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タイラー・コーエン「デトロイト美術館の経済学」(2014年3月30日)

Tyler Cowen, “The Economics of Detroit art museum“(Marginal Revolution, March 30, 2014)

幸運なことに費用を推計するのは簡単なことだ。そして絵画の展示費用は主として時価から算出できる。16世紀フランドル画家ピーター・ブリューゲル(父)の「婚礼の踊り」を例に取ってみよう。デトロイト美術館の観者はこの絵を1930年から楽しんできた。将来世代のためにこの絵を保存するのにどれくらい費用がかかるだろうか。

結果、かなりの金額になることがわかった。クリスティーズによると、このキャンバスひとつで2億ドルに上る可能性があるという。金利が通常レベルに戻れば、例えば6%としよう、(同額の投資の)放棄利子利益は一年で約1200万ドルになる。

もし美術館が年間2000時間オープンしていると推定して、ギャラリー空間や他の間接的費用を無視するならば、展示された絵画を維持する費用は一時間あたり6000ドル以上だ。一年を通して、一時間に平均5人の観者が訪れるとして、ひとりにつき一時間1200ドル以上の体験を提供していることになる。

脱税と不平等

Annette Alstadsæter、Norwegian University of Life Sciences経済学ビジネス学部教授

Niels Johannesen、コペンハーゲン大学経済学教授

Gabriel Zucman、カリフォルニア大学バークレー校助教授

2018年5月9日

VoxEU

概要:税金の記録は社会の中の富と所得の集中を測る為によく利用される。しかしながら、もし金持ちが貧乏人よりも税金逃れをするならば、税の記録は不平等を過小評価することになる。このコラムはスカンジナビアを例として、脱税が富とともにどう変化するかを明らかにする:スカンジナビアのトップ0.01%の金持ち家計は資産や投資所得を国外に隠すことで払うべき税金の約25%を脱税している。そういった非常な金持ちがこういった事を出来るのは、彼らが資産秘匿サービスへのアクセスをもっているという単純な理由による。トップ層の脱税を減らすには、そういったサービスの供給を減少させる事が肝心である。

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サミュエル・バッジ, アリヤ・ガードゥ, アレックス・ローゼンバーグ, メイシー・ウォン 「集団間の接触は国民形成をいかに涵養しうるか」(2018年1月7日)

Samuel Bazzi, Arya Gaduh, Alex Rothenberg, Maisy Wong, “How intergroup contact can foster nation-building“, (VOX, 07 January 2018)


幅広く包摂的な国民アイデンティティ (national identity) 感覚の涵養は、長期的な社会的結束の命である。しかし急速に強まる地域的多様性のために、その達成はいま困難となっている。インドネシアの 「トランスミグラシ政策 (Transmigration Programme)」 事例を活用した本稿では、多様性が統合・社会的孤立・住み分けのいずれに行き着くのかが、居住地の混成・言語的な差異・政治と経済の場における諸集団間の競合度によって決定付けられることを示す – これら3つの帰結のいずれにたいしても、優れた政策をつうじた働き掛けが可能である。適切に施行すれば、そうした政策は社会的結束を強化しつつしかもより広範な国民形成を促すものとなる。

[近]代的な、多様化を進める諸社会の中心的課題とは、新たな、より幅広い 『我ら』 の感覚の創出である
– ロバート・パットナム  2006年ヨハン・スクデ政治学賞講演より

共有された1つの国民アイデンティティ – 出自にかかわらず全ての市民を包みこむ 「我ら」 の感覚 – は国民国家の創出と永続にとって死活問題である。この多様性のなかの一体性の精神を捉えたモットーは数多く存在し、“E Pluribus Unum” (合衆国)、“United in Diversity” (EU)、また “Bhinneka Tunggal Ika” (インドネシア) などもそうした例に数えられる。しかし地理的な移動可能性の上昇にともない、地域的な多様性の高まりが共有アイデンティティの共有感覚を作出するうえでの脅威となるとの懸念が、合衆国 (Putnam 2007) やEU (Alesina et al. 2017) をはじめ、その他の国でも取沙汰されるようになっている。近年の難民危機も、多様な諸集団の統合の促進をめざす再定住政策をどう設計すべきかをめぐる議論に、再び火をつけることとなった。

多様性が国民アイデンティティに及ぼす長期的影響の形につき、社会理論家は対立する見解を提示している。一方には、新たな文化に曝される経験はバックラッシュを煽動するものであって、紛争を惹起しかねないと主張する者がいる (Blumer 1958, Huntington 2004)。他方で、否定的な感情も、接触の増加とともにしだいに集団間関係が発達してゆくにつれ、薄らいでゆくのではないかとの達観から出発する者もいる (Allport 1954, Putnam 2007)。また近年の研究が示唆するところ、多様性を有する土地は社会的なアノミーや孤立を生起させ、集団間の関係は限定的であるという (Algan et al. 2015)。しかしながら、地域的多様性が、国民アイデンティティの造成、より一般的には国民形成 (nation-building) を、いかに形づくるのかついては、比較的わずかな実証成果しか存在しないのである。

主たる困難は因果関係の確定にある。この難しさの一部は、集団間関係が初期接触ののち発展してゆくために時間を要するために生ずる。しかし、時の経過とともに、地域的多様性は薄らいでゆく傾向がある。人々が諸般の均一的コミュニティに住み分かれてゆくためだ (Schelling 1971)。そこで多様性が持続するような土地は、自然環境的な優位があったり、一部の主要都市であったり、入国の玄関にあたる場所であったりと、比較的寛容な個人を惹き付けるところとなる傾向がある。以上の事情は、こうしたエリアにおける相対的な寛容性の高さが、多様性 (および集団間接触) のためなのか、それとも今挙げたような他のファクターのためなのかを把握することを困難にする。

