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ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉,パート2: 向社会的行動の点数化 (2017年1月24日)

The End of Privacy, Part 2: Scoring Pro-Social Behaviour (In Due Course, January 24, 2017)
Posted by Joseph Heath

(訳注: 「向社会的行動」とは,他者の利益を意図した自発的行動.反社会的行動の反対語.)

哲学者の中には異論をとなえるものもいるだろうが,道徳なるものは明らかにまだ未完成である.道徳は時代とともに変わる.私の父が生まれた世界では「婚外性交」は非道徳的とみなされた,今はほとんどの人はそう思わないし,それどころか,かつて非道徳的とみなした人がいたなど理解しがたいという人も多いだろう.かくして物事は変わりゆく.

我々の道徳律と,その時代の技術水準の間には込み入った関連がある.上で述べた性的規範の急激なシフトが,安全で効果的な避妊テクノロジーの発見に引き続いて起きたのは決して偶然などではない.

はるか地平線で次なるテクノロジー的変化が形を取りつつあり,私にはそれが日常的な道徳を根本的に変える可能性が大いにあるように思える.そのテクノロジーとはすでにAirbnbやUberといったアプリで使われているもので,契約に関わる当事者間の「信頼」の問題を解消するために,お互いに相手を採点するという技術である.Uberでは乗客がドライバーを採点できる.しかし,同じくらい重要な点として,ドライバーも乗客を採点できるのである.Uberのドライバーの車の後部座席で無作法に振る舞うと,次の乗車のために呼ぼうとしても,乗せてくれるドライバーが減ってしまうだろう(実際に起きるのは,高ランクのドライバーがあなたを無視し,ランキングの低いドライバーにまわすということだ).同様に,もしAirbnbを通して借りたアパートを散らかすと,将来部屋を貸してくれる人が減る.この仕組みは,オンラインレピュテーションシステムと呼ばれる.

ここで,あるオンラインレピュテーションシステムを想像してみよう.車やアパートではなく,人生全般についてのシステムで,そこであなたは行動のあらゆる側面から「点数」をつけられる.こいつはどんなやつだろう?いいやつか,嫌なやつか?協調的か,変人か?デートではどうか?学校ではうまくやってる?仕事に遅刻しない?そんなシステムを想像してみよう.こういう点数を先生や雇用主やその他の人が入力する何かしらのデータから,またYelp1みたいに一般大衆が入力するデータから記録するシステムを.デートアプリで,女性が男性をレーティングできるもの(lulu)はすでにある.しかし,このアプリはまだ男性が許可しないとプロファイルを作れない(ので,レイプ犯をふるいにかけるという点ではあまり役に立たない. — もっともわかりやすい使いみちのひとつなのだが).しかし,誰かがそういう,本人が望まなくてもプロファイルが作れるシステムを作るのを止めることはできないし,誰かが作るのは単なる時間の問題だと思う.

もちろん,作るのは民間の個人とは限らない.中国政府は「社会信用」システムを開発する意向を公表しており,そこには全ての個人のレーティングが入る — クレジットの格付けのようなものだが,そこに秘密警察ファイルや,さらにもっと広い範囲の,(単なるローンの返済記録だけではない)すべての種類の向社会的な行動の情報もブレンドされている.売り文句は,デートにも,雇用契約にも使えるというものだ(そしてもちろん,警察やその他の権力機関にも…).現時点では,中国政府は民間企業に試験的プロジェクトをやらせているが,計画の究極目標は国家の支配下の統合システムを作成することだ.念のため言っておくと,ほとんどの中国人はそれほど騒ぎ立てているように見えない(私は特に驚くことではないと思うが,西洋のメディアの中にはそれを不思議がる解説記事を載せたものもあったようだ).

問題は,騒ぎ立てるべきなのかどうかということだ.ほとんどの西洋人と同じく,私の自然な反応も否定的なものだ.このアイデアすべてがショッキングなほどの侵害だと思う.一方で,きっと便利だろうというのもまた確かで,こういうシステムがあれば膨大な数の集団行為問題が解決するに違いない.UberやAribnbが示した通り,『見知らぬ人の間での信頼関係』という問題は莫大な取引コストを生じ,何十億ドルもの価値がある取り引きを妨げ,行われたはずの取り引きが行われずじまいになってしまっている.こんなにもたくさんのアパートが空室のまま放置されてしまっている! こんなにもたくさんの自動車が稼働しないまま放置されてしまっている! 多数の人々が滞在する場所を,乗る車を求めているというのに.ここでの問題は,人々がお互いを信頼できなかったということで,それが取り引きが行われなかった原因なのだ.信頼の問題を(オンラインの支払いシステムとレーティングシステムで)解決すれば,突然,それまで存在しなかったマーケットがそっくり姿を現す.

ここで想像してみよう,部屋や自動車以外にいったいどれほどの取り引きが,今現在,人々が互いに信頼できないが故になされないままになっているか… 考えてみよう,あなたの生活がどれほど劇的に変わるか,どれほど多くの様々な活動に参加できるようになるか — もし,なんらかの方法で直ちに,見知らぬ人と会う際に,その人が信頼できるかどうか知ることができたら — そして,その人があなたの信頼を裏切った時に他の皆に警告できたら.想像してみよう,もしあなたの電話機が周囲のみんなの「社会的信用度」を表示したら… バーで,地下鉄で,教室で.社会生活は完全に変容を遂げると言っても過言ではないと思う.

またこれも言っておくべきだろうが,伝統的な左翼のファンタジーとして,互恵主義のみに立脚して運用されるキャッシュレス経済なるものも存在する.こうした経済システムでは個々人の貢献度を記録する「社会的信用度」スコアのようなもの(あるいはreddit2 の「カルマ」のようなもの)を用いる.この種の社会主義者的計画の多くは,特に「コンシューマリズム」を縮小ないし除去することを目指すものは,やはりショッキングなほど侵害的である — たとえば,「Parecon」提案3を見よ: この提案では,全てのあなたの消費需要はあなたの隣人からなる審議会の承認を必要とするのだ.寛容に解釈するならば,この手の計画の支持者たちは,そうした計画のもとで暮らすということが実際にどういうものか,あまり本気で注意深く考えたことがないのだろう.いずれにせよ,こういう計画の支持者たちが,開始されつつある中国の社会信用システムについてどう考えるのか,私には興味深い.

ついでに言えばこの種の,人々の性格に関する情報共有は,小規模な社会の構造的特徴である.小規模な社会ではこの情報共有はだいたいのところうわさ話によって達成される.この情報共有と切っても切れないのが,非常に侵害的な形での社会的支配であった.人類が進化してきた小規模な社会では,全員があなたのやることなすこと一切合切を知っており,あなたの評判の「点数」はすべての付き合いにおいて共通知識として使われたのである.しかし,社会的支配のメカニズムとしてのうわさ話は,大規模社会と都市生活への移行に際して生き延びなかった.全員が何をしているか把握し続けるのは単純に難しすぎるのである(これがロビン・ダンバー4の主張のポイントである).だから大規模社会では,やむを得ず付き合ういろんな人々のことを,実は何も知らないという羽目になってしまったのだ.

