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ジョセフ・ヒース『ナオミ・クラインについての最終論考』(2015年9月22日)

Final thoughts on Naomi Klein
Posted by Joseph Heath on September 22, 2015 | environment, politics

このブログの読者ならお気付きと思われるが、今年、ナオミ・クラインの気候変動本『全てをかえる物語』について言及したのを皮切りに、私は少なからずの時間クラインに浪費している。読者の何人かから、直接、ないしやんわりと、クラインへの妄執が過ぎることを指摘されたのである。よって少し弁明しておきたい。まずは、過去に数年にわたっての[クラインについての言及が含まれる]言説を総括し、幾つか提供してみる。

以下に過去の論考を並べてみた。
ナオミ・クライン:『全てをかえる物語』[訳注:本サイトでの邦訳版はココ]
ナオミ・クライン、追伸1
ナオミ・クライン、追伸2

次に以下は、私の『気候変動』についての過去のエントリである。
『税を税たらしめるものとは何か? 炭素税vs.炭素価格付け』
『炭素税/価格付けにおいて、2つの懸命で無い言及対称』
『ホッブズの難解な概念』

以上に追加して最後は、私の気候変動政策についての授業のシラバスである。(シラバスは、気候変動について感心がある人は読む価値があると思われる)。

個人的に、クラインの本についてこうも長期間にわたって言及してきた理由に、端的に近年は『気候変動問題』について考えるのに時間を割いてきたからなのだ。私が読んできた本の中には、この件[気候変動]についての悪書も多く含まれていた。しかしながら、クラインの本は[悪書にも関わらず]詳細に論ずるに値する本でもある。理由の一つは、彼女が『世界の知識人』ランキングのトップ100やトップ50に定期的にリストアップされており、多くの場合はトップ10に入っていることにある。つまり、多くの人々が彼女の著作や話す内容を、とても真面目に読んでいる訳なのだ。これは、クラインが、左派でいうところのノーム・チョムスキーや、右派でいうところのアイン・ランドと同じタイプの人になってしまっている事を示す理由の一端にもなっている。クラインやチョムスキーやランドは、高校生や大学の学部生からは異様に人気があるが、より高度な教育を受けた人(特に、私のような大学教授)らからは、ほとんど無視されているような人達である。しかしながら、これらの人々を無視している人で、『なぜ』彼女らの意見を真面目に相手にしないのかを、わざわざ説明する人は滅多にいない。クラインらが学者らから無視されている事で、彼女らの著作に関心している人々は、著作や思想を、もろもろの陰謀論や、[反アカデミア的な]政治イデオロギーの源泉にしまっている。もちろん、それは端的に間違えているのだ。

学部生の頃の、私の『ノーム・チョムスキーの時代』は今でも思い出すことができる。当時チョムスキーの意見が誰からも相手にされていないことにとても戸惑ったものだ。チョムスキーの主張には、他の人が同意しかねる要素がいくつも含まれている、ということには当時の私も理解していた。しかし、彼の政治的意見がここまで完全に無視されている理由は理解できなかったし、その理由を説明してくれる人も見つけられなかった。もちろん、大学院を終える事には、私もその理由を理解できるようになっていた。そして、私も「チョムスキーの政治的意見の何が間違えているのか、わざわざ説明してくれない人々」の一員となっていた。私がわざわざ説明しないのは、チョムスキーが[政治的見解に関しては]世界に特に強大な影響力を保持していると思っていないからだ。彼の著作に影響された人がその考えを発しても、個人的にも特に困ってもいない。

アイン・ランドに関しては、チョムスキーと違って非常に有害であると考えている。事実、一般向けの自著の何箇所かで、ランドについて言及し、彼女の見解の問題点を指摘してきた。(特徴的なのは、彼女の主要な小説に通底している強固なニーチェの哲学思想だ。彼女がニーチェの哲学の影響下にある事例を挙げさせてもらうなら、[彼女の思想において]『レイプは』単に許容されているだけではなく、[既成の倫理や利他行動に縛られる俗物と、『善悪の彼岸』に達したエリート間の]両陣営を分かつ、教化体験とされている事にある)。今のクラインは、[アイン・ランドのような選別思想の]同調者では明確に無いだろう。それでも、私は、クラインは世の中に対して、本質的には悪影響を与える存在であると考えている。クラインの最大の問題は、彼女の見解が「とにかく意味をなしていない」ということ尽きる。彼女はあらゆる社会問題につきまとって、それら社会問題の『バイブル』になるような本を書いて出版しようとする。それでいて、彼女の本は、社会運動家達を不毛の地に放り出してしまうことにしか成功していない。

労働組合でクラインとルイスの[書籍を元にしたドキュメンタリー]映画『全てをかえる物語』見た後に、私がそこで主張した事がある。クラインとルイスは催涙弾を嗅ぎ回る時間を減らして、図書館での読書時間を増やすべきだ、と。以上主張は、使い古された教訓に聞こえるかもしれない。それでもこれは重要な観点なのだ。クラインが[なんらかの事象の]本を書くに際のやり方の大部分は、私と完全に真逆なのである。私は、[事象が]何であるかの『見解』の把握に、時間と労力の90%近くを使っている。私は[『見解』を得るための]時間のほとんどで、読書ないし、友人や大学の同僚と議論を行うことになる。そして『見解』が固まってから、『素材』の収集に残りの10%を使うことになる。そこで必要とされる『素材』、すなわち『データ』は、具体的な主張であったり、議論を具体化するための小話や逸話や、持論を補強するインタビューや報道記事となる。以上言及した私のやり方と、クラインのやり方は全く正反対となっている。彼女のやり方は、『素材』の収集に少なくとも90%の労力使った後、後付の『見解』が適当に付け加えられている。こういったクラインの仕事やり方が、私にクラインを理解することを困難にさせているのだ。

事例を挙げると、彼女の新著のサブタイトルは『資本主義vs環境』である。しかし、この本[を読むこと]で、『資本主義』や『環境と資本主義の関係性』に対するクラインの『見解』が何であるのかに説明するのは、非常に困難だ。この本について言及したこのブログの最初のエントリでは、私は慎重かつ好意的に、クラインの言わんとする事の謎解きを試み、彼女を理解しようとした。該当エントリは私なりの努力の記録となっている。容易ではなかったし、私以外の人もそうであったようだ。

クラインの愛読者に会った時、「あなたはクラインの様々な事案についての『見解』何だと考えているのか?」と私はいつも尋ねている。良い返答を貰えたことはいまだない。愛読者達が、彼女の著作内容が間違えていることを理解している事実に遭遇することすらある。クラインが、なんらかの常識や、実利的な見解(例えば、『炭素価格付け政策』を補強するような見解)を持っているとか、逆に何の見解も持っていないかもしれないと、想定する自体が間違えているかもしれないのである。私がしばしば遭遇してきたのが、雰囲気や気分の連想的な物である。つまり[クラインを愛読する]人々は、クラインの漠然とした関心――環境問題は切迫しており、企業は悪意を持っており、資本主義はなにがしかの責務を追うべきである――を共有しているのだ。

社会変革の飽くなき支持者であるはずのナオミ・クラインが、どのような変革をもたらすべきかということの判断や説明をすることに、なぜこれ程までに僅かな知的労力しか払っていないのか、ということに私は長い間困惑してきた。社会正義の運動家になるつもりなら、社会正義とは何であるかということについてのコンセプトを明らかにすることから始めるべきだ、と私には思えたのだ。社会正義とは何であるかを他人に説明して、その理念から現在の制度の状況がいかに外れているかを示すべきだろう。しかし、ある時点で、このアプローチには私にとっては当たり前に思えても(そもそも私は理論家なのだ)、他の人にとっては当たり前ではないのだということに思い至った。特に、このやり方は、クラインによる社会問題へのアプローチとは異なっているのである。クラインの新著の一節は、私に以上の説の理解を促すことになった。以下は、新著の中ほどになるが、彼女がギリシャに旅行に出かけて、そこでの[市民の]抗議活動を描写している一節である。

イェリッソス1 では、地元住民たちが村の出入り口にバリケードを建設しました。住人を追ってきた200人を超える重武装の凶暴な警官たちは隊を組んで街の狭い通りを練り歩き、催涙弾を全方向に発射したのです。催涙弾の一つが、学校の敷地内で破裂することになりました。結果、学校で授業中の子供たちが窒息に苦しむことになったのです。(298p)

以上一節を読んだ時、校庭に催涙弾が打ち込まれた件が極めて適当に描写されている事に、個人的には特に驚かされることになった。[クラインの本は]少なくとも気象変動についての本と私は見なしていたので、気候変動とまったく関係ない催涙ガスの描写に、非常に戸惑ったのだ。ギリシャにおける金・銅山の開発計画への地元の抵抗が槍玉に挙がっているわけだが、気候変動との関係は何も示されないままに話が進んでいる。([ここでは気候変動と鉱山開発が]関連付けれれている。鉱山開発は、[自然ないし弱者階級からの]『搾取』だとクラインは朧げに考えており、気象危機を生成している[搾取・陰謀を行っているなんらかの存在の]動機と同質のものとして仄めかされて提示されているのだ)。なんにせよ、仮にクラインが、金鉱山の開発計画と気候変動を関連付けているとしても、学校内に催涙弾が打ち込まれた観察事例を持ち出すのが、奇妙な事に変わりない。そもそも、彼女の著述内容から、何が起こったのかを理解するのが困難なのである。この箇所を読む読者は、登場する警官がどんな目的を持ってこういった行為を行っているかを知りたいと思うわけである。通りを練り歩いた『重武装』の警官たちが、左右構わずに無秩序に催涙弾をなぜ発射した理由等である。クラインは、[鉱山開発への]抗議者達がどこにいるのかに関して何も書いていないので、描写されている警官たちの行動がとりわけ意味不明なのだ。もしかしたら、抗議者達は[警官と]向かい合っていて、暴走した警官たちによって、学校内に催涙弾を投げ込こまれることになったのだろうか? クラインが何を言わんとするかを理解するのは困難である。

しかしながら、この一節を読んだ私が、最も直面させられた疑問が、クラインはこのようなルポを本に収用する必要性をなぜ見出したのだろうか、ということである。この本は566ページしかないので、特段[助長なエピソード等を含めて]引き伸ばす必要はないと思われるのだ。ギリシャの学校で子供たちが催涙ガスに直面するような事故は、ギリシャ政府が自国市民への危害意図を持っていることを意味するのかもしれない。どっちにせよ、(「誰かが、どこかで、なんらかの悪意に相対している」のような抽象的レベルの見解の遥か以前に)、具体的な話なのだが、この本は気候変動について本なのに、こんな事例が描かれているの事が非常に気にかかるのである。

クラインの見解では、(ギリシャで抗議デモに催涙ガスが使われて子供達が被害を受けたことは)気候変動と結びついているのだ。これは私の推測であるが、このようなエピソードは彼女の道徳的指向を示している。何が善くて何が悪いかということについての、彼女の感覚が示されているのだ。高潔な抗議運動家たちがファシストな警察と対決するというドラマが提供するものこそが、暴力的な抗議活動にクラインがここまで執着している理由だ(彼女にとっては、世界における善の追求と悪との戦いが、抗議運動に催涙ガスが使われることに最も具現化されている、と考えるわけである。要するに、このことは彼女にとって『明白な道徳』を示しているのだ。誰が正しい側に立っていて、誰が間違った側に立っているのかということを、彼女は疑うことなく自明視している。彼女にとって、全ての物事は自身の自明視された道徳見解に従属しているのだ。

要するに、社会正義についてのクラインの意見は、二つの自明な命題から始まっている。[体制への]抗議者は善であり、警察(または『抑圧の暴力』)は悪である、と。これが、学校の校庭に催涙ガスが着弾したという話が[気候変動と]関係があるとされている理由でもある。「警察は悪である」ということを読者が前提としていなかったり、納得していない場合に備えて、「警官は悪である」と読者に想起されるために書かれているのだ

