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ジョセフ・ヒース「ナオミ・クラインの気候問題論」(2015年3月6日)

Joseph Heath, “Naomi Klein: This Changes Everything“,  In Due Course, March 6, 2015.

(…前略…)

私のブログの読者であれば知っているかもしれないが、アンドリュー・ポッターとの共著『反逆の神話』を出版して以来の10年以上にわたって、私はナオミ・クラインに対して実に一方的な議論を行ってきた(ただし、『反逆の神話』ではクラインを批判するのに5ページかそこらしか割いていない。その批判は、『ブランドなんか、いらない』への”返答”であると多くの人から思われた)。クラインが書くような本をカナダの他の人々が書いてしまうことを阻止しようとするために、人生のうちのかなりの年数を費やしてしまったことは自分でも認めざるをえない。クラインの新刊『すべてを変える物語』がベストセラーになっているという事実は、結果として、私の人生の中でも重要なプロジェクトの一つが失敗してしまったということを本質的に表しているだろう。このため、『すべてを変える物語』を分析するうえで私情を挟まないようにするのは私にとってはかなり難しいことになる。

また、この10年で何か発見したことがあるとすれば、それはナオミ・クラインを批判することはJ・K・ローリングを批判するのと同じようなことであるという事実だ。たとえあなたが正かったとしても、あなたが言うことは何一つ世界の軌道を変えない。 …すべての物事は、あなたが存在していなかったり何も書かなかったりした場合とまったく同じように展開し続けるのだ。

では、本筋を見失わないために焦点をきわめて狭く定めて、『すべてを変える物語』で提起された問題のなかでも中心的な主張に密接に関連した一つの問題だけを取り上げることにしたい。残念なことに、『すべてを変える物語』の主張を正確に見極めることは、本の副題(「資本主義 vs 気候問題」)が示唆しているほど簡単にはいかない。彼女が以前から用いているレトリックと同じように、この副題は、資本主義的な経済システムを維持しつつ気候変動の問題を解決する方法は存在しないとクラインは論じるつもりであるかのように思わせる。つまり、ジョエル・コヴェルが2007年の著書『エコ社会主義とは何か(自然の敵:資本主義の終焉か、世界の終焉か?)』で行ったのと同じような主張をクラインも行おうとしているのだとこの副題は思わせるのだ。しかしながら、実際にはクラインはそれを主張していない。彼女は市場を撤廃したいと思っていないし、利益追求的な企業を撤廃したいとすら思っていないのだ(本の中のある箇所では、彼女は「無炭素経済においても利益を挙げられる余地は充分に存在している」[252]と言い切っている)。

さらに、クラインが「資本主義 vs 気候問題」の争いを描写する時、彼女は「気候問題」に対して厳密に「資本主義」を対立させることを決してしない。クラインはこんなことを言う:「今こそ、この現状を引っ繰り返すべき時である。それは可能なのか?全くもって可能だ。だが、規制の無い資本主義の根本的な論理に対して挑戦せずにそれを行うことは可能なのか?その場合には全く望みは無い」[24]。あるいは、「束縛の無い資本主義に対抗するための最も強力な議論を、気候科学は彼らにもたらしたこと」[157]を理解していない「大半の左派やリベラル」を彼女は批判する。しかし、言うまでもなく、「規制の無い資本主義」や「束縛の無い資本主義」や「自由市場原理主義」は、資本主義そのものと同一ではない。そして、市場に対する何らかの規制を実施しなくても気候変動の問題を解決することはできる、と考えている左派やリベラルや環境主義者を見つけ出すのは相当難しいだろう。残念なことに、気候危機を解決するためには市場に対する制限が求められるという実に明白で議論の余地がない主張と気候を救うためには資本主義の撤廃が求められるという全くもって明白でなくかなりの議論を呼ぶであろう主張との混同が、『すべてを変える物語』全編を通じて莫大な数で存在しているのだ。

では、クラインは何を論じているのか?彼女はどのような肯定的な主張を行っているかは見極めるのが難しい一方で、クラインは一つの否定的な主張を明確に行っている。標準的な方策は資本主義システムの枠内で気候問題を解決しようとするがそれは機能しないのであり、そのため、問題を解決するためには私たちの経済的組織のパターンの根本的な構造変革を熟考しなければならない、と彼女は論じているのだ。したがって、気候変動は「社会主義者の陰謀」だと主張したり左派に対する「宇宙からの贈り物」だと主張する極右の方が主流派の左派よりも気候問題に関して正しい理解を抱いているのだ[43]、とクラインは繰り返し論じる。…なので、以下で私が行う議論では、資本主義を超えた次の世界はどのようなものになるであろうかということについてのクラインの見積りには焦点を当てずに、なぜ彼女は資本主義経済の枠内で気候危機を解決しようとする標準的な方策を否定するのか、ということについて焦点を当てることにする。特に、クラインはなぜ炭素価格付けを否定するのか、ということを取り上げよう(彼女が炭素価格付けを否定したことは、一部の人々に不愉快な驚きを与えたものだ)。

比較的狭い範囲に議論の焦点を当てるということもあり、『すべてを変える物語』の中でも最も議論の的となる箇所である第一部について主に論じることにしよう(第二部以降には、この本は基本的には気候変動版『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』になってしまう。つまり、『すべてを変える物語』の後半250ページかそこらの内の大半はレポタージュであり、彼女は世界を飛び回って、近年に抵抗運動が行われた場所を訪れて、抗議運動家たちの英雄性や警察の横暴や企業の不誠実さを読者に報告する。この種の文章はクラインが最も得意とするものであるし、彼女が本の後半部分で示していることの大半は、議論の的にもならなければ大した驚きもないことである。経営者のリーチャド・ブランソンは信用に値しない人物であり、遺伝子工学は危険であり、農家の人々は自分たちの土地の下をパイプラインが通ることを好まない、などなどのことを読者は知らされる。後半部分の文章には議論は大して含まれていないし、その大半は、価値のある目標に向けて行動するように人々を奮い立たせたり既に行動を開始している人をさらに励ますという目的のために書かれているように思える)。

後半に比べて議論の的となる第一部について論じるうえで、『すべてを変える物語』が参入しているのは既に多くの人々が議論を行っている分野である、ということは記しておくべきだろう。『すべてを変える物語』は、本質的には政策に関する議論への貢献を行おうとしているのであり、広い意味では科学的事実を所与の前提として扱い、「私たちは何をするべきであるか?」という問題に対して答えを出そうとしている本なのだ。気候変動の問題は20年以上にわたって論じれられてきたので、この分野の議論は既に成熟している。主張し得る主要な立場はすべて主張されてきたし、全ての立場の人々は相手側の立場の人々が行う議論についてもかなり精通している。つまり、環境主義者たちの間の”主流派”な見解は既に登場しているのであり、仮にその見解は気候政策に関する合意を反映していないとしても、少なくとも多数派の意見は反映されているのだ。この見解は、炭素価格付けの適切なシステムが必要である、と主張している。そして、これこそがクラインの否定する見解であるのだ(実際、彼女は本の中の様々な箇所でこの主流派の見解を積極的に貶している。たとえば、「最小限の炭素税を求めて闘うことは、たとえば最低限所得保証を求めるための同盟を結成することなどに比べて、ずっと少ない成果しかもたらさないだろう」[461])。

主流派の環境主義的見解に挑戦する議論は『すべてを変える物語』以前にも行われてきた。たとえば、以前には標準的な見解では炭素税はCO2排出1トン当たり30ドル前後であるべきだとされていた。(英国のブレア政権に委嘱された)気候変動の経済学に関するスターン報告がやがて発表されたが、その報告は炭素税は1トン当たり30ドル前後ではなく300ドルに近付けるべきだと論じていた。そして、スターン報告は明らかに多くの人々の注目を集めた。従来の見解を支持していた人は、「何が違うんだ?スターンの議論の基となっている事実は他の全ての議論の基となっている事実と同じはずなのに、どのようにして彼はここまで過激に異なる結論に辿り着いたんだ?」という疑問に集中しながら700ページもの報告書に目を通した。スターンが主流派の見解とこれ程までに異なる結論に辿り着いたからには、彼の分析には他の人々の分析とは異なる何かが含まれているはずだった…予測のシステムが異なるか、経済成長のモデルが異なるか、また別の何かがことなるのか。やがて、核心的な違いがあることが明らかになった。スターンは、現在のコストと将来のコストとの間にバランスを付ける(将来のコストを割り引く)という標準的なアプローチを拒否していたのだった。このことが、標準的な見解とスターンの見解との違いを説明するものだった。結果として、問題に対する正しいアプローチとは何であるかということについてのとても生産的な議論をスターン報告はもたらしたのであった。

さて、私には『すべてを変える物語』にも同様のアプローチがされるべきであるように思える。大半の人々は現状を見て「炭素価格付けが必要だ」と言う。クラインは現状を見て「すべてを変えることが必要だ」と言う(または「資本主義を劇的に再構築する必要がある」とかそんなことを言う)。では、クラインはどのようにしてその結論に辿り着いたのか?彼女が物事について分析する方法と他の人々が分析する方法との間のどんな違いが、これ程までに異なる政策方針を説明することができるのだろうか?