このように,最新のテクノロジーは実際には単に過去の小規模社会の条件を巨大スケールで再び作り直そうとしているだけなのである.振り返ってみると,我々がこれまで生きてきたのは不思議な魅惑の時代だったと言えるかもしれない.それは,人間が,小規模社会から大規模社会へ飛躍する方法をやっと見つけ出したが,小規模社会で有効だった社会的支配システムを大規模社会に課す方法をまだ見つけなかった時代である.これが,個人の自由のある種の黄金時代を作り出したのだ.そこでは,反社会的に行動しても重大な結果を招くことがなかった.包括的な社会的ランキングシステムの可能性について考察してみて驚くのは,非道徳的に振る舞っても誰にも知られないということに自分がセンチメンタルな愛着を抱いていることだ

ジョン・スチューアート・ミルの自由論の,アルコール販売の問題をとりあげた一節を振り返ってみよう.ミルはここで禁酒「同盟」に反論している.禁酒同盟の主張は,事業者が他人の「社会権(social rights)」を侵害した場合はいつでも国が事業を禁止できるというものであった.

「社会権」なる理論,おそらくその類のものは未だかつて明瞭に言葉で表現されたことはないものの,それは少なくとも次のようなものでありましょう:  絶対的な社会的権利としてすべての個人が有するものであって,本人が振る舞おうとするのと同様に他の個人すべてを行動させる権利.これに僅かなりとも違反したものは誰であろうと我が社会権を侵害したのであって,その侵害を排除する権利が議会から私に与えられるような権利.なんとも恐ろしく,かつまた他のいかなる自由への侵害よりなお危険な主義主張であります.これをもってすれば,いかなる自由への侵害であろうと正当化できぬものはありません.いかなる自由への権利も是認されず,ただおそらくは意見を密かに,決して表明せずに持つことだけが許されることになるでありましょう.なんとなれば,私が有害とみなす意見が何びとかの口の端に上るやいなや,それは同盟が私に付与した「社会権」を侵害したことになるのですから.この教義に従うならば,全人類が,他人の道徳的,知的,さらには物理的な側面についてさえも,何をもって望ましい状態とするのか,その利害関係を,原告の側が自らの勝手な基準に従って定めることができてしまうのであります.

ここでのミルの議論は,一種の背理法に沿って展開されている.しかし,よくわからないのは,この背理法のどこまでが,彼が記述した帰結が望ましくないことによるもので,どこまでがそうした帰結の実現不可能性によるものかという点である5.言い換えると,われわれが享受してきた「自由」のどこまでが技術上の制約の結果なのかが私にはわからない6.技術的制約は,人々が効率よくお互いを監督し支配する妨げにはなってきたが,国に対してはそれほどの制限を課してこなかったのだから.

もちろん,もう一つの可能性としては7道徳がそれほど厳格でなくなるということも考えられる.現在われわれが持っているのは比較的厳格な道徳律と,極度に緩い強制力の組み合わせである.おそらくその理由は,ちゃんと強制できないほど道徳律が厳しすぎるためだろう.現場を押さえられる可能性がごく小さい時代,罰はより厳しく,免責される条件も数少なかった.しかし,突然,現場を押さえられる可能性が劇的に増大した.このことは,道徳律を緩める多大な圧力をもたらすように思える(ちょうど「若さゆえの愚行」に対してもっと寛容になるよう圧力がかかっているのと同じように なにしろ,今の若い世代は,おのれの17歳当時の思想や意見の完全な記録が永遠に残ってしまうのだから).

  1. 訳注: レストランはじめ,地域の店やビジネスのレビューを掲載する会員制サイト []
  2. 訳注: 巨大な掲示板サイト []
  3. 訳注: Participatory economics (Wikipedia): 参与型経済 (Wikipedia) []
  4. 訳注: Wikipedia より「ダンバー数の定式化でよく知られている。人間にとって、平均約150人(100-230人)が「それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限」であると述べている」 []
  5. 訳注: ここでいう「社会権」が認められないのは,認められた社会が皆にとって望ましくないからか,そういう社会を実現するのが不可能だからか,どちらだろうかということ []
  6. 訳注: お互いの行動を監視する社会がまだ到来していないのは,それが望ましくなかったからか,技術的に不可能だったからか,どちらだろうかということ []
  7. 訳注: お互いに監視して行動の自由が制約されるかわりに []

マーク・ソーマ 「世間における経済問題へのあやふやな理解とその背後にあるもの ~メタファーと『善は善を呼ぶ』型ヒューリスティック~」(2015年10月30日)

●Mark Thoma, “‘On Misunderstanding Economics’”(Economist’s View, October 30, 2015)


クリス・ディロー(Chris Dillow)が興味深い研究を紹介している。

On misunderstanding economics”:

世間における経済学への無理解を嘆く声があちこちで聞かれるようになって久しいが、この問題に対して新しい角度から光をあてる興味深い研究が現れた。デビッド・レイザー(David Leiser)とゼエヴ・クリル(Zeev Kril)の二人の手になるこちらの論文がそれである。レイザーとのクリルの二人は語る。人間の精神は「経済学(ないしは経済問題)を考るのに格好なようにはできていない」。

・・・(中略)・・・

レイザーとクリルの二人によると、世間の人々はその代わりにメタファーに頼る傾向にあるという。一番悪名高い例は国の財政を家計に喩えるあれである。単にメタファーに頼るというだけではない。自信満々でそうする(メタファーに頼って経済問題を語る)ことが多いというのだからさらに始末が悪いのだ。

・・・(中略)・・・

世間の人々が頼りにするヒューリスティックは他にもある。そのうちの一つはレイザーが「善は善を呼ぶ」(「善は善を呼び、悪は悪を呼ぶ」)型ヒューリスティック(good begets good heuristic)(pdf)と名付けているものだ。「良いこと」は別の「良いこと」を呼び(「良いこと」は別の「良いこと」を呼び込む原因となり)、「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼ぶ(「悪いこと」は別の「悪いこと」を呼び込む原因となる)。世間の人々は直感的にそう考える傾向にあるというのだ。例えば、世間の人々は「失業率の上昇」には「インフレ率の加速」が伴う(pdf)と考える傾向にある。どちらも「悪いこと」だからである1。・・・(略)・・・さらに厄介に思えることもある。世間の人々は「政府支出」を「悪いこと」だと見なし、その結果として「政府支出」の増加(という「悪いここと」)には「失業率の上昇」(という「悪いこと」)が伴うと考える傾向にあるというのだ。

