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ノア・スミス「ロボットが仕事とりよってん」

[Noah Smith, “Robuts takin’ jerbs,” Noahpinion, March 31, 2017]

K2SO

数学でモデルを書くといいことがある.まだ検証していないままでも,アイディアを具体的に詰められる.たとえば,最近ライアン・アヴェントとポール・クルーグマンがかわしたやりとりを考えてみよう.アヴェントが説明しようとしているのは,「生産性の向上が減速している最中にすらロボットが仕事を奪いうる」ということだ.この論は,これまでにいろんな人たちがめいめいのバージョンを語っている:「もしロボットがみんなの仕事を奪っているのだとしたら,いったいどうして生産性の向上がこうも鈍くなってるの?」 アヴェントの説はこんな具合:
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ジョセフ・ヒース 「規範的な社会学(normative sociology)」の問題について (2015年6月16日)

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先週のエントリでは、昨今のアカデミアで見られる複合的な振る舞いについてジャーナリストたちが「ポリティカル・コレクトネス」という意味未分化な単語で描写しがちであることへの不満を述べました。「古典的な」ポリティカル・コレクトネス-たとえば言葉狩り-の問題はすっかり廃れているのですが、それとは別の困った傾向が潮流として存在することを述べたのです。今週はその続きとして、私たち(物事を分類するのが大好きなのです)が「規範的な社会学(normative sociology)」と呼んでいる、やはり少々問題がある慣習について書こうと思います。

この「規範的な社会学」というコンセプトの由来は、ロバート・ノージックが「アナーキー・国家・ユートピア」の中で軽い調子で書いたジョークです。「規範的社会学、つまり『何が問題を引き起こしている”べき”なのか』、の学問がわれわれ全員を魅了する」。これはカジュアルな発言ながら鋭い観察です。社会問題の研究にはほとんど抗い難い誘惑があります。それは自分がその問題の原因であってほしいものを研究してしまい(その理由は何であれ)、本当の原因を無視してしまうことです。これを修正しないまま続けていくと、さまざまな社会問題についての「”政治的に正しい”説明現象」が起こります。つまり、AがBを引き起こしているかどうかに関してしっかりした証拠はないのに、どういう訳か、AはBの原因であるべきだと考えてしまうという現象です。さらに、AがBを引き起こすという関係を否定することは道徳的な非難を受けるという状況に至り、この関係は証拠を調べることによってではなく、「そうあるべきだと思うから」という理由で支持されるようになります。

話を進めるために一例を挙げましょう。「人種差別」に関して、証拠が示すところをはるかに超えた強い因果関係の主張がなされているのをしばしば耳にします。その中には正しい主張もあるでしょうけれど、そこには聖なる道徳の印が刻まれており疑わしい因果関係が仮定されています。これは倒錯です。何が何を引き起こしているかという問題は純粋に実証的であるべきだからです。

その因果のつながりを問うことはしかし「人種差別を小さく見積もる」方向になりがちです。(実際、上の二つのセンテンスを読んで「オーマイガッ、この筆者は人種差別を小さく見積もろうとしているな」と思いはじめる人がほとんどでしょう)。また、人種差別はとても悪しき事であるがゆえに、それが他の多くの悪しき事をも引き起こしているに違いない、という感覚もあるようです。しかしこの直感は道徳的なものであり、非論理的です。一般に、(本質的に)極端に悪い事象なり、非常に一般的な事象であっても、因果の論理という面では特段重要ではないということなど幾らでもあり得ます。

この種の道徳と因果関係の間の倒錯はしばしば起こっていると感じます。さらに言えば、この問題は「定性的な」社会科学の領域で特に大きな悪さをしていると考えます(私はこの分野に強い共感を抱くものではありますが)。実は、社会科学の定量的アプローチの大きな利点の一つは、規範的な社会学をすることだけで済ますことを不可能にするところにあります。

なお「規範的な社会学」に左翼バイアスがあるというわけではなく、保守側の事例も多くあります(例えば離婚率の上昇は同性愛の受容が関係している、とか、婚外児の出産は福祉制度によって引き起こされている、など)。ただ、左の人々は社会問題を解決することに熱心であることが多く、それゆえ具体的な関心がより強いため判断に強いバイアスがかかりがちなのです。これは非常に苛立たしい状況です。原因を攻めることによって社会問題を解決しようとするためには因果関係を正しく把握しなければなりません。さもなくば介入が役に立たないどころか、逆効果になりさえします。

これは「反逆の神話」の中で消費主義について書いたときに考えていたことです。この本でアンドリューと私が示したかったことの一つは次のようなことです。左翼は「過剰生産による恐慌は資本主義の宿命である」というマルクスの古い思想を基本的に受け入れて、何が消費主義を引き起こしたかの理論を打ち立てそれに固執しました。そして、消費主義に関連するさまざまな現象(公告、計画的な陳腐化、不足感を煽り続けること)は、過剰生産の問題を何とかする試みであるとして説明しようとしたのです。こうして時間をかけ、精巧な建造物がこのたった一つの根拠の薄い主張の上に構築されて行きました。この主張は実証的に検証されることもなく、しかも少し詳細に分析すれば意味すらなさないものだったのにもかかわらずです。資本主義には「矛盾」がビルトインされていると信じたかったのです。かくして、活動家たちは本来解決しようとしていた問題とは関係のないものを変えようとし、とりわけ消費主義の問題ではむしろ事態を悪化させる「解決策」を推し進めようとし、結果として膨大なエネルギーを浪費することになりました。

私はそのように考えていたので、ロバート・フランクの著書「Choosing the Right Pond」の次の箇所には感銘を受けました。以下の箇所で彼は上に書いた左翼の傾向について不満を正確に述べています。

