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タイラー・コーエン 「『自由意志』の存在を信ぜよ。さすれば(実益が)与えられん」(2010年8月21日、2016年4月2日)

●Tyler Cowen, “The culture that is Bryan Caplan”(Marginal Revolution, August 21, 2010)


つい最近の論文によると、哲学上の信念は実社会でのパフォーマンスにも重要な影響を及ぼす可能性がある(少なくとも両者の間には相関がある)らしい。

哲学上の信念は職場での業績に影響を及ぼすだろうか? 本研究で見出された結果によると、「自由意志は存在する」との信念の持ち主は将来的に仕事で成功を収める可能性を高く見積もる(将来のキャリアについて楽観的な見通しを持つ)傾向にあるだけではなく、実際にも高い業績を残す(仕事ぶりに対する上司の評価が高い)傾向にもあることがわかった。職場での業績と相関を持っている尺度としては誠実性統制の所在プロテスタント的労働倫理尺度等が知られているが、自由意志への信念の強さはそのいずれの尺度よりも職場での業績の高さと強い相関を持っていることも見出された。

この論文はVaughn BellがTwitterで紹介していて知ったものだ。いくつかの解釈があり得るだろう。「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性(例えば、内的統制型)を併せ持っている1というのが一つ目の解釈だ。二つ目の解釈は自由意志への信念それ自体が仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高める働きをするというものだ。自由意志の存在を信じる人物は自らの一つひとつの選択に責任を持とうと心掛ける傾向にあり、それに伴って仕事で成功する可能性も高まる。そういう可能性もあるわけだ。

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●Tyler Cowen, “The case for a belief in free will”(Marginal Revolution, April 2, 2016)


今回取り上げる論文は“Believing there is no free will corrupts intuitive cooperation”(「自由意志の存在への疑念は人間の直感的な判断に干渉して非協力的な行為を誘う」)だ。著者はジョン・プロッツコ(John Protzko)&ブレット・ウィメット(Brett Ouimette)&ジョナサン・スクーラー(Jonathan Schooler)の三人。論文のアブストラクト(要約)を引用しておこう。

自由意志は果たして存在するのだろうか? その答えはどうであれ、自由意志の有無に関する信念(「自由意志は存在する」と信じるかどうか)は人の行動に影響を及ぼす。「自由意志は存在する」との信念が脅かされると非協力的な振る舞いが誘われる可能性があるのだ。自由意志の有無に関する信念と現実の行動とをつなぐメカニズムの詳細については盛んに議論が続けられている最中である。本論文では「公共財ゲーム」2に若干の捻り(出資額を決めるまでの制限時間を調節する3)を加えて、自由意志の存在への疑念が(熟慮をつかさどる)「思考システム」(「システム2」)に影響を及ぼすのか、それとも(直感的な判断をつかさどる)「反射システム」(「システム1」)に影響を及ぼすのかを探る4。その実験結果はというと、直感に従って意思決定を下す(出資額を決める)場合5には人々は協力的に振る舞う傾向にあるが6、「自由意志は存在する」との信念が脅かされる7と直感的な判断が狂わされて(直感レベルでも)利己的に振る舞いがちになる8ことがわかった。しかしながら、「自由意志は存在する」との信念が脅かされた結果として直感レベルで利己的な判断を下しがちになったとしても、考える時間が与えられるとその傾向も乗り越えられる可能性があることも見出されている9

「自由意志」や「自己責任」への信念が実益を伴うためには(形而上学的な観点からすると突っ込みどころがあるにしても)その信念が津々浦々で(多くの人々の間で)広く共有される必要があるだろう。この思想家は社会的な信念(社会で広く共有されている信念)に加担しているだろうか? それとも反旗を翻しているだろうか? そのように問い掛けながら一人ひとりの思想家の言い分に耳を傾けてみるというのもありだろう。「自己責任」という概念を論敵にだけ適用する。そういう論者も中にはいることだろう。

