経済学101は主に皆様の寄付によって賄われています。温かい支援をお待ちしています

ピーター・シンガー「倫理学と進化:『輪の拡大』出版から30年」(2011年5月18日)

⚫︎ Peter Singer, “Ethics and evolution: The Expanding Circle, thirty years on“, (ABC.net, religion & ethics, May 18, 2011)

 

「社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『輪の拡大』を書かせるきっかけとなった。『輪の拡大』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『輪の拡大』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。自分たちが主張している科学的な突破口は、哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず哲学者たちの思考の代替物となるものである…と一部の科学者たちが主張していたことが、哲学者たちの軽蔑の原因であるかもしれない。この点については『輪の拡大』の第3章「乗っ取り宣言」で言及している。

科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『輪の拡大』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『輪の拡大』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)自愛の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『輪の拡大』の第3章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『輪の拡大』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる自愛の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

タイラー・コーエン「『蜂の巣マインド』by ギャレット・ジョーンズ」(2015年11月4日)/「ギャレット・ジョーンズによる蜂の巣マインドについての解説」(2011年6月24日)

●Tyler Cowen, “*Hive Mind*, by Garett Jones”(Marginal Revolution, November 4, 2015)


 

同僚のギャレット・ジョーンズが来週には『Hive Mind: How Your Nation’s IQ Matters So Much More Than Your Own(蜂の巣マインド:なぜあなたの国全体のIQはあなた自身のIQよりもずっと重要なのか)』をスタンフォード大学出版から出版するということがお伝えできて、私はとてもワクワクしている。この本は今年の社会科学のベスト本の一つとなるだろう。

 

以下は、ギャレットの本の冒頭の文章だ。

 

この本はIQを上げる方法についての本ではない。IQを上げることがもたらす利益について書かれた本である。そして、高いIQは本人が気付いていないかもしれない方法で利益をもたらすのだ。平均的には、標準テストの成績が良い人はより忍耐強く、より協力的であり、そしてより良い記憶力を持っている。これらの関連性は心理学者たちと経済学者たちによる何十もの研究によって証明されてきたが、個々の点を結びつけて、高いIQは国全体にとっては何を意味するのかということを問うた研究者の数は少ない。そして、数学のテストにせよ読解力のテストにせよIQテストにせよ、その平均スコアは国によって違うのだから、テストのスコアが国全体で上がることは、忍耐強く、協力的で、情報に通じた市民たちの数が増えるということを意味している可能性が高い。つまり、国全体のテストのスコアが高くなることは、無視されるには重大すぎるほどの影響をおそらく持っているであろうということを意味しているのだ。そして、教育研究者たちや公衆衛生当局者が国全体のテストのスコアを高くするための確実性の高い方法を発見することができるとすれば、現在では貧困と疫病が蔓延している場所であっても生産性と繁栄が増すことになるのだ。

 

第一章はこちら、ギャレットによる章ごとの要約はこちらこれはギャレットのホームページだ。Twitterでギャレット・ジョーンズの叡智を授かることもできる。

 

[Read more…]

ジョナサン・ハイト「真実と社会正義:なぜ大学はどちらか一つの目標を選択しなければならないか」(2016年10月21日)

Jonathan Haidt, Why Universities Must Choose One Telos: Truth or Social Justice, Heterodox Academy,  Oct 21 2016.

 

しばしば、アリストテレスは物事をその”テロス(telos)”に基づいて判断していた。テロスとは、目的や結末や目標のことを意味している。医者のテロスとは健康または治療である。では、大学のテロスとは何であるのだろうか?

最も明白な答えは”真実”だ…かなり多くの大学が、”真実”という単語を自校のエンブレムに掲げている。しかし、アメリカのトップ大学の多くは社会正義を自分たちの第一のテロスかそれに等しい第二のテロスとして掲げるようになっているし、そのような大学の数は増え続けている。だが、二つのテロスを同時に持つことのできる制度や専門職は存在するのだろうか?もしその二つのテロスが衝突するとすれば、何が起こるのだろうか?