左の批評家たちは歪んだレンズを通して市場を見ている。彼らはまず、市場の中に強者が弱者を搾取するシステムを見る。市場支配力がある企業は、機会が限られている労働者たちよりも不当に有利な立場にあると。左の批評家たちはさらに、市場は社会のニーズのない製品を売ることを促しており、市場はこれに立脚してすらいると見る。彼らは巧みな広告を見て、環境は汚染され、子供たちの読むべき良い本がない状況なのにもかかわらず、引っ込み式のヘッドライトを備えた燃費の悪い車に所得を吐き出させるように人々を誘惑するものだと捉える。そして最終的には、市場システムにおける報酬は、必要性にもまたメリットにさえも比例しないとする。ほんの少し才能や能力が違うだけで、しばしば収入が劇的に変わるというわけだ。報酬は行われた仕事の社会的価値とほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

ここまではお馴染みの話ですが、ここからもっと面白くなります。

ほとんどの人は当然ながら、政治的スペクトルの両極端に位置しているわけではない。市場システムについて両端の勢力が主張している見方の中間のどこかを真実と見ているだろう。本章において、一番実りの多い解釈は市場が両端の主張の中間地点に領域にあると安易に捉えることではないということを述べる。ここで描写される市場は、擁護者が主張している肯定的な諸価値と、批判されている欠陥を網羅したものになるだろう。但し、左翼が市場がうまくいっていない理由として指摘しているものはほとんど例外なく間違いであることについても述べよう。(162-3)ほとんど関係がない:法人顧客が税の抜け穴を利用するのを手伝う弁護士が年数十万ドルの収入を得るのに対し、苦労して8年生に数学を教える自分たちはわずかしかもらえない(162)。

「このような意見表明を聞くことは滅多にありませんので読んで驚いたものです。左翼は常に正しく問題を捉え、しかし説明を間違え(そして間違いと判明してからも長い間それに執着し)、そのため何ら実効性のあることができていません。

「規範的な社会学」はいろいろな意味でこのことと関係していると思います。また、ざっくり見たところ(社会問題を批評する人の言うことを何百時間も聞いてきた経験から)次のような四種類があります。

1.政策手段を求めて

そもそも未解決の社会問題が未解決になっているのは、その問題が直ちに法的な判断が下せる領域の外で起こっているからです。それは私的領域での問題だったり(たとえば家族内でのジェンダーの分業)、個人の自主性の行使と関係するものだったりします(たとえば高校からの落ちこぼれ)。従って問題を簡単に解決できる明確な政策手段は存在しません。国は単純にこれらの分野に直接介入する権威(あるいは権力)を持っていないのです。

よって、それらの問題の解決を望んで問題分析に取り組む人にとっては、何か別の政府が政策手段を確かに持っている領域が、対象と因果関係を持つと考えたくなるという、非常に強い誘惑が存在するわけです。この傾向がいちばん明確に表れているのは不平等からの因果関係を過大視する傾向だと思います。なるほど富の再配分は政府がコントロールすることができます。なのでもし「厄介な社会問題A」が「集団Bの貧困」によって引き起こされているということを示すことができれば、政府に問題Aの解決手段が与えられることになります。集団Bに富を再配分することは常に可能なのですから。

具体的な例として、昨今よく耳にする「社会的健康勾配(social health gradient)」というものがあります。健康状態とSES(socio-economic status: 社会経済的地位)の間には驚くほどの強い相関があります。対して医療リソースの分布は比較的公平なのです。SESは、富と社会的地位の不平等を統合して表すようにデザインされた複合概念です。当然のことですが、国からすれば富は容易に再分配することができるものである一方、社会的地位の方の扱いはかなり難しく、そのヒエラルキーに介入したり、ましてや改良したりする力は国にもほとんどありません(富の再分配よって間接的に介入することはあり得るでしょう。しかし、その受益者は給付を受けるという正にそのことよって社会的地位を失ってしまうという、意図と逆の結果に終わることが多いのです)。このように地位の不平等に関連する社会的健康勾配に対しては、国にできることが事実上何もないのです。公衆衛生に関してのこんなプレゼンテーションは、これまで幾つ聴いて来たかわかりません。SESの話から始まるのですが、富の不平等の話に微妙にずれて行き、何らかの所得再分配を推奨して終わるというような。

2.「被害者を非難してしまう」心配

この道徳と因果関係との間のいちばん良くある錯誤は、人々が「責任」を考え始めるときに発生します。X氏がAを引き起こした時に、Aの責任はX氏が負うと考える傾向はものすごく強いものがあります。そのため、あなたがAの責任X氏に負わせることを望まない時には、 X氏の選択ないし行為がAを引き起こしたことを示唆するものすべてに抵抗したくなる強い誘因を覚えることになるわけです。これはもちろん錯誤です。なぜなら、X氏がAを引き起こしたのかどうかは単に事実の問題であって、責任の問題を判定するものではないからです。ところが、学者がある社会問題の原因について単に実証的な結論を述べた際に、「被害者を非難するのか?」と攻撃される話をしばしば耳にするわけです。道徳が無関係なところに侵入しているのです。この種の推論に従ってしまうと、私たちは「本当の原因そのもの」についてではなく、「本当の原因であってほしいもの」について語ることにのみ終始するようになります。

もう少し説明しましょう。ある結果に対する責任を誰かに割り当てるとき、原因(因果関係)はその目的のための必要条件ですが、十分条件ではない場合もむしろ多くあります。「『多すぎる原因』現象」と呼ばれるものがあるのです。たとえば私がビール瓶を窓から戸外に放り投げたとして、下の通行人がケガをしたら、ケガを引き起こしたのは私であることは明白です。ただ、他にもその人がその瞬間に私の家の前を散歩しようと思い立ったこともまたケガを引き起こしています。同様に、その場所での散歩が禁じられていないということや、酒屋が私にビールを売ったことなど、寄与していたことはいくらでもあるのです。このように「誰の責任であるか」は因果とは別の問題です。「何が何を引き起こしたという話」と「誰の責任なのかという問題」とは完全に切り離されるべきなのです。もちろんたいていの場合前者は後者のための議論ですが、前者の議論に後者への関心を持ち込むことは厳に避けられるべきです。

