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タイラー・コーエン 「吸血鬼を題材にした本や映画が人気なのはなぜ?」(2009年11月13日)

●Tyler Cowen, “Why do vampires attract so many readers and viewers?”(Marginal Revolution, November 13, 2009)


こちらのワシントン・ポスト紙の記事で吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由が探られているが、思春期から大人への移行期にある若者特有の心情が関係しているのではないかとの可能性が指摘されている。女性たちのゲイの男性に対する興味が関係していると語る記事もどこかで読んだ覚えがある(誰かその記事を御存知じゃないだろうか?1)。

吸血鬼は「私の趣味」とは言えないが、好きな作品もあるにはある。例えば、アン・ライスの初期の作品だとか『事件記者コルチャック』だとかヴェルナー・ヘルツォークが脚本・監督を担当した『ノスフェラトゥ』だとかだ。コッポラが監督を務めた『ドラキュラ』なんかは世の評論家たちの評価よりも出来がいいと感じたものだ。その一方で、『トワイライト』は最初の5ページくらいで脱落してしまった(『トゥルーブラッド』はチェックしておくべきだろうか?)。

吸血鬼を題材にした本や映画の魅力はどこにあるのだろうか? 個人的に思いつくところをいくつか列挙してみよう。

1. ストーリーが始まる前から大どんでん返しが待ち構えているに違いないとあらかじめ予想できる。物思いに沈みがちで口を開くと延々と語り続ける吸血鬼。これといった波風も立たずにコーヒーショップだとかでダラダラと時を過ごす吸血鬼の姿を映したまま曖昧なエンディングを迎える。そんな映画を作ろうと思い立つ制作陣なんて滅多にいないだろう。吸血鬼が登場するストーリーには「死」が付き物なのだ。

2. あの人物は見た目とは違って意外な顔を隠し持っているかもしれない。そんな話に人はつい惹かれてしまうものだ。吸血鬼を題材にした作品ではどの登場人物が吸血鬼なのかを探して見つけ出すのがストーリーの展開上重要な役割を担っていることが多い。そのことにばかり注目が行き過ぎている場合も時としてあるくらいだ。

3. 吸血鬼物の作品は「純粋で限り無き(果てしなき)欲望」2といったテーマを滑稽にならずに追い求めることを可能とする舞台を用意してくれる。同じテーマを現実に近い設定で追求しようとしたら滑稽な見た目になってしまう危険性がある(例えば、レーズン入りのチーズに目が無い男の物語を想像してみればいい)。

4. 吸血鬼は女性に「つれない」態度で応じるものだが、そのように振る舞う吸血鬼は旧世界の騎士道の理想を(一時的であるとは言え3)立派に(?)実践していることになる。観客たちは吸血鬼のそんなやり口も遠巻きに眺めて素直に楽しむことができる。というのも、吸血鬼は我々とは別の生き物だからだ4

5. 男性はデート用の映画として吸血鬼物の映画を好む面もあるかもしれない。その理由は・・・その何というか・・・プライミング効果を期待してだ。映画がデート相手の感情5を大いに高ぶらせる可能性をあてにしてというわけだ。それと似た話だが、女性はデート相手の男性が残虐なストーリーにどう反応するかを「テスト」しようと思っているかもしれない。その男性がどれだけ頼りがいがあるかを試そうとしているわけだ(反対に男性の方ではデート相手のか弱さを試そうとしているわけだ)6

6. 吸血鬼は世間からの冷たい目など物ともしないかのようだが、10代の若者の多くは吸血鬼のそのようなところに憧れを感じる面があるのであろう。

7. 吸血鬼物の人気の高さのいくらかは吸血鬼というテーマの内容それ自体とは無関係な可能性もある。あるテーマが何かのきっかけで一旦流行り出したらそのテーマに耳目が一気に集まることがあるものだ。最近ヘヴィメタルが大流行なのも同じくそのためなのかもしれない。

8. 映画の観客(本であれば読者)は吸血鬼のことについて予備知識を持っていて吸血鬼の弱点もわきまえているが、作品の中で吸血鬼と戦っている登場人物たちはそうではない。吸血鬼に立ち向かう登場人物たちは物語の設定上社会的地位が高いことが多いが、観客(ないしは読者)はそのような登場人物たちよりも(吸血鬼のことについて詳しいという意味で)賢くて優れているかのような感覚を味わうことができるわけだ。

9. 吸血鬼を題材にした歌や絵画で人気がある作品というのはほとんど見当たらない。ということは、吸血鬼物の人気は「物語としての側面」が重要な役割を果たしていると言えそうだ。

(吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由についての)少しばかり突飛な回答はこちらを参照されたい。