道徳を研究する社会心理学者として私は30年間大学に所属してきたが、その30年間でこの二つのテロスがますます頻繁に衝突するようになっていく様子を目にしてきた。真実と社会正義との衝突は、1990年代にはまだ対処可能なものであったようだ。だが、90年代以降には衝突の激しさが増していった。それは大学の教授たちの政治的多様性が失われていったのと同じ時期であり、また、民主党支持者たちと共和党支持者たちのお互いに対する敵対心が増していったのと同じ時期でもある。2015年の秋に80校の大学で学生たちが抗議運動を行い、より大規模で明白な社会正義へのコミットメントを行うことを自分たちの大学に要求した時に真実と社会正義との間の衝突は頂点に達した、と私は考えている。多くの場合、学生たちの大学に対する要求には、社会正義的な視点や内容の必修授業や研修を行うことが含まれていたのだ。

いまでは多くの大学の学長たちが学生の要求に同意してそれを実施せざるを得なくなっている。真実と社会正義との衝突はもはや対処が不可能なものになるであろう、と私は考えている。大学はどちらか片方のテロスを選択しなければならなくなるだろう。また、これから入学しようと考えている学生や就職しようと思っている教職員が正確な情報に基づいた選択を行えるようにするために、大学は自校が選択したテロスを明白に示さなければならなくなるだろう。真実と社会正義の両方を掲げようとする大学は、二つのテロスの間で増し続ける矛盾と衝突に直面することになる。

 

〔注意:私は、個々の学生たちが真実と社会正義の両方を追求することができない、とは言っていない。以下に掲載した講演の中では、真実を大切にすることこそが社会正義を効果的に促進するための活動を実践する唯一の方法なのだ、と私は学生たちに奨励している。だが、大学のような制度は、不可侵の最高目標を一つしか持つべきでないのだ。また、多くの学生たちが自分たちの人種やジェンダーや性的アイデンティティのために軽蔑や侮辱や体系的な妨害を受けていることも、私は否定していない。彼らが侮辱や妨害を受けているのは事実であるし、何らかの形の基準を設定したり多様性についてのオリエンテーションを新入生たちに受けさせることは、私も支持している。しかし、別の記事で私が論じているように、大半の抗議活動家たちが行っている要求の多くは反動を引き起こす可能性が高いものであり、学生たちが疎外感を抱く経験を減らすのではなくむしろ増やしてしまうものであるのだ。〕

昨年に多くの大学に広まっていった出来事を目にした私は、一体どのような事態が起こっているのかということについて道徳心理学と社会心理学の観点から明らかにする作業を始めていった。(……略……)66分間と長い動画であるが、これでも出来る限り短くした後である。この問題にはあまりにも多くの要素があって、私はそれらの要素を順番に示していく必要があったのだ。

 

講演の内容

 

イントロダクション:

講演は、二つの引用から始まっている。

 

“哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである。” ー カール・マルクス、1845年

 

“自分の側が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい。彼の主張は優れたものかもしれないし、誰も彼の主張に反論できないかもしれない。だが、同じく彼も反対側の主張に反論できないとすれば、反対側の主張がどんなものであるかということを知らないとすれば、どちらの側の主張を支持すべきであるかを判断する根拠を彼は持っていないということになるのだ。…” ー ジョン・スチュアート・ミル、1859年

 

マルクスは、私が”社会正義大学( Social Justice U )”と呼ぶ大学にとっての守護聖人だ。社会正義大学は権力構造や特権を転覆させて世界を変革することを目的としている。社会正義大学にとって、政治的な多様性は行動の障害である。ミルは”真実大学( Truth U )”の守護聖人である。真実大学は、誤りのある個人たちがお互いのバイアスや不完全な推論を指摘して挑戦し合うプロセスに真実を見出している。このプロセスは全ての人を賢くする。そこにいる人々の知的傾向が均一になったり、そこが政治的な正当さを主張する場所になったりした時に、真実大学は亡んでしまう。

 

1.テロス

 

専門職や分野はそれぞれのテロスを持っている。ある分野のメンバーがテロスを達成することを助けるために別の分野のメンバーが自分たちの技術を用いる時には、分野間の建設的な相互作用が発生する。例えば、私が Amazon や Google や Apple を好んでいるのは、私が研究者としてのテロス(真実の発見)を達成することをそれらのビジネスが手伝ってくれるからだ。しかしある分野が自分たちのテロスを別の分野にも差し込んでくる時には、破壊的な相互作用が発生してしまう。例えば、ビジネスのテロスが医療に差し込まれると、医者がビジネスマンになってしまい患者のことを利益を得る機会として見なすようになってしまう。社会正義のテロスは人種の平等を達成することやその他であるが、社会正義はそのテロスを他の専門職に差し込んでくる場合がある、と私は論じている。そして、社会正義のテロスが他の専門職に差し込まれる時、その専門職は自身のテロスを裏切っているのである。

 

2.動機付けられた推論

 