この問題がはっきり出ている例を一つ挙げましょう。貧しい国々の開発が遅れている原因として地域事情があることを認めることに対する非常に強い抵抗です。貧困は金持ち国によってもたらされている害悪であるとか、あるいは金持ち国の過去の罪のせい(たとえば植民地主義の遺産)であるとして取り扱うための圧力が存在します。そうなってしまうのは、説得力のあるメカニズムを想定することによって、と言うより、「被害者を非難」したり貧しい国々の人々自身の状況のせいにすることを避けるために、という方がむしろ適切です。

3.相関の片側を強調

これは微妙な問題です。統計分析ではよく二つの事柄間の相関関係を明らかにするのですが、誰もが知っているように相関関係は因果関係を意味しません。AがBと相関する場合には次の可能性があります。1)AがBを引き起こしているか、2)BがAを引き起こしているか、3)互いに補強し合っているか、4)別のCがAとBの両方を引き起こしているか。にもかかわらず統計的相関が因果関係として報道されることなどしょっちゅうです。(例えば、医療報道でも大きな問題です。私の母は大人になっても、アルツハイマー病患者の脳にアルミニウムが存在していたという研究の報道に影響され、アルミニウム鍋での調理や抗発汗剤の使用を恐れていました。しかしこの研究が正しいとしても、アルミニウムへの暴露がアルツハイマー病を引き起こしているとする理由はなく、話しは逆で病気がアルミニウムの蓄積を引き起こした可能性もあります。)このような思考の転倒はいつでも起こり得るもので、AがBを引き起こしていると考えたい人が、相関関係の証拠に過ぎないものを自分の見解を立証するものと見なしてしまうのは自然なことです。

上記三つの傾向を全部含んだ格好の例を提供してくれるのが、所謂「貧困の文化(culture of poverty)」についての議論です。貧困には、自己弱体化とでも言うべきさまざまな行動(十代の妊娠、家族崩壊、麻薬中毒、ドメスティックバイオレンスなど)が伴うということが(統計的に)はっきりしています。これを踏まえてステレオタイプの保守派はこう言います。「彼らが貧しいのも無理はない。彼らが自身が間違った選択をしたのだから。」同じものを見てステレオタイプのリベラルはこう言います。「彼らが悪い選択をしてしまったのは無理もない。彼らはとても貧しいのだから。」実際には両方が相互に補強し合っているとするのが妥当な場合が多いのですが、因果関係の片方向を抽出し、そちらだけに集中するというのが、むしろよく見られるイデオロギー的反応です。

リベラルのこの振る舞いは上記の「政策手段を求めて」とみなすこともできます。「貧困の文化」と説明はされますが、誰もそれを変えるアイデアを持っていません – 聖職者の説法を聴けば少しは良くなるというものでもないでしょう。ところがお金の再配分なら実行可能です。また同じく上記の「犠牲者を非難する」のを避けようとする欲望も明らかに発動しています。悪い文化的傾向を「前提と考える」のは、何らかの形で個々に責任を負わせていると見られることになってしまいます。しかしお金を配れば良いとするならばその心配がありません。)

4.道徳的畏敬

先にも少し書いたのですが、ある種の行動やエピソードについては道徳的畏敬(the moral awfulness)により重大な帰結が要請されている、ということがしばしばあります。そこからは容易に、この帰結を認めない者はある意味で道徳的畏敬を軽視しているという認識が導かれます。(誰もが道徳的な帰結主義者であるならばこの問題はありません。道徳的畏敬が純粋に効果にだけ向けられるのであれば、効果が小さければ畏敬もわずかで済みます。しかしほとんどの人は帰結主義者ではないのです。)

近年の議論におけるこの一つの良い例は、不平等の広がりに対する態度です。ほとんどの人は不平等はとても悪しき事と考えています。そして、とても悪しき事はさらに多くの別の悪いことを引き起こしているに違いないと考えくなります(リチャード・ウィルキンソン とケイト・ピケットによる「平等社会」やジョセフ・スティグリッツの「世界の99%を貧困にする経済」がこの傾向のよい例です)。また、政情不安や革命は貧困と不平等によって引き起こされると考える欲望にも根強いものがあります。しかし証拠からは、むしろ不平等は「原因になっていない」ことが示唆されています(実は重要なのは「期待の高まり」なのです)。こうして不平等からのそのような連鎖を認めない人であっても、その言い訳をしようとしがちになります。(ここではクルーグマンがスティグリッツの文章に対して興味深いコメントをしているのですが、わざわざ自分が不平等を批判するものであることを強調していることに注目しましょう)

追記:アレックスさん、貴重なご指摘どうもありがとう。二点。第一に、社会学者の一部はこの問題に敏感になりつつあります。誤解を招かないように言いますが、この話は実際の社会学についてのものではありません。次のジョークの中で”社会学”という単語が使われているということです。「社会学者は社会の問題(たとえば、何だか変な風習)の原因を研究する人々です。規範的社会学者は何が原因であるべきかを研究する人々です(よほど変!)。」私自身は、実施の社会学者に対してではなく、第一に哲学および政治理論畑の人々に適用するものとしてこの言葉を使います。第二に、「お前こそ主張をサポートする証拠を示していないではないか」との指摘に対しては「ええと、これはブログエントリなのですが」と。もしあなたが規範的社会学がなされるのを一度も見たことがないとおっしゃるなら、ご同慶の至りです。あなたは私が参加してきた会議よりもまともな会議に出て来られたのでしょう。

アレックス・タバロック「人件費が安いとこうなる:インド編」

[Alex Tabarrok “When Labor is Cheap,” Marginal Revolution, April 22, 2017]

インドの人件費は安い.そのため,なにかとアメリカと事情がちがう場合がある.