この話題を教えてくれたBen Southwoodに感謝。

  1. 訳注;「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性を併せ持っており、「自由意志は存在する」と信じているがゆえにではなくその他の何らかの属性のおかげで仕事で成功する可能性が高められている、という意味。 []
  2. 訳注;この論文では次のような設定になっている。4人一組でグループを作り、各人にはあらかじめ0.5ドルが与えられる。各人は手元にある0.5ドルの中から共同基金にいくら出資するかを決める。共同基金に集まったお金は倍に増やされて4人の間で均等に配分される。出資せずに手元に残しておいた金額と共同基金から配当される金額を加えたものが各人の儲けということになる。例えば、4人全員が手元の0.5ドルを全額出資すると共同基金には合計で2ドル集まることになるが、その2ドルが倍にされて四等分されることになる(={2ドル×2}÷4)のでこの場合は各人の儲けは1ドルということになる。さて、利己的な人間であればいくら出資することになると予想されるだろうか? 答えは「0ドル」。その理由は自分が0.1ドル出資した場合に共同基金からいくらの配当が返ってくるかを考えてみるといいだろう。0.1ドル出資するとそれが倍にされて四等分される(={0.1×2}÷4)ので共同基金からの配当額は0.05ドルである。0.1ドル出資して戻ってくるのは0.05ドルなのだからこれほど損な話はない! その一方で、他の誰かが共同基金に0.1ドル出資すると自分も0.05ドルの配当がもらえることになる。自分はびた一文出さずに(出資せずに)他人には出資してもらいたい(他人の努力にただ乗りしたい)という誘惑が存在するわけである。4人全員が同じように考えたとしたら(ただ乗りの誘惑に流されたとしたら)共同基金にはお金は一切集まらず、各人の儲けは(最初に与えられた)0.5ドルということになり、4人全員が全額出資した場合よりも儲けが少なくなってしまうわけである。 []
  3. 訳注;二つのケースに分けられている。「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求める(被験者に速断を求める)場合と最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求める(被験者に熟慮を許す)場合である。 []
  4. 訳注;人間の思考をつかさどる二つのモード(「システム1」と「システム2」)については例えば次を参照。 ●友野典男「人はなぜ変われないのか――認知バイアスから逃れられない理由」(カタリスト, 2016年1月8日) []
  5. 訳注;「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合 []
  6. 訳注;平均すると共同基金に(0.5ドルのうちから)0.4ドル出資する []
  7. 訳注;「公共財ゲーム」に参加する被験者に自由意志の存在を否定する研究結果の概要を事前に説明して聞かせる []
  8. 訳注;10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合、「自由意志は存在する」との信念が脅かされないままだと平均すると0.4ドル出資する傾向にあるが、「自由意志は存在する」との信念が脅かされると平均して0.28ドルしか出資しなくなる。 []
  9. 訳注;最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求められるケースでは「自由意志は存在する」との信念が脅かされようがされまいが出資額にあまり違いはない(出資額はどちらの場合でも平均すると0.34ドル前後)。 []

アレックス・タバロック 「正義軍か、経済学者軍か ~『高貴な嘘』の功罪?~」(2013年1月13日)

●Alex Tabarrok, “The Army of Economists”(Marginal Revolution, January 13, 2013)


ダニエル・デネットが興味深いインタビューの中で幅広い話題を縦横に論じているが、偽善(hypocrisy)が時として好ましい結果をもたらす可能性があるかどうかについても問われている。

恐ろしい敵を相手に戦わねばならないとしましょう。冷酷無残な敵です。ヒトラーの再来といっても過言ではないような極悪非道の敵です。そんな敵から私たちの身を守ってくれる味方の軍には編成の異なる二通りの軍隊が存在するとしましょう。ここではとりあえず「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」と呼んでおくことにしますが、人員の数や軍事訓練の程度、使用する兵器等には違いはありません。攻撃面でも防御面でも可能な限り最上の装備を身に付けているという点でも違いはありません。違いは何かと言うと、「ゴールドアーミー」に所属する兵士は一人残らず「神」が自分たちの後ろ盾になっていると信じ切っていることです。そのため、「我が軍は正義軍だ」と心の底から信じ切っています。その一方で、「シルバーアーミー」に所属する兵士は全員が経済学者です。ブラックジャックで躊躇なくインシュランス(保険)をかけるような人種であり、ありとあらゆる事象の起き得る確率を事細かに計算しないではおかない人種ですね。

「どちらの軍隊に前線に向かってもらいたいですか?」と問われたらどう答えるでしょうか? 「シルバーアーミー」という答えはなかなか聞かれないと思いますが、そのような反応は一体どういうことを意味しているのでしょうか? 「若い兵士たちに敵と立ち向かってもらうためにはどうすればいいか? 間違った考え(信念)を吹き込んで兵士たちの目をくらましてしまえ」。そう言ってるも同然です。偽善極まりないように思われます。しり込みせざるを得ません。「兵士たちを洗脳せよ」と言っているようなものですからね。病気にならないように前もってワクチンを打っておくような話です。兵士たちが経済学者流――あるいは哲学者流――の発想に侵されないようにせよ、というわけですからね。兵士たちが経済学者のように考え出したとしたら次から次へと疑問が湧いてくることでしょう。戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか? 自分の命を危険に晒す覚悟は本当にできているのだろうか? 我が軍が今やっていることは本当に正しい行いと言えるのだろうか? じっくりと腰を据えて検討を加えたら他にもっと優れた軍事作戦が見つかるのではないだろうか? そうだとしたら今の作戦は無駄もいいところということになるのではないか? まだ塹壕に身を潜めてなきゃいけないんだろうか?  何とも厄介なジレンマです。私にもどうしたらいいか答えはわかりません。しかし、このジレンマから目を背けてはならないでしょう。

嘘が好ましい結果を引き起こす上で効果的な働きをした例(言い換えると、「高貴な嘘」の実例)はこれまでに一度としてないなんて反論はさすがに極端だろうが、「高貴な嘘」がルール化されたとしたらどうだろうか? 好ましい結果が期待できるだろうか? 長い戦争の歴史を振り返ってみてもらいたいが、「正当」で「賢い」戦争は一体どのくらいあっただろうか? 虚栄心の塊のような政治指導者や馬鹿げたプライドによって突き動かされた戦争の例は一体どのくらいの数に上るだろうか? さて、問うとしよう。味方にするなら「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」のどちらがいいだろうか? 私の答えは「シルバーアーミー」だ1

