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マーク・ソーマ 「資本主義を守り抜くには価格システムへの『公平感』を保つことが必要だ ~災害時の『便乗値上げ』の是非を巡る議論から得られる教訓~」(2012年11月28日)

●Mark Thoma, “Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”(Economist’s View, November 28, 2012)


数週間前にFiscal Timesにコラムを寄稿したのだが、今回は以下にその一部を転載しようと思う。なぜ今になって再び取り上げる気になったかというとその理由は2つある。一つ目の理由は誤解を正したいと思ったからだ。どうやら私の意図がうまく伝わっていないようで読者の多くはあのコラムを「便乗値上げ」を禁じる法律に賛意を示すものと受け取ったようだが、それは違う。価格システムを腐してやろうというつもりであのコラムを書いたわけではない。「便乗値上げ」に対する世間の反応からは学ぶべき教訓があるということがあのコラムで言いたかった一番の要点なのだ。「価格の変動を通じた資源の配分メカニズムには『不公平な』帰結が付き纏(まと)う」。世間の人々の間でそのような疑念が抱かれてしまうようであれば価格システムに対する広範な支持など得られやしないだろう。格差の拡大や一部の富裕層への(政治的および経済的な)権力の集中が続いたとしたら資本主義というシステムに対して世間一般の人々が抱く公平/不公平の感覚に一体どのような影響が及ぶことになるだろうか? 市場原理主義者にしても資本主義を支持する立場の論者にしてもそのことをもっと真剣に気にかけるべきなのだ。資本主義というシステムに対する(世間一般の)不公平感が募り募って臨界点を超えてしまった暁には(不満を抱えた世論の意向を汲んだ結果として)その後釜として得体の知れないシステムに取って代わられてしまう可能性だってあるのだ。次に二つ目の理由だが、どちらかというとこちらの方が(一つ目の理由よりも)重要だ。いつものように色んな記事を紹介したかったのだが、どういうわけだか今日は不運にもこれはと思えるような記事に出くわせなかったばかりか、ブログ用に自分で何か書き上げるだけの時間の余裕もなかったのだ(つまりは一時しのぎの苦肉の策というわけだ)。

Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”:

ガソリンスタンドの前にできた長蛇の列。ハリケーン・サンディの直撃を受けてガソリンをはじめとした生活物資の数々が品不足の状態にあり、被災民たちは不安な日々を余儀なくされている。自然災害に見舞われた直後には「便乗値上げ」の是非を巡って経済学的および倫理的な観点から議論が巻き起こるものだが、今回もその例外ではない。自然災害に見舞われた直後に売り手が品物の値段を吊り上げるのは許される行為なのか? 望ましい行為と言えるのか? こういった疑問は確かに重要だ。しかしながら、「便乗値上げ」を巡る議論からはその是非にとどまらない更なる教訓も引き出せると思われるのだ。

経済学者は「便乗値上げ」(“price-gouging”)という表現を好まない。というのも、自然災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることは稀少な資源(財やサービス)を配分する(割り振る)ための最善の方法でもあり、不足気味の品物の増産を促すことになるという意味でも重要だというのが経済学者の考えだからだ。店先に並べた品物が高値で売れるとなれば(増産に乗り出せば大儲けが期待できるとなれば)、生産者の面々は並々ならぬ努力を注いで需要の急増に応じようとする(増産に励む)に違いない。経済学者の考えではそう予想されるのだ。

ハリケーン・サンディのような災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることにそれだけの利点があるのだとすれば、「便乗値上げ」をあちこちで目にしてもよさそうなものだが、災害に見舞われた後もそれまでと同じ水準に値段が据え置かれるケースも珍しくない。それはなぜなのだろうか? 災害に見舞われた後もそれまでと変わらない水準に値段を据え置き、在庫が尽きるまでお客に先着順で売り渡すという店も珍しくない。値上げをすれば儲けも増えるにもかかわらず、そのような絶好の機会がみすみす見過ごされてしまうのはなぜなのだろうか? 「災害時の便乗値上げは法律で禁じられているからだ」という答えが頭をよぎるが、その答えは次のような更なる疑問を提起するだけに過ぎない。災害時の品不足に乗じた大幅な値上げ(便乗値上げ)が多くの州で法的に禁じられているのはその通りだが、そもそもそうなっているのはなぜなのだろうか?

その答えを追い求めてこれまでに経済学者も色々と頭を捻ってきているが、その多くは「公平感」のアイデアに訴えて説明を試みている。〔以下続く

ついでになるが、こちらの記事もあわせて引用しておくとしよう。この記事ではダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の研究が紹介されている。コラム執筆時にはカーネマンの件の研究のことは知らなかったのだが、「価格システムに対して世間の人々が不公平感を募らせると価格システム(ひいては資本主義というシステム)に対する世間の支持も弱まる」との私の主張に味方してくれているようだ。

大半の経済学者の意見に従う限りでは、ハリケーンが襲来する前日に雑貨屋(食料品店)が店頭の品物の値段を引き上げるのはまったくもって理に適った行為だということになる。理に適っているというだけではなく実際にもそうなりそうでもある。というのも、近所の人々がハリケーンの襲来に備えて生活物資を手に入れようとこぞって店に殺到する(需要が急増する)一方で品物の値段がいつもと変わらない水準に据え置かれたままであればすぐにも品不足になるのはわかりきっているからだ。雑貨屋の棚が空っぽになるとすれば、それは品物の値段が低すぎる(安すぎる)証拠。普通の経済学者の目にはそう映るのだ。

