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マーク・ソーマ 「世間における経済問題へのあやふやな理解とその背後にあるもの ~メタファーと『善は善を呼ぶ』型ヒューリスティック~」(2015年10月30日)

●Mark Thoma, “‘On Misunderstanding Economics’”(Economist’s View, October 30, 2015)


クリス・ディロー(Chris Dillow)が興味深い研究を紹介している。

On misunderstanding economics”:

世間における経済学への無理解を嘆く声があちこちで聞かれるようになって久しいが、この問題に対して新しい角度から光をあてる興味深い研究が現れた。デビッド・レイザー(David Leiser)とゼエヴ・クリル(Zeev Kril)の二人の手になるこちらの論文がそれである。レイザーとのクリルの二人は語る。人間の精神は「経済学(ないしは経済問題)を考るのに格好なようにはできていない」。

・・・(中略)・・・

レイザーとクリルの二人によると、世間の人々はその代わりにメタファーに頼る傾向にあるという。一番悪名高い例は国の財政を家計に喩えるあれである。単にメタファーに頼るというだけではない。自信満々でそうする(メタファーに頼って経済問題を語る)ことが多いというのだからさらに始末が悪いのだ。

・・・(中略)・・・

世間の人々が頼りにするヒューリスティックは他にもある。そのうちの一つはレイザーが「善は善を呼ぶ」(「善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ」)型ヒューリスティック(good begets good heuristic)(pdf)と名付けているものだ。「良いこと」は別の「良いこと」を呼び(「良いこと」は別の「良いこと」を呼び込む原因となり)、「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼ぶ(「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼び込む原因となる)。世間の人々は直感的にそう考える傾向にあるというのだ。例えば、世間の人々は「失業率の上昇」には「インフレ率の加速」が伴う(pdf)と考える傾向にある。どちらも「悪いこと」だからである1。・・・(略)・・・さらに厄介に思えることもある。世間の人々は「政府支出」を「悪いこと」だと見なし、その結果として「政府支出」の増加(という「悪いここと」)には「失業率の上昇」(という「悪いこと」)が伴うと考える傾向にあるというのだ。

レイザーとクリルの二人の研究から個人的に受け取ったことを3点ほど指摘しておきたいと思う。世間における経済問題へのあやふやな理解の背後にはメタファーやヒューリスティックに頼りがちな一般人の傾向が控えている可能性があるわけだが、そのことが結果的に右派か左派のどちらか一方に有利に働くことになるかというとそういうわけではないというのがまず一点目だ。メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする結果として世間の人々の間で反市場的な態度が培われることになる場合もあれば反ケインジアン的な態度が培われることになる場合もあるのだ。

メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向は我が国(イギリス)だけに限られる話ではない(他の国でも事情は変わらない)ということが二点目だ。

・・・(中略)・・・

我が国の政治制度にしても社会制度にしてもこの傾向(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向)にうまく対処できていないというのが三点目だ。むしろその傾向を後押ししている可能性さえある。政治家にしてもメディアにしても世間一般の(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする)傾向に抗ってそれを矯正しようとするよりは迎合しがちな面があるのだ。・・・(略)・・・経済学者だけではなく、民主主義の質を高めるにはどうしたらいいかと常日頃から心を砕いている面々も一緒になってこの状況を嘆くべきなのだ。

  1. 訳注;「善は善を呼ぶ」型ヒューリスティックに頼る結果として、世間の人々は「失業率の上昇」という「悪いこと」が「インフレ率の加速」という別の「悪いこと」を招き寄せると考える傾向にある、という意味。 []

マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []

アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」(2007年5月10日)

●Alex Tabarrok, “Evolution and Moral Community”(Marginal Revolution, May 10, 2007)


進化の名残(としての「ゼロサム思考」)がモラルコミュニティーの拡大(同類意識の越境)に歯止めをかける働きをしている。ポール・ルビン(Paul Rubin)がそう主張している

