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ピーター・シンガー「私たちが肉を食べるのを止めない限り、動物たちへの虐待は終わらない」(2015年2月11日)

・Peter Singer, “The abuse of animals won’t stop until we stop eating meat“, Guardian, 11 February, 2015.

 

1975年に『動物の解放』を出版した時には、40年後には屠殺場が存在しなくなっており、したがってイングランドの北部にある食肉処理場で行われたような残虐行為についての記事が新聞に載ることもなくなっていること私は望んでいた。人間による動物の虐待に反対する議論はあまりにも明白で反論の余地もないものであるように私には思えたし、反奴隷制運動がアフリカの奴隷貿易を終わらせたのと同じように動物虐待も歴史の遺物としてしまうような強力な運動が確かに起こることだろう、と思っていたのだ。

少なくとも、それが楽観的な時に(あるいはナイーブな時に)私が考えていたことだ。より悲観的な時には(あるいは現実的な時には)、肉を食べることなどの人々に深く根付いている習慣を変えること、また哲学的な見解を種差別主義(speciesism)のように根元的なレベルから変えることなどの課題がどれ程巨大なものであるかということは私も理解していた。奴隷貿易が廃止されたから200年経っても我々の世界にはまだ人種差別が存在しているのであり、奴隷制ですらも、全ての国で違法になっているとはいえまだ存在している。人種差別や人間を対象にした奴隷制を終わらせるよりも簡単にまたは迅速に種差別や動物を対象にした奴隷制を終わらせることはできる、ということが期待できる筈がないではないか?

上記の現実的な予測の背景には、動物たちに対する虐待は現在でも甚大な規模で行われているという事実が存在しているのであり、それに直面して嘆くことはできるだろう。しかし、絶望をしてはならない。ヨーロッパとアメリカを含む世界中の多くの国では、動物に対する人々の態度の変化は素晴らしく進んできた。それらの国では強力な動物愛護運動が登場したし、そのことは数十億もの動物たちの境遇に変化をもたらしてきたのである。

1971年のオックスフォード大学にて、自分たちが食べている卵や仔牛がどのように生み出されているかということを通行人に示すための展示を私は他の複数の学生と共に行っていた。畜産業界が持っている政治的力や経済的力に対して自分たちが勝つことができると本気で思っているのか、と人々は私たちに訊ねたものだ。しかし、動物愛護運動は畜産業界に対して挑戦してきたのであり、その挑戦は成功して、農場の動物たちがより広い空間で飼われてより良い生活状況で育てられることを命じる法改正ヨーロッパ全国で実現してきた。同様の法改正はカリフォルニア州でも行われている。無論、これらの変革が行われた後であっても、工場畜産の下で育てられる動物たちがまともな生活を過ごせるようになることを実現することからは現在はまだまだ程遠い。しかし、法改正が実効されたことは、それ以前に標準的であった習慣に対する大幅な改良をもたらしたのだ。

法改正以上に喜ばしいかもしれないのが、動物を食べることを完全に止めてしまった人々や倫理的な理由に基づいて肉の消費量を減らした人々の数が増えたことである。1970年代には、ベジタリアンであることは変人[crank]であることだった…当時のロンドンで最高の ベジタリアンレストランであった Cranks の店名は、当時の価値観を自虐的に反映したものである。もしあなたが”ビーガン”という言葉を口に出したら相手はポカンとしただろうし、あなたはその言葉の意味を説明しなければならなかっただろう。

法改正やベジタリアンの増加にも関わらず、人間の手によって苦痛を負わされている動物の数は現在が過去最大である、ということはおそらく事実である。現在の世界では豊かな生活を過ごしている人の数が過去最大であるということがその理由であり、特に中国でそうであるように、豊かになった人々の要求を満たすということは工場畜産が大規模に拡大されるということを意味しているのだ。しかし、この事実を動物愛護運動が何も成果を成し遂げてこなかったことの証拠として見ることは、現在の世界における奴隷の数は1800年よりも増えているのだから反奴隷制運動は何の成果も成し遂げてこなかった、と主張するようなものである。現在の世界人口は1800年の7倍になっていることをふまえると、数字だけで物事の全体を語ることはできないのだ。

進歩は確実なものではない。自分たちが無益に立ち往生しているように思える時は常に存在するだろうし、運動が後退しているように思える時すらも存在しているだろう。たとえば、毛皮を着用する人の数が昔のように増えていることを伝える記事は定期的に掲載される。しかし、40年前には毛皮は誰からも問題にされずに受け入れられていたものだったが、40年前と同じような扱いをまた毛皮が受けることは最早ないだろう、と私は思う。(犬や猫、あるいは馬に対する虐待についてだけでなく)食料にされるために屠殺される動物たちに対して行われている虐待について新聞が大々的に取り上げるようになったという事実それ自体が、進歩を表しているのである。

さて、動物愛護団体の Animal Aid が公開したハラール用食肉処理場の内部告発ビデオからは一つのシンプルな教訓を得ることができる。動物を人間が利用する道具にしてしまって、彼らをどう扱うかということを現場の労働者たちに全て委ねてしまったとすれば、ビデオの中で告発されているような虐待が発生するのを止めることは永遠に不可能である、という教訓だ。労働者を一人か二人クビにしたとしても、スケープゴートを作ることにしかならない(ところで、スケープゴートという単語が動物に対する私たちの伝統的な態度をいかに伝えてくれるか、考えてみてもいいだろう)。問題は一人か二人の労働者にあるのではないし、ハラール式の屠殺という習慣にあるのでもない。システムが問題なのであり、そして人々が肉を買うのを止めない限りはこのシステムを変えることはできないのだ。

ジョセフ・ヒース「移民政策について、アメリカがカナダから学べること」(2017年3月7日)

Joseph Heath, “What the United States could learn from Canada on immigration policy“,  In Due Course, March 7, 2017.

 

自国の移民政策を何らかの形で失敗させてしまい、周縁化された民族集団とネイティヴィストのバックラッシュとの不幸な組み合わせを作り出してしまった国々が世界には数多く存在する。そのような国では、人々の周縁化が様々な社会病理を生み出して(失業、犯罪など)、そのことがバックラッシュの背景にある移民に対する差別的な態度の多くを正当化してしまう、そのことがまた周縁化や排除を増させて社会病理を悪化させる、そのことがまた…といった悪循環が容易に生み出されしまう。カナダには数多くの問題があるとはいえ、少なくとも我々カナダ人はこのような形で移民政策を失敗させることはしなかった(ファースト・ネーション[訳注:カナダの先住民集団]との関係と比較しての話だ。ファースト・ネーションに関してはカナダも失敗してしまったし、上述したのとほとんど同じような悪循環を生み出してしまった…また別の複雑な要素もいくつか含まれているのだが)。

いずれにせよ、移民政策を失敗させてしまったどこかの国がその政策を改善するための何らかのアイデアをカナダから得ようとする時、彼らがほとんど反射的に注目するのは、移民を特定のクラスに分別するためのポイント制度をカナダが用いているということである。しかし、大半の専門家はポイント制度は実際には大した事柄ではないと考えているし、カナダの移民政策の成功における最も重要な要素でもないと考えている。だが、ポイント制度に人々に訴えかけるものが含まれていることは明らかだし、おそらく「望ましくない連中は国に入れるな」という主張を実践する制度に見えるがために、特にネイティヴィストたちにとって魅力的である。だから、先日に議会で行われたスピーチにて、ドナルド・トランプがカナダのポイント制度をアメリカにとっても望ましいモデルであると言及したことは意外でもなんでもないのだ。

アメリカの移民制度におけいては他にどれ程多くの要素が崩壊状態になっているかということをふまえれば、トランプの主張は滑稽である。しかし、残念なことに、多くのアメリカ人はこの事実を直視しないだろう。他の国に比べてアメリカの移民政策がいかに特殊であるかということを多くのアメリカ人は単に理解していないか、または、これまで行われてきた政策を当たり前のものとして受け入れてしまっているからだ。だから、一人の外国人として、アメリカが移民政策で犯してきた二つの大きな失敗であると私が見なしていることを以下で指摘しよう。

あらかじめ注意しておくが、私が行う二つの提案のどちらも、非常に右翼的な印象をアメリカの読者たちに与えるかもしれない。しかしながら、カナダでは私の提案は右翼的なものだとは見なされない。私の提案がアメリカでは右翼的だとされるのは、アメリカ人たちは移民問題を人種というレンズを介して見るために(もちろん、この場合の”人種”は実際には人種を意味しているのではなく、黒人と白人との間の関係を意味している)、別の問題として考えるべき数々の事象を曖昧にしたり混同させたりする傾向があるからだ。このため、道理に適っている移民政策の多くが、もしその政策がアフリカ系アメリカ人に向けられるとすれば非友好的であるか不当なものとされるような種類のものになるだろうという理由によって、左派から拒否されてしまっているのだ。

 

1:スペイン語を国語であるかのように扱うのを止めよう

 

カナダ人たちやカナダの全政党の間で満場一致に同意されている物事は数多くある。その一つが、移民たちには”地域の”マジョリティの言語(ケベックではフランス語、他の地域では英語)を習得することとその言語を使って働くことが期待されている、ということだ。この意見の背景には、カナダがバイリンガル国家であり公用語のうちの片方はマイノリティであって消失の危険に常に晒されている、という事実が明らかに影響している。だから、フランス語を習得しようと思っていること(少なくともそう宣言すること)がケベックへの移民の必須条件であることは圧倒的に明白なのだ。同時に、カナダに二つの言語が存在していることは国内の分断の大きな原因ともなってきた(ケベックの分離独立問題など)。このことは、フランス語に認められているようなマイノリティ言語としての地位を”アロフォン”移民[訳注:英語とフランス語以外を母語とする人]が彼らの母国語にも認められることを期待してはならないということを、カナダの英語州における移民政策の必須条件としてきた(この領域に関するウィル・キムリッカの研究の影響力、またキムリッカの定義による民族集団・民族言語とネイション集団・国語との区別の重要性は、この移民政策の原則的な正当化をもたらしている)。要するに、英語州のカナダ人は、自分たちがフランス語に対して行ったのと同レベルの妥協を中国語やヒンドゥー語やペルシャ語にも行うべきだと中国やインドやイランからの移民から要求されたとすれば、その移民を受け入れないということだ。

したがって、カナダへの移民に対して示される言語に関する”取り引き”は実に明白なものである。…あなたはこの国に来た、あなたはこの国のマジョリティの言語を話すことを習得する、もし自分自身はあまり上手く言語を身に付けられなかったとしても自分の子供たちが言語を習得できることを確かにする。そして、カナダ政府がこの”取り引き”を移民に伝える方法の一つは、各地域の民族グループと協力しながら、英語教育(ケベックの場合にはフランス語教育)への大規模な支援と資金を提供することである。なので、例えばロシアから移民がカナダに到着したとすれば彼らは地域のロシア系自治会に取り計られるのであり、その自治会がまず行うのは移民たちを英語学習のコースに通わせることなのである。

カナダ政府とは対照的に、基本的にはアメリカ政府は移民たちの英語学習に対するサポートを全く提供しない。そして、いつものごとく、アメリカ人たちは自分たちが望んだ通りの代償を支払うことになる…マジョリティ言語の習得という関して、アメリカへの移民たちは他の国の移民よりも成績がかなり悪いのだ。実質的には、スペイン語しか喋れない多数の人々をアメリカは国内に抱え込むことになる。移民について賛成的な人たちなら、移民たちのための英語学習にもっと多くのリソースを注ぐことがこの事態に対する当たり前の反応であるはずだ、と思うことだろう。しかしながら、実際には、アメリカのリベラルたちは自国の移民政策の失敗を美徳であるかのように扱ってきたのであり、(訳注:カナダにおけるフランス語のように)英語に与えられている全ての権利が与えられているマイノリティ国語としてスペイン語を扱いはじめたのである。これは酷いことであるし、カナダ人から見れば全くもって不当なことであるのだ。