そんななか我々の最近の論文では (Bazzi et al. 2017)、これらの実証上の難問にインドネシアのトランスミグラシ政策を利用して取り組んでいる。同政策は史上最大規模の再定住活動の1つだ。インドネシアは多様性と国民形成にまつわる問題を研究するうえで、興味深い環境である – 世界で四番目に大きな国であるインドネシアは、それぞれがアイデンティティの自己認識を持つ1,000を超えるエスニック集団の郷土となっている。1979年から1988年にかけて、トランスミグラシ政策は、内島 (Inner Islands) にあたるジャワ島・バリ島から、200万人の自発的移住民 (以下、「トランスミグラント (transmigrants)」 と呼ぶ) を、外島 (Outer Islands) 全体にわたって新設された1,000に近い村落に割り当てた。各定住地には、同一の公共施設が付与され、内島人・外島人が雑居することになった。

人口再分配および農業開発の振興としてだけでなく、中央政府は同プログラムを新生国での国民形成の涵養をめざすより広範な取り組みの一環として企図していた。というのも、この国の土地には歴史上さまざまな集団が住み分けされた諸般のコミュニティのなかで暮らしていたのである。独立宣言ののち、インドネシアの指導者はインドネシア人としての国民アイデンティティの作出という喫緊の課題に直面した。この国民アイデンティティは諸島各地に散らばる多様な文化的出自を持つ人々を一つにし、さまざまな離脱論的趨勢を乗り越えるようなものでなければならなかった。そこで、新たな土地に送り込まれたトランスミグラントが、文化的な隔たりのある諸集団に溶け込み、エスニック分断を突き崩すことが期待されたのである。

図 1 トランスミグラシ村落の地図

エスニック混成の自然実験として見たトランスミグラシ政策

多様性が統合に及ぼす因果効果の特定にとって要となる点だが、我々はトランスミグラシ政策が目的地域における擬似無作為的なエスニック混成を生起したことを主張する。プログラムの施行について、ロジスティック面の制約とアドホックな 「実施しながら計画せよ (plan as you proceed)」 アプローチが重なったことで (World Bank 1988)、トランスミグラントはあたかも目的地にたいし無作為の初期段階割当をされたかのような経験をすることとなった。さらに、土地市場の不完全性と移住コストのために、移住者は初期段階で割り当てられた耕作地に縛り付けられていたようで、事後的ソーティングは限定されている。この点は 2000年度人口国勢調査 (2000 Population Census) を用いて実証しているが、同調査の明らかにするところ、これら定住地にふくまれる地域のエスニック多様性は、初期段階の移動から数十年経過しても持続していた。図2はトランスミグラシ村落全体にわたる多様性 (標準的な 片分化指標 fractionalisation index により把捉) の連続体を、より均一的であるのが典型の、プログラム対象外村落と比較したものだが、両者の違いは鮮やかだ。この持続的な地域的多様性は、ソーティングや住み分けの動態が限定的だったことを示唆する。こうした時間的な変化は事情が異なれば初期段階の政策的割当を相殺していただろうものだ。この持続的な地域的多様性のおかげで、多様性と国民アイデンティティ形成の関係をめぐる、さまざまな非線形性も特定できた。

図2 トランスミグラシ政策: 持続的に多様なコミュニティ

地域的多様性と国民アイデンティティ

我々は国民アイデンティティの主要尺度として、個人が同国の国語、すなわちバハサ・インドネシア (インドネシア語) を、家庭での第一言語として選択していたかに着目した。地球上を見渡しても、殆どの人が言語は国民アイデンティティの重要な指標であり、出生地よりなお重要だと考えている (Pew Research Center 2017)。また、家庭での言語使用にフォーカスを合わせることで、エスニックアイデンティティとの比較における国民アイデンティティの顕示的選好を把捉できるようになる。ほぼ全数に近いインドネシア人が同国の国語を話しているが、それを家庭における第一言語として用いている者はたった20%にすぎない。圧倒的マジョリティが家庭でもっぱら用いているのは、依然として自らのエスニック母語である。さらに付け加えれば、インドネシア語はマレー人という1つのエスニックマイノリティの言語に根を持つものであることから、我々は家庭におけるインドネシア語の使用が、単にインドネシア語を話す能力を把捉するだけでなく、それを話すことへの選好を把捉するものであると主張する。

さて、トランスミグラシ村落においては、相対的に大きな地域的なエスニック多様性は、家庭で使用する第一言語としてのインドネシア語について、その普及度の有意な増加につながっていた。図3には、インドネシア語採用率のセミパラメトリック推定値を、(トランスミグラントの) 内島エスニシティが占める人口シェアで把捉した、地域的多様性の関数として示している。この逆U字型が示唆するのは、同国民アイデンティティの採用率が、内島と外島の諸集団がおおよそ等しい割合で存在する村落において頂点に達することである。

図 3 エスニック多様性と家庭における国語の使用

同様に逆U字型の関係は、エスニック間婚姻や、子供のあいだでみたインドネシア語が母語であるという自己申告といった、その他の統合アウトカムにも生じている。端的にいって、多様性が最も高いコミュニティのあいだで統合度は最も高い。これらの文化的変化は、社会化とアイデンティティ形成プロセスにおける相当のシフトを構成するとともに、国民形成にたいするより広範な含意を持つ。アイデンティティ伝播の間世代的プロセスを辿ることを可能にする長期パネルデータを活用したところ、こうしたタイプの家庭で育った子供は、青年になると、国民としての親近感の相対的な強さ・共エスニックバイアスの相対的な低さ・自己のエスニックアイデンティティにたいする愛着の相対的な弱さを示すことが分かった。