レイザーとクリルの二人の研究から個人的に受け取ったことを3点ほど指摘しておきたいと思う。世間における経済問題へのあやふやな理解の背後にはメタファーやヒューリスティックに頼りがちな一般人の傾向が控えている可能性があるわけだが、そのことが結果的に右派か左派のどちらか一方に有利に働くことになるかというとそういうわけではないというのがまず一点目だ。メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする結果として世間の人々の間で反市場的な態度が培われることになる場合もあれば反ケインジアン的な態度が培われることになる場合もあるのだ。

メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向は我が国(イギリス)だけに限られる話ではない(他の国でも事情は変わらない)ということが二点目だ。

・・・(中略)・・・

我が国の政治制度にしても社会制度にしてもこの傾向(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする世間一般の傾向)にうまく対処できていないというのが三点目だ。むしろその傾向を後押ししている可能性さえある。政治家にしてもメディアにしても世間一般の(メタファーやヒューリスティックに頼って経済問題を理解しようとする)傾向に抗ってそれを矯正しようとするよりは迎合しがちな面があるのだ。・・・(略)・・・経済学者だけではなく、民主主義の質を高めるにはどうしたらいいかと常日頃から心を砕いている面々も一緒になってこの状況を嘆くべきなのだ。

  1. 訳注;「善は善を呼ぶ」型ヒューリスティックに頼る結果として、世間の人々は「失業率の上昇」という「悪いこと」が「インフレ率の加速」という別の「悪いこと」を招き寄せると考える傾向にある、という意味。 []

ジョセフ・ヒース プライバシーの終焉, パート1: 読心術 (2017年1月4日)

The End of Privacy, Part 1: Mind Reading (In Due Course, January 4, 2017)
Posted by Joseph Heath

2017年へようこそ.最近は,つくづく歳をとったものだと感じている.そう感じるようになった原因の一部は,私が現在居住しているこの世界,私の前に姿を現しつつあるこの世界というものが,私が生まれた世界,私が社会に対する感じ方を育んだ世界とは根本的に異なっているという事実である.もっとも違いが明らかなのはプライバシーの領域だ.私は確信している.私の子供時代の1970年代こそが匿名性の黄金時代,すなわちある意味での個人の自由の黄金時代として歴史に残るだろう.先日,70年代の映画を見ていると,2人の刑事が犯罪者を車で追いかけて州境に向かっていた.犯罪者は刑事の追跡から逃れ,刑事らは町へと引き返した.戻る途中,公衆電話で停車して刑事らは本部に状況を伝えた.子供らには説明してやらないといけなかった.昔は,無線の届く範囲から出てしまうと,警察官が署と連絡を取るには電話を探さないといけなかったのだよ,と.

未だにあの感覚を覚えている…都市にいるのに,完全に音信不通になる感覚 — 誰もあなたがどこにいるか知らない,誰もあなたと連絡を取れない — そして,それが当たり前であるという感覚を.もちろん,音信不通の状態を再現することは今も可能だ.しかし,今それをやると,それだけで疑念を呼び起こしてしまう.連絡を取れる状態に戻ったとたん,みんなからの「どこにいたの?」というメッセージを10かそこらは目にすることになるだろう.

よく知られている通り,この状況をもたらしたのは携帯電話である.ところが,はるかにプライバシーを脅かすテクノロジーが迫りつつある.これまで懸念してきたすべてが霞んでしまうほどだ.なかでも飛び抜けているのが,Foveが開発した視線追跡型VRヘッドセットである.はじめは興味がなかったが,友人がFoveで働き始め,このテクノロジーの重要性を説明してくれたので本気で関心をもつようになった.

まず,こういうことをやるヘッドセットをFoveが開発する動機は,技術的には完全に理にかなっていると言っておこう.人間の視覚について少しでも知っている人にきいてみるとよい.我々が世界を画像として — 映画やTVスクリーンのように — 知覚しているかのような印象はほとんどのところ幻想である.実のところ我々が見ている(あるいは,はっきりと見ている)のは,視野のうちのごく狭い注目部分にすぎない.残りの部分は脳が大まかに省略してしまっているのだ.眼球が非常に高速に運動して視野の中のどこにでも向くことができて,実際にそうした(サッケード1 とよばれる,1秒に3回程度の)素早い動きをしているため,あたかも全体が明瞭な単一の画像を見つめているような気がしているだけなのだ.

さて,ここでVRテクノロジーを考えよう.(ところで,高精細なVRをまだ体験したことがないなら,ぜひ体験してみるようすすめる.ほんの数分で,このテクノロジーがすごく,すごく重要なわけがわかるだろう.) VRには,非常に大きな計算能力が必要となる.とても大きな画像を生成し,高速に書き換えなくてはならないからだ.さもないと,ユーザは頭の動きと画像の変化の間にタイムラグを感じてしまう.(ユーザが自分の頭を急に左に90度回転させたとする.大量の画像更新を非常に高速に行わなくてはならない.また,動きを引き起こしているのが頭であり,視覚野は頭の内部にあるため,画像の更新は手でコントローラを動かした場合よりもずっと速く行う必要がある.)

だから,VRに伴う画像処理の量は膨大なものになる.同時に,この処理のほとんどは無駄になる.なぜって? 標準的なVRが生成するのは,われわれが見るための仮想世界だ.つまり,VRが生成する完全な高解像度の画像には,ちゃんとテクスチャを貼付けてレンダリングしてあり,どこもかしこもきちんと焦点があっている.しかし,ユーザがしっかり見るのはその画像のほんのちっぽけな部分にすぎないのだ! 原理的には,画像全体に焦点があっている必要もなければ,全体にテクスチャが貼られている必要も,全体がきちんとシェーディングをされている必要も,その他のいろんな処理をしっかりやる必要もない.人が見つめている部分さえちゃんと高解像度で処理すれば,残りは大まかでかまわないのだ.

これこそが基本的にFoveのシステムがやっていることである.Foveのゴーグルは視線を追跡し,見つめている箇所だけを高解像度でレンダリングする.下のビデオがこの処理方法の効果をよく示している:

 

まだFoveのゴーグルを着けてみたことはないが,HTC Viveを試したことはある.Viveの優れた動作を見れば,VRゴーグルが現実と事実上 区別不可能な仮想環境を作り出せることは疑いない.今は無理だとしても,すぐにできるようになるだろう.