ダニエル・カーネマンといえばノーベル経済学賞を受賞した学者だが、彼が他の研究者たちと共同で行った有名な研究(pdf)では一般人を対象に品物の値付けに関するエピソードをいくつか話して聞かせた後でそれぞれのエピソードについてどういう感想を持ったか(公平だと思ったか、それとも不公平だと思ったか)が問われている。その中の一つが吹雪に見舞われた翌日の金物屋の行動に関するエピソードである。A町に店を構えるその金物屋はそれまで除雪用シャベルを一本15ドルで販売していたが、吹雪に見舞われた翌日にその値段を一本20ドルに引き上げたのである。

除雪用シャベルの値上げは辺り一帯に一つのシグナルを送ることになる。「A町にシャベルを持ち込め!」というシグナルである。A町から1時間くらいの距離にある土地で金物屋を営む店主たちはトラックの荷台にありったけの除雪用シャベルを積み込んでA町に乗り込もうと思い立つ可能性がある。実際にもそのような動きが起これば、A町における除雪用シャベルの品不足は緩和されてシャベルの値段も元通りに戻ることだろう。

ところで、このエピソードを耳にした(一般人の間から選ばれた)被験者たちはどういう感想を持っただろうか? 特段驚くことでもないだろうが、被験者の80%は吹雪に見舞われた翌日に除雪用シャベルの値段を引き上げた金物屋の振る舞いを「不公平だと思う」と答えている。そう答えた面々に「ハリケーンが襲来する前日に缶詰食品の値段を2倍に引き上げる雑貨屋ってどう思う?」と尋ねたら同じく「それは不公平だよ」と返答することだろう。

実際にも多くの人々が自然災害に乗じた値上げに強い憤りを感じており、そのような世論の声を受けて多くの州で「便乗値上げ」を禁じる法律が制定されるに至っている。ハリケーンをはじめとした自然災害の発生時に品物の値段を引き上げると違法行為と見なされる州があるのだ。

ジョセフ・ヒース 「価格システムへの根強い抵抗」(2014年8月12日)

●Joseph Heath, “Capitalism remains controversial”(In Due Course, August 12, 2014)


価格システムが財を配分するその基本的なあり様に対する世間一般の抵抗の粘り強さ――あのアメリカにおいてでさえも!――には驚かされるばかりだ。「需要量と供給量を一致させるために財の価格が自由に変動(上下動)するに任せるべし」というアイデアは世の大抵の人々にとって直感に反するばかりか、道徳にも反するように感じられるようなのだ。そのことを示すまたとない実例がある。(配車サービス業界の革命児たる)Uber社が導入した料金システム(サージ・プライシング)に対する最近の騒動がそれだ(「市場行動の社会学」に興味がある向きにはこちらこちらの記事は面白く読めるに違いない)。Uberのサージ・プライシングは基本的にはその時々の需給状況(乗車を希望している人がどのくらいの数に上るか、路上にいるドライバーの数はどのくらいか)に応じてリアルタイムで乗車料金を変動させる仕組みであり、テクノロジーの助けを借りて(経済学入門の講義で必ずやお見かけするあの)完全競争市場に似たマーケットを作り出そうと試みた格好の例だと言える。Uberの利用者たちは料金が据え置かれて「不足」に悩まされる(乗車の順番が回ってくるまで長時間待つことを強いられる)よりは料金の上昇(を通じた需給の調整)を受け入れることだろう。そう思う人もいるかもしれないが、実際のところはどうかというと、(需要の急増に応じた)料金の引き上げに対してあちこちから怒りの声が上がっているのだ。

「需要の急増に応じて価格は上昇するに任せるべきだ」。経済学者がそう考える理由の説明に乗り出してから200年以上が経過しており、世間の人々も程度の差はあれその説明を受け入れてきているように見える。そうであるにもかかわらず、世の大抵の人々は未だに道徳的な直感のレベルで(需要の急増に応じて価格が上昇することに対して)大いに反発を感じてしまうようなのだ。私が驚かされるはこの点なのだ。おっと、勘違いしないでもらいたい。「市場」という制度はそのうち消えてなくだろうだとかUberの料金システムはおかしいだとかと言いたいわけではない。「市場」という制度は消えてなくなったりなんてしないし、Uberの料金システムも完璧に理に適ったものだと思う。「市場」が我々の生活を取り巻く支配的な経済制度となるまでに上り詰める一方で、我々の道徳的な直感は「市場」を組織立てる中心的な原理(需給の変動に応じた価格の上下動)に未だに(何世代もの間にわたって!)適応できない(馴染めない)でいる。いかにしてそんなことが可能となるのだろうか? 私が気にかかっているのはそのような何とも不可解な(そして哲学的なと言える)疑問なのだ。

マイルズ・キンボール 「ピンカーが語る『市場経済のとっつきにくさ』」(2012年12月29日)

●Miles Kimball, “Steven Pinker on How the Free Market Makes Us Uneasy”(Confessions of a Supply-Side Liberal, December 29, 2012)


スティーブン・ピンカーが『The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature』の中で次のように語っている(pp. 409)。

