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ビル・ミッチェル「赤字財政支出 101 – Part 3」(2009年3月2日)

Bill Mitchell, “Deficit spending 101 – Part 3“, Bill Mitchell – billy blog, March 2, 2009.

Part 1 の翻訳はこちら

Part 2 の翻訳はこちら

 

この記事は財政赤字101のPart 3だ。このシリーズは、財政赤字を恐れるべきではない理由の説明のために書いている。この記事では、銀行システムにおける財政赤字の影響を考察することを通じて、「財政赤字が政府借入需要を増やし、金利を引き上げる」という既存の神話を蹴散らすつもりだ。この二つの議論には関係がある。重要な結論は、(a)財政赤字は金利に対して下落圧力をかける動態を持つ、ということと(b)政府債務発行は政府支出の”資金調達”をするものではない、ということだ。そうではなく、債務発行は、(オーストラリア中央銀行(RBA)の目標金利維持志向としての)金融政策をサポートするために行われるものだ。

 Deficits 101 Part 1 (訳注:邦訳はこちら)では、政府と非政府部門の間の垂直関係と、そこでの経済内の金融純資産の出入りについて描写した図を提示した。こうした政府-非政府部門間垂直取引は一体どのようなもので、それを理解することが経済理解にどう重要なのだろうか? こうしたことをつなぎ合わせる手助けになる関連図として、以下のものを提示しておこう(私の最も最近の著書であるFull Employment Abandoned: Shifting sands and policy failuresからの引用)。画像はクリックして別ウィンドウで見てもらって、ここから先のテキストについては印刷して読んでもらった方が良いかもしれない。

金融的垂直関係・水平関係

この図は、政府と非政府部門の本質的な関係を垂直的に示したPart 1のに、さらなる詳細を加えたものだ。

最初に垂直面に注目すると、納税義務が、通貨(currency)の垂直的・外生的な構成部分の最下部となっているのがわかるはずだ。統合政府(財務省+オーストラリア中央銀行)は垂直連鎖のトップにあたる。なぜなら、統合政府は通貨の独占的発行者であるからだ。グラフの中間セクションは民間(非政府)部門に占められている。民間部門は財・サービスを国家貨幣単位と交換し、納税し、残余(会計的には政府赤字支出にあたる)を蓄積させる。蓄積形態は、流通現金、準備預金(商業銀行がオーストラリア中央銀行に対して保有する)、政府(財務省)債券、証券(オーストラリア中央銀行を通じて提供された銀行預金)といった形を取る。

納税に用いられた通貨単位(the currency units)は、支払プロセスにおいて消費(破壊)される。国民政府は任意に紙幣を発行するか、オーストラリア中央銀行に会計情報を発行することが出来るので、納税が政府に対して支出余力を追加(還流)させたりすることはない。

政府の二つの部門(財務省と中央銀行)は非政府部門の金融資産ストック蓄積及び資産構成に影響を与える。(財務省が司る)政府赤字は、民間部門における金融資産ストック累積量を決定する。そして中央銀行は、こうしたストックの組成を、紙幣や硬貨(現金)、ないし(交換尻決済に用いる)準備預金、および政府債券の中で組み替える。

上で示した図では、ストック累積が、我々が「非政府部門のブリキ小屋」(Non-government Tin Shed)と名付けた不換紙幣・準備預金・政府債券の蓄積によってなされるということを示している。「キャンベラのどこかに備蓄地域があって、国民政府がそこにすべての余剰物資を後の利用のために備蓄しているのだ」という大衆の思い込みを解除するために、「ブリキ小屋」(Tin shed)というアナロジーを用いている――それは過去の政府体制における重大主張だったのだ。実際には、そこに備蓄などない。なぜなら、余剰のある限り、購買力は永久に損なわれているからだ。しかし、非政府部門は確かに金融システムのいたるところで「ブリキ小屋」を所有している。

政府部門から非政府部門へ流れるあらゆる支出は、非政府部門に現金・準備預金・債券の形で残っている税負債(the taxation liabilities)を取り上げるものではない。したがって、「ブリキ小屋」に積み上げられている金融資産の蓄積は、累積財政赤字を反映したものであるということが分かる。