テクノロジー的には,これはまったく結構なことだしビジネス的にも(エトセトラエトセトラ…)しかし,哲学的な側面から見ると,Foveゴーグルが実際にやっているのはある種の読心術だ.我々の眼前の「画像」がおおよそ幻想であるというなら,我々が自分の周りの世界の細部の表現を脳内に作り出しているというのもまた同様の幻想だ.眼は,ある意味で脳の一部であるばかりでなく,眼球の運動が実は,ある重要な役割をさまざまな思考プロセスの中で担っているのだ.アンディ・クラークいわく:

この視覚的脳というやつはご都合主義的で,すきあらば常に古着をリメークするように,世界が既に提示しているものを最大限に利用しようとし,自分の内部で認知ルーチンを神経線維網から構築するのをなるべく避けようとする.内部の表現(内的画像すなわちモデル)をぜいたくに作ったり維持したり更新したりしようとはせず,ロボット工学者ロドニー・ブルックスが述べたところの「世界自身を世界の最良のモデルとして利用する」という戦略を活用する.ブルックスのアイデアはどういうことかというと,ロボットのセンサーから得られる情報を使ってロボットのまわりの環境を詳細かつ複雑に記述するモデルをロボット内部に作り上げるという,実現できるかどうかわからない困難な問題にチャレンジするよりも,ロボットがうまく振る舞うには,もっと倹約したセンシングを行って,状況の中のほんの一握りの重大な側面だけを選び抜いて監視し,外に存在し続ける周囲の物理的環境それ自身を一種の永続的外部記憶 — 必要に応じていつでもサンプリングし直せる外部の「メモリ」– として利用するのが良いというものである.我々の脳も,こういったモバイルロボットと同様に,可能な限り外部の世界それ自身を世界の最良のモデルとして利用しようと努めている.

(この引用は,もっと長い「神経的ご都合主義」という論考の一部で,クラークの本『Natural Born Cyborgs』2 に収録されている.一読することを強く薦める.)

世界の「コピー」をメモリ内に作ってから,そのコピーをもとに思考するのではなく,我々がやっているのは世界自身を参照点として用いる方法で,メモリにコピーするのは世界の中で何が必要かを探すのに必要な情報だけである.これが明らかになるのは,サッケードが視界の中を動き回るパターンが,何か情報を探すように指示したり,何か問題を解くように指示したときにどうなるかを観察したときである.情報を世界から引き出すのは,その情報が何らかの認知処理に必要になった時にはじめて行われる.従って,多くの状況で,文字通りの意味で人が何を考えているか視線追跡によって知ることができるのだ.(私はクラークら「拡張した心」論者に賛成の立場に傾きつつある.「拡張した心」論者は,眼球運動は思考プロセスの一部だと主張している.)

このテクノロジーがプライバシーという伝統的概念に対して提示する課題がいかに重大かは,十分に明らかだと信じる.このテクノロジーはとんでもないほどの侵略だ.テクノロジー企業は,あなたの思考に対して,あなた自身(すなわち,あなたの意識的な心)より優れたアクセス手段を得る.この感じをつかむために,次のものをよく見てほしい.1枚の画像と,その右側には同じ画像に,人がこの画像を見る際の典型的なサッケードのパターンを重ね合わせたものを示してある.

サッケード

さて,この画像が広告だとしよう.あるいは,複数の広告があるウェブページだとしよう.右に示してあるような,画像に対するあなたの眼球運動パターンの情報をFacebookに渡したいと思うだろうか?

わかりやすい例をひとつ挙げると,それほどたいした創意工夫をせずとも,ある人の性的嗜好に関して眼球運動の調査から多大な情報を得ることができるだろう.最近の研究によれば,瞳孔の反応の測定結果を用いてヘテロセクシュアルな男とホモセクシュアルな男を区別できるという.また,小児性愛的な反応も検知できるという(Janice Attard-Johnson, Markus Bindemann and Caolite O Ciardha, “Heterosexual, Homosexual, and Bisexual Men’s Pupillary Responses to Persons at Different Stages of Sexual Development”を参照のこと).これは眼球運動の追跡とは少し異なるが,技術的な困難さは同程度である.

「うちのTiVoは私をゲイだと思ってる」という昔ながらの逸話を思い出そう.今回の場合,あなたのエンターテイメントシステムは実際あなたがゲイであることを知っているのだ.あなた自身が気づくより先に.さて,そうなると,ある人がもっとも性的に興奮するものが何かを探り出し,広告の内容をその嗜好に適応させるのはどれくらい難しいだろうか?もっと気がかりなのは,小児性愛嗜好を検知する能力である.検知するのが単に嗜好であって行動ではないとはいえ,これは我々を『マイノリティ・リポート3 』の領分へと追いやる第一歩である(小児性愛に対する現在の扱いが変わらないとしての話だが).

おしまいに,もう一つ例を.ここトロント大学のわが同僚Kang Leeは,人々の顔の毛細血管の血流パターンを,普通のビデオカメラを使って検知して解析できる技術を研究している.彼が特に関心を持っているのは嘘の検知だが,この技術は広い範囲の感情を検知するのにも使える:

私は,誰かにXbox KinectをハックさせてXboxで動くシステムを作ったらどうだと彼に提案した(Kinectのカメラに顔の色を検知する機能がすでにあるので,彼のソフトウェアはその機能を利用できるだろう).しかし,このビデオを見ると,この技術をSkypeに組み込むこともできそうだとわかる.誰かと話している時に,コンピュータがリアルタイムで相手の感情,ストレスや不安のレベルを解析し,結果をダッシュボードに表示したりするわけだ.

こうした種々の技術すべてに共通しているのは,これらが難問を投げかける相手が心のプライバシーだという点である.心のプライバシー — 我々のほとんどが育ってきた世界では当然のものとみなされていたが,どうやら今後は存続しそうにない何か.

  1. 訳注: 衝動性眼球運動 []
  2. 訳注: 邦訳『生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来』,春秋社, 2015 []
  3. 訳注: P・K・ディックの短編SF小説およびそれを原作とするS・スピルバーグの映画.犯罪が予知され事前に防止される監視社会が舞台. []

ジョセフ・ヒース 「偽善」についてのメモ (2014年12月12日)

A note on hypocrisyIn Due Course, December 12, 2014)

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この件は昔から個人的なイライラの元なのです。偽善とは何かということについて、とても多くのジャーナリストたちさえ明瞭な理解をしてないように感じられるのです。簡単のため、日常的な偽善の定義、「していることが言っていることと違う」という定義で話を進めましょう。これは立派な定義なのですが一つ問題があって、誰かを偽善だとして咎めようとするときに相手が言っていることを注意深く観察することが重要になります。特に、ルール一般がどうあってほしいかの話なのか、それとも、所与のルールの下でどんな行動をとりたいのかの話なのかの区別に注意を払うことが大事です。(Viktor Vanberg と James Buchanan は「構造的選好」(constitutional preferences)、「行動の選好」(action preferences)という語を導入しこの二つを区別しました。この呼び方はベストではないかもしれませんが、この区別に関する彼らの議論は重要なものです)。

具体例を挙げましょう。先日私は、ビル・ゲイツが選んだ2014年の5冊 についての小さな記事を読みました。うち一冊はトマ・ピケティの「21世紀の資本」だったのはウケました。ゲイツはこう言ったそうです。「著者のいちばん重要な結論に賛成だ。不平等の問題はますます大きくなっており、政府はこれを緩和する役割を果たすべきだ。著者の業績を称えるとともに、これが賢人たちが不平等の原因を探求したり解決するためのきっかけになることを期待する。」と。

