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ジョセフ・ヒース『反リベラリズムの解剖学』(2017年02月19日)

The anatomy of anti-liberalism
Posted by Joseph Heath on February 19, 2017 | Canada, multiculturalism

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金曜日(17日)、カナダ市民は、醜悪な見世物に直面させられた。トロントにあるモスクのすぐ外で、ムスリム系移民の停止と、カナダにおけるイスラム教の禁止を訴える抗議活動が行われたのだ。報道によると、抗議活動の参加者は、総計でわずか15人だったようだ。なので、わざわざ騒ぎ立てることではない。しかしながら、この件が、103号動議1 に関してウソを付き続けている、あるいは馬鹿騒ぎを続けている、カナダ保守党の構成員全員に、自制を促す事にはなるべきだろう。

この件にこれ以上言及する必要は感じないが、CBCラジオによる、抗議活動の参加者の1人である、女性へのインタビュー(オンラインでは聞けないようだ)には興味をひかれた。多くの人が、党派性に縛られないリベラル2 な社会認識を共用している、との今日の一般的見解がある。この見解は、まったく実情にそぐわない事を、私は多くの事例から知っている。ただそれにしても、反リベラル的見解が、ここまで簡潔で要を得て意思表示されているのを、見聞きできることは滅多にない。インタビュアーが、女性に「あなた方の抗議活動と、シナゴーグ3 前で反ユダヤ主義の抗議活動を行っている人との、違いは何ですか?」と根源的な問いを行っている。女性の返答は、おおよそになるが「ユダヤ主義は邪悪じゃないが、イスラムは邪悪」だった。

完璧な返答だ。彼女らはもはや信教の自由すら認めていない。単純に宗教をひとつづつ見比べた後に、『善』と『邪悪』を判別し、『善』だけを認めよう、というわけである。誰か、ケリー・レイッチ4 に教えてやるべきだ。 移民を『選別』する、よりよい方法として『善』なる人と『邪悪』なる人を単純に分けた上で、『善』なる人だけを残すのである。邪悪に仕える人を除けば、この選別政策に反対する人なんていないだろう?

この件は、人は本当に『リベラリズム』をどの程度受け入れているか、どの程度自分のものにしているかどうか、を測定する良いテストとして出題されている。[反イスラームの]抗議者達の主張を聞いた時の、あなたの率直な反応が「馬鹿馬鹿しい。イスラム教は邪悪じゃない」のようなパターンだったら、あなたはインタビューに答えていた女性とだいたい同じくらいリベラルだ。もし反応が「馬鹿馬鹿しい。個人の自由に関する問題群が、『善悪』かどうかだけの皮相的な判定に収まるわけがないだろう」のようなパターンだったら、主流派エリートの見解へようこそ!

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:去年のカナダでのモスク襲撃事件を受けて自由党の議員によって提出された、人種・宗教差別を批判する国会動議。カナダ保守党は、言論の自由の見地等を理由にこの動議に反対している。このブログ記事で詳しい日本語による解説を読むことができる。 []
  2. 訳注:ここでのリベラルは、「他者への寛容」といった意味で使われていると思われる。 []
  3. 訳注:ユダヤ教の教会。正式には『会堂』と呼ばれる []
  4. 訳注:「『反カナダ的価値観』を持った移民を排斥すべきである」と唱えている、去年、ヒースが批判した、カナダ保守党の政治家。 []

ピーター・シンガー「倫理学と進化:『輪の拡大』出版から30年」(2011年5月18日)

⚫︎ Peter Singer, “Ethics and evolution: The Expanding Circle, thirty years on“, (ABC.net, religion & ethics, May 18, 2011)

 

「社会生物学」という単語はE・O・ウィルソンが1975年の著書『社会生物学:新たな統合』で造語したものだが、幾つもの専門分野を組み合わせた彼の画期的な研究は、社会的な行動の進化についての理論を人間について当てはめたために、議論の嵐を巻き起こすことになった。

人間の本性の理解についてウィルソンは多大な貢献を行ったが、倫理学について書いた際には、この分野について興味を持った科学者が犯しがちな誤謬をウィルソンも行ってしまった。

彼自身の研究は倫理学にとってはどのような意味を持っているか、ということについてウィルソンが間違った理解を持っていたことは、30年前の私に『輪の拡大』を書かせるきっかけとなった。『輪の拡大』では、ウィルソンが行っていた誤謬を説明することと、その誤謬にも関わらずウィルソンのアプローチが倫理の起源について理解するのに役立つということを示すことを行った。そのため、『輪の拡大』は他のどんな科学者の研究よりも綿密な審査の対象となったウィルソンの研究に従って書かれたものである。

社会生物学の内で人間について関係している部分は、現在では「進化心理学」と呼ばれている。社会生物学を人間に適応することは一部の研究者からは猛烈に反対されたのだが、それに比較すると進化心理学の発展に対する反応は穏やかなものであった。

その限りでは、社会生物学から進化心理学へと名前を変えるという戦略は目覚ましい成功を遂げたと言える。進化心理学への許容が拡大したことは名前の変更に由来するのではなく、進化心理学という学問分野が行ってきた業績そのものに由来するのだ、とより皮肉っぽくなく言うこともできるだろう。

30年前には、多くの道徳哲学者たちは科学者たちが倫理学について書く内容について軽蔑していた。自分たちが主張している科学的な突破口は、哲学者たちが倫理について思考していることに関係するのみならず哲学者たちの思考の代替物となるものである…と一部の科学者たちが主張していたことが、哲学者たちの軽蔑の原因であるかもしれない。この点については『輪の拡大』の第3章「乗っ取り宣言」で言及している。

科学的な研究結果が哲学者たちが行っているような種類の思考の代替物となると考えているのは間違っているし、それは倫理学についても同じことだ。なぜそのような試みは失敗する運命にあるのか、倫理学や道徳哲学を着服しようとする試みを哲学者たちが拒否し続けることは正しいことである、人間に関する現象としての倫理の起源や本性を理解することについては科学による助けを哲学者たちも歓迎するべきではあるのだが…これらの論点を明白にすることについて、『輪の拡大』の新版が(再び!)貢献することを望んでいる。

だが、私たちの進化や文化の歴史に影響された道徳判断と合理的な根拠に基づいた道徳判断とを区別することはできるか、という問題については今のところは脇に置かせてもらおう。その代わり、道徳判断はどれ程まで合理的な根拠に基づくことができるか、という問題についてさらに追求させていただこう。

『輪の拡大』を再読していると、客観的な真実であり合理的な根拠に基づいた倫理という考えについて私自身がかなり曖昧な気持ちを持っていたことに気が付く。私は理性が道徳の進歩を導くと書いており、理性とは慣例を権威の源と見なすことを拒否するなどの否定的なタスクに限定されるものではないとも書いていた。

対照的に、理性は「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つなのであり、他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」という原則を導く、と私は論じていた。更に、この真実は「恒久的で普遍的であり、人間や選好を持つ他の生物の存在に依存していない」(ただし選好を持つ存在がいなければこの原則が適用されることもないのだが)、とも書いていた。

しかし、ある人自身の利益は他の人々の利益よりも重大ではないことをふまえると、正しいこととは私たちの行動によって影響を受ける全ての選好について最大限に満たす行為をすることである…という考え方とは異なる考え方を支持するために「客観的な価値」や「客観的な道徳的真実」という概念を用いることは、あまりに「奇妙」であり問題に満ちている、とも私は書いていた。

そのため、上述のものとは異なる考え方…たとえば、罪の無い人間一人を殺さないことによって他にどれ程多くの罪の無い人間が死ぬとしても、罪の無い人間を殺すことは常に不正である、という考え方…は、その考え方を抱いている人の主観的な選好であると見なされるべきだ、と私は主張していた。

もちろん、異なる考え方を選好であると見なすことにより、全ての選好を最大限に満たす行為とは何であるかを決定する際にそれらの考え方も考慮の対象となる場合がある。しかし、選好の充足を最大化しようとすることを求める人々…つまり選好功利主義者が用いる用語によって考慮されることになるのだ。

現在では、私は上述した議論が成功するとは考えていない。「ある人自身が持つ利益は多くの利益の集合の中の一つである」という判断を世界における私たちの状況についての記述的な主張であると見なすことはできるが、ある人自身の利益は「他の人が持つ同様の利益よりも重大ではない」と加えることは規範的な主張を行うことであるのだ。

もし私が規範的な主張は真か偽となり得るということを否定したならば、私は上述した主張は真であると言うことができなくなる。選好の集まりの中の一つの選好としてこの主張が取り扱われることはあるかもしれないが…しかし、私たちは選好の充足を最大化するべきであると主張する根拠はもはや失われてしまっているのだ。

更に、もしある人が自分の利益は他の人々の利益よりも重大ではないということを認めたとしても、それだけでは、我々は全ての人の選考を可能な限りに最大限に満たすべきであるという結論を正当化するには足りていない。

このようなことを言う上で、私は自分の利益が他の人々の利益よりも重大だと考えている訳ではないし、道徳判断は普遍化可能でなければならないという広く認められた必要条件に違反している訳でもない。

このように、客観的な事実を否定することは、私が試みたような主張…形而上学的に問題のないデフォルトな立場としてのある種の選好功利主義を導くのではない。そうではなく、私たちは何をするべきであるかということについてそもそも何らかの意味のある結論にたどり着く可能性を疑うような懐疑主義を導いてしまうのだ。

私たちがたどり着くことのできる結論は主観的なものとなる。私たち自身の欲求や選好に基づいているために、他の欲求や選好を抱いている他人にとっては受け入れる理由が全く無いような結論だ。

1981年には、私はこのような主観主義的な見方を支持することに乗り気ではなかったし、30年という時間も私の乗り気のなさを解消しなかった。

では、代わりとなる考えはあるだろうか?ヘンリー・シジウィックは著書『倫理学の方法』にて倫理的な直感と原則の範囲について研究し、それらの中から3つの「本当の明白さと確かさのある直観的な公理」を選び出した。この3つの公理について短く示すことは、道徳的真実とはどのようなものであるかという可能性の例を私たちに示してくれるので、有益であるかもしれない。

(1)公平と平等の公理:「ある種類の行動が私にとって正しい(または不正である)が誰か別の人にとっては正しくない(または不正ではない)のなら、(訳注:その違いは)私とその人が違う人であるからという事実ではなく、二つの事例の間にある何らかの違いに基づいていなければならない」

(2)自愛の公理:我々は「我々の意識的な生活の全ての部分に対して偏らずに配慮しなければならない…将来を現在よりも少なくも多くも見積もってはならない」

(3)普遍的な善の公理:「各々の人は、自分以外の他人にとっての善を自分自身にとっての善と同等に見積もることを道徳的に義務付けられている…偏りなく見た結果ある善の方が少ないと判断された場合や、彼がその善を知ることや得ることの確実さが少ない場合に限り、例外であるが」

シジウィックは、これらの「合理的な直観」の公理は数学における公理が真であるのとほぼ同じ様に真である、と主張した。倫理学においてこの様な真実が存在し得るという考え方は当時では広く受け入れられていたものであり、G. E.ムーアやW.D.ロスなど、シジウィックの後の時代の哲学者たちにも支持され続けていた考え方である。

しかし、1930年には英語圏の言語哲学では論理実証主義が支配的となった。そして、論理実証主義者たちにとっては、真実とはトートロジー…つまり、その単語が使われている意味のために真実であるか、または経験的な真実でなければならなかった。

論理実証主義者にとっては、数学的な真とはトートロジーである。使われている用語や、それ自体は真でも偽でもない一部の公理の意味を明らかにするものであるのだ。

だが、(訳注:行動などについての)本物の指示を提供する倫理的な公理は、トートロジーでは有り得ない。とはいえ、倫理的な公理は経験的な真実でも有り得ないし(その理由については『輪の拡大』の第3章で論じている)、いずれの場合でも、もし真実が経験的なものであるなら、それを実証するための方法があるべきだと論理実証主義者たちは考えている。

ある主張がトートロジーではなく、そしてその主張を実証するための方法が原理的にすらも無いのであれば、その主張は無意味であると論理実証主義では考えられる。そして、シジウィックの公理はこのカテゴリーに収まってしまっている。

論理実証主義の時代は去ったとはいえ、道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識ついての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『輪の拡大』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる自愛の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。現時点での最良の科学的理解によると、私たちの道徳的直感とは感情に基づいたものであり、進化における歴史の特定の時代において適応的であった反応であると証明されている。

客観的な道徳的真実が存在することは、私たちの直感的な反応と客観的な道徳的真実を区別することが出来るかもしれない、という望みを抱くことを認めてくれる。…客観的な道徳的真実とは、全ての合理的で感覚のある存在が持つであろう行動をするための理由であり、私たちが暮らしている状況とはかなり異なる状況の中で進化してきた合理的で感覚のある存在でさえも持つであろう理由のことだ。