アラン・フィスク(Alan Page Fiske)による(人と人との関係(社会的な関係)の形態を類型化した)分類(pdf)では〔仲間うちでの分かち合い(Communal Sharing)、階層的な序列付け(Authority Ranking)、互酬的な交換(贈与と返礼の応酬に基づく均衡のとれた互酬;Equality matching or Exchange)に加えて〕さらに第四の類型として「市場値付け」(Market Pricing)と呼ばれる形態も挙げられている。「市場値付け」というのは現代の市場経済に特有の装置(仕組み)の数々をひっくるめたものであり、具体的には、貨幣や価格(市場価格)、給与、(金銭的な)収益、賃料、金利、債権債務、オプションをはじめとしたデリバティブ(金融派生商品)等々がそれにあたる。「市場値付け」型の人と人との関係では記号としての数字や数学的な演算(計算)、デジタル化された会計や伝票、そして契約書(契約書に記載された文字)がコミュニケーションのメディアの役割を担うことになる。その他の3つの類型とは異なり、「市場値付け」型の関係はどんなところでも観察されるありふれた形態だとはとても言えない。文字(書き言葉)が無かったり3までの数でやり繰りしているような(数の概念がそれほど発達していない)文化圏では「市場値付け」の初歩的な形態でさえ手に負えないのだ。さらには、市場の論理(ロジック)は人間の認知機能に照らして不自然なところがあってその違和感は拭いきれないところがある。その証拠にと言うべきか、世界中のいたるところで次のような主張に出くわすものだ。曰く、(モノの価格はその時々にそれを手に入れるために買い手(の候補)がどれだけお金を支払う気があるかによって左右されるわけでなく)「どんなモノにもそれ自体に内在する常に変わらぬ『公正価格』(just price)が備わっている」。曰く、(売り手と買い手の間に入って仲立ちをする仲介業者は消費者たちが遠くの地にあるあれやこれやの品物を容易く入手できるよう図るというれっきとしたサービスを提供しているにもかかわらず)「仲介業者は寄生虫のような存在だ」。曰く、(同じ1円(同額のお金)であっても「今の1円」と「将来のある時点(例えば1年後)の1円」とでは価値が違うにもかかわらず)「お金を貸して(元本に加えて)金利の返済を要求するとは不道徳極まりない行為だ」〔このあたりの話について詳しくはトーマス・ソウェルの『Knowledge and Decisions』を参照のこと〕。しかしながら、かような一連の謬見は(公正な交換が実現されるのは同量のモノが互いに交換し合われた場合に限られると見なされる)「互酬的な交換」を支える心性とは相性がいい。顔と顔を突き合わせて贈与と返礼の応酬が繰り返される「互酬的な交換」を支える心性は市場経済に特有の複雑な装置(仕組み)――見ず知らずの膨大な数の人々の間で時空を超えて財やサービスのやり取り(交換)を可能にする装置(仕組み)――の取り扱いには不向きなのだ。

私なりの意見を言わせてもらえば、「市場値付け」は人間本性の管轄外にあるように思える。人間の思考にしても感情にしても「市場値付け」型の関係におあつらえ向きなようにはできていない(時とともに自然とそのような方向に発達を遂げてきてはいない)ように思えるのだ。

ジェームズ・ハミルトン 「小人閑居して不善を為す ~バイオレンス映画の(短期的な)犯罪『抑止』効果~」(2007年5月1日)

●James Hamilton, “Idle hands are the devil’s workshop”(Econbrowser, May 1, 2007)


カリフォルニア大学サンディエゴ校教授であり私の同僚でもあるゴードン・ダール(Gordon Dahl)とカリフォルニア大学バークレー校教授のステファノ・デラヴィーニャ(Stefano DellaVigna)の二人が共著で興味深い論文を物している。題して“Does Movie Violence Increase Violent Crime?(pdf)”(「バイオレンス映画は暴力犯罪を誘発するか?」)。

まずはじめにダールとデラヴィーニャの二人はアメリカで封切られたバイオレンス映画の観客動員数の推移に目を付け、その数が週ごとに大幅な変動を見せていることを確認した。二人の論文から拝借した以下のグラフをご覧いただきたいが、ここ最近の傾向としてブロックバスター映画(超大作映画)の最新作が封切られた週(公開第一週目)にはかなりの数の観客が映画館に足を運んでいることがわかる。

さらに二人はアメリカ国内における暴力犯罪(暴行罪と脅迫罪)の発生件数の推移に目を付け、この数もまた週ごとに大幅な変動を見せていることを確認する。もしかして・・・。ダールとデラヴィーニャの二人はピンと来た。両者(バイオレンス映画の観客動員数と暴力犯罪の発生件数)の間には相関があるのではないか、と。念のために確かめてみるとやはり両者の間には相関が確認されたが、おそらくその詳細は誰もが予想だにしないものであるに違いない。バイオレンス映画を観るために映画館に集まった人の数(観客動員数)が多い日ほど暴力犯罪の発生件数は――観客たちが映画館に滞在している可能性のある時間帯(午後6時から深夜12時までの間)においてだけではなくそれ以降から翌日の朝にかけての時間帯(深夜12時から午前6時までの間)においても――「少ない」傾向にあることが見出されたのだ。以上の関係は映画会社によるブロックバスター映画の公開予定日の決定に影響を及ぼすような一連の季節要因(その一連の季節要因は映画のバイオレンス度とは別の理由で暴力犯罪の発生件数と何らかの関係を持つと思われる要因)をコントロールした後も変わらず確認されるようだ。さらには、暴力犯罪を抑制する上で一番大きな効果を備えていると思われるのは最高度のバイオレンス度を誇る映画(kids-in-mind.comでの評価で8~10のバイオレンス度1と判定されている映画)ということのようだ。