多様性を有するトランスミグラシ村落における長期的統合作用は、端から分かり切った結論などでは全くなかった。多様性の上昇が、住み分けあるいは社会的孤立につながる可能性も十分あった (例: Algan et al. 2015)。本発見は次のようなよく知られる懸念があることからも衝撃的である。つまり、この種の大規模再定住は、エスニック紛争を勃発させてもおかしくないような、文化帝国主義の古典的事例だったのだ。とはいえ、本研究成果は接触と文化変容に関する諸理論とも調和しているし、前述のプログラムにたいする最近の再評価とも整合的である (Barter and Cote 2015)。なお付言すれば、地域的多様性の効果が定住地全体にわたり一様だった訳でもない。

多様性が国民形成を涵養するとき

政策的観点からは、多様性をより包摂的な国民アイデンティティにつなげる諸力の解明が重要である。我々は研究デザインの甲斐あって、多様性を有するコミュニティが、紛争激化の増進ではなく、統合強化の円滑化を進めることを可能にしてくれるだろう、諸般のファクターを特定することができた。その際には、定住地をインドネシア諸島各地の様々に異なる条件のもとに曝したトランスミグラシ政策の広範な地理的カバレッジを、存分に活用している。

第一に、集団間接触の機会が増加したことは統合意欲の上昇を促した。定住地の内部で、トランスミグラントは籤引きをとおし耕作地を割り当てられたのだが、居住地の住み分けが少ない村落ほど高い統合度が見られたのである。加えて、より僻地的な定住地で暮らす者 (したがって経済活動および他コミュニティとの交流についての経路もより限られてくる者) ほど、さらなる統合にむかう傾向があった。

第二に、経済的環境 – およびそれが集団間接触の性質に与える影響 – は統合にたいし重要な作用を及ぼしうる。我々は移住者の出身地 (ジャワ島/バリ島) とその最終的な定住地のあいだの農業気候的特性に関する類似性をもって、トランスミグラントと原住者のあいだの農作技術代替性水準の代用とした (Bazzi et al. 2016)。そして、トランスミグラントと原住者の技能が代替的であるばあいには、多様性が統合を牽制することを明らかにした。これが示唆するのは、(初期段階における) 集団間接触が協働ではなく競争によって特徴づけられていた経済環境では、多様性が統合にネガティブに作用する可能性である。

第三に、地域 (local) および地方 (regional) レベルで見た社会–経済的ファクターは、多様性がアイデンティティ選択におよぼす影響の在り方を形づくる可能性がある。多様性とインドネシア語採用のあいだのつながりは、次のような村落ほど強い (i) マジョリティ集団自体のエスニック的片分化が大きい、(ii) 内島人と外島人のあいだの言語的距離が大きい、(iii) トランスミグラントがもたらす地方政治への脅威が小さい (この脅威は、該当村落における地域の原住者集団が、より大きな単位の政治区での支配的マジョリティとなっているかに着目し、これで代用した)。これら結果が示唆するのは、地方的なエスニック–政治バランスもまた、効果的な再定住政策の設計において要となる入力因子であることだ。

検討

インドネシアのトランスミグラシ政策は、多様性上昇のさなかにあってポジティブな集団間関係の涵養をめざす政策立案者に残された働き掛けの余地について、新たな光を投じている。居住地の混成・言語的な差異・政治と経済の場における集団間の競合度。これらは、多様性が統合・社会的孤立・住み分けのいずれに行き着くのかを決定付けるものである。こうした条件の多くは、政策による影響を受けたものであるとともに、より効果的な再定住プログラムを設計する際にひときわ顕出的となる要素である。

より一般的にいえば、歴史のどこに目を向けても、共有された1つの国民アイデンティティというものは、文化的に多様なさまざまな国における社会–経済的安定確保の要であった。インドネシアのトランスミグラシ政策は、地域的多様性が間世代的な国民形成プロセスに寄与する仕組みを理解するうえで、又と無い、実り豊かな視座を提示している。

参考文献

Algan, Y, C Hemet, and D D Laitin (2015), “The social effects of ethnic diversity at the local level: A natural experiment with exogenous residential allocation,” Journal of Political Economy, 124 (3): 696-733.

Allport, G W (1954), The nature of prejudice, Boston: Addison-Wesley.

Bazzi, S, A Gaduh, A Rothenberg, and M Wong (2016), “Skill Transferability, Migration, and Development: Evidence from Population Resettlement in Indonesia,” American Economic Review, 106 (9): 2658-2698.

Bazzi, S, A Gaduh, A Rothenberg, and M Wong (2017), “Unity in Diversity: Ethnicity, Migration and Nation Building in Indonesia,” Working Paper.

Barter, S J, and I Cote (2015), “Strife of the soil? Unsettling transmigrant conflicts in Indonesia,” Journal of Southeast Asian Studies, 46 (1): 60–85.

Blumer, H (1958), “Race prejudice as a sense of group position,” Pacific Sociological Review, 1 (1): 3-7.

Fearon, J D, and D D Laitin (2011), “Sons of the soil, migrants, and civil war,” World Development, 39, 199–211.

Huntington, S P (2004), Who are we? The challenges to America’s national identity, Simon and Schuster.

Pew Research Center (2017), “What It Takes to Truly Be ‘One of Us”, February.

Putnam, R D (2007), “E pluribus unum: Diversity and community in the twenty-first century – The 2006 Johan Skytte Prize Lecture,” Scandinavian Political Studies, 30 (2), 137–174.

World Bank (1988), Indonesia: The Transmigration Program in Perspective, A World Bank Country Study Washington, DC: World Bank.