告白すれば、当初は「どうせクラインの議論には違いなんて存在しないだろう」という疑いを私は抱いていた。単に、クラインはかつてラリー・サマーズが「現在はこれまで以上に…」主義と呼んだケースの中でも強烈なものに捉われているだけだと思っていたのだ。

「現在はこれまで以上に…」主義は以下のようにはたらく:

1・あなたには、どんな時にでもどんな状況であっても支持するお気に入りの一連の政策が存在している。減税、規制撤廃、石油をどんどん掘る、などなど。

2・あなたは、解決される必要のある何らかの問題を発見する(経済停滞など)。

3・あなたは「現在はこれまで以上に私のお気に入りの政策が実行される必要がある」と言う。

クラインが主張していることのいくつかは、「現在はこれまで以上に…」主義の印象を強くさせる。気候変動の問題についてこれまでよりも真剣に捉えて深くその問題について考え始めるようになってからも、そのことは彼女の意見に何も変化を起こさなかった、ということはクライン自身が認めている。むしろ、気候変動の問題はそれ以前から彼女が常に抱いていた信念をさらに強くさせたのであった[7]。「私は気候変動の問題についてより深く関わることへと邁進していった。その理由の一部は、気候変動の問題に関わることは私が常々信じてきた種類の社会正義や経済正義を刺激付けることになるという可能性を発見したからだ」[59]。本の中で彼女が主張している物事はそれ以前から彼女が主張し続けていた物事と全く同じであるという主張は、『すべてを変える物語』の陰謀論的な特徴を表してもいるだろう。

さて、これは物事を考える方法として望ましいものではないということは明らかであるし、彼女の主張の全ては確証バイアスを巨大に延長したものに過ぎないのではないかという疑いも生じる(私自身が辿ってきた経験はクラインのそれとはかなり異なるものだ。たとえば、費用対効果分析に基づいて政策を決定することについて、私はかなり辛辣に批判していた。しかし、気候変動の問題について真剣に考えることは、自分の主張を和らげてやがては渋々ながらも費用対効果分析を擁護することへと私を導いた要素のうちの一つだ。私の意見の詳細はこちら)。ともかく、『すべてを変える物語』は知的なインテリアや政治的ご都合主義ではないということにしておいて、この本の中で書かれていることについて見てみよう。具体的な変革ということについては、自分が望んでいることはGDPに占める公的支出の割合が拡大すること[92]、または彼女が言うところの「ケア的な経済が発展して、ケア的でない経済が縮小すること」[93]であると、クラインははっきり書いている。具体的には以下の通りだ。

 

低炭素な選択を行うことを誰にとっても簡単で手軽なものとする包括的な政策とプログラムが必要とされるだろう…。それは、安価な公共交通手段やクリーンな路面電車に誰もがアクセスできるようにすることを意味する。また、手頃な価格でありエネルギー効率が高い住宅が線路沿いに建てられることや、人口密度の高い生活に適するように計画された都市や、自転車で通っている人たちが仕事に行くたびに生命の危険を冒さなくても済むようにするための自転車専用車線や、無計画な農業の拡大を防いでローカルで低エネルギーな農業を推奨するための土地マネジメントや、交通ルートに沿っており歩行者フレンドリーでもあるエリアに学校や医療といった必要不可欠なサービスを集める都市デザインや、自分たちが電気を無駄にすることについて自身で責任を負うことを製造業者たちに要請するプログラムや、そして既存の状態に含まれている余剰や老朽化などを劇的に削減することなどを意味するのだ。[91]

 

要するに、クラインはカナダがもっとオランダのようになることを望んでいるのだ。それは構わないが、しかしオランダはかなり資本主義的な経済の国であるし、GDPにおいて政府支出が占める割合もカナダに比べて5%ほどしか高くない。では、なぜオランダの都市環境や交通システムはこれ程までにカナダと違っているのだろうか?その理由の大部分は、オランダでは燃料とエネルギーの値段が高いことにある(ガソリンと電気の両方の値段が、カナダのそれの約二倍であるのだ)。ガソンリの値段が高いことは人々が車を運転することを抑制させて、交通機関や自転車専用車線や歩行者フレンドリーなエリアへの需要を生み出したのだ。同じように、電気料金の値段の高さは電気効率が良い住宅への需要を作り出した。エネルギーの価格こそが、現在のオランダで主流となっている都市計画を生み出したのだ(あなたは都市環境について好き勝手に"計画"することはできるが、あなたが建ててている人口密度の高い住宅地に住みたいと思う人々が実際にいない限りは、その住宅地は空き家のままだ。そのような住宅地がオランダ人たちにとって魅力的に思えるのは、他の選択肢が魅力的でないからである。その理由の大部分はコストに由来している)。

経済を通じて価格が人々の行動に与える影響をふまえれば、価格をコントロールすることは政府が実施できる中でも最も強力な政策手段であることは明白だ。したがって、クラインがお気に入りリストに挙げているような環境を実現するためには、政府は化石燃料の消費によって発生する炭素の外部性に対してキャップ・アンド・トレード制度か炭素税かによって価格を付け始めるべきである、という結論が自然に導かれるはずだろう。しかし、それはクラインが支持している手段ではない。驚く程に強力なこの政治手段に我々が手を付けないことを彼女は望んでいるのであり、その代わりに、トップダウンな計画とコントロールだけによって目標を達成しようと試みることをクラインは望んでいるのだ(テクノロジーに任せることなど)。政府は価格を調整することではなく「計画と禁止」を行うことに力を入れるべきだ、と彼女は考えているのである。

クラインが辿り着いた立場は私からするとかなり奇妙なものであるように思えるし、率直に言えばあまりよく考えられていないものであるように思える。たとえば、天然ガスはそれ以上に炭素集約型の化石燃料から離れるための「架け橋」として機能するかもしれないという発想に含まれる問題の一つは、天然ガスは比較的安価であるために、それは石油や石炭だけでなく太陽光や風力などの再生可能エネルギーまで締め出してしまうことである…と彼女は論じている[128-129]。そして、このような事態が発生することを防ぐための複雑な規制構造計画を彼女は描いてみせる[129]。だが、言うまでもなく、天然ガスが化石燃料と再生可能エネルギーの両方を追いやってしまうのは炭素に対する価格付けが不在であるからだ。大規模な炭素税が実施されることは、石炭と石油のコストを劇的に増加させる一方で再生可能エネルギーの相対的なコストを低減させる。天然ガスは化石燃料と再生可能エネルギーとの間のどこかに収まるだろうし、再生可能エネルギーを締め出すこともない。エネルギーの価格の安さはそのエネルギーのクリーンさを反映することになるからだ。つまり、クラインが(少なくとも言外に)描いている世界とは、現在と同じように石油製品や石炭由来の電気が異常に安いままであるが、それらを使用することは禁止されているか規制によって厳密にコントロールされているという世界である。ここで生じる最大の疑問は「なぜだ?」という単縦なものだ。「そんなに非合理的なことを実行するための理由がまさか存在するというのだろうか?」。

考えられる説明の一つは、クラインは経済的インセンティブが持つ力を信じていないということであり、炭素の価格に対して人々は適切な反応をしないだろうと彼女が考えているということである。(実に奇妙なことだが、このような議論が真剣に主張されたのを私が聞いたことのある唯一の機会は、カナダのエネルギー企業であるサンコー・エナジーの代表者からこの議論を聞かされた時だ。炭素税の問題とはそれが機能しないことであり、「ガスの値段が上がったからといって、人々は車を運転する量を変えやしない」と彼は私に言ったのだ。もしそれが真実であれば資本主義そのものが機能していないだろう、と私は彼に伝えた。私はそれを彼の主張に対する反証として示したのだが、しかし、資本主義は機能していないはずだというのはまさにクラインの意見の特徴であるので、このことも彼女にとっては大した反証にならないのだろう)。

クラインの主張に対するこの解釈は、炭素税は『すべてを変える物語』全体を通じて二度しか言及されておらず、どちらの場合にも炭素税は化石燃料の消費を抑制させる手段ではなく国の歳入を発生させるメカニズムとして書かれている(114,400)という事実によって補強されている。このことは、税がもたらすであろうインセンティブ効果をクラインが軽視しているという可能性を示唆する(「パイプラインに対する一度きりの投資」とは違って炭素税は歳入を毎年上げ続けるだろう[400]と彼女が論じているのを見ると、疑惑はさらに深まる。炭素税のポイントは炭素の消費を抑制させることにあるのだから、歳入は上がるのではなくむしろ急激に下がり続けることが予測されるのであり、彼女はかなり妙なことを主張しているのだ)。また、クラインは「控えめな炭素価格付け」(87)や「穏やかな」経済的インセンティブの非効率性に関する軽蔑を様々に示しているが、そこでは彼女は炭素税はきわめて低い税率に設定されるであろうと(なんの証拠も示さずに)決めかかっている。だが、スターン報告が示したように、政策についての近年の議論には大規模な炭素税の実施を主張している数多くのとても真剣な人たちが参加しているのだ。クラインが主張しているような大規模な変革を実施できる程の権力と権限を持っている政府であれば炭素税も好きなように設定できるはずであるのだから、大規模な炭素税を実施することは政治的に不可能であると主張することも彼女には許されていない。

オンタリオ州が再生可能エネルギーへの投資を促進するために固定価格買取制度を実施したこと…一般的にはこの制度はかなり問題含みの制度であると認識されているのだが…についてはクラインは肯定的な言及を何度か行っているが、ブリティッシュ・コロンビア州の非常に成功した炭素税については彼女は一言も言及していないという事実は、クラインの主張に含まれる謎を解きほぐす。ブリティッシュ・コロンビア州のサンシャイン・コーストにある彼女のカントリーハウスの近くで行われる鮭の母川回帰については数ページかけて描写しているというのに、当の州が気候変動に対峙するために最も重要な政策のイニシアチブを握っていることについて、クラインは何も書いていない。…カナダが全国レベルで実行すべき計画のテンプレートとして多くの支持を集めていることが明らかな政策について触れていないのは、かなり異常なことであるだろう。

炭素税についてと比べれば、炭素取り引きについてはクラインにも言いたいことが多少はあるようだ。とはいえ、欧州の排出量取引制度に対する標準的な批判を彼女も繰り返しているだけなのだが。この制度に対してクラインが行っている批判で「エコノミスト」誌に載っていないものはない。充分に構築されていない取引制度は二酸化炭素削減を実現できずに失敗してしまう、ということには誰もが同意している。実際、欧州の排出量取引制度が失敗したことは、キャップ・アンド・トレード制度よりも炭素税を支持する人がこれ程までに多くなったことの主な理由のうちの一つであるのだ。いずれにせよ、彼女は排出量取引制度についても充分に論じていないので、このトピックについてクラインがどんな考えを抱いているのかということを読者が確認することは不可能である。しかしながら、驚くべきことに、二酸化硫黄を削減するためにアメリカにて実施されたキャップ・アンド・トレード制度について本の後半で論じる際には、このアプローチは「機能した」[208]と彼女ははっきり認めているのだ。だが、そのことは即座に疑問を生じさせる。キャップ・アンド・トレード制度が二酸化硫黄に対しては機能したのなら、同じ制度が二酸化炭素に対しても機能するはずではないだろうか?