ダールとデラヴィーニャの二人も件の論文の中で触れていることだが、従来の膨大な先行研究(実験結果)では正反対の(そして一見すると自然に思える)結論――暴力的なシーンの視聴は暴力行為を誘発する可能性あり――が導き出されている。しかしながら、ダールとデラヴィーニャの二人は怯むことなくこう指摘する。従来の研究では見逃されている要因がある。それは隔離(閉じ込め)効果だ、と。つまりは、映画館にいる間(映画館でバイオレンス映画を観ている最中)は路上でたかりを働くことなどできやしないのだ。さらには、暴力行為を抑制する効果は映画館を出た後も続くかもしれない。映画を観て過ごしたおかげ(アルコールが売られていない映画館で時間を過ごしたおかげ)でそうでない場合よりもアルコールの摂取量が減り、そのためにアルコールが原因で他人とトラブルを起こす危険性が抑えられる可能性があるからだ。映画の内容が暴力的であればあるほど、暴力行為に手を染めるおそれのある(気性の荒い)者たちが路上を離れて(バイオレンス映画を観るために)映画館に足を運ぶ可能性も高まる。ダールとデラヴィーニャの二人はそう理屈付けている。

ハリウッドには映画の中に血しぶきが飛び散るシーンをこれまで以上にドシドシ盛り込んでもらいたいものだ。・・・なんて結論を引き出したいわけではない。そうではなく、建設的な活動の機会を確保して暴力行為に手を染めるおそれのある若者たちをそこへドシドシ引き込むべしと言いたいのだ。そうすれば公共の利益に大いに適う可能性があるのだ。

  1. 訳注;0から10までの値をとり、数値が大きいほどバイオレンス度も高い。 []

タイラー・コーエン 「『ワックスかける! ワックスとる!』 ~曖昧さの効用~」(2013年3月19日)

●Tyler Cowen, “Why a coach should be ambiguous”(Marginal Revolution, March 19, 2013)


Jeffのブログより。

映画『ベスト・キッド』でのミヤギ先生の空手の指導法を覚えているだろうか? 「ワックスかける! ワックスとる!」。「次は塀のペンキ塗り。アップ。ダウン。アップ。ダウン」。「鼻から息を吸って口から吐く。呼吸を忘れてはいけない」。ミヤギ先生のお言葉だ。

指導者の指導者たるゆえんは教え子の成長を後押しするために何を教える必要があるかをとくと心得ているところにある。しかし、ここに一つの大問題がある。教え子の中でも早熟タイプの子弟もまた自分が何を教わる必要があるかをわかっていると(才能があるがゆえに当然のごとく)思っているのだ。

仮にミヤギ先生が弟子のダニエル少年に具体的で事細かな練習メニューを組んで空手を教えていたとしたら――「まずは(空手の基本となる)この手の動作を何度も何度も繰り返しなさい」といったように――ダニエル少年はすぐに異を唱えて「これ以外の動作も教えてください。早く次のステップに進んでください」と迫ったことだろう。ミヤギ先生が曖昧なアドバイスに終始したのは(具体的で事細かな練習メニューを組んでいたら避けられなかったであろう)ダニエル少年との悶着を避けるためだったのだ。

天性の才能に恵まれたアーティストの卵も基礎を学ぶ必要がある。しかしながら、基礎を学ぶのにどれだけの時間を費やすべきかをめぐって先生との間で意見が食い違うかもしれない。「これやっといて」といきなり何の説明もなしに課題を出せば教え子(であるそのアーティストの卵)は先生をどう評価しているかに応じてその言いつけに従うかどうかを決めることだろう1。その一方で、「基礎を一つずつ着実に学んでいかなければいけません。まずはこちらの基礎からはじめましょう。そのための課題がこれとこれです」と事細かな説明付きで課題を出せば教え子はその基礎の重要性を自分なりに判断し、その自己判断に応じて出された課題にどれだけ真剣に取り組むかを決めてしまうおそれがある。

  1. 訳注;「この先生は優れた指導者であり、どう指導するのが最善かをわきまえているに違いない」と高く評価している(一目置いている)のであれば言いつけに忠実に従い、「この先生は指導者として大したことない」と評価している(侮っている)のであれば言いつけに耳を貸さない(あるいは手を抜いて課題をこなす)。 []

タイラー・コーエン 「刑事モノの映画やドラマにまつわる謎 ~定年間際のベテラン刑事役が頻繁に出てくるのはなぜ?~」(2010年3月20日)

●Tyler Cowen, “Questions that are rarely asked: why so many retired cops?”(Marginal Revolution, March 20, 2010)


本ブログの熱心な読者の一人であるJIm Crozierから次のような質問を頂戴した。

刑事モノの映画やテレビドラマを観ているとオープニングのシーンで定年間際の年老いた(そして疲れ切った)警察官が登場することがよくありますが、それはなぜなのでしょうか? そういったとても現実的とは言えない技法があちこちで何度も繰り返し使われているというのはビックリです。観客(や視聴者)への訴求力(作品への感情移入を促す力)なんかも――あくまでそのような力があるとしてですが――微々たるものに過ぎないように思えるのですが。