こう言うと決まって「偽善だ!本当に不平等を解決する気があるなら自分の金をばらまくんじゃないのか?」という反応がありますね。知っての通りゲイツは自分の巨額のお金を—あなたや私が稼いだ以上の額を—ばらまいてきましたし、彼の子供たちに残す額にも厳しい上限を設定しています。しかしそれでもまだ彼はクロイソス級のリッチマンですし、彼があと20億ドルもばらまけば不平等をそれだけ緩和することになるのも確実です。さて、では彼自身が自分のお金でもっとできることがあるのに、政府に対して不平等の緩和のためより積極的な役割を果たすよう求めるのは、果たして「していることが言っていることと違う」ということになるのでしょうか。

答えは「ノー」。その理由は「構造的選好」と 「行動の選好」 の区別にあります。
ほとんどの人は、ある問題について自分個人がどれだけの義務を負うのかは、他の人々がどれくらいのことをしているかにある程度依存していると考えています。その人は同時に、他の人々がもっと多くのことをすればよいのにと思っているかもしれないし、また、他の人がそうするなら自分も喜んでそうするつもりもある、という場合もあります。つまり、自分を含む全員がXをするというルールに変えることを常に支持するけれども、同時に、そのようなルールがまだないのであれば自発的にXをすることはしない、ということがあり得るわけです。これは単純明快なポイントなのですが、公共の議論においてしばしば無視されています。(ジェラルド・コーエンの著書、『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』はこの単純なポイントに焦点を当てていればはるかに短い本にできたといつも思うのですが、考えてみればそれができないことがコーエンのこの仕事の欠点の一つなのでしょう。)

さて私は、税はあと1%高い方がいいと考えているのですが、かと言って自発的に余分に払うことはしていません。私のずる賢い会計士は私の税負担を減らすために様々な手法を駆使しています。大学教授はもっと授業をするべきだと考えていますが、自発的にクラスを増やしたりはしません。気候変動と戦うために私たちはあらゆる手段を講じるべきだと考えますが、私自身は明らかにサステナブルな水準以上の炭素エネルギーを消費しています。それでも私が偽善ということにはなりません。

とは言え、「みんなだってそうしている」、「みんながやるなら喜んでやるけれど」という言い訳を余りにも利己的に使いすぎる人のことを、何か一つの言葉で記述しようという考えが間違っているというわけではありません。たとえば、気候変動に対してのカナダの態度ですが、「構造的な」水準で言えば炭素使用量緩和の枠組みを決めたいと私たちは皆が思っていますが、個々の行動の水準においては、全員が計画に同意できるまで何も実行する準備がないわけです。個人レベルのアナロジーで言えば、「皆が正直に税を払うべきだと思う」と言いながら、どこかの誰かが税を回避しているということを知ると「なんで自分が払わなければならない?」と言って、あらゆるスレスレの税回避手段を駆使するような人。

一般化するとこういうことです。ある行動Xは全員の義務であるべきという構造的選好を持っているような人であっても、それが全員の義務になっていない状況においては行動Xをとる義務はありません。とは言え構造的選好はあなたの行動を緩やかに制限するはずです。つまりXと正反対のことは選択すべきではない、というように。これを犯してしまう不道徳にも名前があれば良いですね —「偽善」は明らかにこれを表現するための適切な言葉ではないので。

そうそう、偽善の正当な例をお望みでしたら、こういうのがそうでしょう。

マーク・ソーマ 「保護主義の本能」(2010年10月7日)

●Mark Thoma, “The Protectionist Instinct”(Economist’s View, October 07, 2010)


講義の合間での即席になるが、燃料を少々投下しておこう(以下の引用では省略してあるが、ハイエクの洞察にも負っているとのこと)。

The Protectionist Instinct” by Paul H. Rubin, WSJ:

失業率の高止まりが続く中で選挙の投票日が近づいているが、多くの政治家たちは例のごとく自由貿易(および海外へのアウトソーシング)に反対するキャンペーンを展開中である。いくつかの世論調査の結果によると、一般の有権者の間では自由貿易の恩恵を疑問視する見方が強まっているようだ。国際貿易の話題ほど一般人と経済学者との間で意見が食い違う話題はないだろう。

・・・(中略)・・・

国際貿易に関する一般人の見方(信念)は進化心理学的な観点から説明をつけることが可能だが、具体的には進化の過程で培われることになった二通りの心理的な傾向が関わってくる。まず一つ目は「ゼロサム思考」に傾きがちな傾向である。経済が成長する(パイが拡大する)可能性であったりそのこと(経済の成長)に国際貿易が役立つ可能性だったりというのは直感的には理解しにくいところがあるのである。

我々の遠い祖先が生きた世界は静的な世界であり、異なる集団の間で交易が行われることもほとんどなければテクノロジーの進歩もほとんど見られないような世界だった。我々の思考(精神)はそのような(静的でゼロサム的な1)世界を理解するべく進化を遂げてきたのである。とは言っても、人間には「交換(ないしは貿易)は双方の利益になる」(交換はポジティブサムの結果をもたらす)との概念は決して理解し得ないというわけではない。「学ぶ」という経験を積まなければ理解できないのだ。

「ポジティブサム思考」は何もせずとも自然と身に付きはしない。(学校等で)誰かに教えられなくとも「話す」ことは次第にできるようになるが、「読む」こととなるとそうはいかない。比喩を使わせてもらうなら、交換には相互利益が伴うという考えを理解する(「ポジティブサム思考」を身に付ける)ことは文字を読めるようになることと似ていると言えるだろう。

次に二つ目の傾向に話を移そう。我々の遠い祖先が生きた世界は敵意に満ちた世界でもあった。我々の祖先は近隣の集団とひっきりなしに拳を交えており――チンパンジーがそうであるように――、そのような日常を送るうちに「ウチ」(内集団、「我ら」、仲間)と「ソト」(外集団、「彼ら」、敵)に差別を設ける強力な本能(「内集団ひいき」)が培われるようになっていった。「ウチ」をひいきする傾向は今日にまで受け継がれ、数多くの場面でその頭をもたげてくることになる。

地元のスポーツチームに肩入れするといったようなかたちで「内集団ひいき」が現出するのであれば害はないが、「内集団ひいき」が国際貿易の場面で頭をもたげてくるようであればそうも言っていられない。「内集団ひいき」が最も有害な帰結をもたらすのは戦争を誘発する要因となる場合だ。「貿易戦争」と比喩的に語られることがあるが、このことは(「貿易」に関わる本能であったり「戦争」に関わる本能であったりといった)有害な本能が互いにいかに似通っているかを物語っていると言えよう。

「ゼロサム思考」と「内集団ひいき」という二通りの心理的な傾向が手を取り合う結果として国際貿易に対する世間一般の常識的な見方(というか誤解)が導き出されることになる。職の数は固定されている(「ゼロサム思考」)にもかかわらず、海外との貿易なんかに乗り出せば「仲間」(同胞の労働者)の職を「敵」(海外の労働者)に奪われてしまうことになる(「内集団ひいき」)ではないか。ついそう考えてしまうのである。正しい見方とは言えないが、自然な見方に感じられてしまうのだ。・・・(略)・・・