我々人類の遠い祖先が生きていたのはその本質において変化に乏しい静的な世界だった。旧世代から新世代へと時が移り行く中でも社会的な面にしても技術的な面にしてもほとんど変化が見られなかったのである。言い換えると、我々の遠い祖先はゼロサムの世界に生きていたのである。誰かの分け前が増えるとそれと引き換えにその他の誰かの分け前は減らざるを得なかったわけである。

我々の思考(精神)はそのような(静的な)世界を理解するべく進化を遂げてきており、誰かが利益を手にするのを目にするとそれは他の誰かの犠牲の上に成り立っているに違いないとつい思い込んでしまいがちなのはその名残である。「自発的な交換(国内における同胞同士での交換であれ異国人同士での国境を越えた交換(貿易)であれ)はポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちは2世紀(200年)以上にわたってそう説き続けてきている。自発的な交換は双方に利益をもたらす。さもなければそもそも交換なんて成り立たない、というわけだ。「移民の受け入れはポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちはそうも説き続けてきている。アメリカにやってきた移民は自らの労働を売る見返りとしてお金(給料)を手に入れ(労働とお金を交換し)、そしてそのお金で他の誰かが作った商品を買う(お金と商品を交換する)。つまりは、移民だけではなく移民に商品を売った誰かも利益を手にすることになる、というわけだ。しかしながら、進化の名残をとどめる我々の直感はそのようには判断しない。海外の労働者がアメリカとの貿易を通じて利益を手にし、アメリカにやってきた移民がアメリカ国内で職を得ることで利益を手にしているとすれば、それと引き換えに同胞たるアメリカ人労働者が痛手を被っているに違いない。ついそう判断してしまうのだ。

マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者なり。そう見なさねばならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい最近開かれたアメリカ経済学会の会合で一つだけはっきりと浮かび上がってきた論点がある。市場における主権者たる消費者の意思を尊重してその一挙一動には余計な口を挟まないのが経済学者の間での長年のお決まりとなっていたが、その慣わしの妥当性に疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は一般的な家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が十分とは言えない、もっと多様な資産への分散投資を心掛けるべきだ、住宅ローンを借り換えるのに適当な機会が見過ごされている等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代に入ってから市場の自由化に向けて規制という名の軛(くびき)が次々と解かれているが、自由化が期待通りの効果を上げるには別の軛(くびき)も解かれる必要がある。消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」の軛(くびき)から解き放たれない限りは市場の自由化も期待にそむく結果に終わってしまうことだろう。マクファデンはそう語る。

マクファデンのスピーチはニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果に裏付けられている。ニューロエコノミクスの研究成果が指し示しているところによると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した「人間の交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)は人間本性に深く根付いているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「人間の交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているらしいというのだ。大脳辺縁系というのは闘争本能や防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは同じ神経伝達物質に同じ受容体を共有しているわけです」。

しかしながら、誰もが市場での交換に(大脳辺縁系が刺激されて)快感を覚えるわけではなく、嫌気を覚えるという人もいることだろう。現実の市場は「見通しが悪くて波乱に満ちた荒野のような場所」だ。そんな厳しい環境の中で(何を買うべきか)選択しなければならないとなると、消費者の中には自分自身の判断に自信が持てず、陳列棚に並べられた商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしくてしょうがなく思えてくるという人もいることだろう。消費者はしくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまう(買ってから後悔する)――危険性に常に晒されているのだ。それは同時に「人格を磨く」機会が用意されていることを意味しているというのも確かだ。しくじって痛い目に合う経験を重ねることで少しずつ学習していき、市場で生きるにふさわしい「合理的な主体」へと近づいていく。そういう可能性もある。しかしながら、マクファデンには不安がよぎる。消費者はしくじりを繰り返すことで「合理的な主体」に近づいていくのではなくその代わりに「市場への嫌悪感」を募らせていってしまうおそれがあるというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』と同一視されてしまうおそれがある。『ばつの悪い思いをする機会』『後悔の念に駆られる機会』と解釈されてしまうおそれがあるのです」。マクファデンは「アゴラフォビア」という表現を持ち出している。「アゴラフォビア」はギリシャ語由来の言葉であり通常は「広場恐怖症」を指す言葉として使われているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「交換にはイライラが付き纏う。消費者たちはそのように感じて・・・(略)・・・得られる利益が小さい場合には交換に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要があるかもしれない」とはマクファデンの言。タウシッグのような先達の面々にはマクファデンのこの発言は異端の説として聞こえることだろう。消費者の選択は経済学の対象となるデータ――所与の事実――であり、そのデータ(消費者が実際に何を選んだか)の観察を通じて消費者の好みを推測する。経済学者にできることはそれだけに限られる。消費者が実際に何を選んだかを観察しないうちに何が一番消費者本人のためになるかを知っているかのように語るのは選択から好みを推測するというロジックに反するだけではなく思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できないとすれば、問題は経済学(経済学者)の側にあるのであって消費者の側にはない。タウシッグのような先達たちの言い分をまとめるとこのようになるだろうが、マクファデンはそれとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できない? それなら消費者を「鋳直し」て経済理論に近づけるという手もあり得るかもしれない。そのような結論になびいているように思えるのだ1