人間が行う推論に関して、一貫した現象が発見されている。…私たちがXを”信じたい”と思う時、私たちは「私はそれを信じることができるか(Can-I-Believe-It?)」と自分自身に尋ねる。だが、私たちがそれを”信じたくない”と思う時には、私たちは「私はそれを信じなければならないか?(Must-I-Believe-It?)と自分自身に尋ねるのだ。この現象は研究者にも当てはまり、そのことは以下の結果を生じさせる。

 

・ある政治的目標を支持するために行われる研究は、その目標を支持することにほとんど常に”成功”する。

・自分にはバイアスがあった、と研究者が認めることは稀である。

・何かに動機付けられた学問は、しばしば、自分たちにとって心地の良い虚偽を伝播してしまう。そして、それが虚偽であると暴露された後にも、その虚偽は取り除かれずに伝播され続ける。

・研究の過程で何らかの間違いがあったとしても、”制度的反証(institutionalized disconfirmation)”が信頼できる場合には、研究に起こるダメージを抑えることができる。…私たちと同じ動機を持っていない他の研究者たちが、私たちの主張に反証しようと試みることで私たちの研究に貢献してくれる、という営みが行われることが確実であるかどうかだ。

しかし、私たちにはもはや制度的反証を信頼することはできなくなっている。人文学と社会科学から保守派とリバタリアンがほとんど消え去っているためだ(経済学は例外であり、3人の左派につき1人の右派という比率に留まっている)。これこそが Heterodox Academy が存在する理由でもある。 Heterodox Academyは、(少なくとも、マルクス的ではなくミル的な意味での)学問の質を最も上げることができる種類の多様性を呼びかけているのだ。

 

3.神聖さ

 

人類は部族間の争いに適応して進化してきた。その進化の過程で、私たちは巧妙な能力を獲得した。神聖化された物体や原則を囲んで集まることでチームを形成する能力である。大学では、伝統的に学者たちは真実を囲んで集まっていた(少なくとも20世紀までは…当時も完璧ではなかったが)。だが、21世紀には、学者たちは少数の被害者集団を囲むようになり続けている。学者たちは被害者たちを守って助けたいと望むし、彼らに対する人々の偏見を払拭したいと思う。学者たちは自身の学問によって世界を変えたいと望む。それは称賛に値する目標であるが、被害者たちに対するこの新しい種類の世俗的な”崇拝”は、多くの大学で”被害者性の文化“をもたらすという社会学的特徴と交差しているのだ

被害者性の文化は、平等主義的で政治的に均一な大学で特に蔓延している。被害者性の文化は、まさにそれが救おうとしている学生たちに”道徳的依存性”を植え付けてしまう…学生たちは、争いが起こった時に自分たち自身で争いに対処する方法を学ぶのではなく、第三者(管理者や行政者)に訴えることで問題を解決することを学んでしまうのだ。

 

4.反脆弱性

 

ニーチェは「私を殺さないものは、私をいっそう強くする」と書いたが、彼は正しかった。ナシーム・タレブの著書 “Antifragile(反脆弱)”はその理由を説明している。。子供は、親やその他の大人の監督下ではない場所で遊ぶことを何千時間も経験する必要があるし、他の子供と争って大人の助けなしに争いを解決することを数千回は行わなければならない。独立して生きていく大人になるためには、それだけの経験が必要なのだ。しかし、アメリカにおける子育てには1980年代から変化が起こっており、特に1990年代からは中産階級や裕福な家庭の親たちがヘリコプターペアレントになってしまったために、子供たちは独立した大人になるための経験ができなくなってしまった。

代わりに、子供たちは「安全性の文化(safety culture)」の網の目に捕らわれてしまった。そして、若い頃からそれに捕らわれていた元子供たちは、大学生になっても安全性の文化をキャンパスに持ち込もうとしている。本や単語や講演者が”危険”であると見なされるようになったし、一種の”暴力”であると言われることすらある。脆弱な若者たちを危険と暴力から守るために、トリガー警告やセーフ・スペースが必要とされるようになったのだ。だが、そのような文化は政治的多様性と両立しない。多くの保守的な考えや保守的な講演者が危険であるとのラベルを貼られて大学やカリキュラムから禁止されてしまったからだ。支配的になっている政治的風潮に疑問を呈する学生は、教室の他の学生たちから敵対的な反応をされて疲弊させられる。これこそが、大学が一つのテロスを選択しなければならない核心的な理由の一つだ。ミルは真実の探求にとって意見の多様性は欠くことのできない本質的な要素であると主張したが、安全性の文化を支持する制度は意見の多様性を持つことができないのである。

 

5.涜神罪

 