クラインは抗議運動に参加している時に、文字通りの善と悪との戦いを目撃している訳である。そして、抗議運動は善であり警察は悪であるという命題に基づきながら、彼女はより幅広い世界観や社会正義についてのより精巧な意見を構築しようとする。その世界観や見解のかなり多くは寄せ集めにすぎない。基本的には、クラインは抗議運動家が要求していることの全てを取り上げ、繋ぎ合わせてから、なんらかの形の一貫した一つの見解や、一連の要求としてまとめあげようとする。ここで問題となるのは、言うまでもなく、抗議者達は実に様々なことについて要求しているということだ。一部の要求は理に適ったものであるし、別の要求はそうではない。全ての要求が矛盾なく共存する訳ではないし、全ての要求が『善』であることはあり得ない。だから、最終的には、クラインの見解には矛盾を避けるための大げさなごまかしが含まれることになる。そのごまかしが、私のような人々を苛立たせるのだ。

一方で、クラインの論じ方を[全てを乱雑に関連付けるものであると]認識することで、なぜ彼女が抗議運動家たち(また、自分で時間を割いてまで抗議に行くことはないが、抗議運動家を応援している人たち)からこれ程までに支持されているのかということを理解する助けになる。まず第一に、抗議運動家たちは[クラインの描く]物語の中では常に英雄である。抗議運動家たちが間違いを犯すことは有り得ない。第二に、クラインは抗議運動家たちの見解を受け入れ、少しだけ知的で整った一貫した見解に編み出してくれる存在でもある。同時に、全ての抗議運動には[正義の]一貫性があるのだとクラインは保証もしてくれる。[クラインの見解に従うと]全く異なった抗議者達が、全く異なった物事を求めて闘っているように見えても、それは正しい社会実現への要求において通底しており、彼らの努力は共通していることになるのだ。ただ、具体的にその見解とは何であるかには、クラインは何も語っていない。しかし、荒っぽい目標なら彼女も自覚しているようだ。そして、著作活動を続けることで、それをいつか読者に伝えることができるかもしれない。

以上が、私のナオミ・クライン解釈学だ。少なくとも私はベストを尽しており、今も頑張っている次第である。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
訳注:本エントリはデビット・ライス氏の部分訳を元にWARE_bluefieldがライス氏の許可の元、全訳している。
※訳注:”view”は基本的に『見解』と訳している。

  1. 訳注:ギリシャ北部の都市 []

ジョセフ・ヒース『トランプ大統領の省察』(2016年11月10日)

Thoughts on President Trump
Posted by Joseph Heath on November 10, 2016 | political philosophy, United States

トランプの当選については、多くの論点が言及済みだが、まだ大きな関心が払われていない幾つかについて指摘しておきたい。

まず最初に。この結果に本当に驚いたことを表明するのを許して欲しい。数週間前から正解を予言していたアンドリュー・ポター1 には祝福を! 昨夜までは思っていたのだ、ポターは間違えていると。有権者の投票行動においては、「政党の地方支部活動」の重要性がほぼ全てだと信じていた。トランプが選挙キャンペーン組織をまとめあげられなかったことで、受けた打撃は、個人的に思っていたほどではなかった。

この[トランプの当選]結果は、政治学による評論家への偉大な勝利である事も記さねばならない。選挙時のディベートにおける立ち振舞やそこでのヘマのような事象は、大した事象ではない、と政治学は教えてくれる。政治学においては、選挙結果は、極少数の『マクロ』要因に「左右される」――この要因の最重要要素は、政権与党を変更させたいという[有権者の]要望であるとされている。2

火曜日のニューヨーク・タイムズで、トランプとロブ・フォード3 の類似性に私は言及した。トランプとフォードの2人が、選挙戦を行うのに際してとった行動は、従来のメディアの知見からみれば、行いうる限りにおいてほぼ全て間違えていた。にも関わらず彼らは勝利を収めたのだ。(ただ、トランプは総投票数では敗北し、選挙人制度においてのみ勝利を収めたことで、彼の勝利は価値を持たないことを私は示唆しておきたい)。トランプとフォードの強い類似を鑑みた時に、私が推察するのは、選挙戦におけるトランプの変遷が、フォードのそれと多くの点で似通っていた事だ。選挙の初年度、トランプは自らの意思で有権者を威圧しようとしていた。しかし時が経つにつれて、トランプは、自らの掟破りの言動の蓄積によって、自縄自縛に陥ることになっていった。

ただ、私がここで言及したいのは上記の件ではない。それよりも以下の2つの事項について省察を行いたい。

[1つ目はこの現象が]どのように起こったのかだ。

トランプの当選結果は、多くの異なる要素の集約によって出来上がっている。人種や経済的要因のような特徴的な要素を過小評価しないなら、個人的に追加言及しておきたいのが、トランプの支持者達が皆一様に表明していた一つの動機である。トランプの支持者達が希求していたのは、『腐敗した』現行政治制度への『チェンジ』だった。この点において、2人の候補者間には明らかな対照性が存在した。ヒラリー・クリントンの(自身が確実に行ってきた過去の事例に基いている)特化された専門性は、連邦政府の政治構造に居座っている様のような周知事実によっても、彼女が年期を経た政治的インサイダーであることを知らしめていた。『Citizens United(シチズンズ・ユナイテッド)4 』への不満を言うのを少し控えると、アメリカの統治形態が多様化しすぎている事に対して、ヒラリーが全く関心を持っていないことは明白だった。ヒラリーは現状在り方の推進に強く関心を持っていたのだ。正確に言うなら、彼女が主に売り込んでいた主張は、現行制度の複雑な回路を操作する能力だった。ここにヒラリーとトランプの対照性が現れている。この対照下において、トランプに投票するのは、雑貨屋に猛り狂った雄牛を送り込むような事だった。トランプは、既存の政治構造に、可能な限りにダメージを与えることが予測できたのだ。

ここで疑問が生じる。なぜこれほど多くのアメリカ人が、ここまで極端な方法でもって、自国の政治制度にダメージを与えることを欲したのだろう? 私が考える答えは、アメリカの政治制度には、極端なバクチ要素が内包されているということだ。これは、根本[制度]を改良できないという事実に起因している。以上の観点に立てば、アメリカは極めて異常な政体だ。過去数十年に遡って西洋民主主義国家を参照すれば、ほとんどの国では、顕在化した様々な[政治・社会的]問題や病理に、構造上の改良処置を立法化することによって、継続して解決策を見出してきた。(例えば、イギリスにおけるスコットランドへの自治権委譲や、上院の改定。他にはオーストラリアやニュージーランドの投票制度の変更が挙げられる)。

合衆国政府への私の見解は、長期の政治の衰退に陥っているということだ。(この見解は、他の論者も提唱している。特にフランシス・フクヤマが有力な論者だ)。ただ、だからといって、アメリカの崩壊を予言することは、無益な作業ではあるのだが…。私が発見した[アメリカの]今日の状況を突き動かしている物がある。それはアメリカが衰退に陥っている理由でもある。私が発見したのは、アメリカにおいて、現行の問題や政治的病理の進行に対処する、(広義の意味での)政治制度の自己改革能力が欠けてしまっている事だ。

カナダにおける選挙制度改革に関する近年の議論と、アメリカにおける選挙人制度を巡る状況は、非常に対照的だ。繰り返しになるが、ヒラリー・クリントンは総投票数では勝利を収める一方で、選挙人制度では敗北している。従って、アメリカの政治制度は、大統領選挙において、多数派の指名に失敗した事になる。これは、2000年のアル・ゴアとジョージ・W・ブッシュとの大統領選挙時に起こった出来事が本質的に繰り返された事になる。カナダ国民なら、多数決による選挙制度に基いている立法府において、もし政党与党が総獲得票数で過半数を下回っている事態になれば、不平を言うに違いない。しかして、カナダにおいて、国会に選任されることになった全ての議員は、選挙区での最高得票を得るルールの勝者であることが求められる。つまり(議員に選任される)いかなる老若男女も、対抗議員より多数の票を得ねばならないと問われる事実が、現として存在しているのだ。[カナダとは]対照的に、合衆国政府の大統領選出制度は、この[対抗候補より得票数で上回っていないといけないという]原則に反する事になっている。ドナルド・トランプは50%を超える投票数を得るのに失敗しただけでなく、選挙戦で最高得票数を得る競争の勝者ですらない。ヒラリー・クリントンは[当然トランプより]多くの票を獲得することになっている。

これは[アメリカの]政治制度に非常に大きな欠陥があると見なすことができる。そして、トランプの勝利後では、もはや驚くべきではないが、選挙人制度が崩壊していると公然と語られるようになってしまっている。カナダでは対照的だ、誰もここまで深刻に捕らえていない。[アメリカにおいて選挙人制度の変更に]言及することが、不可抗力的で無益であるという感覚が存在する事が、この論文で言及されているのは興味深い。この論点について尋ねられた人々は、皆一様にこう言う。「その通りだ。それは愚かで、非民主的だ。でも、それについて何とかする方法は存在しないじゃないか!」

似たような諦めの態度を他にもいくつか見つけることができる、ゲリマンダー5ロビー活動、選挙資金集めのような問題は、この問題[大統領選挙の投票制度]に比較して相対的に小さな『問題』だろうし、同じような大きな『問題』では、議会の構造や、選挙制度そのものを例示できる。実例を挙げて考えるなら、アメリカは、多数決制度の深刻な病理の酷い症状に侵されている。この病理は、(デュヴォルジェの法則によって)二大政党制の生成に向かわせ、有権者を大きく区分するという巨大な不満を産むに至っている。にもかかわらず、アメリカの投票制度の変更に関する議論は、全く存在しない。なぜだろう? この件について私が問いただしたアメリカ政治の理論家は、皆同じことを言う。「この事について話すのは不毛だ。なぜなら何も変えることができないからだ」と。一方、カナダはこのような問題(多数決による多数派専横の病理)を抱えてはいない。もちろんカナダでも、しばしば選挙制度改革についての深刻な議論に従事することがある。(ただ、私はその『カナダの選挙制度』について言及しておかねばならない。カナダでは議論が明後日の方向に行ってしまうのを心配することはないし、制度の変更が成し遂げられないかもしれないとか、制度が変更不可能かもしれないと疑う事はありえない。もちろん今のカナダでは選挙制度の変更は必要ないので、変更は起こらないと考えているが…。)

改革が不可能という答えが存在する状況では、アメリカの制度は、スティーブン・テレスが『Kludgeocracy(バグ取り主義)』と呼んでいるモノにゆっくりと巻き込まれる事になっている。改革を立法することより、アメリカ人は、ルールを捻じ曲げて解釈すような方法で、現制度への対処療法を施してきた。アメリカ人は皆、この方法がルールの変更より容易である事で受け入れてきた。(というわけで、ついでながら言っておくと、アメリカ人は皆、『権力の分立』が、自身をバカにしてるかのようなトランプ大統領を抑制することを望んでいる。ただ合衆国において『権力の分立』は、対処療法やバグ取りによる数十年にも及ぶ毀損の蓄積によって、激しく品位が低下している。)

ここまで述べたことに基づくなら、合衆国政府は、“output legitimacy(市民の公的政策結果への評価)”の圧倒的な欠乏に陥いっている。この欠乏によって、合衆国政府は、他の豊かな先進国住民なら自国政府に期待して良いであろう公共政策を行う事に、一貫して失敗している。(他の西洋民主主義国家における市民の受難とは、全く別の恐ろしい受難をアメリカ市民が抱えている事を、合衆国の統治について研究した者なら皆知ってる。)この立法部門の機能不全は、市民に満足な解決策を何も提示できない事にもなっており、アメリカ人は皆、多くの緩慢なバグ取り[対処療法的な問題解決]の蓄積に直面している。(例示しておくと、安価な医療制度や、再生可能エネルギー政策などである。)

ほとんどのアメリカの人々は、制度についてはもはや思考放棄している。彼らは政府による悪いパフォーマンスを見た時、手近の[悪いパフォーマンスを演じているように見える]役者に不満を溜める。そして、アメリカの人々は、物事を変えると約束している新しい役者を送り込む事で対応することになる。何十年もアメリカの人々はこれを続けてきた。そして、未だに何も変えることができていない。なぜだろう? それは、現法下の個人行動では変更不可能な、構造的問題であるからだ。アメリカの人々は、この変更不可能な問題に、どう対応しているのだろう? 多くの人は、硬直した[政治]状況に自身が送り込んだ役者が、懐柔されたか、十分にタフでなかったか、役割に相応しくなかった、と結論づけることになる。そして、物事をチェンジすると約束した、より過激で絶叫する人物を送り込む事になる。それでも[送り込んだ人物が]仕事を果たせずにいる[ように見える]と、さらにより過激な人物を送り込んできた。