  1. 訳注;「理論と現実にズレがあるのなら現実のほうを理論に近づけようではないか」とマクファデンが訴えているかのようにまとめられているわけだが、そのまとめ方はどうだろうというのが正直な感想。マクファデンとしては(行動経済学等で明らかにされている認知バイアスのために)消費者が「しくじる」機会を減らすような工夫(その代表例はセイラー&サンスティーン流の「ナッジ」)には二重の恩恵が備わっているということが言いたかったのではないかと思われる。「ナッジ」のおかげで認知バイアスに陥らずに買い物ができれば(しくじる機会が減れば)その消費者本人のためになる(本人の利益に適う)という恩恵があるだけではなく、しくじりを原因とする「市場恐怖症」が和らげられることで市場への世間の支持も高まる(あるいは市場への嫌悪感も弱まる)という恩恵も随伴する、ということが言いたかったのではないかと思われるのだ。この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいという場合は次の論文を参照されるといいだろう。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29) []

タイラー・コーエン 「計画経済の誘惑」(2016年3月3日)

●Tyler Cowen, “Teaching economics to the sixth grade”(Marginal Revolution, March 3, 2016)


2008年に金融危機が勃発して以降、アメリカの公立小学校では授業で児童たちに経済学を教えるところがかなり増えてきているようだ。どんな具合か一例を紹介しておこう。

ヒギンス氏が教える(小学6年生の)クラスでは経済体制の比較に話題が移った。児童らはそれぞれバビロニア帝国の都市のいずれかの首長になりきって演習に臨むわけだが、はじめのうちはバビロニア帝国では計画経済(指令経済)が採用されていた。財の価格も住人の収入も中央政府によって直接決められていたわけだ。そんなバビロニア帝国もしばらくすると市場経済に移行して都市間での交易も行われるようになる。それに伴ってどの都市も昔に比べて(計画経済を採用していた頃よりも)豊かにはなったものの、豊かさを手にするために交易に汗を流すのも楽じゃない。児童らはそのような感想を持ったようだ。

「本音を言わせてもらうと、計画経済でやり繰りしていた頃の方が好きだわ」。そう語るのは(バビロニア帝国の都市の一つである)「エシュヌンナの女性首長」マイレッド・チェイス(11歳)。「権力って好きよ。これっていう明確な目標があるのっていいわよね」。そう語りながら肩をすくめて笑顔を浮かべるチェイス。「あれしろこれしろって誰かに指示されるのも時には悪くないものよね」。

引用元はこちらのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事だ。

マーク・ソーマ 「資本主義を守り抜くには価格システムへの『公平感』を保つことが必要だ ~災害時の『便乗値上げ』の是非を巡る議論から得られる教訓~」(2012年11月28日)

●Mark Thoma, “Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”(Economist’s View, November 28, 2012)