タイラー・コーエン「『蜂の巣マインド』by ギャレット・ジョーンズ」(2015年11月4日)/「ギャレット・ジョーンズによる蜂の巣マインドについての解説」(2011年6月24日)

●Tyler Cowen, “*Hive Mind*, by Garett Jones”(Marginal Revolution, November 4, 2015)


 

同僚のギャレット・ジョーンズが来週には『Hive Mind: How Your Nation’s IQ Matters So Much More Than Your Own(蜂の巣マインド:なぜあなたの国全体のIQはあなた自身のIQよりもずっと重要なのか)』をスタンフォード大学出版から出版するということがお伝えできて、私はとてもワクワクしている。この本は今年の社会科学のベスト本の一つとなるだろう。

 

以下は、ギャレットの本の冒頭の文章だ。

 

この本はIQを上げる方法についての本ではない。IQを上げることがもたらす利益について書かれた本である。そして、高いIQは本人が気付いていないかもしれない方法で利益をもたらすのだ。平均的には、標準テストの成績が良い人はより忍耐強く、より協力的であり、そしてより良い記憶力を持っている。これらの関連性は心理学者たちと経済学者たちによる何十もの研究によって証明されてきたが、個々の点を結びつけて、高いIQは国全体にとっては何を意味するのかということを問うた研究者の数は少ない。そして、数学のテストにせよ読解力のテストにせよIQテストにせよ、その平均スコアは国によって違うのだから、テストのスコアが国全体で上がることは、忍耐強く、協力的で、情報に通じた市民たちの数が増えるということを意味している可能性が高い。つまり、国全体のテストのスコアが高くなることは、無視されるには重大すぎるほどの影響をおそらく持っているであろうということを意味しているのだ。そして、教育研究者たちや公衆衛生当局者が国全体のテストのスコアを高くするための確実性の高い方法を発見することができるとすれば、現在では貧困と疫病が蔓延している場所であっても生産性と繁栄が増すことになるのだ。

 

第一章はこちら、ギャレットによる章ごとの要約はこちらこれはギャレットのホームページだ。Twitterでギャレット・ジョーンズの叡智を授かることもできる。

 

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ジョナサン・ハイト「真実と社会正義:なぜ大学はどちらか一つの目標を選択しなければならないか」(2016年10月21日)

Jonathan Haidt, Why Universities Must Choose One Telos: Truth or Social Justice, Heterodox Academy,  Oct 21 2016.

 

しばしば、アリストテレスは物事をその”テロス(telos)”に基づいて判断していた。テロスとは、目的や結末や目標のことを意味している。医者のテロスとは健康または治療である。では、大学のテロスとは何であるのだろうか?

最も明白な答えは”真実”だ…かなり多くの大学が、”真実”という単語を自校のエンブレムに掲げている。しかし、アメリカのトップ大学の多くは社会正義を自分たちの第一のテロスかそれに等しい第二のテロスとして掲げるようになっているし、そのような大学の数は増え続けている。だが、二つのテロスを同時に持つことのできる制度や専門職は存在するのだろうか?もしその二つのテロスが衝突するとすれば、何が起こるのだろうか?

道徳を研究する社会心理学者として私は30年間大学に所属してきたが、その30年間でこの二つのテロスがますます頻繁に衝突するようになっていく様子を目にしてきた。真実と社会正義との衝突は、1990年代にはまだ対処可能なものであったようだ。だが、90年代以降には衝突の激しさが増していった。それは大学の教授たちの政治的多様性が失われていったのと同じ時期であり、また、民主党支持者たちと共和党支持者たちのお互いに対する敵対心が増していったのと同じ時期でもある。2015年の秋に80校の大学で学生たちが抗議運動を行い、より大規模で明白な社会正義へのコミットメントを行うことを自分たちの大学に要求した時に真実と社会正義との間の衝突は頂点に達した、と私は考えている。多くの場合、学生たちの大学に対する要求には、社会正義的な視点や内容の必修授業や研修を行うことが含まれていたのだ。

いまでは多くの大学の学長たちが学生の要求に同意してそれを実施せざるを得なくなっている。真実と社会正義との衝突はもはや対処が不可能なものになるであろう、と私は考えている。大学はどちらか片方のテロスを選択しなければならなくなるだろう。また、これから入学しようと考えている学生や就職しようと思っている教職員が正確な情報に基づいた選択を行えるようにするために、大学は自校が選択したテロスを明白に示さなければならなくなるだろう。真実と社会正義の両方を掲げようとする大学は、二つのテロスの間で増し続ける矛盾と衝突に直面することになる。

 

〔注意:私は、個々の学生たちが真実と社会正義の両方を追求することができない、とは言っていない。以下に掲載した講演の中では、真実を大切にすることこそが社会正義を効果的に促進するための活動を実践する唯一の方法なのだ、と私は学生たちに奨励している。だが、大学のような制度は、不可侵の最高目標を一つしか持つべきでないのだ。また、多くの学生たちが自分たちの人種やジェンダーや性的アイデンティティのために軽蔑や侮辱や体系的な妨害を受けていることも、私は否定していない。彼らが侮辱や妨害を受けているのは事実であるし、何らかの形の基準を設定したり多様性についてのオリエンテーションを新入生たちに受けさせることは、私も支持している。しかし、別の記事で私が論じているように、大半の抗議活動家たちが行っている要求の多くは反動を引き起こす可能性が高いものであり、学生たちが疎外感を抱く経験を減らすのではなくむしろ増やしてしまうものであるのだ。〕

昨年に多くの大学に広まっていった出来事を目にした私は、一体どのような事態が起こっているのかということについて道徳心理学と社会心理学の観点から明らかにする作業を始めていった。(……略……)66分間と長い動画であるが、これでも出来る限り短くした後である。この問題にはあまりにも多くの要素があって、私はそれらの要素を順番に示していく必要があったのだ。

 

講演の内容

 

イントロダクション:

講演は、二つの引用から始まっている。

 

“哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである。” ー カール・マルクス、1845年

 

“自分の側が言いたいことしか知らない人は、ほとんど無知に等しい。彼の主張は優れたものかもしれないし、誰も彼の主張に反論できないかもしれない。だが、同じく彼も反対側の主張に反論できないとすれば、反対側の主張がどんなものであるかということを知らないとすれば、どちらの側の主張を支持すべきであるかを判断する根拠を彼は持っていないということになるのだ。…” ー ジョン・スチュアート・ミル、1859年

 

マルクスは、私が”社会正義大学( Social Justice U )”と呼ぶ大学にとっての守護聖人だ。社会正義大学は権力構造や特権を転覆させて世界を変革することを目的としている。社会正義大学にとって、政治的な多様性は行動の障害である。ミルは”真実大学( Truth U )”の守護聖人である。真実大学は、誤りのある個人たちがお互いのバイアスや不完全な推論を指摘して挑戦し合うプロセスに真実を見出している。このプロセスは全ての人を賢くする。そこにいる人々の知的傾向が均一になったり、そこが政治的な正当さを主張する場所になったりした時に、真実大学は亡んでしまう。

 

1.テロス

 

専門職や分野はそれぞれのテロスを持っている。ある分野のメンバーがテロスを達成することを助けるために別の分野のメンバーが自分たちの技術を用いる時には、分野間の建設的な相互作用が発生する。例えば、私が Amazon や Google や Apple を好んでいるのは、私が研究者としてのテロス(真実の発見)を達成することをそれらのビジネスが手伝ってくれるからだ。しかしある分野が自分たちのテロスを別の分野にも差し込んでくる時には、破壊的な相互作用が発生してしまう。例えば、ビジネスのテロスが医療に差し込まれると、医者がビジネスマンになってしまい患者のことを利益を得る機会として見なすようになってしまう。社会正義のテロスは人種の平等を達成することやその他であるが、社会正義はそのテロスを他の専門職に差し込んでくる場合がある、と私は論じている。そして、社会正義のテロスが他の専門職に差し込まれる時、その専門職は自身のテロスを裏切っているのである。

 

2.動機付けられた推論

 

人間が行う推論に関して、一貫した現象が発見されている。…私たちがXを”信じたい”と思う時、私たちは「私はそれを信じることができるか(Can-I-Believe-It?)」と自分自身に尋ねる。だが、私たちがそれを”信じたくない”と思う時には、私たちは「私はそれを信じなければならないか?(Must-I-Believe-It?)と自分自身に尋ねるのだ。この現象は研究者にも当てはまり、そのことは以下の結果を生じさせる。

 

・ある政治的目標を支持するために行われる研究は、その目標を支持することにほとんど常に”成功”する。

・自分にはバイアスがあった、と研究者が認めることは稀である。

・何かに動機付けられた学問は、しばしば、自分たちにとって心地の良い虚偽を伝播してしまう。そして、それが虚偽であると暴露された後にも、その虚偽は取り除かれずに伝播され続ける。

・研究の過程で何らかの間違いがあったとしても、”制度的反証(institutionalized disconfirmation)”が信頼できる場合には、研究に起こるダメージを抑えることができる。…私たちと同じ動機を持っていない他の研究者たちが、私たちの主張に反証しようと試みることで私たちの研究に貢献してくれる、という営みが行われることが確実であるかどうかだ。

しかし、私たちにはもはや制度的反証を信頼することはできなくなっている。人文学と社会科学から保守派とリバタリアンがほとんど消え去っているためだ(経済学は例外であり、3人の左派につき1人の右派という比率に留まっている)。これこそが Heterodox Academy が存在する理由でもある。 Heterodox Academyは、(少なくとも、マルクス的ではなくミル的な意味での)学問の質を最も上げることができる種類の多様性を呼びかけているのだ。

 

3.神聖さ

 

人類は部族間の争いに適応して進化してきた。その進化の過程で、私たちは巧妙な能力を獲得した。神聖化された物体や原則を囲んで集まることでチームを形成する能力である。大学では、伝統的に学者たちは真実を囲んで集まっていた(少なくとも20世紀までは…当時も完璧ではなかったが)。だが、21世紀には、学者たちは少数の被害者集団を囲むようになり続けている。学者たちは被害者たちを守って助けたいと望むし、彼らに対する人々の偏見を払拭したいと思う。学者たちは自身の学問によって世界を変えたいと望む。それは称賛に値する目標であるが、被害者たちに対するこの新しい種類の世俗的な”崇拝”は、多くの大学で”被害者性の文化“をもたらすという社会学的特徴と交差しているのだ

被害者性の文化は、平等主義的で政治的に均一な大学で特に蔓延している。被害者性の文化は、まさにそれが救おうとしている学生たちに”道徳的依存性”を植え付けてしまう…学生たちは、争いが起こった時に自分たち自身で争いに対処する方法を学ぶのではなく、第三者(管理者や行政者)に訴えることで問題を解決することを学んでしまうのだ。

 

4.反脆弱性

 

ニーチェは「私を殺さないものは、私をいっそう強くする」と書いたが、彼は正しかった。ナシーム・タレブの著書 “Antifragile(反脆弱)”はその理由を説明している。。子供は、親やその他の大人の監督下ではない場所で遊ぶことを何千時間も経験する必要があるし、他の子供と争って大人の助けなしに争いを解決することを数千回は行わなければならない。独立して生きていく大人になるためには、それだけの経験が必要なのだ。しかし、アメリカにおける子育てには1980年代から変化が起こっており、特に1990年代からは中産階級や裕福な家庭の親たちがヘリコプターペアレントになってしまったために、子供たちは独立した大人になるための経験ができなくなってしまった。

代わりに、子供たちは「安全性の文化(safety culture)」の網の目に捕らわれてしまった。そして、若い頃からそれに捕らわれていた元子供たちは、大学生になっても安全性の文化をキャンパスに持ち込もうとしている。本や単語や講演者が”危険”であると見なされるようになったし、一種の”暴力”であると言われることすらある。脆弱な若者たちを危険と暴力から守るために、トリガー警告やセーフ・スペースが必要とされるようになったのだ。だが、そのような文化は政治的多様性と両立しない。多くの保守的な考えや保守的な講演者が危険であるとのラベルを貼られて大学やカリキュラムから禁止されてしまったからだ。支配的になっている政治的風潮に疑問を呈する学生は、教室の他の学生たちから敵対的な反応をされて疲弊させられる。これこそが、大学が一つのテロスを選択しなければならない核心的な理由の一つだ。ミルは真実の探求にとって意見の多様性は欠くことのできない本質的な要素であると主張したが、安全性の文化を支持する制度は意見の多様性を持つことができないのである。

 

5.涜神罪

 

真実大学には涜神罪は存在しない。誤った考えは論駁されるのであって、誤った考えに罰が与えられる訳ではないのだ。だが、社会正義大学には涜神罪を規定する法律が存在するかもしれない…研究に用いてはならない考え、理論、事実、そして著者たちが存在するのである。このことは、政治的な誘発性のあるトピックについて良質な社会科学研究を行うことを困難にする。相互に作用する様々な原因の結果として存在する大規模で複雑な問題を扱う学問であるために、ただでさえ社会科学は難しい。そのうえに、社会正義大学では研究を行うのに有効な道具の多くが禁止されてしまっているのだ。