たとえば、先述したドナルド・トランプのスピーチの後に、民主党が英語とスペイン語との二つの言語でトランプに対する返答を発表したことについて考えてみよう。なぜスペイン語なのか?アメリカでは、スペイン語には何の公的な地位も与えられていないというのに。カナダで議会開会の式辞が行われた後には、ある政党が式辞への公的な応答を英語とフランス語の両方で発表することはあるかもしれない。だが、その政党が標準中国語でも公的な応答を行うことを決定した場合について想像してみればいい。特定の有権者たちに焦点を定めて発表を行うことにはそれはそれで意味があるが、そのことで公用語の地位に関する混乱が生み出されないようにすることは大切だ(同様に、地下鉄や建物などのトロント中の様々な場所に中国語で書かれた標識や広告があらわれだしたとすれば、その場合にもカナダ人たちはひどく怯えてしまうことだろう…しかし、アメリカ人たちはスペイン語の標識や広告を何十年も見続けてきているのだ。実際、スペイン語があれ程までにそこら中にあるということが、私がアメリカに暮らしていた時に最も驚かされたことのうちの一つだ。もちろん、現実問題として情報を伝えることの必要性が他の問題を上回るために他言語の標識がある方が良い、という状況は多く存在するだろう。だが、同時に、ある国の公用語と移民たちの様々な言語との間の区別を曖昧にしないことは、原則問題として重要なのである)。

カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコなどの州全体やワイオミング、カンザス、コロラドなどの州の一部はいずれもメキシコから軍事的に奪った土地であるということをふまえれば、スペイン語話者はアメリカ国内のナショナルなマイノリティ集団であるのだから、カナダでフランス語に与えられているのと同等の権利がスペイン語にも与えられるべきである…そう主張することはできるかもしれない。だが、仮にそうだとしても、それは法律によって認められるべきなのだ。言語に関するアメリカの法律に限って見れば、全ての法律は英語を唯一の公用語として見なす方向にしか書かれていない。この文脈をふまえれば、スペイン語を準-公用語として扱うことは多大な問題を生じさせてしまう。移民に対する重度の反感を生み出していることは言うに及ばないだろう。

 

2:移民たちにアファーマティブ・アクションの恩恵を受けさせるのを止めよう

 

昨年には、アーリー・ホックシールドの著書『自分たちの国の中の異邦人:右派アメリカ人たちの怒りと嘆き(Strangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right )』が話題になった。この本は、”赤い州”について数多く存在するエスノグラフィーのうちの一つだ。『自分たちの国の中の異邦人』の中で、ホックシールドは白人の憤りの根底にある”根深い物語”と彼女が呼んでいるものを以下のように表現している。

 

地平線にまで向かって伸びる長い行列の真ん中で、あなたは辛抱強く立っている。その行列の先にはアメリカン・ドリームが待っている。しかし、あなたが行列で待機していると、あなたより先に割り込んでくる人々の姿が見えてくる。割り込んでいる人々の多くはアファーマティブ・アクションや福祉の恩恵を受けている黒人たちだ。一部は、それまでには決して機会がなかったような仕事でキャリアを得ている女性たちだ。そしてあなたは移民たちを目にする。メキシコ人、ソマリ人、まだ到着していないシリア難民たち。ぴたりとも進まないこの行列に待機しているあなたは、彼らのこと全員を可哀想だと感じるように求められる。

 

この物語は真実ではない、とホックシールドは示唆している。「この根深い物語は事実であるかのように感じられる物語であって、人々の意見や投票の背景にある感情を反映したものであり、事実や判断は取り除かれているのだ」。しかし、移民に関して言えば、この物語にもある種の事実が少しは含まれている。アメリカの移民政策の最も厄介な特徴の一つは、国内の人々が直面する問題に対処するために意図されていることが明らかであるアファーマティブ・アクションの政策を利用することを、特定の移民たち…特定のマイノリティ人種に属している人や、「ヒスパニック」という無茶苦茶な人種カテゴリに属している人…に許してしまっていることである。

例えば、大学の入学に関するアファーマティブ・アクションについて考えてみよう。この政策の目的がアフリカ系アメリカ人に対して行われた特定の歴史的不正義の問題を是正することに向けられているのは明らかだ。過去の差別の遺産や現在行われている差別はアフリカ系アメリカ人が学業を達成することへの障壁となっているのであり、その障壁はアファーマティブ・アクションによってしか取り除くことができない、という事情に基づいた政策なのである。この政策は多大な困難を生じさせてきたし、政策の目的通りに適用される場合についてでさえも非常な議論の的となり続けている。とはいえ、アフリカ系アメリカ人に対して適用するという特定の場合においては、アファーマティブ・アクションを支持する議論を行うことは可能であるように私には思える。だが、政策の中心的な対象である集団から離れて、ヒスパニックもアファーマティブ・アクションの恩恵を受けることを認める議論についてはどうだろうか?なぜ、アメリカの大学にメキシコ系の移民(例えば、白人やアジア人の移民に比べてSATのスコアが低い人)を優先的に入学させるべきであり、アルゼンチンやコロンビアからのエリートには優先措置を与えるべきでない(ただし、ブラジルはまた別!)、というのだろうか?

より一般的なことを言えば、なぜクワメ・アンソニー・アッピアのようなイギリスからの移民が、ハーバード大学のアフロ-アメリカンスタディーズと哲学のチャールズ・H・カースウェル教授として任命されているのだろうか?例えてみれば、ファースト・ネーション・スタディーズの学科長を任命しようとしているカナダの大学が、その人材を国内に求めるのではなく、オーストラリアのアボリジニやポリネシアの島民を任命するようなものだ。人々は憤慨する筈だ。外国から人々を持ち込んできて、それは大学の”多様性”を増させることだとみなすのがどれ程奇妙なことなのか、進歩的なアメリカ人の多くはわかっていないのだろう。確かに外国からの教職員たちは移民が多様性を増させるのと同じように多様性を増させるが、アファーマティブ・アクションや教職員多様性イニシアチブなどの政策が意図しているような多様性を増させる訳ではないのだ。

いずれにせよ、肝心なのは、行列の割り込み問題に対して人々は極めて敏感であるということだ。移民が行列に割り込んだという非難の中には事実に基づかない虚偽のものも充分に存在しているのだからこそ、社会は移民が完全に均等に扱われることに保証しようとするべきであるし、移民たちが実際に行列を飛ばすことは一切認められないようにするべきなのだ。だが、こんな単純な忠告にもアメリカは従わない。多くの社会には、過去に起こった特定の種類の不正義や争いに対する解決策として生み出された、マイノリティ集団のための”特別な取り決め”とでも言えるものがいくつも存在している。例えば、ケベックには英語とフランス語との両方の言語の学校が存在していることは、長くて複雑な歴史を持つ争いの結果として、州内のマイノリティである英語話者への譲歩としてもたらされたものである。ケベックに表れだした移民たちが英語学校に入学し始めたことに対して、それは本来移民たちには認められていない社会的取り決めを不当に利用しようとすることだ、とマジョリティであるフランス語話者たちはまことにもっともな認識を抱いた。そして、移民たちは自分の子供をフランス語学校に通わせなければならない、という法律をフランス語話者たちは通過させたのだ。彼らにはそうする権利があった、と私は思う。同様に、アメリカにおけるアファーマティブ・アクションは奴隷制やジム・クロウ法による分離政策の遺産に対処することを意図した特別な取り決めであることは明らかなのであり、そのアファーマティブ・アクションを移民たちが利用することを認めない権利がアメリカ人たちにもあるだろう。

もちろん、アファーマティブ・アクションについて純粋に結果志向的に考えてみて、大学内における “多様性”を特定の水準にまで達成するための試みとして捉えてみれば、その目標を達成するためにアメリカの大学が多数の外国人学生や外国人教員たちを招き入れることは問題にならないかもしれない。しかしながら、ここで論じてきた政策について考える一貫した方法をこの種類の帰結主義が提供できるとは、私は思わない。自分たちが達成しようとしている目標を見てみれば、それは大抵の場合にはアメリカ国内の人口を “反映”しているということがわかるはずだ。そのことは、それらの政策の本当の目標は差別に対抗して機会への平等なアクセスを確保することであるということを示している。そして、それが本当の目標だとすれば、その目標に関係している種類の差別の被害に遭ってきたと判断できる人々だけに政策の対象を限定することは、全くもって筋が通っているのだ。

ジョセフ・ヒース「ナオミ・クラインの気候問題論」(2015年3月6日)

Joseph Heath, “Naomi Klein: This Changes Everything“,  In Due Course, March 6, 2015.

(…前略…)

私のブログの読者であれば知っているかもしれないが、アンドリュー・ポッターとの共著『反逆の神話』を出版して以来の10年以上にわたって、私はナオミ・クラインに対して実に一方的な議論を行ってきた(ただし、『反逆の神話』ではクラインを批判するのに5ページかそこらしか割いていない。その批判は、『ブランドなんか、いらない』への”返答”であると多くの人から思われた)。クラインが書くような本をカナダの他の人々が書いてしまうことを阻止しようとするために、人生のうちのかなりの年数を費やしてしまったことは自分でも認めざるをえない。クラインの新刊『すべてを変える物語』がベストセラーになっているという事実は、結果として、私の人生の中でも重要なプロジェクトの一つが失敗してしまったということを本質的に表しているだろう。このため、『すべてを変える物語』を分析するうえで私情を挟まないようにするのは私にとってはかなり難しいことになる。

また、この10年で何か発見したことがあるとすれば、それはナオミ・クラインを批判することはJ・K・ローリングを批判するのと同じようなことであるという事実だ。たとえあなたが正かったとしても、あなたが言うことは何一つ世界の軌道を変えない。 …すべての物事は、あなたが存在していなかったり何も書かなかったりした場合とまったく同じように展開し続けるのだ。

では、本筋を見失わないために焦点をきわめて狭く定めて、『すべてを変える物語』で提起された問題のなかでも中心的な主張に密接に関連した一つの問題だけを取り上げることにしたい。残念なことに、『すべてを変える物語』の主張を正確に見極めることは、本の副題(「資本主義 vs 気候問題」)が示唆しているほど簡単にはいかない。彼女が以前から用いているレトリックと同じように、この副題は、資本主義的な経済システムを維持しつつ気候変動の問題を解決する方法は存在しないとクラインは論じるつもりであるかのように思わせる。つまり、ジョエル・コヴェルが2007年の著書『エコ社会主義とは何か(自然の敵:資本主義の終焉か、世界の終焉か?)』で行ったのと同じような主張をクラインも行おうとしているのだとこの副題は思わせるのだ。しかしながら、実際にはクラインはそれを主張していない。彼女は市場を撤廃したいと思っていないし、利益追求的な企業を撤廃したいとすら思っていないのだ(本の中のある箇所では、彼女は「無炭素経済においても利益を挙げられる余地は充分に存在している」[252]と言い切っている)。

さらに、クラインが「資本主義 vs 気候問題」の争いを描写する時、彼女は「気候問題」に対して厳密に「資本主義」を対立させることを決してしない。クラインはこんなことを言う:「今こそ、この現状を引っ繰り返すべき時である。それは可能なのか?全くもって可能だ。だが、規制の無い資本主義の根本的な論理に対して挑戦せずにそれを行うことは可能なのか?その場合には全く望みは無い」[24]。あるいは、「束縛の無い資本主義に対抗するための最も強力な議論を、気候科学は彼らにもたらしたこと」[157]を理解していない「大半の左派やリベラル」を彼女は批判する。しかし、言うまでもなく、「規制の無い資本主義」や「束縛の無い資本主義」や「自由市場原理主義」は、資本主義そのものと同一ではない。そして、市場に対する何らかの規制を実施しなくても気候変動の問題を解決することはできる、と考えている左派やリベラルや環境主義者を見つけ出すのは相当難しいだろう。残念なことに、気候危機を解決するためには市場に対する制限が求められるという実に明白で議論の余地がない主張と気候を救うためには資本主義の撤廃が求められるという全くもって明白でなくかなりの議論を呼ぶであろう主張との混同が、『すべてを変える物語』全編を通じて莫大な数で存在しているのだ。

では、クラインは何を論じているのか?彼女はどのような肯定的な主張を行っているかは見極めるのが難しい一方で、クラインは一つの否定的な主張を明確に行っている。標準的な方策は資本主義システムの枠内で気候問題を解決しようとするがそれは機能しないのであり、そのため、問題を解決するためには私たちの経済的組織のパターンの根本的な構造変革を熟考しなければならない、と彼女は論じているのだ。したがって、気候変動は「社会主義者の陰謀」だと主張したり左派に対する「宇宙からの贈り物」だと主張する極右の方が主流派の左派よりも気候問題に関して正しい理解を抱いているのだ[43]、とクラインは繰り返し論じる。…なので、以下で私が行う議論では、資本主義を超えた次の世界はどのようなものになるであろうかということについてのクラインの見積りには焦点を当てずに、なぜ彼女は資本主義経済の枠内で気候危機を解決しようとする標準的な方策を否定するのか、ということについて焦点を当てることにする。特に、クラインはなぜ炭素価格付けを否定するのか、ということを取り上げよう(彼女が炭素価格付けを否定したことは、一部の人々に不愉快な驚きを与えたものだ)。

