移民移入を支持する傾向が43-72%も高くなっている事を意味する。

短期的移住への態度についても類似のパターンが観察されている (中央パネル)。こちらでは、ベースライン支持率が比較的高く、37%だった。しかしここでも確認された情報処置効果は全てのケースで正の値を取りかつ有意であり、7から15%ポイントの範囲を取っている。ベースライン支持率から18-42%も増加したことになる。

最下部パネルでは、処置テキスト読了後の個人が、政府に対し日本への移民移入を増加するよう求める請願の署名に応諾する傾向を高めたかどうかを報告している。請願署名の際、参加者は詳細な個人情報の開示を要求される。したがってこの 『比較的コストの高い』 基準において引き出された支持レベルが、厳密に態度のみに関わる質問の場合より低水準であったのも驚くには当たらない。それでも、移民移入の潜在的便益に関する情報を取得していることが、積極的に政治過程に参加する意欲にも影響を及ぼしている事が確認されている。これは4つの処置のうち3つの高齢化問題に関するもの、および人口動態的処置に露出した個人にとりわけ当て嵌まる。相対的にみれば、効果はここでもかなり大きく、ベースラインから39-53%の増加に相当する。

果たしてこうした影響は時間が経っても持続するだろうか? 図2では読解力調査直後にインタビューした参加者および10-12日後にインタービューした参加者に見られた処置効果を比較している。両パネルから明らかな様に、長期的な効果は短期的効果よりも一貫して小さいが、それでも処置効果は引き続き移民移入への一般的態度に大幅かつ有意な影響を及ぼしている (左パネル)。準-行動的な [quasi-behavioural] アウトカム (請願) に関わる回答は、依然として正の値であるが、時を経るにつれ弱化、統計的有意性を喪失している。

図2 短期的 vs 長期的効果 (棒線は95%信頼区間)

最後に、情報の伝達形式に重要性は見られたか? 説得力 [persuasion] を扱った多くの研究では、統計用語を駆使して提示するよりも典型例 (例: 個人談) を通して提示するほうが主張は有効になるのか、その如何をめぐって議論が展開されてきた。この問題に一考を加えるべく、論点の幾つかを2つの異なる手法で提示している: すなわち一方は個人談として、他方は無味乾燥な統計的解説として、それぞれ提示した。図3に報告されているのが同分析結果 – 労働力不足および長期的ケアの必要に関わるもの – である。同図が示す様に、明瞭なパターンは全く見られない。第一のケースでは典型例によって僅かにではあるが相対的に大きな効果が得られたが、第二のケースではその逆の結果が生じている。

図3 統計値 vs 典型例に基づく主張の効果 (棒線は95%信頼区間)

結論

政治家や組織が寛大な移民移入政策に傾倒していると見られるのを躊躇している現状、世間が移民移入から潜在的に見込まれる社会的・経済的便益について知る機会は稀である。本研究結果はこうした潜在的便益への露出が、同問題に関し人々が抱いている見解の形成に相当の影響を及ぼし得ることを示唆している。したがって、移民移入に対する敵対感情の軽減に関心を寄せる政策画定者にとっては、マス大衆に狙いを定めた情報キャンペーンが1つの有望路線となりそうだ。

論文で論じた幾つかの理由から、情報が世間の移民移入に対する態度に及ぼす影響の検証に際し、日本はその上限と下限のどちらに相当するものとも見做し得る。どちらの説が正しいのか、それは究極的には実証問題である。その回答の提示を進める為にも、その他の先進国における類似研究の実施が待たれる。

参考文献

Facchini, G, Y Margalit and H Nakata (2016) “Countering public opposition to immigration: The impact of information campaigns”, CEPR, Discussion paper 11709.

Halla, M, A F Wagner and J Zweimüller (2017) “Immigration and voting for the far right”, Journal of the European Economic Association, forthcoming.

Otto, A and M F Steinhardt (2014) “Immigration and electoral outcomes: Evidence from city districts in Hamburg”, Regional Science and Urban Economics, 45: 67-79.

Rydgren, J (2008) “Immigration sceptics, xenophobes or racists? Radical right-wing voting in six West European countries”, European Journal of Political Research, 47: 737-765.

原註

[1] さらなる詳細はFacchini et al. (2016) の第五セクションを参照。

 

アレックス・タバロック 「冷血なセントラルバンカーの恩恵 ~時間整合性と金融政策~」(2004年10月12日)

●Alex Tabarrok, “The virtues of a nasty central banker”(Marginal Revolution, October 12, 2004)


キッドランド&プレスコットが彫琢した「時間整合性」のアイデアの応用範囲は広いが、その中でも最も重要な応用例は金融政策に関するものだ(この方面の功績はバロー&ゴードンおよびケネス・ロゴフにも帰さねばならないことは言うまでもない)。中央銀行としてはインフレも失業も低く抑えたいと考えているとしよう。そこで中央銀行はその願いを果たすために次のように宣言(約束)したとしよう。「インフレを低い水準にとどめるためにマネーサプライの伸びを抑えるつもりだ」。そして国民もその宣言を信じ、(労働契約や融資契約といった)契約の交渉に臨む際には「この先インフレは低い水準にとどまるだろう」と予想した上で(賃金額なり融資条件(金利)なりといった)契約条件の詳細を詰めるものとしよう。そんなある時のことだ。思いも寄らないショックが起きて失業率が上昇して(失業が増えて)しまったのだ。そのような事態を目にした中央銀行はふと次のような誘惑に駆られることだろう。「インフレを高めに誘導して景気を刺激したいところだが、どうしたものだろうか」。国民は「この先インフレは低い水準にとどまるだろう」と信じ切って既にあれこれの契約を結んでしまっている。国民が予想しているよりも高めにインフレを誘導すれば(実質賃金なり実質金利なりが予想よりも低下することで)失業率の抑制(失業の減少)を後押しする強力な効果が期待できる。何とも甘い誘惑だ。

しかしながら、上で描いたような展開が「均衡」となることはあり得ない。中央銀行が「インフレを低い水準にとどめるつもりだ」と宣言(約束)したとしても国民はこう反論することだろう。「そんな約束は信用できない。約束を鵜呑みにしたらそれ幸いと後になって手のひらを返すにきまってる。インフレを高めに誘導して我々を騙そうとするに違いない」。そうなるとどうなるだろうか? 国民は「この先インフレは低い水準にとどまるだろう」とは予想せず、そのため(何らかのショックが起きて失業率が上昇した場合に)中央銀行が失業率を抑えたいと思ってもインフレを先ほどの場合(国民が中央銀行の宣言を鵜呑みにする場合)よりもずっと高めに誘導しなければならなくなるだろう。インフレが高止まりするだけで失業率が(国民が中央銀行の宣言を鵜呑みにする場合よりも平均して)低く抑えられるわけでもない。最終的にはそのようなゲームの「均衡」に落ち着くことになるのだ。