ということで、私たちは根本的な謎に立ち戻らされ続けることになる。適切にデザインされて適切に実施される炭素価格付けシステムの一体何が問題だというのか?

私が最終的に辿り着いた答えは、価格付けシステムは大半の人々が持っている道徳的直感に反するということであり、そしてクラインはその道徳的直感を物事に対して徹底的に当てはめているということだ。彼女は「汚染者支払い」の原則を熱心に支持しているのにもかかわらず、実際にはその原則が論理的に導き出す結論の一つを拒否している。つまり、もしあなたが支払うことを嫌だと思わなければ、あなたは汚染をしてもいいということだ。この結論は、ある行為が非道徳的であるとすれば非道徳的であることそれ自体がその行為を行なわないための充分な理由となる、という道徳的直感と相反する。あなたは非道徳的な行為を止めるためのインセンティブを他人に要求することはできないのであり、それどころか、非道徳的な行為を止めない場合にはあなたを処罰する権利を他の人たちは持っている…これが、私たちの道徳的直感が教えるところだ。たとえば、市場において奴隷に価格を付けたり税金を課しても奴隷という存在を無くすことはできなかったのであり[462-463]、奴隷制そのものを撤廃することしか方法はなかったのだ、とクラインは指摘する。環境規制についても彼女は同じ考えを抱いている。たとえば、彼女は以下のようなレトリック的な質問を読者に行っている。「なぜ私たちは自分たちの未来を危険に晒すなと企業に命じているのではなく、企業に賄賂を贈ったり甘い言葉で丸め込んだりしようとしているのだろうか?」[225]。つまり、根本的にはクラインが炭素価格付けに反対しているのは単に価格付けという考えそのものが道徳的に不愉快であるからだ、と私は推測する。彼女にとっては、それは子供を取り返すために誘拐犯に身代金を払うのと同じようなことに思えるのだ。

この点については彼女のみならず多くの人々が同じ直感から思考を始めている。しかし、その直感を解体する議論は広く知られたものであるし、それは環境経済学にとって最も基本的なことですらある。"撤廃主義"的なアプローチは、対象とする物質や習慣を完全に禁止することが可能でありまたそれらが完全に禁止されなければならない時にしか機能しない…それこそ、奴隷制のように。だが、二酸化炭素やメタンガスを放出することはそれ自体が本質的に有害なことではないのであり、ゼロになるまでそれらを削減したいと望んでいる人もいない。そして、完全に禁止することが可能であるものがある一方で(たとえば、石炭採鉱を禁止することは想像しやすいだろう)、そうではないものも数多く存在するのだ。コンクリートは世界における二酸化炭素排出の5%に責任があるから(コンクリートが硬化する際に起こる化学反応の副産物として二酸化炭素が発生するのだ)、このことについて検討してみよう。コンクリートを禁止したいと思っている人がいないことは明らかだ。…クラインですらコンクリートを禁止したいとは思っていないはずだ。何故なら、彼女は「ストローベール建築(訳注:わら俵などを用いた建築)」について情熱的に語っているのであり、そして一般的なストローベール建築には積み重ねた俵をセメントで固める工程が含まれているからだ。しかし泥はコンクリートと違って大気への外部性を生じさせないのだから、コンクリートの価格を上げて新しく建てるストローベール建築の住宅の壁にセメントを使うか泥を中心とした素材を使うかで迷っている人が後者を選択するように促すことこそが、私たちが行わなければならないことなのである。

別の言葉で言えば、温室効果ガスの排出に対して私たちが行うべきなのはそれを禁止することではなく、排出を抑制させること、それも強く抑制させることである。したがって、温室効果ガスに価格を付けたり既に付けられている価格を更に上げることこそが適切な政策であるのだ。このことは、こうやってわざわざ書くのが恥ずかしいくらいに基本的なことである。しかし、クラインはこんな基本的なことも理解していないと想定することが、私が彼女の主張を最終的に理解することのできる唯一の方法なのだ(汚染はどのような時に"禁止"されるべきでありどのような時に"価格付け"されるべきであるか、という問題について真剣に興味を抱いている読者たちには、ジョン・ブレイスウェイトの記事 “The Limits of Economism in Controlling Harmful Corporate Conduct” を読むことをお勧めする。私の授業でこの問題についてのディスカッションを行う時にいつも学生たちに宿題として読ませる記事でもある)。

さて、この記事もちょっと長くなり過ぎた(しかし、『すべてを変える物語』はとても分厚い本なのだ!)。まとめとして2点だけ書いておこう。

第一に、クラインと同様に私も気候危機は非常に深刻な問題であると考えているし、現状の様々な物事に対して変化を強いる問題であるとも考えている。気候危機は「自由市場至上主義」の説得力を過去最弱にしている。しかし、同時に、気候危機は「反市場-至上主義」の説得力も弱めたのだ。特に、企業の行動を変える手段として価格付けメカニズムを用いることを極端に嫌っていた左派の人々の多くが、考えを変えて価格メカニズムに対する嫌悪感を払拭せざるを得なくなった。価格付けメカニズムに反対する議論は道徳的なものだけであるとすれば…つまり、価格付けには問題を解決する可能性があるとしても、私たちの道徳的純粋さの基準を満たすような形では解決しないということであれば…それは問題の解決方法に対する反対意見としてはかなり弱いものだ。気候危機は充分に深刻な問題なのであり、大半の人々は解決方法の形に関わらずとにかく解決されることを望んでいるだろう、と私は推測する。いくつかの大企業が正しくない動機から正しい行為を行うことを容認するための取り決めを結ぶ、などの解決方法であったとしてもだ。

第二に、そして最後に、『すべてを変える物語』は一から十まで問題の"つながり"について書かれた本である。様々な種類の闘争のそれぞれに参加しているそれぞれの人々に対して、自分たちはみんな実は一つの同じ目的のために戦っているのである、と説得させるための本なのだ。そのこと自体には何も問題はない。それに、多くの場合には、様々な要求を記したリストを提示することには(そのリストが短いものではなく長いものであったとしても)何の問題もない。しかし、政策としての価値も疑わしく実際問題として実行不可能な政策の名の下に、実行可能であり有効な政策に対してあなたが反対をし始めるとすれば、それは、巨大な害を支持するものであるとあなた自身が批判している物事を実際にはあなた自身の手で引き起こすことになってしまうのだ。『ブランドなんか、いらない』にまで遡るクラインの一連の著作に対して私が批判を行い続けているのは、彼女が間違った方向にへと読者を活気付けて動かしていることにある。風車に向かって対決したドンキホーテのような一人相撲を自分が取っているという可能性についてクラインはもっと時間を割いて考えるべきだと私は常々思ってきたし、『すべてを変える物語』にもクラインに対する私の評価を変えるようなことは何も含まれていなかった。

 

 

訳注:『すべてを変える物語』の原題は This Changes Everything: Capitalism vs. The Climate。この本はまだ邦訳されていないが、本の内容に基づいたドキュメンタリーは日本語字幕付きで公開されている。このドキュメンタリーの邦題に従い、今回の翻訳記事内でも著作の邦題を『すべてを変える物語』にした。

ジョセフ・ヒース『パンクは死んでいない』(2016年3月21日)

Punk’s not dead…
Posted by Joseph Heath on March 21, 2016 | culture

反逆の神話」を書いたおかげで、音楽や文化についての意見を今でも求められることがあります。いつもは断りますが、イギリスの音楽ライターであるジェミリー・アレンが持ってきたアイデアに興味を引かれたので、この記事1 に対するインタビューを受けることにしました。

しかし、メールによるインタビューだったので、返事に大変な時間が掛かったうえに、恥ずかしながら大部分が没になりました。そこで、興味のある人向けにブログで全インタビューを掲載します。

問:『反逆の神話』の中で、カウンターカルチャーはシステムに対して脅威ではないと、あなたは主張しました。芸術は何も変えないのでしょうか?