 

6.相関関係

 

相関関係は因果関係を意味しない、ということは全ての社会科学者が知っている。だが、人口統計学上のカテゴリ(人種やジェンダーなど)と現実の世界における結果(テクノロジー企業における被雇用率、理系学部における教職員の割合など)に相関関係がある場合はどうなるだろうか?社会正義大学では、そこに因果関係を推測するように教育される。体系的なレイシズムやセクシズムが原因だと教えられるのだ。この教育が明らかに誤った結論へと人々を導いている具体例を、私は講演の中で示している。対照的に、真実大学では「異なった結果は、異なった扱いを意味しない」と教育する(異なった結果が出たことは、対象となる人々が異なった扱いを受けていないかということを注意深く確かめることを行う誘因ではある。たしかに、異なった扱いが不均衡な結果の原因である場合もあるからだ)。

 

7.正義

 

活動家たちが口にしている正義には、主に二つの種類があるようだ。異なった扱いを発見して撲滅することと(それは常に正しい行為であるし、真実と衝突することもない)、異なった結果を結果を発見して撲滅することである…異なった入力要素や第三の変数などには目もくれず。後者こそが全ての問題を引き起こしているのであり、真実と社会正義との衝突を引き起こしているのだ。結果の不均衡を根絶しようとする試みがいかにして人々に真実と正義の両方を軽んじさせることになるか、私は講演の中で具体例を示している。

 

8.分裂

 

上記1〜7で行った議論をふまえれば、どんな大学にも真実と社会正義の二つのテロスを両立させることができないのは明白だ、と私は考えている。全ての大学は、どちらか一つを選択しなければならない。ブラウン大学は社会正義大学のリーダー的な座を占めており、シカゴ大学は真実大学のリーダー的な座を占めている、ということを講演の中で示している(このことは、Heterodox Acacemy のお勧め大学ランキングでも証明されている)。

私は、講演の最後で「自分たちの大学が真実と社会正義のどちらの方に行くことを、自分たちは望んでいるのだろうか?」と自分自身に問いかけることをアメリカの全ての大学の学生たちに勧めている。(……略……)最低でも、大学規模でマルクス対ミルの議論が行われるとすれば、それは建設的な対話となるであろう。

 

【訳者による補足】

・ハイトの講演動画のリンクはこちら

ジョセフ・ヒース『トランプはいかに狂っているか その1(続くだろう…)』(2017年1月26日)

How Crazy is Trump? Part 1 (and counting…)
Posted by Joseph Heath on January 26, 2017 | economy, politics, Uncategorized
昨日、アンドリュー・コインは以下のように書いた

国家が、貿易赤字や貿易黒字を抱えていようとも、それは国の厚生にはわずかしか違いをもたらさない。これは一般常識であり、もちろん個別の国にも適応される。このように[貿易収支を過大視]して考えてしまうのは、ほんの初歩的な誤りなのだ…。

トランプと(その仲間達)は、国家間の貿易の目的は黒字を出す事にある、との考えをどこで仕入れてきたのだろう? おそらく、実業家であるが故に、仕入れてきたのだろう。トランプは、国の貿易収支と、企業の損得の計算を同一視しているのだ。よりありえるのが、会計と経済学を取り間違えている可能性である。経済学部の初年度生は皆、国民所得は、消費と投資と国家支出に、輸出と輸入の差額(すなわち貿易収支)を、総計した物であるという事を、教わっている。

初歩的な経済学理解にツッコむのは、滅多に報われないので、慈悲深くあろうとはしてるが…。

今日の午後になるが、メキシコとの国境に建設する壁の建設費用を、メキシコに払わせる為に、メキシコからの輸入品に20%の関税を課すことになるかもしれないと、トランプの大統領報道官が告知した。以上告知は、コインの2つの説、つまり『初歩的な誤り』か『会計と経済学のとり間違い』のどちらが当たっているだろう? 私の考えは、『初歩的な誤り』である。

多くの経済学者が疑うことなく鋭く指摘しているように、壁の建設費として、メキシコからの輸入品に関税を課すことは、アメリカ人が払う事に他ならない。以上は、常識なのだが…。

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

ピーター・シンガー「健康保険はなぜ割り当てられなければならないか」(2009年7月15日)

Peter Singer, “Why We Must Ration Health Care“, New York Ttimes, July 15 2009

 

あなたは進行腎ガンを患っている。おそらく、1年後か2年後にはあなたはそのガンで死んでしまう。スーテントと呼ばれる抗がん剤はガンが転移するのを遅めさせて、おそらくあなたは6ヶ月余分に生きられるだろう。しかし、それには5万4千ドルのコストがかかる。数ヶ月死ぬのが先延ばしになることは、それほどの金額に値するのだろうか? もしあなたに支払える余裕があるなら、より長く生きるためにあなたは5万4千ドルやそれ以上の金額を払うだろう。たとえあなたの人生の質が良いものにならないとしてもだ。だが、ガンを患っているのが自分自身ではなく、自分が支払っている健康保険基金の対象となっている他人であった場合について考えてみよう。もし保険会社がこの男性にスーテントを提供するとすれば…そして、彼と同じ状況にある人全てにも提供するとすれば…あなたの保険料は増加するだろう。これでもまだ、スーテントは割の良い薬であると思えるだろうか?治療には100万ドルかかる場合のことを考えてみよう。その治療には価値があるか?1000万ドルなら?誰かの生命を6ヶ月引き伸ばす薬に対して保険会社が払う金額には何らかの制限があってほしい、とあなたは思うだろうか?どこかの時点で「駄目だね、6ヶ月余分生きることはそれほどの金額には見合わない」とあなたが言うのであれば、健康保険は割り当て制であるべきだとあなたは考えているのだ。

(……中略……)

自分と100万ドルでセックスしてくれないかと女性に訊ねる男性についてのジョークを覚えているだろうか?彼女は少しの間考えて、OKだと答える。「じゃあ」と彼は言う。「50ドルでも俺とセックスしてくれるかな?」。彼女は憮然として叫んだ。「あなたは私がどんな女だと思っているの?」。彼は答える。「取り引きはもう始まっているじゃないか。ただ値段交渉をしているだけだよ」。男性の返答は、どんな値段であったとしてもある女性が身体を売ったとすれば彼女は娼婦である、という意味を含んでいる。健康保険の割り当てについて私たちが考える方法も、同様の前提に立っているようだ。つまり、生命を救うことに対して金銭的な考慮をすることは非道徳的であるという前提だ…だが、そのような立場を主張し続けることはできるのだろうか?

(……中略……)

ワシントンに暮らすユダヤ教のラビ、ダニエル・ゼメルにワシントンポスト誌のジャーナリストがインタビューしたことがある。アメリカ政府が人命に金銭的価値を付ようとしていることについてどう思うか、とジャーナリストに聞かれたゼメルはユダヤ教の教えを引用して、秤の一方に人命を乗せた時にはもう一方にその人以外の世界中全ての人間を乗せて初めて秤は釣り合う、と言った。まさにこれこそが、健康保険について比較考量することに反対している人たちの考え方である。しかし、私たちは既に人命に金銭的価値を付けているのだ。例えば、もしアメリカ運輸局がゼメルの教えに従ったとすれば、運輸局は交通安全に予算を割きすぎてしまって破産するだろう。幸いなことに、運輸局は一人の人命を救うことに割く予算に上限を設けている。2008年にはその上限は580万ドルだった。他の政府機関も同様のことを行っている。2008年、消費者製品安全委員会はマットレスの可燃性を下げさせることを提案した。その新たな基準を実施するには3億4300万ドルのコストがかかるとマットレスを製造している業界は示したが、委員会が計算したところ、新しい基準が実施されれば1年につき270人の人命が助かる筈であった…そして、委員会は一人の人命におよそ500万ドルの価値を付けていたので、マットレスの可燃性に関する新たな基準は割が良いものであったのだ。消費者の安全を守るための基準を少しでも設けるためには、金を払って買う価値のある安全とはどれ程のものであるか、ということについて何らかの考えが必要となる。健康保険に携わる官僚たちと同じく、消費者安全に携わる官僚たちも、一人の人命を救うことは支出に比べると割に合わない、と判断する場合がある。20年前、米国科学アカデミーの一部局である国家研究会議は全てのスクールバスにシートベルトを導入するという計画について調査した。調査の結果、シートベルト導入の計画が実行されれば平均的には1年あたり1人の人命を4000万ドルのコストで救うことができる、との推計が出た。そして、その調査の結果が出てからはシートベルトの導入計画に対する支持は失われたのである。さて、消費者安全の場合には人命に価値を付けることを認めている人たちが、なぜ健康保険の場合には人命に価値を付けることを否定するのだろうか?

もちろん、一人の人命を救うことに支払う金額に限度を設けることを認めることと、その限度をどこに設定するかということは別の問題だ。官僚たちが人命一般に付ける金銭的価値は、私たちの行動に表れているような社会的価値を反映することが意図されている。それは「自分自身の生命を救うことに、あなたはどれだけの金額を支払う意志がありますか?」という質問への回答であるのだ。…無論、実際に死に直面している人の回答は例外である。死に直面している人は、自分の生命を救うためにはほとんど何でも支払うつもりだろう。なので、その代わりに、自分自身が死ぬリスクを減らすために人々はどれだけ支払うつもりがあるか、ということを経済学者たちが計算する。例えば、車にエアバッグを備えることに人々はどれだけ支払うだろうか?リスクを削減する特定の場合について人々が支払うつもりの金額を明らかにした後は、人々が支払うつもりの金額と削減されたリスクの量とを掛け合わせれば、理論上、人々が自分たちの生命に付けている金額を知ることができるのだ。 例えば、車にエアバッグを付けると10万分の1の確率で私の生命が救われることがあるとして、私は1個のエアバッグに50ドル支払う気があるがそれ以上の金を出すつもりはない、としよう。その場合、私は自分の生命に50ドル×10万の価値を付けているのであり、つまり500万ドルの価値を付けているのだ。

この理論は上手くできているように思えるかもしれないが、実践するとなると問題が生じる。私たちは非常に小さなリスク群の間の違いを判別することが得意ではないので、100万分の1の確率で死ぬリスクと1000万分の1の確率で死ぬリスクとについて訊ねられたとしても、私たちはそれらのリスクを削減するのに同じ金額を支払うと答えるかもしれない。50万分の1のリスクと1000万分の1のリスクとの間でも同じ金額を答えるかもしれない。人命の推定価値は死のリスクを削減するのに私たちが支払う金額と削減されるリスクの量を掛け合わせることで数学的に精確に算出されるが、その計算結果は質問に対する私たちの直感的な答えに反するものとなるのだ((訳注:直感的には50万分の1のリスクと1000万分の1は同じに感じられても、それを計算してみると、後者の場合には人命の推定価値が前者の20倍になる))。それにも関わらず、「全ての人命は無限大の価値を持っている」というドラマチックな宣言や「一人の人間の生命の価値と百万人の人間や世界中全ての人間を合わせた生命の価値との間に区別をつけることはできない」という主張に比べれば、少なくとも人命に価値を付けるというこのアプローチの方が私たちが実際に抱いている考え…そして、私たちが抱くべきでもある考え…に近いものである。人命に価値は付けられないという気分の良い主張(feel-good claim)は、特定の状況では象徴的な価値を持つかもしれないが、その主張を真面目に捉えて実践することは…例えば、1人を救うか10億人を救うかという判断を偶然や運まかせにすることは…非常に非倫理的な行為となるであろう。

健康保険プログラムにはどれだけの予算を使い人命を救うことを直接の対象としていない他の公共財にはどれだけの予算を使うか、という計算を政府が行っている時、政府は暗黙のうちに人命に金銭的価値を付けているのだ。健康保険に携わる官僚の職務とは、彼らに分配された予算から得ることが可能な価値を最大限まで引き出すことだ。日常的にも私たちは支出から最大限の価値を得ようとしているが、健康保険プログラムもそれと同様なのだ。場合によっては、判断をすることは比較的簡単である。ある二つの薬品があり、どちらからも同じ効果が見込めて副作用のリスクも同じであるが、片方はもう一方よりもずっと高額であるとすれば、公的な健康保険プログラムでは安い方の薬品だけが提供されるべきである。薬の効果と副作用が同様であるかどうかは科学的な問題であり、専門家が呼ばれて調査が行われて確かめられることである。これが、イギリス国立臨床研究所が行っている基本的な仕事だ。しかし、実際には薬の効果は様々であるため、直接的な比較は困難である。健康保険によって得られる善(goods, 成果)を測るための共通単位が私たちには必要であるのだ。私たちは違った種類の善についても比較を行うことになるため、単位の選択は科学的な問題や経済的な問題であるだけでなく、倫理的な問題でもある。

