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アレックス・タバロック 「ミツバチが『失業』した先に待っているのは?」(2016年2月15日)

●Alex Tabarrok, “The Sharks Get Stung”(Marginal Revolution, February 15, 2016)1


金曜日にテレビで『Shark Tank』(大成功を収めた百戦錬磨の社長たち(「シャーク(鮫)」)が番組に応募してきた出場者のプレゼンを聞いて「これは!」と思った相手に出資する番組)を視ていたらミネソタ出身の二人の麗しい女性が「Bee Free Honee」なる商品(リンゴから作られたはちみつ)を売り込んでいた。安くてベジタリアンの希望にも沿うはちみつ。いいアイデアじゃないだろうか? そうかもしれない。しかしながら、その二人の女性のプレゼン中に納得しかねる発言があった。「私たちの商品はミツバチを救うことにもなるのです」というのだ。リンゴから作られたはちみつのおかげで従来のはちみつに対する需要が減れば養蜂家もミツバチを酷使するのをやめるでしょうし、そうなればミツバチの数も増えるでしょう。そう主張していたのだ。bee-jop

「シャーク」の一人であるケヴィン・オーレアリー(Kevin O’Leary)が本領を発揮して件の二人の女性が語る「誤謬」をけちょんけちょんに叩くに違いない。そう思っていた。あるいは別の「シャーク」であるマーク・キューバン(Mark Cuban)が「常識」っぽく聞こえる話を口にする面前の二人の女性をやり込めるに違いない。そう思っていた。しかし、どちらも当てが外れた。「シャーク」たちはこぞってこの「血迷った」商品に舌なめずりして食いついたのだ。というわけで、私にお鉢が回ってきたというわけだ。

従来のはちみつに対する需要が減ればミツバチに対する需要も減る。従来のはちみつに取って代わる安くて高品質の代用品(リンゴから作られたはちみつ)の出現はミツバチたちが花粉媒介者(ポリネーター)として優雅に自然の中を飛び交うのどかな世界の誕生を意味しはしない。待っているのは「ミツバチの絶滅」(beepocalypse)なのだ。「Bee free honee」がミツバチを「救う」ことになるとすれば、それは内燃機関が馬を「救った」のと同じ意味で「救う」ことになるに違いない。

(追記)蜂群崩壊症候群(CCD)のことが気になっている人がいるかもしれないが、誰よりも気になっているのが他でもない養蜂家たちだ。養蜂家たちはCCDにうまいこと対処しているようでミツバチによるはちみつの生産にしても「送粉サービス」の提供にしてもどうにか持ちこたえているようだ。そればかりか、アメリカ国内におけるミツバチのコロニー(群)の数は過去20年間で今が一番多いらしいのだ(最新のデータはこちら)。CCDはまだ完全に解決されたとは言えないが、従来のはちみつとミツバチによる「送粉サービス」に対する需要こそがCCDの解決策を探る(養蜂家の)インセンティブを支えているのだ。覚えておいてもらいたい。従来のはちみつなんて要らないなんてことになれば、ミツバチの受け皿となってくれるのは「私の趣味ですか? クローゼットの中でミツバチを飼うことです」と語る人間くらいしかいないのだ。

(追々記)件の二人の女性は(デレク・パーフィットが語るところの)「いとわしき結論」(repugnant conclusion)に対する洗練された一つの立場を表明しようという・・・、いや、それはおそらくないだろう。

今回の記事を書くきっかけをくれたMaxに感謝。

  1. 訳注;原エントリーのタイトルを訳すと「まんまと騙されたシャークたち」となるだろう。おそらく「ハチに刺された」(get stung by a bee)という意味も込められているものと思われる。 []

タイラー・コーエン 「失業中の象 ~象の失業率は40%!?~」(2016年1月31日)

●Tyler Cowen, “Hysteresis for legally protected ZMP elephants in Myanmar”(Marginal Revolution, January 31, 2016)


「失業の問題は本当に厄介ですね。一体どうすりゃいいんだか」。そう語るのはウー・ソオ・タ・ペイニョ氏。ペイニョ氏が所有する6頭の象は過去2年にわたって仕事がない状態が続いているという。「木が少なくなってるもんですから伐木の仕事もないんです」。

ミャンマーを代表する「象専門家」であるダウ・カイン・ウー・マー氏が語るところによると、今現在失業中の象の数は全部で2500頭に上るのではないかと推計されており、その多くは(タイ国境から2時間半のところにある)ミャンマー東部にあるジャングルを主戦場とする象だという。失業率に換算するとおよそ40%。ちなみに、ミャンマー国内の(人間の)失業率はおよそ4%だ。

カイン・ウー・マー氏は語る。「象たち自身もその多くは何をすればいいのか途方に暮れてる状態ですね。象の持ち主にもかなりの負担がかかっています。象を養うのにはお金がかかりますからね」。

大人の象の体重はおよそ1万ポンド(およそ4500キログラム)にも上り、一日に食べる餌の量は400ポンド(およそ180キログラム)にもなるという話だ。象の主な仕事にはサーカスへの出演や伐木があるが、その他の仕事となると選択肢は限られているという。