インドでタクシーをつかまえてレストランに行ったとき,最初の2回くらいはびっくりした.運転手が,「ここで待ってましょうか」と尋ねてきたんだ.アメリカでレストランの外にタクシーを待たせたら,しゃれにならない費用になるだろう.だが,インドでは運転手が1時間 1.50ドルでよろこんで待っていてくれる.いまだにこれには当惑する.

物理的な資本である自動車はインドでもアメリカでもだいたい似たようなコストだ.運賃が安上がりだということは,タクシー代にしめる運転手のコストがどれくらいかの例証でもあるし,運転手のいらない自動運転車ができたら移動コストがどれくらい下がるかを示してもいる.

あと,なんでも宅配してくれる.

モールでもホテルでもアパートでもお金持ち向けの店舗でも,かならず警備がいる.といっても,ぜんぶハッタリだ〔いかにも警備を厳重にやっているような印象を与えているにすぎない〕 ――インドはアメリカほど危険じゃない――けれど,なにしろ1時間1ドル~2ドルでできるのだったら,「じゃあやろうか」となるだろう.

オフィスは1日24時間,週7日ずっとあいていることがある.べつに,誰かがオフィスにいるわけではなくて,24時間ずっと警備されているなら,いちいち戸締まりする理由もないからオフィスが物理的に開けっ放しになっているだけだ.

どこの店でも,店員は有り余っている.これが不可解で,というのも店員が大勢いる結果としてサービスが悪化しているのだ.たとえば,ごく小さなお店ですら,店員が支払い票を書くと,それをべつの店員に渡して会計をやったりする.おそらく,店員に窃盗をさせないために店のオーナーがとった対策なのだろう.つまり,こうしておけば店からちょろまかすには店員2人が結託しなくてはならなくなる.

オフィスでは,清掃員が常勤で雇われている.おかげで,週に1回か2回どころではなく,1時間に1回か2回姿を現して清掃していく.過剰に(?)民間の空間が清掃されていることで,民間の清潔ぶりと公共の汚らしさの対比が際立っている.

ジョナサン・ハイト「クルーグマンは間違ってないかな? 私たちは保守ではないし、キレてないですよ」(2016年2月24日)

Krugman is wrong? We are neither conservative nor outraged by Jonathan Haidt | Feb 24, 2016 |

※訳注:本エントリは、アメリカの経済学者であるポール・クルーグマンが、リベラル派とされている新聞ニューヨーク・タイムズの2016年1月4日付けで寄稿したコラムへの、ジョナサン・ハイトの反論である。
経済学者のノア・スミスを通じてハイトらの『ヘテロドクスアカデミー』の活動を知ったクルーグマンは、「ハイトらの活動は、アメリカ市民の間で保守政党である共和党の支持が上昇している現象を、アカデミアへ反映させようとしている保守反動運動であり、アカデミアに左派が多い事実への怒りの反応である」とハイトらを揶揄・批判している。
『ヘテロドクスアカデミー』とは、本エントリの著者である心理学者ジョナサン・ハイトらが主催し、大学の多様性を目指す組織である。2007年3月段階で、主催者のハイト自身による展望と目標等を記した記事の翻訳は本サイトのココで読むことが可能。

【付記】以下の投稿は2016年の2月に書かれたものです。しかし、2017年の1月の時点で、私たちのヘテロドクスアカデミーの政治的な多様性に変化がありましたのでこの付記を冒頭に加えます。
ヘテロドクスアカデミーはどの教授たちに対しても門戸を開いていたので、会員数は363名に達し、政治的なカテゴリー配置もとても良くなりました。おそらく私たちは今現在、とても政治的なバランスが取れており、大学群の中で多様性を持つ組織と言えるでしょう。以下はヘテロドクスアカデミー会員の申し込み時における分類表です。
ハイト構成員2
【本文:以下は2016年の2月24日に書かれた最初の投稿です】
「保守派は大学でのリベラル派1 の切れ味鋭い運動を見て怒り狂った」とポール・クルーグマンはヘテロドクスアカデミーに最近反応しました。これに、私は2つの理由で愉快に感じました。

1つ目に、私たちは怒っているのではなく、心配しているのです。そこには大きな違いがあります。感情は理性を歪ませてしまいます。それが故に、怒りの感情は、学問的良識において常にふさわしくありません。(ちなみに、読者を常に怒りの状態に囃し立てるような書き方をする学者には注意すべきでしょうね。)
クルーグマンが反応した、このページの論調2 は、ヘテロドクスアカデミーのどのページとも同じように、冷静かつ計算されたものとなっています。私たちは大学で多様な見解を失うことを心配しているのです。なぜなら、多様な見解を失うことは「[大学における]制度化された批判思想」を失うことを意味する事に他なりません。さらに政治的にオーソドックスな訓練によって産み出された研究の質が失われてしまうことも心配しています。つまり、私たちは大学内で[多様性の確保等]の状況を改善するために活動しているのです。

2つ目に、私たちは保守派ではなく、多様派なのです。少なくとも私たち自身はそう思っていますが、実際には確認していませんでした。ある内部会合で、私たち自身が何であるのかを簡単に定義できない気付きました。会員数はその時点で27名に達していたので、私たちの定義を探すのに良い機会だと考えました。簡単な匿名形式のWEBアンケートを作り、全ての会員に配布し25名の回答を得ましたので、以下に示します。

質問:「大統領選と下院選のときに、あなたはどちらの政党に普段は投票しますか?」
下記の図に示されている通り、私たちは二つの政党に分かれました。9名(36%)だけが、いつも共和党に投票しています。
典型的投票先