もう一点だけ指摘しておきたいことがある。デネットは「利己心」(それも狭く解された利己心)と「合理性」をごっちゃにした上で「経済学者」の特徴付けを行っているが、(狭く解された)自己利益に反してはいても合理的であることは可能なのだ。デネットの問いに含まれるちょっとした誤魔化しと絡めてその点を説明するとしよう。「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手だという前提が立てられているが、後半のところで「経済学者」に「戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか?」と自問させている。この「経済学者」はどのような答えを下すだろうか? 「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手なのだからその答えは勿論・・・「イエス」のはずだ。このケースでは戦争に身を捧げることは合理的な行動と言えるわけなのだ2

この話題を教えてくれたBrian Donohueに感謝。

  1. 訳注;長い戦争の歴史を振り返ると、「不正」で「愚か」な(=やる必要のない)戦争ばかりであり、「シルバーアーミー」であれば参戦などしなかったはずだ、ということが言いたいものと思われる。言い換えると、「高貴な嘘」がルール化された結果として軍隊が「ゴールドアーミー」へと変貌すると、「不正」で「愚か」な戦争も多数繰り返される羽目になる、ということが言いたいのであろう。 []
  2. 訳注;デネットは「ゴールドアーミー」だけが戦争に身を捧げるかのような含みを持たせているが、必ずしもそういうわけではない(「シルバーアーミー」も場合によっては戦争に身を捧げることがある)、ということが言いたいものと思われる。 []

マイルズ・キンボール 「『高貴な嘘』への批判を禁ずるのは妥当か? ~J・S・ミルの『自由論』を紐解く~」(2013年3月10日)

●Miles Kimball, “John Stuart Mill on the Protection of “Noble Lies” from Criticism”(Confessions of a Supply-Side Liberal, March 10, 2013)


Plato

プラトン著 『国家』

モルモン教の話題になるたびに何度も耳にしてきた意見がある。モルモン教の教義が仮に「間違い」だったとしてもモルモン教を信じる人々にとってはその教義は「有益」であるとは言える、という意見がそれだ。そのような意見に何度も出くわした経験があることもあって「高貴な嘘」(“noble lie”)という概念にずっと興味を抱き続けてきた。「高貴な嘘」とはどういう意味か? ウィキペディアでは次のように定義されている。

政治の世界における「高貴な嘘」というのは国家を統治するエリートたちが社会の調和を保ったり政策目標の達成を図ることを目的として間違いだと知りながら世間に向けて語り伝える嘘のことを指しており、宗教にまつわる神話ないしは虚偽がその例としてよく挙げられる(とは言え、宗教上の信念だけがその例というわけではない)。「高貴な嘘」という概念はプラトンの『国家』の中で展開されている議論に起源を持つと言われている。

宗教の世界にとどまらず俗世間の領域でも似たような例は見つかる。例えば、「ポリティカル・コレクトネス」がそれだが、社会の調和を保ったり社会正義を実現するために必要だからという理由で批判や議論の対象から外そうとする動きがあるのだ。ところで、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の中でまさにこの話題が取り上げられている。第2章の「思想と言論の自由について」(“Of the Liberty of Thought and Discussion”)の中で「『高貴な嘘』への批判を禁ずべし」との見解に考察が加えられているのだ。「高貴な嘘」と表現すべきか、それとも「壮大なる神話」(“magnificent myth”)と表現すべきかという問題はあるが、以下に引用する議論はそのような細かい表現の違いにかかわらず成り立つものだ。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「フェイクニュースと大統領選挙」(2017年1月19日)

●Tyler Cowen, “How much fake news is needed to swing an election?”(Marginal Revolution, January 19, 2017)


ハント・アルコット(Hunt Allcott)とマシュー・ジェンツコウ(Matthew Gentzkow)の二人がフェイクニュースをテーマにした論文〔最新版はこちら(pdf)〕を物している。全部はまだ読めていないが、主要な結論は以下のようにまとめられるようだ。

・・・(略)・・・我々が本研究を通じて見出した結果をまとめると次のようになる。(i) ソーシャルメディアは大統領選挙に関する重要な情報源の一つではあったが、他のメディアを圧倒して最も重要な情報源だったかというとそうとは言えない。ソーシャルメディアを選挙ニュースの「一番重要な」情報源として挙げているのはアメリカ人(成人)全体のうちの14%に過ぎない。(ii) 選挙当日までの3ヶ月の間にソーシャルメディアを通じて流布したフェイクニュースのうちではトランプに肯定的なフェイクニュースの方が共有された回数は多かった。トランプに肯定的なフェイクニュース(全部で115個)がFacebookで共有された回数は合計で3000万シェアであり、ヒラリーに肯定的なフェイクニュース(全部で41個)がFacebookで共有された回数は合計で800万シェアという結果になっている。(iii) 平均的なアメリカ人(成人)がフェイクニュースをどれだけの数目にしまた記憶していたかというと(成人一人あたりに換算すると)、トランプに肯定的なフェイクニュースに関しては0.92個、ヒラリーに肯定的なフェイクニュースに関しては0.23個との推計結果が得られている。また、フェイクニュースを目にした覚えがあるアメリカ人のうちでその内容を真実として信じ込んでいた割合は半分を少し上回る程度(成人全体の8%程度)であることも判明している。 (iv) フェイクニュースが選挙結果を覆すだけの効果を持つためには一つのフェイクニュースにテレビでの選挙広告(CM)36本分のインパクト(説得効果)が備わっている必要があるとの推計結果が得られている。