手始めに、健康保険によって獲得できる善とは救われる人命の数のことである、と言うことができるかもしれない。しかし、それはあまりに大雑把だ。一人のティーンエイジャーの死は一人の85歳の死に比べてより大きな悲劇であるし、そのことは私たちの優先順位にも反映されなければならない。救われた生命だけを数えるだけではなく、救われた生存年数も計算することで、私たちはティーンエイジャーと老人との死の重さの違いを調節することができる。もしそのティーンエイジャーが70年後まで生きると予測されていたとすれば、彼女の生命を救うことは70年分の生存年数の増加として数えられる。一方で、85歳の人はあと5年生きられると予測されていたなら、彼の生命を救うことは5年分の生存年数の増加としてしか数えられないのだ。このことは、1人のティーンエイジャーを救うことは85歳の人を14人救うことに等しいということを意味する。もちろん、ここで論じているのは総体としてのティーンエイジャーや85歳である。「もしそのティーンエイジャーが暴力的な犯罪者で、85歳の人はその年齢でも生産的に働いてるとしたらどうなるんだ?」と言うのは簡単だ。だが、緊急治療室では刑事司法は法廷に任せて加害者も被害者も同等に扱われるべきであるのと同じように、健康保険のリソースの割り当てに関する判断は、個々人の人格の道徳性や社会的価値などからは切り離して行われるべきであるのだ。

健康保険は人命を救うだけではない。健康保険や痛みや苦しみを削減することも行うのである。例えば、一人の生命を救うことと寝たきりの人を回復させて健康な生活を過ごせるようにすることは、どのようにして比較できるだろうか?これについても、人々から価値観を聞き出すことができる。よく行われる方法の一つは、医学的状態を人々に説明して…例えば、四肢が麻痺しているなど…、10年間その状態で生きるか、それよりも少ない年数を健康な状態で生きるかを選択してもらうことである。例えば、大半の人は障害のない人生を4年間生きることよりは四肢が麻痺した状態で10年間生きることを選択するが、障害のない人生を6年間生きられるならそちらを四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも優先して選択するとして、そして障害のない人生を5年間生きることと四肢が麻痺した状態で10年間生きることとの間の選択は困難であるとすれば…事実上、人々は四肢が麻痺した状態で生きることには障害のない状態で生きることの半分の価値があると査定しているのである(ここに書いているのは計算をシンプルにするための仮定的な話であり、実際の調査に基づいている訳ではない)。もしそれが全人口の判断のおおよその平均値を反映しているとすれば、治療しなければ四肢が麻痺したままでいる二人の人を治療して障害がない人生に復帰させることは一人の生命を救うことに等しい(関係者全員の余命が同様であるなら)、と結論付けることができるかもしれない。

これが、質調整生存年(quality-adjusted life-year, or QALY)の根拠だ。QALYとは、様々な形の健康保険におけるそれぞれのベネフィットを比較するために設計された単位である。30年以上前から、健康保険に関する業務を行う経済学者たちは様々な種類の医療処置の対費用効果を比較するためにQALYという単位を用いている。複数の国々では、公金が支払われるべき医療処置を決定するプロセスの一部にもQALYが用いられているのだ。改善されたアメリカの健康保険システムが割り当て制を明白に認めたとすれば…認めるべきだ、と私はここで論じている訳だが…アメリカの健康保険システムでもQALYが同様の役割を担うことができるだろう。

一部の人々は、QALYは障害者に対する差別であると否定する。四肢が麻痺した状態で一年生きることは障害がない状態で一年生きることの半分の価値しかない、という仮定的な判断について話を戻そう。障害を持たない人々の生存年数を伸ばす治療を行うことは、四肢が麻痺した人の生存年数を同じだけの期間伸ばす治療を行うことの2倍の価値がある、ということになる。これは、全ての人の生命は等しい価値を持つという考えとは衝突する。しかしながら、問題は質調整生存年という概念にあるのではなくて、四肢が麻痺した状態で10年間生きることよりも10年より短い年数を障害なしに生きることを優先するという判断に問題が存在しているのだ。そのような判断は障害を持たない人によって行われるのであり、障害を持つ人に対して障害を持たない人々が抱いている無知と偏見が反映されたものに過ぎない、と障害者の権利運動家たちは論じるかもしれない。そして、私たちは四肢が麻痺した人たち自身に四肢が麻痺した状態の人生の価値を訊ねるべきなのだ、と障害者の権利運動家たちは実にもっともな主張をするだろう。実際に四肢が麻痺した人たちに訊ねて、その障害を回復することには四肢が麻痺した状態の人生が一年失われることに見合う程の価値もないと彼らが答えたすれば、障害がない人の生存年数を伸ばす医療処置を四肢が麻痺した状態の人の生存年数を伸ばす医療処置よりも優先することはQALY方式の下では正当化されないことになる。

しかしながら、「全ての人は生きる権利を等しく持っている」という考えを維持するために上述のような方法をとることは、両刃の剣でもある。もしも四肢が麻痺した状態の人生はそうではない人生と比べて等しく良いものであるとすれば、四肢の麻痺を治療することには健康上の効果はない、ということになるのだ。間違いなく、そのような発想は一部の人々から強烈な反対を受けることになるだろう。例えば、事故によって麻痺障害を負った俳優のクリストファー・リーヴは、脊髄損傷を回復する方法を発見するための研究をもっと行うことを要求するキャンペーンを行っていた。自分たちの生存年数を伸ばすことは障害のない人々の生命を伸ばすことと等しく重要であると主張し続けるか、自分たちの障害を治療するための研究に公的な支援を行うことを求めるか、障害者の権利運動家たちは選択しなければならないようだ。

QALYは、そのベネフィットが誰にもたらされるかということに関わらず、最大の健康効果をもたらす物事を私たちに示してくれる。通常の場合、予算には限りがあるということをふまえると、最悪の状況にある人たちを助けることは他の人を助けるよりも大きな効果をもたらす。最悪の状況にある人たちは満たされていないニーズを最大に抱えているからだ。だが、時によっては、治療することが非常に難しい上に非常に高額である状態も存在する。そのような場合、QALYによるアプローチは、前述の人たち程には悪い状況ではなく治療することも前述の人たちに比べれば易しく低額である状態の人たちを優先するという結論を導くかもしれない。多少はマシな状態にある人の利害とその人に比べてずっと悪い状態にある人の利害に同等の重みを置くことは不公平ではない、と私は考える。だが、より悪い状態にある人の方を優先するべきだという社会的コンセンサスがあるとすれば、QALYアプローチを修正することもできる。QALYの基準では他の人に比べて悪い状態にあると判断される人に対して発生するベネフィットに、より多くの重みを付けるようにすればいいのだ。

健康状態そのものの改善の他に健康保険がもたらす様々なベネフィットについては、QALYアプローチはそれらのベネフィットを計測しようと試みることすらしない。感情的には、ジャック・ロッサーが若い子供の父親であるという事実は彼の生命を伸ばすことの重要さに違いを生む、と私たちは感じる((訳注:ジャック・ロッサーは記事の省略部分で紹介された人物))。だが、 抗ガン剤がジャックにもたらす健康効果のQALY査定は、ジャックが親であるかないかということとは無関係だ。健康保険リソースの割り当てを決定する際には上述のような個人的な状況も考慮の対象に含むべきであるかどうかは、判断するのが難しい問題である。考慮に入れないとすれば基準は柔軟性のないものとなってしまうが、個人的な要素を考慮の対象に含むことは、主観的な…そして、偏見を含んだ…判断の余地を増やしてしまうのだ。

QALYは健康保険によって得られる善の指標として完全であるわけではないが、ウィンストン・チャーチルが政体としての民主主義を擁護したのと同じようにQALYを擁護することができる。つまり、他の全ての分配方法を除けば最悪の分配方法である、ということだ((訳注:「民主主義は最悪の政治形態といえる。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」のパロディ。))。全ての人に有益な医療処置を施すことが不可能であるとすれば、人々はどのような処置を受けるべきかを決定する方法として、それぞれの処置の費用から得られるQALYを比較することよりも優れた方法があるのだろうか?

 

政府が直接的に行うにせよイギリス国立臨床研究所のように独立した機関を通じるにせよ、どの医療処置が十分な費用対効果を持っているので公費で提供されるべきでありどの医療処置がそうでないかを政府が判断することを、アメリカ人たちは認めるであろうか?アメリカ人たちもそれを認めるかもしれない二つの状況がある。第一は、公的保険が実施されたあとにも民間の健康保険という選択肢が残っているという状況だ。第二は、健康保険で割り当てを実施しない場合にはどれ程のコストがかかってしまうのか、人々が身銭を切って目の当たりにする状況である。

もし民間の健康保険が禁止されているとすれば、健康保険の割り当て制は自由な選択を制限することになる。だが、多くの国々では、無料の国営健康保険と自由に選択できる民間の保険が組み合わされている。私が人生の大半を過ごして家族も養ってきたオーストラリアも、そのような国の一つだ。アメリカもオーストラリアなどの国々と同様の制度を実施できる。それは、メディケア(高齢者向け公的医療保険)の対象を年齢に関わらず全人口へと拡大することだ。ただし、適格患者に行う医療処置について医者たちに大幅な自由裁量を認めている現在のメディケアの方針は排除する。全ての人のためのメディケア(Medicare for All)は、QALY当たりのコストがあまりに高過ぎる医療処置には支払われるべきではないのである(一方で、全ての人のためのメディケアは、費用対効果に優れた薬品については一時的な自己負担金以上の金額を求めるべきではない)。メディケアの拡大は、所得税を払える人から税の一部として少し徴収することで賄えるだろう。オーストラリアでは、健康保険のための徴収料は、課税可能な収入の1.5パーセントだ(高収入で民間の保険に入っていない人は追加で1%徴収される。収入が非常に少なくて所得税も払えない人は、自分自身では費用を払わずに健康保険に加入することができる)。全ての医療処置を自分自身で私的に選んだ医者から受けることが保証されるのを望む人は、費用にかかわらず、全ての人のためのメディケアから抜けられることができる。ただし、自分が病気になったときにもコミュニティの負担になることがないくらい充分に民間健康保険に加入していることが証明できる限りにおいてだ。別の選択肢として、全ての人のためのメディケアに加入し続けたまま、全ての人のためのメディケアがカバーしない医療処置を受けるために補完的な民間健康保険に加入することもできるだろう。全てのアメリカ人は良質な標準の医療保険を得る権利を持つことになるだろうが、割り当てされない医療保険を得る権利は誰も持たない。割り当て制ではない医療保険を選択してしまった人々は、それが自分たち自身にとってどれ程のコストになるかを知ることになるだろう。

(…後略)

 

* 訳者による補足

本記事はオバマ政権時に健康保険制度についての議論が盛んになっていた2009年に発表されたもの。記事内で省略した箇所では、当時のアメリカにおける健康保険制度の状況についての解説や、アメリカの制度と他国の制度との比較などが書かれている。記事の発表から約8年経っているので状況は大幅に変わっているであろうこと、また日本の読者にとっては興味のない情報も多く含まれているであろうことを踏まえて、訳者の判断で省略した。

ゲイリー・ハフバウワー, ウイジン・ジュン 『トランプの貿易政策を診断する』 (2016年9月29日)

Gary Hufbauer, Euijin Jun,”Evaluating Trump’s trade policies“, (VOX, 29 September 2016)


 

常軌を逸脱しかつ潜在的危険性をもった政策提案によりドナルド・トランプは安定して新聞の見出しを飾っている。WTO脱退を仄めかすかと思えば、貿易協定の再交渉、メキシコと中国からの輸入に対する関税賦課など、彼の提案は様々だ。本稿では、法的・経済的側面からこうした提案に考察を加えてゆく。古い時代のものにせよ近代のものにせよ、法令のなかには合衆国大統領に以上の様な政策の施行を許してしまう可能性をもつものが在り、そこから合衆国経済に極めてネガティブな影響が出ることも考えられる。

 

アメリカの投票権者にとって、合衆国大統領という地位がもつ権限の過小評価 – 或いはラディカルな政策の手綱を握るためのチェックアンドバランス機能の誇張 – は、取り返しのつかない過ちともなり得る。

共和党大統領候補者ドナルド・J・トランプはこれまでWTO脱退 (Mount 2016)・北米自由貿易協定 (NAFTA) の再交渉 (Needham 2016)・メキシコと中国からの輸入にそれぞれ35% / 45%の関税賦課 (Johnson 2016) を仄めかしては、新聞見出しを飾ってきた。しかしトランプにはこういった威嚇を合衆国議会の同意無しに実行する権限が有るのだろうか? 裁判所のほうでも彼にストップを掛けるのではないか?