伐木の仕事はきつくて大変だが、ミャンマーの象が比較的健康な体を維持できている理由の一つは伐木仕事(重労働)のおかげでもあるのではないかと語る「象専門家」もいる。2008年に実施された調査によると、ミャンマーで伐木に従事している象――「よく働きよく遊ぶ」を日々実践している象――はヨーロッパの動物園にいる象と比べて2倍近く長生きする傾向にあるとの結果が報告されている。ヨーロッパの動物園にいる象の寿命の中央値(メディアン)は19歳1。その一方で、ミャンマーで伐木に従事している象の寿命の中央値(メディアン)は42歳2だというのだ。

全文はこちらだ(このニューヨーク・タイムズ紙の記事はMichelle DawsonおよびOtis Reid経由で知ったもの)。ミャンマーの象は労働法で厳重に守られてもいるらしい。

ミャンマーの歴代の軍事政権はイギリスに統治されていた時代に作られた規則ずくめの労働法を象にも適用し続けてきた。週5日8時間労働(1日の法定労働時間8時間、週休2日制)に定年55歳、産休の義務付け、夏季休暇、そして適切な健康管理。さらには、政府が運営する象のためのマタニティキャンプ(妊娠中の象を一同に集めたキャンプ)に定年退職した象のためのコミュニティまで揃っている。軍事政権による独裁が続いていた間は(人間向けの)基本的な社会保障の仕組みも未整備なままだったわけだが、その間も象向けの労働法は厳重に遵守されていたのだ。

はじめから終わりまで全編を通じて興味深い話題が目白押しだ。ところで、ふとこんな疑問が頭をよぎる。象に対する労働法の適用が緩められたとしたら象の「自然失業率」は一体どのくらいになるんだろうか?

  1. 訳注;19年生きる []
  2. 訳注;42年生きる []

アレックス・タバロック 「人間以外の動物(アニマル)も『アニマルスピリッツ』を持ち合わせているか?」(2010年1月29日)

●Alex Tabarrok, “Do Animals have Animal Spirits?”(Marginal Revolution, January 29, 2010)


自然界で「実物的景気循環」(リアルビジネスサイクル)が起きる様を想像するのはいとも容易いことだ。例えば、色んな生き物がウヨウヨとたむろしている池を思い浮かべて欲しい。ある時のことだ。池に浮かぶスイレンが寄生虫の魔の手にかかりすべて枯れてしまった。困ったのはカエルたちだ。ハエを捕まえようにも大事な足場(スイレン)が無くなってしまって捕まえようがないのだ。おかげでハエたちはわが世の春を謳歌することになるが、カエルたちはやせ細る一方。(カエルを捕食する淡水魚の)ノーザンパイクもショボイ獲物しか見つからずに困り果てるばかり。・・・と、まあこんな感じだが、「池国」内総生態(GPB;Gross Pond Biota)の計測を試みてみたら「池経済」における「景気」循環を跡付けることも可能になることだろう。「池経済」内の異なる部門(カエル部門、ハエ部門等々)も別々に計測すれば、当初のショック(寄生虫の襲来)に対してそれぞれの部門がどう反応し、一方の部門(カエル部門)で生じた変化が他方の部門(ハエ部門)にどんな変化を巻き起こしたかを跡付けることも可能になるだろう。つまりは、当初のショックが「池経済」内に引き起こした連鎖反応を時系列順に辿ることも可能になるわけだ(何だかベクトル自己回帰(VAR)モデルを使った時系列分析みたいな話だ)。

「池経済」でケインジアン流の景気循環が起きる余地はあるだろうか? あるいはこう言い換えてもいい。「アニマルスピリッツ」が自然界での景気循環の原動力になる可能性はあるだろうか? 「実物的景気循環」なら想像しやすい。しかし、こっちのケース(ケインジアン流の景気循環)は・・・、う~む。(悲観的なムードが個体から個体へとたちどころに伝染するのに伴って)「流動性への逃避」だとか突然の「投資の冷え込み」だとかいった現象が起きるためには「お金」(貨幣)ないしはそれに似た何かが必要になるだろう。群集(同調、模倣)行動(herd behavior)が(ロジャー・ファーマーが説いているようなかたちの)「コーディネーションの失敗」型の景気循環を引き起こす余地はもしかしたらあるかもしれない。この点との関わりで興味深いことがある。あくまでも私が知っている範囲での話に過ぎないがと断っておくが、それぞれの個体が互いの行動を模倣し合う群集行動は集団全体にとって最適な振る舞いだというのが生物学の今のトレンド(流行)の立場のようなのだ。しかしながら、必ずしもそうとは限らないように思われるのだ1(単細胞生物の)粘菌も過酷な環境にさらされると自己組織化して群体となって振る舞うことが知られている(邦訳『創発-蟻・脳・都市・ソフトウェアの自己組織化ネットワーク』)が、そういった自己組織化のプロセスが外的なショックもなしに(あるいは外的なショックが些細なものに過ぎなくても)突然始まるなんてことは果たしてあり得るのだろうか? 自然界における景気循環を説明するモデルというのは果たして見つかるんだろうか? 「アニマルスピリッツ」を持ち合わせているのは人間だけなのだろうか? それは何だか違和感がある。どうやら生物学者と経済学者が助け合える余地がたくさんありそうだ。

  1. 訳注;群衆行動が「コーディネーションの失敗」へと誘い、その結果としてその生物種の「経済」が「悪い均衡」に嵌ってしまう可能性もあるのではないか、という意味。 []

マーク・ソーマ 「『アニマルスピリッツ』という語の来歴」(2009年3月15日)