 

 

タイラー・コーエン 「私に強い影響を及ぼした本《十選》」(2010年3月16日)

●Tyler Cowen, “Books which have influenced me most”(Marginal Revolution, March 16, 2010)


本ブログの熱心な読者の一人であるChrisから次のような質問を頂戴した。

貴殿の世界観に影響を及ぼした本のトップテンを是非ともお教え願いたいです。

「長い時間をかけて熟考した挙句に選び抜いた10冊」ではなく「パッと頭に浮かんだ10冊」ということで許してもらいたいと思う。私の世界観に影響を及ぼした源の候補は本だけに限られるわけではないということも強調しておくとしよう。概ね読んだ順番に並んでいると思うが、リストの順序にはこれといって深い意味は無いことを断っておく。 [Read more…]

サイモン・レンルイス「メディアと政治家はこうしてダメ経済学を広める」(2018年5月20日)

[Simon Wren-Lewis, “How the media and politicians dumb down economics,” Mainly Macro, May 20, 2018]

経済学者がコミュニケーション技能を磨くのには大賛成だし、いま進行中のすぐれた改善計画もいくつかある。とはいえ、政治家とメディアがダメ経済学を世間に触れ回っていては、そんな努力も無に等しい。
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タイラー・コーエン 「私の哲学遍歴」(2006年8月17日)

●Tyler Cowen, “Philosophical journeys”(Marginal Revolution, August 17, 2006)


私の哲学遍歴のはじまりは10代の頃に遡る。プラトンの対話篇(もちろん『パルメニデス』も含めてだ)を残らず読破して現代哲学の主要作品を渉猟するぞ。まずはそのように目標を定めたものだ(『パルメニデス』は私のお気に入りの作品となったが、『法律』は最後まで読み通せなかった)。デカルトにライプニッツ、スピノザ、ホッブズ、ロック、バークリー、ヒューム、カントといった面々との一体化を果たすために頼りにしたのがジョン・ホスパーズ(John Hospers)の年代物のテキスト1だ。アリストテレスの作品もいくつか読んだが、アリストテレスは私には退屈に思えたものだ。続いて手にしたのはカール・ポパーブランド・ブランシャード(の作品多数)。合理主義の(古めかしい)擁護者であり、実証主義の批判者。そんな共通点を持つ二人だ。そして無神論についてはジョージ・スミスアントニー・フルーの作品を貪るように読んだ。アイン・ランドにも影響を受けたが、かといって哲学者としてのアイン・ランドにというわけでは決してない。彼女流の道徳的な見地からする資本主義擁護論に影響を受けたのだ。 [Read more…]

  1. 訳注;おそらくこちらの本。 []

タイラー・コーエン「アンティークはなぜそんなに安くなったの?」(2018年3月10日)

Tyler Cowen, “Why are antiques now so cheap? “(Marginal Revolution, March 10, 2018)

「アンティーク収集の全盛期に比べたら、現在の平均的な価格はその頃の80%オフです」とコリン・ステア氏、NYハドソン街にあるオークションハウスであるステア・ギャラリーの経営者は言う。「典型的なジョージ王朝様式の18世紀の家具、引出し付きチェスト、三脚テーブル、ペンブロークテーブル」はすべて15-20年前のほんの少しの値段だと。

これはニューヨークタイムズ紙のティム・マッコウ氏の言葉だが、記事には証拠がたっぷり載っている。いくつか私が仮説を立ててみよう。

1.eBayとインターネットは需要より供給を増やした。財産や屋根裏部屋の私物を売るのは以前よりずっと簡単になった。だが、このマーケットの潜在的な需要の伸びはそこまで大きくはなかった。「アンティークを実際に買って収集してもいいよ、時価より40%オフで僕の欲しい18世紀モノが見つかれば」というひともいるだろうが、もっと多くのひとは単に興味関心がまったくない。

2. さっきの記事は、多くの客は新しいモノに目が行っているということも示している。過去のモノに目を向ける姿勢は、根本的にいくらか変わったのかもしれない。ある時を境にしてほとんどのひとの美学の世界から存在しなくなったかのように。エルビス・プレスリーの記念品をどんな風に集めているかとか、或いはエルビスでさえ以前ほどアイコンとして扱われなくなったとかいうことにちょっと似ている。

多くの人々にとって、「英国アンティークは物悲しさと古臭さの象徴です」とニューヨークのインテリアデザイナーであるサッド・ヘイズ氏は言う。彼は最近、アンティークでいっぱいに飾られた家を空にして、現代風な部屋をデザインした。若者と高齢者の両方の富裕層顧客にだ。彼によると、現代的なデザインは「もっとずっと楽観的でポジティブなモノを象徴します」と。

3. 住宅事情が変わった。「より多くの家が、フォーマルなダイニングルームや書斎よりも、オープンコンセプトでカジュアルな空間を持つようになりました。風格のあるマホガニー材のダイニングテーブルや椅子、飾り棚の必要性が減ったのです」。

4. インターネットの美学は「古くて時代遅れなモノ」から人々を遠ざけた。インスタグラムの写真を見てみるといい。

他に何か?

