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マーク・ソーマ 「キューバ危機と『寛大なしっぺ返し戦略』」(2007年2月13日)

●Mark Thoma, “Generous Tit-for-Tat”(Economist’s View, February 13, 2007)


「寛大なしっぺ返し」戦略は壊滅的な軍事衝突を避ける上でキーとなる役割を果たす。ジェフリー・サックス(Jeffrey Sachs)がそう語っている1

Threats of War, Chances for Peace” by Jeffrey D. Sachs, Scientific American

気候変動に森林破壊、地下水の枯渇。いずれも世界経済の持続可能な発展に対する深刻な脅威であることは間違いないが、今後の人類の福祉にとって一番の脅威といえばやはり相変わらず戦争の脅威ということになるだろう。1962年のキューバ危機(キューバミサイル危機)時に世界は核戦争の瀬戸際に立たされることになったが、今でも南アジアや中東、朝鮮半島といった紛争地帯で再びあれよあれよという間に似たような事態に追いやられる可能性は残されている。核戦争の一歩手前までいったキューバ危機。しかし、キューバ危機は軍備管理に向けた最初の一歩(1963年に締結された部分的核実験停止条約)へと道を開くきっかけともなった。それもこれもジョン・F・ケネディ大統領の政治的なヴィジョンと熟練した手腕の賜物であり、歴史に名を残す画期的な成果だと言える。キューバ危機から部分的核実験停止条約の締結へと至る顛末は今日の世界にも時宜を得た教訓を与えてくれている。

1962年後半から1963年中頃にかけて立て続けに起こった一連の出来事についてはよく知られているところだ。・・・(略)・・・戦争開始まで残りあと数時間というギリギリのところまで追いつめられたと思いきや、その数ヵ月後には米ソ間で核実験の禁止に向けた合意が取り付けられるに至ったわけである。

わずか1年の間に戦争の瀬戸際から平和の実現に向けた画期的な条約の締結へと事態が大きく動いたわけだが、一体全体どうしてそんなことになったのだろうか? その答えはソ連に対するケネディの姿勢にあった。・・・(略)・・・敵を悪者と断じるなかれ。ケネディはそのような発想を出発点に据えてソ連との交渉に臨んだ。ソ連は(時に間違った行動を選択することはあるにしても)合理的である。ケネディはどの場面でもそのように想定した。ソ連は戦術的に少しでも有利な立場に立とうと画策しはするだろうが、・・・(略)・・・自殺行為を意味しかねない戦術からはすぐにも手を引くだろう。ケネディはそう想定した。

ケネディは「寛大なしっぺ返し」(generous tit-for-tat;GTFT)戦略を採用していたのだ。現代のゲーム理論家であればそう語ることだろう。一方の側のプレイヤー(プレイヤー1)は相手の側(プレイヤー2)が「協調」する限りは「協調」を貫く。しかしながら、プレイヤー2が「裏切り」に手を染めるやいなやプレイヤー1もプレイヤー2を真似て「協調」路線を見直す。裏切ると手痛い結果が待っているぞ。裏切り者にそう知らしめるためにである。・・・(略)・・・・しかしながら、裏切り者が改心する気があるなら再び「協調」路線に転じてやってもいい。プレイヤー1は「心の広さ」を示してそのような可能性を匂わせておく。・・・(略)・・・そしてプレイヤー1は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」路線に転じる可能性さえある。そうすれば一度裏切った相手(プレイヤー2)から再び「協調」を引き出す(裏切り者を改心させる)ことができるかもしれないと見越してである2。「寛大なしっぺ返し」戦略は極めて実り多くてたくましい(頑健な)戦略として知られており、人間の本能に深く埋め込まれている基本的な戦略なのではないかというのが多くの進化生物学者の見立てである。

ケネディは・・・(略)・・・(1963年6月にアメリカン大学の卒業式に招かれて行った「平和のための戦略」演説の中で)敵を侮辱するようなことがあってはならないと強調している。「核を保有する国々は互いの重要な国益を守り抜きつつも、敵対する相手国に屈辱的な撤退か核戦争かの二者択一を迫るようなことだけは避けねばなりません。核の時代にそのような対立関係を煽るかのような路線を選択するというのは政策の破綻を示す証拠かあるいは全世界を巻き込んでの自殺願望を示す証拠でしかないでしょう。」