答えは単純で、大統領となれば、トランプはそうした権限を保持することになるだろうし、司法府により彼の取った法的措置が頓挫する可能性も低いのだ (Hufbauer 2016)。前世紀を通し、合衆国議会は大統領に対し、貿易およびその他の形態の国際通商の制限に係る権限を大幅に委譲してきた。念の為付言すると、最も関連性の有る5つの法規 (表1にまとめた) は上記のようなものとは異なる目的を念頭に制定されたものである。しかしそうした法律も依然として法典に残存し、大統領なら誰でも援用できる状態に留まっている。スカーリア裁判官が訓辞したように、法規解釈における最大の導きは法律文言それ自体であって、その歴史的文脈や立法審議過程ではないのだ。

トランプの貿易威嚇が実行に移された場合、事業会社やさらには諸般の州からの法的異議申立てが数多打ち寄せて来るだろうが、彼の行動はそうした法廷闘争を生き延びる公算が高い。付け加えれば、合衆国議会による抗議であっても、圧倒的多数 [super-majorities] がトランプの拒否権を乗り越えて当該法規の修正をする場合のほかは、殆ど効果が無いだろう。

法規は老衰で斃れることはない。そして今や齢も一世紀という老齢の御爺さん法が、1917年敵対取引法 [Trading with the Enemy Act of 1917] である。TWEAは大統領に対し、戦時中、国際貿易および資金流動の一切を制限し、外国資産の凍結または差押を行う権限を与えるものである。同権限の強力さには唖然とするほかなく – なんと同措置は軍事敵相手に限られてはいないのだ1。TWEAがひとたび援用されれば、如何なる外国通商も危機を免れ得ない。

さらに、殊TWEAの趣旨に関する限り、諸般の合衆国議会宣言および決議 [Congressional declarations and resolutions 2] を通して、合衆国は第二次世界大戦いらい常時戦争状態に在ったといっても過言ではないが、平和が邪魔になれば、1977年国際緊急経済権限法 [International Emergency Economic Powers Act of 1977] が大統領に対し、国家的緊急事態が続くあいだ貿易と金融に制限を課すことを許す。大統領による緊急事態宣言は端的に裁判所から疑義を受けない。外交政策目的で経済制裁を課すためにIEEPAを援用するのが大統領達の間で慣例となっているが、だからといってこの法規を自らの通商目的のために援用することからトランプ大統領を阻止するものは何も無いのである。

表 1. 大統領が外国通商の統制に利用できる法規のまとめ

原註: FTA = free trade agreement; MFN = most favoured nation; NAFTA = North American Free Trade Agreement
出展: Hufbauer (2016).

NAFTAには、書面による6ヵ月の事前通知をカナダ・メキシコに送付したのち同協定から脱退することをトランプに許す規定が在る。そうなれば合衆国議会と協議したうえで、彼は互恵性の不十分を主張し、メキシコに35%の関税を課すことが可能となる – 或いは国家的緊急事態を宣言したうえでIEEPAを援用するというのも在り得るが、こちらも結果は同様である。大統領トランプは同じ様にその他の自由貿易協定も破棄し得る。最も破局的なケースでは、WTOから脱退し、合衆国の最恵国関税をスムート・ホーリー法時代の水準に引き戻してしまうケースさえ起こり得るが、これは大恐慌 [Great Depression] 以来絶えてなかったことだ。

トランプもこうした措置はあまりに苛烈だと感じるかもしれないが、そうした場合はもう少し制約の有る冷戦時代の3法規を利用できる。第一の法規 [1962年通商拡大法] (232条(b)) は国防に対する危機が明らかとなった場合に輸入制限を課すことを大統領に許すものである。第二の法規 [1974年通商法] (122条) は合衆国の大統領に、巨額かつ深刻な国際収支赤字に対処するため、150日の間、全て若しくは一部の国に対し、最大15%の関税、若しくは量的制限の賦課を許す。第三の法規 [同法] (301条) は外国が合衆国の通商に不公正な形で制限を加えていると発覚した場合に、大統領が貿易措置などの報復的措置を実行すること許すもの。

合衆国の貿易措置によって被害を受けた場合、貿易相手国はトランプの行動に異議を申立て、WTOを通した補償を請求するだろう。しかし貿易相手国はWTOでの立証を待つまでもなく、端的に合衆国の輸出・知的財産権・投資筋を標的とした報復措置に打って出るかもしれない。

Noland et al. (2016) はトランプの提案する貿易政策が合衆国に及ぼす経済的影響を、3つの相異なるシナリオをスケッチしながら推定している。同研究はムーディーズ・アナリティックスに依拠しつつ、特に短期的経済ショックの評価を行うもので、メキシコ (35%) 並びに中国 (45%) といった合衆国関税障壁の劇的引上げから生ずる、GDP・雇用率・民間消費・部門/州/群レベルでみたその他数値の変化が算出されている。

第一シナリオは全面的貿易戦争であり、トランプの新関税を受けたメキシコ及び中国は、合衆国輸出に対する同等の関税を以て応酬する。第二シナリオは非対称的貿易戦争で、中国は合衆国からの特定の財・サービス輸出に対し報復措置を取り、メキシコのほうでは全ての合衆国輸出に最恵国関税を課す。第三シナリオは貿易戦争未遂であり、合衆国関税が一年間のみ一方的に賦課され、メキシコおよび中国も同じ期間だけ報復措置を取る。

図1 ベースライン状況・全面的貿易戦争・貿易戦争未遂シナリオ時の合衆国GDP予想, 2015-2026

全面的貿易戦争シナリオでは、合衆国のGDP成長率に十年間に亘る相当な減速が見られる (図1を参照)。合衆国経済が最も厳しい打撃を受けるのは2019年で、この年に消費は2.9%、投資は9.5%も落ち込み、失業率は8.4%に達する。2019年の民間部門雇用ではほぼ480万近く職が無くなるが、これはベースライン状況の民間部門雇用を5%以上も下回る。最も強く影響を受けるのは高速ドライブおよびギア製造部門であり、雇用は10.2%も落ち込む (表3を参照)。しかしながら、絶対的雇用喪失数の観点から言うと、卸売および小売貿易・レストラン・ヘルスケアなどの部門で最も多く労働者が切り捨てられている。州レベルの影響の観点では、ワシントン州が最も強烈な打撃を被り5%の雇用喪失となり、これにカリフォルニア州・マサチューセッツ州・ミシガン州が続く (地図1を参照)。郡のなかで最も強烈な打撃を受けるのはロサンゼルス郡で176,000の雇用喪失、これにコック郡 (シカゴ州) における91,000の雇用喪失が続く。

表 2. 全面的貿易戦争および貿易戦争未遂の結果として生ずる一部マクロ経済変数の変化予想, 2017-2026

出展: Noland et al  (2016).

表3. 全面的貿易戦争によって最も被害を受けると予想される部門

出展: Noland et al (2016)

非対称的貿易戦争シナリオでは、中国は合衆国からの航空機輸入 (ボーイング機) を取止め、合衆国企業から購入するサービスを減らし、合衆国大豆の輸入に終止符を打つものと想定されている。中国の航空機購入取止めは179,000の合衆国雇用喪失を引き起こす可能性が有り、とりわけシアトル市-タコマ市-エバレット市の連なりやウィチタ市などの都市部への影響が懸念される。中国による合衆国企業サービス購入の減少のほうも85,000の合衆国雇用喪失を引き起こしかねず、その場合ロサンゼルス郡が最大の被害を受ける。中国の大豆輸入取止めは、ミシシッピ州・ミズーリ州・テネシー州・アーカンソー州の田園地帯における雇用を崩壊させる恐れがある。

地図 1. 州毎に見た民間部門雇用喪失パーセンテージ

出展: Noland et al (2016)

貿易戦争未遂シナリオとなると、経済的ダメージも幾分和らぐ。考え得る3つのアウトカムとしては、サプライチェーンの中断・金融市場の混乱・消費財の枯渇が挙げられる。合衆国民間部門雇用はこのシナリオでは一時的に130万の雇用喪失を被ることになる。

以上のシナリオを考慮すると、旧来および近代の諸法規がトランプ大統領に合衆国経済を織り成す国際的要素を、合衆国議会の同意を何ら要せずしかも裁判所からの有効な異議申立てもないままに、破棄することを許してしまう恐れがあり、これは全く悩ましいかぎりである。現在の大統領選キャンペーンを見る限り、合衆国議会は外国通商規制に関して自らが有する合衆国憲法上の権限の投げ売りを改め、適切な修正案を以て前述の諸法規の効力を狭めてゆくべきだろう。

参考文献

Hufbauer, G C (2016) “Could a President Trump shackle imports?” In Assessing trade agendas in the US Presidential campaign, PIIE Briefing 16-6, Washington: Peterson Institute for International Institute, September.

Johnson, S (2016) “Trump’s tariff proposal would gut US export jobs”, Boston Globe, 26 June.

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Needham, V (2016) “Trump says he will renegotiate or withdraw from NAFTA”, The Hill, 28 June.

Noland, M, S Robinson and T Moran (2016) “Impact of Clinton’s and Trump’s trade proposals” in Assessing trade agendas in the US Presidential campaign, PIIE Briefing 16-6, Washington: Peterson Institute for International Institute, September.

原註

[1] フランクリン・ルーズベルトは銀行業務休止 [a bank holiday] の宣言を行う際に、リンドン・ジョンソンは対外直接投資の制限に、またリチャード・ニクソンは10%の輸入課徴金賦課に、それぞれTWEAを利用しており、当該大統領権限範囲はこうした例を以て知ることができる。

[2] 合衆国議会の対イラク・アフガニスタン戦争決議は今現在有効であり、裁判所はTWEA援用の目的に関しては行政部門のシリア・イェメン・その他標的に対する軍事行動を以て十分と見做すかもしれない。

 

シャルル・アンジェルーチ, ジュリア・カジェ 『新聞広告の衰退: 新聞読者にバッドニュース 』 (2016年8月26日)

Charles Angelucci, Julia Cagé , “The newspaper ad collapse: Bad news for readers” (VOX, 26 August 2016)


広告主は新聞に見切りを付け始めている。本稿では、1968年にテレビが印刷メディアに与えたインパクトを援用しつつ、広告収入の低下は新聞のクオリティの低下につながるものであることを主張する。極端な場合、こうした事態は一般大衆のもつ情報量の低下に帰結しかねない。

2015年はおそらく新聞産業にとって大不況以来の最悪の年となった。Pew Research Center (2016) によれば、上場企業に関する合衆国広告収入総計 (印刷媒体およびデジタル双方含む) は8%近い低落をみせたという。

我々は最近の論文 (Angelucci and Cagé 2016) で、広告収入衰退からくる影響が新聞の価格選択やクオリティ選択にどういったインパクトを与えるのか調査した。こうした選択が重要なのは、それが諸個人がどれだけの情報量をもっているかを決定付ける一因となるからだが、このことはさらに投票率・政治的問責可能性・社会規範にも影響してくる (Ferraz and Finan 2008, Jensen and Oster 2009, Gentzkow, Shapiro and Sinkinson 2011)。

具体的には、新たな広告プラットフォームの登場によって生じた、広告主が新聞読者の関心を購うために出してもよいと考える支払許容額の低落からくる影響の分析を試みた。2015年にはすでにGoogleとFacebookは600億ドルのオンライン広告市場のほぼ2分の3を手中にしていた。こうした広告収入のソーシャルメディアへのシフトが、新聞広告収入衰退の一因となっている。

我々はこうしたショックのインパクトを調査すべく、新聞社が読者にコンテンツを販売しつつ他方で読者の関心を広告主に販売する仕組みの単純なモデルを構築した。すると、読者の関心に対する広告主の支払許容額の減少が、新聞の自己コンテンツクオリティ減少を誘発していることが明らかとなったのである。広告主の読者関心に対する支払許容額減少は、低価格を通した読者への 『助成』 減少につながり、これは読者側の価格に上向きの圧力をもたらすが、さらにはクオリティ に対する 『助成』 (こちらにも読者を惹き付ける役割がある) の減少にもつながる。読者がクオリティに対する十分な感度をもっているならばつねに、広告収入の低落は、読者に対しクオリティ低下を補償するための購読価格の減少につながる。さらに我々は、広告主の支払許容額の減少が、新聞社に読者間で価格差別をさせるインセンティブを増加させることを明らかにしている: 新聞は購読価格の引き下げに加え、新聞の売店価格の引き上げも行うのである。

言うまでもなく、新聞社の価格選択およびクオリティ選択の決定には幾つものファクターが関わっており、それには費用・消費者選好・市場構造も含まれる。加えてインターネットの登場は、市場競争や消費性向に関して、広範な影響をもった変化をあまた生みだした。一つ例を挙げると、Reuters Institute Digital News Report (2016) は、消費者の半数からニュースソースとしてソーシャルメディアを毎週利用しているとの報告があったと伝えている。結果として、新聞読者の関心に対する広告主の支払許容額の減少と、新聞社の価格選択ならびにクオリティ選択の間の因果関係を実証的に確立することは、一口に言って難しい。