  1. 訳注;おそらく次の記事がそれ。 ●Stephen Marche, “What’s Really Going on With All These Vampires?”(Esquire, October 13, 2009) []
  2. 訳注;生き血に対する飽くなき欲望 []
  3. 訳注;女性の首筋に噛み付いて生き血を吸うことに成功するまでの間、という意味。 []
  4. 訳注;吸血鬼は「つれない」素振りをして女性の気を引こうとしているが、吸血鬼ではなくて現実にいそうな登場人物がそのやり口を使っていたら(何だか逆に見え透いた感じがしたりして)素直には楽しめない、といったことがおそらく言いたいものと思われる。 []
  5. 訳注;恋愛感情ないしは性欲 []
  6. 訳注;この点については本サイトで訳出されている次の記事も参照のこと。 ●アレックス・タバロック 「ホラー映画に関する『イチャイチャ理論』」(2017年6月22日) []

アレックス・タバロック 「ホラー映画に関する『イチャイチャ理論』」(2011年10月31日)

●Alex Tabarrok, “The Snuggle Theory of Horror”(Marginal Revolution, October 31, 2011)


ホラー物(のフィクション)に関する心理学の先行研究を概観した記事の一部を引用しておこう。

ホラー映画への興味と年齢との関係に関して言うと、幼年期から成長するにつれてホラー映画を楽しいと思える感情が高まっていき、その感情は思春期でピークに達して以降は年を重ねるとともに徐々に薄れていく(ホラー映画を楽しめなくなっていく)との可能性が示唆されている。このことと関わりがあるのがいわゆる(ホラー映画に関する)「イチャイチャ理論」(‘snuggle theory’)と呼ばれているものである。「イチャイチャ理論」によると、ホラー映画の鑑賞は若者たちにとって通過儀礼の一つとなっている可能性があり、若い男女が社会における伝統的な性的役割(ジェンダー・ロール)を演じる機会を提供しているというのだ。ドルフ・ジルマン(Dolf Zillmann)やノルベルト・ムンドルフ(Norbert Mundorf)らが1980年代後半に発表した共著論文では男女の大学生を対象にそれぞれ異性とペアになって『13日の金曜日PART3』のワンシーンを14分間にわたって鑑賞してもらった上でその感想が尋ねられている。その結果によると、男子大学生はペアになった女子(男子大学生には知らされていないが、実は研究助手)が映像の鑑賞中にびくびく怖がっている場合にはそうでない場合よりも映像を2倍近く楽しめたと答える傾向にあった一方で、女子大学生はペアになった男子が映像の鑑賞中に冷静で動じた様子がないように見えるとそうでない場合よりも映像を楽しく観れたと答える傾向にあった。この研究ではペアとなった相手の印象が映像を観る前の段階で問われてもいるが、映像を一緒に観る前の段階では女子から魅力的ではないと判断されていた男子であっても『13日の金曜日』の映像を物怖じせずに見通した場合には相手の女子からの評価が高まる傾向にあったことも見出されている。「ホラー映画やモンスターは女子が悲鳴を上げながらデート相手の男子に必死になってしがみつく絶好のチャンスを提供しているとともに、男子が女子を安心させて守り庇護する――必要とあらばモンスターを打ち倒す――絶好のチャンスを与えてもいるわけです」。フィシュホフはそう語る。「男子も女子もどちらとも(ホラー映画を鑑賞しながら)文化の中に埋め込まれている性的役割を演じているわけです」。

アレックス・タバロック 「ゾンビ襲来の数理モデル」(2009年8月16日)・「ゾンビ経済学」(2013年3月9日)/タイラー・コーエン 「『アンデッドの経済学』」(2014年7月10日)

●Alex Tabarrok, “Mathematics of a Zombie Attack”(Marginal Revolution, August 16, 2009)


今回紹介するのは『Infectious Disease Modelling Research Progress』に収録されている論文(pdf)だ。アブストラクトを以下に引用しておこう。

ゾンビはポップカルチャーやエンターテインメントの世界で人気のキャラクターの一つである。死者が何らかの原因で突如ゾンビとして蘇り、生きている人間を次々と襲っていく。そしてゾンビに襲われた(噛まれた)人間もまたゾンビとなって新たな獲物を追い求めていく。世にある娯楽作品の中ではそのように描かれることが多い。本論文ではポピュラー映画に登場するゾンビの特徴を踏まえた上で「ゾンビ襲来」の数理モデルを組み立てる。まずはじめにゾンビ感染に関する基本となるモデルを構築し、モデルの均衡を求めると同時に均衡の安定性を検証する。さらには、数値シミュレーションも行う。次に基本となるモデルに修正を加え、人間がゾンビ化するまでには一定の潜伏期間を要する――ゾンビに襲われた(ゾンビウイルスに感染した)人間はすぐにゾンビになるのではなく一定の潜伏期間を経た後にゾンビ化する――との前提を置くことにする。その上でゾンビ(やゾンビウイルスに感染したもののまだゾンビになりきれていない人間)の「隔離」やゾンビウイルスに効く「治療薬」(ゾンビ化した人間が再び普通の人間に戻ることを可能とする治療薬)の効果を調べる。そして最後に定期的に「掃討作戦」を繰り返してゾンビの殺傷を試みた場合の効果を検証し、ゾンビの根絶が可能となる条件を求める。早い段階から積極果敢な掃討作戦に打って出る以外に「世界の終焉」シナリオ――ゾンビの襲来によって生きている人間が一人残らずゾンビとなり、文明が崩壊へと向かうシナリオ――を避けられる方法はない。本論文のモデルからはそのような結論が得られることになる。