自分へのお薦めの論文だ。

タイラー・コーエン 「嘘とコミュニケーション媒体」(2004年2月13日)

●Tyler Cowen, “You lie more over the phone”(Marginal Revolution, February 13, 2004)


メール(電子メール)でやり取りする場合よりも電話でやり取りする場合の方が嘘が出やすい。その理由は? メールはやり取りの記録が残るためだ。相手にその記録を辿られて嘘が見つかってしまうのではないかと心配になってしまうのだ。

コーネル大学の教授であるジェフ・ハンコック(Jeff Hancock)は30名の学生(被験者)を集めて1週間の間に交わされた会話(対話)の記録を日記に記しておくようにお願いした。1週間の間に誰かと会話(最低でも10分は続いた会話)を交わした回数はどのくらいか、どのような手段(コミュニケーション媒体)を使ってやり取りしたか、相手に嘘をついた回数はどのくらいか。そういった情報を日記に記してもらったのだ。

ハンコックは被験者たちの日記の記録をもとにしてコミュニケーション媒体ごとの嘘率1を計算した。その結果、メールを使ったやり取りでの嘘率は14%、インスタントメッセージ(IM)を使ったやり取りでの嘘率は21%、対面での会話での嘘率は27%であることが判明した。そして嘘率が一番高かったのが電話を使ったやり取り(電話越しの会話)であり、その値は37%。

嘘の多さよ! 全文はこちら2

  1. 訳注;例えば、1週間の間に誰かと面と向かって(対面で)会話をした回数が100回であり、そのうち15回の会話で何かしらの嘘をついたとしたら、(対面での会話での)嘘率は15%ということになる。 []
  2. 訳注;この研究結果に興味がある向きは次のTEDトーク(日本語字幕付き)もご覧になられるといいかもしれない。 ●「ジェフ・ハンコック:嘘つき達の未来」 []

タイラー・コーエン 「相手が嘘をついているかどうかを見抜く方法」(2004年8月22日)

●Tyler Cowen, “How to spot a liar”(Marginal Revolution, August 22, 2004)


数多くの被験者を集めた実験を通じて嘘つきが取りがちな行動パターンがいくつか明らかになっている。嘘つきは正直者に比べると会話の最中に体(腕や手や指)を動かすこともまばたきすることも少ない傾向にある。さらには、(嘘つきは正直者に比べて)声も緊張味を帯びていて甲高くなりがちだという。少し前に口にした発言を覚えておこう。話に矛盾がないように気を付けよう。嘘つきが会話の最中に体を動かすことが少ないのも発言の途中で口を閉ざす(一呼吸置く)ことが多いのもそのような余分な努力が必要となるためかもしれない。嘘つきは正直者に比べると言い間違いをすることも少なく、話を戻して言い忘れていたことや不正確だった細部について語り直すことも滅多にないという〔太字での強調はこちらで加えたもの〕。

「嘘つきが語る話はあまりにうまく出来過ぎているんですね」。そう語るのはベラ・デパウロ(Bella DePaulo)氏。カリフォルニア大学サンタバーバラ校で社会心理学を研究する学者であり、「欺瞞」研究の分野における展望論文をいくつも物している人物だ。

嘘つきは相手を騙している最中に恐れや罪悪感(といったマイナスの感情)、場合によっては喜び(といったプラスの感情)を感じている可能性があり、そのような感情が顔の表情の変化を引き起こすこともあり得ることだ。しかしながら、表情の変化はあまりに微妙であり、そのため周囲の人間はそれに気付かずに見過ごしてしまう可能性がある。カリフォルニア大学サンフランシスコ校の元教授であるポール・エクマン(Paul Ekman)は(嘘つきの顔に表れる)そのような一瞬の表情の変化を「微表情」(microexpressions)と名付けている。表情の(微妙な)変化はジェスチャーや声のトーン、会話のパターンと同じくらい相手が嘘をついているかどうかを見抜く上で大事なヒントになるとはエクマンの弁だ。

相手の嘘をいとも容易く見破る超人的な能力の持ち主も(ごく一握りではあるが)いるそうだ。

モーリン・オサリヴァン(サンフランシスコ大学の元教授)が語るところによると、連邦捜査官や法医学心理学者といったプロの中にはごく少数ではあるが相手の嘘を見破る上でずば抜けた能力を発揮する人物がいるという。「そのような能力の持ち主には一人か二人は出くわしますね」とオサリヴァンは語る。

全文はこちら(pdf)だ。

タイラー・コーエン 「ジェラール・ドブリュー」(2005年1月6日、2006年7月4日)/「ライオネル・マッケンジー」(2010年10月12日)/「『Finding Equilibrium』 ~「競争均衡の存在」を一番最初に証明したのは誰?~」(2014年8月11日)

●Tyler Cowen, “Gerard Debreu has passed away”(Marginal Revolution, January 6, 2005)/“It is also Gerard Debreu’s birthday”(Marginal Revolution, July 4, 2006)


カリフォルニア大学バークレー校の元教授であり、需要と供給に関する画期的な業績でノーベル経済学賞を受賞した経済学者のジェラール・ドブリューが(2004年)12月31日にパリで亡くなった。享年83歳。死因は明かされていない。