ケネディの発想は当時はラディカル(革新的で新奇)なものだったが、同じ人類という共通項ゆえにソ連と協調関係を構築することも可能だというのがケネディの考えだった。「煎じ詰めるとこう言えるでしょう。米国とソ連を結び付ける共通の絆の中でも最も根本的なもの、それはどちらの国の国民もこの小さな地球に共同で暮らしているという事実です。私たちは誰もが同じ空気を吸って生きています。誰もが子供たちの未来を気にかけています。私たちは命に限りがある同じ人間なのです」。あちら側(敵)もこちらと同じように生きたいと願っており子供たちの未来のことを同じように大切に想っている。何らかの挑戦や脅威が目の前に立ちはだかった時に是非ともしっかりと思い出したい洞察である。45年前(のキューバ危機時)にもそうだったように、この重要な洞察は我々が今後も無事に生き抜き安全に暮らし続けていく上でキーとなる役割を果たすことになるかもしれない。

  1. 訳注;サックスはこのテーマ(キューバ危機への対応を含めたケネディ大統領の世界平和の実現に向けた奮闘)で一冊物している。次の本がそれである。 ●Jeffrey D. Sachs(著)『To Move the World: JFK’s Quest for Peace』(邦訳『世界を動かす-ケネディが求めた平和への道』) []
  2. 訳注;キューバ危機前後の米ソ間のやり取りに当てはめて考えると次のようになる。ケネディ大統領率いる米国(プレイヤー1)はソ連(プレイヤー2)が挑発的な行動に出ない限りは「協調」路線(軍拡を控える)を貫く姿勢をとっていたが、ソ連がそれまでの(キューバ国内に持ち込むのは防衛用の兵器だけに限るという)約束を翻してキューバに攻撃用の核ミサイルを持ち込んだ(「裏切り」に手を染めた)ために「協調」路線を見直して海上封鎖に乗り出すとともにキューバに空爆を仕掛ける脅しもかけた。米国側の強気の姿勢を前にしてソ連は態度を軟化させ、結果的に全面核戦争の危機は回避されることになる。それから数ヵ月後のこと、米国は「寛大にも」自分の側から率先して「協調」的な行動に打って出ることになる。核実験を禁止する条約を結ばないかとソ連側に話を持ち掛けたのである。そしてソ連もその提案に乗っかる(「協調」で応じる)ことになり、1963年に部分的核実験停止条約が締結されるに至ることになる。 []

アレックス・タバロック 「最終戦争の到来を見越して株を売るのは得策か?」(2017年8月12日)

●Alex Tabarrok, “Can You Short the Apocalypse?”(Marginal Revolution, August 12, 2017)


(北朝鮮による核開発の進捗に伴って)核戦争が起こる可能性が仮に高まりつつあるのだとしたらその影響で株価が下落してもよさそうなものだが今のところはそうなっていない。どうしてだろうか? ラルス・クリステンセンも指摘している1ように、キューバ危機(キューバミサイル危機)時にも同じような現象が観察された。当時も株価は下落しなかったのだ。

核戦争の一歩手前まできていたのが本当だとすれば、株価はキューバ危機の最中に――石が坂を転げ落ちるように――急降下していてもおかしくないはずである。実際のところはどうだったか? S&P500指数(株価指数の一つ)は急落なんてしなかった。1962年10月のあの13日間――米国とソ連との間で緊迫したにらみ合いが続いたあの13日間――を通じてS&P500指数には何の波風も立たなかった。

その理由は? 「相互確証破壊(MAD)戦略は大変優れた軍事戦略であり、そのおかげで核戦争が起こるリスクは低く抑えられている。世間で信じられているほど核戦争が勃発するリスクは高くはないのだ」。マーケットはそのように察知していたに違いない(し、実際にも核戦争は起こらなかった。マーケットは正しかったのだ・・・よね?)というのがクリステンセンの主張だ。

歴史家のアーサー・シュレジンジャー(Arthur M. Schlesinger Jr.)はキューバ危機時(ケネディ政権時)に大統領特別補佐官を務めてもいたが、キューバ危機は「人類史上で最も危険な瞬間」だったと回想している。キューバ危機はあくびを誘うような退屈極まりない出来事だったとの意見の持ち主は大統領周辺には一人もいなかったようだ。私もそのうちの一人に加えてもらいたいところだが、そうだとすると(キューバ危機が「人類史上で最も危険な瞬間」だったのだとすると)石が坂を転げ落ちるように株価が急落せずに済んだのはどうしてだろうという疑問が湧いてくる。核戦争という名の最終戦争が起こる可能性が株価に織り込まれずにいるというのはわかりきった話なんかではないのだ。 [Read more…]