数週間前にFiscal Timesにコラムを寄稿したのだが、今回は以下にその一部を転載しようと思う。なぜ今になって再び取り上げる気になったかというとその理由は2つある。一つ目の理由は誤解を正したいと思ったからだ。どうやら私の意図がうまく伝わっていないようで読者の多くはあのコラムを「便乗値上げ」を禁じる法律に賛意を示すものと受け取ったようだが、それは違う。価格システムを腐してやろうというつもりであのコラムを書いたわけではない。「便乗値上げ」に対する世間の反応からは学ぶべき教訓があるということがあのコラムで言いたかった一番の要点なのだ。「価格の変動を通じた資源の配分メカニズムには『不公平な』帰結が付き纏(まと)う」。世間の人々の間でそのような疑念が抱かれてしまうようであれば価格システムに対する広範な支持など得られやしないだろう。格差の拡大や一部の富裕層への(政治的および経済的な)権力の集中が続いたとしたら資本主義というシステムに対して世間一般の人々が抱く公平/不公平の感覚に一体どのような影響が及ぶことになるだろうか? 市場原理主義者にしても資本主義を支持する立場の論者にしてもそのことをもっと真剣に気にかけるべきなのだ。資本主義というシステムに対する(世間一般の)不公平感が募り募って臨界点を超えてしまった暁には(不満を抱えた世論の意向を汲んだ結果として)その後釜として得体の知れないシステムに取って代わられてしまう可能性だってあるのだ。次に二つ目の理由だが、どちらかというとこちらの方が(一つ目の理由よりも)重要だ。いつものように色んな記事を紹介したかったのだが、どういうわけだか今日は不運にもこれはと思えるような記事に出くわせなかったばかりか、ブログ用に自分で何か書き上げるだけの時間の余裕もなかったのだ(つまりは一時しのぎの苦肉の策というわけだ)。

Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”:

ガソリンスタンドの前にできた長蛇の列。ハリケーン・サンディの直撃を受けてガソリンをはじめとした生活物資の数々が品不足の状態にあり、被災民たちは不安な日々を余儀なくされている。自然災害に見舞われた直後には「便乗値上げ」の是非を巡って経済学的および倫理的な観点から議論が巻き起こるものだが、今回もその例外ではない。自然災害に見舞われた直後に売り手が品物の値段を吊り上げるのは許される行為なのか? 望ましい行為と言えるのか? こういった疑問は確かに重要だ。しかしながら、「便乗値上げ」を巡る議論からはその是非にとどまらない更なる教訓も引き出せると思われるのだ。

経済学者は「便乗値上げ」(“price-gouging”)という表現を好まない。というのも、自然災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることは稀少な資源(財やサービス)を配分する(割り振る)ための最善の方法でもあり、不足気味の品物の増産を促すことになるという意味でも重要だというのが経済学者の考えだからだ。店先に並べた品物が高値で売れるとなれば(増産に乗り出せば大儲けが期待できるとなれば)、生産者の面々は並々ならぬ努力を注いで需要の急増に応じようとする(増産に励む)に違いない。経済学者の考えではそう予想されるのだ。

ハリケーン・サンディのような災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることにそれだけの利点があるのだとすれば、「便乗値上げ」をあちこちで目にしてもよさそうなものだが、災害に見舞われた後もそれまでと同じ水準に値段が据え置かれるケースも珍しくない。それはなぜなのだろうか? 災害に見舞われた後もそれまでと変わらない水準に値段を据え置き、在庫が尽きるまでお客に先着順で売り渡すという店も珍しくない。値上げをすれば儲けも増えるにもかかわらず、そのような絶好の機会がみすみす見過ごされてしまうのはなぜなのだろうか? 「災害時の便乗値上げは法律で禁じられているからだ」という答えが頭をよぎるが、その答えは次のような更なる疑問を提起するだけに過ぎない。災害時の品不足に乗じた大幅な値上げ(便乗値上げ)が多くの州で法的に禁じられているのはその通りだが、そもそもそうなっているのはなぜなのだろうか?