質問:「どのイデオロギーがあなたの総体的な政治的認識や自画像に近いですか?」
下記の図に示されている通り、私たちのなかでは「中道派ないし穏健派」(36%)が最も多く、次いで「リバタリアンないし古典的自由主義者」(32%)となりました。さらに私たちの中で3人(12%)が「進歩派ないし左派」と自称しています。5人(20%)だけが「保守派ないし右派」と自身を位置づけています。つまり、どのような視点から考慮しても、保守派は5分の1以上もおらず、「怒れる保守派」と位置づけることは困難でしょう。
政治的アイデンティティ

メンバーに社会問題について尋ねた時には、非常に左寄りの傾向が示されました。5人(20%)だけが右寄りな回答に留まっています。
社会問題

メンバーに経済問題について尋ねた時には、グラフは反転しました。4人(16%)だけが左寄りな回答を示しました3
経済問題

結論として、ヘテロドクスアカデミーはとてもヘテロドクス(異端)です。社会科学や人文科学や法学の組織で、私たちのような多様な視点を持っている組織はどのくらいあるのでしょうか?
続けると、複雑で政治的でもある公的な思想や信条に関して、注意深く考えている人はだれでしょうかね? 典型的な学問組織? それとも私たち? 私たちを選びましょうね。もしそうで無いのなら、それこそキレちゃいますよ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリは、氏が全訳し、WARE_bluefieldが代理で投稿している。なお、☆氏の許可の元、書体等の一部文章を訂正している。訳注も基本的に☆氏によるものである。

  1. 訳注:原文ではLeftwardとあるので、日本語の用法を使ってリベラル派とした。 []
  2. 訳注:このページでハイトらは、アメリカではリベラル派の多いベビーブーマー世代が大学ポストで主流になることで教育に偏りが生じており、ブランクスレート説(人間の精神は白紙の状態で生まれ、いかなるイデオロギーでも書き込み事が可能とする政治・哲学・心理学的思想)の生徒への押し付けなどが起きているとしている。また、その状況を改善するために多様性に基づいた改善活動を提唱している。 []
  3. 訳注:ここで言われている「経済的に右寄り」とは、本来的な意味(市場に任せて、政府の介入を避ける)を指していると思われる。いわゆる日本における経済的政策のねじれを含んだ意味ではないことに注意。 []

タイラー・コーエン 「『自由意志』の存在を信ぜよ。さすれば(実益が)与えられん」(2010年8月21日、2016年4月2日)

●Tyler Cowen, “The culture that is Bryan Caplan”(Marginal Revolution, August 21, 2010)


つい最近の論文によると、哲学上の信念は実社会でのパフォーマンスにも重要な影響を及ぼす可能性がある(少なくとも両者の間には相関がある)らしい。

哲学上の信念は職場での業績に影響を及ぼすだろうか? 本研究で見出された結果によると、「自由意志は存在する」との信念の持ち主は将来的に仕事で成功を収める可能性を高く見積もる(将来のキャリアについて楽観的な見通しを持つ)傾向にあるだけではなく、実際にも高い業績を残す(仕事ぶりに対する上司の評価が高い)傾向にもあることがわかった。職場での業績と相関を持っている尺度としては誠実性統制の所在プロテスタント的労働倫理尺度等が知られているが、自由意志への信念の強さはそのいずれの尺度よりも職場での業績の高さと強い相関を持っていることも見出された。

この論文はVaughn BellがTwitterで紹介していて知ったものだ。いくつかの解釈があり得るだろう。「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性(例えば、内的統制型)を併せ持っている1というのが一つ目の解釈だ。二つ目の解釈は自由意志への信念それ自体が仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高める働きをするというものだ。自由意志の存在を信じる人物は自らの一つひとつの選択に責任を持とうと心掛ける傾向にあり、それに伴って仕事で成功する可能性も高まる。そういう可能性もあるわけだ。

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●Tyler Cowen, “The case for a belief in free will”(Marginal Revolution, April 2, 2016)


今回取り上げる論文は“Believing there is no free will corrupts intuitive cooperation”(「自由意志の存在への疑念は人間の直感的な判断に干渉して非協力的な行為を誘う」)だ。著者はジョン・プロッツコ(John Protzko)&ブレット・ウィメット(Brett Ouimette)&ジョナサン・スクーラー(Jonathan Schooler)の三人。論文のアブストラクト(要約)を引用しておこう。

自由意志は果たして存在するのだろうか? その答えはどうであれ、自由意志の有無に関する信念(「自由意志は存在する」と信じるかどうか)は人の行動に影響を及ぼす。「自由意志は存在する」との信念が脅かされると非協力的な振る舞いが誘われる可能性があるのだ。自由意志の有無に関する信念と現実の行動とをつなぐメカニズムの詳細については盛んに議論が続けられている最中である。本論文では「公共財ゲーム」2に若干の捻り(出資額を決めるまでの制限時間を調節する3)を加えて、自由意志の存在への疑念が(熟慮をつかさどる)「思考システム」(「システム2」)に影響を及ぼすのか、それとも(直感的な判断をつかさどる)「反射システム」(「システム1」)に影響を及ぼすのかを探る4。その実験結果はというと、直感に従って意思決定を下す(出資額を決める)場合5には人々は協力的に振る舞う傾向にあるが6、「自由意志は存在する」との信念が脅かされる7と直感的な判断が狂わされて(直感レベルでも)利己的に振る舞いがちになる8ことがわかった。しかしながら、「自由意志は存在する」との信念が脅かされた結果として直感レベルで利己的な判断を下しがちになったとしても、考える時間が与えられるとその傾向も乗り越えられる可能性があることも見出されている9