この話題はBoing BoingサイトでCory Doctorowが紹介していたのを見て知ったものだ1。感謝する次第。
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●Alex Tabarrok, “Zombie Economics”(Marginal Revolution, March 9, 2013)


「ゾンビ経済学」とは言っても「セイの法則」だとかを槍玉に挙げているわけじゃない2。文字通り「ゾンビの経済学」――正真正銘のゾンビを対象とした経済学――だ。グレン・ホイットマン(Glen Whitman)とジェームズ・ダウ(James Dow)の二人が「『アンデッド』(特にゾンビと吸血鬼)の経済学」をテーマとする本の編集を進めているらしい。ロウマン&リトルフィールド出版社から出版予定とのことだ。

経済学の発想を使って「アンデッド」に関わる問題に切り込んだり、「アンデッド」を題材として経済学の方法論を問い直す。本書への寄稿をお考えの方々にはそのような姿勢で筆を進めていただきたいところだ。論文のアブストラクト(要旨)にしても本文にしても一般の読者でも近づきやすくて興味を惹かれるようなスタイルでまとめ上げていただきたい。さらには、ポップカルチャーの分野における「アンデッド」の例――例えば、『トワイライト』シリーズや『バフィー ~恋する十字架~』、アン・ライスの一連の小説、『ワールド・ウォーZ』、ジョージ・ロメロ監督の作品の数々、『トゥルーブラッド』、『ウォーキング・デッド』等々――を引き合いに出しながら論を進めていってもらいたいところだ。

考え得るトピックの例を挙げておくと、「血市場」における需要と供給、「ゾンビ労働市場」の振る舞い、「アンデッド」の脅威への対応策に絡む政治経済学的な問題、ゾンビの襲来によって荒廃した経済の復興にまつわる問題、ゾンビや吸血鬼の行動が合理的選択理論に投げかける示唆等々ということになるだろう。

ただ今論文のアブストラクトの投稿を募集している最中とのことだが、詳しい投稿規定はこちらをご覧になられたい。

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●Tyler Cowen, “*Economics of the Undead* (arrived in my pile)”(Marginal Revolution, July 10, 2014)


『アンデッドの経済学』と題する本が出版された。編者はジェームズ・ダウとグレン・ホイットマンの二人。副題は「ゾンビ、吸血鬼、陰鬱な科学」だ。執筆陣にはスティーブン・ホーウィッツ(Steven Horwitz)サラ・スウワイア(Sarah Skwire)イリヤ・ソミン(Ilya Somin)ホリス・ロビンズ(Hollis Robbins)らが名を連ねている。

  1. 訳注;この論文の内容を日本語で詳しく解説したものとしては例えば次のブログエントリーを参照のこと。 ●“感染症モデルに基づくゾンビ大量発生時の危機管理指針”(A Successful Failure, 2009年8月29日) []
  2. 訳注;「セイの法則」だとかを槍玉に挙げている「ゾンビ経済学」はこちら。 []

タイラー・コーエン 「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」(2005年11月20日)

●Tyler Cowen, “Why are UFO reports declining?”(Marginal Revolution, November 20, 2005)


UFOを発見したりその正体を理解する助けとなる(インターネットや電子機器、モバイル端末といった)テクノロジーが劇的な進歩を遂げてきているわけだが、それと時を同じくしてUFOの目撃例は先細り傾向を辿っている。宇宙人に誘拐されたと告白する人物が登場してから40年以上が経過しているわけだが、神秘に包まれた異星人の手によって不運な地球人の体に汚らわしい人体実験が施されたことを裏付ける物的な証拠はどういうわけだかこれまでに一つとして見つかっていない。アメリカ国内で売られているパソコンにはどれをとっても精密な画像解析を可能とするソフトが内蔵されるようになってきているわけだが、奇妙なことにと言うべきか、それとともにUFOの姿を捉えた写真はレアな(もの珍しい)存在となってきている。超常現象に出くわしたとなれば携帯電話やインスタントメッセージで大勢の仲間を呼び出して皆で一緒にその奇妙な現象を体験することも可能なわけだが、どうやらこの頃は超常現象はそう頻繁には起こっていないようだ。超常現象が起こってくれれば宇宙人はUFOの存在を信じて疑わない者たちの間で「空想の友人」の役目を立派に務めてくれるはずなのだが1。(テクノロジーの進歩のおかげで)UFOの姿をはっきりと捉える能力が高まるのに伴ってUFOが我々の前からその姿をくらますとは何とも奇妙な話ではないか! ・・・大して奇妙なことでもないという意見もあるかもしれないが2