どうすれば事態をいい方向に向かわせることができるだろうか? 意外な手がある。冷血漢をセントラルバンカーの地位に据えるのだ。そうすれば誰もがよりよい境遇を手にできる可能性があるのだ。「冷血なセントラルバンカー」というのはインフレを低く抑えることだけで頭がいっぱいで失業を抑えることには一切関心が無いような人物のことだ(その具体的な人物像としては債券の利息収入で暮らしを立てている金満家の共和党員なんかを思い浮かべればいいだろう)。「冷血なセントラルバンカー」は失業を減らすために(インフレを高めに誘導して)景気を刺激しようなんて考えもしない。そのため、「冷血なセントラルバンカー」が語る「インフレを低い水準にとどめるつもりだ」との宣言(約束)は信憑性が高く、国民は「冷血なセントラルバンカー」の宣言(約束)を信用して「この先インフレは低い水準にとどまるだろう」と迷い無く予想することだろう。最終的に落ち着く「均衡」では、失業率は中央銀行の約束が一向に信用されない先の場合と(平均してみると)変わりがない一方で(どちらのケースでも国民が予想するよりも高めにインフレを誘導する(国民を驚かす)ことはそう何度も繰り返せないため)、インフレは(中央銀行の約束が一向に信用されない先の場合よりも)低く抑えられることになる。こうして国民の誰もがよりよい境遇を手にすることになるわけだ。

トーマス・シェリングなんかは次のような例を使って似たようなアイデアを先んじて論じていたものだ。あなたが誘拐犯の魔の手に落ちてしまったとしよう。あなたを救い出すために誰かに誘拐犯と交渉する窓口になってもらうとすれば一体誰にその役割を引き受けてもらうのがいいだろうか? あなたのことを深く愛している妻だろうか? それとも冷血な前妻(別れた元妻)だろうか? その答えは迷うまでもないだろう(そうでしょ?)1。それでは次のような場合はどうだろうか? あなたがまだ誘拐されていないうちから(もしも誘拐された場合に備えて)誘拐犯と交渉する役目を誰に引き受けてもらうかを決めておき、誘拐犯にも前もって(あなたの誘拐を企てるよりも前の段階で)そのこと(誰が交渉の窓口役を務めるか)がわかっているとしたらどうだろうか? あなたのことを深く愛している妻と冷血な前妻のどちらにその役目(交渉の窓口役)を引き受けてもらえばいいだろうか? 答えはおわかりだろうか?2 冷血漢も時にはいい仕事をやってのけることがあるのだ。

  1. 訳注;答えは「あなたのことを深く愛している妻」。誘拐犯が身代金を要求してきた場合に交渉の窓口役を務めるのが「あなたのことを深く愛している妻」であれば身代金がいくら高額であってもそれを支払ってあなたを救い出そうと尽力してくれる可能性が高いが、「冷血な前妻(別れた元妻)」が交渉の窓口役を務める場合には見捨てられてしまう(その結果として最悪の場合あなたは誘拐犯に殺されてしまう)可能性がある(「その人とはもう何の関係もないわ。好きなようにして頂戴」)。 []
  2. 訳注;答えは「冷血な前妻(別れた元妻)」。「冷血な前妻(別れた元妻)」が交渉の窓口役を務めるとわかっていたら誘拐犯もあなたをさらおうとはしない可能性が高い。あなたを誘拐しても身代金が手に入らない可能性が高いからだ。つまりは、「冷血な前妻(別れた元妻)」のおかげであなたは誘拐されずに済む、というわけだ。 []

タイラー・コーエン 「キッドランド&プレスコットの貢献 ~時間整合性問題の厳密な展開~」(2004年10月11日)

●Tyler Cowen, “Kydland and Prescott: New Nobel Laureates”(Marginal Revolution, October 11, 2004)


今年(2004年)のノーベル経済学賞はフィン・キッドランド(Finn Kydland)エドワード・プレスコット(Edward Prescott)の両名に授与される旨が発表された。彼らは1977年に「時間整合性」の問題に関する有名な論文(ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミー誌に掲載)を共著で物している。医薬品に対する政府の政策(規制)は何でこんなにも問題だらけなのだろうかと不思議に思ったことがあるかもしれないが、その理由を知りたければキッドランドとプレスコット(による1977年の論文)にお伺いを立てればいい。新薬を開発した製薬会社には特許(その薬を独占販売できる権利)を与え、その薬を高値で売るに任せる。新薬が開発されるよりも前の段階ではそれが「最適な政策」だ1。しかしながら、ひとたび新薬が無事開発されるや政府は(新薬を開発した製薬会社が手にする)「独占レント」(超過利潤)を奪い去りたい誘惑に駆られることだろう。つまりは、新薬を開発した製薬会社には特許を与えるという取り決め(約束)を反故にして(その他の製薬会社にもその新薬を自由に製造・販売することを許すことによって)その薬が安くで手に入るように図るということになるわけだが、新薬が開発された後の段階ではそれが「最適な政策」だ。新たに開発された薬を誰もが安くで手に入れられるようにして何が悪い?、というわけだ。製薬会社の側もそのような危険性2があることは織り込み済みであり、それがために新薬の開発に二の足を踏む。そうなる可能性があるわけだ。タイミングがいいことにタバロックも数日前に同様の理屈を展開しているのでそちらもあわせて参照されたい。

(上の例におけるその時々の)「最適な政策」は「時間整合的な政策」ではない。いくらか堅苦しくて専門的な表現を使うとそういうように言えるわけだが、この方面におけるキッドランドとプレスコットの研究はそれ以前にトーマス・シェリング(Thomas Schelling)がゲーム理論の分野で練り上げていたアイデアをさらに発展させた(磨き上げた)ものとして位置付けることができる。相手の国が実際に核攻撃を仕掛けてきた場合に(事前の宣言通りに)核兵器を使って報復してやろうという気になれるかというと必ずしもそうとは限らない。そのため核抑止はうまくいかないかもしれない3。シェリングはそう指摘していたものだ。

時間整合性のロジックはかなり普遍性が高い。規制政策だけではなく、金融政策や租税政策、外交政策(サダム・フセインに脅しをかける・・・のはいいが、その脅しをどこまで本気で実行するつもりがあるだろうか?)といった(複数のプレイヤーの間で)戦略的な相互作用が繰り広げられる場面の数々でその顔をのぞかせることがあるのだ。