●Mark Thoma, “Animal Spirits”(Economist’s View, March 15, 2009)


「アニマルスピリッツ」という語の来歴について少々。

・・・(略)・・・何よりも求められているのは「アニマルスピリッツ」が息を吹き返すことだ。そう語る変わり者がいる。その名はロバート・シラー(Robert Shiller)。シラーといえばノーベル経済学賞受賞者でもあるジョージ・アカロフ(George Akerlof)との共著本――『Animal Spirits』。気が滅入るほど長たらしい副題付き――が出版されたばかりだが、そんな彼が数週間前のニューヨーク・タイムズ紙に論説を寄稿している。・・・(略)・・・シラーは件の論説の中で次のように述べている。「ここ最近の経済論争の様子を眺めていると1930年代の大恐慌が引き合いに出されている例をよく見かけるが、そのような『大恐慌物語』への注目こそが目下の低迷を後押しする原因の一つとなっている。どういうことか? そのような『物語』が広く語られることで大恐慌が今後の先行きを占う参照基準となってしまい1、その結果としてジョン・メイナード・ケインズが『アニマルスピリッツ』と呼んだものに冷や水が浴びせられる格好となってしまっているのだ。『大恐慌物語』があちこちで語られるおかげで消費者の購買意欲や企業の(雇用の拡大や事業の拡大に向けた)攻めの姿勢を背後で支える『アニマルスピリッツ』が萎えてしまっているのだ。『大恐慌物語』は『自己成就的な予言』となる資格を備えているのだ」。

1936年に出版されたケインズの『一般理論』(“The General Theory of Employment, Interest and Money”)が「アニマルスピリッツ」という語を広める上で大きな役割を果たしたことは間違いない。ケインズが『一般理論』の中で述べているところによると、経済がたびたび動揺にさらされるのは・・・(略)・・・「投機」の結果であったり、あるいは次のような事実のためでもあるという。「企業による投資の決断は将来収益の期待値を事細かに計算した結果に基づくというよりは内から湧き上がってくる楽観論によって左右される面が強い。・・・(略)・・・人々が何か積極的なことをやろうと決心するに至るのは大抵の場合アニマルスピリッツ――何もしないでいるよりは何かやらなきゃと駆り立てる内から湧き上がってくる衝動――に突き動かされた結果としか言いようがないのであり、何かすることで得られると予想される(数値化された諸々の)便益に(これまた数値化された)確率を掛け合わせた加重平均(予想便益の期待値)を計算した結果なんかではないのだ」。

たった今引用したばかりの箇所ではアニマルスピリッツが人をして自信過剰にしてしまう傾向に警鐘が鳴らされているわけだが、別の箇所ではアニマルスピリッツの好ましい面(リスクテイクを促す面)に目が向けられている。「アニマルスピリッツが萎えるのに伴って内から湧き上がる楽観論が鳴りを潜めてしまい、予想便益の期待値の数字以外に何も頼れるものがない。そんなことになってしまえば事業も衰退しやがては死に絶えてしまうことだろう」。うん。個人的にはこっちの方が好きだ。

ケインズが経済学の世界で有名にした「アニマルスピリッツ」という語には実は長い歴史がある。バーソロミュー・トラヘロン(Bartholomew Traheron)が1543年に海外のとある外科医(イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴ)の著作を翻訳しているが、その中に次のような記述が見られる。「医学を専門とする者たちの教えによると、人間のスピリット(霊気)には3種類あるという。アニマルスピリット、ヴァイタルスピリット、ナチュラルスピリットである。アニマルスピリットは脳に宿る霊気であり、魂――ラテン語では「アニマ」(anima)――の第一の手先を務める霊気であることからアニマルという語が冠されている」2

・・・(中略)・・・

イギリスの作家たちは「アニマルスピリッツ」という語に備わっている躍動感を敏感に嗅ぎ取り、自らの小説の中にも熱意を込めて取り入れている。ダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』の中で次のように書いている。「(刑の執行直前に刑の取りやめが決まったことを知らされた罪人たちは)あまりに驚き、そのためにアニマルスピリッツ(動物精気)が心臓で足止めを食う(心臓の外にいつまでも流れ出ないままでいる)可能性があるからである」。ジェーン・オースティンも『高慢と偏見』の中で「アニマルスピリッツ」という語を使っているが、あふれんばかりの活力(ebullience)という意味を込めて次のように書いている。「彼女(リディア)はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる女性」。ベンジャミン・ディズレーリ(英国の元首相であり小説家としても活躍)も1844年に(『コイングスビー』の中で)オースティンと同じく「活力」という意味を込めて次のように書いている。「彼はアニマルスピリッツ(活力)に溢れる人物であり、愉楽に対する鋭い感覚の持ち主でもあった」。いい感じじゃないだろうか?