「自由意志」や「自己責任」への信念が実益を伴うためには(形而上学的な観点からすると突っ込みどころがあるにしても)その信念が津々浦々で(多くの人々の間で)広く共有される必要があるだろう。この思想家は社会的な信念(社会で広く共有されている信念)に加担しているだろうか? それとも反旗を翻しているだろうか? そのように問い掛けながら一人ひとりの思想家の言い分に耳を傾けてみるというのもありだろう。「自己責任」という概念を論敵にだけ適用する。そういう論者も中にはいることだろう。

この話題を教えてくれたBen Southwoodに感謝。

  1. 訳注;「自由意志は存在する」との信念の持ち主は仕事で成功する(高い成果を収める)可能性を高めるようなその他の何らかの属性を併せ持っており、「自由意志は存在する」と信じているがゆえにではなくその他の何らかの属性のおかげで仕事で成功する可能性が高められている、という意味。 []
  2. 訳注;この論文では次のような設定になっている。4人一組でグループを作り、各人にはあらかじめ0.5ドルが与えられる。各人は手元にある0.5ドルの中から共同基金にいくら出資するかを決める。共同基金に集まったお金は倍に増やされて4人の間で均等に配分される。出資せずに手元に残しておいた金額と共同基金から配当される金額を加えたものが各人の儲けということになる。例えば、4人全員が手元の0.5ドルを全額出資すると共同基金には合計で2ドル集まることになるが、その2ドルが倍にされて四等分されることになる(={2ドル×2}÷4)のでこの場合は各人の儲けは1ドルということになる。さて、利己的な人間であればいくら出資することになると予想されるだろうか? 答えは「0ドル」。その理由は自分が0.1ドル出資した場合に共同基金からいくらの配当が返ってくるかを考えてみるといいだろう。0.1ドル出資するとそれが倍にされて四等分される(={0.1×2}÷4)ので共同基金からの配当額は0.05ドルである。0.1ドル出資して戻ってくるのは0.05ドルなのだからこれほど損な話はない! その一方で、他の誰かが共同基金に0.1ドル出資すると自分も0.05ドルの配当がもらえることになる。自分はびた一文出さずに(出資せずに)他人には出資してもらいたい(他人の努力にただ乗りしたい)という誘惑が存在するわけである。4人全員が同じように考えたとしたら(ただ乗りの誘惑に流されたとしたら)共同基金にはお金は一切集まらず、各人の儲けは(最初に与えられた)0.5ドルということになり、4人全員が全額出資した場合よりも儲けが少なくなってしまうわけである。 []
  3. 訳注;二つのケースに分けられている。「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求める(被験者に速断を求める)場合と最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求める(被験者に熟慮を許す)場合である。 []
  4. 訳注;人間の思考をつかさどる二つのモード(「システム1」と「システム2」)については例えば次を参照。 ●友野典男「人はなぜ変われないのか――認知バイアスから逃れられない理由」(カタリスト, 2016年1月8日) []
  5. 訳注;「公共財ゲーム」の説明を聞いてから10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合 []
  6. 訳注;平均すると共同基金に(0.5ドルのうちから)0.4ドル出資する []
  7. 訳注;「公共財ゲーム」に参加する被験者に自由意志の存在を否定する研究結果の概要を事前に説明して聞かせる []
  8. 訳注;10秒以内に出資額を決めるよう求められる場合、「自由意志は存在する」との信念が脅かされないままだと平均すると0.4ドル出資する傾向にあるが、「自由意志は存在する」との信念が脅かされると平均して0.28ドルしか出資しなくなる。 []
  9. 訳注;最低10秒は考えた上で出資額を決めるよう求められるケースでは「自由意志は存在する」との信念が脅かされようがされまいが出資額にあまり違いはない(出資額はどちらの場合でも平均すると0.34ドル前後)。 []

アレックス・タバロック 「正義軍か、経済学者軍か ~『高貴な嘘』の功罪?~」(2013年1月13日)

●Alex Tabarrok, “The Army of Economists”(Marginal Revolution, January 13, 2013)


ダニエル・デネットが興味深いインタビューの中で幅広い話題を縦横に論じているが、偽善(hypocrisy)が時として好ましい結果をもたらす可能性があるかどうかについても問われている。

恐ろしい敵を相手に戦わねばならないとしましょう。冷酷無残な敵です。ヒトラーの再来といっても過言ではないような極悪非道の敵です。そんな敵から私たちの身を守ってくれる味方の軍には編成の異なる二通りの軍隊が存在するとしましょう。ここではとりあえず「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」と呼んでおくことにしますが、人員の数や軍事訓練の程度、使用する兵器等には違いはありません。攻撃面でも防御面でも可能な限り最上の装備を身に付けているという点でも違いはありません。違いは何かと言うと、「ゴールドアーミー」に所属する兵士は一人残らず「神」が自分たちの後ろ盾になっていると信じ切っていることです。そのため、「我が軍は正義軍だ」と心の底から信じ切っています。その一方で、「シルバーアーミー」に所属する兵士は全員が経済学者です。ブラックジャックで躊躇なくインシュランス(保険)をかけるような人種であり、ありとあらゆる事象の起き得る確率を事細かに計算しないではおかない人種ですね。