プレスコットについては少し前に(今年のノーベル経済学賞受賞者は誰になりそうかを予想した)こちらのエントリーでも話題にしたばかりだ。プレスコットの業績について時間整合性問題以外の方面も簡潔ながら話題にしているのであわせて参照してもらいたいが、プレスコットはノーベル経済学賞を2度受賞してもおかしくないだけの業績を残していると言っても言い過ぎではないだろう。プレスコットに比べるとキッドランドの知名度はいくらか劣るが、重要な学者であることは言うまでもない。「キッドランドはスカンジナビアの出身(ノルウェー人)だしなあ」なんていう横槍は放っておけばいいだろう4

キッドランドとプレスコットの二人はノーベル賞を受賞するにふさわしいと言えるだろうか? その答えは間違いなく「イエス」だ。

なぜ今年(2004年)はこの二人だったのだろうか? アメリカでは国を二分する大統領選挙が繰り広げられている最中ということもあってスウェーデン王立科学アカデミーとしてはポール・クルーグマンだとかロバート・バロー(ブッシュ寄り)だとかは選びたくなかったのかもしれない。クルーグマンやバローを選ぶと「政治的な思惑が絡んでいるのではないか?」と疑われる恐れがあるからだ。それだけではなく、ノーベル経済学賞は長らく批判にさらされてきているということもある。「経済学は『科学』と呼べるだけの資格があるのか?」と疑いの目が向けられているのだ。

(持ち金を賭けてノーベル賞の受賞者を予想する)賭け市場(予測市場)の予想は見事に的中したようだ。プレスコットは少し前まで(受賞者が発表される直前まで)かなりのリードを広げて一番人気だったのだ。

  1. 訳注;新薬の開発には莫大な費用を要するため(場合によっては多額の費用を投じたにもかかわらず新薬の開発に失敗する可能性もある)、新薬の販売を通じて少なくとも開発費用を回収するに十分なだけの利潤が得られそうでなければ製薬会社としても新薬の開発には乗り気になれない。新薬を開発した製薬会社に「特許」を与えれば「独占レント」を手にする機会が開かれることになり、製薬会社も新薬の開発に積極的になる可能性がある。 []
  2. 訳注;政府が「新薬が開発されたら特許を与える」との前言を翻す可能性 []
  3. 訳注;「そちらが核攻撃を仕掛けてきたらこちらも核兵器で報復するぞ」という脅しは相手から信用されない(信憑性に欠ける)可能性があり、脅しが信用されなければ相手国による先制的な核攻撃を抑止できない可能性がある、ということ。「こちらも核兵器で報復するぞ」という脅しに信憑性を持たせるには例えば相手が核攻撃を仕掛けてきたら自動的にこちらから相手の国に向けて核兵器が発射されるようにプログラムを組んでおく(そしてそのことを相手にも知らせておく)といった手段が考えられる。 []
  4. 訳注;「スウェーデン王立科学アカデミーが身内びいきでキッドランドを選出した面もあるのではないか?」との穿った見方は的外れ、という意味。 []

マーク・ソーマ 「『誘拐犯とは一切交渉しない!』 ~時間整合性問題入門~」(2010年12月8日)

●Mark Thoma, ““Barack Obama’s Time Consistency Problem?””(Economist’s View, December 08, 2010)


オバマ大統領は将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」が起きる可能性を高める結果を招いてしまったのだろうか?

Barack Obama’s Time Consistency Problem?” by Twenty-Cent Paradigms:

大学の講義で「時間整合性」(time consistency)の問題を教える機会がやってくると、説明の導入としてきまって投げかける問いがある。「誰かが誘拐されて人質にとられ、誘拐犯が政府に交渉を持ちかけてきたとする。そのような場合に政府はどう対応するつもりだと公言しているだろうか? 誘拐犯との交渉方法に関する政府の公式の立場はどのようなものだろうか?」という問いがそれだ。その答えは学生の誰もが知っている。「誘拐犯とは一切交渉しない」というのが政府の公式の立場だ。

国の如何を問わず、どの国の政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているが、それはどうしてなのだろうか? その理由はこうだ。政府が交渉のテーブルにつく気がないということになれば、誰かを誘拐して人質にとってやろうと企む輩も出てこないだろう。そうなること(誘拐の抑止)を期待してどの政府も「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を打ち出しているわけだ。しかしながら、誘拐事件が実際に起きてしまったらどうなるだろうか? 政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(公式の立場)を反故にして)誘拐犯との交渉に応じる方向に傾くことになるだろう。というのも、政府としては(「誘拐犯とは一切交渉しない」との立場を貫いて誘拐犯との交渉に応じなかった結果として)人質が殺されてしまった場合に(すべては人質を見放した政府に責任がある、と)その責任を負わされたくはないからだ。そのあたりの事情は誘拐を企んでいる輩もよくよく承知しているところであり、その結果として「政府には『誘拐犯とは一切交渉しない』との立場を何が何でも貫く気なんてないだろう」と見透かされてしまうことになる1わけだ。

と、まあこういう具合に誘拐事件の例を使って「時間整合性」の問題を説明するのがお決まりになっているわけだが、来学期からはそれももうできなくなってしまうかもしれない。以下に引用するオバマ大統領が記者会見の席上で語った発言が(来学期以降に私の講義を受講する)学生たちの目に触れてしまえば誘拐事件の例はもう使えなくなるかもしれないのだ。

「富裕層向けの減税」もセットだと言うのであれば「中流層向けの減税」も認めるにやぶさかではないとでもいったような論調があり2、そのような論調を指して『「中流層向けの減税」が人質にとられているようだ』と発言したことがあります。人質に危害が及ばない限りは誘拐犯とは交渉する気はないというのが私なりの姿勢なのですが、そのような姿勢に一体いかばかりの知恵があるというのかと疑問に思われる方もいらっしゃることでしょう。というのも、この場合の「人質」というのは「アメリカ国民」のことであり、正直なところ私としても「人質」に危害が及ぶのを目にしたくはないのです。

誘拐犯と交渉する「裁量」を政府に持たせないようにする。そうすればよりよい結果がもたらされる。「時間整合性」の問題に関するこれまでの学術的な研究からはそのような示唆の一つが導き出されるわけだが、「完璧なコミットメント」を可能にする3ようなテクノロジーは現実のこの世の中には存在しない。そこで考えねばならないのが(約束の)「信憑性」(”credibility”)だ。言い換えるとこういうことだ。「誘拐犯とは一切交渉しない」との約束(発言)が本気だということを未来の誘拐犯(誘拐を企む輩)に信用してもらうためには政府はどういう手段に打って出ればいいか、という問題に頭を捻らねばならないわけだ。