ジョセフ・ヒース「税が税でない場合とは? 炭素税vs.炭素価格」(2014年7月19日)

When is a tax not a tax? Carbon taxes vs. carbon prices
Posted by Joseph Heath on July 30, 2016 | environment, public policy

『炭素税』のアイデアと、それを「税」と呼ぶにふさわしいかどうかに関しては、カナダにおいて全国的に一定の混乱があるようだ(例えばココ)。炭素税のような政策的枠組みを支持者する人たち(私も含む)は、これを『炭素価格付け』制度と呼んできた。『炭素税』とその他多くの「従来の税制度の枠組み(所得税や消費税)」との相違点を強調するためである。(そして右派による「あらゆる税は悪である」誹謗監視網を避ける為でもある)。このことは、「炭素価格付けの政策的枠組み」への反対者達(現政権や、言及するまでもない右派マスコミ内の政権の忖度野郎ら)を、「炭素価格付けは税である」と執着することに至らしめてしまった。実際、現職の環境大臣は、政権のマントラ「炭素価格付けは、単なる税ではない、森羅万象への課税である」を輪読する機会を決して逃さない。(前任の環境大臣は「あらゆる形態の炭素価格付けは、炭素税である」と口角泡を飛ばしていた。)

このようなしつこい主張には、市場経済の基礎原理への非常に深刻な誤解が実質的に内在されている。誤解を晴らすために、『炭素価格付け』は実のところ価格付け制度であって、税ではないことを示してみたい。この「価格付け制度であって、税ではない」という見解を拒否している人は、混乱しているか、意図的に混乱を流布している。大抵は混乱している。そして、混乱している人の典型的理由は、税金について長年費やして大騒ぎしておきながら、価格とは何であるかについて深く考えてみたことがまったくないからなのだ。

なので、「税は何をもってして税と呼ばれるに値するのか?」といった本題に入る前に、「価格とは何であるのか?」、「我々はなぜ価格を保持しているのか?」といった最初の基本原理に立ち返るところから話を始めてみたい。なぜ「価格」なんてものが存在しているのだろう? それは市場経済の2つの根元的な構成要素の直接的な帰結だ。「財産権」と「契約」である。古典的財産権は、「独占権」という中心的な特徴を持っている――財産権は、財の所有者に対して、所有財を他人が使用したり、財の享受を阻止する権利を付与しているわけである。例えば、私が特定区画の土地を所有しているとしよう。すると、私は他人がその土地を歩くのを規制する権利を有していることになるわけだ。車を所有してる場合、他人がその車を運転することや、車に危害を加えることを禁止する権利を有していることになる。1杯のコーヒーを所有している場合、他人がそのコーヒーを飲むのことや、それへ唾を吐くのを禁止する権利を有していることになる。以下続く…。

もし何者かが、私の土地を徘徊したくなったり、私の車を運転したくなったり、私のコーヒーを飲みたくなったら、実際何が起こるだろう? 大抵の場合、その何者かは、私の許可を求めて、自有財産の使用権や享受権を「誘因」として提供しての説得が必要になる。これこそが、契約に基づいた交換の原理原則である。あなたが(私のコーヒーを飲むような)通常は財産権の侵害と見なされるような行為に私が許可を与えるとすれば、あなたは私が欲するものをお返しとして与えるわけである――まあつまりは、あなたは私に支払いを行うわけだ。ここで「価格」が登場するわけである――「価格」とは、財産権の放棄や譲渡条件といった、諸個人の他者との同意が確認再表示された用語なのだ。

ここで言及しておかねばならない重要なことがある。この価格を巡る全過程において、国家が非常に重要な役割を担っていることだ。諸個人は、どんな場合であれ自身が望む取引を自由に締結できる意味において、価格の自由決定権を有している。あなたは、私のニワトリを所望し、代わりに一袋のニンジンを支払う契約を結んだしよう。にもかかわらず、私はニワトリを与えたのに、あなたは私にニンジンを手渡さなかったとする。この場合、私は、国家に訴えることで、あなたにニンジンの支払いを強制させることができる。あなたが私の土地に不法侵入し、私のニワトリを殺害したとしよう。この場合も同様に、私は異議申し立てし、国家を通じて「賠償」支払いを強制させることが可能となっている。賠償金額は基本的に、裁判官か陪審員による最適推定値とり、あなたはその「賠償」を支払わねばならないだろう。賠償の履行によって、私がニワトリの殺害を許可をしたのと同じ状態になることが目的となっている。つまり、全ての価格は、財産権と契約の関係に応じて執行される法制度の産物であるという意味において、「人工的」なのである。

こういった価格協定全体の中核には、究極的なまでに重要な道徳概念が位置している。それは、諸個人がなんらかの行為を決定する場合、自身の行動が他者に及ばす影響を考慮に入れねばならないという、道徳概念である。もし私が土地の一角を利用しているとしよう。すると、他者はその土地を利用することができないことが意味されている。もし私がニンジンを食べたとしよう。すると、他者はそのニンジンを食べることができないことが意味されている。森羅万象を財産権に分割することは、こうした自身の行動が他者に及ばす影響を自明化する方法の1つとなっている。私が他者の土地やニンジンに対して支払いを負っているという事実があるなら、他者もその土地を利用したかったり、食べたがっている事実の反映なのだ。そして、私が財を得るために負っている支払い総額は、私がその財を使用ないし消費すれば、他者にどれくらい不遇を引き起こすかの直接的な役割を果たすことになっている。(標準的な厚生経済学における)「最適」価格によるなら、個人の支払い総額は、『社会的費用』と正確一致するものであるとされている。『社会的費用』とは、いわば、その個人の所有ないし消費が、他者にもたらした不遇なのだ。

市場についてこのような方法で考えることは、私が価格付けの「謝罪」モデルと呼んでいるものを引き起こすことになる――「謝罪モデル」とは、もし人が何かに料金を支払った時、その人は、自身の消費によって不便を感じたすべての人に謝罪していると考えねばならない、との考え方だ。

今度あなたがスターバックスで1杯のコーヒーを買うときには、バリスタにこう言っている自分を想像してほしい。「ごめんなさい、他のことができた時間に、私にコーヒーを滝れてもらって。他の方々にもどうか伝えてくれませんか、同じようにお詫びしていたと。オーナーさん、地主さん、船会社さん、コロンビアの農家の方々にも。この1ドル75セントが困難の全ての対価です。どうかあなた方で分けてください」。
ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』( p. 160)