  1. 訳注;「この先に待っているのは大恐慌のように長くて厳しい不況なのではないか」との悲観的なムードを後押しする役割を果たし、という意味。 []
  2. 訳注;「アニマルスピリッツ」という語の来歴についてはアカロフ&シラー(著)/山形浩生(訳)『アニマルスピリット』でも簡潔に触れられている。その箇所を以下に引用させてもらうとしよう(注ページ pp. 24~25)。「(3)アニマルスピリットという用語は古代に生まれ、古代医師ガレノス(ca.130-ca.200)の著作が昔からその出所として引用され続けている。この用語は中世までは医学でふつうに使われており、Robert BurtonのThe Anatomy of Melancholy(1632)やRene DescartesのTraité de l’Homme(1972[1664], 邦訳『人間論』)まで続いている。スピリット(霊気)には3種類あるとされていた。心臓から生まれるとされる生命精気、肝臓から生まれる自然精気、脳から発する動物精気である。哲学者George Santayana(1955[1923], p.245)は「動物信念」の中心性をもとに哲学大系を構築したが、かれのいう動物信念とは「純粋で絶対的な精気、知覚不能な認知エネルギーであり、その本質は直感である」」。医学(ないしは生理学)の分野における「アニマルスピリット」論の盛衰の歴史についてはこちらのリンク(英語)も参考になるかもしれない。ちなみに、ケインズはデカルトないしはヒューム経由で「アニマルスピリッツ」という語を知ったのではないかという説が有力なようだ。そのあたりの詳しい話は例えば次の論文を参照のこと。 ●D. E. Moggridge(1992), “Correspondence: The Source of Animal Spirits”(Journal of Economic Perspectives, vol.6(3), pp.207-212) []

マーク・ソーマ 「『ゲームの審判』としての政府 ~『アニマルスピリッツ』と政府の役割~」(2009年4月25日)

●Mark Thoma, ““Good Government and Animal Spirits””(Economist’s View, April 25, 2009)


政府は「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えるべきだ。そうしてはじめて「アニマルスピリッツ」の創造性も最大限に発揮されることになる。そう語るのはアカロフ&シラーのタッグだ。

Good Government and Animal Spirits” by George A. Akerlof and Robert J. Shiller, Commentary, WSJ:

2008年の金融危機が我が国に残した何よりも重要な遺産は金融規制の質的な向上だった。後々振り返ってそう言えるように今のうちからそのための準備を始めておく必要がある。

・・・(中略)・・・

「アニマルスピリッツ」――経済活動の中心に位置する心理的および文化的な要因――の重要性がわかれば規制当局の役割を再び拡張する必要性があることに納得せざるを得なくなる。・・・(略)・・・(つい最近の出来事も含めた)歴史が示しているように、規制による抑えがないと「アニマルスピリッツ」は経済活動の行き過ぎに手を貸すに至るおそれがあるのだ。

・・・(中略)・・・

1980年代の終わり頃の時点ではアメリカの経済システムはどんな嵐に見舞われても難なく切り抜けられるだけの極めて丈夫な仕様になっていた。例えば、1980年代には貯蓄貸付組合の破綻が相次いだが(いわゆるS&L危機)、政府の働きのおかげもあってその影響をごく狭い範囲に閉じ込めておくことに成功した。納税者にはかなりの額のコストの負担が求められることになったものの、失業という名のコストは微々たるもので済んだのである。

時の移ろいに伴って経済の構造も徐々に変化を遂げ――そうなるのは世の常だ――、公的な規制の体系も従来のままでいいのかとそのあり方が問われることになった。・・・(略)・・・しかしながら、金融規制の体系には(住宅ローンの証券化をはじめとした)金融システムの構造変化に即応するように手が加えられることもなく、その結果として金融システムの奥深くにシステミックリスクの種がまかれることになったのである。

・・・(中略)・・・

金融規制の体系が時代の変化についていけなかった根本的な理由の一つに世間一般に蔓延る「規制への反感」がある。アメリカ国民は資本主義に対する新しい見方にどっぷりとのめり込んでいた。「資本主義というゲームは何でもアリのゲームだ」。そのような見方が国民の間で広がりを見せていたのである。1930年代に苦難の末に学び取られた教訓などすっかり忘れ去られてしまっていたのだ。資本主義は我々に実のある繁栄を届けてくれる可能性を秘めているが、それなりの舞台が整えられてはじめてその可能性も現実のものとなる。政府がルールを制定し、政府が審判として振る舞う。そのような舞台(競技場)が整えられないことには資本主義の潜在的な力も発揮されずに終わってしまうのだ。

「資本主義の危機」が叫ばれている昨今だが、そのような見方はあたっていない。今こそ認識し直さなければならないことがある。それは何かと言うと、資本主義には特定のルールが必要だということだ。・・・(略)・・・古典派経済学のパラダイムでは完全雇用が常態かもしれない。しかしながら、人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる現実の世界では、楽観から悲観へ、悲観から楽観へと世間のムードが波打つのに伴って総需要にも大幅な変動が生じることになる。労働者に支払われる(名目)賃金の額は「公平さ」への配慮も込みで決められるため、総需要の変動は賃金(ひいては物価)の変化ではなく雇用量の変化となって表れる傾向にある。総需要が落ち込むと失業が増えるわけだ。政府が果たすべき役割がここにある。政府は総需要の変動を和らげる役目を果たさねばならないのだ。

さらには、起業家たちや民間の企業は消費者(顧客)が心の底から欲しているモノだけを売っているわけではない。消費者たちが何となく欲しいかもしれないと思っているモノも売っており、いざふたを開けてみるとその「何となく欲しいかもしれないと思っていたモノ」は「蛇の油」(インチキ薬、ガラクタ)に過ぎなかったということは往々にしてあることだ。それが特に当てはまる場所というのが金融市場だ。・・・(略)・・・その背後で糸を引いているのが「物語」だ。人々が互いに交わし合う「物語」――自己という存在(「私」)に関する物語、他者の振る舞いに関する「物語」、経済に関する「物語」――は人々の行動にも影響を及ぼすのだ。そして「物語」の内容は時とともに変わりゆく。