ドブリューはカリフォルニア大学バークレー校で30年以上にわたって学生の指導にあたった。ドブリューがノーベル経済学賞を手にしたのは1983年。需要と供給の一致をもたらす価格の働きを明らかにした理論的な業績が評価されての受賞だった。

全文はこちら。ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された訃報記事はこちらだ。

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Theory of Value』(邦訳『価値の理論-経済均衡の公理的分析』)のことはご記憶だろうか? わずか128ページの格調高い一冊。一般均衡理論をものの見事にまとめ上げた一冊。著者であるドブリューの略歴はこちらだ。ドブリュー本人による経歴の説明はこちら。ドブリューのウィキペディアのページはこちら

かつて本人自ら語っていたことだが、ドブリューはプルーストの感化を受けているらしい。人間社会の組織に及ぼす効果の面で「時間」(という次元)は「空間」(という次元)とどのくらい似ているのだろうか?(「時間」を「空間」と同じような次元の一つと見なしてもいいものだろうか? 「時間」を「空間」と同じような次元の一つと見なしたとしたら1どのようなことが言えるだろうか?) ドブリューはそのような問いを設定した上で(アローやハーヴィッツ、ワルドらの助力を得て)競争均衡の存在証明に取り組んだのだ。

ところで、娘のヤナのもとに無事手荷物が届いたそうだ2。ドブリューのモデルも昨夜に比べるといくらか現実的に感じられるような気がする3

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●Tyler Cowen, “Lionel W. McKenzie has passed away at 91”(Marginal Revolution, October 12, 2010)


ライオネル・マッケンジー(Lionel W. McKenzie)が(2010年10月12日に)亡くなった。享年91歳。マッケンジーのウィキペディアのページはこちら。マッケンジーの略歴についてはこちらも参照されたい。

マッケンジーは競争均衡(一般均衡)の存在証明に貢献した最も重要な人物の一人だが、それだけにとどまらずターンパイク定理の精緻化にも大きく貢献した学者の一人だ。マッケンジーはロチェスター大学で何十年にもわたって学生の指導にあたったが、ロチェスター大学に経済学の大学院課程(修士・博士課程)が設置されたのは彼の働きかけのおかげである。マッケンジーの教え子(の院生)には日本人が数多くおり、その関係でマッケンジーの名前は日本で特によく知られている。彼の手になる“Demand theory without a utility index”は経済学の標準的な理論の多くが「効用」に関する特殊な仮定に頼らずとも成り立つことを示した論文であり、古典としての地位を確立するに至っている。マッケンジーはCGE(計算可能な一般均衡)モデルのアイデアを早くから唱えており、貿易理論の分野でも権威ある論文の数々を残している。マッケンジーのその他の業績についてはGoogle Scholarでの検索結果を参照されたい。

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●Tyler Cowen, “*Finding Equilibrium*”(Marginal Revolution, August 11, 2014)


つい先日のことになるが、『Finding Equilibrium』が出版された。著者はティル・デュッペ(Till Düppe)とロイ・ウェイントロープ(E. Roy Weintruab)の二人。副題は「アロー&ドブリュー&マッケンジーと科学上の功績をめぐる問題」4。個人的にお気に入りの一冊だ。経済学上の重要な定理の数々が発見されるに至るまでの内幕が暴かれており、特に(複数の学者による定理の証明の)同時発見に伴う問題に目が向けられている。副題に挙がっている三人の中で一番不遇な扱いを受けているのはマッケンジーだ。どうやらマッケンジーはマタイ効果の被害者となってしまったようだ。

  1. 訳注;物理的にはまったく同じ財でもその財が存在する「時間」と「空間」(場所)が違えば別々の財と見なす、という意味。「北海道にあるリンゴ」と「福岡にあるリンゴ」は別々の財であり、「2016年4月1日に北海道にあるリンゴ」と「2017年4月1日に北海道にあるリンゴ」もまた別々の財、といったようなこと。 []
  2. 訳注;航空会社の手違いで預けた手荷物が到着空港に届かず、空港で足止めを食っていたらしい。 []
  3. 訳注;同じ手荷物でも「在り処」(場所)が違えば別物、といったことが言いたいものと思われる。 []
  4. 訳注;この本の書評としては(どちらも英語になってしまうが)例えばこちらこちらも参考になるだろう。 []

マーク・ソーマ 「アロー、エッジワース、フォーセット」(2017年2月26日)

●Mark Thoma, “Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett”(Economist’s View, February 26, 2017)


ラジブ・セティ(Rajiv Sethi)のブログより。

Arrow, Edgeworth, and Millicent Garrett Fawcett” by Rajiv Sethi:

先日亡くなったケネス・アローについてはもう既にあれこれと語り尽くされていてこれ以上何か言えそうなことも特にこれといって見つからないのだが、個人的な思い出であれば一つくらいは付け加えられそうだ。

過去に1度だけだがアローに会ったことがある。2008年4月にスタンフォード大学で開催されたカンファレンスに参加したのだが、そのカンファレンスのオーガナイザー(まとめ役)を務めていたのがアローとマシュー・ジャクソンだった。研究発表者の周囲を取り囲むように並べられたいくつものテーブル。聴衆はテーブルを挟んだ向こう側に腰を下ろしていたが、アローだけはテーブルの内側のスペースに入り込んで発表者の目の前に陣取っていた。当時のアローは86歳。