さて、ここで質問だ。オバマ大統領が記者会見の席上で語った発言はどのような意味合いを持っているだろうか? あのように語ることでオバマ大統領は(「誘拐犯」とは交渉する気はない、との)自らの約束(姿勢)の「信憑性」を損なう結果となってしまい、将来的に政治の世界で「人質事件(誘拐事件)」4が起きる可能性を高めてしまう羽目になってしまったのだろうか? それとも単に周知の事実を暴露したに過ぎない5のだろうか? 「年収25万ドルを超える富裕層もブッシュ減税の延長措置の対象に含めろ。嫌だというならブッシュ減税の延長法案には反対するぞ6」。共和党側はそのような「脅し」をかけている(「人質」の殺害予告7を行っている)わけだが、その脅しは「信憑性のある脅し」と言えるのだろうか?8

  1. 訳注;そのため誘拐事件は根絶されないということになる []
  2. 訳注;この当時は2010年末で期限が切れる「ブッシュ減税」を2011年以降も続ける(延長する)かどうかをめぐって民主党と共和党との間で意見が対立しており、民主党側は「低中所得層(年収25万ドル以下の世帯)に限って減税措置を続けるべき」という立場、共和党側は「年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯をその対象とすべき」という立場だった。 []
  3. 訳注;政府に「裁量」を許さずに何が何でも「約束」を守り通させる []
  4. 訳注;こちら側の言い分を認めないとお前の支持者が痛い目を見ることになるぞ、との共和党側からの脅し []
  5. 訳注;「誘拐犯とは交渉する気はない」との発言(約束)は口先だけのものに過ぎない(簡単に反故にされる)、ということは誰もが気付いている周知の事実(わかりきったこと)であり、オバマ大統領はそのことを明け透けにしたに過ぎない、という意味。 []
  6. 訳注;その結果として法案が否決されたら所得税が(ブッシュ減税が実施されるよりも前の)2000年の水準に戻ることになり、年収25万ドル以下の低中所得層も所得税の負担が高まることになるぞ []
  7. 訳注;「年収25万ドル以下の低中所得層(「人質」)も所得税の負担が高まることになってもいいのか?」との脅し []
  8. 訳注;最終的には共和党側の意向を汲むかたちで決着することになり、年収25万ドルを超える富裕層も含めて全世帯がブッシュ減税の延長措置の対象に含まれることになった。 []

マルティナ・ビョルクマン・ニクヴィスト, ルチア・コルノ, ダミエン・デ・ワルク, ヤコブ・スヴェンソン 『より安全な性行動へのインセンティブ: HIV予防おける籤引活用』 (2017年1月7日)

Martina Björkman Nyqvist, Lucia Corno, Damien de Walque, Jakob Svensson “Incentivising safer sexual behaviour: Using lotteries to prevent HIV “,  (VOX, 07 January 2017)


従来型HIV/AIDS教育キャンペーンは新規感染抑制に関して完璧な有効性を誇ってきたとは言えない。背景的原因としては、感染の大半がこと性行動に関してはリスクテイクを厭わない様な個人の間で生じているのに、キャンペーンではこうした人達を特に重点的にターゲットにしてこなかった可能性が考えられる。本稿ではレソト王国で行われた新型HIV予防介入試験を紹介する。これは以上の様な個人をターゲットに定め、より安全な実践へのインセンティブを付与するために籤引を利用したものである。処置グループのHIV新規感染件数 [HIV incidence] はトライアル期間を経て5分の1を超える低減を見せた。実施面・費用面での利点も併せて考えると、こうした結果は以上の様な介入がHIVとの闘いにおいて計り知れない価値を持つと判明する可能性を示唆する。

20年以上に亘る意識向上キャンペーンを後目に、HIV/AIDSは依然として数多くの世界の国々で主要健康問題の位置を占めている。とりわけ、3700万人もの人々がHIV感染者として生活し、推定では2015年だけで新たに140万件ものHIV感染が発生しているというアフリカでは問題はなお深刻である (UNAIDS 2016)。HIV感染の主要経路となっているのが安全性考慮の無い性行動だ。したがって情報提供と教育キャンペーンを基盤とした従来型の行動変化プログラムが、エピデミックに抵抗するための主要方策として久しく用いられ続けてきたのも驚くには当たらない。だが残念ながら、こうしたタイプのキャンペーンには予期されたほどHIV/AIDSエピデミック波及を押し止める効果が無いことが既に証明されている (Bertrand et al. 2006, Napierala Mavedzenge et al. 2010)。

これら実証成果を目の当たりにすれば当然、「では自衛の方法を知悉し、HIV/AIDSの深刻な帰結が周知されているのなら、なぜリスキーな性行動を継続する人達がいるのだろう?」 との疑問が浮かぼう。これに対しては、感染の大半はリスク忌避度が最も低い個人 – つまり性行動に関してはリスクテイクを厭わないような個人 – のあいだで生じているのに、現行の情報提供キャンペーンはこの人達を特に重点的にターゲットにしてこなかったのだ、という回答が考えられる。

HIV予防へのインセンティブとしての籤引

最近の論文で我々は、リスク愛好的であり、したがってHIV感染リスクが最も高いと推測される人達に特にアピールするようなHIV予防介入手法をデザインしている  (Björkman Nyqvist et al. 2016)。具体的には、籤引を利用し、レソト王国におけるHIV感染抑制をめざす金銭的インセンティブプログラムをデザインした – 籤の期待支払額は比較的小さいが、性感染症 (sexually transmitted infection: STI) テストで陰性の反応がでれば高額を得られる仕組みになっている。

他の面では通常の金銭的インセンティブプログラムと変わらないギャンブルの導入には、少なくとも2つの利点が有る。先ず第一に、籤により、同プログラムは金銭的リスクを厭わない個人に対しては相対的に強い魅力を持つ様になる。もし金銭的リスクテイクを厭わない性質がその他のリスキーな行動、例えば喫煙・薬物・リスキーな性交渉などと相関しているのならば、籤のインセンティブによりHIV感染のリスクが高い人達をもっと上手にターゲットにできるはずである。