共著者のアンドリュー・ポターと私がその本で議論したのは、60年代に発生しパンクの時代にも強烈な影響を持っていた政治的思想についてです。しかし、それは前世代の共産主義者が資本主義に反対したような革命的な力を持つには至りませんでした。資本主義は、教育システムや軍産複合体、教会、家族など、社会の全様相に影響を与えている、巨大な問題の顕著な特徴の1つと考えられています。

本当に革命的であるには、もっと社会の全体に対して反抗を行う必要がありました。さらに[カウンターカルチャーによって想定された既存の社会システムの]中心的な特徴は、秩序と規律の固定化にあると考えられていました。もし[既存の社会システムにおける]全体的な文化が、[社会の構成員に対して]抑圧的であるならば、無秩序かつアナーキーを称揚するカウンターカルチャーを形成することによってのみ『解放』が可能になると、当時は考えられていました。

この考えは左派にかなり大きな影響を与えました。その現象を私たちは本のなかで以下の様に書きました。「ジャズクラブで待ちぼうけをくらっているヒッピーが、投票者を得るように努めている公民権活動家や、憲法改正を訴えるフェミニストの政治家よりも、深遠な現代社会の批評家に見えるようになるのだ」と。

カウンターカルチャーによる社会分析は、残念ながら間違っていたことが分かりました。他に言いようがありません。カウンターカルチャーによる社会分析に従った考え方とは、ある種の規律を破壊できたなら――例えば、もし人々が性的抑圧を克服し自由恋愛を楽しむようになったり、単調で画一化された郊外の生活を拒絶し始めたならば、自由と個性による新時代の幕が開き、ひいては、人々は搾取的な組み立てラインで働いたり、帝国主義と闘うための徴兵を拒否するようになるかもしれない、といったものでした。言い換えれば、カウンターカルチャーは本当に『システム』を撹乱し破壊すると無邪気に信じられていたのです。しかしながら、[社会を構成している]『システム』は実際には順応性や性的抑圧を必要とはしていなかったのです。さらに、そのような思想に基づいた全ての『反逆』は、新しい資本主義の消費対象になりました。例えば、性革命はポルノ産業の黎明を促し、服飾会社はフランネルのスーツと同じように反抗の象徴とされる皮ジャケットを楽しげに売り出しています。カウンターカルチャーによる反逆は、自身が反対すると考えられていたシステムの一部になってしまったのです。

芸術は物事を変えないと言いたいのではありません。しかし、芸術は広告社会の基本的な性質を変えることはできないのです。芸術家はブルジョワ社会とその価値観を100年以上も非難してきました。けれども結果として、反ブルジョワ社会にとっての市場が、どれくらい深くて流動的な力を持っていたかを証明することにしかならなかったのです。

問:パンクは過大評価されていたのでしょうか?

私はパンクの美学について大した見識は持っていません。しかし、パンクムーブメントに巻き込まれた私たちは、自身がしていることの政治的な重要性を大きく見積もりすぎていました。60年代のカウンターカルチャーの失敗から学ばなかったことが問題です。

私たちは皆、ヒッピーを嫌っていました。私たちは基本的に彼らが変革に失敗し、消え去ったと考えていました。ヒッピーの反逆概念は、軟弱で甘ったるいものだった、つまりヒッピーカルチャーには尖った部分は全くないことが原因だと考えました。なので、私たちの解決策は、政治と音楽の両方におけるあらゆる面で、よりハードコアかつ妥協しないようにすることでした。

問題はカウンターカルチャーに対して、私たちが[ヒッピーと]同じアイデアを投入したことです。そのアイデアとはシステムを破壊するために、単に非順応的に振舞えばよいというものです。言い換えれば、パンクはヒッピーと同じ革命理論を持っていたのです。つまり、ヒッピーは上手くやれなかったが、私たちはもっと上手くやれば良いと、考えていたのです。

残念ながら、これはまるっきり見当違いでした。ある意味で、ヒッピーについて、そして60年代についても、十分に批判しきれていなかったのです。ヒッピーの反乱は単に失敗に終わったというだけでなく、ヒッピーの反乱に指針を与えていた思想の分析そのものからして、完全に間違っていたんです。

問:あなたはパンク自体のファンですか? 例えばどのようなバンドを、もしくはどのような音楽を好んでいますか? あなたを熱狂させるのはどんな音楽ですか?

私は若いときにかなりパンクに熱中していました。私は1967年に生まれたので、70年代の音楽に接するには少し若すぎました。しかし、80年代のパンクムーブメントに、どっぷりと熱中しました。カナダの西部で育ちましたが、カリフォルニアのバンドであるDead KennedysやThe Cramps、Circle Jerks、X、The Gun Clubなどに大変に興味を持ちました。1985年にはケベックに引越しましが、そこでは当時、Berurier Noirが巨大な存在感を持っていました。

私の嗜好は進化しましたが、望んだほどではなかったかもしれません。ただ商品を良く評価する方法は確かに学んだと言えます。しかし先日、ホワイト・ゾンビとメタリカ2 を車で流していたところ、娘に「年寄りの音楽」を切ってと頼まれました。私は今、自分が聴いている音楽は「年寄りの音楽」だと悟ったのです。

問:パンクに由来する態度が残っている可能性を認めないのですか? セックス・ピストルズがビル・グランディ事件3 で誓いを立てた場面を見た子供たちがそれ以来、真似をして、さらにその子供たちの子供たちが引き継いできました……。

パンクは『注目を集めるための公式』を完全に確立しました。その公式は今日のアーティストに巧みに引き継がれています。例えば、[メインストリームとされているものに対して]何か下品なことをし、[その下品な行為への]怒りの反応を待ってから、[我々は]保守勢力により迫害される政治的殉教者であると主張したり……と。この公式がいまだに有効であることに少し驚きます。

エミネム4 の曲である“My Dad’s Gone Crazy”と“Sing for the Moment”の歌詞を比べてみましょう。それらの全ての歌詞が本当に『政治的である』ことで論争する価値があるか、自分自身に問うてみましょう? エミネムはアイデンティティ効果を存分に使い、基本的にセックス・ピストルズによる詐欺行為とまったく同じ効果を狙った真似事を行いました。[今においても]彼が正面切ってそのようなことが実行できるという事実に驚かされます。つまり、彼の事例は唯一のものではなく、一種の公式のようなものになったことを示しているのです。ただ公式化したことで、大衆を驚かせることは、ますます難しくなっています。

問:あなたはカナダ出身です。パンクはイギリスのように『発生』しましたか? そしてカナダはアメリカに近く、あなたはアメリカ文化に興味があったそうですが、パンクはいつアメリカに影響を与えましたか? 90年代では大きかったと思いますが、グランジ5 のサブジャンルのようになったように見えましたが……。

確かに、西海岸のDOAやアルバータのSNFUがありました。より大きな計画を持っていたk.d.lang はそのシーンから出てきました。SCUMとAsexualsはモントリオールにおり、Skinny PuppyとVoivodのようなパンクに影響を受けたバンドもありました。バンクーバーのDIYシーン6 出身でNettwerk Recordsから世に出て、最も商業的にインパクトを持ち、世界に進出したのは、サラ・マクラクラン7 です。

問 当時大衆的な音楽だったボニーM8 やデビッド・ソウル9 が世界で聴かれているときに、歴史修正主義者はパンクはイギリスで77年に爆発的に発生したと言います。なぜこのように修正された話を疑問を持つことなしに、私たちは受け入れてしまうのでしょうか?

『オルタナティブ』や『アンダーグランド』と呼ばれる音楽の全体概念は、80年代での実際体験と一致させて理解しなければいけません。過去を振り返って考えると、それらの音楽は、ベビーブーマー世代の後に続いた世代の行動結果と、人口動態に従って音楽産業がどのように働いたのかという現象の相乗効果でした。一般的に人は20代前半で最も音楽を購入します。そして、[視聴年齢と]同年齢前後の人達によってポピュラー音楽は作られ、聞かれるのが通常の状態です。なので、今ならジャスティン・ビーバーやテイラー・スウィフト10 などのような若い世代によって[作られ、同世代に聴かれる事で]ポップの意味合いが定義付けられます。

私たちのようなジェネレーションX11 の場合は不思議な時代でした。私たちが10~20代のころはベビーブーマー世代の人口がとても多かったのです。なので[当時の音楽産業では私たち]若い人々に向けての売上より、ベビーブーマー世代に対する売上のほうが勝っていました。結果として、ラジオやレコードレーベル、レコード店には私達の両親に関わるような音楽、つまり主にスタジアムロックのようなもので占められていました。

[当時の]若者が同世代に向けて音楽を始める時、文字通り自分のレコードレーベルを開設し、独自の流通ネットワークを構築しなければなりませんでした。音楽産業は人口動態に従って、当時の若い世代には完全に興味がなかったからです。当時、アルバムを手に入れることさえも、貴重なツテが必要でした。もし大都市に住んでいなかったら、若者向けの商品は禁制品のように感じたはずです。

記憶の歪みがあります。それを私が初めて感じたのは、ジョン・キューザック12 (彼は私と同い年です)が演じる主人公が高校の同窓会に出席する映画、『ポイント・ブランク(原題は”Grosse Point Blank”)』を観たときです。私が80年代に聴いていたヴァイオレント・ファムズ13 のようなバンドの楽曲が、その映画では主要なサウンドトラックとして使用されていました。私は感銘を受けましたが、その映画は全体的に修正されていたのです。

80年代に実際にさかのぼると、学校のダンス現場は、レッド・ツェッペリンやイーグルス14 などで占有されていました。つまり、ヴァイオレント・ファムズは当時の高校では、私を含めて2~3人しか聴いてないような深刻なまでの『アンダーグランド』な音楽だったのです。クラッシュ15 でさえも異端な趣味でした。

しかしながら、ジェネレーションXの当世代よって作られた音楽だったので、ヴァイオレント・ファムズやクラッシュは時代を定義するような音楽になりました。ほとんどの人々が実際に若いときに聴いていなかったような音楽が、私たち世代を代表する音楽になるという奇妙な状況に至っています。