  1. 訳注;この点は昨日訳出したばかりの記事(アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」)を参照されたい。 []

アレックス・タバロック 「進化とモラルコミュニティー ~進化の名残としての『ゼロサム思考』~」(2007年5月10日)

●Alex Tabarrok, “Evolution and Moral Community”(Marginal Revolution, May 10, 2007)


進化の名残(としての「ゼロサム思考」)がモラルコミュニティーの拡大(同類意識の越境)に歯止めをかける働きをしている。ポール・ルビン(Paul Rubin)がそう主張している

我々人類の遠い祖先が生きていたのはその本質において変化に乏しい静的な世界だった。旧世代から新世代へと時が移り行く中でも社会的な面にしても技術的な面にしてもほとんど変化が見られなかったのである。言い換えると、我々の遠い祖先はゼロサムの世界に生きていたのである。誰かの分け前が増えるとそれと引き換えにその他の誰かの分け前は減らざるを得なかったわけである。

我々の思考(精神)はそのような(静的な)世界を理解するべく進化を遂げてきており、誰かが利益を手にするのを目にするとそれは他の誰かの犠牲の上に成り立っているに違いないとつい思い込んでしまいがちなのはその名残である。「自発的な交換(国内における同胞同士での交換であれ異国人同士での国境を越えた交換(貿易)であれ)はポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちは2世紀(200年)以上にわたってそう説き続けてきている。自発的な交換は双方に利益をもたらす。さもなければそもそも交換なんて成り立たない、というわけだ。「移民の受け入れはポジティブサムの結果をもたらす」。経済学者たちはそうも説き続けてきている。アメリカにやってきた移民は自らの労働を売る見返りとしてお金(給料)を手に入れ(労働とお金を交換し)、そしてそのお金で他の誰かが作った商品を買う(お金と商品を交換する)。つまりは、移民だけではなく移民に商品を売った誰かも利益を手にすることになる、というわけだ。しかしながら、進化の名残をとどめる我々の直感はそのようには判断しない。海外の労働者がアメリカとの貿易を通じて利益を手にし、アメリカにやってきた移民がアメリカ国内で職を得ることで利益を手にしているとすれば、それと引き換えに同胞たるアメリカ人労働者が痛手を被っているに違いない。ついそう判断してしまうのだ。

マーク・ソーマ 「市場恐怖症」(2006年1月14日)

●Mark Thoma, ““The Fetters of Ignorance, Self-Deception and Intemperance””(Economist’s View, January 14, 2006)


「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要性」は果たしてあるだろうか?

The aggro of the agora, Consumers fail to measure up to economists’ expectations” by The Economist

「消費者こそが最終的な判定者なり。そう見なさねばならない」(“We must accept the consumer as the final judge”)。アメリカ経済学会(AEA)の会長を務めたこともある経済学者のフランク・タウシッグ(Frank Taussig)が1912年に語った言葉だ。・・・(略)・・・つい最近開かれたアメリカ経済学会の会合で一つだけはっきりと浮かび上がってきた論点がある。市場における主権者たる消費者の意思を尊重してその一挙一動には余計な口を挟まないのが経済学者の間での長年のお決まりとなっていたが、その慣わしの妥当性に疑問を投げかける声があちこちから上がったのである。・・・(略)・・・アメリカ金融学会(AFA)の会長であるジョン・キャンベル(John Campbell)は一般的な家計による資産運用の不手際を逐一列挙した。株式への投資が十分とは言えない、もっと多様な資産への分散投資を心掛けるべきだ、住宅ローンを借り換えるのに適当な機会が見過ごされている等々。アメリカ経済学会の会長を務めるダニエル・マクファデン(Daniel McFadden)も訴える。1980年代に入ってから市場の自由化に向けて規制という名の軛(くびき)が次々と解かれているが、自由化が期待通りの効果を上げるには別の軛(くびき)も解かれる必要がある。消費者が「無知、自己欺瞞、放縦」の軛(くびき)から解き放たれない限りは市場の自由化も期待にそむく結果に終わってしまうことだろう。マクファデンはそう語る。

マクファデンのスピーチはニューロエコノミクス(神経経済学)の研究成果に裏付けられている。ニューロエコノミクスの研究成果が指し示しているところによると、はるか昔にアダム・スミスが指摘した「人間の交換性向」(“propensity to truck, barter and exchange”)は人間本性に深く根付いているという。脳スキャン技術を利用した観察結果によると、「人間の交換性向」は大脳辺縁系のあたりに潜伏しているらしいというのだ。大脳辺縁系というのは闘争本能や防衛本能、食欲といった動物的な本能を司る脳の原始的な部位にあたる。マクファデンは冗談交じりに語る。「ショッピング(買い物)とセックスは同じ神経伝達物質に同じ受容体を共有しているわけです」。

しかしながら、誰もが市場での交換に(大脳辺縁系が刺激されて)快感を覚えるわけではなく、嫌気を覚えるという人もいることだろう。現実の市場は「見通しが悪くて波乱に満ちた荒野のような場所」だ。そんな厳しい環境の中で(何を買うべきか)選択しなければならないとなると、消費者の中には自分自身の判断に自信が持てず、陳列棚に並べられた商品もそれを売り付けてくるお店も疑わしくてしょうがなく思えてくるという人もいることだろう。消費者はしくじりを犯してしまう――思いのほか買い過ぎてしまったり、いらないモノを買ってしまう(買ってから後悔する)――危険性に常に晒されているのだ。それは同時に「人格を磨く」機会が用意されていることを意味しているというのも確かだ。しくじって痛い目に合う経験を重ねることで少しずつ学習していき、市場で生きるにふさわしい「合理的な主体」へと近づいていく。そういう可能性もある。しかしながら、マクファデンには不安がよぎる。消費者はしくじりを繰り返すことで「合理的な主体」に近づいていくのではなくその代わりに「市場への嫌悪感」を募らせていってしまうおそれがあるというのだ。「『選択の機会』が『しくじりを犯す機会』と同一視されてしまうおそれがある。『ばつの悪い思いをする機会』『後悔の念に駆られる機会』と解釈されてしまうおそれがあるのです」。マクファデンは「アゴラフォビア」という表現を持ち出している。「アゴラフォビア」はギリシャ語由来の言葉であり通常は「広場恐怖症」を指す言葉として使われているが、直訳すると「市場(広場)に対する怖れ」という意味になる。・・・(略)・・・「交換にはイライラが付き纏う。消費者たちはそのように感じて・・・(略)・・・得られる利益が小さい場合には交換に応じようとしない傾向にあるのです」。