真実大学には涜神罪は存在しない。誤った考えは論駁されるのであって、誤った考えに罰が与えられる訳ではないのだ。だが、社会正義大学には涜神罪を規定する法律が存在するかもしれない…研究に用いてはならない考え、理論、事実、そして著者たちが存在するのである。このことは、政治的な誘発性のあるトピックについて良質な社会科学研究を行うことを困難にする。相互に作用する様々な原因の結果として存在する大規模で複雑な問題を扱う学問であるために、ただでさえ社会科学は難しい。そのうえに、社会正義大学では研究を行うのに有効な道具の多くが禁止されてしまっているのだ。

 

6.相関関係

 

相関関係は因果関係を意味しない、ということは全ての社会科学者が知っている。だが、人口統計学上のカテゴリ(人種やジェンダーなど)と現実の世界における結果(テクノロジー企業における被雇用率、理系学部における教職員の割合など)に相関関係がある場合はどうなるだろうか?社会正義大学では、そこに因果関係を推測するように教育される。体系的なレイシズムやセクシズムが原因だと教えられるのだ。この教育が明らかに誤った結論へと人々を導いている具体例を、私は講演の中で示している。対照的に、真実大学では「異なった結果は、異なった扱いを意味しない」と教育する(異なった結果が出たことは、対象となる人々が異なった扱いを受けていないかということを注意深く確かめることを行う誘因ではある。たしかに、異なった扱いが不均衡な結果の原因である場合もあるからだ)。

 

7.正義

 

活動家たちが口にしている正義には、主に二つの種類があるようだ。異なった扱いを発見して撲滅することと(それは常に正しい行為であるし、真実と衝突することもない)、異なった結果を結果を発見して撲滅することである…異なった入力要素や第三の変数などには目もくれず。後者こそが全ての問題を引き起こしているのであり、真実と社会正義との衝突を引き起こしているのだ。結果の不均衡を根絶しようとする試みがいかにして人々に真実と正義の両方を軽んじさせることになるか、私は講演の中で具体例を示している。

 

8.分裂

 

上記1〜7で行った議論をふまえれば、どんな大学にも真実と社会正義の二つのテロスを両立させることができないのは明白だ、と私は考えている。全ての大学は、どちらか一つを選択しなければならない。ブラウン大学は社会正義大学のリーダー的な座を占めており、シカゴ大学は真実大学のリーダー的な座を占めている、ということを講演の中で示している(このことは、Heterodox Acacemy のお勧め大学ランキングでも証明されている)。

私は、講演の最後で「自分たちの大学が真実と社会正義のどちらの方に行くことを、自分たちは望んでいるのだろうか?」と自分自身に問いかけることをアメリカの全ての大学の学生たちに勧めている。(……略……)最低でも、大学規模でマルクス対ミルの議論が行われるとすれば、それは建設的な対話となるであろう。

 

【訳者による補足】

・ハイトの講演動画のリンクはこちら

ピーター・シンガー「健康保険はなぜ割り当てられなければならないか」(2009年7月15日)

Peter Singer, “Why We Must Ration Health Care“, New York Ttimes, July 15 2009

 

あなたは進行腎ガンを患っている。おそらく、1年後か2年後にはあなたはそのガンで死んでしまう。スーテントと呼ばれる抗がん剤はガンが転移するのを遅めさせて、おそらくあなたは6ヶ月余分に生きられるだろう。しかし、それには5万4千ドルのコストがかかる。数ヶ月死ぬのが先延ばしになることは、それほどの金額に値するのだろうか? もしあなたに支払える余裕があるなら、より長く生きるためにあなたは5万4千ドルやそれ以上の金額を払うだろう。たとえあなたの人生の質が良いものにならないとしてもだ。だが、ガンを患っているのが自分自身ではなく、自分が支払っている健康保険基金の対象となっている他人であった場合について考えてみよう。もし保険会社がこの男性にスーテントを提供するとすれば…そして、彼と同じ状況にある人全てにも提供するとすれば…あなたの保険料は増加するだろう。これでもまだ、スーテントは割の良い薬であると思えるだろうか?治療には100万ドルかかる場合のことを考えてみよう。その治療には価値があるか?1000万ドルなら?誰かの生命を6ヶ月引き伸ばす薬に対して保険会社が払う金額には何らかの制限があってほしい、とあなたは思うだろうか?どこかの時点で「駄目だね、6ヶ月余分生きることはそれほどの金額には見合わない」とあなたが言うのであれば、健康保険は割り当て制であるべきだとあなたは考えているのだ。

(……中略……)

自分と100万ドルでセックスしてくれないかと女性に訊ねる男性についてのジョークを覚えているだろうか?彼女は少しの間考えて、OKだと答える。「じゃあ」と彼は言う。「50ドルでも俺とセックスしてくれるかな?」。彼女は憮然として叫んだ。「あなたは私がどんな女だと思っているの?」。彼は答える。「取り引きはもう始まっているじゃないか。ただ値段交渉をしているだけだよ」。男性の返答は、どんな値段であったとしてもある女性が身体を売ったとすれば彼女は娼婦である、という意味を含んでいる。健康保険の割り当てについて私たちが考える方法も、同様の前提に立っているようだ。つまり、生命を救うことに対して金銭的な考慮をすることは非道徳的であるという前提だ…だが、そのような立場を主張し続けることはできるのだろうか?