全文はこちら3。テクノロジーの進歩に伴ってUFOの目撃例が減ってきているからといって人々が昔に比べると幻想に取り付かれにくくなってきているかというとどうだろうか? 個人的には懐疑的なところだ。それよりはむしろ、UFOにまつわる幻想4だとかの代わりにその間違いがそう簡単には露呈しないような幻想――例えば、未来に関するする幻想(例えば、トランスヒューマニズムの極端なバージョン)だったり、政治にまつわる幻想だったり、宗教にまつわる幻想だったり――へと思い込みの対象が移っているに過ぎないのではないかというのが私の意見だ。人は自己欺瞞の強力な衝動5に常に駆られており、真実を追い求めようとする欲求(自分が信じている考えの真偽のほどを確かめようとする欲求)が自己欺瞞の衝動に打ち勝てるとは限らない。真偽の怪しい考えを追い払うのは決して楽な戦いではないのだ。それに加えて、真偽が怪しい考えの論駁に必死になり過ぎてかえって逆効果になってしまう場合というのも時としてある6。例えば、UFOにまつわる幻想には馬鹿げたところがあることはその通りだが、これまでを振り返るとUFOにまつわる幻想は数ある幻想の中でも比較的害の無いものだったと言えるだろう。UFOにまつわる幻想のおかげで政府(国家権力)に対して疑いの目が向けられることにもなったし7、SF映画にお客が集まることにもなった。「宇宙人は実在する!」という幻想が公共政策に及ぼす影響(例えば、宇宙人担当大使のポストを新設するとか?)に目を向けてもこれまでのところは財政規律の悪化(財政赤字の拡大)に手を貸すということも無かったのだ。

  1. 訳注;「この異常な現象を引き起こしている犯人は宇宙人に違いない」、といったように。 []
  2. 訳注;仮にUFOは実在している(そして地球にやって来ている)のだとするとUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは奇妙な話ではあるが、実在などしていない(UFOは捏造に過ぎない)とすると奇妙でもなんでもないという話になる。ちなみに、アレックス・タバロックはUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは「地球人の間でカメラ付き携帯(をはじめとしたモバイル端末)が普及していることが宇宙人にも知られるところとなったからだ」(その結果、宇宙人たちはカメラ付き携帯で撮影されないように慎重に行動するようになったからだ)と(冗談めかして)語っている。 []
  3. 訳注;上の引用箇所だけだとわかりにくいかもしれないので念のために注記しておくと、「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」という問いに対するここでの答えは「テクノロジーの進歩に伴って嘘がつきにくくなった(でっち上げやごまかしが見破られやすくなった)ため」(UFOの捏造が難しくなったため)ということになる。例えば、インターネットで検索すれば、UFOの姿を捉えたと称する写真や映像のごまかしを事細かに検証したり、宇宙人と遭遇したと語るエピソードに論駁を加えたりしている情報に容易にアクセスできる。 []
  4. 訳注;「UFO(ないしは宇宙人)は実在していて地球にやって来ている!」と本気で信じ込むこと。 []
  5. 訳注;自己欺瞞の誘惑=真偽のほどは怪しくても自分にとって心地いい考えを(自分を欺いてでも)信じ込もうとする欲求、といったくらいの意味。 []
  6. 訳注;言い換えると、真偽が怪しい幻想も時として有益な効果を発揮することがある(その幻想が完膚なきまでに論駁されて誰にも見向きもされなくなるとそれと同時にその幻想に伴う有益な効果も失われることになる)、ということ。以下にその例としてUFOにまつわる幻想に伴う有益な効果が語られている。 []
  7. 訳注;「政府はUFO(ないしは宇宙人)の存在を裏付ける証拠を握っているにもかかわらずそれを隠しているに違いない。そんな政府は信用ならない」といったようなかたちで政府に対して疑いの目が向けられるようになり、その結果として政府の行動を厳しく監視する姿勢が養われるようになった、というようなことが言いたいのであろう。 []

タイラー・コーエン「祖父の霊、売ります」(2004年12月5日)/アレックス・タバロック 「ビッグフットとUFOに関する計量経済学」(2008年9月1日)

●Tyler Cowen, “Phantom markets”(Marginal Revolution, December 5, 2004)


祖父の霊を怖がる6歳の息子を安心させるにはどうしたらいいだろう? そうだ、(インターネットオークションサイトである)eBay(イーベイ)で祖父の霊を売りに出そう。そのような母親の妙案に対してこれまでに34件を上回る入札があり、最高入札額は今のところ78ドルに達している(最新の情報によると、最高入札額は1万5000ドルにまで競り上がっている)。

「おじいちゃんの幽霊にそのうち出くわすんじゃないかって怖いんだよ」。母親のメアリー・アンダーソンが語るところによると、息子のコリンがそう語るのを聞いて祖父(メアリーにとっては父)の霊をオークションサイトに出品する(売りに出す)ことに決めたという。祖父が亡くなったのは昨年のことだが、それからというものコリンは一人きりで家の中を行き来するのを止す(よす)ようになったという。