比較的狭い範囲に議論の焦点を当てるということもあり、『すべてを変える物語』の中でも最も議論の的となる箇所である第一部について主に論じることにしよう(第二部以降には、この本は基本的には気候変動版『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』になってしまう。つまり、『すべてを変える物語』の後半250ページかそこらの内の大半はレポタージュであり、彼女は世界を飛び回って、近年に抵抗運動が行われた場所を訪れて、抗議運動家たちの英雄性や警察の横暴や企業の不誠実さを読者に報告する。この種の文章はクラインが最も得意とするものであるし、彼女が本の後半部分で示していることの大半は、議論の的にもならなければ大した驚きもないことである。経営者のリーチャド・ブランソンは信用に値しない人物であり、遺伝子工学は危険であり、農家の人々は自分たちの土地の下をパイプラインが通ることを好まない、などなどのことを読者は知らされる。後半部分の文章には議論は大して含まれていないし、その大半は、価値のある目標に向けて行動するように人々を奮い立たせたり既に行動を開始している人をさらに励ますという目的のために書かれているように思える)。

後半に比べて議論の的となる第一部について論じるうえで、『すべてを変える物語』が参入しているのは既に多くの人々が議論を行っている分野である、ということは記しておくべきだろう。『すべてを変える物語』は、本質的には政策に関する議論への貢献を行おうとしているのであり、広い意味では科学的事実を所与の前提として扱い、「私たちは何をするべきであるか?」という問題に対して答えを出そうとしている本なのだ。気候変動の問題は20年以上にわたって論じれられてきたので、この分野の議論は既に成熟している。主張し得る主要な立場はすべて主張されてきたし、全ての立場の人々は相手側の立場の人々が行う議論についてもかなり精通している。つまり、環境主義者たちの間の”主流派”な見解は既に登場しているのであり、仮にその見解は気候政策に関する合意を反映していないとしても、少なくとも多数派の意見は反映されているのだ。この見解は、炭素価格付けの適切なシステムが必要である、と主張している。そして、これこそがクラインの否定する見解であるのだ(実際、彼女は本の中の様々な箇所でこの主流派の見解を積極的に貶している。たとえば、「最小限の炭素税を求めて闘うことは、たとえば最低限所得保証を求めるための同盟を結成することなどに比べて、ずっと少ない成果しかもたらさないだろう」[461])。

主流派の環境主義的見解に挑戦する議論は『すべてを変える物語』以前にも行われてきた。たとえば、以前には標準的な見解では炭素税はCO2排出1トン当たり30ドル前後であるべきだとされていた。(英国のブレア政権に委嘱された)気候変動の経済学に関するスターン報告がやがて発表されたが、その報告は炭素税は1トン当たり30ドル前後ではなく300ドルに近付けるべきだと論じていた。そして、スターン報告は明らかに多くの人々の注目を集めた。従来の見解を支持していた人は、「何が違うんだ?スターンの議論の基となっている事実は他の全ての議論の基となっている事実と同じはずなのに、どのようにして彼はここまで過激に異なる結論に辿り着いたんだ?」という疑問に集中しながら700ページもの報告書に目を通した。スターンが主流派の見解とこれ程までに異なる結論に辿り着いたからには、彼の分析には他の人々の分析とは異なる何かが含まれているはずだった…予測のシステムが異なるか、経済成長のモデルが異なるか、また別の何かがことなるのか。やがて、核心的な違いがあることが明らかになった。スターンは、現在のコストと将来のコストとの間にバランスを付ける(将来のコストを割り引く)という標準的なアプローチを拒否していたのだった。このことが、標準的な見解とスターンの見解との違いを説明するものだった。結果として、問題に対する正しいアプローチとは何であるかということについてのとても生産的な議論をスターン報告はもたらしたのであった。

さて、私には『すべてを変える物語』にも同様のアプローチがされるべきであるように思える。大半の人々は現状を見て「炭素価格付けが必要だ」と言う。クラインは現状を見て「すべてを変えることが必要だ」と言う(または「資本主義を劇的に再構築する必要がある」とかそんなことを言う)。では、クラインはどのようにしてその結論に辿り着いたのか?彼女が物事について分析する方法と他の人々が分析する方法との間のどんな違いが、これ程までに異なる政策方針を説明することができるのだろうか?

告白すれば、当初は「どうせクラインの議論には違いなんて存在しないだろう」という疑いを私は抱いていた。単に、クラインはかつてラリー・サマーズが「現在はこれまで以上に…」主義と呼んだケースの中でも強烈なものに捉われているだけだと思っていたのだ。

「現在はこれまで以上に…」主義は以下のようにはたらく:

1・あなたには、どんな時にでもどんな状況であっても支持するお気に入りの一連の政策が存在している。減税、規制撤廃、石油をどんどん掘る、などなど。

2・あなたは、解決される必要のある何らかの問題を発見する(経済停滞など)。

3・あなたは「現在はこれまで以上に私のお気に入りの政策が実行される必要がある」と言う。

クラインが主張していることのいくつかは、「現在はこれまで以上に…」主義の印象を強くさせる。気候変動の問題についてこれまでよりも真剣に捉えて深くその問題について考え始めるようになってからも、そのことは彼女の意見に何も変化を起こさなかった、ということはクライン自身が認めている。むしろ、気候変動の問題はそれ以前から彼女が常に抱いていた信念をさらに強くさせたのであった[7]。「私は気候変動の問題についてより深く関わることへと邁進していった。その理由の一部は、気候変動の問題に関わることは私が常々信じてきた種類の社会正義や経済正義を刺激付けることになるという可能性を発見したからだ」[59]。本の中で彼女が主張している物事はそれ以前から彼女が主張し続けていた物事と全く同じであるという主張は、『すべてを変える物語』の陰謀論的な特徴を表してもいるだろう。

さて、これは物事を考える方法として望ましいものではないということは明らかであるし、彼女の主張の全ては確証バイアスを巨大に延長したものに過ぎないのではないかという疑いも生じる(私自身が辿ってきた経験はクラインのそれとはかなり異なるものだ。たとえば、費用対効果分析に基づいて政策を決定することについて、私はかなり辛辣に批判していた。しかし、気候変動の問題について真剣に考えることは、自分の主張を和らげてやがては渋々ながらも費用対効果分析を擁護することへと私を導いた要素のうちの一つだ。私の意見の詳細はこちら)。ともかく、『すべてを変える物語』は知的なインテリアや政治的ご都合主義ではないということにしておいて、この本の中で書かれていることについて見てみよう。具体的な変革ということについては、自分が望んでいることはGDPに占める公的支出の割合が拡大すること[92]、または彼女が言うところの「ケア的な経済が発展して、ケア的でない経済が縮小すること」[93]であると、クラインははっきり書いている。具体的には以下の通りだ。

 

低炭素な選択を行うことを誰にとっても簡単で手軽なものとする包括的な政策とプログラムが必要とされるだろう…。それは、安価な公共交通手段やクリーンな路面電車に誰もがアクセスできるようにすることを意味する。また、手頃な価格でありエネルギー効率が高い住宅が線路沿いに建てられることや、人口密度の高い生活に適するように計画された都市や、自転車で通っている人たちが仕事に行くたびに生命の危険を冒さなくても済むようにするための自転車専用車線や、無計画な農業の拡大を防いでローカルで低エネルギーな農業を推奨するための土地マネジメントや、交通ルートに沿っており歩行者フレンドリーでもあるエリアに学校や医療といった必要不可欠なサービスを集める都市デザインや、自分たちが電気を無駄にすることについて自身で責任を負うことを製造業者たちに要請するプログラムや、そして既存の状態に含まれている余剰や老朽化などを劇的に削減することなどを意味するのだ。[91]

 

要するに、クラインはカナダがもっとオランダのようになることを望んでいるのだ。それは構わないが、しかしオランダはかなり資本主義的な経済の国であるし、GDPにおいて政府支出が占める割合もカナダに比べて5%ほどしか高くない。では、なぜオランダの都市環境や交通システムはこれ程までにカナダと違っているのだろうか?その理由の大部分は、オランダでは燃料とエネルギーの値段が高いことにある(ガソリンと電気の両方の値段が、カナダのそれの約二倍であるのだ)。ガソンリの値段が高いことは人々が車を運転することを抑制させて、交通機関や自転車専用車線や歩行者フレンドリーなエリアへの需要を生み出したのだ。同じように、電気料金の値段の高さは電気効率が良い住宅への需要を作り出した。エネルギーの価格こそが、現在のオランダで主流となっている都市計画を生み出したのだ(あなたは都市環境について好き勝手に"計画"することはできるが、あなたが建ててている人口密度の高い住宅地に住みたいと思う人々が実際にいない限りは、その住宅地は空き家のままだ。そのような住宅地がオランダ人たちにとって魅力的に思えるのは、他の選択肢が魅力的でないからである。その理由の大部分はコストに由来している)。

経済を通じて価格が人々の行動に与える影響をふまえれば、価格をコントロールすることは政府が実施できる中でも最も強力な政策手段であることは明白だ。したがって、クラインがお気に入りリストに挙げているような環境を実現するためには、政府は化石燃料の消費によって発生する炭素の外部性に対してキャップ・アンド・トレード制度か炭素税かによって価格を付け始めるべきである、という結論が自然に導かれるはずだろう。しかし、それはクラインが支持している手段ではない。驚く程に強力なこの政治手段に我々が手を付けないことを彼女は望んでいるのであり、その代わりに、トップダウンな計画とコントロールだけによって目標を達成しようと試みることをクラインは望んでいるのだ(テクノロジーに任せることなど)。政府は価格を調整することではなく「計画と禁止」を行うことに力を入れるべきだ、と彼女は考えているのである。

クラインが辿り着いた立場は私からするとかなり奇妙なものであるように思えるし、率直に言えばあまりよく考えられていないものであるように思える。たとえば、天然ガスはそれ以上に炭素集約型の化石燃料から離れるための「架け橋」として機能するかもしれないという発想に含まれる問題の一つは、天然ガスは比較的安価であるために、それは石油や石炭だけでなく太陽光や風力などの再生可能エネルギーまで締め出してしまうことである…と彼女は論じている[128-129]。そして、このような事態が発生することを防ぐための複雑な規制構造計画を彼女は描いてみせる[129]。だが、言うまでもなく、天然ガスが化石燃料と再生可能エネルギーの両方を追いやってしまうのは炭素に対する価格付けが不在であるからだ。大規模な炭素税が実施されることは、石炭と石油のコストを劇的に増加させる一方で再生可能エネルギーの相対的なコストを低減させる。天然ガスは化石燃料と再生可能エネルギーとの間のどこかに収まるだろうし、再生可能エネルギーを締め出すこともない。エネルギーの価格の安さはそのエネルギーのクリーンさを反映することになるからだ。つまり、クラインが(少なくとも言外に)描いている世界とは、現在と同じように石油製品や石炭由来の電気が異常に安いままであるが、それらを使用することは禁止されているか規制によって厳密にコントロールされているという世界である。ここで生じる最大の疑問は「なぜだ?」という単縦なものだ。「そんなに非合理的なことを実行するための理由がまさか存在するというのだろうか?」。

考えられる説明の一つは、クラインは経済的インセンティブが持つ力を信じていないということであり、炭素の価格に対して人々は適切な反応をしないだろうと彼女が考えているということである。(実に奇妙なことだが、このような議論が真剣に主張されたのを私が聞いたことのある唯一の機会は、カナダのエネルギー企業であるサンコー・エナジーの代表者からこの議論を聞かされた時だ。炭素税の問題とはそれが機能しないことであり、「ガスの値段が上がったからといって、人々は車を運転する量を変えやしない」と彼は私に言ったのだ。もしそれが真実であれば資本主義そのものが機能していないだろう、と私は彼に伝えた。私はそれを彼の主張に対する反証として示したのだが、しかし、資本主義は機能していないはずだというのはまさにクラインの意見の特徴であるので、このことも彼女にとっては大した反証にならないのだろう)。