こうした事態にもじつは1つの前例がある: TV広告が新聞のビジネスモデルに与えたインパクトがそれだ。そこで我々は1960年から1974年に掛けての諸般のフランス新聞を対象としたデータセットを構築したうえで、1968年に始まったフランスのテレビ広告の導入に対し 『差分の差分』 分析を施した。この導入は、新聞の広告収入への依存度のみを専らシフトさせる外生的ショックにつながったのだった。

広告収入の影響は日刊地方紙よりも日刊全国紙のほうに深刻な作用したものと我々は想定している。当時のテレビで放送されていた広告と、新聞に掲載されていた広告を見比べれば、この想定の裏付けが得られる。全国紙ではブランド広告への依存度が高くなっていたが、こうしたブランドの企業主はテレビの方にも広告を出したがるだろうと考えられる。他方、地方紙に掲載される広告は地方的性質なもののほうが多い。同ショックの大きさを示そう。フランスの広告市場全体は、1967年から1974年に掛けて拡大していた。それにもかかわらず、全国紙の広告収入はテレビ広告の導入のあと減少したのである。これとは対照的に、地方紙の広告収入は同期間中に増加をみせた (図1)。

図1  メディアアウトレット毎にみた広告収入 (1967年・1974年)

テレビ広告導入のために、全国紙では地方紙との比較において、17%もの広告収入減少につながった。この広告収入の落ち込みは、購読価格の平均値を売店価格で除したものと定義される 『価格比率』 12%の減少につながったが、この減少は全て、購読者が徴収される価格の減少に由来するものである。全国紙は地方紙との比較において、使用ジャーナリスト数を11%も減らしたうえ、ニュース報道に充てられた紙面 (『記事スペース (newshole)』) のほうも7%減少した。こうした統計データがクオリティの尺度となると想定する限り、全国紙は広告収入の低下に自己コンテンツのクオリティを引き下げることで対応したのだと結論できる。さらにこうした価格とコンテンツに関する変化は、全新聞読者中に購読者が占める割合の22%もの増加につながっている。

本発見には21世紀のニュースメディアに対するさまざまな示唆が含まれていると我々は考えている。メディアアウトレットの多くは依然として最適価格方針を発見すべく実験を続けている。我々のモデルは、読者間で価格差別を行うための1手段として採用される購読制度の背後にあるロジックは、オンラインでも引き続き存在するはずだと示唆する。2010年以来、ますます多くのオンラインメディアが専ら広告主の出資のみを頼りとするモデルを打ち捨て、ペイウォール制度の導入に移っており、また購読者に無制限のアクセス権を提供する一方で、個別の話題のみを購入する読者からは高い料金を徴収するという選択をするところも多くなっている。我々はさらに、近年では、購読価格平均を売店価格で除した比率に減少がみられてきたことも明らかにしている。

図2  合衆国の7紙についての年度平均価格比率 (2008-2014年)

本分析では、ニュース購読者に対する広告主の支払許容額の減少が – その原因が何であれ – メディアアウトレットのもつクオリティ投資に対するインセンティブを低下させることを取上げた。広告収入が落ち込むのと歩を同じくして、合衆国における新聞ジャーナリストの数も減少してきている (図3)。もし広告収入が低落を続けるのならば、メディアアウトレットレベルでの情報クオリティも減少しかねないのである。このリスクは近年みられている広告ブロックテクノロジーの成長のためにさらに高まっている(Reuters Institute Digital News Report, 2016)。

図3 新聞広告収入 (ドル) および合衆国のジャーナリスト数 (1980-2015年)

この先広告が新聞クオリティの助成をしなくなるのならば、諸般の政策的介入案の有効性を調査するさらなる研究がもとめられよう。

参考文献

Angelucci, Charles and Julia Cagé (2016) “Newspapers in Times of Low Advertising Revenues,” CEPR Discussion Paper No. 11414.

Ferraz, Claudio and Frederico Finan (2008) “Exposing Corrupt Politicians: The Effects of Brazil’s Publicly Released Audits on Electoral Outcomes”, The Quarterly Journal of Economic, 123(2): 703-745.

Gentzkow, Matthew, Jesse Shapiro, and Michael Sinkinson (2011) “The Effect of Newspaper Entry and Exit on Electoral Politics,” American Economic Review, 101(7): 2980-3018.

Jensen, Robert and Emily Oster (2009) “The Power of TV: Cable Television and Women’s Status in India,” Quarterly Journal of Economics.

Pew Research Center (2016) State of the News Media 2016.

Reuters Institute (2016) Reuters Institute Digital News Report 2016

 

トーケ S. アイト, ガブリエル・レオン, ラファエル・フランク, ピーター S. イェンセン 『民主主義と革命危機: 新たな実証成果』 (2015年1月8日)

Toke S. Aidt, Gabriel Leon, Raphael Franck, Peter S. Jensen, “Democracy and the threat of revolution: New evidence” (VOX, 08 January 2015)


民主化に際しては、革命の危機というものが中軸的役割を果たすのだと示唆する理論がいくつか存在する。本稿はこの仮説を裏付ける新たな実証成果を提供するものである。本稿執筆にあたっては19世紀のヨーロッパ、20世紀末前後のアフリカ、1832年の英国での大改革といった場面でみられた民主主義への移行に関するデータを利用した。我々は、歴史中一貫して、抜き差しならぬ革命危機がその機先を制しようとする民主主義的改革の引き金となっていたことを明らかにした。

革命危機仮説

2010年から2012年まで続いたアラブの春の間に北アフリカや中東を席巻した暴力的抗議活動の波は、長らく盤石の体制を保っていた幾つかの専制政治国の崩壊と時を同じくしていたが、これら専制政治国のうち首尾よく存続を果たしたところでは、大衆勢力の鎮静化をねらった一連の政治改革・再配分政策が足早に施行されていたのだった。そこから一と半世紀を遡った西ヨーロッパにおいても何やら似た様な事態が起きる。1848年、フランスでまたドイツ各地で諸革命が勃発すると、それに続く様にしてデンマークやルクセンブルクまたベルギーそしてオランダでは民主的改革が見られたのだ。

こういったエピソードは 「革命や暴動およびその他の暴力的抗議活動は民主的変革の引き金と成り得る」 との仮説の信憑性を高めるものである。同仮説が魅力的なのは、それが参政権拡張にまつわる謎、つまり、「政治権力をはじめ多くの場合経済的リソースをも独占している既存専制権力が、自分達とは異なる目的をもった人口層に対し、広く自らの権力を共有してゆく事に同意するのは何故なのか」 という謎を解いてくれるからだ。革命危機仮説は特にAcemogluとRobinson (2000, 2006) またBoix (2003) の労作を通して展開されてきたのであるが、その示唆にしたがえば、ひとたび成功すれば自らの権力基盤全体を根絶やしにするだろう革命の抜き差しならぬ危機と直面した時、専制勢力はその様な行動に出るのだろう、という事になる。この見方を取れば、今日のアラブ世界における専制勢力や150年前の西ヨーロッパの諸君主がみせた対応は、抜き差しならぬ革命危機の機先を制する為の反応だったのだといえる。

とはいえ、皆が皆この解釈に納得している訳ではない。例えばRoger Congleton (2010, p. 15) は1830年から1930年の間に起きた諸般の民主的改革を論ずるなかで次の様に主張している: 「実質的に全てのケース [国] において、リベラル改革の採用にあたって改正に関する既存の憲法的規則が用いられた。どのケース [国] においても、リベラル改革の全てに大規模反乱が先行していたなどという事は無く、そのうえ殆どのケースでは、一見してすぐそれと分かる様な改革を生み出せなかった大規模デモの例で溢れているのだ」

民主化は多面的プロセスなのだから、民主主義の淵源に関してこの革命危機仮説とその他の説が当てはまる領域を画定する事こそが課題と成る。そこで、革命危機仮説がどこまで民主主義への移行を説明し得るのかを確定してゆく算段となるが、これは次の2つの理由の為に困難なものと成っている。

 

  • 第一に、問題と成るのは革命の危機であって、これは定量化が難しい。
  • 第二に、観測された社会的抗議活動をその背景に在る危機の代理物として用いるなら、同危機が民主化を引き起こすのか、それともその2つとも何か別の要因から生じているのか、この点を確定するのは難しい。

我々は一連の論文で (AidtとJensen 2014, Aidtと Leon forthcoming近刊, AidtとFranck 2013, forthcoming近刊) 歴史上のデータ並びに近年のデータまた種々の識別戦略を用いて上記の問題と取組んできたが、これらの研究成果をはじめ、Przeworski (2009) の先行研究やDorschとMaarek (2015) の最近研究から炙り出される状況は明らかだ。即ち:

  • 革命危機は確かに民主化原動力の1つなのである

革命危機の新たな実証成果

タイトルに挙げた問題に解答を与えようとすれば、理想的には民主主義への移行例全てを含んだ集合を対象とした研究を行ってゆくべきだろう。だがこれは不可能なので、研究者として我々は、特定期間、特定国家、さらには具体的な改革にまで研究の焦点を絞ってゆかざるを得ないが、こういった特定の対象を数多く研究することでも、暴力・暴動・革命と民主化の間に在る繋がりに関して非常に多くを学ぶ事ができるのである。我々がこれまで研究に取組んできた 『事例』 は次の3つ。即ち: 『長い19世紀』 におけるヨーロッパ、20世紀末前後のサブサハラ-アフリカ、そして1830年代の英国、これである。

各々の事例において、そこでの既存支配勢力に対し、彼らの握る権力を脅かすに足る実効的な反抗行為を実施しようとする際に関係してくる 『集合行為問題』 が目下のところ解決されている事を見せつける役割を果たした客観的観測可能な出来事が具体的に存在する。そこで我々は、既存支配勢力がこうした出来事に対しどの様な反応を見せたのか、とりわけ、彼らが民主的改革を採用したのかどうかを調査した。勿論、これだけではこの2つの事柄の間の因果関係を確立するまでには至らず、各々の事例においてコンテキストを踏まえた識別戦略が必要となる。

体制不満に関する情報の国際的伝播は、危機認識の違いを把捉する1つの方法である。Kurt Weyland (2014, p. 120) は1848年におけるヨーロッパの諸革命について論ずる中でデンマークの事例を取り上げ、このロジックの例示としている: 「デンマーク国王には、到来しつつあった不満の波を見定めるのに [プロイセン国王よりも] 多くの時間が有ったし、非常に高く付いたウィーン (3月13-15日) やベルリン (3月18-19日) での衝突について知る事もできた。そこで3月21日になるとデンマーク国王は暴力の機先を制するべく、彼の宮殿の外に集まった群衆に対しこういった変革 [リベラル民主主義的憲法] を申し出たのだ」。我々はAidtとJensen (2014) のなかで民主化第一波 (1820-1938) の渦中に在ったヨーロッパ諸国のパネルデータを対象とする研究を行ったが、そこでは 「近隣諸国における実際の革命が、その他の国君主や潜在的革命家に対し、状況がどれだけ危機的であるかを伝えるシグナルの役割を果たした」という考えを精査し、この様な革命的事件と参政権改革の間に頑健な関係性が存在する事を明らかにしている。なおこの関係性は、革命の中心地に言語的または地理的に近しい国について強くなる。

  • 我々の推定値は、ヨーロッパの何処かで革命が1つ勃発した場合、近隣諸国で参政権改革が1つ起きる可能性が75%上昇するという関係があったことを明らかにしている。

1990年から2007年に掛けてサブ-サハラアフリカで起きた民主的変革を対象とした我々の研究は、革命危機と民主化の繋がりが、ヨーロッパにおける民主化第一波に固有のものではなかった事を証明している (AidtとLeon, 近刊)。同研究では、国内の暴動に関するデータを用いて体制不満の程度の定量化を試みた。暴動と政変を引き起こす原因は多岐に亘るから、暴動が民主的変革に及ぼす真の影響を明らかにする為に操作変数法を利用している。我々はBrücknerとCiccone (2011)、BurkeとLeigh (2010) およびFranck (近刊) に倣い、天候ショック (干ばつ) を政治行動に対する操作変数とした。干ばつが暴動に繋がるかもしれないというのには多くの理由が在る; 例えば、一時的な所得の減少することで権力への反抗にまつわる機会費用は低減するし、干ばつは農村地帯を困窮させるので都市部への移住が続いて生じるが、これは既に存在している緊張状態を加速させ、過密状態を悪化させるものである、等々。そして我々は、干ばつが暴動に及ぼす影響の結果として民主的変革の確率が16.7パーセント点上昇する事を明らかにしている。