・・・(中略)・・・

オークションには(祖父の霊に加えて)祖父が愛用した金属製のステッキも併せて出品されており、祖父の霊の落札者にはちゃんと手で触れることができるモノも送り届けられることになっている。母親のメアリーの言によると、オークションの売上金でコリンに何かしらのプレゼントを買ってあげる予定だという。

全文はこちら

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●Alex Tabarrok, “Econometrics of Bigfoot and UFOs”(Marginal Revolution, September 1, 2008)


ピーター・リーソン(Peter Leeson)がFreakonomicsブログに記事を寄稿している。テーマはビッグフットとUFO(未確認飛行物体)に関する計量経済学。リーソンがデータを詳しく調べたところによると、UFOの目撃件数の多い(アメリカ国内の)州ではビッグフットの目撃件数も多い傾向にあることが見出されたという。リーソンはその事実からいくつかの暫定的な結論を引き出している1が、残念ながらいずれも大間違いだと言わざるを得ない。正しい結論にたどり着きたいのであれば若き同僚(リーソン)にはこちらの古典2の研究に力を入れてもらわねばならないだろう。

  1. 訳注;一例だけ紹介しておくと、UFOの目撃件数が多い州ほどビッグフットの目撃件数も多い傾向にあるのはUFOやビッグフットをだしにして観光客をできるだけたくさん呼び込もうという誘因(インセンティブ)が絡んでいるのではないかとの可能性が挙げられている(UFOやビッグフットの目撃件数が多い州は観光業が州の重要な産業の一つとなっている州でもあるとのこと)。 []
  2. 訳注;『サイボーグ危機一髪』におけるスティーブ・オースティンとビッグフットの格闘シーン。この作品ではビッグフットは宇宙人が作ったサイボーグという設定になっている。 []

タイラー・コーエン 「『自由意志』の存在を信ぜよ。さすれば(実益が)与えられん」(2010年8月21日、2016年4月2日)

●Tyler Cowen, “The culture that is Bryan Caplan”(Marginal Revolution, August 21, 2010)


つい最近の論文によると、哲学上の信念は実社会でのパフォーマンスにも重要な影響を及ぼす可能性がある(少なくとも両者の間には相関がある)らしい。

哲学上の信念は職場での業績に影響を及ぼすだろうか? 本研究で見出された結果によると、「自由意志は存在する」との信念の持ち主は将来的に仕事で成功を収める可能性を高く見積もる(将来のキャリアについて楽観的な見通しを持つ)傾向にあるだけではなく、実際にも高い業績を残す(仕事ぶりに対する上司の評価が高い)傾向にもあることがわかった。職場での業績と相関を持っている尺度としては誠実性統制の所在プロテスタント的労働倫理尺度等が知られているが、自由意志への信念の強さはそのいずれの尺度よりも職場での業績の高さと強い相関を持っていることも見出された。

この論文はVaughn BellがTwitterで紹介していて知ったものだ。いくつかの解釈があり得るだろう。「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性(例えば、内的統制型)を併せ持っている1というのが一つ目の解釈だ。二つ目の解釈は自由意志への信念それ自体が仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高める働きをするというものだ。自由意志の存在を信じる人物は自らの一つひとつの選択に責任を持とうと心掛ける傾向にあり、それに伴って仕事で成功する可能性も高まる。そういう可能性もあるわけだ。

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●Tyler Cowen, “The case for a belief in free will”(Marginal Revolution, April 2, 2016)


今回取り上げる論文は“Believing there is no free will corrupts intuitive cooperation”(「自由意志の存在への疑念は人間の直感的な判断に干渉して非協力的な行為を誘う」)だ。著者はジョン・プロッツコ(John Protzko)&ブレット・ウィメット(Brett Ouimette)&ジョナサン・スクーラー(Jonathan Schooler)の三人。論文のアブストラクト(要約)を引用しておこう。

自由意志は果たして存在するのだろうか? その答えはどうであれ、自由意志の有無に関する信念(「自由意志は存在する」と信じるかどうか)は人の行動に影響を及ぼす。「自由意志は存在する」との信念が脅かされると非協力的な振る舞いが誘われる可能性があるのだ。自由意志の有無に関する信念と現実の行動とをつなぐメカニズムの詳細については盛んに議論が続けられている最中である。本論文では「公共財ゲーム」2に若干の捻り(出資額を決めるまでの制限時間を調節する3)を加えて、自由意志の存在への疑念が(熟慮をつかさどる)「思考システム」(「システム2」)に影響を及ぼすのか、それとも(直感的な判断をつかさどる)「反射システム」(「システム1」)に影響を及ぼすのかを探る4。その実験結果はというと、直感に従って意思決定を下す(出資額を決める)場合5には人々は協力的に振る舞う傾向にあるが6、「自由意志は存在する」との信念が脅かされる7と直感的な判断が狂わされて(直感レベルでも)利己的に振る舞いがちになる8ことがわかった。しかしながら、「自由意志は存在する」との信念が脅かされた結果として直感レベルで利己的な判断を下しがちになったとしても、考える時間が与えられるとその傾向も乗り越えられる可能性があることも見出されている9