ドナルド・トランプに投票することが、この過程の最終到達点だ。少なくとも、我々はこれが最後になることを望みたいものだ…。いずれにせよ、トランプが目立った失敗をしでかすことや、ポジティブな変化を起こせない事、そしてそれらが破滅的な悪循環の継続へと至ることは、既に予測可能だ。何よりもまず、トランプは、プロセスを積み重ねることや、組織的な観点について考えることができない。トランプは、悪い政策結果を目にした時、関係者が「愚かだ」と推定するだろう。そして代わりに「頭が良い」人物を起用すれば、良い結果を生むと考えるだろう。このやり方は、失望を生む処方箋となる。続いて、特効性のあるチェンジを(主に議会の会期中には)約束する事なり、これも単により悪い結果に至るだけだろう。一方で、彼が約束している裁判官人事は、憲法上の制約をより強化することになる。それによって、選挙資金集めの改革や、ゲリマンダーを終わらせることも不可能になるだろう。

[2つ目は]トランプの当選が意味する物である。

アメリカ人は、「トランプの当選がアメリカ人にとって何を意味するのか」という問題に夢中になっている。私はアメリカ人でないので、「トランプの当選は世界にとって何を意味するのか」という問題に興味がある。以下は過剰な心配かもしれない、しかし、昨日[のトランプの当選]は、ベルリンの壁崩壊のような世界文明の方向性が変わった瞬間の1つであるように、私には感じられた。ドナルド・トランプが合衆国大統領になった事は、西洋民主主義の信用を深く毀損する事になるだろう。この事実に沿って個人的に考えるなら、火曜の[大統領]選挙の国際的な大勝利者は、中国式の権威主義ではないだろうか。なので、ソ連の崩壊が共産主義の破滅を導いたのと同じように、トランプの当選は、自由民主主義からの世界的な離反に至るターニングポイントに相当するかもしれない。

アメリカ人がトランプについてどう考えようとも、グローバルな見地で観察する限り、最も重要な事実は、世界中の人々がトランプを無能な道化と見なしている事だ。言及せねばならないが、中国の人々は、トランプが任命された小事でもって既に祭り状態だ。中国は過去にジョージ・W・ブッシュが大統領である事で巨大なプロパガンダを貼る利益を得ている。当時の中国のプロパガンダは「我々の政治制度の方が優れている。なぜなら、我が国ならこのような無能者を国家元首にする事は許されていない」だった。トランプ大統領の任期中にも同じようなプロパガンダが貼られるだろう。(追加するに、この道化の狂った男は、ジュリアーニ、ギングリッチ、ペイリン、ボルトンのような内輪の人事を行うだろう)。中国への民主化圧力が不可能になることは確実だ。

より重要な事に、気候変動のような問題でグローバルな指導的地位に何が起こるか考えねばならない。この件でヨーロッパ諸国は、気まぐれで、自己中心的だ。その上、気候変動の件では、重要な国際的地位を占めていない。合衆国政府は、破滅的な統治の失敗を被っている。そしてその元首[トランプ]は、この問題を完全に否認している。よって[世界の]人々は、[気候変動問題で]指導的地位を探索することになる。その探索の自然なる集結地は、中国になるだろう。ざっくり考えるなら、人類の未来が中国にあるように見える出来事の始まりとなる。より憂鬱なことに、([合衆国と同じく]限定的な改良統治に従事しているにすぎない)中国の政治制度が、安定と繁栄を保証するような1つ[の政治制度の選択肢]として見え始めている。中国が地球上で最も進歩していなかった300年はだんだんと例外に見え始めており、今では伝統的な[国際社会における]支配的地位に返り咲きつつある。

自由民主主義政体の在り方は[アメリカの]他にも多数存在し、そのほとんどはアメリカより優れていることから、以上の結論は確定された見解ではない。(私が過去に何度も指摘してきたように、アメリカは、海外では自身の制度[大統領制]を再設計しようとはしていない。例えば、イラクに侵略した後、アメリカは議会制民主主義を押し付けている――議会制民主主義は大統領制より優れていることを、アメリカ人の一部は暗黙裡に認めているのだ)。にもかかわらず、合衆国政体は世界で最も名声ある民主主義政体なので、合衆国の統治の失敗は、民主主義理念の失敗として広く認識されることになる。アメリカという一国家の失敗にすぎないのだが…。

だからたとえ、トランプが『孤立主義』でなかったとしてしても(例えば、彼がTPPをぶち壊さなかったり、NATOを軽視しなかったりしても)、今回の選挙は中国にとって巨大な勝利であり、中国の政治制度を賞賛し擁護する人々にとっての巨大な景気づけにもなっているのだ。

※訳者による補足の単語等は基本は[]で括っている
※訳注:初訳時に、誤訳を指摘してくれたoptical_frog氏に強く感謝を!

  1. 訳注:ヒースと『反逆の神話』等の共著があるジャーナリスト []
  2. 訳注:ディベート等で両候補者の立ち振舞いを見て「ヒラリーの勝ち」等を断定していた評論家への、ヒースの嫌味と思われる。 []
  3. 訳注:トロント市長(2010-2014年期)。トランプと同じく奇矯な振る舞いで話題を集めた。 []
  4. 訳注:右翼団体シチズンズ・ユナイテッドによるヒラリー・クリントンを排撃する偽ドキュメンタリーと、その放映の是非を巡る最高裁での裁判。さらには該当ドキュメンタリーの放映の合法判決によって、プロパガンダ的なTV番組によるキャンペーンが可能になった現象全般を指していると思われる。リンク先で詳しい解説を日本語で読むことが可能。 []
  5. 訳注:政治家が、自身や自政党に都合が良いように選挙区の区割りを行う事。最初に問題視された政治家の名称がゲリーであったことと、区割りした地域が想像上の怪物『サラマンダー』に似ていたことで、『ゲリマンダー』と呼ばれるようになった。 []

ジョセフ・ヒース『何が人を陰謀論者にするのか?』(2016年12月5日)

What makes someone a conspiracy theorist?
Posted by Joseph Heath on December 5, 2016 | politics, United States

多くの人が、ドナルド・トランプに指摘している事の1つに、トランプが顕著なまでに陰謀論にハマりやすいように見える事がある。陰謀論について議論される時、「『陰謀論』とは正確に何であるのか」とか、「どのような精神的特徴が、人を『陰謀論者』に陥らせてしまうのか」、といった問題点が明確にされることは滅多にない。私は、自著『啓蒙思想2.0』で、陰謀論の説明を試みている。よって、この自著から、一部抜粋して再掲載するのが、タイムリーかもしれないと考えた次第である。

基本的に、一般的な陰謀論者は、『確証バイアス』の罠にハマっている。どんな男女であれ人は、まず外界にパターンを見る。そして、そのパターンに原因を見出してしまう習性を持っている。ただ一方で、原因を否定する数々の証拠に対しては、はなっから検討しようとしないので、物事を体系だって考えることを失敗してしまうのだ。[反証の検討に]代わって、人は、自身の見たパターンに沿う、より多くの事例が単に目に入るようになってしまう。そして、[目に入った]おのおのの事例を(誤信して)、見出した原因の証拠と扱う事になってしまう。

陰謀論者達は、キース・スタノヴィッチ1 が『合理性障害(dysrationalia)』と呼ぶ現象の最適の事例として見ることができるだろう。陰謀論者達は、おおむね平均以上の知能の持ち主だ。この高い知能によって、彼らは、外界にパターンを発見し、そのパターンに対応する原因、すなわち『理論』を見出してしまう。陰謀論者が欠いているのは、合理的な『反証能力』、すなわち、もしかしたらの矛盾した証拠を意図的に考える能力である。(因みに、陰謀論者達の幾人かは、熟考する質である。その具体的理由を挙げるなら、非常に多くがエンジニアであるからなのだ。彼らは、技術的な教育を受けている故に、非常に複雑な理論を理解し、生成する能力を得ている。そして、それでいながら、「反証事例の重視」といった科学的な思考方法の教育を欠いてもいるのだ)。

『確証バイアス』という現象の詳細に関して、個人的に強く推奨したいのが、レイモンド・ニッカーソンの『確証バイアス:一知半解の積み重ねによる普遍的現象』(“Review of General Psychology (1998)”掲載)である。
という事で、以下が『啓蒙思想2.0』からの一部抜粋(助長な部分は削った編集版)となっている。
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哲学者であることの否定的側面の一つを、私は日々見知ることになっている。それは、カルトの信者からの望まないメールを、大量に受け取る事にある。カルトの信者達は、自身の「哲学」についての、私との議論を望んでいるのだ。最近の、私のメール受信箱には、法輪大法(法輪功)からのメールがやたら並んでいる。法輪功は、ほとんど無害な組織であるにも関わらず、([教団が]組織化された事で)、中国政府を脅かす失態を行ってしまい、それによって、まがうことなき弾圧を被っている。この中国政府による弾圧は法輪功を、結果的に本来よりも有名にしてしまっている。法輪功のコア思想は、伝統仏教の瞑想の実践に、精緻な宇宙人のマインドコントロール理論を融合したものだ。創始者・李洪志によれば、科学とテクノロジーの発展は、宇宙人の策略であるとのことらしい。策略とは、人類間に戦争と破壊を扇動することであり、それによって宇宙人は、我々の身体を奪い、地球人に成り代わろうとしているそうな。こうして詳細を見てみれば、まさしく文字どおりトンデモだ。しかし全てのカルトがそうであるように、問題とすべきは、何千もの(あるいはこの場合は何百万もの)トンデモでない常人がこのようなカルトを、どのようにして信じるようになるか、ということである。

法輪功に関して驚嘆させられる事の1つが、まったくもって平凡であることだ。あらゆる面からみてもそうなのだ。世界のどこの誰が見てもすぐにわかるくらい平凡なのである。中国的な特徴を持ったトンデモさもまったくない。精神感染における平凡な風邪に例えても良いであろう昔ながらの特徴の無いトンデモさなのである。彼らの文章を読むと、カルトをどのように創設するのかといった、世界共通の指示マニュアルに従っているのではないのか、との錯覚に捕らわれる。信者をどうやって魅了するのか? 選択肢の1番手は、奇跡的なヒーリングの小話だ! 個人的には十全に予測していたが、以下のような推薦文が含まれたメールを、私は法輪功の信者から受け取ることになった。

「法輪大法は良きことなり」と演唱することで現前した多数の奇跡を、私は見聞してきました。リュウ女史は唐山市の村に住む69歳の女性です。去年、リュウ女史は大腸癌と診断されました。医師からは「あなたは、高齢で血圧が低すぎます。安静にするしかないでしょう。自宅に帰って、好きなものを食べましょう」と言われました。彼女3つ目の妹は、法輪大法の実践者でした。妹はリュウ女史を訪問して、「法輪大法は良きことなり」と演唱する法輪大法の実践を教えました。すると10日後には、リュウ女史は完治し、末期癌は消え去っていました。何よりの奇跡的事実に、リュウ女史は若い女性のような見かけとなり、とても美しくなったのです。これこそが、法輪功の神聖なる力なのです。李大師はイエス・キリストより圧倒的に優れているのです! 法輪功は人々を救っています。法輪功はすべてを解決するのです。

この種の話を、お馴染みで聞きなれていると感じたら、それはいたるところで見聞きするからだ。人に誤った信念を持たせる、世界共通の実践マニュアルのようなものが存在する。パスカル・ボイヤーが明らかにしたことによると、いくつかの非現実的な創作話の中には、他の創作に比べて、人が信じやすいものがあるそうな。人間の推論能力には、特殊な先入観バイアスがいくつか備わっている。何かを信じてしまうような信念システムは、こういったいくつかの先入観バイアス利用しながら[信念を]拡張していき、そしてさらに信念を自己増殖・強化することになっていく。この増殖・強化プロセスによって、カルトに信念を持たせるようなシステムは働いている。カルトの『教義』は、こういったシステムを作動するような普遍性を持っているのだ。我々をうんざりさせるほどお馴染みの『教義』ではあるが…。これら[陰謀論やカルトを信じてしまうような信念システム]は皆、生態学的ニッチ(隙間ポジション)と同じようなものだ。非合理的な信念の中には、普通の人間が実行可能な警戒心のほとんどから、逃れていることに成功しているものがある。生物の免疫システムによる探査から逃れているウィルスのようなものである。