一番最初の発表者が私だった。異なる集団間での格差をテーマとする研究(サミュエル・ボウルズとグレン・ルーリーとの共同研究)の概要について発表したのだが、話し始めてから数分経ったところでアローが口を挟んできた。と言っても、決して強引にというわけではない。モデルの情報構造について詳しく知りたいとの質問だった。発表が終わって休憩時間に入ると、私のもとにアローがやってきて次のように尋ねられた。「ミリセント・フォーセット(Millicent Garrett Fawcett)の論文を読んだことがありますか?」。1892年のエコノミック・ジャーナル誌に掲載された論文だという。タイプミスじゃない。アローは確かに1892年と言ったのだ。「読んだことありません」。そう正直に告白したものだ。

その時にアローが語ってくれたのだが、フランシス・エッジワース(Francis Edgeworth)が1922年の(エコノミック・ジャーナル誌に掲載された)会長講演でフォーセットの一連の研究を詳しく取り上げているという。エッジワースのその講演は多くの人に広く知られているものの、その中で言及されているフォーセットの研究に自分で直接あたった人はほとんどいないという。

その後自分でも確かめてみたのだが、アローの言う通りだった。エッジワースは講演の中で何度も「フォーセット女史」と口にしており、フォーセットの論文を3本ほど引用している。エッジワースの講演は“Equal Pay to Men and Women for Equal Work”(「性別の枠を越えた『同一労働同一賃金』」)と題されているが、その中で引用されているフォーセットの論文の一つが1918年に公刊された“Equal Pay for Equal Work”(「同一労働同一賃金」)である。フォーセットの件の論文の冒頭は以下のようになっている。

Fawcett 1918

(「ジョン・ジョーンズ氏は軍服を製作する仕事に就いており、勤め先の洋服店から高給を支払われていた。ジョーンズ氏は病気に罹ってしまったが、勤め先の許可を得て自宅で服作りを続けることになった。ジョーンズ氏は自分の妻にも仕事のやり方を教えたが、ジョーンズ氏の体調が悪化するのに伴って彼の妻が助太刀する機会が増え、しばらくするとジョーンズ氏の妻が仕事をすべて引き受けることになった。しかしながら、ジョーンズ氏が生きている間は妻が製作した服もすべてジョーンズ氏製作という名目で勤め先に渡し、それまでと同額の給与が支払われ続けたのであった。

ジョン・ジョーンズ氏が亡くなり遺体が埋葬されたことが知られるようになると、『この服はジョーンズ氏が作りました』という話は最早通じなくなり、ジョーンズ氏の妻は『この服を作ったのは私です』と認めねばならなくなった。それ以降、自宅で作った服と引き替えに洋服店から支払われる給与はそれまでの3分の2に減額されることになったのであった。」)

少し調べてみてわかったのだが、フォーセット女史はエッジワースやアローにもまったく引けを取らない切れ者のようだ。さらには、経済学の分野での貢献は彼女の全業績のほんの一部でしかないのだ。アローとしては気の合う仲間を見つけたと感じていたに違いない。

マーク・ソーマ 「ケネス・アロー(1921-2017)」(2017年3月2日)/アレックス・タバロック「伯父としてのケネス・アロー ~サマーズが語るアローの思い出~」(2017年2月24日)

●Mark Thoma, “Kenneth Arrow, 1921-2017”(Economist’s View, March 02, 2017)


デブラージ・レイ(Debraj Ray)のブログより。

Kenneth Arrow, 1921-2017” by Debraj Ray:

ケネス・アロー(Kenneth Arrow)が2017年2月21日に亡くなった。享年95歳。アローは20世紀を代表する三大経済学者(三傑)の一人(残りの二人はポール・サミュエルソンとジョン・ヒックス)と目されている人物であり、私のかねてからのお気に入りの経済学者でもある。

ディパク・バナジー(Dipak Banerjee)(pdf)――私の恩師――が私にアローを紹介してくれたのは1974年のことだ。(私の母親が崇め奉っているヒンドゥー教の女神サラスヴァティー)さながらに)私の目の前に現れたアローは黄色い表紙の小さなペーパーバックの姿を借りていた。その小さな本の名は『Social Choice and Individual Values』(邦訳『社会的選択と個人的評価』)。大学通りにあるダスグプタ書店で購入し、今でも手元に持っている。当時私は大学1年生。小さな本ではあったが、その中を開くと深遠な論理的な思考がぎっしりと詰まっていた。それだけではない。ページを繰っていくとその先にはこれまでに見たことがない風景が広がっていた。政治経済学の分野における「抽象的な問い」が切れ味鋭い理論的な道具立てに読み替えられていたのだ。