(……中略……)

ワシントンに暮らすユダヤ教のラビ、ダニエル・ゼメルにワシントンポスト誌のジャーナリストがインタビューしたことがある。アメリカ政府が人命に金銭的価値を付ようとしていることについてどう思うか、とジャーナリストに聞かれたゼメルはユダヤ教の教えを引用して、秤の一方に人命を乗せた時にはもう一方にその人以外の世界中全ての人間を乗せて初めて秤は釣り合う、と言った。まさにこれこそが、健康保険について比較考量することに反対している人たちの考え方である。しかし、私たちは既に人命に金銭的価値を付けているのだ。例えば、もしアメリカ運輸局がゼメルの教えに従ったとすれば、運輸局は交通安全に予算を割きすぎてしまって破産するだろう。幸いなことに、運輸局は一人の人命を救うことに割く予算に上限を設けている。2008年にはその上限は580万ドルだった。他の政府機関も同様のことを行っている。2008年、消費者製品安全委員会はマットレスの可燃性を下げさせることを提案した。その新たな基準を実施するには3億4300万ドルのコストがかかるとマットレスを製造している業界は示したが、委員会が計算したところ、新しい基準が実施されれば1年につき270人の人命が助かる筈であった…そして、委員会は一人の人命におよそ500万ドルの価値を付けていたので、マットレスの可燃性に関する新たな基準は割が良いものであったのだ。消費者の安全を守るための基準を少しでも設けるためには、金を払って買う価値のある安全とはどれ程のものであるか、ということについて何らかの考えが必要となる。健康保険に携わる官僚たちと同じく、消費者安全に携わる官僚たちも、一人の人命を救うことは支出に比べると割に合わない、と判断する場合がある。20年前、米国科学アカデミーの一部局である国家研究会議は全てのスクールバスにシートベルトを導入するという計画について調査した。調査の結果、シートベルト導入の計画が実行されれば平均的には1年あたり1人の人命を4000万ドルのコストで救うことができる、との推計が出た。そして、その調査の結果が出てからはシートベルトの導入計画に対する支持は失われたのである。さて、消費者安全の場合には人命に価値を付けることを認めている人たちが、なぜ健康保険の場合には人命に価値を付けることを否定するのだろうか?

もちろん、一人の人命を救うことに支払う金額に限度を設けることを認めることと、その限度をどこに設定するかということは別の問題だ。官僚たちが人命一般に付ける金銭的価値は、私たちの行動に表れているような社会的価値を反映することが意図されている。それは「自分自身の生命を救うことに、あなたはどれだけの金額を支払う意志がありますか?」という質問への回答であるのだ。…無論、実際に死に直面している人の回答は例外である。死に直面している人は、自分の生命を救うためにはほとんど何でも支払うつもりだろう。なので、その代わりに、自分自身が死ぬリスクを減らすために人々はどれだけ支払うつもりがあるか、ということを経済学者たちが計算する。例えば、車にエアバッグを備えることに人々はどれだけ支払うだろうか?リスクを削減する特定の場合について人々が支払うつもりの金額を明らかにした後は、人々が支払うつもりの金額と削減されたリスクの量とを掛け合わせれば、理論上、人々が自分たちの生命に付けている金額を知ることができるのだ。 例えば、車にエアバッグを付けると10万分の1の確率で私の生命が救われることがあるとして、私は1個のエアバッグに50ドル支払う気があるがそれ以上の金を出すつもりはない、としよう。その場合、私は自分の生命に50ドル×10万の価値を付けているのであり、つまり500万ドルの価値を付けているのだ。