唐山市のリュウ女史の話に戻ろう。このメールには多くのツッコミどころがあるが、最も目立った特徴は、心理学者が『確証バイアス』と名付けている現象を利用していることである。人間は仮説を立てる時、仮説に適合する肯定的な証拠だけを目にする一方で、仮説に不適合な証拠を確認することは見逃してしまう性質を持っている。人間は「否定的な事について考える」のに失敗してしまうのだ。リュウ女史の回復と法輪大法の神聖なる力を関連付けるには、[このメールだけで判断するには]2つの情報が欠けている。まず1つ目は、女史が「法輪大法は良きことなり」を演唱していなかったら、どうなっていたのだろう? という事である。例えば、ガンが単に誤診であった可能性である。あるいは、女史が本当にガンにかかっていたとしても、自然治癒したり、端的に長期間生存した可能性もある。2つ目は、末期ガンにかかっている患者で、「法輪大法は良きことなり」と演唱したどのくらいの人が回復しなかったのだろう? ということである。多くの人がこういった疑問を尋ねないものである。単に思いつかないだけの事もあれば、この話だけでは必要な情報を欠いており仮説を補強するのがまったくもって不可能なので、気づかない事もある。これらの事象を正しく認識することに失敗してしまうのは、『迷信』を信じてしまう特質の一つでもあるのだ…。

こういった認知バイアスについて見知ると、他人が愚かであることを説明していると、考えたい誘惑にかられる。愚かであるかどうかの自己診断を行うのは、非常な困難を伴う。ダニエル・カーネマン2 は、この件を「心理学を教えることの無益さ」と説明している。[カーネマンが教えた]学生たちは、致命的なエラーやバイアスを証明している実験について、ほぼ全て事前に見知っていた。それでいて、学生達は、[実験で指摘されてもいる]バイアスに自身がハマっているという当然の帰結には、疑うことなく「自身を例外化した」とのことである。このようなことになってしまう理由の1つは、内省を行うことでバイアスに気付くことができ(そして、バイアスについて知っているという事実だけで、影響から免疫を得られる)との誤った信念を保持しているからなのだ。もう1つの理由は、ほとんどの人が、生活におけるほぼ全領域で、自身を過大評価してしまうという、別の有名な認知バイアス故である。[自身だけは]バイアスから逃れることができるという思い込みは、この偏在している過大評価バイアスの一例だ。心理学者達は、[自身を例外化してしまう]このバイアスを『バイアスの盲点』と指摘している。中国の農民達の迷信深さを嘆くのは簡単なことだ。しかし、自分自身については、それはそれ、これはこれと考え、あっさりと別の話にしてしまう。

私を俎上に載せると、大学教授で、哲学科で教鞭を取っている。現キャリアを達するのに、論理学、議論分析学、確率論を学び、教えてきた。気質の一端は合理主義だとは自覚している。小学校の3年頃には、同級生たちに『ミスター・スポック3 』と呼ばれ始めた。以後、チェスクラブに入った後、コンピュータープログラムを行い、最終的には論理学と哲学にたどり着いた。『認知バイアス』についての心理学の文献を幅広く読んできてもいる。『確証バイアス』とは何であるのかとか、『確証バイアス』がどのようにして特徴的に具現化するのか、といった事例は十分に見知っているつもりだった。もっとも、何年か前のある日、『確証バイアス』について調べるテストを受けたことで、自身も最も初歩的な罠にハマっている事に気づいてしまったのだ。以下は、人間の合理的能力を混乱させるようなテスト問題を生み出す天才、ピーター・ウェイソンによって創られたテストである。

試験官:これから、連続した3つの数字を示します。数字を生成したルールを推測してみてください。答えを決める前に、あなたは3度、私に質問することが可能です。質問は以下に限定することとします。あなたは3つの数字を示して、私はその示した数字が、ルールに合っているかどうか返答します。

私:了解した。面白そうだ。すっごく得意だったマスターマインド4 にちょっと似てるね。

試験官:では、組み合わせは2、4、6です。

私:わぉ、簡単そうじゃん。ウォーミングアップってことかな。ってことで、6、8、10はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:うーむ、了解。22、24、26はどう?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:了解。バカバカしい。もう最後の質問は必要なさそうだが、一応、100、102、104は?

試験官:はい。ルールに合ってます。

私:よっしゃ! ルールは「3つの偶数数字の昇り順並び」だね。

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:聞き間違い? もう一度言ってくれ!

試験官:いいえ。それはルールに合ってません。

私:いったい何が正しいルールなんだ?

試験官:ルールは「昇り順のあらゆる3つの数字」です。

私:3、5、7でも、ルールを満たすと言いたいのか?

試験官:はい。

私:2、67、428でもルールを満たしている?

試験官:はい。

私:オーマイガー! 俺ってバカじゃん。

以上によって、私は『確証バイアス』を真剣に捉えねばならないと教訓を得ることになった。仮説を立て、それを定量化することを求められた時、私は、最初に見出したパターンに即座に飛びつき、自説を補強するような証拠ばかり目に付くようになった。一方で、反証の試みを完全に失念していたのだ。一度でも『偶数の並び』が脳裏に定着してしまうと、『奇数の並び』を、[試験官に]提示して「いいえ」の答えを引き出す事[で自説の『偶数並び』を補強する事]を、まったく思い付かなくなってしまったのだ。「否定事実を考える」ことに完全に失敗した次第である。事実、3度目の質問を問う前に、一瞬戸惑ったのをハッキリ覚えている。「聞かねばならない別の質問があるのでは?」ではなく、「有用な全質問」をもう使い切ってしまった、と考えて戸惑ってしまったのだ。私を少なからずの困惑に陥れたのは、たった1、2回で十分なのに、なぜ質問の機会を3度与えられのだろう、と考えてしまった事だった。

確証バイアスを調べるこのテストにおいて、特徴的要素として見出されているのが、単に「人は願望に沿って考えてしまう」といった事実以上の、人の認知過程である。人は、自身のお気に入りの考えを補強する証拠だけを見出してしまうとか、信じたいものだけを見てしまう、といった話はお馴染みだ。しかし、以上実験が示しているケースは、私が最初の仮説を発見するのに、いっさいの先入観を必要としなかった事にある。我々の合理的思考には、単純にして巨大な盲点が存在するのだ。私の「6、8、10」というルール推測の提示に、試験官は「はい」と回答している。この回答は、私が提示した仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を補強することになっている。ここで問題になるのは、「試験官の『はい』」は、[私が提示しなかった]別の多くの仮説も補強しているのだ。私の仮説「3つの偶数数字の昇り順並び」を確定させるには、「別の多くの仮説」がルールに不適合であることを示さねばならない。そして、私は失敗に至った。酷い、呆れ返るような失敗を犯している。これは、人々が、リュウ女史の奇跡的な回復を、法輪功の神聖な力によるものと信じてしまう問題ととまったく同じである。

この事を考えると、我々の直感的判断がなぜ事象の正確な認識に失敗してしまうのかが、容易に分かるだろう。人の瞬間的な認知が、特に得意にしているものの一つが、パターンの再認識能力だ。チェスのグランドマスターや、経験豊富な医師や、ベテランの消防士を際立たせているものが、このパターンの再認識能力である。彼らは凡人には見ることができない過去に見たパターンを即座に再発見することができる。不幸なことに人間の脳は、過去に見たパターンの再発見を行うように非常に活性化されている。脳は、何も存在しない様な状況でも、そこにパターンを見てしまう傾向を持っているのだ。この傾向が病的な領域にまで至れば、『アポフェニア5 』と呼ばれることになる。しかし人間の水面下を統べる思考の傾向としては、この傾向はいたるところに存在しているのだ。たとえば、ほとんどの人は、ランダムなコイン投げやサイコロ転がしを見せられた時、「これはランダムでない――なぜなら非常に多くの『連続』が含まれているからだ」と強く主張することになる。アップルは、アイポッドの『シャフル機能』について、「『ランダムな順番』であるべきなのに特定のアーティストをえこひいきしている」と主張するユーザーによる、偏執的な不満を大量に受けることになった。

人は一般的に『ランダム』について、直感的な理解を欠いているので、ありそうにない『偶然の一致』に遭遇することで、常々驚かされることになる。心理学者達の何人かが示唆しているのが、自然環境において純粋なランダム事象の発生はあまり一般的でないため、人間はこの『ランダム事象』を見出す能力を得る利益を特に必要としなかった、故にこの能力は発達しなかった、という説である。よりありえる端的な説明が、『間違えた肯定(存在しない事実を、存在すると考えてしまうパターン)』は、『間違えた否定(存在する事実を、存在しないと考えてしまうパターン)』より、進化的コストが格段に低い可能性である。そうつまり、自然選択は、[過去に見た]パターンへ非常に高い感受性を発揮する一方で、[見たことがないパターンの発見へは]とりわけ低く特化することになる認識システムを、選好してきたことになる。[サバンナ地方等でサーバルのような]捕食動物に襲われ[「た、たべないでくださいー」と逃げ]る可能性がある環境においては、草木がガサガサ動くような事ですら潜在的脅威として扱う[進化的な]対価を支払うようになる。何もないのに、『おびえて』逃げ出すようになる[進化的]コストは、なにがしかの明らかな[危険的]徴候を無視して八つ裂きにされることより、非常に安価なのだ。なので、我々は、なんらかのパターンを見ると、非常な興奮状態に陥る傾向にある。「自分は間違えているかもしれない」と考えるのは、自然に浮かぶ思考ではない。それは、自動制御的な認識システムを、理性によって解除し手動制御に強制移行する行為なのだ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:カナダの心理学者。邦訳に『心は遺伝子の論理で決まるのか』等がある []
  2. 訳注:行動心理学者。2002年にノーベル経済学賞を受賞している。 []
  3. 訳注:SFテレビドラマ『スタートレック』に登場する、合理的思考が特徴の戦艦の副長。「船長、それは非論理的です」が口癖。 []
  4. 訳注:出題者によって隠されたピンの色を推理によって当てるボードゲーム、 []
  5. 訳注:無作為や無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出してしまう知覚作用を指す、心理学用語。 []

ジョセフ・ヒース『私の考えを一変させるに至った10冊』(2015年7月5日)

10 books that blew my mind
Posted by Joseph Heath on July 5, 2015 | education

今現在、個人的には完全に真夏モードに入っているので、しばらくブログのエントリは軽い内容が増える予定だ。この機会に、過去に幾人かから寄せられてきた質問への返答を投稿しておこう。ということで、このエントリ、私の物事への見方に強い影響力を与えた(あるいは、私の思考を根源レベルで変更するに至ったり、私の卑小な考えを一変させたような)書籍10冊を挙げさせてもらっている。10冊からは古典を除いているので、全て第二次世界大戦終結以後に出版された書籍となっている。

1.ユルゲン・ハーバーマス晩期資本主義における正統化の諸問題』1973年

2.ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論』1978年

3.タルコット・パーソンズ社会体系論』1951年

4.デイヴィド・ゴティエ合意による道徳』1986年

5.ジョン・ローマー “A General Theory of Exploitation and Class”『搾取および階級の一般理論』1982年 ※未訳

6.ロバート・ブランダム “Making it Explicit”『事象を明示化する』1994年 ※未訳

7.ロバート・ボイド&ピーター・リチャーソン1  “Culture and the Evolutionary Process”『文化と進化の過程』1985年 ※未訳

8.フランソワ・エワルド2  “L’etat providence”『福祉国家』1986年 ※未訳

9.トーマス・フランク3  “The Conquest of Cool”『クールの征服』1996年 ※未訳

10.ジョージ・エインズリー4誘惑される意志』1992年

以上リストは、私が読んだ時系列順である。私の哲学的見解は、これらの書籍の内容の総和によって形成されていると常々感じている。なので、この10冊を読めば、私が強く抱いている関心と、それについて言わんとすることを推察できるようになるはずだ。今のところ、世界中を見渡しても、ここで挙げた10冊を全て読み込んでる人はいないようなので、これ幸いなことに、独自性を打ち出すことにも成功しているかもしれない。