その答えを追い求めてこれまでに経済学者も色々と頭を捻ってきているが、その多くは「公平感」のアイデアに訴えて説明を試みている。〔以下続く

ついでになるが、こちらの記事もあわせて引用しておくとしよう。この記事ではダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の研究が紹介されている。コラム執筆時にはカーネマンの件の研究のことは知らなかったのだが、「価格システムに対して世間の人々が不公平感を募らせると価格システム(ひいては資本主義というシステム)に対する世間の支持も弱まる」との私の主張に味方してくれているようだ。

大半の経済学者の意見に従う限りでは、ハリケーンが襲来する前日に雑貨屋(食料品店)が店頭の品物の値段を引き上げるのはまったくもって理に適った行為だということになる。理に適っているというだけではなく実際にもそうなりそうでもある。というのも、近所の人々がハリケーンの襲来に備えて生活物資を手に入れようとこぞって店に殺到する(需要が急増する)一方で品物の値段がいつもと変わらない水準に据え置かれたままであればすぐにも品不足になるのはわかりきっているからだ。雑貨屋の棚が空っぽになるとすれば、それは品物の値段が低すぎる(安すぎる)証拠。普通の経済学者の目にはそう映るのだ。

ダニエル・カーネマンといえばノーベル経済学賞を受賞した学者だが、彼が他の研究者たちと共同で行った有名な研究(pdf)では一般人を対象に品物の値付けに関するエピソードをいくつか話して聞かせた後でそれぞれのエピソードについてどういう感想を持ったか(公平だと思ったか、それとも不公平だと思ったか)が問われている。その中の一つが吹雪に見舞われた翌日の金物屋の行動に関するエピソードである。A町に店を構えるその金物屋はそれまで除雪用シャベルを一本15ドルで販売していたが、吹雪に見舞われた翌日にその値段を一本20ドルに引き上げたのである。

除雪用シャベルの値上げは辺り一帯に一つのシグナルを送ることになる。「A町にシャベルを持ち込め!」というシグナルである。A町から1時間くらいの距離にある土地で金物屋を営む店主たちはトラックの荷台にありったけの除雪用シャベルを積み込んでA町に乗り込もうと思い立つ可能性がある。実際にもそのような動きが起これば、A町における除雪用シャベルの品不足は緩和されてシャベルの値段も元通りに戻ることだろう。

ところで、このエピソードを耳にした(一般人の間から選ばれた)被験者たちはどういう感想を持っただろうか? 特段驚くことでもないだろうが、被験者の80%は吹雪に見舞われた翌日に除雪用シャベルの値段を引き上げた金物屋の振る舞いを「不公平だと思う」と答えている。そう答えた面々に「ハリケーンが襲来する前日に缶詰食品の値段を2倍に引き上げる雑貨屋ってどう思う?」と尋ねたら同じく「それは不公平だよ」と返答することだろう。

実際にも多くの人々が自然災害に乗じた値上げに強い憤りを感じており、そのような世論の声を受けて多くの州で「便乗値上げ」を禁じる法律が制定されるに至っている。ハリケーンをはじめとした自然災害の発生時に品物の値段を引き上げると違法行為と見なされる州があるのだ。

ジョセフ・ヒース 「価格システムへの根強い抵抗」(2014年8月12日)

●Joseph Heath, “Capitalism remains controversial”(In Due Course, August 12, 2014)


価格システムが財を配分するその基本的なあり様に対する世間一般の抵抗の粘り強さ――あのアメリカにおいてでさえも!――には驚かされるばかりだ。「需要量と供給量を一致させるために財の価格が自由に変動(上下動)するに任せるべし」というアイデアは世の大抵の人々にとって直感に反するばかりか、道徳にも反するように感じられるようなのだ。そのことを示すまたとない実例がある。(配車サービス業界の革命児たる)Uber社が導入した料金システム(サージ・プライシング)に対する最近の騒動がそれだ(「市場行動の社会学」に興味がある向きにはこちらこちらの記事は面白く読めるに違いない)。Uberのサージ・プライシングは基本的にはその時々の需給状況(乗車を希望している人がどのくらいの数に上るか、路上にいるドライバーの数はどのくらいか)に応じてリアルタイムで乗車料金を変動させる仕組みであり、テクノロジーの助けを借りて(経済学入門の講義で必ずやお見かけするあの)完全競争市場に似たマーケットを作り出そうと試みた格好の例だと言える。Uberの利用者たちは料金が据え置かれて「不足」に悩まされる(乗車の順番が回ってくるまで長時間待つことを強いられる)よりは料金の上昇(を通じた需給の調整)を受け入れることだろう。そう思う人もいるかもしれないが、実際のところはどうかというと、(需要の急増に応じた)料金の引き上げに対してあちこちから怒りの声が上がっているのだ。