あなたの質問に答えると、[当時の私たち世代の]人々はボニーMをやはり聴いていたのでしょう、あなたの界隈ではブラック・サバス16 かもしれませんが。しかしながら当時を振り返ると、アンダーグランドなミュージック・シーンはやはりアンダーグランドでしかありませんでした。ラジオやレコード店では全く存在感がなかったのです。

このことはもちろん、本当に破壊的で革命的なものに関与しているという感情を、私たちに引き起こさせました。音楽業界がパンクのレコードを売りたくないという事実と、ラジオ局がパンクを流さないという事実は、私たちが社会システムに対する、なんらかの脅威である違いないと、感じさせたのです。今では、それはただの幻想だったことが分かってます。実際には音楽産業による経済活動の結果に過ぎなかったのです。

ひとたび人口動態が変わったことで、音楽産業は若者に向けて音楽を再び販売し始めるのを、あなたも見ましたよね。それはあなたが『グランジ』と呼ばれる現象に遭遇した時です。その音楽は新しいものではありませんでした。グランジの音自体は、子供たちが10年以上も聴いてきたものでした。ちなみに私たちはそれを『ハードコア』と呼んでいました。突然、その市場が大きくなったので、メジャーレーベルが関心を持ち始めただけですが。

問:ジョニー・ロットン17 のパンク哲学はかなり実存的でした。パンクとは全てに疑問を投げかけるということだ、と彼は言いました。これが、他のどのセックス・ピストルズの模倣よりも、彼にパブリック・イメージ・リミテッドを続けさせている理由ではないでしょうか。ほとんどの人々にとってのパンクとは、同じ服を着て、人々を挑発しつつスリーコードを早く演奏することに順応する事なのでしょうか?

パンクは明確に反乱であり、[当初はなんらかのスタイルへの]順応ではありませんでした。『反逆の神話』で、私たちが示そうとしたことがあります。それは、反乱の発生が競争・示威状態を生み出し、その競争・示威状態の間接的な結果が、どのような順応性に至ったのか、ということです。反乱に関わることはとても格好良く、反乱者に社会的な地位を与えます。結果として、反乱はたくさんの模倣者を惹きつける事になりました。

インストリームの社会に対して、カウンターカルチャーによる分析を行えば、基本的に大衆は洗脳された羊の群れということになります。誰もがそんな群れのなかに留まりたいとは思わないでしょう? あなたは、洗脳された群れの一頭ではないことを、どうやって自己表現しますかね? あなたは自分が他者と違うことを顕示するために、反乱を起こさねばならないでしょう。不幸なことに、皆が反乱に走ると、揃っての自滅に至ります。

つまり、本当の反乱を実践するには、常に変わり続け、常に他人からは安易に定義されない新しい道を探さなければなりません。なぜなら『エッジ』と呼ばれているものは、すぐ『見慣れた』とか『主流な』とか言われるようになるからです。これこそ、反抗的なサブカルチャーが常に創造性を持ち、たくさんの洗練された発見を産み出してきた理由の一つでもあります。クールであり続けたい、皆より抜きん出ていたいという、競争・示威状態に駆り立てる姿勢への熱情を、人は持っているからなのです。

話を戻すと、私たちは、この競争・示威状態を求める姿勢を、調和・包括的な意思を拒絶する悪意のある『考え方・姿勢』の源泉だと考えてしまっています。私たちはこういった『考え方・姿勢』に全く関係していないと思っていますが、私たち自身は皆、これを行っているのです。

問:DIY音楽18 の平等性の原則は大変に素晴らしいものです。[DIY音楽による]ちょっとした工夫や改良の積み重ねが、平凡なものを上回る素晴らしい芸術に昇華すると思いませんか?

DIYとは『自営業』の単なる言い換えに過ぎませんよ。楽器の演奏方法を学ぶためのDIYは良い方法ではないでしょう。しかし、作曲し配信する方法については非常に良い方法なのかもしれません。

問:私の意見では、今やDIY音楽はインターネット上で光よりも速く生み出されています。インターネットは恒常的に社会制度や人的資本を変えるのでしょうか?

いいえ、ネットは[社会への]不順応性や文化的反乱を起こすことによって、人的資本を変える力を持っていないのは明白です。ネットにおいて、本物の『オルタナティブ』や『アンダーグランド』なミュージックシーンを維持することは、基本的に難しいのです。なぜなら、誰かがビデオをYoutubeに投稿したり、音楽をSoundcloudに投稿したりすることは、全世界に受容される事を可能にしています。それは結果として、『オルタナティブ』と『メインストリーム』との間にリアルな緊張感作り出し、それを幻想として保つことを不可能にしてしまっているのです。言い換えるなら、『オルタナティブ』が『メインストリーム』に取って代わるかもしれない、というような種類の脅威の醸成ができなくなっていることになります。

私が若いときには、本当に覇権的な大衆文化を担っていたテレビはたった3つの局しかなく、ラジオは5つくらいの局しかなかったのです。これらの事実から、『システム』がなんらかの社会秩序の命令によって動いている、と思い込むのはクレイジーではありませんでした。なのでテレビやラジオを断つことによって、何か破壊的なことをしているようにも感じたでしょう。

今日の若者にとって、『システム』が、覇権的な大衆文化や順応性を要求していないことは明らかです。今日の市場を経験している人々は、何一つとして順応性を強要されていません。ヘンリー・フォード19 の時代、彼は「どんな色の車でさえも手に入る、黒色でさえ」という言葉を残しましたが、技術の発展によってその言葉すら時代遅れになっているのです。若者は、個人に向けて特化し希少化されたものとして市場を扱うことに慣れきっています。[システムへの]不順応性によって資本主義を破壊できるかもしれない、という考え方は、無意味なものとして棄却されているでしょう。30年前にはそう見えたかも知れませんが……

問:パンクは今や、単なる遺物産業、つまり過去の栄光の卑屈なシュミラークル20 のリサイクルになっているのでしょうか?

もし、Sum 41やグリーン・デイ21 を指しているのならば、その種のパンクはジャンル音楽です。しかし、彼らは特に貶めるべき存在であるようには見えませんね。

問:ヒップホップは新しいパンクだと言えますか?

いくつかの点ではそうです。ヒップホップの『リアルであり続ける(”keepin’ in real”)』という概念や『ギャングスタ』は、パンクに見られるような反乱を連想させます。一方で、ヒップホップは熱狂的に資本主義や消費主義を、常に受け入れてきました。政治的文脈では、アフリカ系アメリカ人(彼らを同一視している国際的な層も含めて)の不満に極端に焦点をあてています。なので単なるパンクの繰り返しではありません。ひるがって、パンクの実態は、私たちが60年代に見たもの[ヒッピーカルチャーの事]と同じものの、別バージョンでしかありませんでした…。

問:パンクはジェネレーションXの遺産ですか? あくまで世代の事であり、バンドの事ではないですが…。

『オルタナティブ』音楽の全体的な概念はジェネレーションXの遺産です。私が90年代にトロントに引っ越したとき、『オルタナティブ』音楽のラジオ局がありました。もちろん、それは語義矛盾です。なぜなら、『オルタナティブ』の包括的な概念とは、ラジオでは流されない音楽というものでしたから。もっとも、そんな概念は、80年代以降に生まれ、自身の世代によって作られた音楽に常に接する世代にとっては無意味な概念でしょう。

私の世代は本当に奇妙な時期に育ったことを理解することが重要なのです。ベビーブーマー世代の人口動態はかなり極端でした。そうたしかに、パンクは明らかにジェネレーションXの遺産です。しかし、こうとも言えます。その世代による経験から引き出される独特な特徴を表現する音楽でもある……と。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。
※訳注:本エントリは、氏が全訳し、WARE_bluefieldが代理で投稿している。なお、☆氏の許可の元、書体等の一部文章を訂正している。バンド名等、ポップカルチャーの訳注もほぼ全面的に☆氏によるものである。☆氏によると「本文中において重要性の低いバンドの注は省略している」とのことである。
※訳注:「問:」に続く斜めフォントの文章は、ヒースにインタビューしたジェミリー・アレンの問いである。
※訳注:”nonconformity”には『不順応』『不順応性』と訳語を当てている。体制等に対する、『不適合』や『不服従』を意味するカウンターカルチャーで一般的に使われる単語である。対義語の”conformity”は『順応』と訳している。
※訳注:”Rebel”、”Rebellion”には、文脈に応じて『反逆』『反抗』『反乱』を使い分けている。