因みに、この10冊、どれも『簡単』に読める本ではないので、夏休みの読書リストにするのはお勧めはしかねる。これらのうち何冊かは、私個人も文字通り何年もかけて読んだ(一部は理解に副読本を要するような)書籍となっている。なので、私個人としては、これらを全て、ないし何冊かを読むことを強く推奨したい。一方で、ノンアカデミシャンには理解が非常に難しい本でもあるので、世間様にお見せするのには、適切でないリストになっているかもしれない。

(最後に、もし古典をリストに追加して良い場合は、カントの『純粋理性批判』『実践理性批判』、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』、ホッブズの『リヴァイアサン』である。)

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:邦訳がない書籍は、原題の直後に訳者による便宜上の邦題を追加している。
※訳注:タイトル直下の年代は、原書の出版年である。
※訳注:日本語版のウィキペディアに項目がある著者は、ウィキペディアへのリンクを貼ることで書籍の著者の紹介を割愛している。

  1. 訳注:ボイド(1948-)は進化人類学者。リチャーソン(1943-)は集団生物学者。共著を多く出している。人間社会は、遺伝子淘汰と、文化等のミームによる淘汰の相互作用によって形成されているとの『二重相続理論』と呼ばれる理論の代表的な提唱者 []
  2. 訳注:1946年生まれのフランスの歴史学者であり哲学者。福祉政策と国家の関係についての研究で有名。1976-1984年までミシェル・フーコーのアシスタントを努め、フーコーの著作の編集等を行っている。フーコーの正統な後継者と看做されるいる。 []
  3. 訳注:1965年生まれのジャーナリスト。主にハーパーズ・マガジンで、政治や主流文化の分析記事を執筆している。 []
  4. 訳注:行動心理学者。テンプル大学教授。『双曲割引』の研究で有名。 []

ジョセフ・ヒース『パンクは死んでいない』(2016年3月21日)

Punk’s not dead…
Posted by Joseph Heath on March 21, 2016 | culture

反逆の神話」を書いたおかげで、音楽や文化についての意見を今でも求められることがあります。いつもは断りますが、イギリスの音楽ライターであるジェミリー・アレンが持ってきたアイデアに興味を引かれたので、この記事1 に対するインタビューを受けることにしました。

しかし、メールによるインタビューだったので、返事に大変な時間が掛かったうえに、恥ずかしながら大部分が没になりました。そこで、興味のある人向けにブログで全インタビューを掲載します。

問:『反逆の神話』の中で、カウンターカルチャーはシステムに対して脅威ではないと、あなたは主張しました。芸術は何も変えないのでしょうか?

共著者のアンドリュー・ポターと私がその本で議論したのは、60年代に発生しパンクの時代にも強烈な影響を持っていた政治的思想についてです。しかし、それは前世代の共産主義者が資本主義に反対したような革命的な力を持つには至りませんでした。資本主義は、教育システムや軍産複合体、教会、家族など、社会の全様相に影響を与えている、巨大な問題の顕著な特徴の1つと考えられています。

本当に革命的であるには、もっと社会の全体に対して反抗を行う必要がありました。さらに[カウンターカルチャーによって想定された既存の社会システムの]中心的な特徴は、秩序と規律の固定化にあると考えられていました。もし[既存の社会システムにおける]全体的な文化が、[社会の構成員に対して]抑圧的であるならば、無秩序かつアナーキーを称揚するカウンターカルチャーを形成することによってのみ『解放』が可能になると、当時は考えられていました。

この考えは左派にかなり大きな影響を与えました。その現象を私たちは本のなかで以下の様に書きました。「ジャズクラブで待ちぼうけをくらっているヒッピーが、投票者を得るように努めている公民権活動家や、憲法改正を訴えるフェミニストの政治家よりも、深遠な現代社会の批評家に見えるようになるのだ」と。

カウンターカルチャーによる社会分析は、残念ながら間違っていたことが分かりました。他に言いようがありません。カウンターカルチャーによる社会分析に従った考え方とは、ある種の規律を破壊できたなら――例えば、もし人々が性的抑圧を克服し自由恋愛を楽しむようになったり、単調で画一化された郊外の生活を拒絶し始めたならば、自由と個性による新時代の幕が開き、ひいては、人々は搾取的な組み立てラインで働いたり、帝国主義と闘うための徴兵を拒否するようになるかもしれない、といったものでした。言い換えれば、カウンターカルチャーは本当に『システム』を撹乱し破壊すると無邪気に信じられていたのです。しかしながら、[社会を構成している]『システム』は実際には順応性や性的抑圧を必要とはしていなかったのです。さらに、そのような思想に基づいた全ての『反逆』は、新しい資本主義の消費対象になりました。例えば、性革命はポルノ産業の黎明を促し、服飾会社はフランネルのスーツと同じように反抗の象徴とされる皮ジャケットを楽しげに売り出しています。カウンターカルチャーによる反逆は、自身が反対すると考えられていたシステムの一部になってしまったのです。

芸術は物事を変えないと言いたいのではありません。しかし、芸術は広告社会の基本的な性質を変えることはできないのです。芸術家はブルジョワ社会とその価値観を100年以上も非難してきました。けれども結果として、反ブルジョワ社会にとっての市場が、どれくらい深くて流動的な力を持っていたかを証明することにしかならなかったのです。

問:パンクは過大評価されていたのでしょうか?

私はパンクの美学について大した見識は持っていません。しかし、パンクムーブメントに巻き込まれた私たちは、自身がしていることの政治的な重要性を大きく見積もりすぎていました。60年代のカウンターカルチャーの失敗から学ばなかったことが問題です。

私たちは皆、ヒッピーを嫌っていました。私たちは基本的に彼らが変革に失敗し、消え去ったと考えていました。ヒッピーの反逆概念は、軟弱で甘ったるいものだった、つまりヒッピーカルチャーには尖った部分は全くないことが原因だと考えました。なので、私たちの解決策は、政治と音楽の両方におけるあらゆる面で、よりハードコアかつ妥協しないようにすることでした。

問題はカウンターカルチャーに対して、私たちが[ヒッピーと]同じアイデアを投入したことです。そのアイデアとはシステムを破壊するために、単に非順応的に振舞えばよいというものです。言い換えれば、パンクはヒッピーと同じ革命理論を持っていたのです。つまり、ヒッピーは上手くやれなかったが、私たちはもっと上手くやれば良いと、考えていたのです。

残念ながら、これはまるっきり見当違いでした。ある意味で、ヒッピーについて、そして60年代についても、十分に批判しきれていなかったのです。ヒッピーの反乱は単に失敗に終わったというだけでなく、ヒッピーの反乱に指針を与えていた思想の分析そのものからして、完全に間違っていたんです。

問:あなたはパンク自体のファンですか? 例えばどのようなバンドを、もしくはどのような音楽を好んでいますか? あなたを熱狂させるのはどんな音楽ですか?

私は若いときにかなりパンクに熱中していました。私は1967年に生まれたので、70年代の音楽に接するには少し若すぎました。しかし、80年代のパンクムーブメントに、どっぷりと熱中しました。カナダの西部で育ちましたが、カリフォルニアのバンドであるDead KennedysやThe Cramps、Circle Jerks、X、The Gun Clubなどに大変に興味を持ちました。1985年にはケベックに引越しましが、そこでは当時、Berurier Noirが巨大な存在感を持っていました。

私の嗜好は進化しましたが、望んだほどではなかったかもしれません。ただ商品を良く評価する方法は確かに学んだと言えます。しかし先日、ホワイト・ゾンビとメタリカ2 を車で流していたところ、娘に「年寄りの音楽」を切ってと頼まれました。私は今、自分が聴いている音楽は「年寄りの音楽」だと悟ったのです。

問:パンクに由来する態度が残っている可能性を認めないのですか? セックス・ピストルズがビル・グランディ事件3 で誓いを立てた場面を見た子供たちがそれ以来、真似をして、さらにその子供たちの子供たちが引き継いできました……。

パンクは『注目を集めるための公式』を完全に確立しました。その公式は今日のアーティストに巧みに引き継がれています。例えば、[メインストリームとされているものに対して]何か下品なことをし、[その下品な行為への]怒りの反応を待ってから、[我々は]保守勢力により迫害される政治的殉教者であると主張したり……と。この公式がいまだに有効であることに少し驚きます。

エミネム4 の曲である“My Dad’s Gone Crazy”と“Sing for the Moment”の歌詞を比べてみましょう。それらの全ての歌詞が本当に『政治的である』ことで論争する価値があるか、自分自身に問うてみましょう? エミネムはアイデンティティ効果を存分に使い、基本的にセックス・ピストルズによる詐欺行為とまったく同じ効果を狙った真似事を行いました。[今においても]彼が正面切ってそのようなことが実行できるという事実に驚かされます。つまり、彼の事例は唯一のものではなく、一種の公式のようなものになったことを示しているのです。ただ公式化したことで、大衆を驚かせることは、ますます難しくなっています。

問:あなたはカナダ出身です。パンクはイギリスのように『発生』しましたか? そしてカナダはアメリカに近く、あなたはアメリカ文化に興味があったそうですが、パンクはいつアメリカに影響を与えましたか? 90年代では大きかったと思いますが、グランジ5 のサブジャンルのようになったように見えましたが……。

確かに、西海岸のDOAやアルバータのSNFUがありました。より大きな計画を持っていたk.d.lang はそのシーンから出てきました。SCUMとAsexualsはモントリオールにおり、Skinny PuppyとVoivodのようなパンクに影響を受けたバンドもありました。バンクーバーのDIYシーン6 出身でNettwerk Recordsから世に出て、最も商業的にインパクトを持ち、世界に進出したのは、サラ・マクラクラン7 です。

問 当時大衆的な音楽だったボニーM8 やデビッド・ソウル9 が世界で聴かれているときに、歴史修正主義者はパンクはイギリスで77年に爆発的に発生したと言います。なぜこのように修正された話を疑問を持つことなしに、私たちは受け入れてしまうのでしょうか?

『オルタナティブ』や『アンダーグランド』と呼ばれる音楽の全体概念は、80年代での実際体験と一致させて理解しなければいけません。過去を振り返って考えると、それらの音楽は、ベビーブーマー世代の後に続いた世代の行動結果と、人口動態に従って音楽産業がどのように働いたのかという現象の相乗効果でした。一般的に人は20代前半で最も音楽を購入します。そして、[視聴年齢と]同年齢前後の人達によってポピュラー音楽は作られ、聞かれるのが通常の状態です。なので、今ならジャスティン・ビーバーやテイラー・スウィフト10 などのような若い世代によって[作られ、同世代に聴かれる事で]ポップの意味合いが定義付けられます。

私たちのようなジェネレーションX11 の場合は不思議な時代でした。私たちが10~20代のころはベビーブーマー世代の人口がとても多かったのです。なので[当時の音楽産業では私たち]若い人々に向けての売上より、ベビーブーマー世代に対する売上のほうが勝っていました。結果として、ラジオやレコードレーベル、レコード店には私達の両親に関わるような音楽、つまり主にスタジアムロックのようなもので占められていました。

[当時の]若者が同世代に向けて音楽を始める時、文字通り自分のレコードレーベルを開設し、独自の流通ネットワークを構築しなければなりませんでした。音楽産業は人口動態に従って、当時の若い世代には完全に興味がなかったからです。当時、アルバムを手に入れることさえも、貴重なツテが必要でした。もし大都市に住んでいなかったら、若者向けの商品は禁制品のように感じたはずです。

記憶の歪みがあります。それを私が初めて感じたのは、ジョン・キューザック12 (彼は私と同い年です)が演じる主人公が高校の同窓会に出席する映画、『ポイント・ブランク(原題は”Grosse Point Blank”)』を観たときです。私が80年代に聴いていたヴァイオレント・ファムズ13 のようなバンドの楽曲が、その映画では主要なサウンドトラックとして使用されていました。私は感銘を受けましたが、その映画は全体的に修正されていたのです。

80年代に実際にさかのぼると、学校のダンス現場は、レッド・ツェッペリンやイーグルス14 などで占有されていました。つまり、ヴァイオレント・ファムズは当時の高校では、私を含めて2~3人しか聴いてないような深刻なまでの『アンダーグランド』な音楽だったのです。クラッシュ15 でさえも異端な趣味でした。

しかしながら、ジェネレーションXの当世代よって作られた音楽だったので、ヴァイオレント・ファムズやクラッシュは時代を定義するような音楽になりました。ほとんどの人々が実際に若いときに聴いていなかったような音楽が、私たち世代を代表する音楽になるという奇妙な状況に至っています。

あなたの質問に答えると、[当時の私たち世代の]人々はボニーMをやはり聴いていたのでしょう、あなたの界隈ではブラック・サバス16 かもしれませんが。しかしながら当時を振り返ると、アンダーグランドなミュージック・シーンはやはりアンダーグランドでしかありませんでした。ラジオやレコード店では全く存在感がなかったのです。

このことはもちろん、本当に破壊的で革命的なものに関与しているという感情を、私たちに引き起こさせました。音楽業界がパンクのレコードを売りたくないという事実と、ラジオ局がパンクを流さないという事実は、私たちが社会システムに対する、なんらかの脅威である違いないと、感じさせたのです。今では、それはただの幻想だったことが分かってます。実際には音楽産業による経済活動の結果に過ぎなかったのです。

ひとたび人口動態が変わったことで、音楽産業は若者に向けて音楽を再び販売し始めるのを、あなたも見ましたよね。それはあなたが『グランジ』と呼ばれる現象に遭遇した時です。その音楽は新しいものではありませんでした。グランジの音自体は、子供たちが10年以上も聴いてきたものでした。ちなみに私たちはそれを『ハードコア』と呼んでいました。突然、その市場が大きくなったので、メジャーレーベルが関心を持ち始めただけですが。

問:ジョニー・ロットン17 のパンク哲学はかなり実存的でした。パンクとは全てに疑問を投げかけるということだ、と彼は言いました。これが、他のどのセックス・ピストルズの模倣よりも、彼にパブリック・イメージ・リミテッドを続けさせている理由ではないでしょうか。ほとんどの人々にとってのパンクとは、同じ服を着て、人々を挑発しつつスリーコードを早く演奏することに順応する事なのでしょうか?