「どちらの軍隊に前線に向かってもらいたいですか?」と問われたらどう答えるでしょうか? 「シルバーアーミー」という答えはなかなか聞かれないと思いますが、そのような反応は一体どういうことを意味しているのでしょうか? 「若い兵士たちに敵と立ち向かってもらうためにはどうすればいいか? 間違った考え(信念)を吹き込んで兵士たちの目をくらましてしまえ」。そう言ってるも同然です。偽善極まりないように思われます。しり込みせざるを得ません。「兵士たちを洗脳せよ」と言っているようなものですからね。病気にならないように前もってワクチンを打っておくような話です。兵士たちが経済学者流――あるいは哲学者流――の発想に侵されないようにせよ、というわけですからね。兵士たちが経済学者のように考え出したとしたら次から次へと疑問が湧いてくることでしょう。戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか? 自分の命を危険に晒す覚悟は本当にできているのだろうか? 我が軍が今やっていることは本当に正しい行いと言えるのだろうか? じっくりと腰を据えて検討を加えたら他にもっと優れた軍事作戦が見つかるのではないだろうか? そうだとしたら今の作戦は無駄もいいところということになるのではないか? まだ塹壕に身を潜めてなきゃいけないんだろうか?  何とも厄介なジレンマです。私にもどうしたらいいか答えはわかりません。しかし、このジレンマから目を背けてはならないでしょう。

嘘が好ましい結果を引き起こす上で効果的な働きをした例(言い換えると、「高貴な嘘」の実例)はこれまでに一度としてないなんて反論はさすがに極端だろうが、「高貴な嘘」がルール化されたとしたらどうだろうか? 好ましい結果が期待できるだろうか? 長い戦争の歴史を振り返ってみてもらいたいが、「正当」で「賢い」戦争は一体どのくらいあっただろうか? 虚栄心の塊のような政治指導者や馬鹿げたプライドによって突き動かされた戦争の例は一体どのくらいの数に上るだろうか? さて、問うとしよう。味方にするなら「ゴールドアーミー」と「シルバーアーミー」のどちらがいいだろうか? 私の答えは「シルバーアーミー」だ1

もう一点だけ指摘しておきたいことがある。デネットは「利己心」(それも狭く解された利己心)と「合理性」をごっちゃにした上で「経済学者」の特徴付けを行っているが、(狭く解された)自己利益に反してはいても合理的であることは可能なのだ。デネットの問いに含まれるちょっとした誤魔化しと絡めてその点を説明するとしよう。「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手だという前提が立てられているが、後半のところで「経済学者」に「戦争を行うだけの正当な理由があると本当に言えるのだろうか?」と自問させている。この「経済学者」はどのような答えを下すだろうか? 「恐ろし」くて「冷酷無残な敵」が相手なのだからその答えは勿論・・・「イエス」のはずだ。このケースでは戦争に身を捧げることは合理的な行動と言えるわけなのだ2

この話題を教えてくれたBrian Donohueに感謝。

  1. 訳注;長い戦争の歴史を振り返ると、「不正」で「愚か」な(=やる必要のない)戦争ばかりであり、「シルバーアーミー」であれば参戦などしなかったはずだ、ということが言いたいものと思われる。言い換えると、「高貴な嘘」がルール化された結果として軍隊が「ゴールドアーミー」へと変貌すると、「不正」で「愚か」な戦争も多数繰り返される羽目になる、ということが言いたいのであろう。 []
  2. 訳注;デネットは「ゴールドアーミー」だけが戦争に身を捧げるかのような含みを持たせているが、必ずしもそういうわけではない(「シルバーアーミー」も場合によっては戦争に身を捧げることがある)、ということが言いたいものと思われる。 []

マイルズ・キンボール 「『高貴な嘘』への批判を禁ずるのは妥当か? ~J・S・ミルの『自由論』を紐解く~」(2013年3月10日)

●Miles Kimball, “John Stuart Mill on the Protection of “Noble Lies” from Criticism”(Confessions of a Supply-Side Liberal, March 10, 2013)


Plato

プラトン著 『国家』

モルモン教の話題になるたびに何度も耳にしてきた意見がある。モルモン教の教義が仮に「間違い」だったとしてもモルモン教を信じる人々にとってはその教義は「有益」であるとは言える、という意見がそれだ。そのような意見に何度も出くわした経験があることもあって「高貴な嘘」(“noble lie”)という概念にずっと興味を抱き続けてきた。「高貴な嘘」とはどういう意味か? ウィキペディアでは次のように定義されている。

政治の世界における「高貴な嘘」というのは国家を統治するエリートたちが社会の調和を保ったり政策目標の達成を図ることを目的として間違いだと知りながら世間に向けて語り伝える嘘のことを指しており、宗教にまつわる神話ないしは虚偽がその例としてよく挙げられる(とは言え、宗教上の信念だけがその例というわけではない)。「高貴な嘘」という概念はプラトンの『国家』の中で展開されている議論に起源を持つと言われている。

宗教の世界にとどまらず俗世間の領域でも似たような例は見つかる。例えば、「ポリティカル・コレクトネス」がそれだが、社会の調和を保ったり社会正義を実現するために必要だからという理由で批判や議論の対象から外そうとする動きがあるのだ。ところで、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』の中でまさにこの話題が取り上げられている。第2章の「思想と言論の自由について」(“Of the Liberty of Thought and Discussion”)の中で「『高貴な嘘』への批判を禁ずべし」との見解に考察が加えられているのだ。「高貴な嘘」と表現すべきか、それとも「壮大なる神話」(“magnificent myth”)と表現すべきかという問題はあるが、以下に引用する議論はそのような細かい表現の違いにかかわらず成り立つものだ。 [Read more…]

タイラー・コーエン 「フェイクニュースと大統領選挙」(2017年1月19日)

●Tyler Cowen, “How much fake news is needed to swing an election?”(Marginal Revolution, January 19, 2017)


ハント・アルコット(Hunt Allcott)とマシュー・ジェンツコウ(Matthew Gentzkow)の二人がフェイクニュースをテーマにした論文〔最新版はこちら(pdf)〕を物している。全部はまだ読めていないが、主要な結論は以下のようにまとめられるようだ。