このような私の書き方、ジョーク、ないし一介のカナダ人による奇矯な経済学理解に聞こえるかもしれない。しかしそうではないのだ。これは、市場経済における価格機能の実際の在り方を正確に表記したものであり、資本主義における道徳の中心的な基礎もまた同様なのだ。

価格制度の根底にあるこういった単純な原理から始めることで、環境保護規制は、同じ原理のほんの小さな拡張を表していることにすぎないことを容易に理解することが可能となっている。あなたは、破棄したい生ゴミを持っていて、私の私有地に投棄処分したがっているとしよう。あなたの投棄は、私からすれば私有地からの享受を減少させることになるだろう。なので当然のことながら、私はあなたを止めるために、財産権の行使が可能となっている。あなたが私の私有地へ生ゴミを投棄するなら、私への金銭支払が必要となっているわけである。だがしかし、あなたは賢明になり、投棄する代わりに、ゴミは燃やすと決めたとしよう。燃やした結果、悪臭の煙が今や私の土地を漂うことになり、さらなる度合いでもって、私有地からの私の享受は減少することになる。不幸なことに、こうなってしまっても、財産権は、私を守ってくれないのだ。私有地上の大気まで「保持」していないからである。つまり、私有地の周りにフェンスを建設することは簡単なのだが、大気まで囲い込むことは非常に難しいわけだ。ただ補足しておくと、このように財産権行使の限定的な事例を挙げることで、[人はなんらかの行為を行う場合、他者への影響を常に考慮せねばならない]道徳的原理こそがこの件の本質にあるのだ、と言いたいわけではない。道徳的原理はここでは純粋に二の次的な問題に過ぎない。もっともそれでも、基本的な道徳的原理はやはり変わらず重要だ――つまりは、あなたはなんらかの行動を行う前には、その行動が他者にコストを課す事について、考慮しないといけない。論を戻して、あなたが、私の私有地からの享受を減らすようなことを行えば、あなたは私への支払い義務が生じる。故に、私はあなたを裁判所に連れていき損害賠償を強いることが可能となっている。そこでは、私が自身の私有地上の大気汚染を許可するのに、あなたは私に幾ら支払わなければならないのかが、裁判官よる最適推定価格として再提示されることになるだろう。

もし、煙が私の私有地上だけを漂うのではなく、他の人達の私有地上にも、薄いモヤとして漂って底流し、土壌が汚染されるような事になれば何が起こるのだろう? 我々は、民事訴訟を「集団行動」として組織し、あなたに賠償金支払いを強要するのが可能になっている。ただ、民事訴訟のような組織化を行えば、甚大なコストがかさむだろう。法廷で本当に争ってしまった場合はどうなるかは言うまでもない。なので、国家は、前もってシンプルに罰金を課すような取り決めの行使が手段として許容されているわけである――生ゴミのようなものを燃やしたい人皆に課される罰金だ。こういった取り決めは、汚染の生成による「社会的費用」の反映となっている。ここまで検討での重要な論点、それは国家が「社会活動」に価格付けを行っていることにある。不完全性が無い市場や私的所有制度によって帰結されるに至った市場価格と、国家によって行われる社会活動への価格付けの達成は、[同じ社会的価値反映の]単に異なる方法にすぎない。(ロナルド・コースによって提唱された、有名にして若干の間接的な論点である)。

重要な論点がもう一つある。国家が[価格付け制度から得た]お金で何をするかは、どうでもよい論点なのだ。諸個人が意志決定を行う時、様々な選択肢を比較検討するが、その時諸個人が向き合うことになる費用には選択肢それぞれの社会的費用が反映しているはずだ、というのが価格システムのコア概念だ。この価格システムのコア概念によって、社会的に最適な意志決定が形成されるので、我々は市場を尊重するのである。国家が汚染に価格付けを課すことは、この最適意志決定を社会的に達成することになる。国家が、価格付けで得た資金を後に全て無駄遣いしようとしまいと、まったくどうでもよいのである。

すると「税」とは何なのだろう? 今日の保守派の言及論点に従うなら、政府の歳入を上げるものは何であれ「税」となっている。これは定義として漠然としすぎていることは明白だ。政府が公債を売るのは、税を課したことにはならない。同じく、政府が公的保有している土地の売却を決定し、その売却が歳入を生んだとしても、その土地を購入した人に税が課されたことにはならない。政府が土地を売ったときに行っているのは、「税を課す」などではなく、「土地を価格付けしている」のである。右派政権は、しばしば減税を行いつつ、減税による歳入不足を補うために[公的サービス等の]使用料の値上げを行おうとする――その際、右派政権は主張する、「我々は増税しない公約に留意している」と。これも似たような言説である。(そう例えば、右派政権が低い固定資産税を維持に固執したことで、地方自治体の水泳教室の価格が上昇するかもしれない。しかしながら、これも実際は増税ではない。政府は単に水泳教室を販売しているだけであり、民間企業と同じことを行ってるに過ぎないからだ。)