「自由意志」や「自己責任」への信念が実益を伴うためには(形而上学的な観点からすると突っ込みどころがあるにしても)その信念が津々浦々で(多くの人々の間で)広く共有される必要があるだろう。この思想家は社会的な信念(社会で広く共有されている信念)に加担しているだろうか? それとも反旗を翻しているだろうか? そのように問い掛けながら一人ひとりの思想家の言い分に耳を傾けてみるというのもありだろう。「自己責任」という概念を論敵にだけ適用する。そういう論者も中にはいることだろう。

この話題を教えてくれたBen Southwoodに感謝。

  1. 訳注;「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性を併せ持っており、「自由意志は存在する」と信じているがゆえにではなくその他の何らかの属性のおかげで仕事で成功する可能性が高められている、という意味。 []
  2. 訳注;この論文では次のような設定になっている。4人一組でグループを作り、各人にはあらかじめ0.5ドルが与えられる。各人は手元にある0.5ドルの中から共同基金にいくら出資するかを決める。共同基金に集まったお金は倍に増やされて4人の間で均等に配分される。出資せずに手元に残しておいた金額と共同基金から配当される金額を加えたものが各人の儲けということになる。例えば、4人全員が手元の0.5ドルを全額出資すると共同基金には合計で2ドル集まることになるが、その2ドルが倍にされて四等分されることになる(={2ドル×2}÷4)のでこの場合は各人の儲けは1ドルということになる。さて、利己的な人間であればいくら出資することになると予想されるだろうか? 答えは「0ドル」。その理由は自分が0.1ドル出資した場合に共同基金からいくらの配当が返ってくるかを考えてみるといいだろう。0.1ドル出資するとそれが倍にされて四等分される(={0.1×2}÷4)ので共同基金からの配当額は0.05ドルである。0.1ドル出資して戻ってくるのは0.05ドルなのだからこれほど損な話はない! その一方で、他の誰かが共同基金に0.1ドル出資すると自分も0.05ドルの配当がもらえることになる。自分はびた一文出さずに(出資せずに)他人には出資してもらいたい(他人の努力にただ乗りしたい)という誘惑が存在するわけである。4人全員が同じように考えたとしたら(ただ乗りの誘惑に流されたとしたら)共同基金にはお金は一切集まらず、各人の儲けは(最初に与えられた)0.5ドルということになり、4人全員が全額出資した場合よりも儲けが少なくなってしまうわけである。 []
  3. 訳注;二つのケースに分けられている。「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求める(被験者に速断を求める)場合と最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求める(被験者に熟慮を許す)場合である。 []
  4. 訳注;人間の思考をつかさどる二つのモード(「システム1」と「システム2」)については例えば次を参照。 ●友野典男「人はなぜ変われないのか――認知バイアスから逃れられない理由」(カタリスト, 2016年1月8日) []
  5. 訳注;「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合 []
  6. 訳注;平均すると共同基金に(0.5ドルのうちから)0.4ドル出資する []
  7. 訳注;「公共財ゲーム」に参加する被験者に自由意志の存在を否定する研究結果の概要を事前に説明して聞かせる []
  8. 訳注;10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合、「自由意志は存在する」との信念が脅かされないままだと平均すると0.4ドル出資する傾向にあるが、「自由意志は存在する」との信念が脅かされると平均して0.28ドルしか出資しなくなる。 []
  9. 訳注;最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求められるケースでは「自由意志は存在する」との信念が脅かされようがされまいが出資額にあまり違いはない(出資額はどちらの場合でも平均すると0.34ドル前後)。 []

アレックス・タバロック 「正義軍か、経済学者軍か ~『高貴な嘘』の功罪?~」(2013年1月13日)

●Alex Tabarrok, “The Army of Economists”(Marginal Revolution, January 13, 2013)


ダニエル・デネットが興味深いインタビューの中で幅広い話題を縦横に論じているが、偽善(hypocrisy)が時として好ましい結果をもたらす可能性があるかどうかについても問われている。

恐ろしい敵を相手に戦わねばならないとしましょう。冷酷無残な敵です。ヒトラーの再来といっても過言ではないような極悪非道の敵です。そんな敵から私たちの身を守ってくれる味方の軍には編成の異なる二通りの軍隊が存在するとしましょう。ここではとりあえず「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」と呼んでおくことにしますが、人員の数や軍事訓練の程度、使用する兵器等には違いはありません。攻撃面でも防御面でも可能な限り最上の装備を身に付けているという点でも違いはありません。違いは何かと言うと、「ゴールドアーミー」に所属する兵士は一人残らず「神」が自分たちの後ろ盾になっていると信じ切っていることです。そのため、「我が軍は正義軍だ」と心の底から信じ切っています。その一方で、「シルバーアーミー」に所属する兵士は全員が経済学者です。ブラックジャックで躊躇なくインシュランス(保険)をかけるような人種であり、ありとあらゆる事象の起き得る確率を事細かに計算しないではおかない人種ですね。