クラインの主張に対するこの解釈は、炭素税は『すべてを変える物語』全体を通じて二度しか言及されておらず、どちらの場合にも炭素税は化石燃料の消費を抑制させる手段ではなく国の歳入を発生させるメカニズムとして書かれている(114,400)という事実によって補強されている。このことは、税がもたらすであろうインセンティブ効果をクラインが軽視しているという可能性を示唆する(「パイプラインに対する一度きりの投資」とは違って炭素税は歳入を毎年上げ続けるだろう[400]と彼女が論じているのを見ると、疑惑はさらに深まる。炭素税のポイントは炭素の消費を抑制させることにあるのだから、歳入は上がるのではなくむしろ急激に下がり続けることが予測されるのであり、彼女はかなり妙なことを主張しているのだ)。また、クラインは「控えめな炭素価格付け」(87)や「穏やかな」経済的インセンティブの非効率性に関する軽蔑を様々に示しているが、そこでは彼女は炭素税はきわめて低い税率に設定されるであろうと(なんの証拠も示さずに)決めかかっている。だが、スターン報告が示したように、政策についての近年の議論には大規模な炭素税の実施を主張している数多くのとても真剣な人たちが参加しているのだ。クラインが主張しているような大規模な変革を実施できる程の権力と権限を持っている政府であれば炭素税も好きなように設定できるはずであるのだから、大規模な炭素税を実施することは政治的に不可能であると主張することも彼女には許されていない。

オンタリオ州が再生可能エネルギーへの投資を促進するために固定価格買取制度を実施したこと…一般的にはこの制度はかなり問題含みの制度であると認識されているのだが…についてはクラインは肯定的な言及を何度か行っているが、ブリティッシュ・コロンビア州の非常に成功した炭素税については彼女は一言も言及していないという事実は、クラインの主張に含まれる謎を解きほぐす。ブリティッシュ・コロンビア州のサンシャイン・コーストにある彼女のカントリーハウスの近くで行われる鮭の母川回帰については数ページかけて描写しているというのに、当の州が気候変動に対峙するために最も重要な政策のイニシアチブを握っていることについて、クラインは何も書いていない。…カナダが全国レベルで実行すべき計画のテンプレートとして多くの支持を集めていることが明らかな政策について触れていないのは、かなり異常なことであるだろう。

炭素税についてと比べれば、炭素取り引きについてはクラインにも言いたいことが多少はあるようだ。とはいえ、欧州の排出量取引制度に対する標準的な批判を彼女も繰り返しているだけなのだが。この制度に対してクラインが行っている批判で「エコノミスト」誌に載っていないものはない。充分に構築されていない取引制度は二酸化炭素削減を実現できずに失敗してしまう、ということには誰もが同意している。実際、欧州の排出量取引制度が失敗したことは、キャップ・アンド・トレード制度よりも炭素税を支持する人がこれ程までに多くなったことの主な理由のうちの一つであるのだ。いずれにせよ、彼女は排出量取引制度についても充分に論じていないので、このトピックについてクラインがどんな考えを抱いているのかということを読者が確認することは不可能である。しかしながら、驚くべきことに、二酸化硫黄を削減するためにアメリカにて実施されたキャップ・アンド・トレード制度について本の後半で論じる際には、このアプローチは「機能した」[208]と彼女ははっきり認めているのだ。だが、そのことは即座に疑問を生じさせる。キャップ・アンド・トレード制度が二酸化硫黄に対しては機能したのなら、同じ制度が二酸化炭素に対しても機能するはずではないだろうか?

ということで、私たちは根本的な謎に立ち戻らされ続けることになる。適切にデザインされて適切に実施される炭素価格付けシステムの一体何が問題だというのか?

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり[462-463]、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」[225]。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。そして、完全に禁止することが可能であるものがある一方で(たとえば、石炭採鉱を禁止することは想像しやすいだろう)、そうではないものも数多く存在するのだ。コンクリートは世界における二酸化炭素排出の5%に責任があるから(コンクリートが硬化する際に起こる化学反応の副産物として二酸化炭素が発生するのだ)、このことについて検討してみよう。コンクリートを禁止したいと思っている人がいないことは明らかだ。…クラインですらコンクリートを禁止したいとは思っていないはずだ。何故なら、彼女は「ストローベール建築(訳注:わら俵などを用いた建築)」について情熱的に語っているのであり、そして一般的なストローベール建築には積み重ねた俵をセメントで固める工程が含まれているからだ。しかし泥はコンクリートと違って大気への外部性を生じさせないのだから、コンクリートの価格を上げて新しく建てるストローベール建築の住宅の壁にセメントを使うか泥を中心とした素材を使うかで迷っている人が後者を選択するように促すことこそが、私たちが行わなければならないことなのである。

別の言葉で言えば、温室効果ガスの排出に対して私たちが行うべきなのはそれを禁止することではなく、排出を抑制させること、それも強く抑制させることである。したがって、温室効果ガスに価格を付けたり既に付けられている価格を更に上げることこそが適切な政策であるのだ。このことは、こうやってわざわざ書くのが恥ずかしいくらいに基本的なことである。しかし、クラインはこんな基本的なことも理解していないと想定することが、私が彼女の主張を最終的に理解することのできる唯一の方法なのだ(汚染はどのような時に"禁止"されるべきでありどのような時に"価格付け"されるべきであるか、という問題について真剣に興味を抱いている読者たちには、ジョン・ブレイスウェイトの記事 “The Limits of Economism in Controlling Harmful Corporate Conduct” を読むことをお勧めする。私の授業でこの問題についてのディスカッションを行う時にいつも学生たちに宿題として読ませる記事でもある)。

さて、この記事もちょっと長くなり過ぎた(しかし、『すべてを変える物語』はとても分厚い本なのだ!)。まとめとして2点だけ書いておこう。

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。

第二に、そして最後に、『すべてを変える物語』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『すべてを変える物語』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 

訳注:『すべてを変える物語』の原題は This Changes Everything: Capitalism vs. The Climate。この本はまだ邦訳されていないが、本の内容に基づいたドキュメンタリーは日本語字幕付きで公開されている。このドキュメンタリーの邦題に従い、今回の翻訳記事内でも著作の邦題を『すべてを変える物語』にした。

ジョナサン・ハイト「学界における視点の多様性を向上させるために:2017年の展望と目標」(2017年1月3日)

・Jonathan Haidt, “Heterodox Academy: Our Plans for 2017“, January 3, 2017.

 

ヘテロドックス・アカデミー(Heterodox Academy、以後文中ではHxAと表記)の目標は「学界における視点の多様性を向上させること」だ。視点の多様性…特に政治的見解の多様性…は1990年代以降減少し続けているということ、そして視点の多様性を向上させることは大学における研究と教育の質を向上させる可能性が高いということを、我々は繰り返し指摘してきた

2015年9月にHxAを立ち上げてからの十六ヶ月間、HxAは前述の目標を追求することに非常に成功してきた。最初には25人だったメンバーも今日では363人となり、下の表に示されているように、メンバーたちの政治的見解は様々に分布している。HxAは学界のなかでも最も政治的に多様な団体であり、伝統的に学問的な生活の特徴とされてきた幅広い研究と市民的な意見の不一致のある種のモデルをメンバーたちは示しているのだ。

 

ハイト構成員2

 

 

2016年には我々は117のブログ記事を発表し、およそ25万人の読者がHxAのサイトを訪問した。有名なメディアもHxAを好意的に取り上げた。我々は、政策の情報源になるような、新しくて必要性の高いデータを収集した。そして、政治的な分裂と緊張が増していった2016年において、我々は視点の多様性が持つ価値を訴えてきた。

(…中略…)

しかし、2016年11月8日、政治的な激震がアメリカで起こった。大学に職を得ている我々の大半はヒラリー・クリントンが大統領選で勝利すると予測していたし、我々の多くは民主党が上院多数派を取り戻すだろうとも思っていた。ドナルド・トランプの意外な勝利と、連邦政府と多くの州政府における三権分立が全て共和党によってコントロールされることになるという事態は、アメリカの大学の状態をこれまでとは非常に違ったものにする。大学における生活に影響を与えようと試みている全ての団体は、この変化について熟慮して注意を払うべきだ。

大統領選の結果はHxAの目標に特に関係のある三つの変化をもたらした、と私は考える。

1.視点の多様性が持つ価値を以前よりも多くの人々が認識するようになった。それも、ソーシャルメディアやソーシャルネットワークによって作り出された党派的な「幻想」の解毒剤としての価値だ。多くの社会科学者やジャーナリストや世論調査員が、今回の選挙に働いていた力学を計算し損なった。分裂した時代において真実を追求することにコミットメントすることは、全ての立場の人々に対して、自分たちとは異なる意見を持っている人々を探し出して彼らの意見を聞くという行為に肯定的に踏み出すことを要求する。オバマ大統領を含む、左派の組織や著述家たちの多くが、視点の多様性をより高める必要があると訴えた。HxAは、「視点の多様性」という単語を普及させたことについての実績を誇ることができる。

2.連邦政府から大学にもたらされる圧力の質が変化する。2011年には、オバマ政権下の教育省は教育関係者宛の書簡を発表し、ハラスメントという概念を拡大して以前よりもずっと広範な言語行為までをもハラスメントに含まれると見なすように、大学へ圧力をかけた。このハラスメントに関する新しいルールを遵守しない場合、大学は連邦政府からの援助金を失うリスクに晒された。この新しい政策は、学生と教員たちの言論や社会的活動をこれまでよりもずっと徹底して監視することを大学に奨励して、様々な問題をキャンパスに引き起こした。トランプ政権下の教育省がこのルールを撤廃することを私たちは期待できるし、それはキャンパスで起こっている問題について各大学それぞれが最善だと考える方法で対処するための裁量権を大学に与えることになるだろう。

しかし、共和党の候補者の一人が大統領選で示唆したように、これまでとは異なる政治的目標のために、新たな教育省と司法省がこれまでとは異なる圧力を大学に与えるという可能性は極めて高い。一般的な原則として、大学が政治的な争いの舞台になって左右のどちらでも権力を持った側に好きにされてしまうことを、私は憂慮している。HxAのメンバーたちの大半も学問的な生活の政治化を減らしたいと望んでいるだろうと私は考えるし、私たちはそれを大学の内側から試みている。HxAは、左右どちらの側から来るものであるかに関わらず、学問の自由を脅かすものに反対するであろう。

3.政治的な分裂と政治的な情熱は今後長らくに渡って激化し続けるであろう。1990年代以降、アメリカでは政治的な分裂と党派間の敵対感情の程度が増し続けている

さらに、その敵対感情は2016年に飛躍的に増したようだ。現在のように強力で無理もない情熱の時代には、どんな立場にも叡智が存在しているということや意見の争いからも叡智は発見できるということを論証し続けるのは、HxAにとっても困難になるであろう。私たちが怒ってしまって潜在的な支持者を失ってしまうという事態が起きる可能性は高くなるだろう。

これらの三つの変化を合わせて考えると、舞台は変わったのでありこれからも予期せぬ形で変わり続けるだろうと私は思う。HxAは慎重に目標を実行しなければならない。しかし、激化する分裂と急激な変化の時代において大学が答えを見つけることを助けるユニークなポジションにHxAがいることをふまえると、いま学界にいる全ての人々が直面している不確実性は多くの可能性をもたらしてもくれるのだ。我々の政治的多様性は利点である…画期的な解決策を発見して、全ての立場から信頼を得る可能性がHxAには含まれているのだ。結局のところ、HxAに参加した大学教授である我々は、学界を愛しているのであり学界が栄えるのを目の当たりにしたいと思っているのである。

したがって、2017年にはHxAは特に二つの優先事項に集中して尽力するべきである、と私は提案する。

1.データ収集と実証的研究。

視点の多様性と自由な探求に関する、全てのデータや新しい研究に基づくレポートを我々は収集し続けるだろう(ラングバートらによる、HxAの最近のサマリーを参照せよ)。これまでは我々は非左派的な視点に対する抑圧について集中して研究していたが、これからはそれに加えて左翼的または進歩的な視点や学問を抑圧する効果をもたらす傾向や実践についての情報も我々は活発に追い求めるだろう。全ての立場からの検閲行為や脅迫に対して我々は反対する。

また、組織外の人々による研究を促進するためのツールもHxAは作り出している。HxAによる「恐れなき言論のインデックス」は、どのような学生がどのようなトピックについて語るときにどのような結果を恐れているか、ということを発見するためのオンライン調査であり、全ての教授や管理的立場の人が使用することができる。これは議論の質を向上させたいと心から望んでいる人々を助けることを意図したツールであり、学生の恐怖を減少させて議論の質や包括性を向上させるための介入手段についての実証研究を行うことを容易にするものだ。