それなりにきっちりとした証拠に裏付けられた回答ができるほど刑事モノの作品に通じているわけではないとあらかじめ断っておくが、おそらく答えらしきものは限界効用理論に行動経済学の知見を加味することで得られるのではないかと思う。おそらくその年老いた警察官は長い警察官人生を通じてずっと心に抱き続けてきた宿願――例えば、指名手配犯を捕まえるだとか極悪政治家を成敗するだとか腐敗しきった警察組織を改革するだとか――があるものの、それを果たせずにきてしまっているのであろう。その警察官の定年がすぐそこに迫っているのだとすれば、観客(視聴者)である我々はその警察官の生涯がいかなるものであったかを決定付けることになる劇的な瞬間(出来事)を目撃していると意識しながら作品を鑑賞することになる。これが定年まで例えばあと残り4年3ヶ月ということであれば(定年までしばらく時間の余裕があるとすれば)なかなかそうはいかないだろう。というのも、定年までそれだけの時間が残されているのであれば劇中の出来事(事件)で仮に下手を打ったとしても「最後の失敗」1を意味しはしないだろうからだ2

行動経済学の知見によると、我々が特定の出来事(過去の経験)から受ける印象であったりその出来事に関する記憶であったりはその出来事の終わり方がどうであったか(出来事の終局でどのように感じたか)によって左右されることが多いという3。例えば、ユーロビジョン・ソング・コンテストの審査員たちは(歌を披露する順番はランダムに決められているにもかかわらず)一番最後に歌を披露した歌手に一番高い点数を与えがち(一番好意的な印象を持ちがち)なことが知られている4。このことを踏まえると、映画(ドラマ)の観客(視聴者)たちは「あのベテラン刑事は警察官人生の締め括りがどうなるかを大いに気にかけているに違いない」と薄々感じながら作品を鑑賞することになる可能性があり、それに加えて先ほど触れた話(宿願を果たせずにいる定年間際の警察官にとって一回一回の出来事(事件)が持つ重みの大きさ)が付け加わることになるわけだ。

刑事モノの作品をよく観る読者がいれば是非ともお聞かせ願いたいのだが、他に何か適当な説明はないだろうか?

  1. 訳注;「最後の失敗」=「宿願」を果たせないままでの警察官人生の終わり。 []
  2. 訳注;言い換えれば、定年までに残されている時間の長さによって「一回の失敗」が持つ重みの大きさが違う、ということ。定年が近い警察官ほど「宿願」を果たすために残されている時間の余裕がなく、一回一回の出来事(事件)の持つ重みも大きくなる。そして劇中の警察官にとって一回一回の出来事(事件)の持つ重みが大きいほど映画(ドラマ)の観客(視聴者)の側が劇中の一回一回の出来事(事件)を目撃することから得られる興奮(限界効用)も大きくなる可能性がある。 []
  3. 訳注;いわゆる「ピーク・エンドの法則」 []
  4. 訳注;この点については次の論文を参照。 ●Wändi Bruine de Bruin, “Save the last dance for me: unwanted serial position effects in jury evaluations”(Acta Psychologica, Vol.118(3), March 2005, pp.245-260) []

タイラー・コーエン 「吸血鬼を題材にした本や映画が人気なのはなぜ?」(2009年11月13日)

●Tyler Cowen, “Why do vampires attract so many readers and viewers?”(Marginal Revolution, November 13, 2009)


こちらのワシントン・ポスト紙の記事で吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由が探られているが、思春期から大人への移行期にある若者特有の心情が関係しているのではないかとの可能性が指摘されている。女性たちのゲイの男性に対する興味が関係していると語る記事もどこかで読んだ覚えがある(誰かその記事を御存知じゃないだろうか?1)。

吸血鬼は「私の趣味」とは言えないが、好きな作品もあるにはある。例えば、アン・ライスの初期の作品だとか『事件記者コルチャック』だとかヴェルナー・ヘルツォークが脚本・監督を担当した『ノスフェラトゥ』だとかだ。コッポラが監督を務めた『ドラキュラ』なんかは世の評論家たちの評価よりも出来がいいと感じたものだ。その一方で、『トワイライト』は最初の5ページくらいで脱落してしまった(『トゥルーブラッド』はチェックしておくべきだろうか?)。

吸血鬼を題材にした本や映画の魅力はどこにあるのだろうか? 個人的に思いつくところをいくつか列挙してみよう。

1. ストーリーが始まる前から大どんでん返しが待ち構えているに違いないとあらかじめ予想できる。物思いに沈みがちで口を開くと延々と語り続ける吸血鬼。これといった波風も立たずにコーヒーショップだとかでダラダラと時を過ごす吸血鬼の姿を映したまま曖昧なエンディングを迎える。そんな映画を作ろうと思い立つ制作陣なんて滅多にいないだろう。吸血鬼が登場するストーリーには「死」が付き物なのだ。

2. あの人物は見た目とは違って意外な顔を隠し持っているかもしれない。そんな話に人はつい惹かれてしまうものだ。吸血鬼を題材にした作品ではどの登場人物が吸血鬼なのかを探して見つけ出すのがストーリーの展開上重要な役割を担っていることが多い。そのことにばかり注目が行き過ぎている場合も時としてあるくらいだ。

3. 吸血鬼物の作品は「純粋で限り無き(果てしなき)欲望」2といったテーマを滑稽にならずに追い求めることを可能とする舞台を用意してくれる。同じテーマを現実に近い設定で追求しようとしたら滑稽な見た目になってしまう危険性がある(例えば、レーズン入りのチーズに目が無い男の物語を想像してみればいい)。