「どちらの軍隊に前線に向かってもらいたいですか?」と問われたらどう答えるでしょうか? 「シルバーアーミー」という答えはなかなか聞かれないと思いますが、そのような反応は一体どういうことを意味しているのでしょうか? 「若い兵士たちに敵と立ち向かってもらうためにはどうすればいいか? 間違った考え(信念)を吹き込んで兵士たちの目をくらましてしまえ」。そう言ってるも同然です。偽善極まりないように思われます。しり込みせざるを得ません。「兵士たちを洗脳せよ」と言っているようなものですからね。病気にならないように前もってワクチンを打っておくような話です。兵士たちが経済学者流――あるいは哲学者流――の発想に侵されないようにせよ、というわけですからね。兵士たちが経済学者のように考え出したとしたら次から次へと疑問が湧いてくることでしょう。戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか? 自分の命を危険に晒す覚悟は本当にできているのだろうか? 我が軍が今やっていることは本当に正しい行いと言えるのだろうか? じっくりと腰を据えて検討を加えたら他にもっと優れた軍事作戦が見つかるのではないだろうか? そうだとしたら今の作戦は無駄もいいところということになるのではないか? まだ塹壕に身を潜めてなきゃいけないんだろうか?  何とも厄介なジレンマです。私にもどうしたらいいか答えはわかりません。しかし、このジレンマから目を背けてはならないでしょう。

嘘が好ましい結果を引き起こす上で効果的な働きをした例(言い換えると、「高貴な嘘」の実例)はこれまでに一度としてないなんて反論はさすがに極端だろうが、「高貴な嘘」がルール化されたとしたらどうだろうか? 好ましい結果が期待できるだろうか? 長い戦争の歴史を振り返ってみてもらいたいが、「正当」で「賢い」戦争は一体どのくらいあっただろうか? 虚栄心の塊のような政治指導者や馬鹿げたプライドによって突き動かされた戦争の例は一体どのくらいの数に上るだろうか? さて、問うとしよう。味方にするなら「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」のどちらがいいだろうか? 私の答えは「シルバーアーミー」だ1

もう一点だけ指摘しておきたいことがある。デネットは「利己心」(それも狭く解された利己心)と「合理性」をごっちゃにした上で「経済学者」の特徴付けを行っているが、(狭く解された)自己利益に反してはいても合理的であることは可能なのだ。デネットの問いに含まれるちょっとした誤魔化しと絡めてその点を説明するとしよう。「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手だという前提が立てられているが、後半のところで「経済学者」に「戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか?」と自問させている。この「経済学者」はどのような答えを下すだろうか? 「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手なのだからその答えは勿論・・・「イエス」のはずだ。このケースでは戦争に身を捧げることは合理的な行動と言えるわけなのだ2

この話題を教えてくれたBrian Donohueに感謝。

  1. 訳注;長い戦争の歴史を振り返ると、「不正」で「愚か」な(=やる必要のない)戦争ばかりであり、「シルバーアーミー」であれば参戦などしなかったはずだ、ということが言いたいものと思われる。言い換えると、「高貴な嘘」がルール化された結果として軍隊が「ゴールドアーミー」へと変貌すると、「不正」で「愚か」な戦争も多数繰り返される羽目になる、ということが言いたいのであろう。 []
  2. 訳注;デネットは「ゴールドアーミー」だけが戦争に身を捧げるかのような含みを持たせているが、必ずしもそういうわけではない(「シルバーアーミー」も場合によっては戦争に身を捧げることがある)、ということが言いたいものと思われる。 []

マイルズ・キンボール 「『高貴な嘘』への批判を禁ずるのは妥当か? ~J・S・ミルの『自由論』を紐解く~」(2013年3月10日)

●Miles Kimball, “John Stuart Mill on the Protection of “Noble Lies” from Criticism”(Confessions of a Supply-Side Liberal, March 10, 2013)


Plato

プラトン著 『国家』

モルモン教の話題になるたびに何度も耳にしてきた意見がある。モルモン教の教義が仮に「間違い」だったとしてもモルモン教を信じる人々にとってはその教義は「有益」であるとは言える、という意見がそれだ。そのような意見に何度も出くわした経験があることもあって「高貴な嘘」(“noble lie”)という概念にずっと興味を抱き続けてきた。「高貴な嘘」とはどういう意味か? ウィキペディアでは次のように定義されている。