人々が「アニマルスピリッツ」に突き動かされる世界では政府が経済に介入することも正当化されることになる。しかしながら、政府の役割は「アニマルスピリッツ」に首輪をつけて制御することだけに尽きるわけではない。「アニマルスピリッツ」に行動の自由を与えて持てるだけの創造性を最大限に発揮させることもまた政府の役割の一つだ。才能に満ち溢れる選手も審判にいて欲しいと思うことだろう。ゲームを律する適切なルールとそのルールが守られているかどうかを監視する審判が揃ってはじめてその才能も存分に発揮できるようになるからだ。・・・(略)・・・アメリカ国内の金融規制の体系に抜本的な手直しが一向になされないまま70年の月日が経とうとしている。オバマ政権が米議会や自主規制機関(SRO)と協力して取り組むべき課題はいかにしてこれまでよりも一段と優れた新しいアメリカ版「資本主義ゲーム」を作り出すかということにある。

マーク・ソーマ 「『経済の失敗』の背後に潜む『経済学者の失敗』 ~アカロフ&シラー(著)『アニマルスピリット』の強みと弱み~」(2009年5月8日)

●Mark Thoma, ““The Failure of the Economy&the Economists””(Economist’s View, May 08, 2009)


ベンジャミン・フリードマン(Benjamin Friedman)がニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに書評記事を寄稿している。書評の対象となっているのはアカロフ&シラー(著)『Animal Spirits』(邦訳『アニマルスピリット』)とシラー(著)『The Subprime Solution』(邦訳『バブルの正しい防ぎかた』)の二冊だ。以下にそのほんの一部を引用しておこう1

The Failure of the Economy&the Economists;Review of Animal Spirits: How Human Psychology Drives the Economy, and Why It Matters for Global Capitalism by George A. Akerlof and Robert J. Shiller; and The Subprime Solution: How Today’s Global Financial Crisis Happened, and What to Do About It by Robert J. Shiller” by Benjamin M. Friedman:

ここ最近の歩みを振り返るとこう考えざるを得ないだろう。アメリカ国内の主要な金融機関にしてもそういった金融機関が牛耳っている金融市場にしてもアメリカ経済のために有用な働きをしているとは到底言えない、と。今となってはそのことに異を唱える人などほとんどいないことだろう。

・・・(中略)・・・

もう二度と今回のような危機に見舞われたくないという点については幅広い合意が得られているものの、それではそのために(今回のような金融危機の再発を防ぐために)どのような改革を行う必要があるかをめぐって盛んに議論が交わされているかというとそういうわけでもない。そのあまりのなおざりぶりにはやきもきさせられるほどだ。

・・・(中略)・・・

金融システムが果たすべき役割は何なのか? 金融システムはその役割をどこまでうまく果たせているか? 金融危機を巡る目下の議論ではこの一連の疑問があっさりと無視されてしまっている。今回が特別そうだというわけではなく過去においてもそうだった。

・・・(中略)・・・

金融危機を巡る目下の議論の中ですっかり無視されてしまっている重要な争点は他にもある。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失は二つのタイプに峻別できるという点だ。銀行をはじめとした(資金の)貸し手が被る損失の中には一国の富の総額の減少を意味するものとそうでないものとがあるのだ。

・・・(中略)・・・

目下の議論において重要な争点の数々がほとんど見向きもされていないのはどうしてなのだろうか? 資本の効率的な配分を促すという目的が一方であり、金融業がその目的を果たす上で不可避的に発生するコストをできるだけ抑えるという別の目的がもう一方である。二つの目的の間でバランスをとるにはどうすればいいか? このような問いがほとんど語られずにいるのはどうしてなのだろうか? 一つ目のわかりやすい理由は政治的なものだ。「政府には果たすべき有用な役割がある」という立場が国是となったルーズベルトの時代から「政府は問題解決の担い手なんかではない。むしろ政府こそが問題を引き起こしている元凶なのだ」と説くレーガン&サッチャーの時代へと政治の世界で劇的な潮流の変化があったというのが一つ目の理由だ。二つ目の理由はイデオロギー的なものであり、一つ目の理由とも密接な関わりがある。営利の追求を原動力とする私的な経済活動には自己調整能力が備わっており、その自己調整能力のおかげで何か問題が起きても自動的に問題は解決される。そう信じて疑わない信念が広がりを見せているのだ――その信念を体現している代表的な人物がグリーンスパンだ。若い頃にアイン・ランドの小説に心酔した経験もある彼はFRB議長時代に公的な規制に頑ななまでに反対の姿勢を示したものだ――。

三つ目の理由を提示しているのがジョージ・アカロフ(George Akerlof)とロバート・シラー(Robert Shiller)の二人だ。この二人の経済学者によると、問題は知的な面にも求められるという。彼らの同僚でもある経済学者集団の従来の思考の中身に系統的な過ちが潜んでいるというのだ。アカロフとシラーの二人はジョン・メイナード・ケインズの有名なフレーズをタイトルに冠した新著の中で語っている。今の世代の経済学者たちは「アニマルスピリッツ」(”animal spirits”)に十分な注意を払っていない、と。「アニマルスピリッツ」は日常のごくありふれた選択の場面の数々でもその影響を表す心理的な(時に不合理的でさえある)因子であり、経済的な意思決定もその影響から無縁ではないというのが二人の主張だ。