4. 吸血鬼は女性に「つれない」態度で応じるものだが、そのように振る舞う吸血鬼は旧世界の騎士道の理想を(一時的であるとは言え3)立派に(?)実践していることになる。観客たちは吸血鬼のそんなやり口も遠巻きに眺めて素直に楽しむことができる。というのも、吸血鬼は我々とは別の生き物だからだ4

5. 男性はデート用の映画として吸血鬼物の映画を好む面もあるかもしれない。その理由は・・・その何というか・・・プライミング効果を期待してだ。映画がデート相手の感情5を大いに高ぶらせる可能性をあてにしてというわけだ。それと似た話だが、女性はデート相手の男性が残虐なストーリーにどう反応するかを「テスト」しようと思っているかもしれない。その男性がどれだけ頼りがいがあるかを試そうとしているわけだ(反対に男性の方ではデート相手のか弱さを試そうとしているわけだ)6

6. 吸血鬼は世間からの冷たい目など物ともしないかのようだが、10代の若者の多くは吸血鬼のそのようなところに憧れを感じる面があるのであろう。

7. 吸血鬼物の人気の高さのいくらかは吸血鬼というテーマの内容それ自体とは無関係な可能性もある。あるテーマが何かのきっかけで一旦流行り出したらそのテーマに耳目が一気に集まることがあるものだ。最近ヘヴィメタルが大流行なのも同じくそのためなのかもしれない。

8. 映画の観客(本であれば読者)は吸血鬼のことについて予備知識を持っていて吸血鬼の弱点もわきまえているが、作品の中で吸血鬼と戦っている登場人物たちはそうではない。吸血鬼に立ち向かう登場人物たちは物語の設定上社会的地位が高いことが多いが、観客(ないしは読者)はそのような登場人物たちよりも(吸血鬼のことについて詳しいという意味で)賢くて優れているかのような感覚を味わうことができるわけだ。

9. 吸血鬼を題材にした歌や絵画で人気がある作品というのはほとんど見当たらない。ということは、吸血鬼物の人気は「物語としての側面」が重要な役割を果たしていると言えそうだ。

(吸血鬼を題材にしたフィクションが人気な理由についての)少しばかり突飛な回答はこちらを参照されたい。

  1. 訳注;おそらく次の記事がそれ。 ●Stephen Marche, “What’s Really Going on With All These Vampires?”(Esquire, October 13, 2009) []
  2. 訳注;生き血に対する飽くなき欲望 []
  3. 訳注;女性の首筋に噛み付いて生き血を吸うことに成功するまでの間、という意味。 []
  4. 訳注;吸血鬼は「つれない」素振りをして女性の気を引こうとしているが、吸血鬼ではなくて現実にいそうな登場人物がそのやり口を使っていたら(何だか逆に見え透いた感じがしたりして)素直には楽しめない、といったことがおそらく言いたいものと思われる。 []
  5. 訳注;恋愛感情ないしは性欲 []
  6. 訳注;この点については本サイトで訳出されている次の記事も参照のこと。 ●アレックス・タバロック 「ホラー映画に関する『イチャイチャ理論』」(2017年6月22日) []

アレックス・タバロック 「ホラー映画に関する『イチャイチャ理論』」(2011年10月31日)

●Alex Tabarrok, “The Snuggle Theory of Horror”(Marginal Revolution, October 31, 2011)


ホラー物(のフィクション)に関する心理学の先行研究を概観した記事の一部を引用しておこう。

ホラー映画への興味と年齢との関係に関して言うと、幼年期から成長するにつれてホラー映画を楽しいと思える感情が高まっていき、その感情は思春期でピークに達して以降は年を重ねるとともに徐々に薄れていく(ホラー映画を楽しめなくなっていく)との可能性が示唆されている。このことと関わりがあるのがいわゆる(ホラー映画に関する)「イチャイチャ理論」(‘snuggle theory’)と呼ばれているものである。「イチャイチャ理論」によると、ホラー映画の鑑賞は若者たちにとって通過儀礼の一つとなっている可能性があり、若い男女が社会における伝統的な性的役割(ジェンダー・ロール)を演じる機会を提供しているというのだ。ドルフ・ジルマン(Dolf Zillmann)やノルベルト・ムンドルフ(Norbert Mundorf)らが1980年代後半に発表した共著論文では男女の大学生を対象にそれぞれ異性とペアになって『13日の金曜日PART3』のワンシーンを14分間にわたって鑑賞してもらった上でその感想が尋ねられている。その結果によると、男子大学生はペアになった女子(男子大学生には知らされていないが、実は研究助手)が映像の鑑賞中にびくびく怖がっている場合にはそうでない場合よりも映像を2倍近く楽しめたと答える傾向にあった一方で、女子大学生はペアになった男子が映像の鑑賞中に冷静で動じた様子がないように見えるとそうでない場合よりも映像を楽しく観れたと答える傾向にあった。この研究ではペアとなった相手の印象が映像を観る前の段階で問われてもいるが、映像を一緒に観る前の段階では女子から魅力的ではないと判断されていた男子であっても『13日の金曜日』の映像を物怖じせずに見通した場合には相手の女子からの評価が高まる傾向にあったことも見出されている。「ホラー映画やモンスターは女子が悲鳴を上げながらデート相手の男子に必死になってしがみつく絶好のチャンスを提供しているとともに、男子が女子を安心させて守り庇護する――必要とあらばモンスターを打ち倒す――絶好のチャンスを与えてもいるわけです」。フィシュホフはそう語る。「男子も女子もどちらとも(ホラー映画を鑑賞しながら)文化の中に埋め込まれている性的役割を演じているわけです」。