この理論は上手くできているように思えるかもしれないが、実践するとなると問題が生じる。私たちは非常に小さなリスク群の間の違いを判別することが得意ではないので、100万分の1の確率で死ぬリスクと1000万分の1の確率で死ぬリスクとについて訊ねられたとしても、私たちはそれらのリスクを削減するのに同じ金額を支払うと答えるかもしれない。50万分の1のリスクと1000万分の1のリスクとの間でも同じ金額を答えるかもしれない。人命の推定価値は死のリスクを削減するのに私たちが支払う金額と削減されるリスクの量を掛け合わせることで数学的に精確に算出されるが、その計算結果は質問に対する私たちの直感的な答えに反するものとなるのだ((訳注:直感的には50万分の1のリスクと1000万分の1は同じに感じられても、それを計算してみると、後者の場合には人命の推定価値が前者の20倍になる))。それにも関わらず、「全ての人命は無限大の価値を持っている」というドラマチックな宣言や「一人の人間の生命の価値と百万人の人間や世界中全ての人間を合わせた生命の価値との間に区別をつけることはできない」という主張に比べれば、少なくとも人命に価値を付けるというこのアプローチの方が私たちが実際に抱いている考え…そして、私たちが抱くべきでもある考え…に近いものである。人命に価値は付けられないという気分の良い主張(feel-good claim)は、特定の状況では象徴的な価値を持つかもしれないが、その主張を真面目に捉えて実践することは…例えば、1人を救うか10億人を救うかという判断を偶然や運まかせにすることは…非常に非倫理的な行為となるであろう。

健康保険プログラムにはどれだけの予算を使い人命を救うことを直接の対象としていない他の公共財にはどれだけの予算を使うか、という計算を政府が行っている時、政府は暗黙のうちに人命に金銭的価値を付けているのだ。健康保険に携わる官僚の職務とは、彼らに分配された予算から得ることが可能な価値を最大限まで引き出すことだ。日常的にも私たちは支出から最大限の価値を得ようとしているが、健康保険プログラムもそれと同様なのだ。場合によっては、判断をすることは比較的簡単である。ある二つの薬品があり、どちらからも同じ効果が見込めて副作用のリスクも同じであるが、片方はもう一方よりもずっと高額であるとすれば、公的な健康保険プログラムでは安い方の薬品だけが提供されるべきである。薬の効果と副作用が同様であるかどうかは科学的な問題であり、専門家が呼ばれて調査が行われて確かめられることである。これが、イギリス国立臨床研究所が行っている基本的な仕事だ。しかし、実際には薬の効果は様々であるため、直接的な比較は困難である。健康保険によって得られる善(goods, 成果)を測るための共通単位が私たちには必要であるのだ。私たちは違った種類の善についても比較を行うことになるため、単位の選択は科学的な問題や経済的な問題であるだけでなく、倫理的な問題でもある。

手始めに、健康保険によって獲得できる善とは救われる人命の数のことである、と言うことができるかもしれない。しかし、それはあまりに大雑把だ。一人のティーンエイジャーの死は一人の85歳の死に比べてより大きな悲劇であるし、そのことは私たちの優先順位にも反映されなければならない。救われた生命だけを数えるだけではなく、救われた生存年数も計算することで、私たちはティーンエイジャーと老人との死の重さの違いを調節することができる。もしそのティーンエイジャーが70年後まで生きると予測されていたとすれば、彼女の生命を救うことは70年分の生存年数の増加として数えられる。一方で、85歳の人はあと5年生きられると予測されていたなら、彼の生命を救うことは5年分の生存年数の増加としてしか数えられないのだ。このことは、1人のティーンエイジャーを救うことは85歳の人を14人救うことに等しいということを意味する。もちろん、ここで論じているのは総体としてのティーンエイジャーや85歳である。「もしそのティーンエイジャーが暴力的な犯罪者で、85歳の人はその年齢でも生産的に働いてるとしたらどうなるんだ?」と言うのは簡単だ。だが、緊急治療室では刑事司法は法廷に任せて加害者も被害者も同等に扱われるべきであるのと同じように、健康保険のリソースの割り当てに関する判断は、個々人の人格の道徳性や社会的価値などからは切り離して行われるべきであるのだ。

健康保険は人命を救うだけではない。健康保険や痛みや苦しみを削減することも行うのである。例えば、一人の生命を救うことと寝たきりの人を回復させて健康な生活を過ごせるようにすることは、どのようにして比較できるだろうか?これについても、人々から価値観を聞き出すことができる。よく行われる方法の一つは、医学的状態を人々に説明して…例えば、四肢が麻痺しているなど…、10年間その状態で生きるか、それよりも少ない年数を健康な状態で生きるかを選択してもらうことである。例えば、大半の人は障害のない人生を4年間生きることよりは四肢が麻痺した状態で10年間生きることを選択するが、障害のない人生を6年間生きられるならそちらを四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも優先して選択するとして、そして障害のない人生を5年間生きることと四肢が麻痺した状態で10年間生きることとの間の選択は困難であるとすれば…事実上、人々は四肢が麻痺した状態で生きることには障害のない状態で生きることの半分の価値があると査定しているのである(ここに書いているのは計算をシンプルにするための仮定的な話であり、実際の調査に基づいている訳ではない)。もしそれが全人口の判断のおおよその平均値を反映しているとすれば、治療しなければ四肢が麻痺したままでいる二人の人を治療して障害がない人生に復帰させることは一人の生命を救うことに等しい(関係者全員の余命が同様であるなら)、と結論付けることができるかもしれない。