パンクは明確に反乱であり、[当初はなんらかのスタイルへの]順応ではありませんでした。『反逆の神話』で、私たちが示そうとしたことがあります。それは、反乱の発生が競争・示威状態を生み出し、その競争・示威状態の間接的な結果が、どのような順応性に至ったのか、ということです。反乱に関わることはとても格好良く、反乱者に社会的な地位を与えます。結果として、反乱はたくさんの模倣者を惹きつける事になりました。

インストリームの社会に対して、カウンターカルチャーによる分析を行えば、基本的に大衆は洗脳された羊の群れということになります。誰もがそんな群れのなかに留まりたいとは思わないでしょう? あなたは、洗脳された群れの一頭ではないことを、どうやって自己表現しますかね? あなたは自分が他者と違うことを顕示するために、反乱を起こさねばならないでしょう。不幸なことに、皆が反乱に走ると、揃っての自滅に至ります。

つまり、本当の反乱を実践するには、常に変わり続け、常に他人からは安易に定義されない新しい道を探さなければなりません。なぜなら『エッジ』と呼ばれているものは、すぐ『見慣れた』とか『主流な』とか言われるようになるからです。これこそ、反抗的なサブカルチャーが常に創造性を持ち、たくさんの洗練された発見を産み出してきた理由の一つでもあります。クールであり続けたい、皆より抜きん出ていたいという、競争・示威状態に駆り立てる姿勢への熱情を、人は持っているからなのです。

話を戻すと、私たちは、この競争・示威状態を求める姿勢を、調和・包括的な意思を拒絶する悪意のある『考え方・姿勢』の源泉だと考えてしまっています。私たちはこういった『考え方・姿勢』に全く関係していないと思っていますが、私たち自身は皆、これを行っているのです。

問:DIY音楽18 の平等性の原則は大変に素晴らしいものです。[DIY音楽による]ちょっとした工夫や改良の積み重ねが、平凡なものを上回る素晴らしい芸術に昇華すると思いませんか?

DIYとは『自営業』の単なる言い換えに過ぎませんよ。楽器の演奏方法を学ぶためのDIYは良い方法ではないでしょう。しかし、作曲し配信する方法については非常に良い方法なのかもしれません。

問:私の意見では、今やDIY音楽はインターネット上で光よりも速く生み出されています。インターネットは恒常的に社会制度や人的資本を変えるのでしょうか?

いいえ、ネットは[社会への]不順応性や文化的反乱を起こすことによって、人的資本を変える力を持っていないのは明白です。ネットにおいて、本物の『オルタナティブ』や『アンダーグランド』なミュージックシーンを維持することは、基本的に難しいのです。なぜなら、誰かがビデオをYoutubeに投稿したり、音楽をSoundcloudに投稿したりすることは、全世界に受容される事を可能にしています。それは結果として、『オルタナティブ』と『メインストリーム』との間にリアルな緊張感作り出し、それを幻想として保つことを不可能にしてしまっているのです。言い換えるなら、『オルタナティブ』が『メインストリーム』に取って代わるかもしれない、というような種類の脅威の醸成ができなくなっていることになります。

私が若いときには、本当に覇権的な大衆文化を担っていたテレビはたった3つの局しかなく、ラジオは5つくらいの局しかなかったのです。これらの事実から、『システム』がなんらかの社会秩序の命令によって動いている、と思い込むのはクレイジーではありませんでした。なのでテレビやラジオを断つことによって、何か破壊的なことをしているようにも感じたでしょう。

今日の若者にとって、『システム』が、覇権的な大衆文化や順応性を要求していないことは明らかです。今日の市場を経験している人々は、何一つとして順応性を強要されていません。ヘンリー・フォード19 の時代、彼は「どんな色の車でさえも手に入る、黒色でさえ」という言葉を残しましたが、技術の発展によってその言葉すら時代遅れになっているのです。若者は、個人に向けて特化し希少化されたものとして市場を扱うことに慣れきっています。[システムへの]不順応性によって資本主義を破壊できるかもしれない、という考え方は、無意味なものとして棄却されているでしょう。30年前にはそう見えたかも知れませんが……

問:パンクは今や、単なる遺物産業、つまり過去の栄光の卑屈なシュミラークル20 のリサイクルになっているのでしょうか?

もし、Sum 41やグリーン・デイ21 を指しているのならば、その種のパンクはジャンル音楽です。しかし、彼らは特に貶めるべき存在であるようには見えませんね。

問:ヒップホップは新しいパンクだと言えますか?

いくつかの点ではそうです。ヒップホップの『リアルであり続ける(”keepin’ in real”)』という概念や『ギャングスタ』は、パンクに見られるような反乱を連想させます。一方で、ヒップホップは熱狂的に資本主義や消費主義を、常に受け入れてきました。政治的文脈では、アフリカ系アメリカ人(彼らを同一視している国際的な層も含めて)の不満に極端に焦点をあてています。なので単なるパンクの繰り返しではありません。ひるがって、パンクの実態は、私たちが60年代に見たもの[ヒッピーカルチャーの事]と同じものの、別バージョンでしかありませんでした…。

問:パンクはジェネレーションXの遺産ですか? あくまで世代の事であり、バンドの事ではないですが…。

『オルタナティブ』音楽の全体的な概念はジェネレーションXの遺産です。私が90年代にトロントに引っ越したとき、『オルタナティブ』音楽のラジオ局がありました。もちろん、それは語義矛盾です。なぜなら、『オルタナティブ』の包括的な概念とは、ラジオでは流されない音楽というものでしたから。もっとも、そんな概念は、80年代以降に生まれ、自身の世代によって作られた音楽に常に接する世代にとっては無意味な概念でしょう。

私の世代は本当に奇妙な時期に育ったことを理解することが重要なのです。ベビーブーマー世代の人口動態はかなり極端でした。そうたしかに、パンクは明らかにジェネレーションXの遺産です。しかし、こうとも言えます。その世代による経験から引き出される独特な特徴を表現する音楽でもある……と。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリは、氏が全訳し、WARE_bluefieldが代理で投稿している。なお、☆氏の許可の元、書体等の一部文章を訂正している。バンド名等、ポップカルチャーの訳注もほぼ全面的に☆氏によるものである。☆氏によると「本文中において重要性の低いバンドの注は省略している」とのことである。
※訳注:「問:」に続く斜めフォントの文章は、ヒースにインタビューしたジェミリー・アレンの問いである。
※訳注:”nonconformity”には『不順応』『不順応性』と訳語を当てている。体制等に対する、『不適合』や『不服従』を意味するカウンターカルチャーで一般的に使われる単語である。対義語の”conformity”は『順応』と訳している。
※訳注:”Rebel”、”Rebellion”には、文脈に応じて『反逆』『反抗』『反乱』を使い分けている。

  1. 訳注:音楽ライターのジェミリー・アレンによる「パンクはゴミだ。パンクは何も変えなかった」という記事を指す。 []
  2. 訳注:共にアメリカの有名なヘヴィメタルバンドで、80~90年代に活躍。 []
  3. 訳注:1976年にイギリスの家庭向けテレビ番組に、クイーンの代役として出演したセックス・ピストルズが、司会者に向かって暴言を吐いた事件。Youtubeで当時の動画を見ることが可能。 []
  4. 訳注:アメリカの有名な白人ラッパーで、主に2000年代に活躍。 []
  5. 訳注:アメリカで90年代に発生した音楽、代表的なバンドにニルヴァーナなど。 []
  6. 訳注:DIYは、”Do It Yourself”「自分でやる」の略で、一般的に日曜大工のような専門業者に頼らないで個人で行うモノ作りを意味する。この意味から転じて、インディーズ等の自主制作音楽全般を『DIY音楽』と呼ぶ事がある []
  7. 訳注:カナダのシンガーソングライターで、4000万枚アルバムセールスを誇る。 []
  8. 訳注:70~80年代に活躍したドイツのディスコバンド。 []
  9. 訳注:1943年アメリカ生まれの俳優兼ポップソングの歌手。 []
  10. 訳注:カナダやアメリカのポピュラー音楽の歌手で、2010年代に活躍している。 []
  11. 訳注:カナダの現代文学作家クープランドによる造語で、60~70年代に生まれた世代を指す。日本で言うところの新人類。 []
  12. 訳注:1966年生まれのアメリカの俳優。『セイ・エニシング』『ハイ・フィデリティ』のような音楽を題材にした青春映画への出演が多い。 []
  13. 訳注:主に80年代に活動したアメリカのフォークパンク・バンド。 []
  14. 訳注:共に有名な欧米のロックバンドで、主に60~70年代に活躍。 []
  15. 訳注:76-86年に活動したイギリスのパンクロック・バンド。80年代には北米でも大規模に受容されている。 []
  16. 訳注:68年から活動するイギリスのハードロック・バンド。 []
  17. 訳注:セックス・ピストルズのボーカルで、後にパブリック・イメージ・リミテッドを結成した。 []
  18. 訳注:上でも説明したが、宅録や自主制作等の音楽活動の事 []
  19. 訳注:自動車会社であるフォード・モーターの創業者。車のベルトコンベア式の大量生産技術を確立したことで有名。 []
  20. 訳注:フランス語で『模造品』のこと []
  21. 訳注:共に欧米で90年代から活躍しているハードロック・バンド。 []

ジョセフ・ヒース『反リベラリズムの解剖学』(2017年02月19日)

The anatomy of anti-liberalism
Posted by Joseph Heath on February 19, 2017 | Canada, multiculturalism

protest-masjid-toronto

金曜日(17日)、カナダ市民は、醜悪な見世物に直面させられた。トロントにあるモスクのすぐ外で、ムスリム系移民の停止と、カナダにおけるイスラム教の禁止を訴える抗議活動が行われたのだ。報道によると、抗議活動の参加者は、総計でわずか15人だったようだ。なので、わざわざ騒ぎ立てることではない。しかしながら、この件が、103号動議1 に関してウソを付き続けている、あるいは馬鹿騒ぎを続けている、カナダ保守党の構成員全員に、自制を促す事にはなるべきだろう。

この件にこれ以上言及する必要は感じないが、CBCラジオによる、抗議活動の参加者の1人である、女性へのインタビュー(オンラインでは聞けないようだ2 )は、グレートですよこいつはァ、という感じであった。多くの人が、党派性に縛られないリベラル3 な社会認識を共用している、との今日の一般的見解がある。この見解は、まったく実情にそぐわない事を、私は多くの事例から知っている。ただそれにしても、反リベラル的見解が、ここまで簡潔で要を得て意思表示されているのを、見聞きできることは滅多にない。インタビュアーが、女性に「あなた方の抗議活動と、シナゴーグ4 前で反ユダヤ主義の抗議活動を行っている人との、違いは何ですか?」と根源的な問いを行っている。女性の返答は、おおよそになるが「ユダヤ主義は邪悪じゃないが、イスラムは邪悪」だった。

完璧な返答だ。彼女らはもはや信教の自由すら認めていない。単純に宗教をひとつづつ見比べた後に、『善』と『邪悪』を判別し、『善』だけを認めよう、というわけである。誰か、ケリー・レイッチ5 に教えてやるべきだ。 移民を『選別』する、よりよい方法として『善』なる人と『邪悪』なる人を単純に分けた上で、『善』なる人だけを残すのである。邪悪に仕える人を除けば、この選別政策に反対する人なんていないだろう?