その「抽象的な問い」とは一体何か? 簡単に言うとこういうことだ。みんなの意見を集計して集団としての意思決定を下す方法として「多数決」があるが、多数決にはいわゆる「コンドルセのパラドックス」(投票のパラドックス)として知られている有名な問題が付き纏っている。(複数の選択肢に対する)一人ひとりの選好(好み)は理に適ったものであったとしても「多数決」を通じてみんなの意見を集計する結果として得られる(複数の選択肢に対する)社会的な選好(集団としての選好順序)に時として循環が生じる可能性があるのだ。このことから次のような問いが浮かび上がってくることになる。一人ひとりの選好を矛盾のないかたちで集約し得る方法というのは果たして存在するのだろうか? 少し考えてみてもらえば気付くと思うが、一人ひとりの選好を集約する方法には我々がよく知っている多数決以外にも無数の候補がある。さてさてだ。先の問いに答えを出すのはおろか、先の問いを(理論的に取り扱えるようなかたちに)定式化するには一体全体どうすればいいんだろうか? アローが閃いた定式化――投票に参加する一人ひとりの選好を集約して集団としての選好(社会的な選好)を導き出す集計方法(社会厚生関数)にいくつかの公理(条件)を課す――はまさしく天才的なものだった。見た目が美しいというばかりではない。結論(答え)も得られるのだ。その結論とはこうだ。ごく限られた数の条件をすべて満たしつつ、一人ひとりの選好を集約して申し分のない(集団としての選好順序に循環が生じないような)社会的な選好を導き出せるような集計方法は存在しない。

以上の引用は冒頭のほんの一部でしかない。内容盛り沢山の続きも是非ともご覧になられたい。

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●Alex Tabarrok, “Summers on Arrow”(Marginal Revolution, February 24, 2017)


ローレンス・サマーズがケネス・アローとの思い出を回想しているが、その中で学者人生の一面を見事に捉えたエピソードが紹介されている。私も似たような経験がある。父親が機械工学を専門とする学者だったのだが、自宅に教え子を呼ぶことがあった。その時の父親の振る舞い(教え子たちと会話を弾ませている姿)を見ていて似たような感想を持ったことがあるのだ。

ノーベル経済学賞受賞者であり私の母方の伯父でもあるケネス・アローが今週95歳で亡くなった。アローは優れた人柄の持ち主であり、私(だけではなくその他大勢)にとってのヒーローだった。アローほど充実した学者人生を過ごした人物は他には見当たらない。

アローがノーベル賞を受賞したのは1972年のことだが、その時のことはまるで昨日のことのように覚えている。ポール・サミュエルソン――同じくノーベル経済学賞受賞者であり、同じく私の伯父でもある――がアローのノーベル賞受賞を祝うパーティーを催したのだが、その当時(MITの)大学2年生だった私もその場に招待されたのだ。若干オタクっぽい雰囲気に包まれてはいたが、お祭り気分に満たされた一夜だった。

夜も更けていく中、部屋の隅のところで数理経済学の定理の数々をテーマに立ち話を延々と続けるサミュエルソンとアローの二人。招待客たちは一人また一人と帰っていく。サミュエルソンの妻は「話はまだ終わらないのか」とじれったそうにしているように見えた。アローの妻(であり、私の叔母でもあるセルマ)はコートを羽織ってボタンも留め終わり、出口に向けて歩き出していた。そんなことはお構いなしに「最大値原理がどうこう、ポントリャーギン(ロシアの数学者)がどうこう」と切り出すアロー。イギリスの数理経済学者であり哲学者でもあるフランク・ラムゼイの話で迎え撃つサミュエルソン。二人の会話が終わらないことには私は帰れなかった。そのため私は二人の会話をじっくりと観察していたのだ。とは言え、(当時の私には)会話の内容は一切理解できなかったのだが。

二人の会話の様子を眺めていて吸収できたこともある。目の前にいるのはノーベル賞を受賞した二人の人物。疲れ果てた他の招待客たちが次々と家路を急ぐ中、好物の話題をネタに延々と語り続ける二人。その夜、私は二人の伯父から学んだのだ。アイデアに対する情熱を。学者という職業の重要性と刺激(スリル)を。

タイラー・コーエン 「コウルズ委員会に集いし傑物の面々 ~クープマンスからマーコウィッツまで~」(2008年5月4日)

●Tyler Cowen, “What do I think of the Cowles Commission?”(Marginal Revolution, May 4, 2008)


つい先ほど投稿したエントリー〔拙訳はこちら〕のコメント欄でAngry at the Marginから次のような質問を頂戴した。

「コウルズ委員会流の経済学」と貴殿もその流れを汲む「ジョージ・メイソン流の経済学」とは正反対の方向を志向しているように思えるのですが、それだからこそ最後の引用箇所で名前が挙がっている面々について貴殿がどう評価なさっているのか興味があります。誰もが主流派として成功を収めた人物ですが、そのことからさらに一歩踏み込んでどう評価されているのかお聞かせ願いたいところです。

それでは早速一人ずつ順に取り上げていくとしよう。

1. チャリング・クープマンス(Tjalling Koopmans):オペレーションズ・リサーチ(OR)の父」であり、ノーベル経済学賞を受賞して当然の人物だ(仮に「ノーベル数学賞」があったとすればクープマンスには経済学賞よりは数学賞の方が合っているかもしれない)。クープマンスは今もなお交通経済学(交通管理学)の中核に位置する最適経路選択に関する業績も残しており、さらには量子化学の礎の一部を築いた人物でもある。クープマンスは私の内部に息づく「オーストリアン(オーストリア学派)の心」には訴えかけてはこないが、畏怖すべき知識人の一人であることは間違いない。第二次世界大戦でのアメリカの勝利に力を貸してくれた人物でもある。偉大なるチャリング・クープマンスに敬礼!