第二に、心理学や行動経済学の領域で、人間は小さいパーセンテージを過大評価しがちであり、したがって保証された小さな報酬よりも、大きな報酬につながるかもしれない小さなチャンスのほうを選好する傾向が有る旨を示す実証成果がますます確認されている事が挙げられる (Kahneman and Tversky 1979, Kahneman 2011, Barberis 2013)。仮にそれが正しいのなら、ギャンブル (籤引) 参加において認識される利益は、確実性をもって一定の期待利益を与えるインセンティブプログラムからの利益よりも高くなり、また同じ理屈で、籤を活用すれば予算を一定にしたままでも、従来型の条件付現金給付 (conditional cash transfer: CCT) と比べてより強い行動変化へのインセンティブを設定することも可能となるかもしれない。

本研究は無作為化平行グループ間試験 [parallel group randomised trial] に基づいて行われた。そこでは次の3つの個別グループを設定している: 対照グループ (N= 1208) および2組の処置グループ (低額籤引グループの859人、および高額籤引グループの962人) である。無作為選出で低額籤引グループに割り当てられた参加者は4ヶ月毎に500ロチ/南アフリカランド [500 malotis/South African rands]、およそ$50の価値に相当する賞の籤引に挑戦する資格が与えられる。高額グループの個人にはその2倍に当たる額の賞を勝ち取る資格が与えられた。

処置グループの個人は、籤引の前の週に受けたテストで2つの治療可能なSTI (梅毒 [syphilis] および膣トリコモナス症 [trichomoniasis]) に陰性の結果がでたならば、籤を1枚与えられる。村落レベルでの籤引が4ヶ月毎に開催され、各村落で籤引当選者が4名づつ選出される。

処置グループ中の個人で前述した2つのSTIの何れかに陽性のテスト結果が出た者は籤を貰えない。しかしこうした個人も引き続き研究参加者に留まることができるので、無料で提供される治療を受けてその後もSTI陰性を維持していた場合には、その後開催される籤引の資格を得られる。対照グループへと無作為に割り当てられた参加者には籤を貰う資格が与えられないが、その他の点では研究の手順に対照グループと処置グループとで違いは無い。STI陽性のテスト結果が出た全ての者に (グループを問わず) カウンセリングと無料のSTI治療を提供、HIV陽性のテスト結果が出た個人はAIDS治療を行っている公的診療所に紹介し、適切なフォローアップを図った。

全体的に言って、籤引インセンティブはHIV症例、すなわちベースライン時点でHIV陰性であった参加者の間のHIV新規感染率抑制に相当な影響をみせた。2年のトライアル期間を通して、HIV新規感染率は2.5%ポイント、換言すれば21.4%低減された。こうしてトライアル終了時には処置グループプールのHIV感染者数 [HIV prevalence] は対照グループと比べて3.4%ポイント低いものとなった。我々の知る限り、性行動の変化に着目したHIV予防介入 (治療介入に対する) であって、HIV新規感染件数の著しい削減 – あらゆるHIV予防介入の究極目標 – に繋がることが実証されたのはこれが初めてである。

リスク愛好者は籤引を好んでいるのか?

我々はさらに進んで、リスキーなギャンブルに対する価値認識に基づき、リスクに対する選好を有する個人のほうがリスク忌避的個人よりも、行動変化を条件とする高額ではあるが不確実なリターンが見込まれる介入スキームに反応する傾向が強いのか、この点を調べた。参加者のリスク選好は、ベースラインアンケートでのリスク忌避に関する仮定的設問を通して計測した – 62%の参加者は籤引参加ではなく、籤の期待値に満たなくとも固定額のほうを選好すると報告しており (したがってリスク忌避的)、残る38%がリスク愛好的となる。ベースライン時点で、リスク忌避的個人とリスク愛好的個人の人口統計学的・社会経済的特性は類似していたが、リスク愛好的参加者が安全対策をした性行為を実行している旨を報告する傾向は相対的に低く、HIVやSTI陽性の傾向は相対的に高かった。

では、リスク愛好的個人は籤引プログラムに対しリスク忌避的個人と異なる反応を見せたのだろうか? 本研究結果によれば、実際に反応は異なっていたようだ。HIV新規感染件数はリスク愛好的個人のほうが対照グループにおけるリスク忌避的個人よりも12.3%ポイント高かった。しかしながら、リスク愛好者の間のHIV新規感染件数は処置グループのほうが12.2%ポイント、対照グループのリスク忌避的個人と比べて低かった – このサブグループにおける効果量は58%となる。リスク忌避的参加者に対する処置効果は然したるものでなく、点推定で0近傍、したがって対照グループとの比較において介入プールで観察されたHIV新規感染件数の減少がリスク選好的個人の行動変化のみによって生じた可能性は消去できない。

籤引インセンティブの実用的利点

本発見は、相対的にHIV感染リスクが高いグループをターゲットする際に籤引が活用できる可能性を示唆する実証成果をもたらした。最もリスクが高い層の個人をターゲットできるばかりでなく、籤引の活用には、以上の様なプログラムの規模拡大を検討する場合重要となってくる幾つかの実用的利点も有る。第一に、籤引プログラムの運用費は従来型CCTプログラムよりも低く抑えられると見込まれる。何故なら当たり籤を引いた者にのみ支払をすればよいからである。第二に、実験参加者の一部のみをテストすればよい様な籤引システムも考えられるが、その場合、トータルで掛かる費用に相当な割合を占める検査費用の削減も望み得る。レソト王国における実験のリサーチ計画書ではプロジェクト参加者全てに検査を提供することが要件となっていたが、行動変化へのインセンティブは、一定の条件下では、籤引当選者のみが検査を受ける、或いはSTIスクリーニングも籤の結果に依存させる様にしても、変わらず保たれるだろう。最後に重要な点だが、今回の実験で調べた籤引インセンティブの影響はあくまで特定アウトカム関するものだったが、本調査結果は、他のタイプのプログラムや分野でも、よりリスクの低い行動に対する需要の強化をねらって籤引が上手く活用できないか、この点を探求する調査研究に道を開くものとなっている。

参考文献

Barberis, N C (2013) “Thirty years of prospect theory in economics: A review and assessment”, Journal of Economic Perspectives, 27(1): 173–196.

Bertrand J R, K O’Reilly, J Denison, R Anhang, M Sweat (2006) “Systematic review of the effectiveness of mass communication programs to change HIV/AIDS-related behaviours in developing countries”, Health Education and Research, 21: 567–597.

Björkman Nyqvist, M, L Corno, D de Walque and J Svensson (2016) “Incentivizing safer sexual behaviour: Evidence from a randomized controlled trial on HIV prevention”, CEPR Discussion Paper No. 11542.

Kahneman, D (2011) Thinking, fast and slow, New York: Farrar, Straus, and Giroux.

Kahneman, D and A Tversky (1979) “Prospect theory: An analysis of decision under risk”, Econometrica, 47(2): 63–91.