すると、税を税にしているものは何なのだろう? 税の最も重要な特徴は(私の考える限りでは)、歳入を上げる目的に課せられているものであり、行動を変じる目的には課されはいない。所得税が最適事例だ。所得税の主要目的は、単に歳入を上げることにあり、人の収入動機を挫くことにあるわけではない。消費税も同様だ。経済学者達が、多くの時間を費やして税の「歪み」効果について悩んでいるのには理由がある。それは、税のインセンティブ効果が、望ましい社会行動様式に反した特徴となり具現化してしまうことにある。なので、効率的税制度の究極目標は、この「歪み」をできる限りに最小化することにある。故に、経済学者にとっての理想的な税は、「人頭税」(ないし「税の個人支払いの一元化」)となっている。人頭税や一括支払い税を課せられる人は、その税を逃れたり、支払いを最小化する方法がまったく存在しないからである。そして、人頭税や一括支払い税は、人の行動を変ずることなく歳入を上げるからでもある。これとは別に、経済学者達に好まれる税制度に、『奢侈税』や『資源使用量』のような、”エコノミック・レント(経済的上乗せ利益分)”に課す税もある。これらもまた、行動を変ずることなく、歳入を上げるからだ。(ただ、これらがなぜ好まれるかの詳細な説明するならやや複雑なものとなる…)。

ここまで説明したことで、保守派が一様に税に敵意を持っている一方で、財の利用手数料や価格には敵意を持っていない理由がおわかりいただけだろうか。穏健右派は、税の「歪み」効果による社会的効率の損失を理由に、税に反対してわけである。極右派が税に反対するのは、税が国家の歳入を上げるメカニズムの代表事例だからなのだ。そして、極右派は、国家の歳出そのものに原則的に反対している。(概して、こういった保守派の税への反対は、あらゆる種類の再分配、すなわち「不相応な利得」への強い反対に基いている。故に、政府が提供する水泳教室を使用者に請求するのは、使用者は受け取ったサービスに応じて金銭支払いを行っているだけなので、保守派的には万事問題無しなのである。一方で、政府が個人に固定資産税を課すのは万事問題有りなのである。なぜなら、個人が受け取る地方自治の公共サービス――警察による治安維持、道路整備、降雪除去、等々…――は、税支払いの対価と正確に一致する保証がないからなのだ。[税金を支払うことになる保守派は]自身のお金の一部がサイフォンで吸い上げられているのでないか、自身のお金が公共サービスが受けるべきでない人にも与えられているのでないか、と常々戦々恐々しすることになるようだ。どうも保守派の多くは、誰かが不相応な利得のようなものを享受する可能性に悩まされるくらいなら、公共サービスは無いほうがいっそ良いとのことらしい。)

『価格付け制度』は、税とは対照的に、まさに行動を変えることに目的がある。価格は、人々の様々な行為(消費行為、自身の使用行為、使用行為から他者を排除する、等々…)を抑止する意図を持っている。人が本当に価格付けられたものを必要としない限りは…つまり、人にとってその価格付けられたものからの便益が、他者への損失を十全なまでに上回らない限り、価格は人の行為への抑止意図を発揮するわけである。これは、ほとんどの財の価格が、市場によって決定されていることを我々が受け入れている理由となっている。どういうことなのだろう? 競争市場は、私的利益を社会的費用としての価格に均衡水準化する最適な制度だからなのだ。この見解は少し奇妙に聞こえるかもしれない。私があなたにニンジンを売った場合、私個人が意図しているのは、単にお金を作ることにあり、私的利益と社会的費用を均等化させようなどとは意図していないからだ。しかしながら、価格制度を私的意図の観点から考えてしまうことは、間違えた考え方なのだ。個人が何を意図してようと争点はそこにはない。問題になっているのは、諸個人はニンジンに自由に価格付けを行えることにある――逆に考えれば、ニンジンには法的に価格が定められていないことが争点になっている。ニンジン対して諸個人が価格を自前で設定させられていること、これこそがこの争点化している問題の解答だ。「価格を自前で設定させられていること」は、高い慨然性をもってして、我々を、価格を私的利益と社会的費用の均等化作業に至らしめることになる。

この見解を敷衍させると、政府が国有地の一部を売った場合も、政府自体の目的はお金を作ること(つまり歳入を上げること)にあり、政府自体は私的利益と社会的費用の均等化を目的にしてはいないことになる。それでも、国有地の売却は税にならないのだろうか? 私が独自定義で悶着してるだけなのだろうか? なんらかの価格が税であるかどうかは、その価格がいったい何に基いて定められているのかに依存している、と私は論じたいのである。競争的な市場価格によって地価が計測され、売買が試行されている場合、私は単に「土地が価格付けられている」と言うだろう。対照的に、例えば、土地を非常な高価格で売ることを目的に、土地の供給余地が制限されているような土地の専売権行使が存在しているとしよう――香港政府が行っているようなやり方である。この場合は、土地を購入する人(例えば不動産ディベロッパー)に「課税する」という言い方が妥当になる、と私は考える。政府が「市場」価格で土地を売る場合、以上の専売権行使の場合とは異なり、歳入を上げるという事実は、幾分だが付随的な事柄にすぎない。例え、政府が国有地の売却収益を翌日に気まぐれに散財したとしても、その土地を最適利用できる人に資された保証として、「土地を価格付けして売却した」ことに重要論点があることは損なわれない。

ここまで、微妙な論点にこだわっているように思えるかもしれない。しかし、この論点を、環境問題に適用した場合、それは明白かつ直接的に適用妥当案件となるのだ。二酸化炭素を排出することは、(国境を越えたグローバルな温暖化のメカニズムを介することで)コストを他者に押し付ける行動の完璧なまでの典型事例となっている。それでいて、現行の財産権は、二酸化炭素排出コストの他者への転嫁を防ぐ仕組みにはなっていない。つまり、財産権や契約の古典的メカニズムは[他者転嫁した排出コストを反映して]価格を引き上げるようには至っていないのである。それでいて、価格付けの「謝罪」モデルの観点から考えてみれば、大気中へ二酸化炭素の排出を行った人は、排出によって不便をかけた全ての人に謝らなければならないのは明白である。二酸化炭素を排出した人が謝罪を負っていない現実は、財産権のシステムが政府の専制的制限下にあり[排出コストまでカバーしていない]ことに起因している。つまり、大気が問題領域になっても、人は財産権を行使して解決する手段を保持していないのだ。