「需要の急増に応じて価格は上昇するに任せるべきだ」。経済学者がそう考える理由の説明に乗り出してから200年以上が経過しており、世間の人々も程度の差はあれその説明を受け入れてきているように見える。そうであるにもかかわらず、世の大抵の人々は未だに道徳的な直感のレベルで(需要の急増に応じて価格が上昇することに対して)大いに反発を感じてしまうようなのだ。私が驚かされるはこの点なのだ。おっと、勘違いしないでもらいたい。「市場」という制度はそのうち消えてなくだろうだとかUberの料金システムはおかしいだとかと言いたいわけではない。「市場」という制度は消えてなくなったりなんてしないし、Uberの料金システムも完璧に理に適ったものだと思う。「市場」が我々の生活を取り巻く支配的な経済制度となるまでに上り詰める一方で、我々の道徳的な直感は「市場」を組織立てる中心的な原理(需給の変動に応じた価格の上下動)に未だに(何世代もの間にわたって!)適応できない(馴染めない)でいる。いかにしてそんなことが可能となるのだろうか? 私が気にかかっているのはそのような何とも不可解な(そして哲学的なと言える)疑問なのだ。

マイルズ・キンボール 「ピンカーが語る『市場経済のとっつきにくさ』」(2012年12月29日)

●Miles Kimball, “Steven Pinker on How the Free Market Makes Us Uneasy”(Confessions of a Supply-Side Liberal, December 29, 2012)


スティーブン・ピンカーが『The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature』の中で次のように語っている(pp. 409)。

アラン・フィスク(Alan Page Fiske)による(人と人との関係(社会的な関係)の形態を類型化した)分類(pdf)では〔仲間うちでの分かち合い(Communal Sharing)、階層的な序列付け(Authority Ranking)、互酬的な交換(贈与と返礼の応酬に基づく均衡のとれた互酬;Equality matching or Exchange)に加えて〕さらに第四の類型として「市場値付け」(Market Pricing)と呼ばれる形態も挙げられている。「市場値付け」というのは現代の市場経済に特有の装置(仕組み)の数々をひっくるめたものであり、具体的には、貨幣や価格(市場価格)、給与、(金銭的な)収益、賃料、金利、債権債務、オプションをはじめとしたデリバティブ(金融派生商品)等々がそれにあたる。「市場値付け」型の人と人との関係では記号としての数字や数学的な演算(計算)、デジタル化された会計や伝票、そして契約書(契約書に記載された文字)がコミュニケーションのメディアの役割を担うことになる。その他の3つの類型とは異なり、「市場値付け」型の関係はどんなところでも観察されるありふれた形態だとはとても言えない。文字(書き言葉)が無かったり3までの数でやり繰りしているような(数の概念がそれほど発達していない)文化圏では「市場値付け」の初歩的な形態でさえ手に負えないのだ。さらには、市場の論理(ロジック)は人間の認知機能に照らして不自然なところがあってその違和感は拭いきれないところがある。その証拠にと言うべきか、世界中のいたるところで次のような主張に出くわすものだ。曰く、(モノの価格はその時々にそれを手に入れるために買い手(の候補)がどれだけお金を支払う気があるかによって左右されるわけでなく)「どんなモノにもそれ自体に内在する常に変わらぬ『公正価格』(just price)が備わっている」。曰く、(売り手と買い手の間に入って仲立ちをする仲介業者は消費者たちが遠くの地にあるあれやこれやの品物を容易く入手できるよう図るというれっきとしたサービスを提供しているにもかかわらず)「仲介業者は寄生虫のような存在だ」。曰く、(同じ1円(同額のお金)であっても「今の1円」と「将来のある時点(例えば1年後)の1円」とでは価値が違うにもかかわらず)「お金を貸して(元本に加えて)金利の返済を要求するとは不道徳極まりない行為だ」〔このあたりの話について詳しくはトーマス・ソウェルの『Knowledge and Decisions』を参照のこと〕。しかしながら、かような一連の謬見は(公正な交換が実現されるのは同量のモノが互いに交換し合われた場合に限られると見なされる)「互酬的な交換」を支える心性とは相性がいい。顔と顔を突き合わせて贈与と返礼の応酬が繰り返される「互酬的な交換」を支える心性は市場経済に特有の複雑な装置(仕組み)――見ず知らずの膨大な数の人々の間で時空を超えて財やサービスのやり取り(交換)を可能にする装置(仕組み)――の取り扱いには不向きなのだ。