アレックス・タバロック 「ゾンビ襲来の数理モデル」(2009年8月16日)・「ゾンビ経済学」(2013年3月9日)/タイラー・コーエン 「『アンデッドの経済学』」(2014年7月10日)

●Alex Tabarrok, “Mathematics of a Zombie Attack”(Marginal Revolution, August 16, 2009)


今回紹介するのは『Infectious Disease Modelling Research Progress』に収録されている論文(pdf)だ。アブストラクトを以下に引用しておこう。

ゾンビはポップカルチャーやエンターテインメントの世界で人気のキャラクターの一つである。死者が何らかの原因で突如ゾンビとして蘇り、生きている人間を次々と襲っていく。そしてゾンビに襲われた(噛まれた)人間もまたゾンビとなって新たな獲物を追い求めていく。世にある娯楽作品の中ではそのように描かれることが多い。本論文ではポピュラー映画に登場するゾンビの特徴を踏まえた上で「ゾンビ襲来」の数理モデルを組み立てる。まずはじめにゾンビ感染に関する基本となるモデルを構築し、モデルの均衡を求めると同時に均衡の安定性を検証する。さらには、数値シミュレーションも行う。次に基本となるモデルに修正を加え、人間がゾンビ化するまでには一定の潜伏期間を要する――ゾンビに襲われた(ゾンビウイルスに感染した)人間はすぐにゾンビになるのではなく一定の潜伏期間を経た後にゾンビ化する――との前提を置くことにする。その上でゾンビ(やゾンビウイルスに感染したもののまだゾンビになりきれていない人間)の「隔離」やゾンビウイルスに効く「治療薬」(ゾンビ化した人間が再び普通の人間に戻ることを可能とする治療薬)の効果を調べる。そして最後に定期的に「掃討作戦」を繰り返してゾンビの殺傷を試みた場合の効果を検証し、ゾンビの根絶が可能となる条件を求める。早い段階から積極果敢な掃討作戦に打って出る以外に「世界の終焉」シナリオ――ゾンビの襲来によって生きている人間が一人残らずゾンビとなり、文明が崩壊へと向かうシナリオ――を避けられる方法はない。本論文のモデルからはそのような結論が得られることになる。

この話題はBoing BoingサイトでCory Doctorowが紹介していたのを見て知ったものだ1。感謝する次第。
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●Alex Tabarrok, “Zombie Economics”(Marginal Revolution, March 9, 2013)


「ゾンビ経済学」とは言っても「セイの法則」だとかを槍玉に挙げているわけじゃない2。文字通り「ゾンビの経済学」――正真正銘のゾンビを対象とした経済学――だ。グレン・ホイットマン(Glen Whitman)とジェームズ・ダウ(James Dow)の二人が「『アンデッド』(特にゾンビと吸血鬼)の経済学」をテーマとする本の編集を進めているらしい。ロウマン&リトルフィールド出版社から出版予定とのことだ。

経済学の発想を使って「アンデッド」に関わる問題に切り込んだり、「アンデッド」を題材として経済学の方法論を問い直す。本書への寄稿をお考えの方々にはそのような姿勢で筆を進めていただきたいところだ。論文のアブストラクト(要旨)にしても本文にしても一般の読者でも近づきやすくて興味を惹かれるようなスタイルでまとめ上げていただきたい。さらには、ポップカルチャーの分野における「アンデッド」の例――例えば、『トワイライト』シリーズや『バフィー ~恋する十字架~』、アン・ライスの一連の小説、『ワールド・ウォーZ』、ジョージ・ロメロ監督の作品の数々、『トゥルーブラッド』、『ウォーキング・デッド』等々――を引き合いに出しながら論を進めていってもらいたいところだ。

考え得るトピックの例を挙げておくと、「血市場」における需要と供給、「ゾンビ労働市場」の振る舞い、「アンデッド」の脅威への対応策に絡む政治経済学的な問題、ゾンビの襲来によって荒廃した経済の復興にまつわる問題、ゾンビや吸血鬼の行動が合理的選択理論に投げかける示唆等々ということになるだろう。

ただ今論文のアブストラクトの投稿を募集している最中とのことだが、詳しい投稿規定はこちらをご覧になられたい。

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●Tyler Cowen, “*Economics of the Undead* (arrived in my pile)”(Marginal Revolution, July 10, 2014)


『アンデッドの経済学』と題する本が出版された。編者はジェームズ・ダウとグレン・ホイットマンの二人。副題は「ゾンビ、吸血鬼、陰鬱な科学」だ。執筆陣にはスティーブン・ホーウィッツ(Steven Horwitz)サラ・スウワイア(Sarah Skwire)イリヤ・ソミン(Ilya Somin)ホリス・ロビンズ(Hollis Robbins)らが名を連ねている。

  1. 訳注;この論文の内容を日本語で詳しく解説したものとしては例えば次のブログエントリーを参照のこと。 ●“感染症モデルに基づくゾンビ大量発生時の危機管理指針”(A Successful Failure, 2009年8月29日) []
  2. 訳注;「セイの法則」だとかを槍玉に挙げている「ゾンビ経済学」はこちら。 []

タイラー・コーエン 「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」(2005年11月20日)

●Tyler Cowen, “Why are UFO reports declining?”(Marginal Revolution, November 20, 2005)