Napierala Mavedzenge, S, A Doyle, D Ross (2010) “HIV prevention in young people in sub-Saharan Africa: A systematic view”, February (accessed November 9, 2010).

UNAIDS (2016) “Fact Sheet 2016”, www.unaids.org, Geneva, Switzerland.

 

ピエール・カユック, オリヴィエ・シャルロ, フランク・マレルブ, エレーヌ・バンガルム, エムリーヌ・リモン 『臨時雇用への課税: 善き意図されど思わしからぬ結果』 (2017年1月5日)

Pierre Cahuc, Olivier Charlot, Franck Malherbet, Hélène Benghalem, Emeline Limon, “Taxation of temporary jobs Good intentions but bad outcomes“, (VOX, 05 January 2017)


 

フランスやスペインを初めとする様々な国で労働力の相当部分を担っている臨時雇用契約だが、これは高い離職率・雇用不安定性にも繋がりかねない。本稿では、雇用者に雇用継続期間の引き延ばしを促す目的で臨時雇用契約への租税賦課を試みる政府諸政策の影響を診断する。こうした政策からは、平均雇用継続期間の減少・雇用創出の低下という形で労働市場に負の影響が生ずる。在職期間の短い時期に生じた離職に係る契約終了費用を無しにしたオープンエンド契約の導入のほうが効率的である可能性がある。

短期的な臨時雇用の広まりは、厳格な雇用保護法制を敷く諸国、別けてもフランス・イタリア・ポルトガル・スペインなどの国々で重要な問題となっている。これら諸国では、オープンエンド契約が通常の雇用契約形態となっているが、これに定まった就労期間は無い。しかしオープンエンド契約への違反は雇用者にとって高くつき、複雑な手続きを履行したうえで解雇補償金 [severance payments] を提供しなければならなくなっている。他方、雇用の期待継続期間が短い場合、雇用者は契約終了日 [termination date] の定めを置く臨時雇用契約を結ぶことも許される。

ところが、法的規範により雇用者は労働者に対し臨時雇用契約の契約終了日まで対償を支払うことが要求されているとはいえ、契約終了日の解雇費用に関してはお役所的な規定が全く存在しないのが実情である。そこで臨時雇用契約の規制を通し、雇用の安定と、期待継続期間の短い雇用に就いている労働者が直面する不確実性の削減が目指されている。しかしながら、こうした規制が成功しているかには疑問がある – 臨時雇用契約はフランス・イタリア・ポルトガル・スペインにおける雇用の流れの大半を担っているからだ。その背景には雇用者によるオープンエンド契約の回避が在る。こうした臨時雇用契約の大半は継続期間が非常に短い。例えば図1に示す様に、フランスでは臨時雇用契約のほぼ50%が一ヶ月に満たない長さとなっている。

図1. 臨時雇用流入に係る臨時雇用契約継続期間の累積密度 (2010-2012期、フランス)

こうした状況に鑑み、雇用者に対し、臨時的契約に代えて、在職期間の短い時期に生じた離職に係る解雇費用の無い (ないし微小な) オープンエンド契約締結を許すことにより離職率の低減や雇用の育成が望めるのではないかとの議論が展開されてきた (Bentolila et al. 2010, OECD 2014, Dolado et al. 2015)。しかしこうしたタイプの構造改革は着手が難しく、幾つかのヨーロッパ諸国は雇用者に雇用期間の引き延ばしを促す目的で臨時的契約への課税を敢行している。継続期間の短い臨時的契約はフランスでは2013年以降、ポルトガルでは2014年以降、スペインでは2009年以降、特に重点的なターゲットとなり、イタリアに至っては2012年以降全ての臨時的契約が課税対象となった1。些事に留まらぬ影響を及ぼしているのにもかかわらず、管見の及ぶ限りこの様な政策の顛末については殆ど何も知られていない。

我々の研究では、Cahuc et al. (2016a) を手掛かりにしたシンプルなモデルにより、臨時的契約への課税が常に離職率の低減に繋がる訳ではない旨を示した (Cahuc et al. 2016b)。継続期間の短い契約に対する課税が、租税回避に役立つならばと、雇用者をして長い契約による短い契約の代替、また臨時的契約のオープンエンド契約への変更へと促すことは当然考えられる。臨時的契約がオープンエンド契約に変更された場合に税の還付があるのならば、この効果はさらに増強される。雇用不安定性の軽減にしても、継続期間の短い臨時的契約に対する租税の相対的な高さが、継続期間の長い臨時的契約およびオープンエンド契約に対する租税の相対的な低さにより相殺されるのならば、さらに強まるかもしれない。しかしながら、租税の引き上げには臨時的契約の継続期間に対する不利な影響も存在する。例えば、1ヶ月未満の契約に対する租税の引き上げとの対応で、7日間の契約が1ヶ月の契約に変更されるとは考え難いが、反対に契約期間を7日から6日に減らすことが最適な判断になるケースは生じ得る。何故なら雇用者側には臨時的契約の利潤性が低下した場合にその継続期間を減らすべきインセンティブが有るからである。よって、臨時的契約に対する租税引き上げは必ずしも雇用不安定性の軽減に繋がるものでは無い。雇用安定性・雇用率・厚生に対する影響は租税制度の在り方と現実的文脈とに依存するのだ。

フランスのデータに基く本モデルの推定を通し、多様な租税制度が雇用期間・失業率・失業者厚生に及ぼす影響を見定めるシミュレーションが可能となった。なお今回分析した何れの制度でも、臨時的契約からの税収は全雇用に対する一括補助金 [lump-sum subsidy] として諸企業に払い戻されている。

結果、臨時的契約への課税が労働市場に負の影響を及ぼしていたことが判明した。第一に、同課税は雇用の平均継続期間を低減させていた。よって臨時的契約への課税はその主目的、すなわち離職率の低減を果たしていないことになる。第二に、同課税により雇用創出が減少、失業率が増加、失業者厚生が低下していた。これとは別の契約継続期間に依拠した租税計画により労働市場のパフォーマンスが限界的に向上される可能性は否定できない。しかし今回の検討を通し、臨時的契約を対象とした租税からは、各々の労働市場が持つ個別具体的特徴に依る複雑な影響が生ずることが明らかにされた。結局の所、同政策ツールは合理的な信頼性水準をもって労働市場パフォーマンス向上をめざすのに適したものではなさそうだ。

この様な見地に立ち、在職期間の短い時期に生じた離職に係る契約終了費用を無しとしたオープンエンド契約の導入の顛末も続けて分析した。こうしたタイプの構造改革に類似するものとしてはイタリア雇用法 [Italian Job Act] が挙げられるが、同法により在職期間に伴って保護が強化されるオープンエンド契約が導入されている2。我々はこのタイプの改革のほうが臨時雇用への課税よりも適当であることを明らかにした。同タイプの改革は継続期間の短い雇用の継続期間の増加、雇用率の上昇、失業者厚生の向上をもたらすようだ。ここから、租税と規制とが複雑に入り組んだ、継続期間の短い臨時雇用契約に負荷を課すような制度は、在職期間の短い時期に生じた離職に係る解雇費用を無しとしたオープンエンド契約から成るシンプルな規制と比べ、雇用にとっても失業者にとっても非効率的かつ好ましからぬ様が伺われる。

参考文献

Bentolila, S, T Boeri and P Cahuc (2010), “Ending the Scourge of Dual Labour Markets in Europe”, VoxEU.org, 12 July.