これが、質調整生存年(quality-adjusted life-year, or QALY)の根拠だ。QALYとは、様々な形の健康保険におけるそれぞれのベネフィットを比較するために設計された単位である。30年以上前から、健康保険に関する業務を行う経済学者たちは様々な種類の医療処置の対費用効果を比較するためにQALYという単位を用いている。複数の国々では、公金が支払われるべき医療処置を決定するプロセスの一部にもQALYが用いられているのだ。改善されたアメリカの健康保険システムが割り当て制を明白に認めたとすれば…認めるべきだ、と私はここで論じている訳だが…アメリカの健康保険システムでもQALYが同様の役割を担うことができるだろう。

一部の人々は、QALYは障害者に対する差別であると否定する。四肢が麻痺した状態で一年生きることは障害がない状態で一年生きることの半分の価値しかない、という仮定的な判断について話を戻そう。障害を持たない人々の生存年数を伸ばす治療を行うことは、四肢が麻痺した人の生存年数を同じだけの期間伸ばす治療を行うことの2倍の価値がある、ということになる。これは、全ての人の生命は等しい価値を持つという考えとは衝突する。しかしながら、問題は質調整生存年という概念にあるのではなくて、四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも10年より短い年数を障害なしに生きることを優先するという判断に問題が存在しているのだ。そのような判断は障害を持たない人によって行われるのであり、障害を持つ人に対して障害を持たない人々が抱いている無知と偏見が反映されたものに過ぎない、と障害者の権利運動家たちは論じるかもしれない。そして、私たちは四肢が麻痺した人たち自身に四肢が麻痺した状態の人生の価値を訊ねるべきなのだ、と障害者の権利運動家たちは実にもっともな主張をするだろう。実際に四肢が麻痺した人たちに訊ねて、その障害を回復することには四肢が麻痺した状態の人生が一年失われることに見合う程の価値もないと彼らが答えたすれば、障害がない人の生存年数を伸ばす医療処置を四肢が麻痺した状態の人の生存年数を伸ばす医療処置よりも優先することはQALY方式の下では正当化されないことになる。

しかしながら、「全ての人は生きる権利を等しく持っている」という考えを維持するために上述のような方法をとることは、両刃の剣でもある。もしも四肢が麻痺した状態の人生はそうではない人生と比べて等しく良いものであるとすれば、四肢の麻痺を治療することには健康上の効果はない、ということになるのだ。間違いなく、そのような発想は一部の人々から強烈な反対を受けることになるだろう。例えば、事故によって麻痺障害を負った俳優のクリストファー・リーヴは、脊髄損傷を回復する方法を発見するための研究をもっと行うことを要求するキャンペーンを行っていた。自分たちの生存年数を伸ばすことは障害のない人々の生命を伸ばすことと等しく重要であると主張し続けるか、自分たちの障害を治療するための研究に公的な支援を行うことを求めるか、障害者の権利運動家たちは選択しなければならないようだ。

QALYは、そのベネフィットが誰にもたらされるかということに関わらず、最大の健康効果をもたらす物事を私たちに示してくれる。通常の場合、予算には限りがあるということをふまえると、最悪の状況にある人たちを助けることは他の人を助けるよりも大きな効果をもたらす。最悪の状況にある人たちは満たされていないニーズを最大に抱えているからだ。だが、時によっては、治療することが非常に難しい上に非常に高額である状態も存在する。そのような場合、QALYによるアプローチは、前述の人たち程には悪い状況ではなく治療することも前述の人たちに比べれば易しく低額である状態の人たちを優先するという結論を導くかもしれない。多少はマシな状態にある人の利害とその人に比べてずっと悪い状態にある人の利害に同等の重みを置くことは不公平ではない、と私は考える。だが、より悪い状態にある人の方を優先するべきだという社会的コンセンサスがあるとすれば、QALYアプローチを修正することもできる。QALYの基準では他の人に比べて悪い状態にあると判断される人に対して発生するベネフィットに、より多くの重みを付けるようにすればいいのだ。