この件は、人は本当に『リベラリズム』をどの程度受け入れているか、どの程度自分のものにしているかどうか、を測定する良いテストとして出題されている。[反イスラームの]抗議者達の主張を聞いた時の、あなたの率直な反応が「馬鹿馬鹿しい。イスラム教は邪悪じゃない」のようなパターンだったら、あなたはインタビューに答えていた女性とだいたい同じくらいリベラルだ。もし反応が「馬鹿馬鹿しい。個人の自由に関する問題群が、『善悪』かどうかだけの皮相的な判定に収まるわけがないだろう」のようなパターンだったら、主流派エリートの見解へようこそ!

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:去年のカナダでのモスク襲撃事件を受けて与党・自由党の議員によって提出された、人種・宗教差別を批判する国会動議。カナダ保守党は、言論の自由の見地等を理由にこの動議に反対している。このブログ記事で詳しい日本語による解説を読むことができる。 []
  2. 訳注:現時点では、CBCの報道記事でインタビュー動画を見ることが可能。 []
  3. 訳注:ここでのリベラルは、「他者への寛容」といった意味で使われていると思われる。 []
  4. 訳注:ユダヤ教の教会。正式には『会堂』と呼ばれる []
  5. 訳注:「『反カナダ的価値観』を持った移民を排斥すべきである」と唱えている、去年、ヒースが批判した、カナダ保守党の政治家。 []

ジョセフ・ヒース『Brexitに見る、イギリス断絶の諸相』(2016年06月24日)

Intergenerational dimension of Brexit
Posted by Joseph Heath on June 24, 2016 | elections, political philosophy

昨日、イギリスは、国民投票で、EUからの離脱を決定した。この投票の際立った特徴の1つが、決定的なまでの世代間の断絶である。若い人達は、EUへの残留に強く賛成していた。(ここの図表で、投票の内訳を見ることができる。図表によると、55歳以上の年齢層のみがEUからの離脱に賛成票を多く投じている。一方で、別の世論調査によると、18~24歳では75%が、EU残留に票を投じている)。年齢によってこの件への関心の示し方が、明快に断絶している。イギリスは、EUからの移民を受け入れる代償として、自国市民が、他のEU加盟国で、居住し、働く権利を得ている。この権利による便益は、年配の人より、若い人に大きいメリットとなっているだろう。([Brexit後の]事実として、[イギリスの]年金を受給している年配の人は、ヨーロッパの住みたい場所ならどこであれ、住み続けることができる。[年金受給の]カナダ人が、フロリダで生活するのと同じように。一方で、若い人は、[EU加盟国で自由に]働けなくなることで、移動が制限されていると、感じるようになるだろう)。

公平さにおける重要な議論が起こっていると、人によっては感じているかもしれない。年配のイギリス人は、自身の若い頃のイングランドを維持する為に、結果的にであるが、投票を行ってきた。この年配者の投票行動は、イングランドで生活せねばならない将来世代への、無関心さを事実上表明してしまっている。([この年配者の投票行動は]イングランド(とウェールズ)が、強く意思表示を示してきたことと同義でもある。Brexitは結果的に、スコットランドの独立と、アイルランドの統合及び北アイルランドの[英連邦からの]分離を強く促す事にもなる1 )。もうすぐいなくなる高齢者が、結果的であれ、[投票で]強い存在感を示しているように感じられる事は、[投票による]発言権の平等の在り方として正しいのだろうか?

フィリップ・ヴァン・パレースによる、論文『高齢者の投票権剥奪、及び世代間の公平性確保への代替の諸提案』は非常に価値がある論文だ。この件[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]に関して、彼は問題提起を行っている。彼が喚起している論点は、深刻に捉えられるべきであるのに、あまり関心を払われていないように、私には感じられる。もちろん、高齢者の投票権剥奪のアイデアを、そのまま検討するのは、あまりに非現実的だ。しかしながら、高齢者の投票による権力行使を減じさせる方法は、いくつか存在する。このいくつかの方法を取ることで、投票権剥奪を行わずに、[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]を止めることが可能だ。ヴァン・パレースが検討している中で、一つの魅力的な提案が、子供も含む全年齢への選挙権の付与である。もちろん、[選挙権を与えられた]未成年者は、18歳になるまでは、両親や保護者が代理で投票権を行使することになるだろう。この提案が実現すると、幼い子供を持つ親は、1票以上の投票数を得ることになる。

この提案を政策として実施するのは、私には実現可能なものに思えるし、政策理念への反論は今のところ見聞きしていない。イギリスにおいて選挙制度の改革について論じるのなら、この提案を検討してみてはどうだろうか?

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:イングランドの全投票者に占めるイングランドとウェールズの割合は非常に大きく、これら2地域はEU離脱への賛成票が多かった。逆に、スコットランドと北アイルランドはEUへの残留を望む投票結果を示している。スコットランドと北アイルランドの主要産業である農業はEUとの経済的繋がりが、非常に強い。 []

ジョセフ・ヒース『トランプはいかに狂っているか その1(続くだろう…)』(2017年1月26日)

How Crazy is Trump? Part 1 (and counting…)
Posted by Joseph Heath on January 26, 2017 | economy, politics, Uncategorized
昨日、アンドリュー・コインは以下のように書いた

国家が、貿易赤字や貿易黒字を抱えていようとも、それは国の厚生にはわずかしか違いをもたらさない。これは一般常識であり、もちろん個別の国にも適応される。このように[貿易収支を過大視]して考えてしまうのは、ほんの初歩的な誤りなのだ…。

トランプと(その仲間達)は、国家間の貿易の目的は黒字を出す事にある、との考えをどこで仕入れてきたのだろう? おそらく、実業家であるが故に、仕入れてきたのだろう。トランプは、国の貿易収支と、企業の損得の計算を同一視しているのだ。よりありえるのが、会計と経済学を取り間違えている可能性である。経済学部の初年度生は皆、国民所得は、消費と投資と国家支出に、輸出と輸入の差額(すなわち貿易収支)を、総計した物であるという事を、教わっている。

初歩的な経済学理解にツッコむのは、滅多に報われないので、慈悲深くあろうとはしてるが…。

今日の午後になるが、メキシコとの国境に建設する壁の建設費用を、メキシコに払わせる為に、メキシコからの輸入品に20%の関税を課すことになるかもしれないと、トランプの大統領報道官が告知した。以上告知は、コインの2つの説、つまり『初歩的な誤り』か『会計と経済学のとり間違い』のどちらが当たっているだろう? 私の考えは、『初歩的な誤り』である。

多くの経済学者が疑うことなく鋭く指摘しているように、壁の建設費として、メキシコからの輸入品に関税を課すことは、アメリカ人が払う事に他ならない。以上は、常識なのだが…。

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

ジョセフ・ヒース『とある保守政治家の自国第一主義』(2016年11月11日)

Kellie Leitch on Anti-Canadian Values
Posted by Joseph Heath on November 11, 2016 | Canada, multiculturalism, politic

ケリー・レイッチは、私の選挙区選出の国会議員でカナダ保守党の党首候補でもある。彼女は、先日、カナダへの移民希望者に対して、『反カナダ的価値観』の持ち主であるかどうかの『選別』を行うことを提唱した。この提唱への反応を観察することは、今を持ってしても興味深い。多くの人達がこの提唱に激しい怒りを表明している。しかし、怒りを表明した人のほとんどは、彼女の提唱が間違えているとハッキリ言明するのに苦慮もしている。

もちろん、レイッチ提唱の選別は、現実の運用面に関しては、完全な反論が可能だ。選別を実際に行うには、移民の価値観を、直接問いただす事になり、これは非現実的だ。よって、『反カナダ的価値観』を保持していると疑いのある特定の国から来た特定の集団や人達(ニカブ1 を着用しているような女性)への選別処置が、唯一の方法になるだろう。ここで、もしなんらかの言質を取らせるような質問――例えば「あなたは男女は平等であるべきだと信じていますか?」――を行ったとしよう。すると結局のところ移民達は互いに相談することで、即座の『正しい答え』を返すようになるだろう。なので、本当の唯一の方法、外見上の特徴に基いて疑わしい『反カナダ的価値観』を抱えていると思われる個人を締め出す処置に至るだろう。

現実の運用面での反論はひとまず置いてけば、レイッチ提唱の選別に対して、筋が通った反論を、あまり見ることができていない。移民が『反カナダ的価値観』を持っているかもしれないと、わずかでも示唆することは、単に移民に汚名を着せる事であり、差別的でもあると、多くの人は考えているようだ。以上のように考えてしまうことは、罪深いまでにナイーブな考えだ。世界中の多様な国々の、同性愛、性的平等、人種差別、親の権威、子供への体罰、動物の扱い方、その他これらに類する多くの件での公的態度を参照してみれば、世界中の多数の人々の『価値観』が、カナダの多数派の『価値観』と著しく異なっていることは明白だ。おまけに、ほとんどの移民は、経済的機会を求めてカナダに来ており、出身国の社会的価値観から逃れてきたわけではない。なので、移民らの持っている価値観は、出身国の一般的な価値観を反映したものになるだろう。結果として、やってきた移民の多様な価値観は、カナダ人が一般的に同調している価値観から、深く外れたものになっている。一つの事例を挙げるなら、パキスタンからカナダへのムスリム系移民の52%が、同性愛は社会的に許容すべきでないと考えている。一方で総カナダ人では14%しか同じように考えていない。この数字は特に驚くべきものではない、なぜなら同性愛はパキスタンでは、違法であると共に、深い禁忌だからだ。

他の事例についても考えてみよう。多様な移民コミュニティでは、子供への体罰のような事例でも、深刻な不安事を孕ませている。カナダ国外では、多くの人々が子供をぶっているし、それが普通だと考えられている。子育て時には、子供をぶつのは必須の習慣であるとさえ考えられてもいる。カナダに来た移民達は、カナダにおいて子供をぶつことは違法であり、もし子供をぶった事が見つかれば、子供は取り上げられる可能性があると2 、コミュニティの仲間から教えられる事になる。こういった事態はまるでカナダ政府が、『タイムアウト3 』の適切な使用方法や、「テレビ・タブレットは○○時間まで」といったモニターから子供を遠ざけるルール等々の、体罰に代わるしつけ技術を移民達に講習することを怠っているようでもある。さらには、現行法には、非常などっちつかずな要素が残されている。カナダにおいて子供をぶつ事が悪いという考え方は、相当に最近のイノベーションであるからだ。(私が小学生の頃は、まだ教師達は、受け持ちの生徒達を殴る事が許容されていた。ただそれは、当時においても、公的な学校規則ではなかった。既に父の世代の習慣だった)。多くの移民が、こっそりと自身の子供達をぶち続けている。以上が意味するのは、移民達は、子供をぶっている事が見つかることは恐れてはいるのだ。(余談だが、多くの生まれつきのカナダ人も、同じようにこっそりとぶっている)。移民達の多くは、このような[子供をぶつ事が悪い]習慣に強く反発しており、自身の子供にこの習慣を適用しようとはまったくしていない。その一方で、移民達は、誰かがこの件で、児童福祉を呼ぶ事を恐れてもいる。以上指摘の状況を検討してみれば、この状況はちょっとした窮地にある。多くの移民達は、自身の信仰や慣習はカナダ社会において広く共有されていないことを知っている。ただ移民達は、[カナダ社会に]順応するためにはどのくらい、[カナダ社会において求められる慣習を]受け入れなければならないかに、ハッキリとした基準を持ってもいないのだ。そしてまた、移民達は、少数派であるとの汚名を着せられる事や、カナダの文化に対して無配慮あると表明してしまう事を恐れてもいる。我々カナダ社会の価値観・規範・期待における相互理解は、非常に恐ろしい状況に至っている[訳注:移民に行っている政策が結果的に強圧的なものと黙認の曖昧な同居になってしまっている事を指摘していると思われる]。なんにせよ、カナダに来た移民達に、強い反カナダ的価値観の持ち主が、いるかいないかについて、議論するのことは無意味だ。(余談だが、去年、セリーヌ・ディオンが、ビーバー・マガジンの『最悪のカナダ人』コンテストで優勝した4 時には、私としては「マジかよ!?」と思ったし、「Khadarファミリー5 はどうなってる? 少なくとも両親はどうなの?」とツッコんだ事を思い出した。なんというか、セリーヌ・ディオンらは『悪人』じゃないかもしれないけど、彼女らが『悪いカナダ人』であるとされてるのは、皆が認めているのである)。