Cahuc, P, O Charlot, and F Malherbet (2016a), “Explaining the Spread of Temporary Jobs and its Impact on Labor Turnover”, International Economic Review, 57(2), 533-572.

Cahuc, P, O Charlot, F Malherbet, H Benghalem, and E Limon (2016b) “Taxation of Temporary Jobs: Good Intentions With Bad Outcomes?”, CEPR Discussion Paper 11628.

Dolado, J, E Lalé, and N Siassi (2015), “Moving towards a Single Labour Contract: Transition vs. Steady State”, CEPR Discussion Paper 11030.

OECD (2014), Employment Outlook 2014.

原註

[1] より精確には、フランスの税は1ヶ月に満たない臨時的契約に対する総賃金 [gross wages] の3%、1ヶ月から3ヶ月の臨時的契約に対する総賃金の1.5%にそれぞれ相当する。同税は臨時的契約がオープンエンド契約に変更された場合、還付される。ポルトガルでは15日未満の臨時的契約に関する雇用者側の社会負担率が4%引き上げられた。スペインでは1997年以降、臨時的契約対する失業保険負担が恒久的契約に対するものよりも高くなっている。2009年からは、継続期間2週間未満の臨時的契約に対する補完的雇用者社会負担 – 総賃金の36%に相当 – も導入されている。イタリアでは、臨時的契約一切を対象とし、総賃金の1.4%に相当する租税が、2012年施行の改革以来、失業者手当の資金調達に利用されている。同税は臨時契約がオープンエンド契約に変更された場合、還付される。但し、還付額は直近6ヶ月間に支払った同税額を上限とする。

[2] イタリアの当該法律183/2014により、新規雇用に関して在職期間に伴い保護が強化される新しいオープンエンド契約 (contratto a tutele crescenti) が導入された。

 

チャールズ・マンスキー 『ポスト-トゥルースワールドの政策分析』 (2016年12月24日)

Charles Manski,”Policy analysis in a post-truth world“, (VOX, 24 December 2016)


 

政策アウトカムや経済情勢をズバリ予測・推定した値を目にせぬ日は無い; 他方、不確実性の表明は稀である。合衆国における新たな政権の幕開けが間近に迫る現在、これまでの政府政策分析における信用ならぬ確定性 [certitude] もあれよあれよという間に小さな問題に思えてくるだろう – この先我々を待ち受けている事柄を傍らにしては。信用ならぬ確定性を提示する分析であっても、その予測や推定が正しい可能性はあるが、ポスト-トゥルースワールドにおける分析は、明らかに誤った予測と推定を生み出す。

対象とする経済政策変化が如何なるものであれほぼ例外なく、その分析には如何ともし難い不確実性が付き纏っている。アラン・オーエルバッハ [Alan Auerbach] はこう言った: 「多くの場合不確実性はあまりに大きく、同じ人物が、実際に報告した推定値の二倍や半分にあたる数値を大真面目に報告していた可能性もあるほどだ」(Auerbach 1996)。真におっしゃる通り。過去5年に亘り、私は信用ならぬ確定性を提示する経済政策分析の横行を繰り返し批判してきた (Manski 2011a, 2011b, 2013, 2014 2015を参照)。別けても合衆国における政府公式の慣行には具体的な論評を加えている。政策アウトカムや経済情勢をズバリ示した予測値・推定値を目にせぬ日は無いが、不確実性の表明は稀である。ところが、裏付けの無い想定や限定的なデータに依拠した、危うい予測値や推定値もしばしば散見されるのである。したがって、どんぴしゃりの予測や推定を試みていても、そうした確定性に信憑性は無いのだ。

現在合衆国は新たな政権の幕開けを迎えようとしている。その政権を牽引する新たな大統領はというと、どうも事実と虚構を区別する能力ないし意思を欠いているようだ。政府の政策分析にこれまで見られてきた信用ならぬ確定性も、この先我々の前に待ち受ける事柄と比べては、あれよあれよという間に小さな問題と化してしまいそうなことが憂いでならない。信用ならぬ確定性の分析であっても、その予測や推定が正しい可能性はあるが、ポストトゥルースワールドにおける分析は、明らかに誤った予測と推定を生み出すのである。

私の懸念を理解して頂く為、先ず現在の慣行に対する私の批判の一部をここで再論しよう。政策アウトカム予測値に検討を加える中で、審議中の法案が孕む連邦債務への含意に関し、議会予算局 [Congressional Budget Office (CBO)] が提出する影響力の有る予測値、所謂『スコア [scores]』に対し注意喚起をしてきた。CBO職員は全身全霊職務に励む公務員であって、連邦法の複雑な変化から来る予算影響を予見することの難しさは十分承知している。ところが合衆国議会はその様なCBOに対し、10年先までの点予測を、不確実性の数値を付さずに立てるよう要請してきたのだった。

経済情勢に係る推定値の検討でも、合衆国経済分析局・労働統計局・国勢局調査局等々の主要連邦統計機関が公表する公式経済統計値の信用ならぬ確定性を確認してきた。こうした機関はGDP成長率・失業率・家計所得などの点推定値を、誤差測定値を併記せずに報告している。機関職員は公式統計値も標本誤差や非標本誤差 [sampling and non-sampling errors] からの悪影響を免れていないことを知悉している。それにもかかわらず、公式統計値の報告に際して、標本誤差測定は時たま、非標本誤差の数量化に至っては全く行わないのが予てからの慣行なのである。