UFOを発見したりその正体を理解する助けとなる(インターネットや電子機器、モバイル端末といった)テクノロジーが劇的な進歩を遂げてきているわけだが、それと時を同じくしてUFOの目撃例は先細り傾向を辿っている。宇宙人に誘拐されたと告白する人物が登場してから40年以上が経過しているわけだが、神秘に包まれた異星人の手によって不運な地球人の体に汚らわしい人体実験が施されたことを裏付ける物的な証拠はどういうわけだかこれまでに一つとして見つかっていない。アメリカ国内で売られているパソコンにはどれをとっても精密な画像解析を可能とするソフトが内蔵されるようになってきているわけだが、奇妙なことにと言うべきか、それとともにUFOの姿を捉えた写真はレアな(もの珍しい)存在となってきている。超常現象に出くわしたとなれば携帯電話やインスタントメッセージで大勢の仲間を呼び出して皆で一緒にその奇妙な現象を体験することも可能なわけだが、どうやらこの頃は超常現象はそう頻繁には起こっていないようだ。超常現象が起こってくれれば宇宙人はUFOの存在を信じて疑わない者たちの間で「空想の友人」の役目を立派に務めてくれるはずなのだが1。(テクノロジーの進歩のおかげで)UFOの姿をはっきりと捉える能力が高まるのに伴ってUFOが我々の前からその姿をくらますとは何とも奇妙な話ではないか! ・・・大して奇妙なことでもないという意見もあるかもしれないが2

全文はこちら3。テクノロジーの進歩に伴ってUFOの目撃例が減ってきているからといって人々が昔に比べると幻想に取り付かれにくくなってきているかというとどうだろうか? 個人的には懐疑的なところだ。それよりはむしろ、UFOにまつわる幻想4だとかの代わりにその間違いがそう簡単には露呈しないような幻想――例えば、未来に関するする幻想(例えば、トランスヒューマニズムの極端なバージョン)だったり、政治にまつわる幻想だったり、宗教にまつわる幻想だったり――へと思い込みの対象が移っているに過ぎないのではないかというのが私の意見だ。人は自己欺瞞の強力な衝動5に常に駆られており、真実を追い求めようとする欲求(自分が信じている考えの真偽のほどを確かめようとする欲求)が自己欺瞞の衝動に打ち勝てるとは限らない。真偽の怪しい考えを追い払うのは決して楽な戦いではないのだ。それに加えて、真偽が怪しい考えの論駁に必死になり過ぎてかえって逆効果になってしまう場合というのも時としてある6。例えば、UFOにまつわる幻想には馬鹿げたところがあることはその通りだが、これまでを振り返るとUFOにまつわる幻想は数ある幻想の中でも比較的害の無いものだったと言えるだろう。UFOにまつわる幻想のおかげで政府(国家権力)に対して疑いの目が向けられることにもなったし7、SF映画にお客が集まることにもなった。「宇宙人は実在する!」という幻想が公共政策に及ぼす影響(例えば、宇宙人担当大使のポストを新設するとか?)に目を向けてもこれまでのところは財政規律の悪化(財政赤字の拡大)に手を貸すということも無かったのだ。

  1. 訳注;「この異常な現象を引き起こしている犯人は宇宙人に違いない」、といったように。 []
  2. 訳注;仮にUFOは実在している(そして地球にやって来ている)のだとするとUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは奇妙な話ではあるが、実在などしていない(UFOは捏造に過ぎない)とすると奇妙でもなんでもないという話になる。ちなみに、アレックス・タバロックはUFOの姿を捉えることが容易になっているのにもかかわらず目撃例が減っているのは「地球人の間でカメラ付き携帯(をはじめとしたモバイル端末)が普及していることが宇宙人にも知られるところとなったからだ」(その結果、宇宙人たちはカメラ付き携帯で撮影されないように慎重に行動するようになったからだ)と(冗談めかして)語っている。 []
  3. 訳注;上の引用箇所だけだとわかりにくいかもしれないので念のために注記しておくと、「UFOの目撃例が減ってきているのはなぜ?」という問いに対するここでの答えは「テクノロジーの進歩に伴って嘘がつきにくくなった(でっち上げやごまかしが見破られやすくなった)ため」(UFOの捏造が難しくなったため)ということになる。例えば、インターネットで検索すれば、UFOの姿を捉えたと称する写真や映像のごまかしを事細かに検証したり、宇宙人と遭遇したと語るエピソードに論駁を加えたりしている情報に容易にアクセスできる。 []
  4. 訳注;「UFO(ないしは宇宙人)は実在していて地球にやって来ている!」と本気で信じ込むこと。 []
  5. 訳注;自己欺瞞の誘惑=真偽のほどは怪しくても自分にとって心地いい考えを(自分を欺いてでも)信じ込もうとする欲求、といったくらいの意味。 []
  6. 訳注;言い換えると、真偽が怪しい幻想も時として有益な効果を発揮することがある(その幻想が完膚なきまでに論駁されて誰にも見向きもされなくなるとそれと同時にその幻想に伴う有益な効果も失われることになる)、ということ。以下にその例としてUFOにまつわる幻想に伴う有益な効果が語られている。 []
  7. 訳注;「政府はUFO(ないしは宇宙人)の存在を裏付ける証拠を握っているにもかかわらずそれを隠しているに違いない。そんな政府は信用ならない」といったようなかたちで政府に対して疑いの目が向けられるようになり、その結果として政府の行動を厳しく監視する姿勢が養われるようになった、というようなことが言いたいのであろう。 []