  1. 訳注;リンク先の記事は本サイトでも訳出されている次のエントリーが元になっている(つい最近の国際情勢(北朝鮮と米国との間の緊張の高まり)を踏まえて一部加筆されている)。 ●ラルス・クリステンセン 「キューバ危機の痕跡はどこ? ~キューバ危機時の米国株式市場の反応は何を物語っているか?~」(2017年2月28日) []

ニック・ロウ 「『緊縮』という言葉について」(2013年6月14日)

●Nick Rowe, “Words and wartime austerity”(Worthwhile Canadian Initiative, June 14, 2013)


「言葉」というのは大事だ。財政政策の実態を含みがあって誤解を招きやすい「言葉」を使って表現しようものなら財政政策をめぐって知的な議論などできやしないだろう。

公共投資プロジェクトを中止する。あるいはその実施を予定よりも遅らせる。その決定は賢い場合もあれば愚かな場合もあるだろう。しかしながら、公共投資プロジェクトの中止(あるいは延期)は「緊縮(節制)」(”austerity”)なんかではない。

公共投資プロジェクトを決行する。あるいはその実施を予定よりも早める。その決定は賢い場合もあれば愚かな場合もあるだろう。しかしながら、公共投資プロジェクトの決行(あるいは繰り上げ)は「乱費(放蕩)」(”profligacy”)なんかではない。

「本物」の経済学者であれば財政政策を論じる時に「引き締め」(”tightening”)だとか「拡張」(”loosening”)だとかという言葉を口にすることはあっても、「緊縮(節制)」だとか「「乱費(放蕩)」だとかという言葉を口にすることはない。少なくとも「本物」の経済学者同士で語り合う時はそうだし、そう心掛けるべきなのだ。「本物」の経済学者であれば「財政刺激」(”fiscal stimulus”)というこれまた含みがあって論点先取な言葉も口にすることはない(し、口にすべきではない)。

「緊縮(節制)」にしても「乱費(放蕩)」にしても家計の消費行動を記述する言葉としては申し分のない言葉だが、政府の消費・投資行動や課税行動を記述する言葉としては不向きな言葉だ。それというのも国家財政と家政(家計のやりくり)とは別物だからだ。

経済学者であれば両者(国家財政と家政)の違いはよくわかっているはずだ。そうであれば両者の違いをぼかしてしまうような言葉は使うべきではないのだ。

しかしながら、重要な例外が一つだけある。経済学者が政府の行動を「緊縮」という言葉を使って表現しても構わない例外であり、原則がどのようなものであるかを浮かび上がらせることになる例外だ。

「第二次世界大戦中にイギリス政府は『緊縮』策に打って出た」。そう表現するのはまったくもって正しい。第二次世界大戦中にイギリス政府が手掛けた「緊縮」策の目的はぎりぎりのところまで家計の消費を抑える(切り詰めさせる)ことにあった。家計の消費を抑えてできるだけ多くの資源を戦争用にまわそうとしたのである。さて、その当時の財政収支はどうなっていたかというと、巨額の財政赤字が計上されていた。つまり、その当時のイギリス政府の財政政策は極めて「拡張的」だったのである。この例が示しているように、「緊縮」は「財政引き締め」を意味しはしないのだ。

(第二次世界大戦中にイギリス政府は様々な手段を組み合わせて「緊縮」策に乗り出した。消費財の配給制度の導入、国民に貯蓄を奨励して軍事公債を購入するよう勧誘、生産活動の直接的な統制(それまで消費財の生産を手掛けていた企業に兵器の製造に鞍替えするよう指示)等々である)。

スコット・サムナー 「劉暁波と零八憲章」(2010年10月8日)

●Scott Sumner, “Congratulations to Liu Xiaobo”(TheMoneyIllusion, October 08, 2010)


劉暁波(リウ・シャオポー)に今年度(2010年度)のノーベル平和賞が授与される運びとなったが、実は私は劉暁波および(彼が中心となってその起草にあたった)零八憲章の大ファンの一人だ。零八憲章では主に政治的自由の拡大が求められているわけだが、以下の引用1をご覧いただければわかるように経済政策と関わりのある記述もいくらか目に付く。