ヨーロッパ及びアフリカにおける民主化を対象とした我々の研究は諸国のクロスセクションデータを継時的に調べたものだったが、『1832年大改革法』 の研究では英国の民主的変革における一大事件に焦点を置いている (AidtとFranck 2013, 近刊)。田園地帯での反乱 – 所謂スイング暴動 – の地理的伝播を精査したのだが、同反乱は『非改革議会』の下で行われた選挙としては最後のものである1830年と1831年の選挙の間に当たる時期に勃発したものであった。そこで我々は、或る選挙区の極近辺で勃発した暴動が、大改革法を承認する1831年の議会において職務を果たすことになる改革に好意的な政治家一名をその選挙区が選出する確率に対し、如何なる影響を及ぼしたのか推定を試みた。勿論、地域暴動と、改革に対し好意的な政治家の当選の間にみられる相関はどれも、多数のファクターから生じていた可能性が在る。そこで我々は、地域的社会相互作用効果を媒介に既存の道路ネットワーク沿って暴動が拡散した事実を精査する事で、地域暴動への曝され方に関する外生的差異の分離を目指した。我々の操作変数とマッチング推定値の示唆するところでは、スイング動乱が無ければ、改革に友好的だった2政党も下院で過半数を獲得する事はなかったようである。そしてこの過半数無しには、同改革プロセスは十中八九押し留められていただろう。

結論

革命危機はAcemogluとRobinsonが一連の論文や、書籍The Economic Origins of Dictatorship and Democracyのなかで展開した民主化理論において基軸的役割をもっている。同理論は民主化が歴史の機運を決する分節点において勃発することを強調するものであるが、我々の実証成果はこの見解の裏付けとなった。しかしながら、我々の研究にせよ、革命危機説それ自体にせよ、工業化・都市化・所得増加・国際貿易・格差といった背景に在って、ゆっくりと歩みを進める経済プロセスと、民主化へのきっかけが織り成す複雑な相互作用が重要であることを否定し去ろうというものではない。他国における革命・地域暴動との直面・干ばつが誘発した抗議活動などといった 『革命ショック』 が一押しとなり一国をして限界線を踏み越えさせ、支配勢力を民主的改革の施行へと向かわせる場合もあるだろう。しかしそれも背景に在る経済的ファンダメンタルズがその限界線に『近接』している状態が在って初めて生じ得るのである。

 

参考文献

Acemoglu, D and J A Robinson (2000), “Why Did the West Extend the Franchise? Democracy, Inequality, and Growth in Historical Perspective”, Quarterly Journal of Economics, 115(4), 1167-1199.

Acemoglu, D and J A Robinson (2006), Economic Origins of Dictatorship and Democracy, Cambridge: Cambridge University Press.

Aidt, T S and R Franck (2013), “How to Get the Snowball Rolling and Extend the Franchise: Voting on the Great Reform Act of 1832”, Public Choice 155 (3), 229-250.

Aidt, T S and P S Jensen (2014), “Workers of the World, Unite! Franchise Extensions and the Threat of Revolution in Europe, 1820-1938”, European Economic Review, 72, 52-75.

Aidt, T S and G Leon (forthcoming), “The Democratic Window of Opportunity: Evidence from Riots in sub-Saharan Africa”, Journal of Conflict Resolution.

Aidt, T S and R Franck (forthcoming), “Democratization under the Threat of Revolution: Evidence from the Great Reform Act of 1832”, Econometrica.

Boix, C (2003), Democracy and Redistribution, Cambridge: Cambridge University Press.

Brückner, M and A Ciccone (2011), “Rain and the Democratic Window of Opportunity”, Econometrica, 79 (3), 923-947.

Burke, P J and A Leigh (2010), “Do Output Contractions Trigger Democratic Change?”, American Economic Journal: Macroeconomics, 2, 124-157.

Congleton, R D (2011), Perfecting Parliament, Cambridge: Cambridge University Press.

Dorsch, M T and P Maarek (2015), “Inefficient Predation and Political Transitions”, European Journal of Political Economy, 37, 37-48.

Franck, R (forthcoming), “The Political Consequences of Income Shocks: Explaining the Consolidation of Democracy in France”, Review of Economics and Statistics.

Przeworski, A (2009), “Conquered or Granted? A History of Suffrage Extensions,” British Journal of Political Science, 39, 291-321.

Weyland, K (2014), Making Waves. Democratic Contention in Europe and Latin America since the Revolutions of 1848, Cambridge: Cambridge University Press.

 

ヴァウテ・デン・ハーン, マーティン・エリソン, イーサン・イルゼツキ, マイケル・マクマホン, リカード・レイス 『Brexitと経済学専門家: アカデミックな経済学者は投票者や政策画定者と疎遠になっているのか?』 (2016年8月12日)

Wouter den Haan, Martin Ellison, Ethan Ilzetzki, Michael McMahon, Ricardo Reis “Brexit and the economics profession: Are academic economists out of touch with voters and politicians” (VOX, 12 August 2016)


EUメンバーシップをめぐる英国レファランダムの結果は経済学専門家にとって深い自己省察の機会となった。経済学専門家のあいだではBrexit支持の投票がネガティブな経済的帰結を予測する点でほぼ見解の一致があったのである。本稿では、専門家を対象として2016年6月に行われたCentre for Macroeconomicsの調査を紹介する。これはレファランダムの結果に対し経済議論が果たした役割について、またアカデミックな経済学の研究成果 – ならびに専門家全体としての見解 – の伝達の在り方に関して制度的変革が必要であるか否かを問うものだった。意見は割れたが、制度変革を支持しない回答者であってもその多くは、アカデミックなマクロ経済学コミュニティと政策画定者ならびに広く世間一般との関係には幾つも考慮すべき問題が在ると見ている。

英国のEU離脱というレファランダム決定を経て、これから政策画定者は英国でもEUでも幾つかの困難な選択を迎えることになるだろう。こうした選択は、些末とは言い難くしかも後々まで影響の長引く結果をもたらす可能性が高いが、マクロ経済学者ならばこれに対してマクロ経済学的見地から助言が可能である。しかしここで幾つかの問いが浮上する。そしてそれは、関連諸国のニーズを正しく把握しようとするさいにマクロ経済学者に何ができるのかを尋ねるだけでなく、どうすればマクロ経済学の専門家全体としての立場を政策画定者と広く社会一般に対し効率的に知らしめることが出来るのかという点にも及ぶものである。

というのもレファランダム以前の段階で、専門家のあいだにはBrexit支持投票からのネガティブな経済的帰結についてほぼ一致した見解があったのだ1。もちろん経済議論のほかにも重要な論点は数多く在るし、また選挙やレファランダムの結果というものは極めて把握し難いのが通例である。しかし一部から、そもそも経済論議もエコノミストがどの程度自分の見解に自信をもっていたのかも、投票者や政策画定者には届いていなかった、という主張がでてきたのである。

たとえば英国財政研究所 (IFS) のディレクターを務めるポール・ジョンソンは、こうした意思伝達失敗の責任は専門家自身にあると主張しており2、次の3つの根拠を挙げる:

  • 一、専門家は基本的な経済学の概念を伝達できていなかった。ジョンソンはBrexitレファランダムに係る議論との関連で、為替レートが下落すれば英国市民は豊かになるとか、一国経済における雇用数は一定で変わらないといった謬見の存在に言及している。
  • 二、『全体としての迅速性・敏捷性・喫緊の重要問題に専念する姿勢の欠如』 も指摘される。
  • 三、リーダーシップの欠如。とりわけエコノミストの見解を伝達する役割が、個人や、英国財政研究所 (IFS)・Centre for Economic Performance (CEP)・Centre for Macroeconomics (CFM)・国立経済社会研究所 (NIESR) といった機関に一任されてしまっている。

明白なのは、経済学専門家全体が何らかの重要な知見を効率的かつ明確に開示する必要があるとの確信に至った場合でさえ、それに対応して本格的に行動を起こすためのスキルとリソースを備えた (権威有る) 機関が存在しないことだ。このようなとき先ず頭に浮かぶ機関に王立経済学会 [Royal Economic Society: RES] があるが、これは現在のところそうした任務を遂行するような体制をもっていない。実際、RESのホームページを訪問してもBrexitへの言及など殆ど見当たらないのである3 。同様の事はCentre for Economic Policy Research (CEPR) にも当てはまる。同機関がここVoxのサイトでBrexitに関心を注いできたのは事実だが、一組織として関連討議に参加したことはなかった。これら組織が前述の問いに答える一機関としての立場を採用しない1つの理由は、それがさまざまな研究者の包括的ネットワークとして機能しているものだからだ。

サイモン・レン-ルイスは示唆する。「全体としての声をもてなかったことは確かだが、今回は書簡や世論調査がその埋め合わせとなった。… そしてそもそもの始まりから、Brexitの長期的コストは、平均的世帯にとってのコストという観点から示されていたのだ」。問題の一部は 『政治コメンテーターの間に広く見られた経済学に関する (そして今回のケースではさらにヨーロッパに関する) 知識の欠如』 に在ると彼は見る4。ポール・ジョンソンの批判についても 「気候変動について十分に警告しなかったと言って科学者を非難するのに似ている」 と付言している。

だが、問題は意思伝達 (だけ) ではない可能性もある。エコノミストが、典型的に英国市民の間で直面される問題と疎遠であるだけの可能性もあるのだ。アカデミックなマクロ経済学者の殆どはイングランド銀行や英国財務省と頻繁に遣り取りをしているが、ジョセフ・ラウントリー財団など、個人やコミュニティレベルで経験される社会問題ともっと直接的に取組んでいる機関とはそれほど頻繁な交流がない。そうすると問題は、経済学専門家が近代経済の恩恵を受けている階級の一員と見做されているというだけでなく、それとは別の階級の一員でもある – つまりEUメンバーシップから殊更に恩恵を受ける特権階級の一員であるということなのかもしれない。

今回紹介する最新のCFM調査では、経済学専門家には何らかの変革が必要なのか – とりわけエコノミストの見解をもっと効率的に伝達し、かつ可能ならば専門家全体としての見解を表明するために、(少なくとも) 或る種の制度変革が必要なのではないかとの問いに焦点が置かれている5

別の分野では、権威有る機関が重要問題と関連して一般の注目を得ようとするのも決して珍しいことではない。例えば、王立看護協会は最近、資金援助削減およびそこから国民の健康に対して見込まれるネガティブな結果を警告する声明を出した6。こうした声明は報道機関によって広く取り上げられている。付け加えれば、報道機関は通例こうした声明をそのまま報告しつつも、しばしば追加的な背景情報も供給する。エコノミストの見解もまたメディアで報じられているが、そうした場面では、反対意見をもつ専門家がほとんどいない場合であっても、反論とセットになっているのが普通だ。

経済学専門家に関する制度変革?

さて1つ目の質問では、経済学専門家に関して 『何らかの』 制度的変革を真剣に考えるべきかが問われる。具体的な提案の無いままこうした質問に答えるのが難しいことは我々も理解している。また何らかの変革が必要だと考えるパネルメンバーであっても、どの様な変革が望ましいのかについては違いがでてくることだろう。したがって本調査で我々が明らかにしたいのは、専門家らは何らかの実体的な変革を真剣に目指すべきだと考えているのか、或いはそうではないのかという点のみである。

質問1: 経済学専門家には政策画定者ならびに広く社会一般とより効率的な意思疎通を行う能力およびエコノミストが統一見解を持っている時にはそれを明らかにする能力を向上させるような制度改革が必要である、という意見に同意しますか?; また、我々は協働の取組みを通じてこうした改善の実現支援を行う為のリーダーシップを導入する必要が有る、という意見に同意しますか?