・・・(中略)・・・

マクファデンは・・・(略)・・・さらにもう一歩踏み込む。「消費者が十分なだけの慎重さを発揮して市場での選択に臨めるように何とかして誘導する必要があるかもしれない」とはマクファデンの言。タウシッグのような先達の面々にはマクファデンのこの発言は異端の説として聞こえることだろう。消費者の選択は経済学の対象となるデータ――所与の事実――であり、そのデータ(消費者が実際に何を選んだか)の観察を通じて消費者の好みを推測する。経済学者にできることはそれだけに限られる。消費者が実際に何を選んだかを観察しないうちに何が一番消費者本人のためになるかを知っているかのように語るのは選択から好みを推測するというロジックに反するだけではなく思い上がりも甚だしいと言わざるを得ない。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できないとすれば、問題は経済学(経済学者)の側にあるのであって消費者の側にはない。タウシッグのような先達たちの言い分をまとめるとこのようになるだろうが、マクファデンはそれとは正反対の結論になびいているように思える。経済理論では消費者の行動(選択)をうまく説明できない? それなら消費者を「鋳直し」て経済理論に近づけるという手もあり得るかもしれない。そのような結論になびいているように思えるのだ1

  1. 訳注;「理論と現実にズレがあるのなら現実のほうを理論に近づけようではないか」とマクファデンが訴えているかのようにまとめられているわけだが、そのまとめ方はどうだろうというのが正直な感想。マクファデンとしては(行動経済学等で明らかにされている認知バイアスのために)消費者が「しくじる」機会を減らすような工夫(その代表例はセイラー&サンスティーン流の「ナッジ」)には二重の恩恵が備わっているということが言いたかったのではないかと思われる。「ナッジ」のおかげで認知バイアスに陥らずに買い物ができれば(しくじる機会が減れば)その消費者本人のためになる(本人の利益に適う)という恩恵があるだけではなく、しくじりを原因とする「市場恐怖症」が和らげられることで市場への世間の支持も高まる(あるいは市場への嫌悪感も弱まる)という恩恵も随伴する、ということが言いたかったのではないかと思われるのだ。この記事で紹介されているマクファデンの研究を詳しく知りたいという場合は次の論文を参照されるといいだろう。 ●Daniel McFadden, “Free Markets and Fettered Consumers”(American Economic Review, Vol.96, No.1, March 2006, pp. 5-29) []

タイラー・コーエン 「計画経済の誘惑」(2016年3月3日)

●Tyler Cowen, “Teaching economics to the sixth grade”(Marginal Revolution, March 3, 2016)


2008年に金融危機が勃発して以降、アメリカの公立小学校では授業で児童たちに経済学を教えるところがかなり増えてきているようだ。どんな具合か一例を紹介しておこう。

ヒギンス氏が教える(小学6年生の)クラスでは経済体制の比較に話題が移った。児童らはそれぞれバビロニア帝国の都市のいずれかの首長になりきって演習に臨むわけだが、はじめのうちはバビロニア帝国では計画経済(指令経済)が採用されていた。財の価格も住人の収入も中央政府によって直接決められていたわけだ。そんなバビロニア帝国もしばらくすると市場経済に移行して都市間での交易も行われるようになる。それに伴ってどの都市も昔に比べて(計画経済を採用していた頃よりも)豊かにはなったものの、豊かさを手にするために交易に汗を流すのも楽じゃない。児童らはそのような感想を持ったようだ。

「本音を言わせてもらうと、計画経済でやり繰りしていた頃の方が好きだわ」。そう語るのは(バビロニア帝国の都市の一つである)「エシュヌンナの女性首長」マイレッド・チェイス(11歳)。「権力って好きよ。これっていう明確な目標があるのっていいわよね」。そう語りながら肩をすくめて笑顔を浮かべるチェイス。「あれしろこれしろって誰かに指示されるのも時には悪くないものよね」。

引用元はこちらのウォール・ストリート・ジャーナル紙の記事だ。

マーク・ソーマ 「資本主義を守り抜くには価格システムへの『公平感』を保つことが必要だ ~災害時の『便乗値上げ』の是非を巡る議論から得られる教訓~」(2012年11月28日)

●Mark Thoma, “Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”(Economist’s View, November 28, 2012)


数週間前にFiscal Timesにコラムを寄稿したのだが、今回は以下にその一部を転載しようと思う。なぜ今になって再び取り上げる気になったかというとその理由は2つある。一つ目の理由は誤解を正したいと思ったからだ。どうやら私の意図がうまく伝わっていないようで読者の多くはあのコラムを「便乗値上げ」を禁じる法律に賛意を示すものと受け取ったようだが、それは違う。価格システムを腐してやろうというつもりであのコラムを書いたわけではない。「便乗値上げ」に対する世間の反応からは学ぶべき教訓があるということがあのコラムで言いたかった一番の要点なのだ。「価格の変動を通じた資源の配分メカニズムには『不公平な』帰結が付き纏(まと)う」。世間の人々の間でそのような疑念が抱かれてしまうようであれば価格システムに対する広範な支持など得られやしないだろう。格差の拡大や一部の富裕層への(政治的および経済的な)権力の集中が続いたとしたら資本主義というシステムに対して世間一般の人々が抱く公平/不公平の感覚に一体どのような影響が及ぶことになるだろうか? 市場原理主義者にしても資本主義を支持する立場の論者にしてもそのことをもっと真剣に気にかけるべきなのだ。資本主義というシステムに対する(世間一般の)不公平感が募り募って臨界点を超えてしまった暁には(不満を抱えた世論の意向を汲んだ結果として)その後釜として得体の知れないシステムに取って代わられてしまう可能性だってあるのだ。次に二つ目の理由だが、どちらかというとこちらの方が(一つ目の理由よりも)重要だ。いつものように色んな記事を紹介したかったのだが、どういうわけだか今日は不運にもこれはと思えるような記事に出くわせなかったばかりか、ブログ用に自分で何か書き上げるだけの時間の余裕もなかったのだ(つまりは一時しのぎの苦肉の策というわけだ)。

Hurricane Sandy’s Lesson on Preserving Capitalism”:

ガソリンスタンドの前にできた長蛇の列。ハリケーン・サンディの直撃を受けてガソリンをはじめとした生活物資の数々が品不足の状態にあり、被災民たちは不安な日々を余儀なくされている。自然災害に見舞われた直後には「便乗値上げ」の是非を巡って経済学的および倫理的な観点から議論が巻き起こるものだが、今回もその例外ではない。自然災害に見舞われた直後に売り手が品物の値段を吊り上げるのは許される行為なのか? 望ましい行為と言えるのか? こういった疑問は確かに重要だ。しかしながら、「便乗値上げ」を巡る議論からはその是非にとどまらない更なる教訓も引き出せると思われるのだ。

経済学者は「便乗値上げ」(“price-gouging”)という表現を好まない。というのも、自然災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることは稀少な資源(財やサービス)を配分する(割り振る)ための最善の方法でもあり、不足気味の品物の増産を促すことになるという意味でも重要だというのが経済学者の考えだからだ。店先に並べた品物が高値で売れるとなれば(増産に乗り出せば大儲けが期待できるとなれば)、生産者の面々は並々ならぬ努力を注いで需要の急増に応じようとする(増産に励む)に違いない。経済学者の考えではそう予想されるのだ。

ハリケーン・サンディのような災害に見舞われた後に価格が上昇するに任せることにそれだけの利点があるのだとすれば、「便乗値上げ」をあちこちで目にしてもよさそうなものだが、災害に見舞われた後もそれまでと同じ水準に値段が据え置かれるケースも珍しくない。それはなぜなのだろうか? 災害に見舞われた後もそれまでと変わらない水準に値段を据え置き、在庫が尽きるまでお客に先着順で売り渡すという店も珍しくない。値上げをすれば儲けも増えるにもかかわらず、そのような絶好の機会がみすみす見過ごされてしまうのはなぜなのだろうか? 「災害時の便乗値上げは法律で禁じられているからだ」という答えが頭をよぎるが、その答えは次のような更なる疑問を提起するだけに過ぎない。災害時の品不足に乗じた大幅な値上げ(便乗値上げ)が多くの州で法的に禁じられているのはその通りだが、そもそもそうなっているのはなぜなのだろうか?