・・・(略)・・・我々が本研究を通じて見出した結果をまとめると次のようになる。(i) ソーシャルメディアは大統領選挙に関する重要な情報源の一つではあったが、他のメディアを圧倒して最も重要な情報源だったかというとそうとは言えない。ソーシャルメディアを選挙ニュースの「一番重要な」情報源として挙げているのはアメリカ人(成人)全体のうちの14%に過ぎない。(ii) 選挙当日までの3ヶ月の間にソーシャルメディアを通じて流布したフェイクニュースのうちではトランプに肯定的なフェイクニュースの方が共有された回数は多かった。トランプに肯定的なフェイクニュース(全部で115個)がFacebookで共有された回数は合計で3000万シェアであり、ヒラリーに肯定的なフェイクニュース(全部で41個)がFacebookで共有された回数は合計で800万シェアという結果になっている。(iii) 平均的なアメリカ人(成人)がフェイクニュースをどれだけの数目にしまた記憶していたかというと(成人一人あたりに換算すると)、トランプに肯定的なフェイクニュースに関しては0.92個、ヒラリーに肯定的なフェイクニュースに関しては0.23個との推計結果が得られている。また、フェイクニュースを目にした覚えがあるアメリカ人のうちでその内容を真実として信じ込んでいた割合は半分を少し上回る程度(成人全体の8%程度)であることも判明している。 (iv) フェイクニュースが選挙結果を覆すだけの効果を持つためには一つのフェイクニュースにテレビでの選挙広告(CM)36本分のインパクト(説得効果)が備わっている必要があるとの推計結果が得られている。

自分へのお薦めの論文だ。

タイラー・コーエン 「嘘とコミュニケーション媒体」(2004年2月13日)

●Tyler Cowen, “You lie more over the phone”(Marginal Revolution, February 13, 2004)


メール(電子メール)でやり取りする場合よりも電話でやり取りする場合の方が嘘が出やすい。その理由は? メールはやり取りの記録が残るためだ。相手にその記録を辿られて嘘が見つかってしまうのではないかと心配になってしまうのだ。

コーネル大学の教授であるジェフ・ハンコック(Jeff Hancock)は30名の学生(被験者)を集めて1週間の間に交わされた会話(対話)の記録を日記に記しておくようにお願いした。1週間の間に誰かと会話(最低でも10分は続いた会話)を交わした回数はどのくらいか、どのような手段(コミュニケーション媒体)を使ってやり取りしたか、相手に嘘をついた回数はどのくらいか。そういった情報を日記に記してもらったのだ。

ハンコックは被験者たちの日記の記録をもとにしてコミュニケーション媒体ごとの嘘率1を計算した。その結果、メールを使ったやり取りでの嘘率は14%、インスタントメッセージ(IM)を使ったやり取りでの嘘率は21%、対面での会話での嘘率は27%であることが判明した。そして嘘率が一番高かったのが電話を使ったやり取り(電話越しの会話)であり、その値は37%。

嘘の多さよ! 全文はこちら2

  1. 訳注;例えば、1週間の間に誰かと面と向かって(対面で)会話をした回数が100回であり、そのうち15回の会話で何かしらの嘘をついたとしたら、(対面での会話での)嘘率は15%ということになる。 []
  2. 訳注;この研究結果に興味がある向きは次のTEDトーク(日本語字幕付き)もご覧になられるといいかもしれない。 ●「ジェフ・ハンコック:嘘つき達の未来」 []

タイラー・コーエン 「相手が嘘をついているかどうかを見抜く方法」(2004年8月22日)

●Tyler Cowen, “How to spot a liar”(Marginal Revolution, August 22, 2004)


数多くの被験者を集めた実験を通じて嘘つきが取りがちな行動パターンがいくつか明らかになっている。嘘つきは正直者に比べると会話の最中に体(腕や手や指)を動かすこともまばたきすることも少ない傾向にある。さらには、(嘘つきは正直者に比べて)声も緊張味を帯びていて甲高くなりがちだという。少し前に口にした発言を覚えておこう。話に矛盾がないように気を付けよう。嘘つきが会話の最中に体を動かすことが少ないのも発言の途中で口を閉ざす(一呼吸置く)ことが多いのもそのような余分な努力が必要となるためかもしれない。嘘つきは正直者に比べると言い間違いをすることも少なく、話を戻して言い忘れていたことや不正確だった細部について語り直すことも滅多にないという〔太字での強調はこちらで加えたもの〕。

「嘘つきが語る話はあまりにうまく出来過ぎているんですね」。そう語るのはベラ・デパウロ(Bella DePaulo)氏。カリフォルニア大学サンタバーバラ校で社会心理学を研究する学者であり、「欺瞞」研究の分野における展望論文をいくつも物している人物だ。

嘘つきは相手を騙している最中に恐れや罪悪感(といったマイナスの感情)、場合によっては喜び(といったプラスの感情)を感じている可能性があり、そのような感情が顔の表情の変化を引き起こすこともあり得ることだ。しかしながら、表情の変化はあまりに微妙であり、そのため周囲の人間はそれに気付かずに見過ごしてしまう可能性がある。カリフォルニア大学サンフランシスコ校の元教授であるポール・エクマン(Paul Ekman)は(嘘つきの顔に表れる)そのような一瞬の表情の変化を「微表情」(microexpressions)と名付けている。表情の(微妙な)変化はジェスチャーや声のトーン、会話のパターンと同じくらい相手が嘘をついているかどうかを見抜く上で大事なヒントになるとはエクマンの弁だ。

相手の嘘をいとも容易く見破る超人的な能力の持ち主も(ごく一握りではあるが)いるそうだ。

モーリン・オサリヴァン(サンフランシスコ大学の元教授)が語るところによると、連邦捜査官や法医学心理学者といったプロの中にはごく少数ではあるが相手の嘘を見破る上でずば抜けた能力を発揮する人物がいるという。「そのような能力の持ち主には一人か二人は出くわしますね」とオサリヴァンは語る。

全文はこちら(pdf)だ。