41名のパネルメンバーがこの質問に答え、その内44%が同意または強く同意、7%が同意も反対もしない、49%が反対または強く反対という結果になった。自己評価による自信度でウエイト付けを行うと、均衡点は同意の方にシフト: 48%が同意または強く同意、46%が反対または強く反対、となる。

意見は割れたようだが、それでも同調査による質問の結果は次の2つの理由から注目に値する。

  • 一、補足コメントに示されているが、専門家に関して 「制度的変革…またリーダーシップの導入が必要」 とは考えないパネルメンバーであってもその多くは、アカデミックなマクロ経済学コミュニティと政策画定者ならびに広く世間一般との関係に問題が在ることを指摘している。
  • 二、ほぼ半数のパネルメンバーが、専門家の組織形態に関して何らかの実体的な変革の検討が必要なくらい問題は深刻あると考えていることは示唆的である。

本サマリーでは先ず、専門家が直面している問題だとパネルメンバーが伝えるものの幾つかを再検討するところから始めてゆく。続いて、専門家に関する変革は望ましくないか実現不可能であるとする理由が幾つか出されているので、その検討を行う。調査回答検討の最後に、何らかの変革が必要であるとする側から出されている幾つかの提案を取り上げ、筆を置くことになる。

或る種の経済問題はそれが多くの人にとって重要な意味をもっているのにもかかわらず、アカデミックな人員から十分な関心を受けていないと主張するコメントが幾つか出ている。チャールズ・ビーン (ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス: LSE) はこう書いている。「アカデミックなエコノミストは政策画定者や一般大衆の懸念ともっとしっかりと取組む必要がある。申し添えれば、一般的に言って経済学専門家はこの点に関してここ30年間退行を続けている」。レイ・バレル (ブルネル大学) は 「経済学専門家は政策的助言を軽視している」 と指摘する。具体例として配分問題や地域問題を、とりわけ貿易や移民との関連で挙げている。社会的結束や政治的安定性の問題についても話は及ぶ。

ニコラス・オルトン (LSE) は 「経済学専門家は民族紛争が経済成長に及ぼす影響についてなら喜び勇んで討論します。それがアフリカでの話ならば。しかしそういった議論も英国に関しては一切タブー、或いは経済問題ではないとして退けられてしまう」 と述べている。マーティン・エリソン (オックスフォード大学) は 「我々経済学者は貧困について、配分問題について、地域問題等々についても、金融委市場の監督や為替レートの値についてと同じくらい広長舌を振るわなくてはならないのです」 と言い添える。

一連の限られたトピックに活動が集中する理由を経済学専門家は幾つか挙げている。アンドリュー・スコット (ロンドン・ビジネス・スクール) はこう述べる。「我々経済学者は、独自の語法を練り上げつつ、自己増殖を続ける問題リストを展開しています。その結果として、我々の言う事にせよ、その言い方にせよ話題にせよ、もっと広い世間一般を煩わせている問題群から遊離してしまっている。専門家の多くがそうであるように、我々も内輪で語らう方を好み、喜んで独自の語法と概念を駆使しながら、そうした言葉を理解しないと言って他人を責める。或る意味、今回の調査もその新たな一例なのです。専門家以外、誰がこの結果に目を向けるというのでしょう?」。

レイ・バレル (ブルネル大学) は訴える。「我々の直面するインセンティブに変革が必要だ。昇進は研究成果の公刊とREF [Research Excellence Framework: 大学研究評価制度] 査定に掛かっているが、政策関連の成果物はあまり高く評価されていない。こういった現状が続く限り、我々の取組みが日の目を見ることはないだろう」。同様に、パニコス・デミトリアデス (レスター大学) もこう書き記す。「エコノミストがもっと実情と連関をもつようになるとしたら、先ずトップ学術誌が [支配的パラダイムに異議を唱える論文に対し] もっとオープンになるしかないだろう」。

確かに、経済専門家がいま或る種の問題に直面しており、そこに改善の余地も幾つか在るという点についてはコンセンサスが在るように見えるが、どういった対応が適切であるのかについては全くコンセンサスが無い。とりわけ、アカデミックなエコノミストの見解を代表するための制度やリーダーシップないし協働の取組みという案には強い反論がある。

繰り返し浮上する議論に、学問の独立の重要性がある。リカード・レイス (LSE) は書き記す。「知識人として、我々はやはり独立的に考え議論する時こそ良い仕事ができるものですが、こうした考えや議論が合わさって、特定の政策的選択肢に対し強力な異論を唱える場合もまたあるでしょう。… 何が 『共通の見解』 なのかを決定する 『リーダー』 の任用が、科学的探究の息を詰まらせ、窮極的には学問の自由を害する働きをすることも考え得るのです」。関連した議論がパトリック・ミンフォード (カーディフ大学) からも提出されている。彼の言葉を引こう。「通常、各陣営がどれだけの頭数をもっていたかを数え上げても、どちらが正しいのかは決まらない。これは凡そ科学の名を冠する全ての領域に当てはまる鉄則である」。

何らかの変革が必要であるという命題に同意するパネルメンバーのあいだでも、どうすれば変革を引き起こせるのか、とりわけRESの強化やリーダーシップの導入によってそれが達成できるのかについては、疑念が在る。しかし一部パネルメンバーからは具体的提案が出ている。ティム・ベスリー (LSE) はこう書き記す。「いま振り返ると、英国財務省は、幅広い領域から名の有る経済学専門家を抜擢して専門家団を立ち上げ、彼ら専門家に対しレファランダム前の段階で実証データの検討を進めるよう依頼すべきだった – こうした制度的対応案ならば私は支持したい。… LSE成長委員会は、長期的な経済実証データおよび問題群を検討する常設委員会の設立を推奨していた。同委員会は政府から独立的で、長期的政策画定にさいし幅広く助言を提供する能力を備えたものだった。… こうした専門家団が在ったなら、先ほど私が述べたような役割を果たしてくれたことだろう」。

サイモン・レン-ルイスはさらに、我々に必要なのは 「アカデミックなエコノミスト全員を対象とする (『花形』だけでない) 『定期的調査』で、核心問題に関するエコノミストの見解を明らかにすることだ」 と付け加えている。

最後に、一部パネルメンバーからメディアが経済問題を報ずるやり方に関しても改善の余地が在るとの主張が出ている点にも触れておかねばなるまい。デビッド・ベル (スターリング大学) は 「報道機関に自らの発言への説明責任をもっともたせる為のメカニズムが導入されること、またBBC憲章の見直しを通して、同放送局があらゆる議論には反対と賛成の両陣営が存在するとの印象を与える (したがって暗黙裡に両者を等しくウエイト付ける) のに終始するのではなく、専門のエコノミストのあいだにみられる議論のバランスを反映させるようになること」 を希望するという。

経済議論がレファランダムに及ぼした影響

次に挙げる一連の質問では、パネルメンバーに対し諸般の経済議論がレファランダムの結果に関してどれだけの重要性をもったかが問われた。彼ら専門家がこの問題に非常に関心を寄せており、また同時に注意深い観察者であるのも確かだろうが、本パネルメンバーは投票者が或る一定の投票行動を取る理由の解明を専門とする者ではない点を、我々は強調しておかなくてはならない。したがって我々は本調査を通して新たな領域に立ち入ることとなる。とはいえ、かなりの確信をもって提示されることも多かった諸般の経済議論が実際に何らかの役割を果たしたのかどうか、専門家に見解を尋ねてみるのは至極自然に思える。

質問 2: 英国の投票者が経済学専門家のほぼ一致した助言に反する投票をした理由について、何が最も有力だと思いますか?

1) 投票者は経済外の理由からEU離脱の選択をした;

2) 投票者は提示された経済議論を信用していなかったから (理由としては、例えば投票者にとっては反対意見を付したマクロ経済学者の議論の方が腑に落ちるものだった、或いは投票者にはそもそもエコノミスト一般に対する信用が乏しい等) ;

3) 投票者はエコノミストのもつ選好が自分達の選好から乖離していると考えている (予測されたネガティブな経済的帰結からも自分個人が影響を受けることはないだろうと投票者が考えていた場合も含む);

4) 同コンセンサスに至った理由をエコノミストは十分に明確な言葉を以て説明しなかったから; 或いは

5) 投票者はエコノミストのあいだにほぼ一致した見解が在ったことを知らなかった。

質問3から質問7では、今挙げた5つの可能性それぞれについて、それがBrexitという結果の 『重要な』 原因だったと思うかを尋ねた。

質問2も41名のパネルメンバーから回答を得た。多数派の54%は、英国の投票者が経済外の議論の方を重要視したことがBrexit支持投票をもたらした最有力原因だと考えている。投票者はエコノミストの選好が自分たちの選好と異なると認識していたとの見解も、Brexit支持投票の最有力原因として、22%という些末とは言い難い支持を得た。

これに対応するフォローアップ質問では、71%という大多数が (但し、『同意でも反対でもない』 を除外している) この不一致が実際に重要な役割を果たした旨を示唆している。関連論点は政治学者のマシュー・グッドウィンと オリバー・ヒースによる研究でも指摘されている: 「Brexit支持投票は謂わば 『置き去りにされた』 諸社会集団によって担われた。不安と悲観と疎外の感覚がこうした社会集団を1つに結び付けており、ブリュッセルにせよウェストミンスターにせよエリート層も自分達と同じ価値観をもっていて、自分達の利害関心を代弁してくれて、急速な社会・経済・文化的変化に対し自分達の抱える恐怖に対し我が事の様に共感してくれる、などと考えている者はそこにいない7」。

68%の多数派 (『同意でも反対でもない』 を除外) は、投票者は提示された経済議論を信用していなかったと考えている。補足コメントのおかげで、パネルメンバーがそう考える理由にも様々あることが明らかになっている。とりわけ、エコノミストの知見を広く世間一般に伝達するやり方について何らかの深刻な過ちがあったのかという点について、コンセンサスは全く無かった。

イーサン・イルゼツキ (LSE) は書き記す。「エコノミストはBrexitのコストについて非常に明朗に論じました。一般の人でもこうしたコストについて知らなかった者は殆どいなかったはずですし、また彼らも警告事項を大方信用していたと思います。この辺りことはメディアで非常に取り上げられましたので、Brexit支持陣営は守勢に追い込まれることになりました。我々経済学者のメッセージが一般の人に届いていないと感じたのなら、マイケル・ゴーブも 『専門家』 への攻撃や、エコノミストとナチ科学者との対比にまで手を染めることはなかったでしょう。Brexit推進者は専ら国家的プライド (『独立記念日』) や移民問題に訴えるキャンペーンを意識的に展開していましたが、それは経済的な費用対便益の文脈で戦っては不利だと知っていたからです」。

これとは対照的にデイビッド・コブハム (ヘリオット・ワット大学) は述べる。 「投票者は提示された経済議論を信用していなかった。それは部分的には非経済学者に対する我々の説明が下手だったことに原因がある。だから投票者はおそらく、エコノミストの見解の幅など殆ど見当が付かなかっただろう (こちらは部分的にBBCが 『バランス』 を取る義務を感じていたことが原因だった)」。

メディアが経済議論を紹介する仕方を問題とする者は他にもいる。モーテン・レイブン (ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン: UCL) のコメントを引こう: 「報道機関は論議状況を歪曲していた。BBCはその一例だが、Brexitを支持するたった1%の少数派エコノミストに対し、その他99%と同じ長さの放映時間を与えていたのである」。とはいえ、ほぼ一致した見解の存在を知らなかったことが重要ファクターだったと考えるパネルメンバーは30%に満たないし (『同意も反対もしない』 者を除いた場合)、それがBrexit支持投票をもたらした最有力原因だとする者は5%に満たない。

仮に、本パネルメンバーによる主要な査定が正鵠を射ているとしよう。すると、今回のレファランダムは専ら経済学以外の事柄に掛かるものだったのであり、エコノミストは経済議論が果たした役割についてさほど思い悩む必要はないのだと結論したくなるかもしれない。だから提示された経済議論が曖昧な所無くしかも公正に伝えられていなかった可能性についても気にする必要はない、と。

しかしもし、英国投票者の相当部分はエコノミストによって公に示された意見など 『彼らの様な人達』 にとって利益のある事柄を反映しているだけで、典型人の、あるいは/さらには、国全体の為になるのは何かという問題にフォーカスを置いた客観的研究とは関係ないと思っている、そうパネルメンバーが考え、それがほんとうに正鵠を射ているのであれば、アカデミックなコミュニティはこの事態を重く受け止めるべきであり、これは論を俟たない。

1つの案として、広い領域から代表者を選出し、非党派的な委員会を設立するというものが挙げられよう。こうした代表者ならば重要だと考えられる研究課題群の概要作成も可能なはずだ。そうして大学の側でこれら課題の進展にあたって代表者にどれだけ働きがあったかを重点的に評価することも出来るだろう。

さらなるインセンティブとして、政府資金援助 – これは例えば大学研究評価制度 (REF) によって決定するとして – を、こうした優先事案と関連した研究でどれほどの成果を収めているかに部分的に依拠させることもできるだろう。独立した審査体によるREFの見直しがちょうど公刊となったが、同案はここで推奨されている大衆関与や大衆理解へのインパクトを重視すべきとの意見とも整合的である8

原註

[1] https://mainlymacro.blogspot.co.uk/2016/05/economists-say-no-to-brexit.htmlhttp://cfmsurvey.org/surveys/brexit-potential-financial-catastrophe-and-long-term-consequences-uk-financial-sectorから閲覧可能な6月のCFM調査も参照。合衆国の主要エコノミストを対象とした最近の調査では、Brexitの投票結果が英国経済に (またその他EU諸国に) 長期的にもネガティブな帰結をもたらすと考える者が大多数だった。http://www.igmchicago.org/igm-economic-experts-panel/poll-results?SurveyID=SV_429IHJQVpBV1cnbを参照。

[2] http://www.ifs.org.uk/publications/8339を参照。

[3] 尤も、RESの2016年度年次会合の本会議でもBrexitについて討論が行われた。Voxに討論の概要がまとめられている: http://www.voxeu.org/article/royal-economic-society-s-panel-brexit

[4] https://mainlymacro.blogspot.co.uk/2016/07/economists-brexit-and-media-epilogue.htmlを参照。

[5] 全調査結果はhttp://www.cfmsurvey.orgから閲覧可能。

[6] https://www.theguardian.com/society/2016/jun/18/government-reckless-axing-student-nurse-fundingを参照。

[7] http://www.matthewjgoodwin.org/uploads/6/4/0/2/64026337/political_quarterly_version_1_9.pdfを参照。

[8] https://www.gov.uk/government/publications/research-excellence-framework-reviewで閲覧可能。