2.大学が視点の多様性を向上させて大胆だが市民的な言論を促進することを援助するリソース。

ソーシャルメディアは、”相手の側”が言ったり行ったりした最悪なことを毎日のように我々に突きつけてくる。しかし、全ての立場からの最善の考えについて読みたいと望んだなら、どうするべきだろうか?我々は視点の多様性リーディングリストを作成中であり、これは学生たちが自分の考えを拡げることを手助けするものである。また、多様性についての一年生向けセミナーを含む様々な授業に自由な長さで挿入することのできる教育用モジュールを作ることについて教授たちを手助けもする。2016年の選挙をふまえると、このリソースは非常に必要とされているものであり、大学に限らず高校やその他の政治的多様性に欠けているか党派的な紛争に苛まれている全ての組織に必要とされるものである、と我々は考える。党派的な情熱をまず落ち着かせることができれば、他の種類の多様性についての議論もより生産的なものとなるかもしれない。視点の多様性についての理解を高めることは、他の種類の多様性との並立する選択肢なのではなく、全ての人々が仲間に含まれていると感じられて、意見を共有して、建築的で市民的な意見の不一致から恵みを授かることを可能にするような開放的で信頼のある環境を成立させるために不可欠な前提条件なのであると我々は考えている。

リーディングリストの作成に加えて、我々はお勧め大学ガイドも発展させ続ける。アメリカのトップクラスの大学それぞれについて、その大学には意見の多様性はどれだけ見受けられるかということに関する全ての発見可能な情報を我々は収集し続けるだろう。これは他の組織が行っていない種類のデータ収集であり、多くの高校生はこの情報について知りたいと望んでいるであろうと我々は考える。しかし、やがては我々は意見の多様性の確保に成功している大学について重点を置き、最良の実践について特に取り上げるであろう。

結論を言うと、アメリカは数多くの亀裂によってひどく分断されているのであり、我々の党派的な分断はより幅広くより敵対的なものへと成長し続けている。アメリカで起こっている政治的な傾向の一部は他の多くの国々でも起こっており、民主主義・グローバリーゼーショーン・新しいテクノロジーとの間の相互作用に関する、現時点ではまだ十分に理解されていないようなシステム的な問題が存在するかもしれないということを示唆している。これらの問題を研究し、開放的で、偏向しておらず党派的でない方法でこれらの問題に対して挑戦することについて、大学は最も優れた機関であるべきだ。

さらに、理想的には、大学は相互の理解や党派を超えた尊敬を培うことに適した場所である。多様な民主主義社会における有能な市民となったり、価値観や理念についての不一致が常に存在し続ける場所である職場における有能な従業員となるように学生たちを教育することが教授たちには可能であるし、またそのように教育しなければならないのだ。我々は彼らの政治に関わらず全ての学生を教育しなければならないのであり、自分たちの間で生きていけて、議論して、協力して、政治に関わらず市民的に意見を不一致させることができるようになるように彼らを教育しなければならない。

これらやその他の理由のために、大学の健康と活力を向上させることは国家的な優先順位が差し迫っている事項である。HxAにおいて、我々はこの目標にとって建設的なパートナーとなるだろう。

 

 

 

ピーター・シンガー「オペラの素晴らしさか、生命を救うことか?選択するのは貴方だ」(2015年9月8日)

・Peter Singer, “Excellence in opera or saving a life? Your choice.“, Washington Post, September 8, 2015.

 

慈善団体に寄付をするアメリカ人は多いが、寄付をしようと思っているチャリティ団体について少しでも調査を行う人は少ない。寄付の大半は心理学者が「温情的寄付”warm glow” giving」と呼ぶものだ。…ある人が10ドルだか20ドルだかを慈善団体に快く寄付するとき、その理由は、慈善団体の目的を助けたいと真剣に思っているからというよりも寄付が自分の気持ちをよくするから、ということである可能性のほうが高い。

社会的な期待に応えるということも、寄付という行為の別の部分の動機となっている。私たちは慈善団体や教会やモスクやシナゴーグが私たちに対して期待していることに応じようとするし、大学の友人から彼女がどれだけ母校に寄付しているかということを伝えれられた時にも反応する。愛する誰かかが乳ガンで亡くなってしまったとすれば、ピンクリボンを買った時に大半の人は熱心に賛成してうなずいてくれる筈だ。乳ガンの研究について既にどれほどの資金が投入されているか、私たちの寄付が与える価値がより高くなるような別の寄付対象があるかどうか、それらを訊ねる人は少ないだろう。

今日では、効果的な利他主義者たちがこれらの難しい問題を訊ねている。私たちが支払う金で最大の善を行うことができる慈善団体に私たちは寄付するべきだ、と彼らは主張する。だが、その考えに尻込みする人もいる。それぞれ異なる目的を持った慈善団体が数多く存在するというのに、最善を行える慈善団体を指定することなんてできるのだろうか?発展途上国で数百万人の子供を病ませて殺しているマラリアなどの病気を予防するという目的と、動物たちの苦痛を減らすという目的と、地域のホームレスを助けるという目的と、新しいオペラハウスを建てるという目的と…慈善団体の目的はこれ程までに多様なのに、違った団体に寄付した時に生じる異なった結果を比較すること自体、本当に可能なのだろうか?

私たちがそれぞれに抱いている根本的な価値観について議論することは不可能である、と多くの人が考えている。今日の言葉で言えば、価値観は “情熱”に依存しているのだ。だが、情熱は導き手としては頼りない。反ワクチン運動家だって、人権団体で働いている人々と同じくらい情熱的であるかもしれないのだ。

しかし、特定の地域や部族的な利益を超えて普遍的な視点を採用するという考えの中には、倫理の合理的な根拠が存在している。ある人の人生には他人のそれに比べて幸福や悲惨を経験する可能性が多く含まれているという証拠が存在しない限りは、私たちは全ての人々が…そして、全ての感覚ある存在が…苦痛を避けられてできるだけ多くの幸福や充足感が得られるように、平等に配慮するべきなのだ。

この基礎的な原則からは、私たちは発展途上国にて極限的貧困の状態にある人たちのために活動する慈善団体へと寄付を集中させるべきだ、ということが導かれる。なぜなら、どんな金額であっても、最も助けを必要としている人々を助けることでより多くの善が行えるからだ。例えば、私たちが救えることのできる発展途上国の乳幼児の生命の数は、アメリカや他の先進国で救えることのできる乳幼児の生命の数よりも多い。安価な金額で予防したり治療したりすることができる病気のためにアメリカの乳幼児が死ぬということは珍しいが、同じ病気で発展途上国の乳幼児たちは未だに死に続けているからだ。

同様に、若年死を防ぐことではなく苦痛を防ぐことを目的にするとしても、アメリカにいるホームレスを助けることは、発展途上国の人々の苦痛を防ぐこと…例えば、米国の基準からすれば非常に安価な手術ができないために産科瘻を患っており、体を清潔にすることが不可能なために出産以後は一生に渡って社会から除け者にされる若い女性の産科瘻を治して彼女を助けること…に比べてコストが高い場合が多い。

動物の苦痛も重要な問題だということについては私たちの大半が同意するが、動物が感じている苦痛と人間が感じている苦痛を比較することはずっと難しい。他の豚たちと一緒に畜産工場の中に押し込まれた豚が感じる苦痛と、予防可能な様々な種類の人間の苦痛とをどうやって比較することができるのだろうか?私には答えがわからないが、しかし、動物の苦痛を減らすことは人間の苦痛を減らすことよりもずっと安価に行えるとすれば、動物の苦痛を減らすことは選択肢として正当なものであるように思え始める。特に、肉の消費量を減らすことは温室効果ガスを減らすことやその他の環境や健康に関するベネフィットももたらすのだから。

しかし、どうして苦痛を減らすことが他の物事…例えば、オペラ作品の素晴らしさ…を上回ると言えるのだ、とあなたは訊ねるかもしれない。

自分の家族の健康が危険に晒されている時にオペラ作品の素晴らしさが自分にとってどれだけ重要であるか、自問自答してみるといい。大して考える必要もないだろう。一部の物事は、より差し迫った必要性が満たされていない限りは優先順位を考慮することもできないようなものなのだ。だが、普遍的な視点からは、私たちにとっての差し迫った必要性が持つ重要度は他の人々にとっての差し迫った必要性が持つ重要度と同じである。自分が愛する人々の健康のためにはオペラによって得られる最高レベルの素晴らしさを犠牲にしてもよいと思っているが、遠く離れた人々の健康のためにはオペラの素晴らしさを犠牲にしないとすれば、私たちは行えるはずの最善を行っていないということになるのだ。

ピーター・シンガー「便利な真実」(”アシュリー治療”についての記事)(2007年1月26日)

・Peter Singer, “A Convenient Truth“, New York Times, January 26, 2007.

 

ある若い女の子の身長と体重を通常以下に抑え続けるためにホルモン治療をして、彼女の子宮や乳房が発達しないようにそれらを切除するということは倫理的であり得るだろうか?この治療はアシュリーという名前でのみ知られる重度の知的障害を持った女の子に対して行われたが、アシュリーの両親や治療を行った医者や治療を承認したシアトル小児病院の倫理委員会に対する批判を招き寄せることになった。

アシュリーは九歳( *記事の発表当時)であるが、彼女の精神年齢は生後3ヶ月のそれを超えたことがない。彼女は歩くこともできず、話すこともできず、おもちゃを掴むこともできなければベッドの中の自分の位置を変えることもできない。アシュリーの両親は、彼女が自分たちのことを認識できているかどうかにも自信がない。アシュリーは通常の寿命を過ごすことができるだろうと予測されているが、彼女の精神的な状態が発達することはないのだ。

アシュリーの両親は、彼女に治療を施したのは自分たちの都合のためではなく彼女の人生の質を上げるためだとブログで説明している。アシュリーが小さく軽いままであれば、両親が彼女を頻繁に動かすことや他の二人の子供と一緒に自分たちが行くところにアシュリーを連れていくことは可能であり続ける。子宮摘出は彼女が月経で生理痛を感じることを免れさせる。(彼女の家系では大きくなる傾向にある)乳房の成長を止めるための手術は、アシュリーがベッドで横になっている時にも胸の周りに紐をかけられて車椅子に結ばれている時にも、彼女をより快適にするのだ。

アシュリー自身の人生を改善することと、アシュリーを扱うことが両親にとって簡単になるようにすることとの境目はほとんど存在しないとしても、前述した両親の主張は妥当である。自分たち家族の生活にアシュリーが加わることを可能にすることを彼女の両親が行うことは、アシュリー自身にとっても利益となるからだ。

アシュリー治療に対する反論は、生命倫理学に携わっている人にとっては見慣れた三つの形をとっている。まず、一部の人はアシュリー治療は「不自然だ」と言う。…これは、大概の場合には「うげっ!」と嫌悪感を示すこと以上の意味を持たない苦情だ。私たちが自然のままでいる場合よりも寿命を延ばしたり健康を良くしたりする他のどんな医療処置も、不自然であると言って否定することは可能である。人類の歴史の大半において、アシュリーのような子供は捨てられてオオカミやジャッカルの犠牲になってきた。重度の障害を持つ赤ん坊にとって捨てられることは「自然」な運命かもしれないが、自然だからといってそれが善いという理由にはならないのだ。

第二に、アシュリー治療を認めることは、両親の都合のために子供に対して医学的な改造を行うことが広範に行われる世界へと続く滑りやすい坂道の一歩目を踏み出してしまうことである、と一部の人々は見なしている。しかし、アシュリー治療を認めた倫理委員会は、その医療処置はアシュリー自身にとっての最善の利益であると確信していたのだ。倫理委員会に示されてきた証拠を見聞していない人が委員会の結論を批判しようとしても、その主張の根拠は弱くなるだろう。

いずれにせよ、「最善の利益」という原則は医療処置の審査基準として正しいものである。その治療が子供たちの利益になるとすれば、アシュリーと同程度に重度の障害を持った子供たちの親たちが同様の治療へのアクセスを持つべきではない理由は存在しない。滑りやすい坂道が存在するとしても、少数の重度な障害を持った子供たちの成長を弱まらせることではなく、それよりもずっと広範に行われている、注意欠陥多動性障害と診断されて「問題がある」とされた子供たちに対する薬物の使用の方が遥かに重大なリスクをもたらしているのだ。

最後に、尊厳を持ってアシュリーを扱う、という論点が存在する。ロサンゼルスタイムス誌によるアシュリー治療の報道は、以下の一文から始まっている。「これはアシュリーの尊厳に関わる問題だ。この事例を調べている人の全てが、少なくともこの一点については同意しているようである」。より健康で発達の状況により適した身体を持っている方が彼女はより多くの尊厳を持つはずだ、とアシュリーの両親はブログに書いているが、批判者たちはアシュリー治療は彼女の尊厳を侵害していると考えている。

しかし、私たちはこの議論の前提を否定するべきである。父であり祖父である身として、三ヶ月の赤ん坊は可愛らしいと私は思う。だが、その赤ん坊に尊厳があるとは思わない。そして、その赤ん坊が大きくなって年を取ったとしても、精神の状態が同じレベルのままであるとすれば、赤ん坊の尊厳には何も変化がもたらされないのだ。

ここから、問題は哲学的に興味深くなる。人間に対しては…その精神年齢が幼児以上になることがない人も含めて…私たちはいつでも尊厳を見つけようとする。しかし、私たちはその尊厳を犬や猫には見つけようとしない。犬や猫は人間の幼児よりも発達した精神レベルを明らかに持っているのにも関わらずだ。犬猫と人間を比較するというだけでも、一部の場所では激怒を引き起こすことになる。 しかし、なぜ、尊厳があるかどうかは常に特定の生物種の一員であるかどうかということにだけ関わらなければならないのであり、個々の存在が持つ特徴には関わるべきではないのだろうか?