私なりの意見を言わせてもらえば、「市場値付け」は人間本性の管轄外にあるように思える。人間の思考にしても感情にしても「市場値付け」型の関係におあつらえ向きなようにはできていない(時とともに自然とそのような方向に発達を遂げてきてはいない)ように思えるのだ。

ジェームズ・ハミルトン 「小人閑居して不善を為す ~バイオレンス映画の(短期的な)犯罪『抑止』効果~」(2007年5月1日)

●James Hamilton, “Idle hands are the devil’s workshop”(Econbrowser, May 1, 2007)


カリフォルニア大学サンディエゴ校教授であり私の同僚でもあるゴードン・ダール(Gordon Dahl)とカリフォルニア大学バークレー校教授のステファノ・デラヴィーニャ(Stefano DellaVigna)の二人が共著で興味深い論文を物している。題して“Does Movie Violence Increase Violent Crime?(pdf)”(「バイオレンス映画は暴力犯罪を誘発するか?」)。

まずはじめにダールとデラヴィーニャの二人はアメリカで封切られたバイオレンス映画の観客動員数の推移に目を付け、その数が週ごとに大幅な変動を見せていることを確認した。二人の論文から拝借した以下のグラフをご覧いただきたいが、ここ最近の傾向としてブロックバスター映画(超大作映画)の最新作が封切られた週(公開第一週目)にはかなりの数の観客が映画館に足を運んでいることがわかる。

さらに二人はアメリカ国内における暴力犯罪(暴行罪と脅迫罪)の発生件数の推移に目を付け、この数もまた週ごとに大幅な変動を見せていることを確認する。もしかして・・・。ダールとデラヴィーニャの二人はピンと来た。両者(バイオレンス映画の観客動員数と暴力犯罪の発生件数)の間には相関があるのではないか、と。念のために確かめてみるとやはり両者の間には相関が確認されたが、おそらくその詳細は誰もが予想だにしないものであるに違いない。バイオレンス映画を観るために映画館に集まった人の数(観客動員数)が多い日ほど暴力犯罪の発生件数は――観客たちが映画館に滞在している可能性のある時間帯(午後6時から深夜12時までの間)においてだけではなくそれ以降から翌日の朝にかけての時間帯(深夜12時から午前6時までの間)においても――「少ない」傾向にあることが見出されたのだ。以上の関係は映画会社によるブロックバスター映画の公開予定日の決定に影響を及ぼすような一連の季節要因(その一連の季節要因は映画のバイオレンス度とは別の理由で暴力犯罪の発生件数と何らかの関係を持つと思われる要因)をコントロールした後も変わらず確認されるようだ。さらには、暴力犯罪を抑制する上で一番大きな効果を備えていると思われるのは最高度のバイオレンス度を誇る映画(kids-in-mind.comでの評価で8~10のバイオレンス度1と判定されている映画)ということのようだ。