垂直の線の一番下は税で、ごみ箱に繋げることで、何かをファイナンスしているのではないことを強調している。税は民間部門の金融収支を減じるが、何ら政府のプラスになるわけではない――その減少分は請求されるものの、どこかへ流れるわけではないのだ。

このように、不換紙幣発行政府による自国通貨貯蓄というコンセプトは、不適切な代物なのだ。

政府が蓄積資産の購入に純支出を用いることもあるかもしれない(例えば、金の余剰分を買い入れたり、オーストラリアの場合なら、オーストラリア未来基金に貯蓄されている民間部門の金融資産を買い入れたり)が、そうした行為は、政府による財政黒字形成(支出を上回る徴税)によって未来のための資金が貯蔵される、ということを意味するものではない。こうした考えは誤りだ。つまるところ、債券売却は、流動性の除去になるのだが、同時に流動性の解体を生じることになるのである。

民間信用市場は(水平矢印で描写されたような)関係を表し、商業銀行、企業、家計(海外含む)による信用レバレッジ活動が行われている。多くのポストケインジアン系経済学者は、これを内生的貨幣循環として考察している。垂直取引との決定的な違いは、水平取引では金融純資産を創造しないということだ――全ての資産創造は同量の負債と一致するので、取引全体ではプラスマイナスゼロになる。このことが示す含意については、政府純支出が流動性に与える影響と、債券発行の役割について考える際にすぐに触れよう。

別の重要なポイントとしては、民間のレバレッジ活動は、全体ではプラスマイナスゼロなので、「ブリキ小屋」の話における通貨(currency)・準備預金・政府債券の役割を担えないという点がある。標準的な教科書には大抵逆のことが書いてあるが、商業銀行は信用を生み出す際に準備預金を必要とはしない。

中央銀行は銀行システム内の流動性を管理することを通じて、短期金利をその時点の金融政策を決めている公式目標に合致させる。こうした目的を達成するため、中央銀行は(a)日常的な資金需給を管理するためにインターバンク市場(例えば、アメリカではフェデラルファンド市場)に介入し、(b)商業銀行から金融資産を現価で購入し、(c)緊急資金を求める銀行にペナルティ的貸出金利を課している。実際、ほとんどの流動性管理は(a)を通じて達成されている。要するに、中央銀行のオペレーションは、準備預金・現金・証券の組成を変更することを通じてシステム運用上のファクターを埋め合わせるものであり、非政府部門の金融純資産を変化させないのである。

金融市場では商業銀行(及びその他の金融仲介機関)は法定準備を満たしたり他の商業目的上の資金獲得を行うために、短期金融商品を相互に取引する。図に従えばこうした取引はすべて水平的なもので、全体ではプラスマイナスゼロになる。

商業銀行は中央銀行に準備預金口座を保持することで、準備預金を管理し、手形交換決済を円滑に行っている。中央銀行は、貸出金利(公定歩合)の設定に加えて、商業銀行が中央銀行に対して保有している準備預金へのサポート金利も設定している。オーストラリア、カナダ、ユーロ圏といった多くの国々では、超過準備に既定金利が支払われる(例えば、オーストラリア中央銀行では、余剰為替決済勘定にかかるオーバーナイト金利に比してより低い25ベーシスポイントの超過準備付利を支払っている)。他の国、例えば日本では、超過準備に付利を行わず、過剰な流動性がそこに留まっていれば、政府による債券売却(あるいは増税)がない限りは、短期金利をゼロまで引き下げることになる(2006年半ばまでの日本のように)。こうしたサポート金利は、経済において金利の底になる。

短期的ないし運用上の目標金利は、現在の金融政策スタンスを示すものだが、中央銀行によって公定歩合とサポート金利の間に設定されることになる。こうした構造は事実上、短期金利が流動性変動と共に変化できる範囲としての回廊(corridor)ないし幅(spread)を作り出す。このspreadこそが中央銀行が日常業務で管理しているものだ。