信用ならぬ確定性がこのように常態化した原因の解明に向けた取り組みの過程で、分析者はインセンティブに反応しているのではないかと推理するのが自然だと一経済学者である私は考える様になった。政策画定者や世間の人々の多くが不確実性と向き合うことに抵抗しているので、分析者にも確定性を報告するインセンティブが有る訳である。巷には合衆国大統領リンドン・B.・ジョンソンに自らの予想の不確実性を委細説明しようとした或る経済学者の話が流布している。その経済学者は検討中の数量についてそれが取りそうな値の範囲 [a likely range of values] という形で予測を報告したらしい。それに対するジョンソンの返答は次の様なものだったそうだ: 「牧場 [Ranges] は牛のものだ。数値は1つ、よこしたまえ」

値が取り得る範囲など聞かされたくなかったジョンソン大統領にしても、その経済学者が信憑性ありと考える範囲内にある或る1つの数値、つまり範囲の中心値ならば恐らく聞きたがったと考えて間違いはあるまい。その経済学者もきっとジョンソンの要請をこんな風に解釈し、それに応じたものと予想する。同様に、政府でCBOスコアを弾き出している経済学者たちも一般に、こうしたスコアを以て問題の数量に関する自分達の考えの中心傾向 [central tendency] を表わしているつもりなのだろうと、安心して推理できる。推理を裏付ける経験的証拠は 『予想専門家調査 (Survey of Professional Forecasters)』 で確認できる。これは予想専門家パネルメンバーのGDP成長率およびインフレ率の点推定および確率的予測を開陳したものだが、同データを分析すると、点推定予測値が確率的予測値の平均値ないしメディアン値付近にあるのが通例となっていることが明らかになる。

この先の事を思うと、来るトランプ政権における政策分析実務には不安を抱かざるを得ない。この次期大統領と現実とを繋ぐ関係の希釈性について論じたものは既に相当な数に昇るので、そうした現象の実例をここで私が新たにお見せするには及ぶまい。それに代えて、ルース・マルクス [Ruth Marcus] の明晰かつ恐るべき文章を引用したいと思う。彼女が最近ワシントンポストの定期コラムに執筆した文章は次の様に始まる (Marcus 2016):

 「ではお迎えしましょう – 覚悟を決めて – ポストトゥルース大統領時代です。『事実とは如何ともし難いもの』 とは1770年のジョン・アダムスの言葉。ボストン虐殺事件で訴追された英国兵士を弁護してのことです。『故に、我々の願望が何を求めようと、我々の心証が何処に靡こうと、我々の情熱が何を命じようと、事実と証拠の有り様を改めるには能わぬ』。或いは、私達はそう考えていたのでした – 事実など歯牙にもかけず、確認された事実を突きつけてもものともしない或る男を大統領に選出するまでは」

続いてマルクスは、事実を尊重すべきインセンティブがトランプには無いと論ずる。彼女の言葉を引こう:

「ポストトゥルース時代の慣行 – 事実無根の主張に積み重なる事実無根の主張 – がドナルド・トランプにホワイトハウスへの道を切り開いたのです。トランプが事実無根の放言を重ねるほど、よくぞ臆せずありのままの真実 –  と、彼らが見る所のもの – を告げてくれたと、支援者はその数を増してゆきました」

新政権の政策分析に対する見解が如何なるものになるかついて、2つの点が危惧される。第一に、公式経済統計の公表を可能にしている定期的データ収集だが、これに充てられている資金が新政権において大幅にカットされるのではないかという点。もう1つは、連邦機関の職員を務める分析者、政治的中立性・誠実性に関して高い評価を得ている彼らに対し、発見事項をともかく大統領の見解に合わせて味付けせよとの圧力が掛かって来るのではないか、という点である。首尾一貫とした政策討議は、党利党略的統治環境のためにもう既に困難になっているのだが、基礎的事実さえも炎と金槌とでどうにでも打ち直せるものとホワイトハウスが見做すに至れば、もはや不可能となろう。

潜在的被害の軽減をめざす1つの建設的な道筋としては、連邦政府の外部に十全の情報に基づく実直な政策アウトカム予測値・経済情勢推定値の提供を行い得る研究センターないし統計機関を設立するというのが在るだろう。恐らく連邦準備理事会や合衆国議会はその為に必要となるものの一部を提供できるはずだが、諸般の非政府組織もその一部を担わねばならなくなると予想する。目下合衆国は必要な制度機構を欠いている。英国の 『財政問題研究会 [Institute for Fiscal Studies]』 などが適当な模範となるだろう。

十全の情報に基づく実直な政策分析の提供をどの様に画策するにせよ、不確実性を直視してこそ我々の生きる社会はいっそう優れたものになると、私は今なお信じている。紛糾を極めた政策討議の多くは、自ら確知せざる事柄を虚心に受け止めようとしない我々の態度がその一端だった。既に真実を知悉している、或いは真実など幾らでも操作し得るかの如く振舞うよりも、我々には学ぶべき事柄が依然として数多く存在するのだと認めてこそ、より良い状況が望み得よう。

参考文献

Auerbach, A (1996), “Dynamic Revenue Estimation”, Journal of Economic Perspectives 10: 141-157.

Engelberg, J, C Manski, and J Williams (2009), “Comparing the Point Predictions and Subjective Probability Distributions of Professional Forecasters”, Journal of Business and Economic Statistics 27: 30-41.

Manski, C (2011a), “Policy Analysis with Incredible Certitude”, The Economic Journal 121: F261-F289.

Manski, C (2011b), “Should official forecasts express uncertainty? The case of the CBO”, 22 November.

Manski, C (2013), Public Policy in an Uncertain World: Analysis and Decisions, Cambridge: Harvard University Press.

Manski, C (2014), “Facing up to uncertainty in official economic statistics”, VoxEU.org, 21 May.

Manski, C (2015), “Communicating Uncertainty in Official Economic Statistics: An Appraisal Fifty Years after Morgenstern”, Journal of Economic Literature 53: 631-653.

Marcus, R (2016), “Welcome to the Post-Truth Presidency,” Washington Post, 2 December.

 

アレックス・タバロック「チャック・ノリス vs. 共産主義」

[Alex Tabarrok, “Chuck Norris Versus Communism,” Marginal Revolution, January 5, 2017]

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チャック・ノリス vs. 共産主義』はルーマニアに取材した芸術とヒーローの力と共産主義の終焉をめぐる傑作ドキュメンタリーだ.共産主義体制が1948年に樹立されると,旅行は制限され,メディアは検閲され,秘密警察がみんなを監視するようになった.ルーマニアは外の世界から隔絶された.ところが,1980年代中盤に,密かに持ち込まれたアメリカ映画の VHS テープが出回りだした.地下グループはひそかに集まっては,『ロッキー』や『テキサスSWAT』といったご禁制映画を上映した.
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