2. ケネス・アロー(Kenneth J. Arrow):アローの名声は今ではサミュエルソンのそれを遥かに凌駕するに至っている。さらには、サミュエルソンに比べると哲学的な面も強い。さて、何から取り上げたらいいだろうか? アローはどの解説者よりも「アローの不可能性定理」を深く理解しており、さらには「医療経済学の父」でもある。これだけでも偉大すぎるほどだが、それでも彼がこれまでに成し遂げた貢献の10分の1くらいにしかならないだろう。アローと親交のある人々が揃って口にするところによると、彼ほどの博識家は見たことがないとのことだ。

3. ジェラール・ドブリュー(Gerard Debreu):「一般均衡理論の父」であり、(かつてドブリュー自身がインタビューで語っていたように)「『時間』の哲学者」という意味でマルセル・プルーストの正統なる後継者でもある。ドブリューは経済学の世界に公理主義(できるだけ少ない公理から一連の結論を演繹しようと志す立場)のアプローチを持ち込んだわけだが、そのようなアプローチの真味は二流の模倣者の手によるよりも一流のスターの手によってこそ存分に発揮される。言うまでもないだろうが、ドブリューは正真正銘のスターだ。ドブリューは「経済SF(サイエンス・フィクション)の父」とも言えるのではないかというのが私の考えだ(否定(侮蔑)的な意味でそう形容しているわけではない)。

4. ジェームズ・トービン(James Tobin):トービンは最も奥の深いケインジアンの一人。そう悟ったのは15年くらい前のことだ。トービンは(計量経済学のツールの一つである)トービット・モデル(Tobit model)の考案者でもあり、現代ポートフォリオ理論(MPT)の礎を築いた人物でもある。トービンと私はお互いに住んでいる知的世界は異なるが、それはさておきトービンはノーベル賞を何度も受賞してもおかしくないだけの業績を残している学者であることは間違いない。

5. フランコ・モジリアーニ(Franco Modigliani)
:モジリアーニもノーベル賞を何度も受賞してもおかしくないだけの業績を残している学者の一人だ。「モジリアーニ=ミラー定理」(この定理からは企業が保有する資産を(企業価値には一切の影響を与えることなしに)好きなように細かく切り分けられる可能性が示唆されることになる)で受賞、「(消費の)ライフサイクル仮説」でまた受賞といったようにだ。流動性選好に関する1944年の論文でもさらに受賞。そう言ってもいいかもしれない。「流動性選好」という概念だけでは例外的なケース(流動性選好(貨幣需要)の利子弾力性が無限大になるケース)を除けばケインジアン流のモデルを導き出すには十分ではない。モジリアーニの1944年の論文ではそのような可能性が示唆されているわけだが、残念ながらこの論文は現代版「流動性の罠」を提唱する論者たちには無視されたままのようだ。

6. ハーバート・サイモン(Herbert Simon):「限定合理性」のアイデアや行動経済学が経済学界を席巻したのはつい最近がはじめてというわけではない。サイモンがその前例を作っているのだ。人間の計算能力や神経学、人工知能といった方面におけるサイモンの洞察は効果的なかたちではまだ主流派の内部に取り込まれてはいない。というわけで、サイモンの影響力が強まるのはこれからだと言えそうだ。

7. ローレンス・クライン(Lawrence Klein):クライン流のマクロ計量経済モデルのファン(支持者)かと問われると「イエス(ファンです)」とは言えない。クラインの業績にじっくりと向き合ったことがないことは認めておかねばならないだろう。

8. トリグヴェ・ホーヴェルモ(Trygve Haavelmo):ホーヴェルモは計量経済学の分野における識別問題の解決に取り組んだパイオニア(草分け)の一人だ。彼がいなければスティーヴン・レヴィットも「ヤバい経済学」も存在し得なかった可能性があるわけだ。ホーヴェルモがノーベル賞を受賞したのはスカンジナビア(ノルウェー)出身だからというわけではないのだ1

9. ハリー・マーコウィッツ(Harry Markowitz):「現代ポートフォリオ理論の父」。これだけでもう十分だろう。

アメージング! そう思わないだろうか? とは言え、不満な面もある。全体的な印象として理論偏重であり知識の広さや現実世界の出来事(経験)が軽視されているように感じるのだ。だからといって誰もが尊敬すべき人物であることに変わりはない。上のリストの中で私が最も影響を受けた人物といえば断然アローとサイモンの二人だ。ついでながら言っておくと、「ジョージ・メイソン流の経済学」も時にはいつもとは違う道に足を踏み入れることもあるのだ。ただし、上のリストに話を限ると、サイモンを除く面々は主流派の経済学者によって既に「掘り尽くされて」しまっている面がある。そのことを踏まえると、みんなして「コウルズ委員会流の経済学」の後を追う必要はないように思えるのだ。

  1. 訳注;受賞者を選考するスウェーデン王立科学アカデミーが身内びいき(同郷のよしみ)でホーヴェルモを選んだわけではない(ホーヴェルモはノーベル賞を受賞して当然なだけの業績を残している)、という意味。 []