別途手段だと、諸個人が集まり、二酸化炭素を排出している人々に補償を要求するのも、法外にコストがかかるだろう。さらなる別途手段、二酸化炭素排出を「違法行為」として扱う解決策も、「財産権」による解決策と同じく効果的ではないだろう。よって人が温室効果ガスを排出する場合、他者にどれくらい賠償せねばならないかの決定のお鉢が、国家に回ってくることになる。なので、政府は、なんらかの費用便益分析(例えばスターン・レビュー)にコミットすることになる。人が二酸化排出を欲したとし、さらにその排出の影響を受けた人々が集まって協議し同意が行われたと仮定した場合の、市場価格基づいて設定された炭素価格による費用便益分析となる。ここにおいて政府は、一連の政策に「炭素価格」を課すことになる――我々はそれを「炭素税」と呼んでいる。

繰り返させてもらうが、こういった政策枠組みを「価格」として考えることは、政策が歳入を上げる重要性が、二の次になる事実の反映となる。たとえ、国家が炭素価格付けスキームからの全ての歳入を気まぐれに散財したとしても、この政策は実地される価値を持つ――どういうことか?――国家がこの政策を実地している環境下では、人は意志決定を行う場合、その意思決定が他者に課すことになるあらゆるコストを考慮することが強要されるようになるからである。実にこれこそが、数回前の選挙において、自由党が「グリーン・シフト」を提唱していた理由だ。提唱政策では、炭素税は、同等規模の所得税減税を組み合わせた課税政策と紐付けられていた。政策を包括的に履行すれば、歳入は中立になっていたわけである(故に、「シフト」と呼ばれていた)。グリーン・シフト政策の目的は、より効率的な経済的インセンティブを作り出すことにあって、歳入を上げることにはなかった。言い換えるなら、「炭素価格」の試算にあったのだ。

この歳入の中立性こそが、「炭素価格付け」に反対している党の方針に面従腹背している経済に精通している保守派が、悪辣な不誠実さを患っている理由だ。経済に精通している保守派は知っているわけである。もし人々が市場経済の根底にある基礎的な原理を受け入れ、さらに気候変動が人為的であることの科学的なコンセンサスを本当だと考えた時、「グリーン・シフト」や、炭素価格付けのような政策に、一般的に反対することに、筋の通った論拠が単純に存在しなくなってしまうことを。保守党支持者達がこういった政策に反対している事実は、(酪農産業の供給管理への加担と極めて似通っている)愚存な政治的ご都合主義の行使――自由市場の基礎的な原理への毀損に立脚している。不幸なことに保守党支持者達は、この問題では自縄自縛に陥っており、適切な政策の提示が不可能になってしまっているのだ。

ここまで語ってきたこと全て、国家が価格の調整を試みる際に手数料を課すような政策に適切な名前(例えば、ピグー税)を思いつける人からすれば、マズい考えではないだろう。例えば「有料道路制度」、我々はそれを「通行料」と呼んでおり――「税」と呼ぶより正鵠を射ている。貿易制限の場合、我々は「税」ではなく、「義務」と呼んでいる。なので、炭素価格付け政策の枠組みは、炭素「課徴金」とでも呼ぶのがおそらく適切なのだろう。ただ、上記の通行料、税、義務、課徴金といった様々な様態を広く包括した用語があればより適切かもしれない。

タイラー・コーエン「グレーバーの新著『クソ仕事:その理論』」

[Tyler Cowen, “*Bull Shit Jobs: A Theory*“, Marginal Revolution, May 17, 2018]

デイヴィッド・グレーバーの愉快な新著のタイトルは『クソ仕事』だ.きっと,すでに小耳に挟んだ人もいるだろう.短い要約はこちら
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タイラー・コーエン「絵画を高価にするのは何だろう」(2004年5月17日)

Tyler Cowen, “What Makes a Painting More Valuable“(Marginal Revolution, May 17, 2004)

結果の多くは驚くものではない。明るい色彩のものは暗い色彩のものより、楽しそうな自画像は未亡人のものよりよく売れるし、横長のものは暖炉の上に掛けやすい。以下にいくつか他のことも述べよう。

  1. 風景画は、馬や人が前景に位置していると3倍も値が上がることがある。工場の姿があると通常、価格は下がる。
  2. 静物画は、果物のものよりも花のほうが価格が高い。バラは花の階級の中で最上位に位置しており、菊やルピナスの花(労働者階級のものと見なされる)は最下位だ。
  3. 動物にも階級がある。純血種の犬は雑種犬より絵画の価格を上げる。スパニエル犬はコリー犬より高値になる。競走馬は荷馬車馬より高値をつける。猟鳥について言えば、以下の経験則が成り立つ。仕留めるのが難しい鳥の絵ほど値が上がる。ライチョウはマガモよりも高値だ。そして動物の絵は、後姿ではなく、正面から描かれているのがいい。
  4. 水が描かれている絵は値を上げる。ただ、水面が穏やかなものだけだ。難破船など問題外。
  5. 丸や楕円形の形をした絵画はひどく人気がない。
  6. ブーシェの裸婦スケッチ画は、類似の男性を主題としたスケッチ画に比べて10倍の値がつく場合がある。

結論:買主は上流階級を反映する様式の美術品を好む。詳しくは2004年5月発行のThe Art Newspaper紙に掲載されている記事“Why some Pictures Go For More Than Others”を読んでほしい。