  1. 訳注:音楽ライターのジェミリー・アレンによる「パンクはゴミだ。パンクは何も変えなかった」という記事を指す。 []
  2. 訳注:共にアメリカの有名なヘヴィメタルバンドで、80~90年代に活躍。 []
  3. 訳注:1976年にイギリスの家庭向けテレビ番組に、クイーンの代役として出演したセックス・ピストルズが、司会者に向かって暴言を吐いた事件。Youtubeで当時の動画を見ることが可能。 []
  4. 訳注:アメリカの有名な白人ラッパーで、主に2000年代に活躍。 []
  5. 訳注:アメリカで90年代に発生した音楽、代表的なバンドにニルヴァーナなど。 []
  6. 訳注:DIYは、”Do It Yourself”「自分でやる」の略で、一般的に日曜大工のような専門業者に頼らないで個人で行うモノ作りを意味する。この意味から転じて、インディーズ等の自主制作音楽全般を『DIY音楽』と呼ぶ事がある []
  7. 訳注:カナダのシンガーソングライターで、4000万枚アルバムセールスを誇る。 []
  8. 訳注:70~80年代に活躍したドイツのディスコバンド。 []
  9. 訳注:1943年アメリカ生まれの俳優兼ポップソングの歌手。 []
  10. 訳注:カナダやアメリカのポピュラー音楽の歌手で、2010年代に活躍している。 []
  11. 訳注:カナダの現代文学作家クープランドによる造語で、60~70年代に生まれた世代を指す。日本で言うところの新人類。 []
  12. 訳注:1966年生まれのアメリカの俳優。『セイ・エニシング』『ハイ・フィデリティ』のような音楽を題材にした青春映画への出演が多い。 []
  13. 訳注:主に80年代に活動したアメリカのフォークパンク・バンド。 []
  14. 訳注:共に有名な欧米のロックバンドで、主に60~70年代に活躍。 []
  15. 訳注:76-86年に活動したイギリスのパンクロック・バンド。80年代には北米でも大規模に受容されている。 []
  16. 訳注:68年から活動するイギリスのハードロック・バンド。 []
  17. 訳注:セックス・ピストルズのボーカルで、後にパブリック・イメージ・リミテッドを結成した。 []
  18. 訳注:上でも説明したが、宅録や自主制作等の音楽活動の事 []
  19. 訳注:自動車会社であるフォード・モーターの創業者。車のベルトコンベア式の大量生産技術を確立したことで有名。 []
  20. 訳注:フランス語で『模造品』のこと []
  21. 訳注:共に欧米で90年代から活躍しているハードロック・バンド。 []

ジョセフ・ヒース『反リベラリズムの解剖学』(2017年02月19日)

The anatomy of anti-liberalism
Posted by Joseph Heath on February 19, 2017 | Canada, multiculturalism

protest-masjid-toronto

金曜日(17日)、カナダ市民は、醜悪な見世物に直面させられた。トロントにあるモスクのすぐ外で、ムスリム系移民の停止と、カナダにおけるイスラム教の禁止を訴える抗議活動が行われたのだ。報道によると、抗議活動の参加者は、総計でわずか15人だったようだ。なので、わざわざ騒ぎ立てることではない。しかしながら、この件が、103号動議1 に関してウソを付き続けている、あるいは馬鹿騒ぎを続けている、カナダ保守党の構成員全員に、自制を促す事にはなるべきだろう。

この件にこれ以上言及する必要は感じないが、CBCラジオによる、抗議活動の参加者の1人である、女性へのインタビュー(オンラインでは聞けないようだ2 )は、グレートですよこいつはァ、という感じであった。多くの人が、党派性に縛られないリベラル3 な社会認識を共用している、との今日の一般的見解がある。この見解は、まったく実情にそぐわない事を、私は多くの事例から知っている。ただそれにしても、反リベラル的見解が、ここまで簡潔で要を得て意思表示されているのを、見聞きできることは滅多にない。インタビュアーが、女性に「あなた方の抗議活動と、シナゴーグ4 前で反ユダヤ主義の抗議活動を行っている人との、違いは何ですか?」と根源的な問いを行っている。女性の返答は、おおよそになるが「ユダヤ主義は邪悪じゃないが、イスラムは邪悪」だった。

完璧な返答だ。彼女らはもはや信教の自由すら認めていない。単純に宗教をひとつづつ見比べた後に、『善』と『邪悪』を判別し、『善』だけを認めよう、というわけである。誰か、ケリー・レイッチ5 に教えてやるべきだ。 移民を『選別』する、よりよい方法として『善』なる人と『邪悪』なる人を単純に分けた上で、『善』なる人だけを残すのである。邪悪に仕える人を除けば、この選別政策に反対する人なんていないだろう?

この件は、人は本当に『リベラリズム』をどの程度受け入れているか、どの程度自分のものにしているかどうか、を測定する良いテストとして出題されている。[反イスラームの]抗議者達の主張を聞いた時の、あなたの率直な反応が「馬鹿馬鹿しい。イスラム教は邪悪じゃない」のようなパターンだったら、あなたはインタビューに答えていた女性とだいたい同じくらいリベラルだ。もし反応が「馬鹿馬鹿しい。個人の自由に関する問題群が、『善悪』かどうかだけの皮相的な判定に収まるわけがないだろう」のようなパターンだったら、主流派エリートの見解へようこそ!

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:去年のカナダでのモスク襲撃事件を受けて与党・自由党の議員によって提出された、人種・宗教差別を批判する国会動議。カナダ保守党は、言論の自由の見地等を理由にこの動議に反対している。このブログ記事で詳しい日本語による解説を読むことができる。 []
  2. 訳注:現時点では、CBCの報道記事でインタビュー動画を見ることが可能。 []
  3. 訳注:ここでのリベラルは、「他者への寛容」といった意味で使われていると思われる。 []
  4. 訳注:ユダヤ教の教会。正式には『会堂』と呼ばれる []
  5. 訳注:「『反カナダ的価値観』を持った移民を排斥すべきである」と唱えている、去年、ヒースが批判した、カナダ保守党の政治家。 []

ジョセフ・ヒース『Brexitに見る、イギリス断絶の諸相』(2016年06月24日)

Intergenerational dimension of Brexit
Posted by Joseph Heath on June 24, 2016 | elections, political philosophy

昨日、イギリスは、国民投票で、EUからの離脱を決定した。この投票の際立った特徴の1つが、決定的なまでの世代間の断絶である。若い人達は、EUへの残留に強く賛成していた。(ここの図表で、投票の内訳を見ることができる。図表によると、55歳以上の年齢層のみがEUからの離脱に賛成票を多く投じている。一方で、別の世論調査によると、18~24歳では75%が、EU残留に票を投じている)。年齢によってこの件への関心の示し方が、明快に断絶している。イギリスは、EUからの移民を受け入れる代償として、自国市民が、他のEU加盟国で、居住し、働く権利を得ている。この権利による便益は、年配の人より、若い人に大きいメリットとなっているだろう。([Brexit後の]事実として、[イギリスの]年金を受給している年配の人は、ヨーロッパの住みたい場所ならどこであれ、住み続けることができる。[年金受給の]カナダ人が、フロリダで生活するのと同じように。一方で、若い人は、[EU加盟国で自由に]働けなくなることで、移動が制限されていると、感じるようになるだろう)。

公平さにおける重要な議論が起こっていると、人によっては感じているかもしれない。年配のイギリス人は、自身の若い頃のイングランドを維持する為に、結果的にであるが、投票を行ってきた。この年配者の投票行動は、イングランドで生活せねばならない将来世代への、無関心さを事実上表明してしまっている。([この年配者の投票行動は]イングランド(とウェールズ)が、強く意思表示を示してきたことと同義でもある。Brexitは結果的に、スコットランドの独立と、アイルランドの統合及び北アイルランドの[英連邦からの]分離を強く促す事にもなる1 )。もうすぐいなくなる高齢者が、結果的であれ、[投票で]強い存在感を示しているように感じられる事は、[投票による]発言権の平等の在り方として正しいのだろうか?

フィリップ・ヴァン・パレースによる、論文『高齢者の投票権剥奪、及び世代間の公平性確保への代替の諸提案』は非常に価値がある論文だ。この件[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]に関して、彼は問題提起を行っている。彼が喚起している論点は、深刻に捉えられるべきであるのに、あまり関心を払われていないように、私には感じられる。もちろん、高齢者の投票権剥奪のアイデアを、そのまま検討するのは、あまりに非現実的だ。しかしながら、高齢者の投票による権力行使を減じさせる方法は、いくつか存在する。このいくつかの方法を取ることで、投票権剥奪を行わずに、[高齢者の強くなりすぎた投票による権力行使]を止めることが可能だ。ヴァン・パレースが検討している中で、一つの魅力的な提案が、子供も含む全年齢への選挙権の付与である。もちろん、[選挙権を与えられた]未成年者は、18歳になるまでは、両親や保護者が代理で投票権を行使することになるだろう。この提案が実現すると、幼い子供を持つ親は、1票以上の投票数を得ることになる。

この提案を政策として実施するのは、私には実現可能なものに思えるし、政策理念への反論は今のところ見聞きしていない。イギリスにおいて選挙制度の改革について論じるのなら、この提案を検討してみてはどうだろうか?