ほとんどの国では、商業銀行は、ある特定期間の累積で、中央銀行に対する準備預金保有をプラスに保たなければならないと法律で定められている。商業銀行は各日の終わりに準備預金口座の状態を査定する必要がある。準備預金口座が赤字なら、中央銀行から公定歩合で必要資金を借入することが出来る。一方、超過準備を持つ銀行は、何の行動も起こさない場合は、オーバーナイト資金に対する現在の市場金利を下回るサポート金利の稼得に直面する。明らかなことだが、この場合銀行は超過資金を市場金利でほかの銀行に貸し出した方が利益が出る。超過準備を抱えた銀行同士の(慣習に則った)競争によって、短期金利(オーバーナイト金利)には下落圧力がかかり、全体的な流動性の状態に基づいてインターバンク金利は、オペレーション上の目標金利より低い水準まで低下することになる。システム内の流動性が全体で見て過剰である場合、こうした競争が金利をサポート金利まで引き下げるのだ。

資金市場における短期資金需要は、インターバンク金利に対して逆向きに動く。というのは、インターバンク金利が高くなると、予想不足量を他の銀行から借りようとする銀行が減るからだ(準備預金量予想の失敗をカバーするために、中央銀行から末日に資金を借りるはめになるリスクと比較して、の話ではあるが)。公開市場オペレーションを通じた流動性管理のための主要な手段は、政府債務の売買である。オーバーナイト資金市場における競争的圧力によってインターバンク金利が望ましい目標金利より低くなってしまう場合、中央銀行は政府債務売却によって流動性を取り除く。このような公開市場介入はオーバーナイト金利を引き上げる。重要なポイントだが、債務発行は、金利維持を実現するために作られた金融政策手段だと位置付けられているのである。こうした理解は、債務発行が財政の一側面であり、赤字財政支出の資金調達のために必要なものだと主張するオーソドックスな理論と全く以て対照的なものである。

後にさらに発展させていくこうした議論における重要なポイントは、クラウディングアウトが神話であるということを暴くことだ。政府支出(財政赤字)は、中央銀行による流動性管理を考慮しない場合は、商業銀行が中央銀行に対して保有する(準備預金の)精算後差額で見て、超過準備(現金供給)を発生させることになる。我々はこれを「システム全体の余剰」と呼ぶ。この場合、商業銀行は、他の(資金不足の)銀行に貸し出して利益を得ようとしない限り、超過準備に支払われる低いサポート金利に甘んじることになる。事後的に生じる超過準備の押しつけ競争によって、オーバーナイト金利は下落圧力を受ける。しかし、そうした取引は水平取引であり、必然的に総和はプラスマイナスゼロなので、銀行間取引は、システム全体の余剰を解消できない。よって、もし中央銀行が現在の目標オーバーナイト金利を維持しようとするなら、流動性余剰を政府債務売却によって除去しなくてはならない。これは垂直取引だ。

 

神話としてのクラウディングアウト

我々は今、「通貨発行権のある政府(currency-issuing government)に金融的制約がある」という考えを永続化させようとする神話の存在を知っている。この神話は、マクロ経済政策における政府の行動主義に対抗する正統派経済学者の議論を支えているものだ。消滅させる必要のあるしぶとい神話は他にもある――「政府支出が金利影響を通じて民間支出をクラウディングアウトする」という神話だ。

これまで見てきたように、中央銀行は必要に応じてリスクフリー金利を管理するのであり、直接的な市場圧力に従属したりはしない。正統派経済学のアプローチでは、永続的財政赤字は国民貯蓄を減らし、金利を引き上げ、投資支出を引き下げると論じられる。2日前に私が書いた 7.30 Report transcriptという記事を思い起こしてほしい。不幸なことに、「財政赤字が債務発行を増やし金利を引き上げる」というロジックの提唱者は、金利がどのように設定されるか、及び債務発行が経済においてどのような役割を担っているかについて理解できていない。明らかのことだが、長期投資金利にとって好ましいかどうかは度外視して、中央銀行がゼロ金利を設定・維持することは可能である。