アシュリーの人生について重要なことは、彼女が苦しむべきでないということであり、彼女の能力で感じることが可能な楽しい経験は感じることができるようにされるべきであるということだ。また、アシュリーが大切で尊い理由は、彼女がどのような人間であるかということにはあまり関わりがなく、彼女の両親やきょうだいが彼女を愛してケアしていることにある。人間の尊厳についての高尚で高慢な語りは、アシュリーと同様の子供たちが彼らとその両親の両方にとって最大の利益となる治療を受けることを妨げるべきではないのだ。

 

ピーター・シンガー「倫理学と進化:『輪の拡大』出版から30年」(2011年5月18日)

⚫︎ Peter Singer, “Ethics and evolution: The Expanding Circle, thirty years on“, (ABC.net, religion & ethics, May 18, 2011)

 

「社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『輪の拡大』を書かせるきっかけとなった。『輪の拡大』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『輪の拡大』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。哲学者たちの軽蔑の原因は、『輪の拡大』の第三章にて私が「乗っ取り宣言」と名付けた事態にあったかもしれない。…自分たちが主張している科学的な突破口は哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず、哲学者たちの思考の代替物となるものである、と一部の科学者たちは主張していたのだ。

科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『輪の拡大』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『輪の拡大』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から三つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この三つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)自愛の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『輪の拡大』の第三章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『輪の拡大』の第四章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる自愛の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

経済発展と IQ:タイラー・コーエン「『蜂の巣マインド』by ギャレット・ジョーンズ」( 2015年11月4日)/「ギャレット・ジョーンズによる蜂の巣マインドについての解説」(2011年6月24日)

●Tyler Cowen, “*Hive Mind*, by Garett Jones”(Marginal Revolution, November 4, 2015)


 

同僚のギャレット・ジョーンズが来週には『Hive Mind: How Your Nation’s IQ Matters So Much More Than Your Own(蜂の巣マインド:なぜあなたの国全体のIQはあなた自身のIQよりもずっと重要なのか)』をスタンフォード大学出版から出版するということがお伝えできて、私はとてもワクワクしている。この本は今年の社会科学のベスト本の一つとなるだろう。

 

以下は、ギャレットの本の冒頭の文章だ。

 

この本はIQを上げる方法についての本ではない。IQを上げることがもたらす利益について書かれた本である。そして、高いIQは本人が気付いていないかもしれない方法で利益をもたらすのだ。平均的には、標準テストの成績が良い人はより忍耐強く、より協力的であり、そしてより良い記憶力を持っている。これらの関連性は心理学者たちと経済学者たちによる何十もの研究によって証明されてきたが、個々の点を結びつけて、高いIQは国全体にとっては何を意味するのかということを問うた研究者の数は少ない。そして、数学のテストにせよ読解力のテストにせよIQテストにせよ、その平均スコアは国によって違うのだから、テストのスコアが国全体で上がることは、忍耐強く、協力的で、情報に通じた市民たちの数が増えるということを意味している可能性が高い。つまり、国全体のテストのスコアが高くなることは、無視されるには重大すぎるほどの影響をおそらく持っているであろうということを意味しているのだ。そして、教育研究者たちや公衆衛生当局者が国全体のテストのスコアを高くするための確実性の高い方法を発見することができるとすれば、現在では貧困と疫病が蔓延している場所であっても生産性と繁栄が増すことになるのだ。

 

第一章はこちら、ギャレットによる章ごとの要約はこちらこれはギャレットのホームページだ。Twitterでギャレット・ジョーンズの叡智を授かることもできる。

 

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ジョナサン・ハイト「真実と社会正義:なぜ大学はどちらか一つの目標を選択しなければならないか」(2016年10月21日)

Jonathan Haidt, Why Universities Must Choose One Telos: Truth or Social Justice, Heterodox Academy,  Oct 21 2016.

 

しばしば、アリストテレスは物事をその”テロス(telos)”に基づいて判断していた。テロスとは、目的や結末や目標のことを意味している。医者のテロスとは健康または治療である。では、大学のテロスとは何であるのだろうか?

最も明白な答えは”真実”だ…かなり多くの大学が、”真実”という単語を自校のエンブレムに掲げている。しかし、アメリカのトップ大学の多くは社会正義を自分たちの第一のテロスかそれに等しい第二のテロスとして掲げるようになっているし、そのような大学の数は増え続けている。だが、二つのテロスを同時に持つことのできる制度や専門職は存在するのだろうか?もしその二つのテロスが衝突するとすれば、何が起こるのだろうか?

道徳を研究する社会心理学者として私は30年間大学に所属してきたが、その30年間でこの二つのテロスがますます頻繁に衝突するようになっていく様子を目にしてきた。真実と社会正義との衝突は、1990年代にはまだ対処可能なものであったようだ。だが、90年代以降には衝突の激しさが増していった。それは大学の教授たちの政治的多様性が失われていったのと同じ時期であり、また、民主党支持者たちと共和党支持者たちのお互いに対する敵対心が増していったのと同じ時期でもある。2015年の秋に80校の大学で学生たちが抗議運動を行い、より大規模で明白な社会正義へのコミットメントを行うことを自分たちの大学に要求した時に真実と社会正義との間の衝突は頂点に達した、と私は考えている。多くの場合、学生たちの大学に対する要求には、社会正義的な視点や内容の必修授業や研修を行うことが含まれていたのだ。

いまでは多くの大学の学長たちが学生の要求に同意してそれを実施せざるを得なくなっている。真実と社会正義との衝突はもはや対処が不可能なものになるであろう、と私は考えている。大学はどちらか片方のテロスを選択しなければならなくなるだろう。また、これから入学しようと考えている学生や就職しようと思っている教職員が正確な情報に基づいた選択を行えるようにするために、大学は自校が選択したテロスを明白に示さなければならなくなるだろう。真実と社会正義の両方を掲げようとする大学は、二つのテロスの間で増し続ける矛盾と衝突に直面することになる。

 

〔注意:私は、個々の学生たちが真実と社会正義の両方を追求することができない、とは言っていない。以下に掲載した講演の中では、真実を大切にすることこそが社会正義を効果的に促進するための活動を実践する唯一の方法なのだ、と私は学生たちに奨励している。だが、大学のような制度は、不可侵の最高目標を一つしか持つべきでないのだ。また、多くの学生たちが自分たちの人種やジェンダーや性的アイデンティティのために軽蔑や侮辱や体系的な妨害を受けていることも、私は否定していない。彼らが侮辱や妨害を受けているのは事実であるし、何らかの形の基準を設定したり多様性についてのオリエンテーションを新入生たちに受けさせることは、私も支持している。しかし、別の記事で私が論じているように、大半の抗議活動家たちが行っている要求の多くは反動を引き起こす可能性が高いものであり、学生たちが疎外感を抱く経験を減らすのではなくむしろ増やしてしまうものであるのだ。〕

昨年に多くの大学に広まっていった出来事を目にした私は、一体どのような事態が起こっているのかということについて道徳心理学と社会心理学の観点から明らかにする作業を始めていった。(……略……)66分間と長い動画であるが、これでも出来る限り短くした後である。この問題にはあまりにも多くの要素があって、私はそれらの要素を順番に示していく必要があったのだ。

 

講演の内容

 

イントロダクション:

講演は、二つの引用から始まっている。

 

“哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである。” ー カール・マルクス、1845年

 

“自分の側が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい。彼の主張は優れたものかもしれないし、誰も彼の主張に反論できないかもしれない。だが、同じく彼も反対側の主張に反論できないとすれば、反対側の主張がどんなものであるかということを知らないとすれば、どちらの側の主張を支持すべきであるかを判断する根拠を彼は持っていないということになるのだ。…” ー ジョン・スチュアート・ミル、1859年

 

マルクスは、私が”社会正義大学( Social Justice U )”と呼ぶ大学にとっての守護聖人だ。社会正義大学は権力構造や特権を転覆させて世界を変革することを目的としている。社会正義大学にとって、政治的な多様性は行動の障害である。ミルは”真実大学( Truth U )”の守護聖人である。真実大学は、誤りのある個人たちがお互いのバイアスや不完全な推論を指摘して挑戦し合うプロセスに真実を見出している。このプロセスは全ての人を賢くする。そこにいる人々の知的傾向が均一になったり、そこが政治的な正当さを主張する場所になったりした時に、真実大学は亡んでしまう。

 

1.テロス

 

専門職や分野はそれぞれのテロスを持っている。ある分野のメンバーがテロスを達成することを助けるために別の分野のメンバーが自分たちの技術を用いる時には、分野間の建設的な相互作用が発生する。例えば、私が Amazon や Google や Apple を好んでいるのは、私が研究者としてのテロス(真実の発見)を達成することをそれらのビジネスが手伝ってくれるからだ。しかしある分野が自分たちのテロスを別の分野にも差し込んでくる時には、破壊的な相互作用が発生してしまう。例えば、ビジネスのテロスが医療に差し込まれると、医者がビジネスマンになってしまい患者のことを利益を得る機会として見なすようになってしまう。社会正義のテロスは人種の平等を達成することやその他であるが、社会正義はそのテロスを他の専門職に差し込んでくる場合がある、と私は論じている。そして、社会正義のテロスが他の専門職に差し込まれる時、その専門職は自身のテロスを裏切っているのである。

 

2.動機付けられた推論

 

人間が行う推論に関して、一貫した現象が発見されている。…私たちがXを”信じたい”と思う時、私たちは「私はそれを信じることができるか(Can-I-Believe-It?)」と自分自身に尋ねる。だが、私たちがそれを”信じたくない”と思う時には、私たちは「私はそれを信じなければならないか?(Must-I-Believe-It?)と自分自身に尋ねるのだ。この現象は研究者にも当てはまり、そのことは以下の結果を生じさせる。

 

・ある政治的目標を支持するために行われる研究は、その目標を支持することにほとんど常に”成功”する。

・自分にはバイアスがあった、と研究者が認めることは稀である。

・何かに動機付けられた学問は、しばしば、自分たちにとって心地の良い虚偽を伝播してしまう。そして、それが虚偽であると暴露された後にも、その虚偽は取り除かれずに伝播され続ける。

・研究の過程で何らかの間違いがあったとしても、”制度的反証(institutionalized disconfirmation)”が信頼できる場合には、研究に起こるダメージを抑えることができる。…私たちと同じ動機を持っていない他の研究者たちが、私たちの主張に反証しようと試みることで私たちの研究に貢献してくれる、という営みが行われることが確実であるかどうかだ。

しかし、私たちにはもはや制度的反証を信頼することはできなくなっている。人文学と社会科学から保守派とリバタリアンがほとんど消え去っているためだ(経済学は例外であり、3人の左派につき1人の右派という比率に留まっている)。これこそが Heterodox Academy が存在する理由でもある。 Heterodox Academyは、(少なくとも、マルクス的ではなくミル的な意味での)学問の質を最も上げることができる種類の多様性を呼びかけているのだ。

 

3.神聖さ

 