健康状態そのものの改善の他に健康保険がもたらす様々なベネフィットについては、QALYアプローチはそれらのベネフィットを計測しようと試みることすらしない。感情的には、ジャック・ロッサーが若い子供の父親であるという事実は彼の生命を伸ばすことの重要さに違いを生む、と私たちは感じる((訳注:ジャック・ロッサーは記事の省略部分で紹介された人物))。だが、 抗ガン剤がジャックにもたらす健康効果のQALY査定は、ジャックが親であるかないかということとは無関係だ。健康保険リソースの割り当てを決定する際には上述のような個人的な状況も考慮の対象に含むべきであるかどうかは、判断するのが難しい問題である。考慮に入れないとすれば基準は柔軟性のないものとなってしまうが、個人的な要素を考慮の対象に含むことは、主観的な…そして、偏見を含んだ…判断の余地を増やしてしまうのだ。

QALYは健康保険によって得られる善の指標として完全であるわけではないが、ウィンストン・チャーチルが政体としての民主主義を擁護したのと同じようにQALYを擁護することができる。つまり、他の全ての分配方法を除けば最悪の分配方法である、ということだ((訳注:「民主主義は最悪の政治形態といえる。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」のパロディ。))。全ての人に有益な医療処置を施すことが不可能であるとすれば、人々はどのような処置を受けるべきかを決定する方法として、それぞれの処置の費用から得られるQALYを比較することよりも優れた方法があるのだろうか?

 

政府が直接的に行うにせよイギリス国立臨床研究所のように独立した機関を通じるにせよ、どの医療処置が十分な費用対効果を持っているので公費で提供されるべきでありどの医療処置がそうでないかを政府が判断することを、アメリカ人たちは認めるであろうか?アメリカ人たちもそれを認めるかもしれない二つの状況がある。第一は、公的保険が実施されたあとにも民間の健康保険という選択肢が残っているという状況だ。第二は、健康保険で割り当てを実施しない場合にはどれ程のコストがかかってしまうのか、人々が身銭を切って目の当たりにする状況である。

もし民間の健康保険が禁止されているとすれば、健康保険の割り当て制は自由な選択を制限することになる。だが、多くの国々では、無料の国営健康保険と自由に選択できる民間の保険が組み合わされている。私が人生の大半を過ごして家族も養ってきたオーストラリアも、そのような国の一つだ。アメリカもオーストラリアなどの国々と同様の制度を実施できる。それは、メディケア(高齢者向け公的医療保険)の対象を年齢に関わらず全人口へと拡大することだ。ただし、適格患者に行う医療処置について医者たちに大幅な自由裁量を認めている現在のメディケアの方針は排除する。全ての人のためのメディケア(Medicare for All)は、QALY当たりのコストがあまりに高過ぎる医療処置には支払われるべきではないのである(一方で、全ての人のためのメディケアは、費用対効果に優れた薬品については一時的な自己負担金以上の金額を求めるべきではない)。メディケアの拡大は、所得税を払える人から税の一部として少し徴収することで賄えるだろう。オーストラリアでは、健康保険のための徴収料は、課税可能な収入の1.5パーセントだ(高収入で民間の保険に入っていない人は追加で1%徴収される。収入が非常に少なくて所得税も払えない人は、自分自身では費用を払わずに健康保険に加入することができる)。全ての医療処置を自分自身で私的に選んだ医者から受けることが保証されるのを望む人は、費用にかかわらず、全ての人のためのメディケアから抜けられることができる。ただし、自分が病気になったときにもコミュニティの負担になることがないくらい充分に民間健康保険に加入していることが証明できる限りにおいてだ。別の選択肢として、全ての人のためのメディケアに加入し続けたまま、全ての人のためのメディケアがカバーしない医療処置を受けるために補完的な民間健康保険に加入することもできるだろう。全てのアメリカ人は良質な標準の医療保険を得る権利を持つことになるだろうが、割り当てされない医療保険を得る権利は誰も持たない。割り当て制ではない医療保険を選択してしまった人々は、それが自分たち自身にとってどれ程のコストになるかを知ることになるだろう。

(…後略)

 

* 訳者による補足

本記事はオバマ政権時に健康保険制度についての議論が盛んになっていた2009年に発表されたもの。記事内で省略した箇所では、当時のアメリカにおける健康保険制度の状況についての解説や、アメリカの制度と他国の制度との比較などが書かれている。記事の発表から約8年経っているので状況は大幅に変わっているであろうこと、また日本の読者にとっては興味のない情報も多く含まれているであろうことを踏まえて、訳者の判断で省略した。