ダールとデラヴィーニャの二人も件の論文の中で触れていることだが、従来の膨大な先行研究(実験結果)では正反対の(そして一見すると自然に思える)結論――暴力的なシーンの視聴は暴力行為を誘発する可能性あり――が導き出されている。しかしながら、ダールとデラヴィーニャの二人は怯むことなくこう指摘する。従来の研究では見逃されている要因がある。それは隔離(閉じ込め)効果だ、と。つまりは、映画館にいる間(映画館でバイオレンス映画を観ている最中)は路上でたかりを働くことなどできやしないのだ。さらには、暴力行為を抑制する効果は映画館を出た後も続くかもしれない。映画を観て過ごしたおかげ(アルコールが売られていない映画館で時間を過ごしたおかげ)でそうでない場合よりもアルコールの摂取量が減り、そのためにアルコールが原因で他人とトラブルを起こす危険性が抑えられる可能性があるからだ。映画の内容が暴力的であればあるほど、暴力行為に手を染めるおそれのある(気性の荒い)者たちが路上を離れて(バイオレンス映画を観るために)映画館に足を運ぶ可能性も高まる。ダールとデラヴィーニャの二人はそう理屈付けている。

ハリウッドには映画の中に血しぶきが飛び散るシーンをこれまで以上にドシドシ盛り込んでもらいたいものだ。・・・なんて結論を引き出したいわけではない。そうではなく、建設的な活動の機会を確保して暴力行為に手を染めるおそれのある若者たちをそこへドシドシ引き込むべしと言いたいのだ。そうすれば公共の利益に大いに適う可能性があるのだ。

  1. 訳注;0から10までの値をとり、数値が大きいほどバイオレンス度も高い。 []

タイラー・コーエン 「『ワックスかける! ワックスとる!』 ~曖昧さの効用~」(2013年3月19日)

●Tyler Cowen, “Why a coach should be ambiguous”(Marginal Revolution, March 19, 2013)


Jeffのブログより。

映画『ベスト・キッド』でのミヤギ先生の空手の指導法を覚えているだろうか? 「ワックスかける! ワックスとる!」。「次は塀のペンキ塗り。アップ。ダウン。アップ。ダウン」。「鼻から息を吸って口から吐く。呼吸を忘れてはいけない」。ミヤギ先生のお言葉だ。

指導者の指導者たるゆえんは教え子の成長を後押しするために何を教える必要があるかをとくと心得ているところにある。しかし、ここに一つの大問題がある。教え子の中でも早熟タイプの子弟もまた自分が何を教わる必要があるかをわかっていると(才能があるがゆえに当然のごとく)思っているのだ。

仮にミヤギ先生が弟子のダニエル少年に具体的で事細かな練習メニューを組んで空手を教えていたとしたら――「まずは(空手の基本となる)この手の動作を何度も何度も繰り返しなさい」といったように――ダニエル少年はすぐに異を唱えて「これ以外の動作も教えてください。早く次のステップに進んでください」と迫ったことだろう。ミヤギ先生が曖昧なアドバイスに終始したのは(具体的で事細かな練習メニューを組んでいたら避けられなかったであろう)ダニエル少年との悶着を避けるためだったのだ。

天性の才能に恵まれたアーティストの卵も基礎を学ぶ必要がある。しかしながら、基礎を学ぶのにどれだけの時間を費やすべきかをめぐって先生との間で意見が食い違うかもしれない。「これやっといて」といきなり何の説明もなしに課題を出せば教え子(であるそのアーティストの卵)は先生をどう評価しているかに応じてその言いつけに従うかどうかを決めることだろう1。その一方で、「基礎を一つずつ着実に学んでいかなければいけません。まずはこちらの基礎からはじめましょう。そのための課題がこれとこれです」と事細かな説明付きで課題を出せば教え子はその基礎の重要性を自分なりに判断し、その自己判断に応じて出された課題にどれだけ真剣に取り組むかを決めてしまうおそれがある。

  1. 訳注;「この先生は優れた指導者であり、どう指導するのが最善かをわきまえているに違いない」と高く評価している(一目置いている)のであれば言いつけに忠実に従い、「この先生は指導者として大したことない」と評価している(侮っている)のであれば言いつけに耳を貸さない(あるいは手を抜いて課題をこなす)。 []