人類は部族間の争いに適応して進化してきた。その進化の過程で、私たちは巧妙な能力を獲得した。神聖化された物体や原則を囲んで集まることでチームを形成する能力である。大学では、伝統的に学者たちは真実を囲んで集まっていた(少なくとも20世紀までは…当時も完璧ではなかったが)。だが、21世紀には、学者たちは少数の被害者集団を囲むようになり続けている。学者たちは被害者たちを守って助けたいと望むし、彼らに対する人々の偏見を払拭したいと思う。学者たちは自身の学問によって世界を変えたいと望む。それは称賛に値する目標であるが、被害者たちに対するこの新しい種類の世俗的な”崇拝”は、多くの大学で”被害者性の文化“をもたらすという社会学的特徴と交差しているのだ

被害者性の文化は、平等主義的で政治的に均一な大学で特に蔓延している。被害者性の文化は、まさにそれが救おうとしている学生たちに”道徳的依存性”を植え付けてしまう…学生たちは、争いが起こった時に自分たち自身で争いに対処する方法を学ぶのではなく、第三者(管理者や行政者)に訴えることで問題を解決することを学んでしまうのだ。

 

4.反脆弱性

 

ニーチェは「私を殺さないものは、私をいっそう強くする」と書いたが、彼は正しかった。ナシーム・タレブの著書 “Antifragile(反脆弱)”はその理由を説明している。。子供は、親やその他の大人の監督下ではない場所で遊ぶことを何千時間も経験する必要があるし、他の子供と争って大人の助けなしに争いを解決することを数千回は行わなければならない。独立して生きていく大人になるためには、それだけの経験が必要なのだ。しかし、アメリカにおける子育てには1980年代から変化が起こっており、特に1990年代からは中産階級や裕福な家庭の親たちがヘリコプターペアレントになってしまったために、子供たちは独立した大人になるための経験ができなくなってしまった。

代わりに、子供たちは「安全性の文化(safety culture)」の網の目に捕らわれてしまった。そして、若い頃からそれに捕らわれていた元子供たちは、大学生になっても安全性の文化をキャンパスに持ち込もうとしている。本や単語や講演者が”危険”であると見なされるようになったし、一種の”暴力”であると言われることすらある。脆弱な若者たちを危険と暴力から守るために、トリガー警告やセーフ・スペースが必要とされるようになったのだ。だが、そのような文化は政治的多様性と両立しない。多くの保守的な考えや保守的な講演者が危険であるとのラベルを貼られて大学やカリキュラムから禁止されてしまったからだ。支配的になっている政治的風潮に疑問を呈する学生は、教室の他の学生たちから敵対的な反応をされて疲弊させられる。これこそが、大学が一つのテロスを選択しなければならない核心的な理由の一つだ。ミルは真実の探求にとって意見の多様性は欠くことのできない本質的な要素であると主張したが、安全性の文化を支持する制度は意見の多様性を持つことができないのである。

 

5.涜神罪

 

真実大学には涜神罪は存在しない。誤った考えは論駁されるのであって、誤った考えに罰が与えられる訳ではないのだ。だが、社会正義大学には涜神罪を規定する法律が存在するかもしれない…研究に用いてはならない考え、理論、事実、そして著者たちが存在するのである。このことは、政治的な誘発性のあるトピックについて良質な社会科学研究を行うことを困難にする。相互に作用する様々な原因の結果として存在する大規模で複雑な問題を扱う学問であるために、ただでさえ社会科学は難しい。そのうえに、社会正義大学では研究を行うのに有効な道具の多くが禁止されてしまっているのだ。

 

6.相関関係

 

相関関係は因果関係を意味しない、ということは全ての社会科学者が知っている。だが、人口統計学上のカテゴリ(人種やジェンダーなど)と現実の世界における結果(テクノロジー企業における被雇用率、理系学部における教職員の割合など)に相関関係がある場合はどうなるだろうか?社会正義大学では、そこに因果関係を推測するように教育される。体系的なレイシズムやセクシズムが原因だと教えられるのだ。この教育が明らかに誤った結論へと人々を導いている具体例を、私は講演の中で示している。対照的に、真実大学では「異なった結果は、異なった扱いを意味しない」と教育する(異なった結果が出たことは、対象となる人々が異なった扱いを受けていないかということを注意深く確かめることを行う誘因ではある。たしかに、異なった扱いが不均衡な結果の原因である場合もあるからだ)。

 

7.正義

 

活動家たちが口にしている正義には、主に二つの種類があるようだ。異なった扱いを発見して撲滅することと(それは常に正しい行為であるし、真実と衝突することもない)、異なった結果を結果を発見して撲滅することである…異なった入力要素や第三の変数などには目もくれず。後者こそが全ての問題を引き起こしているのであり、真実と社会正義との衝突を引き起こしているのだ。結果の不均衡を根絶しようとする試みがいかにして人々に真実と正義の両方を軽んじさせることになるか、私は講演の中で具体例を示している。

 

8.分裂

 

上記1~7で行った議論をふまえれば、どんな大学にも真実と社会正義の二つのテロスを両立させることができないのは明白だ、と私は考えている。全ての大学は、どちらか一つを選択しなければならない。ブラウン大学は社会正義大学のリーダー的な座を占めており、シカゴ大学は真実大学のリーダー的な座を占めている、ということを講演の中で示している(このことは、Heterodox Acacemy のお勧め大学ランキングでも証明されている)。

私は、講演の最後で「自分たちの大学が真実と社会正義のどちらの方に行くことを、自分たちは望んでいるのだろうか?」と自分自身に問いかけることをアメリカの全ての大学の学生たちに勧めている。(……略……)最低でも、大学規模でマルクス対ミルの議論が行われるとすれば、それは建設的な対話となるであろう。

 

【訳者による補足】

・ハイトの講演動画のリンクはこちら

ピーター・シンガー「健康保険はなぜ割り当てられなければならないか」(2009年7月15日)

Peter Singer, “Why We Must Ration Health Care“, New York Ttimes, July 15 2009

 

あなたは進行腎ガンを患っている。おそらく、一年後か二年後にはあなたはそのガンで死んでしまう。スーテントと呼ばれる抗がん剤はガンが転移するのを遅めさせて、おそらくあなたは六ヶ月余分に生きられるだろう。しかし、それには 54000ドルのコストがかかる。数ヶ月死ぬのが先延ばしになることは、それほどの金額に値するのだろうか? もしあなたに支払える余裕があるなら、より長く生きるためにあなたは54000ドルやそれ以上の金額を払うだろう。たとえあなたの人生の質が良いものにならないとしてもだ。だが、ガンを患っているのが自分自身ではなく、自分が支払っている健康保険基金の対象となっている他人であった場合について考えてみよう。もし保険会社がこの男性にスーテントを提供するとすれば…そして、彼と同じ状況にある人全てにも提供するとすれば…あなたの保険料は増加するだろう。これでもまだ、スーテントは割の良い薬であると思えるだろうか?治療には 100万ドルかかる場合のことを考えてみよう。その治療には価値があるか?1000万ドルなら?誰かの生命を六ヶ月引き伸ばす薬に対して保険会社が払う金額には何らかの制限があってほしい、とあなたは思うだろうか?どこかの時点で「駄目だね、六ヶ月余分生きることはそれほどの金額には見合わない」とあなたが言うのであれば、健康保険は割り当て制であるべきだとあなたは考えているのだ。

(……中略……)

自分と百万ドルでセックスしてくれないかと女性に訊ねる男性についてのジョークを覚えているだろうか?彼女は少しの間考えて、OKだと答える。「じゃあ」と彼は言う。「50ドルでも俺とセックスしてくれるかな?」。彼女は憮然として叫んだ。「あなたは私がどんな女だと思っているの?」。彼は答える。「取り引きはもう始まっているじゃないか。ただ値段交渉をしているだけだよ」。男性の返答は、どんな値段であったとしてもある女性が身体を売ったとすれば彼女は娼婦である、という意味を含んでいる。健康保険の割り当てについて私たちが考える方法も、同様の前提に立っているようだ。つまり、生命を救うことに対して金銭的な考慮をすることは非道徳的であるという前提だ…だが、そのような立場を主張し続けることはできるのだろうか?

(……中略……)

ワシントンに暮らすユダヤ教のラビ、ダニエル・ゼメルにワシントンポスト誌のジャーナリストがインタビューしたことがある。アメリカ政府が人命に金銭的価値を付ようとしていることについてどう思うか、とジャーナリストに聞かれたゼメルはユダヤ教の教えを引用して、秤の一方に人命を乗せた時にはもう一方にその人以外の世界中全ての人間を乗せて初めて秤は釣り合う、と言った。まさにこれこそが、健康保険について比較考量することに反対している人たちの考え方である。しかし、私たちは既に人命に金銭的価値を付けているのだ。例えば、もしアメリカ運輸局がゼメルの教えに従ったとすれば、運輸局は交通安全に予算を割きすぎてしまって破産するだろう。幸いなことに、運輸局は一人の人命を救うことに割く予算に上限を設けている。2008年にはその上限は580万ドルだった。他の政府機関も同様のことを行っている2008年、消費者製品安全委員会はマットレスの可燃性を下げさせることを提案した。その新たな基準を実施するには3億4300万ドルのコストがかかるとマットレスを製造している業界は示したが、委員会が計算したところ、新しい基準が実施されれば1年につき270人の人命が助かる筈であった…そして、委員会は一人の人命におよそ500万ドルの価値を付けていたので、マットレスの可燃性に関する新たな基準は割が良いものであったのだ。消費者の安全を守るための基準を少しでも設けるためには、金を払って買う価値のある安全とはどれ程のものであるか、ということについて何らかの考えが必要となる。健康保険に携わる官僚たちと同じく、消費者安全に携わる官僚たちも、一人の人命を救うことは支出に比べると割に合わない、と判断する場合がある。二十年前、米国科学アカデミーの一部局である国家研究会議は全てのスクールバスにシートベルトを導入するという計画について調査した。調査の結果、シートベルト導入の計画が実行されれば平均的には一年あたり一人の人命を4000万ドルのコストで救うことができる、との推計が出た。そして、その調査の結果が出てからはシートベルトの導入計画に対する支持は失われたのである。さて、消費者安全の場合には人命に価値を付けることを認めている人たちが、なぜ健康保険の場合には人命に価値を付けることを否定するのだろうか?

もちろん、一人の人命を救うことに支払う金額に限度を設けることを認めることと、その限度をどこに設定するかということは別の問題だ。官僚たちが人命一般に付ける金銭的価値は、私たちの行動に表れているような社会的価値を反映することが意図されている。それは「自分自身の生命を救うことに、あなたはどれだけの金額を支払う意志がありますか?」という質問への回答であるのだ。…無論、実際に死に直面している人の回答は例外である。死に直面している人は、自分の生命を救うためにはほとんど何でも支払うつもりだろう。なので、その代わりに、自分自身が死ぬリスクを減らすために人々はどれだけ支払うつもりがあるか、ということを経済学者たちが計算する。例えば、車にエアバッグを備えることに人々はどれだけ支払うだろうか?リスクを削減する特定の場合について人々が支払うつもりの金額を明らかにした後は、人々が支払うつもりの金額と削減されたリスクの量とを掛け合わせれば、理論上、人々が自分たちの生命に付けている金額を知ることができるのだ。 例えば、車にエアバッグを付けると10万分の1の確率で私の生命が救われることがあるとして、私は一個のエアバッグに 50ドル支払う気があるがそれ以上の金を出すつもりはない、としよう。その場合、私は自分の生命に50ドル×10万の価値を付けているのであり、つまり500万ドルの価値を付けているのだ。

この理論は上手くできているように思えるかもしれないが、実践するとなると問題が生じる。私たちは非常に小さなリスク群の間の違いを判別することが得意ではないので、100万分の1の確率で死ぬリスクと1000万分の1の確率で死ぬリスクとについて訊ねられたとしても、私たちはそれらのリスクを削減するのに同じ金額を支払うと答えるかもしれない。50万分の1のリスクと1000万分の1のリスクとの間でも同じ金額を答えるかもしれない。人命の推定価値は死のリスクを削減するのに私たちが支払う金額と削減されるリスクの量を掛け合わせることで数学的に精確に算出されるが、その計算結果は質問に対する私たちの直感的な答えに反するものとなるのだ。それにも関わらず、「全ての人命は無限大の価値を持っている」というドラマチックな宣言や「一人の人間の生命の価値と百万人の人間や世界中全ての人間を合わせた生命の価値との間に区別をつけることはできない」という主張に比べれば、少なくとも人命に価値を付けるというこのアプローチの方が私たちが実際に抱いている考え…そして、私たちが抱くべきでもある考え…に近いものである。人命に価値は付けられないという気分の良い主張(feel-good claim)は、特定の状況では象徴的な価値を持つかもしれないが、その主張を真面目に捉えて実践することは…例えば、1人を救うか10億人を救うかという判断を偶然や運まかせにすることは…非常に非倫理的な行為となるであろう。