アカロフ&シラーのタッグは「アニマルスピリッツ」を5つの構成要素に腑分けしている。「確信(安心)」(confidence)ないしはその欠如(弱気、不安)。「公平さ」(fairness)の希求――行動規範の一種。例えば、金物屋が吹雪の直後にお客が殺到した(雪かきスコップへの需要が高まった)のを受けて雪かきスコップの値段を引き上げようものならけしからんと不評を買うことだろう。緊急事態に乗じて商品の値段を引き上げるというのは「不公平」な振る舞いだと受け取られるからである――。「腐敗と背信」。「貨幣錯覚」――名目価格の変化と実質価格の変化を混同しがちな傾向――。そして「物語」への傾倒――「インターネットが生産性の劇的な向上を約束する『新時代』の幕が開かれた!」とかいうような活気ある「お話」についつい惹かれてしまう傾向――。以上の5つだ。従来の経済学では現状の危機をうまく理解できないのも危機への有効な対応策を提示できないのもこれら5つの「アニマルスピリッツ」の役割が無視されてしまっているためだ。アカロフとシラーの二人はそう主張する。

・・・(中略)・・・

もっと大局的な観点から問うておくべき質問がある。アカロフとシラーの二人は果たして部分の総和以上のものを生み出すことに成功しているだろうか?2 その答えはある面では「イエス」であり、別の面では「ノー」である。

まずは「イエス」と言える面から取り上げると、過去数十年を通じて形作られてきた主流派のマクロ経済学の「狭さ」を露にし、その「狭さ」ゆえに主流派のマクロ経済学には現状の危機(や類似の現象)を説明し有効な処方箋を捻り出す能力に「タガ」が嵌められてしまっている様をあぶり出すことには成功している。

・・・(中略)・・・

主流派のマクロ経済学がたびたびうまくいかなくなることがあるのは誰の目にも明らかな事実(失業であったり信用市場をはじめとした現実の制度であったり)を無視しているためであることに加えて、本書の中で取り上げられている「アニマルスピリッツ」に由来する(数値化するのが難しい)行動パターンに注意を払っていないためであること。アカロフとシラーの二人はそのことを露にするのにも成功している。確信(安心)もその欠如も明らかに重要な役割を果たしている。・・・(略)・・・

アカロフとシラーの二人も述べていることだが、確信(安心)の動揺が資産価格や実体経済に及ぼす効果が標準的なモデルに組み込まれている見慣れた要因――金融政策の変更や石油価格の乱高下など――の効果を上回る可能性も十分考えられることだ。「貨幣錯覚」もマクロ経済の振る舞い(マクロレベルの現象)の一側面に重要な影響を持っていることは疑うべくもない。

・・・(中略)・・・

「マクロ経済学を丹念に磨き上げて科学として一人前に仕上げようとする」試みにしてもそのために課された「研究上の枠組みや方法論」にしても主流派のマクロ経済学の射程範囲をどうしようもないほど狭めてしまう羽目になってしまったというわけだ。

それでは問うとしよう。『Animal Spirits』では人間の行動に重要な影響を及ぼす(主流派のマクロ経済学では軽視されている)要因に目を向けている(行動経済学方面の)一連の研究が紹介されているわけだが、アカロフとシラーの二人はそのような個々の研究の一覧以上のものを提供できているだろうか? 「我々二人はマクロ経済を分析するための『新理論』を提案する仕事をやり遂げた」。アカロフとシラーはどうやらそう信じているようだ。

・・・(中略)・・・

経済的な意思決定(ミクロレベルの意思決定)の様々な側面に光を当てるアイデアの数々を列挙するのとそのような個々のアイデアを統合してマクロ経済の変動を説明するためのまとまりのある「理論」を作り上げるのは同じことではない。「主流派のマクロ経済学のモデルにはこんな要素(パーツ)が欠けている」。そう指摘するアカロフとシラーの二人は間違いなく正しい。「こんな要素(パーツ)を主流派のモデルに組み込めば助けになるだろう」。そう指摘するアカロフとシラーの二人も間違いなく正しい。しかしながら、アカロフとシラーの二人は(ミクロレベルの意思決定にとどまらず、マクロ経済の変動も説明できるような)まとまりのある「理論」を作り上げているわけでもないしそのやり方を読者に指南してくれているわけでもない。というわけで、マクロ経済学の講義で学生が学ぶ内容を一新してみせるという彼らの目標も少なくとも今のところはまだ叶いそうにないと言わねばならないだろう。

アカロフとシラーの二人は「アニマルスピリッツ」が(ミクロレベルの)経済的な意思決定の様々な側面に重要な影響を及ぼす例の数々を収集しているに過ぎず、マクロ経済の振る舞いを説明するための首尾一貫した理論を構築するまでには至っていないわけだが、その点を考慮すると本書で提案されている(現状の危機に対処するための)処方箋の数が乏しいのも驚くことではないだろう。