8. 都市と農村との間における平等の確保: 現行の二元的な戸籍制度は撤廃すべきである。現行の戸籍制度は都市の居住者(都市戸籍の持ち主)に有利に働く一方で、農村の居住者(農村戸籍の持ち主)には不利に働く格好となっている。すべての国民に同等の憲法上の権利を保障して誰もが同じように居住移転の自由を享受できる制度への転換を図るべきである。

14. 私的財産の保護: 私的財産に対する所有権(私的所有権)を確立・保護し、自由で開かれた市場に基づく経済制度の発展を促すべきである。商工業の国家独占は取り止め、創業の自由を保障すべきである。立法機関(議会)に対して報告義務を負う国有財産管理委員会を設置して国営事業の民営化(国有財産の民間への委譲)が公平かつ開かれた条件の下で混乱なく進むように監視すべきである。土地の私有化を促すとともに土地を自由に売買する権利を保障するために土地改革にも乗り出すべきであり、そうすることで私的財産(土地)の価値が市場で適切に評価される(市場価格に的確に反映される)ように図るべきである。

15. 財政・税制改革: 行政府が国民に対して説明責任を負う民主的なコントロールの行き届いた財政制度を確立して納税者の権利を保障すべきである2。さらには、(租税の賦課・徴収をはじめとした)財政上の決定は(国民の代表によって構成される)立法機関(議会)が定めた法律に則って行われるべきである3。中央政府と地方政府(省、地区級市、県、鎮、郷)との間で財政運営を分担し、それぞれの政府に帰属する税収の使い道はそれぞれの政府が各自の判断で自由に決められるようにすべきである4。大規模な税制改革を通じて税率の軽減、税制の簡素化、税負担の公平性の担保を図るべきである。議会での審議や議会の同意もなしに税金が引き上げられたり新税が導入されるようなことがあってはならない。金融業への新規参入を後押しして金融機関相互間での競争を促すべきである。そのために所有権制度の改革に乗り出すべきである。

16. 社会保障制度の整備: 国民全体をカバーする公平で適切な社会保障制度を整備して教育や医療、年金、失業保険といった基本的な社会保障サービスを誰もが享受できるように図るべきである。

(追記)コメントを少々。ノーベル「平和」賞という賞自体に賛成する気はない。というのも、ノーベル平和賞は世界平和の推進ということとはほとんど何の関係もないことは明らかだからだ。劉暁波にノーベル平和賞が授与されることによって零八憲章の存在が広く知れ渡ることになる。今回の決定が持つ意味はむしろその点にこそあると言えるだろう。零八憲章は古典的自由主義の最良の部分を体現したものだというのが私なりの見立てだ。零八憲章にはエコノミスト誌に見られるようなプラグマティックな新自由主義イデオロギーが反映されているのだ。今回の決定にはおかしなところがあるかもしれないが、仮にそうであったとしても零八憲章のいい宣伝にはなるだろう。

  1. 訳注;零八憲章の英訳は複数出回っているようだが、サムナーはペリー・リンク(Perry Link)の英訳から引用している。基本的にはリンクの英訳に照らして和訳を試みたが、所々その他の英訳(例えばこちら)も参考にしつつ訳してあることを断っておく。 []
  2. 訳注;いわゆる「財政民主主義」の要求 []
  3. 訳注;いわゆる「租税法律主義」の要求 []
  4. 訳注;いわゆる「財政連邦主義」の要求 []

スコット・サムナー 「『誰かを讃える』ってどういう意味?」(2015年2月15日)

●Scott Sumner, “What does it mean to admire someone?”(TheMoneyIllusion, February 15, 2015)


本当にひどい日曜日だ。あと18インチほど雪かきをしなければいけない(その他にも強風に極寒に屋根が凍結して水漏れがしてと問題は山積している)のだがちょいと一休みしてタイラー・コーエンのつい最近のブログエントリー〔拙訳はこちら〕に絡めて私見を述べさせてもらうとしよう。存命中の人物のうちでこの人をこそ讃えるべきだ。そういう人物は誰だろうか? コーエンはそのように問いかけているわけだが、私としては「誰かを讃える」とはどういう意味なのかという点にまずもって興味が惹かれる。「誰か」とはどういう意味なのかという点についても同じく気になるところだ。