健康保険プログラムにはどれだけの予算を使い人命を救うことを直接の対象としていない他の公共財にはどれだけの予算を使うか、という計算を政府が行っている時、政府は暗黙のうちに人命に金銭的価値を付けているのだ。健康保険に携わる官僚の職務とは、彼らに分配された予算から得ることが可能な価値を最大限まで引き出すことだ。日常的にも私たちは支出から最大限の価値を得ようとしているが、健康保険プログラムもそれと同様なのだ。場合によっては、判断をすることは比較的簡単である。ある二つの薬品があり、どちらからも同じ効果が見込めて副作用のリスクも同じであるが、片方はもう一方よりもずっと高額であるとすれば、公的な健康保険プログラムでは安い方の薬品だけが提供されるべきである。薬の効果と副作用が同様であるかどうかは科学的な問題であり、専門家が呼ばれて調査が行われて確かめられることである。これが、イギリス国立臨床研究所が行っている基本的な仕事だ。しかし、実際には薬の効果は様々であるため、直接的な比較は困難である。健康保険によって得られる善(goods, 成果)を測るための共通単位が私たちには必要であるのだ。私たちは違った種類の善についても比較を行うことになるため、単位の選択は科学的な問題や経済的な問題であるだけでなく、倫理的な問題でもある。

手始めに、健康保険によって獲得できる善とは救われる人命の数のことである、と言うことができるかもしれない。しかし、それはあまりに大雑把だ。一人のティーンエイジャーの死は一人の85歳の死に比べてより大きな悲劇であるし、そのことは私たちの優先順位にも反映されなければならない。救われた生命だけを数えるだけではなく、救われた生存年数も計算することで、私たちはティーンエイジャーと老人との死の重さの違いを調節することができる。もしそのティーンエイジャーが70年後まで生きると予測されていたとすれば、彼女の生命を救うことは70年分の生存年数の増加として数えられる。一方で、85歳の人はあと5年生きられると予測されていたなら、彼の生命を救うことは5年分の生存年数の増加としてしか数えられないのだ。このことは、1人のティーンエイジャーを救うことは85歳の人を14人救うことに等しいということを意味する。もちろん、ここで論じているのは総体としてのティーンエイジャーや85歳である。「もしそのティーンエイジャーが暴力的な犯罪者で、85歳の人はその年齢でも生産的に働いてるとしたらどうなるんだ?」と言うのは簡単だ。だが、緊急治療室では刑事司法は法廷に任せて加害者も被害者も同等に扱われるべきであるのと同じように、健康保険のリソースの割り当てに関する判断は、個々人の人格の道徳性や社会的価値などからは切り離して行われるべきであるのだ。

健康保険は人命を救うだけではない。健康保険や痛みや苦しみを削減することも行うのである。例えば、一人の生命を救うことと寝たきりの人を回復させて健康な生活を過ごせるようにすることは、どのようにして比較できるだろうか?これについても、人々から価値観を聞き出すことができる。よく行われる方法の一つは、医学的状態を人々に説明して…例えば、四肢が麻痺しているなど…、10年間その状態で生きるか、それよりも少ない年数を健康な状態で生きるかを選択してもらうことである。例えば、大半の人は障害のない人生を4年間生きることよりは四肢が麻痺した状態で10年間生きることを選択するが、障害のない人生を6年間生きられるならそちらを四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも優先して選択するとして、そして障害のない人生を5年間生きることと四肢が麻痺した状態で10年間生きることとの間の選択は困難であるとすれば…事実上、人々は四肢が麻痺した状態で生きることには障害のない状態で生きることの半分の価値があると査定しているのである(ここに書いているのは計算をシンプルにするための仮定的な話であり、実際の調査に基づいている訳ではない)。もしそれが全人口の判断のおおよその平均値を反映しているとすれば、治療しなければ四肢が麻痺したままでいる二人の人を治療して障害がない人生に復帰させることは一人の生命を救うことに等しい(関係者全員の余命が同様であるなら)、と結論付けることができるかもしれない。

これが、質調整生存年(quality-adjusted life-year, or QALY)の根拠だ。QALYとは、様々な形の健康保険におけるそれぞれのベネフィットを比較するために設計された単位である。30年以上前から、健康保険に関する業務を行う経済学者たちは様々な種類の医療処置の対費用効果を比較するためにQALYという単位を用いている。複数の国々では、公金が支払われるべき医療処置を決定するプロセスの一部にもQALYが用いられているのだ。改善されたアメリカの健康保険システムが割り当て制を明白に認めたとすれば…認めるべきだ、と私はここで論じている訳だが…アメリカの健康保険システムでもQALYが同様の役割を担うことができるだろう。

一部の人々は、QALYは障害者に対する差別であると否定する。四肢が麻痺した状態で一年生きることは障害がない状態で一年生きることの半分の価値しかない、という仮定的な判断について話を戻そう。障害を持たない人々の生存年数を伸ばす治療を行うことは、四肢が麻痺した人の生存年数を同じだけの期間伸ばす治療を行うことの2倍の価値がある、ということになる。これは、全ての人の生命は等しい価値を持つという考えとは衝突する。しかしながら、問題は質調整生存年という概念にあるのではなくて、四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも10年より短い年数を障害なしに生きることを優先するという判断に問題が存在しているのだ。そのような判断は障害を持たない人によって行われるのであり、障害を持つ人に対して障害を持たない人々が抱いている無知と偏見が反映されたものに過ぎない、と障害者の権利運動家たちは論じるかもしれない。そして、私たちは四肢が麻痺した人たち自身に四肢が麻痺した状態の人生の価値を訊ねるべきなのだ、と障害者の権利運動家たちは実にもっともな主張をするだろう。実際に四肢が麻痺した人たちに訊ねて、その障害を回復することには四肢が麻痺した状態の人生が一年失われることに見合う程の価値もないと彼らが答えたすれば、障害がない人の生存年数を伸ばす医療処置を四肢が麻痺した状態の人の生存年数を伸ばす医療処置よりも優先することはQALY方式の下では正当化されないことになる。

しかしながら、「全ての人は生きる権利を等しく持っている」という考えを維持するために上述のような方法をとることは、両刃の剣でもある。もしも四肢が麻痺した状態の人生はそうではない人生と比べて等しく良いものであるとすれば、四肢の麻痺を治療することには健康上の効果はない、ということになるのだ。間違いなく、そのような発想は一部の人々から強烈な反対を受けることになるだろう。例えば、事故によって麻痺障害を負った俳優のクリストファー・リーヴは、脊髄損傷を回復する方法を発見するための研究をもっと行うことを要求するキャンペーンを行っていた。自分たちの生存年数を伸ばすことは障害のない人々の生命を伸ばすことと等しく重要であると主張し続けるか、自分たちの障害を治療するための研究に公的な支援を行うことを求めるか、障害者の権利運動家たちは選択しなければならないようだ。

QALYは、そのベネフィットが誰にもたらされるかということに関わらず、最大の健康効果をもたらす物事を私たちに示してくれる。通常の場合、予算には限りがあるということをふまえると、最悪の状況にある人たちを助けることは他の人を助けるよりも大きな効果をもたらす。最悪の状況にある人たちは満たされていないニーズを最大に抱えているからだ。だが、時によっては、治療することが非常に難しい上に非常に高額である状態も存在する。そのような場合、QALYによるアプローチは、前述の人たち程には悪い状況ではなく治療することも前述の人たちに比べれば易しく低額である状態の人たちを優先するという結論を導くかもしれない。多少はマシな状態にある人の利害とその人に比べてずっと悪い状態にある人の利害に同等の重みを置くことは不公平ではない、と私は考える。だが、より悪い状態にある人の方を優先するべきだという社会的コンセンサスがあるとすれば、QALYアプローチを修正することもできる。QALYの基準では他の人に比べて悪い状態にあると判断される人に対して発生するベネフィットに、より多くの重みを付けるようにすればいいのだ。

健康状態そのものの改善の他に健康保険がもたらす様々なベネフィットについては、QALYアプローチはそれらのベネフィットを計測しようと試みることすらしない。感情的には、ジャック・ロッサーが若い子供の父親であるという事実は彼の生命を伸ばすことの重要さに違いを生む、と私たちは感じる((訳注:ジャック・ロッサーは記事の省略部分で紹介された人物))。だが、 抗ガン剤がジャックにもたらす健康効果のQALY査定は、ジャックが親であるかないかということとは無関係だ。健康保険リソースの割り当てを決定する際には上述のような個人的な状況も考慮の対象に含むべきであるかどうかは、判断するのが難しい問題である。考慮に入れないとすれば基準は柔軟性のないものとなってしまうが、個人的な要素を考慮の対象に含むことは、主観的な…そして、偏見を含んだ…判断の余地を増やしてしまうのだ。

QALYは健康保険によって得られる善の指標として完全であるわけではないが、ウィンストン・チャーチルが政体としての民主主義を擁護したのと同じようにQALYを擁護することができる。つまり、他の全ての分配方法を除けば最悪の分配方法である、ということだ((訳注:「民主主義は最悪の政治形態といえる。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」のパロディ。))。全ての人に有益な医療処置を施すことが不可能であるとすれば、人々はどのような処置を受けるべきかを決定する方法として、それぞれの処置の費用から得られるQALYを比較することよりも優れた方法があるのだろうか?

 

政府が直接的に行うにせよイギリス国立臨床研究所のように独立した機関を通じるにせよ、どの医療処置が十分な費用対効果を持っているので公費で提供されるべきでありどの医療処置がそうでないかを政府が判断することを、アメリカ人たちは認めるであろうか?アメリカ人たちもそれを認めるかもしれない二つの状況がある。第一は、公的保険が実施されたあとにも民間の健康保険という選択肢が残っているという状況だ。第二は、健康保険で割り当てを実施しない場合にはどれ程のコストがかかってしまうのか、人々が身銭を切って目の当たりにする状況である。

もし民間の健康保険が禁止されているとすれば、健康保険の割り当て制は自由な選択を制限することになる。だが、多くの国々では、無料の国営健康保険と自由に選択できる民間の保険が組み合わされている。私が人生の大半を過ごして家族も養ってきたオーストラリアも、そのような国の一つだ。アメリカもオーストラリアなどの国々と同様の制度を実施できる。それは、メディケア(高齢者向け公的医療保険)の対象を年齢に関わらず全人口へと拡大することだ。ただし、適格患者に行う医療処置について医者たちに大幅な自由裁量を認めている現在のメディケアの方針は排除する。全ての人のためのメディケア(Medicare for All)は、QALY当たりのコストがあまりに高過ぎる医療処置には支払われるべきではないのである(一方で、全ての人のためのメディケアは、費用対効果に優れた薬品については一時的な自己負担金以上の金額を求めるべきではない)。メディケアの拡大は、所得税を払える人から税の一部として少し徴収することで賄えるだろう。オーストラリアでは、健康保険のための徴収料は、課税可能な収入の1.5パーセントだ(高収入で民間の保険に入っていない人は追加で1%徴収される。収入が非常に少なくて所得税も払えない人は、自分自身では費用を払わずに健康保険に加入することができる)。全ての医療処置を自分自身で私的に選んだ医者から受けることが保証されるのを望む人は、費用にかかわらず、全ての人のためのメディケアから抜けられることができる。ただし、自分が病気になったときにもコミュニティの負担になることがないくらい充分に民間健康保険に加入していることが証明できる限りにおいてだ。別の選択肢として、全ての人のためのメディケアに加入し続けたまま、全ての人のためのメディケアがカバーしない医療処置を受けるために補完的な民間健康保険に加入することもできるだろう。全てのアメリカ人は良質な標準の医療保険を得る権利を持つことになるだろうが、割り当てされない医療保険を得る権利は誰も持たない。割り当て制ではない医療保険を選択してしまった人々は、それが自分たち自身にとってどれ程のコストになるかを知ることになるだろう。

(…後略)

 

* 訳者による補足

本記事はオバマ政権時に健康保険制度についての議論が盛んになっていた2009年に発表されたもの。記事内で省略した箇所では、当時のアメリカにおける健康保険制度の状況についての解説や、アメリカの制度と他国の制度との比較などが書かれている。記事の発表から約8年経っているので状況は大幅に変わっているであろうこと、また日本の読者にとっては興味のない情報も多く含まれているであろうことを踏まえて、訳者の判断で省略した。