以上までの議論をふまえれば「レイッチの提唱を拒否する」とは、どういう事なのだろうか? 一つ目の反論は、生来のカナダ人の多くが『反カナダ的価値観』を保持しており、我々はこれを黙認していることだ。移民にだけ、価値観のリトマス試験的なテストを押し付ける事は、平等に反する事になる。そこで、移民達に、『同性愛者』に関する識別テストを、[不平等を理由に]大目に見た時、カナダの保守的なキリスト教徒の非常に多くの構成員が、『反カナダ的価値観』を持つと分類する事になる。一方で、保守的なキリスト教徒の[反カナダ的価値観の]教義を、大目に見ることになる。以上事態に至ることは、レイッチが『選別』や『反カナダ的価値観』を熱心に話題にする事に、抗するが難しくなるだろう。さらに別の事例だと、カナダでは、前世紀から数十年間もモルモン教徒の一夫多妻制を黙認してきた。(モルモン教徒が一般市民に迷惑をかけなかったり、[結婚対象の]少女があまりに若くない限りは、今に至ってもモルモン教徒の一夫多妻制を黙認している)。移民達の多くは、一夫多妻制が合法で、一般的に習慣化している国(例えばパキスタン)から来ている。だから、レイッチが一夫多妻制を野蛮な慣習と提唱し、カナダの多数派が賛成したしたとしたしよう。するとカナダにおいて、既に少数の人達が行っている一夫多妻制が、完全に許容されている、という厳然たる事実が残ることになるだろう。つまりパキスタンからの移民が、カナダでは一夫多妻制が違法であると理解し、カナダの法に従うという配慮を行う限りにおいては、[以前からカナダに住む]我々は、移民達の価値観について不平を言う事ができなくなるのだ。移民達が、カナダの法を変えるような政治活動を行うような出来事に至っても、我々は当然不平を言うことができない。既にカナダには、活発な一夫多妻制合法運動が存在しているのだ。もちろんこの運動は、政府によって大目に見られている。(私がこの運動を知ってるのはなぜかと言うと、運動の活動家達が、10年以上前に、メーリングリストを送りつけてきたからだ。私は未だに彼らのニュースレターを受け取り続けてもいる)。つまるところ、政府は法を執行しても、市民へ価値観までは課すことはできないのだ。

以上の件とは全く別の事例も挙げる事ができる。私はかつて、友人の1人(ウクライナからの移民者)が、自宅の池で、飼い猫を乱雑に溺死させているのを目撃した。彼は、無造作に、猫達をズタ袋に放り込んで、大きな岩に叩きつけた後に、水中に投げ入れていた。どうやら、ウクライナでは、余剰の猫の処理を、このように行っているようだった。このウクライナ出身の友人は、かつてソ連赤軍に所属しており――たしか”Hard Man”と呼ばれていた――ので、日常的にこの行為行っているのかについて、尋ねるのは躊躇してしまった。ただ強く指摘しておきたいのが、カナダにおいて一般的に、子猫を溺死させるような事を行えば、少なからずの面倒事に陥る。一方で、今においても、多くのカナダ人農夫が、全く同じ方法で余剰の猫を間引いている。通常は、カナダ人農夫の猫の間引きは、移民の件と関連しないだろう。しかし、[移民の価値観を問題視した場合には]問題が生じることになる。近年のカナダ社会では動物倫理についての議論が深刻になり、腫れぼったい問題意識に至っているが、世界のほとんどの人達はこの問題意識を共有していない。なので、移民達は、[例えばこの動物倫理については]反カナダ的価値観を保持したまま、この地にやって来る事になる。(例えば、「[野生の]アライグマを殺してはいけません」といったルールは、トロントへの移民のほとんどには、狂ったルールに見えるだろう)。移民達は、生来のカナダ人が持つ、平均的な意見や考えという観点で比較すれば、非常に強い反カナダ的な考えや意見を保持している。しかしながら、移民達は、『生来の全てのカナダ人が持つ考えや意見』から、完全に外れてしまっているわけではないのだ。リベラルな社会を念頭に置いた時、平均的な意見や考えこそが、正しい意見や考えである、と推定してしまうような思想は、ありえない思想だ。そう、だからこそ、特定の意見や考えに関して、国家が価値判断を示す時には、全領域を見渡した上で、中立性を極端なまでに維持することを試みるのである。

この争論における主要問題は、カナダの移民制度が、カナダ政府が自国市民を扱う際には行えないような方法でもって、[移民達]を既に選別してしまっている事にある。事例を挙げるに、カナダ政府は、一般市民が大学で選択した学習分野に基いて、市民達を区分化して扱うことは、許されていない。しかし移民制度は、そういった区分化(特定の特徴に基いて移民達に様々なポイントを付与すること)を行っている。カナダ政府は、様々な方法でもって、自国民を平等に扱わねばならないという原則に従っている。しかし、非自国民を扱う際にには、そういった原則に強いられていないのだ。今や、一般の人達は、考えているかもしれない、包括的ポイント制度6 は、不平等で違法だと。しかし、ポイント制度が不平等で違法だと認めてしまうと、レイッチは自身の提唱する『選別』は、ポイント制度の不平等さや違法性を、[カナダ国民に利するように]拡張しているだけだ、主張する事になるだろう。我々[カナダ政府]は、言語能力に応じて移民達にポイントを与えている、こういった処置は、移民達をカナダ社会に融和をさせることに、役立っているだろう。なら言語能力以外の、人格的な特徴にも、ポイントを与えるようにすればどうだろうか? 結果的に移民達が、より容易に融和する事を可能にしないだろうか?(この提案は、『人格的適応性』という評価カテゴリーを、復活させる処置になるだろう。2002年まではポイント制度に含まれていた要素だ)。

よって、レイッチの提唱の、移民への『反カナダ的価値観』を選別する必要性への、適切な反応は、(我が信念においても)断固拒否である。なぜなら、家庭的背景がどんなであれ、1世代か2世代を経た時の、移民達と融和する我々の能力は、十分に頑健だからだ。つまりは、[移民も含めた]我々が、英語(やフランス語)で話して意思疎通できる事は、同じく我々が『カナダ的価値観』を、十全に使いこなせている事も意味しているのだ。この件で、我々は、第一世代の移民達[が英語やフランス語を使えない事]について、過剰に心配しなくて良いだろう。なぜなら、移民の子孫達が、訛のないカナダ英語(やフランス語)を話すと予想しているからだ。結局、我々は、移民達が、正統なカナダの保守的価値観を保持することになるであろうとも、予測しているのだ。パキスタン移民は、[リベラルで世俗的なムスリム思想の提唱者である]Irahsad Manjiような、滑稽なまでにカナダ的な価値観の、若い女性を持つに至った。彼女の主たる不満は、イスラームはヒッピーの集団のように運営されていない事や、[イスラームの僧侶である]イマームは信じるべき教義をしつこく言ってくる事のようだ。彼女のようなレズビアンにとって、イスラームやイマームは、まったくクールじゃないのだろう。トロントでは四六時中このような事例を見つけることができる。私が受け持った最後に教室でヒジャブ7 を着ていた生徒は、自称リバタリアンで、保守党の活動員であり、それをガサツに公言していた。彼女の父親が持っていた価値観は何であれ、娘に自身の価値観を継承する事には、著しく失敗していたと思われる。荒っぽく議論をまとめると、我々が、カナダ社会に、移民達を良好に融和する事を維持できている限りにおいては、移民に対する『選別』は必要ないのだ。

さて、もうひとつ小話を。昨年になるが、北アフリカからイタリアに船路で向かっていた、多くのナイジェリア人密航者達がいた。過積載のボートで航行中に、険悪な状況となり、口論が発生した。そして、ボート内のムスリムの渡航者達が、キリスト教徒の渡航者達全員を荷重とし、ボート外に投げ捨てる事態に至った(12人が殺害された)。この事件は今では、最悪な出来事の積み重なった物だとされている。しかし、最も明白な事実の一つは、これら密航移民達が、イタリアへ向かっていた事だ。イタリア社会の融和の試みは、移民に対してはまったく用意されていないという、社会通念がある。そして、この社会通念は、移民達がキリスト教徒に殺意を持っているなら、イタリアは移民が住むのには最適な場所ではない事を、示してしまっているかもしれない。以上の話の教訓、それは特定の国への移住希望者は、希望する国での、日常生活を支配している価値観や規範を、既に準備した上で「乗船している」事を、まったく意味しないという事実だ。移民達はよく、新しい国での生活の有り様などについて、極端なまでに非現実的な期待を抱いている。そして、移民達はよく、非常な視野が狭い経済的動機に、突き動かされている。[カナダ社会に]非常にふさわしくない[思想傾向などの]態度を持っている人が、カナダへの移住を申請するということは、十分にあり得るのだ。以上の原則下において、我々が移民のような人達を、『選別』せねばならない、考えてしまうことは、それほど狂った考えではない。

ここまでの議論は、以下の2つに論点に、集約できる。まず1つ目は、運用面で『選別』行う方法が、存在しない事だ。対象となる人々を、階層化するようなハッキリとした、区別を行うのを除けば。[訳注:このエントリの当初で指摘されているが、外見上の特徴等で『選別』を行うしか手段は存在せず、実際に行うには非常に困難であることを指摘している]。2つ目は、『選別』は必要ないという事だ。なぜなら、カナダに住むようになった人間は、保守的なカナダ的価値観に、急速に染まっていく。もし仮に、第1世代が染まらなくとも、第2、第3世代は確実に染まるだろう。

レイッチの提唱が、私をいくぶん不愉快にさせた理由は、我々(多文化主義に基づいた学問従事者や理論家達)が、この2つ目の論点を断言するには、この[世代を経た移民達の]融和の過程がどのように機能しているとか、[社会]になぜ『選別』は必要でなく、我々の融和する能力への確信には余裕を持って良いのか、といった事を説明するのには、完全に失敗しているからだ。以上が、個人的に最近考えている事案なので、来週か再来週には、この事案で、いくつかのさらなる投稿を行う予定だ。

※※訳注

訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

タイトルを直訳すると『ケリー・レイッチによる反カナダ的価値観』となるが、内容の一般性を考えて意訳している。

“integration”および”integrate”は「融和」「融和する」と日本語を当てている。「同化」や「統合」と訳している事例も多い。

  1. 訳注:イスラム教において、女性が着用することを義務付けられているスカーフの一種。ニカブは目だけを除いて隠すような形態で最も厳格的なスカーフの一つ []
  2. 訳注:カナダでは一般的に保護者からの児童虐待の疑われた子供に対して、自治体は保護者からの隔離と子供の保護措置を行っている []
  3. 訳注:欧米で行われているルール等を守らなかった子供に対して、壁際などに特定時間じっと立たせて反省させるしつけ方法 []
  4. 訳注:セリーヌ・ディオンがアメリカ人と結婚し、アメリカに移住した事に、少なからずのカナダ人は反発している []
  5. 訳注:エジプト系カナダ人一家。ビン・ラディンやアルカイダのプロパガンダ活動を行った事でカナダでは有名 []
  6. 訳注:カナダにおける移民希望者へのポイント評価制度のこと []
  7. イスラム教において、女性が着用することを義務付けられているスカーフの一種。ヒジャブは頭髪だけを覆う最もカジュアルなスカーフ []