「私」の腕だとか「私」の腎臓だとか「私」の左足だとかと言われるが、そのように語られる背後では腕だとか腎臓だとかといったパーツを所有する何かしらの一つの人格――「私」――の存在が暗黙のうちに想定されている。話は体のパーツ(部位)だけに限られない。手で触れることのできない属性にしてもそうだ。例えば、ポール・クルーグマンの鋭敏な分析力、トム・クルーズのカリスマ性、ラッセル・ウェストブルックの身体能力(運動神経)。私の記憶や私の意識などなど。つまりは、体のパーツだとか手で触れることのできない属性だとかのすべてを束ねる核となる人格の存在が想定されているわけだが、個人的にはそのような見方には懐疑的だ。一人ひとりの人間は色んな属性の単なる寄せ集めでしかないのではないかというのが私の考えだ。さらには、どこまでが「スコット・サムナー」であり、どこからが「スコット・サムナー以外」のはじまりなのかさえはっきりしないところがある。歯の詰め物は私の一部なのだろうか? 仮に義肢をはめているとしたら義肢はどうなのだろうか? 私の一部なのだろうか? ゆくゆくは私の脳にマイクロチップが埋め込まれることになるかもしれない。そうなったとしたらマイクロチップは私の一部と言えるのだろうか? 身に着けている衣服はどうなのだろうか?

コーエンの問いかけに対する一般読者の反応を眺めていると一つのことに気付かされる。多くの人々は「勇気」や「勤勉さ」といった多大な自己犠牲が伴うように思える属性の持ち主を讃えるのにはこれといって抵抗を感じないようなのだが、アーティストやアスリートとしての優れたスキルのような遺伝的な面をある程度備えている属性の持ち主を讃えるのには少々気が進まないところがあるようなのだ。「勇気」にしても「勤勉さ」にしても遺伝的な面をある程度備えている可能性はもちろんあるのだが、どうやらそのようなのだ。

他にも気になることがある。誰か(何か)について詳しくなればなるほどその誰か(何か)を称賛したくなる(非難したくなる)気持ちは弱まっていく。そうなる可能性は果たしてあるだろうか? 稀代の善人(例えば、ガンジー)や稀代の悪漢(例えば、ヒトラー)の振る舞いにはミステリアスな(謎めいた)ところがあるように思えるが、実のところは誰もがそうあって欲しいと願っているのではないか。私にはそう思える。古い格言に「すべてを知る(理解する)ことはすべてを許すことになる」(“to understand all is to forgive all”)というのがある。「ヒトラーのあの時の感情は私にもわかる」。誰もそう言えるようになりたくはないだろう。ヒトラーを許したくなんかないからだ。誰かの良さ(邪悪さ)に詳しくなるとその良さ(邪悪さ)は褪せてしまうかのように考えるのは筋の通らないところがあるのは確かにその通りだが、多くの人々はどうもそのような見方をしているように私には思えるのだ。

今回の件に関しては天邪鬼(あまのじゃく)的な態度を貫きたいと思う。どういうことかというと、自由意志の存在は信じてはいないのだが、善人は褒め称えて悪人は貶すべきだと思うのだ。それもこれも人はインセンティブに反応するからというのが理由だ。善い行いに身を捧げる人物を褒め称えることによって(称賛という名の非金銭的なインセンティブが誘い水となって)善い行いが引き出されることになるわけだ。多くの人々は本音のところではトム・クルーズに張り切ってもらう(笑顔を振りまく時にカリスマ性を発揮してもらう)よりはアウンサンスーチーに張り切ってもらう(ミャンマーの地に自由をもたらすために戦ってもらう)ためにこそ一段の後押しをすべきだと感じているのだろう。その結果として(アーティストやアスリートといった「皮相的」に見える活動に従事している面々が我々を楽しませてくれている度合いを過小評価することになるおそれはあっても)アウンサンスーチーのような英雄こそが誰にもまして称賛を受けるにふさわしいとの考えに傾くことになるのであろう。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「この人を讃えよ」(2015年2月9日)

●Tyler Cowen, “Who are the people I most admire?”(Marginal Revolution, February 9, 2015)


「あなたが一番に称賛したいと思う人物は誰だろうか?」 つい先日そのように問いかけたわけだが、本ブログの読者の意見を集約すると一番人気は「イーロン・マスク」という結果になっているようだ。

個人的な意見を述べさせてもらうと、成功しているクリエイターや科学者、起業家に大いなる称賛の声をといきたいところだ。その点、イーロン・マスクもうってつけではある。しかしながら、私なりに称賛に値する人々のリストを作成するとなれば最上位には多大な自己犠牲を払っている人々が名を連ねることだろう。試しにいくつか列挙してみよう。