政治の世界における「高貴な嘘」というのは国家を統治するエリートたちが社会の調和を保ったり政策目標の達成を図ることを目的として間違いだと知りながら世間に向けて語り伝える嘘のことを指しており、宗教にまつわる神話ないしは虚偽がその例としてよく挙げられる(とは言え、宗教上の信念だけがその例というわけではない)。「高貴な嘘」という概念はプラトンの『国家』の中で展開されている議論に起源を持つと言われている。

宗教の世界にとどまらず俗世間の領域でも似たような例は見つかる。例えば、「ポリティカル・コレクトネス」がそれだが、社会の調和を保ったり社会正義を実現するために必要だからという理由で批判や議論の対象から外そうとする動きがあるのだ。ところで、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の中でまさにこの話題が取り上げられている。第2章の「思想と言論の自由について」(“Of the Liberty of Thought and Discussion”)の中で「『高貴な嘘』への批判を禁ずべし」との見解に考察が加えられているのだ。「高貴な嘘」と表現すべきか、それとも「壮大なる神話」(“magnificent myth”)と表現すべきかという問題はあるが、以下に引用する議論はそのような細かい表現の違いにかかわらず成り立つものだ。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「フェイクニュースと大統領選挙」(2017年1月19日)

●Tyler Cowen, “How much fake news is needed to swing an election?”(Marginal Revolution, January 19, 2017)


ハント・アルコット(Hunt Allcott)とマシュー・ジェンツコウ(Matthew Gentzkow)の二人がフェイクニュースをテーマにした論文〔最新版はこちら(pdf)〕を物している。全部はまだ読めていないが、主要な結論は以下のようにまとめられるようだ。

・・・(略)・・・我々が本研究を通じて見出した結果をまとめると次のようになる。(i) ソーシャルメディアは大統領選挙に関する重要な情報源の一つではあったが、他のメディアを圧倒して最も重要な情報源だったかというとそうとは言えない。ソーシャルメディアを選挙ニュースの「一番重要な」情報源として挙げているのはアメリカ人(成人)全体のうちの14%に過ぎない。(ii) 選挙当日までの3ヶ月の間にソーシャルメディアを通じて流布したフェイクニュースのうちではトランプに肯定的なフェイクニュースの方が共有された回数は多かった。トランプに肯定的なフェイクニュース(全部で115個)がFacebookで共有された回数は合計で3000万シェアであり、ヒラリーに肯定的なフェイクニュース(全部で41個)がFacebookで共有された回数は合計で800万シェアという結果になっている。(iii) 平均的なアメリカ人(成人)がフェイクニュースをどれだけの数目にしまた記憶していたかというと(成人一人あたりに換算すると)、トランプに肯定的なフェイクニュースに関しては0.92個、ヒラリーに肯定的なフェイクニュースに関しては0.23個との推計結果が得られている。また、フェイクニュースを目にした覚えがあるアメリカ人のうちでその内容を真実として信じ込んでいた割合は半分を少し上回る程度(成人全体の8%程度)であることも判明している。 (iv) フェイクニュースが選挙結果を覆すだけの効果を持つためには一つのフェイクニュースにテレビでの選挙広告(CM)36本分のインパクト(説得効果)が備わっている必要があるとの推計結果が得られている。

自分へのお薦めの論文だ。

タイラー・コーエン 「嘘とコミュニケーション媒体」(2004年2月13日)

●Tyler Cowen, “You lie more over the phone”(Marginal Revolution, February 13, 2004)


メール(電子メール)でやり取りする場合よりも電話でやり取りする場合の方が嘘が出やすい。その理由は? メールはやり取りの記録が残るためだ。相手にその記録を辿られて嘘が見つかってしまうのではないかと心配になってしまうのだ。

コーネル大学の教授であるジェフ・ハンコック(Jeff Hancock)は30名の学生(被験者)を集めて1週間の間に交わされた会話(対話)の記録を日記に記しておくようにお願いした。1週間の間に誰かと会話(最低でも10分は続いた会話)を交わした回数はどのくらいか、どのような手段(コミュニケーション媒体)を使ってやり取りしたか、相手に嘘をついた回数はどのくらいか。そういった情報を日記に記してもらったのだ。

ハンコックは被験者たちの日記の記録をもとにしてコミュニケーション媒体ごとの嘘率1を計算した。その結果、メールを使ったやり取りでの嘘率は14%、インスタントメッセージ(IM)を使ったやり取りでの嘘率は21%、対面での会話での嘘率は27%であることが判明した。そして嘘率が一番高かったのが電話を使ったやり取り(電話越しの会話)であり、その値は37%。

嘘の多さよ! 全文はこちら2

  1. 訳注;例えば、1週間の間に誰かと面と向かって(対面で)会話をした回数が100回であり、そのうち15回の会話で何かしらの嘘をついたとしたら、(対面での会話での)嘘率は15%ということになる。 []
  2. 訳注;この研究結果に興味がある向きは次のTEDトーク(日本語字幕付き)もご覧になられるといいかもしれない。 ●「ジェフ・ハンコック:嘘つき達の未来」 []