・・・(中略)・・・

具体的な政策については寡黙であり、タガが嵌められた主流派のマクロ経済学に取って代わる一人前の「理論」も提示されてはいない。それにもかかわらず、アカロフとシラーの二人が語る中心的なメッセージの力が損なわれるわけではない。主流派のマクロ経済学に対する彼らの厳しい論難はもっともなものだし、彼らが「アニマルスピリッツ」と呼ぶものが主流派のマクロ経済学が抱える致命的な欠点と重要な関わりを持っているという指摘もその通りだ。『Animal Spirits』は新たな研究プログラム(アジェンダ)の道を切り開いており、その道を突き進んでみるだけの価値はあるように思われる。

  1. 訳注;以下の引用箇所ではアカロフ&シラー本だけしか取り上げられていないが、原記事ではシラー本も俎上に載せられている。 []
  2. 訳注;従来のマクロ経済学では軽視されている様々な(行動経済学方面の)研究を単に列挙(紹介)しているだけではなく、それ以上の何かを成し遂げられているだろうか?、という意味。 []

ノア・スミス 「【書評】アカロフ&シラー(著)『Phishing for Phools』」(2017年3月11日)

●Noah Smith, “Book review: Phishing for Phools”(Noahpinion, March 11, 2017)


phools

やっとだ。やっとのことでアカロフ&シラーの新著に最後まで目を通すことができた。二人の共著である『Phishing for Phools』を通読する時間がやっととれたのだ。アカロフは2011年にINET(新経済思想研究所)開催のカンファレンスで同名の講演を行っているが、本書はその講演のロングバージョンと言っていいだろう。

『Phishing for Phools』には一つの重要なアイデアが込められている。「騙し」(deception)は市場経済に付き纏(まと)う現象だ、というのがそれだ。「ある特定のモデル(理論)ではそういう結果が得られる」というわけでも「場合によってはそういう状況もある」というわけでもない。「騙し」は程度の差はあれ市場の中にいつでもどこにでも存在している、というのがアカロフ&シラーの主張だ。その理由はこうだ。企業は市井の人々を騙してお金を巻き上げるためのいい方法がないかと常に模索している。「情報の非対称性」や「限定合理性」、「人間の不合理性」、法の抜け穴等々に目をつけて市井の人々からお金を巻き上げようと必死に策略をめぐらしているというのだ。その結果としてどの市場にも程度の差はあれ「ペテン(騙し)」や「過ち」が必ず見つかるというわけだ。モニタリング(企業が「騙し」を行っていないかどうかを監視すること)にはコストがかかるためにそうなるわけだが(この点が本書の中でどこまで明示的に述べられていたかは覚えていないが)、アカロフ&シラーは市場が最終的に落ち着く状況(「ペテン」や「過ち」がそこここに見られる状況)を指して「フィッシング均衡」と呼んでいる。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「『笑顔』は何を物語っているか?」(2007年2月26日)

●Tyler Cowen, “Don’t smile too much”(Marginal Revolution, February 26, 2007)


ジョン・ティアニー(John Tierney)のブログで取り上げられている発言1を二つほど引用しておこう。

「『笑顔』というのはその人の内なる感情(幸せ)が顔に表れたものと捉えられがちですが、それと同時にその人のステータス2に関する情報を伝達する役目も果たしているのではないかと思われます。どういうことかと言うと、ステータスが低い人ほどよく顔に笑みを浮かべる傾向にあるようなのです。笑顔にもいくつか種類がある――幸せな感情が自然と顔に表れた「真の笑顔」(デュシェンヌ・スマイル)だったり、はにかみ笑いだったり――という事実がいくらか関係しているのかもしれません。はにかみ笑いは霊長類の動物同士の間では相手に対する譲歩を意味するものと受け止められる傾向にあります。ジミー・カーター(元大統領)はよく笑顔を浮かべていましたが、ジョージ・ブッシュはカーターに比べると笑うことがずっと少ないですね。(笑顔の多い)カーターは温和でフレンドリーな(親しみやすい)人柄だというのが世間一般の評価ですが、威圧感や力強さがあるとかいう受け止められ方はされていませんね。(笑顔の少ない)ブッシュはそれと逆ですね。カーターに比べると温かみやフレンドリーさは感じられないものの、威圧感や力強さを備えた人柄だと受け止められています。」

もう一丁

「ファッションブランドの広告に写っているモデルの顔を見比べると安価なブランドの広告に起用されたモデルほど笑顔で写真に写っている傾向にあるわけですが、その理由はモデルの笑顔を通じてそのブランドのステータスに関する情報(近づきやすさ、親しみやすさ)を伝えようとしているためだと思われます。笑顔のモデルを広告に載せているのは(モデルのポジティブな感情(嬉しさ、喜び)を伝えることを通じて)広告を目にした顧客に爽やかな気分になってもらいたいからというわけではないと思います。ブランドのステータスイメージを伝えるか、それともモデルの内なる感情を伝えるか。時に広告マンはそのどちらか一方を選ばなければならないことがあります。高級ブランドの広告に写っているモデルが笑っていないのはそのブランドのステータスの高さ(格の高さ)を伝えようとしているのであって、モデルが不愉快であること(モデルのネガティブな感情)を伝えようとしているわけではないと思われます。エルヴィス・プレスリーはみんなから好かれていました。コンサートで壇上にいる彼がせせら笑いを浮かべてもみんな彼のことが好きでした。せせら笑いというのはステータスの高い人物が(己のステータスの高さを誇示するために)よくするものなのです。相手に(せせら笑いをされて)見下されるのはいい気がしないものですが、多くの人はステータスの高い人物には敬服しがちでそばにいたいと感じるものなのです。何とも皮肉めいてはいますが、高級ファッションブランドの広告はネガティブなシグナル(笑顔の封印)を使ってポジティブなイメージ(ステータスの高さ)を生み出そうとしていると言えるわけですね。