1. 時に自らの命を危険に晒してまでも麻薬ギャング(麻薬カルテル)に立ち向かい続けているメキシコの司法当局のメンバーたち。彼らはメキシコに明るい未来がやってくることを信じて麻薬カルテルの壊滅に向けて心血を注いでいるが、その努力もやがては報われて最終的には麻薬戦争に勝利するに違いない。私はそう思っている。

2. マラリアやエボラウイルスの感染拡大を防ぐために長年にわたって厳しい環境下で苦難に耐えながら働き続けている公衆衛生の専門家たち。彼らは生活環境が悪い中で任務にあたっているだけではなく、時に自らの健康を危険に晒しながら働き続けているのだ。

3. アウンサンスーチーはどうだろうか? 彼女はミャンマーに自由をもたらす一助となることを心に誓って15年近くに及ぶ獄中生活を耐え忍んだのだ。

4. 3に比べるとスケールは小さくなるが、病院のやけど治療センターで働くボランティアの人々はどうだろうか? やけど治療センターで働くというのは決して愉快な仕事とは言えないだろうが、医療行為としてはかなりの効果を秘めている。

1~4の変種もいくつか考えられるだろうが、私としてはとりあえずこんな感じでリストの作成に取り掛かることだろう。リストの最上位には持ってこないだろうが、子供の養育者としての務めをきちんと果たしている世の親たちもリストのどこかに入れたいところだ。

政治家や公人に限定しなければならないのであれば、私ならベン・バーナンキに一票入れたい(バーナンキを真っ先に称賛したい)ところだ。

読者の反応を眺めていて感じたことだが、私と同じようなかたちで今回の問い(「一番称賛に値する人物は誰?」)に切り込んでいる人々があまりに少なくて驚かされているところだ。読者の全般的な傾向として言えることだが、オタクっぽいところがある白人男性に票が集中しているようだ。PC(ポリティカル・コレクトネス)的にいかがなものかと言いたいわけではないし、オタクっぽいところがある白人男性ばかりに票が集まっているからといってその集票プロセスはバイアスを抱えているとも矯正の必要があるとも言いたいわけではない。とは言え、私のリストには読者の多くの意見と比べると女性や非白人が入り込む余地が大きいらしいことも確かだ。私のリストには人間の経験の普遍性に対する(読者の多くよりも強めである私なりの)信念が反映されているのかもしれない。

エンターテイナーやアスリートの名前を挙げている読者が少ないのも注目すべきところだ。昔であればエンターテイナーやアスリートは(称賛に値する人物の)リストの上位に続々と名を連ねていたものだ(この点について詳しくは拙著の『What Price Fame?』をご覧いただきたい)。例えば1971年の時点であれば(ミュージシャンである)「ジョン・レノン」に多くの票が集まったことだろうし、(プロ野球選手である)テッド・ウィリアムズも全盛期にはその方面の人気投票で上位に食い込んでいたものだ。ここ最近の傾向としてはどうやらハイテクの分野や政治の世界が良くも悪くも我々の想像力をこれまで以上に強く捉えて離さないところがあるようだ。本ブログの読者層はとりわけその傾向が強いようだ。

(追記)ノア・スミスも彼なりに(称賛に値する人物の)リストを作成している。

マーク・ソーマ 「世間における経済問題へのあやふやな理解とその背後にあるもの ~メタファーと『善は善を呼ぶ』型ヒューリスティック~」(2015年10月30日)

●Mark Thoma, “‘On Misunderstanding Economics’”(Economist’s View, October 30, 2015)


クリス・ディロー(Chris Dillow)が興味深い研究を紹介している。

On misunderstanding economics”:

世間における経済学への無理解を嘆く声があちこちで聞かれるようになって久しいが、この問題に対して新しい角度から光をあてる興味深い研究が現れた。デビッド・レイザー(David Leiser)とゼエヴ・クリル(Zeev Kril)の二人の手になるこちらの論文がそれである。レイザーとのクリルの二人は語る。人間の精神は「経済学(ないしは経済問題)を考るのに格好なようにはできていない」。

・・・(中略)・・・

レイザーとクリルの二人によると、世間の人々はその代わりにメタファーに頼る傾向にあるという。一番悪名高い例は国の財政を家計に喩えるあれである。単にメタファーに頼るというだけではない。自信満々でそうする(メタファーに頼って経済問題を語る)ことが多いというのだからさらに始末が悪いのだ。