その答えを追い求めてこれまでに経済学者も色々と頭を捻ってきているが、その多くは「公平感」のアイデアに訴えて説明を試みている。〔以下続く

ついでになるが、こちらの記事もあわせて引用しておくとしよう。この記事ではダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の研究が紹介されている。コラム執筆時にはカーネマンの件の研究のことは知らなかったのだが、「価格システムに対して世間の人々が不公平感を募らせると価格システム(ひいては資本主義というシステム)に対する世間の支持も弱まる」との私の主張に味方してくれているようだ。

大半の経済学者の意見に従う限りでは、ハリケーンが襲来する前日に雑貨屋(食料品店)が店頭の品物の値段を引き上げるのはまったくもって理に適った行為だということになる。理に適っているというだけではなく実際にもそうなりそうでもある。というのも、近所の人々がハリケーンの襲来に備えて生活物資を手に入れようとこぞって店に殺到する(需要が急増する)一方で品物の値段がいつもと変わらない水準に据え置かれたままであればすぐにも品不足になるのはわかりきっているからだ。雑貨屋の棚が空っぽになるとすれば、それは品物の値段が低すぎる(安すぎる)証拠。普通の経済学者の目にはそう映るのだ。

ダニエル・カーネマンといえばノーベル経済学賞を受賞した学者だが、彼が他の研究者たちと共同で行った有名な研究(pdf)では一般人を対象に品物の値付けに関するエピソードをいくつか話して聞かせた後でそれぞれのエピソードについてどういう感想を持ったか(公平だと思ったか、それとも不公平だと思ったか)が問われている。その中の一つが吹雪に見舞われた翌日の金物屋の行動に関するエピソードである。A町に店を構えるその金物屋はそれまで除雪用シャベルを一本15ドルで販売していたが、吹雪に見舞われた翌日にその値段を一本20ドルに引き上げたのである。

除雪用シャベルの値上げは辺り一帯に一つのシグナルを送ることになる。「A町にシャベルを持ち込め!」というシグナルである。A町から1時間くらいの距離にある土地で金物屋を営む店主たちはトラックの荷台にありったけの除雪用シャベルを積み込んでA町に乗り込もうと思い立つ可能性がある。実際にもそのような動きが起これば、A町における除雪用シャベルの品不足は緩和されてシャベルの値段も元通りに戻ることだろう。

ところで、このエピソードを耳にした(一般人の間から選ばれた)被験者たちはどういう感想を持っただろうか? 特段驚くことでもないだろうが、被験者の80%は吹雪に見舞われた翌日に除雪用シャベルの値段を引き上げた金物屋の振る舞いを「不公平だと思う」と答えている。そう答えた面々に「ハリケーンが襲来する前日に缶詰食品の値段を2倍に引き上げる雑貨屋ってどう思う?」と尋ねたら同じく「それは不公平だよ」と返答することだろう。

実際にも多くの人々が自然災害に乗じた値上げに強い憤りを感じており、そのような世論の声を受けて多くの州で「便乗値上げ」を禁じる法律が制定されるに至っている。ハリケーンをはじめとした自然災害の発生時に品物の値段を引き上げると違法行為と見なされる州があるのだ。

ジョセフ・ヒース 「価格システムへの根強い抵抗」(2014年8月12日)

●Joseph Heath, “Capitalism remains controversial”(In Due Course, August 12, 2014)


価格システムが財を配分するその基本的なあり様に対する世間一般の抵抗の粘り強さ――あのアメリカにおいてでさえも!――には驚かされるばかりだ。「需要量と供給量を一致させるために財の価格が自由に変動(上下動)するに任せるべし」というアイデアは世の大抵の人々にとって直感に反するばかりか、道徳にも反するように感じられるようなのだ。そのことを示すまたとない実例がある。(配車サービス業界の革命児たる)Uber社が導入した料金システム(サージ・プライシング)に対する最近の騒動がそれだ(「市場行動の社会学」に興味がある向きにはこちらこちらの記事は面白く読めるに違いない)。Uberのサージ・プライシングは基本的にはその時々の需給状況(乗車を希望している人がどのくらいの数に上るか、路上にいるドライバーの数はどのくらいか)に応じてリアルタイムで乗車料金を変動させる仕組みであり、テクノロジーの助けを借りて(経済学入門の講義で必ずやお見かけするあの)完全競争市場に似たマーケットを作り出そうと試みた格好の例だと言える。Uberの利用者たちは料金が据え置かれて「不足」に悩まされる(乗車の順番が回ってくるまで長時間待つことを強いられる)よりは料金の上昇(を通じた需給の調整)を受け入れることだろう。そう思う人もいるかもしれないが、実際のところはどうかというと、(需要の急増に応じた)料金の引き上げに対してあちこちから怒りの声が上がっているのだ。

「需要の急増に応じて価格は上昇するに任せるべきだ」。経済学者がそう考える理由の説明に乗り出してから200年以上が経過しており、世間の人々も程度の差はあれその説明を受け入れてきているように見える。そうであるにもかかわらず、世の大抵の人々は未だに道徳的な直感のレベルで(需要の急増に応じて価格が上昇することに対して)大いに反発を感じてしまうようなのだ。私が驚かされるはこの点なのだ。おっと、勘違いしないでもらいたい。「市場」という制度はそのうち消えてなくだろうだとかUberの料金システムはおかしいだとかと言いたいわけではない。「市場」という制度は消えてなくなったりなんてしないし、Uberの料金システムも完璧に理に適ったものだと思う。「市場」が我々の生活を取り巻く支配的な経済制度となるまでに上り詰める一方で、我々の道徳的な直感は「市場」を組織立てる中心的な原理(需給の変動に応じた価格の上下動)に未だに(何世代もの間にわたって!)適応できない(馴染めない)でいる。いかにしてそんなことが可能となるのだろうか? 私が気にかかっているのはそのような何とも不可解な(そして哲学的なと言える)疑問なのだ。