  1. 訳注;発言主はティモシー・ケテラー(Timothy Ketelaar)氏。氏も一員として名を連ねている研究チームが行った実験結果を踏まえた上での発言。実験結果の詳しい内容は次の論文にまとめられている。 ●Timothy Ketelaar et al., “Smiles as Signals of Lower Status in Football Players and Fashion Models: Evidence that Smiles are Associated with Lower Dominance and Lower Prestige(pdf)”(Evolutionary Psychology, vol. 10(3), pp. 371-397) []
  2. 訳注;ステータス=社会的地位ないしは組織内での位置づけ、肉体的な強さの優劣等々。 []

タイラー・コーエン 「笑い ~声を出して笑うのはなぜ?~」(2003年12月27日)

●Tyler Cowen, “Laughter”(Marginal Revolution, December 27, 2003)


「笑い」(laughter;声を出して笑うこと)は疑いもなく社会的な活動(振る舞い)である。「笑い(声を出して笑うこと)は『他者に対するシグナル』として進化してきたものです。一人きりの時には声を出して笑うことは滅多にありません」。そう語るのはメリーランド大学で神経科学を研究しているロバート・プロバイン(Robert Provine)氏だ。プロバイン氏は『Laughter: A Scientific Investigation』の著者でもある。・・・(略)・・・日常生活で声を出して笑うとすれば、それは滑稽なジョークへの反応としてよりは相手の放つごくありふれた発言――「そろそろ行かなきゃ」といったような――への柔和な応答というかたちをとる場合が大半である。笑い(笑い声)は(人と人との結束を強める)「社会的な接着剤」の一種であるというわけだが、そのような見方と整合的な事実は他にもいくつもある。例えば、赤ん坊がクスクス(と声を出して)笑い出すのは生後3~4ヶ月あたりだが、生後3~4ヶ月といえば赤ん坊が他人の顔を識別できるようになる時期にあたっている。また、一緒にいる相手が誰かによっても笑い方に違いが出てくる。男性が一緒にいる相手が同性(男性)だとそうではない場合(女性と一緒にいる場合)よりも長く笑うし笑い声も大きい傾向にあるが、男性同士が一緒にいる場合は笑い(笑い声)は相手との絆を示す手段となっている可能性がある。異性同士が一緒の場合は女性の方が男性よりもよく笑う(女性は男性のほぼ1.5倍笑う)し、女性の方が男性よりも高い声で笑う傾向にあるが、この場合は笑い(笑い声)は相手(男性)への好意あるいは従順さを示す手段となっている可能性がある。

プロバインのアイデアを手短にまとめた記事はこちら1でも読める。そう言えば、上司が笑うと部下もみんな笑うものだ。嘘の笑い声を出すのに比べると嘘の笑顔(作り笑い)を浮かべる方が簡単なように思えるが、(笑顔ではなく)笑い声(声を出して笑うこと)が相手との絆の強さを示すシグナルとして進化してきた理由の一つはこの点(偽るのが難しいという点)も関係しているのかもしれない。

「くすぐり」はどう位置付けられるのだろうか? プロバインによると、くすぐり(に伴うあえぎ声)こそが笑い(笑い声)の起源であり、くすぐりはくすぐる側とくすぐられる側との間で相手を信頼していることを伝達し合う手段として機能しているという。私のような疑い深い経済学者にはあまりに機能主義的な説明のように思えるところだ。ところで、私はくすぐられるのが嫌いだ。

冒頭の文章はニュー・サイエンティスト誌(2003年12月20日号)から引用したものだ。記事の所在を教えてくれたロビン・ハンソンに感謝。

  1. 訳注;リンク切れ。こちらのリンクが代わりになるかもしれない。 []

タイラー・コーエン 「女性の声の高さには文化差がある?」(2006年9月5日)

●Tyler Cowen, “What does voice pitch indicate?”(Marginal Revolution, September 5, 2006)


日本女性の声は他の大抵の国(文化)の女性の声と比べて甲高い傾向にある。アメリカ女性の声は日本女性の声よりも低い傾向にあるし、スウェーデン女性の声はアメリカ女性の声よりも低い。そしてオランダ女性の声はスウェーデン女性の声よりも低い傾向にある。声質の違いは自他の差異を表現するための方法の一つである。オランダ社会では理想の男性像と理想の女性像との間に大して違いがなく、そのためもあってオランダでは男性と女性との間で声の高さにほとんど違いが見られないのだ。オランダでは高音よりは中低音の声の女性の方が魅力的だとも思われている。

以上はつい最近(2006年8月に)出版されたばかりの興味深い一冊である『The Human Voice: How this Extraordinary Instrument Reveals Essential Clues About Who We Are』(邦訳『「声」の秘密』)から引用したものだ。著者はアン・カープ(Anne Karpf)。男女間での声の高さの違いをテーマにした博士論文も見つけたが(そのアブストラクトはこちら)、経済学の世界でいうところの「シグナリング」のアイデアといくらか関わりがある議論が展開されている。