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

  1. 訳注:イングランドの全投票者に占めるイングランドとウェールズの割合は非常に大きく、これら2地域はEU離脱への賛成票が多かった。逆に、スコットランドと北アイルランドはEUへの残留を望む投票結果を示している。スコットランドと北アイルランドの主要産業である農業はEUとの経済的繋がりが、非常に強い。 []

新しいパートーナーのおしらせ

すでに記事の配信は始まっているのでご存じの方も多いとは思いますが、この度、新たに3人のパートーナーが加わりましたのでお知らせいたします。Jonathan Haidt、Joseph Heath、Peter Singerの3人です。

引き続き経済学101への皆さまのご支援をよろしくお願いいたします!→寄付はこちら

Jonathan Haidt (Heterox Academy)

社会心理学者。ニューヨーク大学スターンビジネススクール教授。道徳の心理学を専門とする。異なる文化における道徳と感情について研究すると同時にポジティブ心理学の研究者でもある。ポジティブ心理学とは、人々のより良い意味ある生活を求める心理を前提として、社会を前進させる要因について科学的な研究を行う分野である。スターンでは経済学者を始めとする社会科学者と共同で、いかにして倫理システム設計によって様々な社会システムがより効率的かつ倫理的に機能するかという研究を行っている。

Joseph Heath (In Due Course)

トロント大学哲学教授。哲学部および公共政策学部で教鞭をとる。批判理論 (critical social theory) を軸に商道徳(あるいは商業倫理、企業倫理)や合理的選択など関心領域は多岐にわたる。

Peter Singer

プリンストン大学哲学・倫理学教授。専門は功利主義に立脚した応用倫理学。著書『動物の解放』が有名。タイム誌に「世界の最も影響力のある100人」に選ばれた。

ジョセフ・ヒース『トランプはいかに狂っているか その1(続くだろう…)』(2017年1月26日)

How Crazy is Trump? Part 1 (and counting…)
Posted by Joseph Heath on January 26, 2017 | economy, politics, Uncategorized
昨日、アンドリュー・コインは以下のように書いた

国家が、貿易赤字や貿易黒字を抱えていようとも、それは国の厚生にはわずかしか違いをもたらさない。これは一般常識であり、もちろん個別の国にも適応される。このように[貿易収支を過大視]して考えてしまうのは、ほんの初歩的な誤りなのだ…。

トランプと(その仲間達)は、国家間の貿易の目的は黒字を出す事にある、との考えをどこで仕入れてきたのだろう? おそらく、実業家であるが故に、仕入れてきたのだろう。トランプは、国の貿易収支と、企業の損得の計算を同一視しているのだ。よりありえるのが、会計と経済学を取り間違えている可能性である。経済学部の初年度生は皆、国民所得は、消費と投資と国家支出に、輸出と輸入の差額(すなわち貿易収支)を、総計した物であるという事を、教わっている。

初歩的な経済学理解にツッコむのは、滅多に報われないので、慈悲深くあろうとはしてるが…。

今日の午後になるが、メキシコとの国境に建設する壁の建設費用を、メキシコに払わせる為に、メキシコからの輸入品に20%の関税を課すことになるかもしれないと、トランプの大統領報道官が告知した。以上告知は、コインの2つの説、つまり『初歩的な誤り』か『会計と経済学のとり間違い』のどちらが当たっているだろう? 私の考えは、『初歩的な誤り』である。

多くの経済学者が疑うことなく鋭く指摘しているように、壁の建設費として、メキシコからの輸入品に関税を課すことは、アメリカ人が払う事に他ならない。以上は、常識なのだが…。

※※訳注
訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

ジョセフ・ヒース『とある保守政治家の自国第一主義』(2016年11月11日)

Kellie Leitch on Anti-Canadian Values
Posted by Joseph Heath on November 11, 2016 | Canada, multiculturalism, politic

ケリー・レイッチは、私の選挙区選出の国会議員でカナダ保守党の党首候補でもある。彼女は、先日、カナダへの移民希望者に対して、『反カナダ的価値観』の持ち主であるかどうかの『選別』を行うことを提唱した。この提唱への反応を観察することは、今を持ってしても興味深い。多くの人達がこの提唱に激しい怒りを表明している。しかし、怒りを表明した人のほとんどは、彼女の提唱が間違えているとハッキリ言明するのに苦慮もしている。

もちろん、レイッチ提唱の選別は、現実の運用面に関しては、完全な反論が可能だ。選別を実際に行うには、移民の価値観を、直接問いただす事になり、これは非現実的だ。よって、『反カナダ的価値観』を保持していると疑いのある特定の国から来た特定の集団や人達(ニカブ1 を着用しているような女性)への選別処置が、唯一の方法になるだろう。ここで、もしなんらかの言質を取らせるような質問――例えば「あなたは男女は平等であるべきだと信じていますか?」――を行ったとしよう。すると結局のところ移民達は互いに相談することで、即座の『正しい答え』を返すようになるだろう。なので、本当の唯一の方法、外見上の特徴に基いて疑わしい『反カナダ的価値観』を抱えていると思われる個人を締め出す処置に至るだろう。

現実の運用面での反論はひとまず置いてけば、レイッチ提唱の選別に対して、筋が通った反論を、あまり見ることができていない。移民が『反カナダ的価値観』を持っているかもしれないと、わずかでも示唆することは、単に移民に汚名を着せる事であり、差別的でもあると、多くの人は考えているようだ。以上のように考えてしまうことは、罪深いまでにナイーブな考えだ。世界中の多様な国々の、同性愛、性的平等、人種差別、親の権威、子供への体罰、動物の扱い方、その他これらに類する多くの件での公的態度を参照してみれば、世界中の多数の人々の『価値観』が、カナダの多数派の『価値観』と著しく異なっていることは明白だ。おまけに、ほとんどの移民は、経済的機会を求めてカナダに来ており、出身国の社会的価値観から逃れてきたわけではない。なので、移民らの持っている価値観は、出身国の一般的な価値観を反映したものになるだろう。結果として、やってきた移民の多様な価値観は、カナダ人が一般的に同調している価値観から、深く外れたものになっている。一つの事例を挙げるなら、パキスタンからカナダへのムスリム系移民の52%が、同性愛は社会的に許容すべきでないと考えている。一方で総カナダ人では14%しか同じように考えていない。この数字は特に驚くべきものではない、なぜなら同性愛はパキスタンでは、違法であると共に、深い禁忌だからだ。

他の事例についても考えてみよう。多様な移民コミュニティでは、子供への体罰のような事例でも、深刻な不安事を孕ませている。カナダ国外では、多くの人々が子供をぶっているし、それが普通だと考えられている。子育て時には、子供をぶつのは必須の習慣であるとさえ考えられてもいる。カナダに来た移民達は、カナダにおいて子供をぶつことは違法であり、もし子供をぶった事が見つかれば、子供は取り上げられる可能性があると2 、コミュニティの仲間から教えられる事になる。こういった事態はまるでカナダ政府が、『タイムアウト3 』の適切な使用方法や、「テレビ・タブレットは○○時間まで」といったモニターから子供を遠ざけるルール等々の、体罰に代わるしつけ技術を移民達に講習することを怠っているようでもある。さらには、現行法には、非常などっちつかずな要素が残されている。カナダにおいて子供をぶつ事が悪いという考え方は、相当に最近のイノベーションであるからだ。(私が小学生の頃は、まだ教師達は、受け持ちの生徒達を殴る事が許容されていた。ただそれは、当時においても、公的な学校規則ではなかった。既に父の世代の習慣だった)。多くの移民が、こっそりと自身の子供達をぶち続けている。以上が意味するのは、移民達は、子供をぶっている事が見つかることは恐れてはいるのだ。(余談だが、多くの生まれつきのカナダ人も、同じようにこっそりとぶっている)。移民達の多くは、このような[子供をぶつ事が悪い]習慣に強く反発しており、自身の子供にこの習慣を適用しようとはまったくしていない。その一方で、移民達は、誰かがこの件で、児童福祉を呼ぶ事を恐れてもいる。以上指摘の状況を検討してみれば、この状況はちょっとした窮地にある。多くの移民達は、自身の信仰や慣習はカナダ社会において広く共有されていないことを知っている。ただ移民達は、[カナダ社会に]順応するためにはどのくらい、[カナダ社会において求められる慣習を]受け入れなければならないかに、ハッキリとした基準を持ってもいないのだ。そしてまた、移民達は、少数派であるとの汚名を着せられる事や、カナダの文化に対して無配慮あると表明してしまう事を恐れてもいる。我々カナダ社会の価値観・規範・期待における相互理解は、非常に恐ろしい状況に至っている[訳注:移民に行っている政策が結果的に強圧的なものと黙認の曖昧な同居になってしまっている事を指摘していると思われる]。なんにせよ、カナダに来た移民達に、強い反カナダ的価値観の持ち主が、いるかいないかについて、議論するのことは無意味だ。(余談だが、去年、セリーヌ・ディオンが、ビーバー・マガジンの『最悪のカナダ人』コンテストで優勝した4 時には、私としては「マジかよ!?」と思ったし、「Khadarファミリー5 はどうなってる? 少なくとも両親はどうなの?」とツッコんだ事を思い出した。なんというか、セリーヌ・ディオンらは『悪人』じゃないかもしれないけど、彼女らが『悪いカナダ人』であるとされてるのは、皆が認めているのである)。

以上までの議論をふまえれば「レイッチの提唱を拒否する」とは、どういう事なのだろうか? 一つ目の反論は、生来のカナダ人の多くが『反カナダ的価値観』を保持しており、我々はこれを黙認していることだ。移民にだけ、価値観のリトマス試験的なテストを押し付ける事は、平等に反する事になる。例えば、「同性愛者を認めるか」でリトマステストを行うとしよう、するとカナダの保守的なキリスト教徒の非常に多くの構成員を、『反カナダ的価値観』を持つと分類する事になる。この事は、レイッチが熱心やろうとしている『選別』に抗するのを難しくさせるだろう。さらに別の事例だと、カナダでは、前世紀から数十年間もモルモン教徒の一夫多妻制を黙認してきた。(モルモン教徒が一般市民に迷惑をかけなかったり、[結婚対象の]少女があまりに若くない限りは、今に至ってもモルモン教徒の一夫多妻制を黙認している)。移民達の多くは、一夫多妻制が合法で、一般的に習慣化している国(例えばパキスタン)から来ている。だから、レイッチが一夫多妻制を野蛮な慣習と提唱し、カナダの多数派が賛成したしたとしたしよう。するとカナダにおいて、既に少数の人達が行っている一夫多妻制が、完全に許容されている、という厳然たる事実が残ることになるだろう。つまりパキスタンからの移民が、カナダでは一夫多妻制が違法であると理解し、カナダの法に従うという配慮を行う限りにおいては、[以前からカナダに住む]我々は、移民達の価値観について不平を言う事ができなくなるのだ。移民達が、カナダの法を変えるような政治活動を行うような出来事に至っても、我々は当然不平を言うことができない。既にカナダには、活発な一夫多妻制合法運動が存在しているのだ。もちろんこの運動は、政府によって大目に見られている。(私がこの運動を知ってるのはなぜかと言うと、運動の活動家達が、10年以上前に、メーリングリストを送りつけてきたからだ。私は未だに彼らのニュースレターを受け取り続けてもいる)。つまるところ、政府は法を執行しても、市民へ価値観までは課すことはできないのだ。