・・・(中略)・・・

世間の人々が頼りにするヒューリスティックは他にもある。そのうちの一つはレイザーが「善は善を呼ぶ」(「善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ」)型ヒューリスティック(good begets good heuristic)(pdf)と名付けているものだ。「良いこと」は別の「良いこと」を呼び(「良いこと」は別の「良いこと」を呼び込む原因となり)、「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼ぶ(「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼び込む原因となる)。世間の人々は直感的にそう考える傾向にあるというのだ。例えば、世間の人々は「失業率の上昇」には「インフレ率の加速」が伴う(pdf)と考える傾向にある。どちらも「悪いこと」だからである1。・・・(略)・・・さらに厄介に思えることもある。世間の人々は「政府支出」を「悪いこと」だと見なし、その結果として「政府支出」の増加(という「悪いここと」)には「失業率の上昇」(という「悪いこと」)が伴うと考える傾向にあるというのだ。

レイザーとクリルの二人の研究から個人的に受け取ったことを3点ほど指摘しておきたいと思う。世間における経済問題へのあやふやな理解の背後にはメタファーやヒューリスティックに頼りがちな一般人の傾向が控えている可能性があるわけだが、そのことが結果的に右派か左派のどちらか一方に有利に働くことになるかというとそういうわけではないというのがまず一点目だ。メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする結果として世間の人々の間で反市場的な態度が培われることになる場合もあれば反ケインジアン的な態度が培われることになる場合もあるのだ。

メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向は我が国(イギリス)だけに限られる話ではない(他の国でも事情は変わらない)ということが二点目だ。

・・・(中略)・・・

我が国の政治制度にしても社会制度にしてもこの傾向(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向)にうまく対処できていないというのが三点目だ。むしろその傾向を後押ししている可能性さえある。政治家にしてもメディアにしても世間一般の(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする)傾向に抗ってそれを矯正しようとするよりは迎合しがちな面があるのだ。・・・(略)・・・経済学者だけではなく、民主主義の質を高めるにはどうしたらいいかと常日頃から心を砕いている面々も一緒になってこの状況を嘆くべきなのだ。

  1. 訳注;「善は善を呼ぶ」型ヒューリスティックに頼る結果として、世間の人々は「失業率の上昇」という「悪いこと」が「インフレ率の加速」という別の「悪いこと」を招き寄せると考える傾向にある、という意味。 []

マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []

アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」(2007年5月10日)

●Alex Tabarrok, “Evolution and Moral Community”(Marginal Revolution, May 10, 2007)


進化の名残(としての「ゼロサム思考」)がモラルコミュニティーの拡大(同類意識の越境)に歯止めをかける働きをしている。ポール・ルビン(Paul Rubin)がそう主張している

我々人類の遠い祖先が生きていたのはその本質において変化に乏しい静的な世界だった。旧世代から新世代へと時が移り行く中でも社会的な面にしても技術的な面にしてもほとんど変化が見られなかったのである。言い換えると、我々の遠い祖先はゼロサムの世界に生きていたのである。誰かの分け前が増えるとそれと引き換えにその他の誰かの分け前は減らざるを得なかったわけである。

我々の思考(精神)はそのような(静的な)世界を理解するべく進化を遂げてきており、誰かが利益を手にするのを目にするとそれは他の誰かの犠牲の上に成り立っているに違いないとつい思い込んでしまいがちなのはその名残である。「自発的な交換(国内における同胞同士での交換であれ異国人同士での国境を越えた交換(貿易)であれ)はポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちは2世紀(200年)以上にわたってそう説き続けてきている。自発的な交換は双方に利益をもたらす。さもなければそもそも交換なんて成り立たない、というわけだ。「移民の受け入れはポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちはそうも説き続けてきている。アメリカにやってきた移民は自らの労働を売る見返りとしてお金(給料)を手に入れ(労働とお金を交換し)、そしてそのお金で他の誰かが作った商品を買う(お金と商品を交換する)。つまりは、移民だけではなく移民に商品を売った誰かも利益を手にすることになる、というわけだ。しかしながら、進化の名残をとどめる我々の直感はそのようには判断しない。海外の労働者がアメリカとの貿易を通じて利益を手にし、アメリカにやってきた移民がアメリカ国内で職を得ることで利益を手にしているとすれば、それと引き換えに同胞たるアメリカ人労働者が痛手を被っているに違いない。ついそう判断してしまうのだ。

マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者なり。そう見なさねばならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい最近開かれたアメリカ経済学会の会合で一つだけはっきりと浮かび上がってきた論点がある。市場における主権者たる消費者の意思を尊重してその一挙一動には余計な口を挟まないのが経済学者の間での長年のお決まりとなっていたが、その慣わしの妥当性に疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は一般的な家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が十分とは言えない、もっと多様な資産への分散投資を心掛けるべきだ、住宅ローンを借り換えるのに適当な機会が見過ごされている等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代に入ってから市場の自由化に向けて規制という名の軛(くびき)が次々と解かれているが、自由化が期待通りの効果を上げるには別の軛(くびき)も解かれる必要がある。消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」の軛(くびき)から解き放たれない限りは市場の自由化も期待にそむく結果に終わってしまうことだろう。マクファデンはそう語る。

マクファデンのスピーチはニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果に裏付けられている。ニューロエコノミクスの研究成果が指し示しているところによると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した「人間の交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)は人間本性に深く根付いているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「人間の交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているらしいというのだ。大脳辺縁系というのは闘争本能や防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは同じ神経伝達物質に同じ受容体を共有しているわけです」。

しかしながら、誰もが市場での交換に(大脳辺縁系が刺激されて)快感を覚えるわけではなく、嫌気を覚えるという人もいることだろう。現実の市場は「見通しが悪くて波乱に満ちた荒野のような場所」だ。そんな厳しい環境の中で(何を買うべきか)選択しなければならないとなると、消費者の中には自分自身の判断に自信が持てず、陳列棚に並べられた商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしくてしょうがなく思えてくるという人もいることだろう。消費者はしくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまう(買ってから後悔する)――危険性に常に晒されているのだ。それは同時に「人格を磨く」機会が用意されていることを意味しているというのも確かだ。しくじって痛い目に合う経験を重ねることで少しずつ学習していき、市場で生きるにふさわしい「合理的な主体」へと近づいていく。そういう可能性もある。しかしながら、マクファデンには不安がよぎる。消費者はしくじりを繰り返すことで「合理的な主体」に近づいていくのではなくその代わりに「市場への嫌悪感」を募らせていってしまうおそれがあるというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』と同一視されてしまうおそれがある。『ばつの悪い思いをする機会』『後悔の念に駆られる機会』と解釈されてしまうおそれがあるのです」。マクファデンは「アゴラフォビア」という表現を持ち出している。「アゴラフォビア」はギリシャ語由来の言葉であり通常は「広場恐怖症」を指す言葉として使われているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「交換にはイライラが付き纏う。消費者たちはそのように感じて・・・(略)・・・得られる利益が小さい場合には交換に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要があるかもしれない」とはマクファデンの言。タウシッグのような先達の面々にはマクファデンのこの発言は異端の説として聞こえることだろう。消費者の選択は経済学の対象となるデータ――所与の事実――であり、そのデータ(消費者が実際に何を選んだか)の観察を通じて消費者の好みを推測する。経済学者にできることはそれだけに限られる。消費者が実際に何を選んだかを観察しないうちに何が一番消費者本人のためになるかを知っているかのように語るのは選択から好みを推測するというロジックに反するだけではなく思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できないとすれば、問題は経済学(経済学者)の側にあるのであって消費者の側にはない。タウシッグのような先達たちの言い分をまとめるとこのようになるだろうが、マクファデンはそれとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できない? それなら消費者を「鋳直し」て経済理論に近づけるという手もあり得るかもしれない。そのような結論になびいているように思えるのだ1

  1. 訳注;「理論と現実にズレがあるのなら現実のほうを理論に近づけようではないか」とマクファデンが訴えているかのようにまとめられているわけだが、そのまとめ方はどうだろうというのが正直な感想。マクファデンとしては(行動経済学等で明らかにされている認知バイアスのために)消費者が「しくじる」機会を減らすような工夫(その代表例はセイラー&サンスティーン流の「ナッジ」)には二重の恩恵が備わっているということが言いたかったのではないかと思われる。「ナッジ」のおかげで認知バイアスに陥らずに買い物ができれば(しくじる機会が減れば)その消費者本人のためになる(本人の利益に適う)という恩恵があるだけではなく、しくじりを原因とする「市場恐怖症」が和らげられることで市場への世間の支持も高まる(あるいは市場への嫌悪感も弱まる)という恩恵も随伴する、ということが言いたかったのではないかと思われるのだ。この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいという場合は次の論文を参照されるといいだろう。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29) []