以上の件とは全く別の事例も挙げる事ができる。私はかつて、友人の1人(ウクライナからの移民者)が、自宅の池で、飼い猫を乱雑に溺死させているのを目撃した。彼は、無造作に、猫達をズタ袋に放り込んで、大きな岩に叩きつけた後に、水中に投げ入れていた。どうやら、ウクライナでは、余剰の猫の処理を、このように行っているようだった。このウクライナ出身の友人は、かつてソ連赤軍に所属しており――たしか”Hard Man”と呼ばれていた――ので、日常的にこの行為行っているのかについて、尋ねるのは躊躇してしまった。ただ強く指摘しておきたいのが、カナダにおいて一般的に、子猫を溺死させるような事を行えば、少なからずの面倒事に陥る。一方で、今においても、多くのカナダ人農夫が、全く同じ方法で余剰の猫を間引いている。通常は、カナダ人農夫の猫の間引きは、移民の件と関連しないだろう。しかし、[移民の価値観を問題視した場合には]問題が生じることになる。近年のカナダ社会では動物倫理についての議論が深刻になり、腫れぼったい問題意識に至っているが、世界のほとんどの人達はこの問題意識を共有していない。なので、移民達は、[例えばこの動物倫理については]反カナダ的価値観を保持したまま、この地にやって来る事になる。(例えば、「[野生の]アライグマを殺してはいけません」といったルールは、トロントへの移民のほとんどには、狂ったルールに見えるだろう)。移民達は、生来のカナダ人が持つ、平均的な意見や考えという観点で比較すれば、非常に強い反カナダ的な考えや意見を保持している。しかしながら、移民達は、『生来の全てのカナダ人が持つ考えや意見』から、完全に外れてしまっているわけではないのだ。リベラルな社会を念頭に置いた時、平均的な意見や考えこそが、正しい意見や考えである、と推定してしまうような思想は、ありえない思想だ。そう、だからこそ、特定の意見や考えに関して、国家が価値判断を示す時には、全領域を見渡した上で、中立性を極端なまでに維持することを試みるのである。

この争論における主要問題は、カナダの移民制度が、カナダ政府が自国市民を扱う際には行えないような方法でもって、[移民達]を既に選別してしまっている事にある。事例を挙げるに、カナダ政府は、一般市民が大学で選択した学習分野に基いて、市民達を区分化して扱うことは、許されていない。しかし移民制度は、そういった区分化(特定の特徴に基いて移民達に様々なポイントを付与すること)を行っている。カナダ政府は、様々な方法でもって、自国民を平等に扱わねばならないという原則に従っている。しかし、非自国民を扱う際にには、そういった原則に強いられていないのだ。今や、一般の人達は、考えているかもしれない、包括的ポイント制度6 は、不平等で違法だと。しかし、ポイント制度が不平等で違法だと認めてしまうと、レイッチは自身の提唱する『選別』は、ポイント制度の不平等さや違法性を、[カナダ国民に利するように]拡張しているだけだ、主張する事になるだろう。我々[カナダ政府]は、言語能力に応じて移民達にポイントを与えている、こういった処置は、移民達をカナダ社会に融和をさせることに、役立っているだろう。なら言語能力以外の、人格的な特徴にも、ポイントを与えるようにすればどうだろうか? 結果的に移民達が、より容易に融和する事を可能にしないだろうか?(この提案は、『人格的適応性』という評価カテゴリーを、復活させる処置になるだろう。2002年まではポイント制度に含まれていた要素だ)。

よって、レイッチの提唱の、移民への『反カナダ的価値観』を選別する必要性への、適切な反応は、(我が信念においても)断固拒否である。なぜなら、家庭的背景がどんなであれ、1世代か2世代を経た時の、移民達と融和する我々の能力は、十分に頑健だからだ。つまりは、[移民も含めた]我々が、英語(やフランス語)で話して意思疎通できる事は、同じく我々が『カナダ的価値観』を、十全に使いこなせている事も意味しているのだ。この件で、我々は、第一世代の移民達[が英語やフランス語を使えない事]について、過剰に心配しなくて良いだろう。なぜなら、移民の子孫達が、訛のないカナダ英語(やフランス語)を話すと予想しているからだ。結局、我々は、移民達が、正統なカナダの保守的価値観を保持することになるであろうとも、予測しているのだ。パキスタン移民は、[リベラルで世俗的なムスリム思想の提唱者である]Irahsad Manjiような、滑稽なまでにカナダ的な価値観の、若い女性を持つに至った。彼女の主たる不満は、イスラームはヒッピーの集団のように運営されていない事や、[イスラームの僧侶である]イマームは信じるべき教義をしつこく言ってくる事のようだ。彼女のようなレズビアンにとって、イスラームやイマームは、まったくクールじゃないのだろう。トロントでは四六時中このような事例を見つけることができる。私が受け持った最後に教室でヒジャブ7 を着ていた生徒は、自称リバタリアンで、保守党の活動員であり、それをガサツに公言していた。彼女の父親が持っていた価値観は何であれ、娘に自身の価値観を継承する事には、著しく失敗していたと思われる。荒っぽく議論をまとめると、我々が、カナダ社会に、移民達を良好に融和する事を維持できている限りにおいては、移民に対する『選別』は必要ないのだ。

さて、もうひとつ小話を。昨年になるが、北アフリカからイタリアに船路で向かっていた、多くのナイジェリア人密航者達がいた。過積載のボートで航行中に、険悪な状況となり、口論が発生した。そして、ボート内のムスリムの渡航者達が、キリスト教徒の渡航者達全員を荷重とし、ボート外に投げ捨てる事態に至った(12人が殺害された)。この事件は今では、最悪な出来事の積み重なった物だとされている。しかし、最も明白な事実の一つは、これら密航移民達が、イタリアへ向かっていた事だ。イタリア社会の融和の試みは、移民に対してはまったく用意されていないという、社会通念がある。そして、この社会通念は、移民達がキリスト教徒に殺意を持っているなら、イタリアは移民が住むのには最適な場所ではない事を、示してしまっているかもしれない。以上の話の教訓、それは特定の国への移住希望者は、希望する国での、日常生活を支配している価値観や規範を、既に準備した上で「乗船している」事を、まったく意味しないという事実だ。移民達はよく、新しい国での生活の有り様などについて、極端なまでに非現実的な期待を抱いている。そして、移民達はよく、非常な視野が狭い経済的動機に、突き動かされている。[カナダ社会に]非常にふさわしくない[思想傾向などの]態度を持っている人が、カナダへの移住を申請するということは、十分にあり得るのだ。以上の原則下において、我々が移民のような人達を、『選別』せねばならない、考えてしまうことは、それほど狂った考えではない。

ここまでの議論は、以下の2つに論点に、集約できる。まず1つ目は、運用面で『選別』行う方法が、存在しない事だ。対象となる人々を、階層化するようなハッキリとした、区別を行うのを除けば。[訳注:このエントリの当初で指摘されているが、外見上の特徴等で『選別』を行うしか手段は存在せず、実際に行うには非常に困難であることを指摘している]。2つ目は、『選別』は必要ないという事だ。なぜなら、カナダに住むようになった人間は、保守的なカナダ的価値観に、急速に染まっていく。もし仮に、第1世代が染まらなくとも、第2、第3世代は確実に染まるだろう。

レイッチの提唱が、私をいくぶん不愉快にさせた理由は、我々(多文化主義に基づいた学問従事者や理論家達)が、この2つ目の論点を断言するには、この[世代を経た移民達の]融和の過程がどのように機能しているとか、[社会]になぜ『選別』は必要でなく、我々の融和する能力への確信には余裕を持って良いのか、といった事を説明するのには、完全に失敗しているからだ。以上が、個人的に最近考えている事案なので、来週か再来週には、この事案で、いくつかのさらなる投稿を行う予定だ。

※訳注:訳者による補足、註釈の文面は基本的に[]で囲っている。

タイトルを直訳すると『ケリー・レイッチによる反カナダ的価値観』となるが、内容の一般性を考えて意訳している。

“integration”および”integrate”は「融和」「融和する」と日本語を当てている。「同化」や「統合」と訳している事例も多い。

  1. 訳注:イスラム教において、女性が着用することを義務付けられているスカーフの一種。ニカブは目だけを除いて隠すような形態の、最も戒律に厳格なスカーフの一つ []
  2. 訳注:カナダでは一般的に保護者からの児童虐待の疑われた子供に対して、自治体は保護者からの隔離と子供の保護措置を行っている []
  3. 訳注:欧米で行われているルール等を守らなかった子供に対して、壁際などに特定時間じっと立たせて反省させるしつけ方法 []
  4. 訳注:セリーヌ・ディオンがアメリカ人と結婚し、アメリカに移住した事に、少なからずのカナダ人は反発している []
  5. 訳注:エジプト系カナダ人一家。ビン・ラディンやアルカイダのプロパガンダ活動を行った事でカナダでは有名 []
  6. 訳注:カナダにおける移民希望者へのポイント評価制度のこと []
  7. 訳注:イスラム教において、女性が着用することを義務付けられているスカーフの一種。ヒジャブは頭髪だけを覆う最もカジュアルなスカーフ []