政府支出はどこからか資金調達しているわけではないし、また集められた税金がどこかに向かって支出されているわけでもない、ということを確認してきたが、それと同時に、政府純支出には流動性面での実体的な影響があるということも議論してきた。債券を購入する資金は、会計的には政府支出によって供給されるので、「政府支出が民間投資用の有限な貯蓄を制限してしまう」といった考えは無価値である。アメリカの金融エキスパートであるTom Nugentは以下のように要約している:

『政府赤字支出の全影響を織り込むと、連邦政府による財務省証券発行は、常に新規発行資金と等しいので、財政赤字拡大による金利上昇への警戒というのは、ほとんど意味がないということも分かる。全体での影響は常に織り込まれ、金利は連銀が常に操作することになる。日本について考えてみればよい。日本は有史以来最大の公的債務を抱えており、繰り返し格下げもされているが、日本の政府証券金利は0.001%なのだ! もし財政赤字が本当に金利上昇を起こすなら、とっくの昔に日本は破綻していないといけない!』

これまで説明してきた通り、連邦政府と民間部門の取引は、システム全体の収支バランスを変化させるだけだ。政府支出や、中央銀行による政府証券(財務省債券)購入は流動性を追加するし、租税や政府証券売却は流動性を除去する。こうした取引は日常的にシステム内の現金量に影響を与え、当該取引による公的部門からの資金流出入の水準に応じて各日におけるシステム全体の黒字(赤字)が決定することになる。システムにおける現金量は、中央銀行の金融政策に関する決定的な暗示である。中央銀行による公開市場オペレーション(債券売買)の決定を反映するものだからだ。

この議論の理解の手助けのため、別の図を用意した。新しいウィンドウで開き、印刷して参照すれば、これまでの議論が分かりやすくなるだろう。

政府のそれぞれの部門の機能は以下のように要約される:(a)財務省による財政政策は、各日における政府支出と租税として要約され、経済全体に対して黒字(政府支出G>租税T)か赤字(G<T)の影響を与える。(b)オーストラリア中央銀行は金利目標の設定を通じて金融政策を遂行する。オーストラリア中央銀行はまた、目標金利を維持するためにシステム全体の現金量を管理する。これは政府債務の売買によって、商業銀行の準備預金を変化させることで行われる。では、政府債務の発行は、政府支出の資金調達に用いられないのに、なぜ行われているのか? 要するにそれは、中央銀行による(特定のオーバーナイト金利の保持を目的とした)準備預金操作のために行われているのである。図のように、政府支出Gは準備預金を加え、租税Tは準備預金を除去する。したがって、各日においては、もしG>T(財政赤字)であれば、準備預金は全体で増加することになる。

特定の銀行が準備預金不足になることはあり得るが、全体で見た準備預金の総額は過剰である。オーストラリアでは、オーバーナイトで残存する準備預金には目標金利以下の付利しか発生しない(いくつかの国では、付利すらない)。したがって各日において商業銀行は不要な準備預金を処分したがる。準備預金の余剰のある銀行は超過準備をインターバンク市場で貸し出そうとする。一部の準備預金不足の銀行はそうした貸出を受け入れて準備預金を補い、オーストラリア銀行の貸出窓口(discount window)で割高な準備預金借入を強いられる事態を回避しようとする。

結局は、準備預金余剰の銀行が自身の超過準備を処分しようとする競争によって短期金利は下落する。しかし、もしあなたが上記で議論した水平取引(全体ではプラスマイナスゼロ!)を理解したなら、非政府銀行システムがそれ自体(インターバンク市場における貸借といった、商業銀行同士の水平取引の遂行)によって(財政赤字によって創造された)システム全体の超過準備を処分することができないということが分かるはずだ。

必要なのは垂直取引――政府と非政府部門の間の相互作用だ。示した図に見る通り、債券売却によって、銀行に対して超過準備を処分できる魅力的な有利子証券(政府債務)を提示することで、準備預金を除去することが出来る。

このように、債券売却(債務発行)によってオーストラリア中央銀行は現金システム内の超過準備を除去し、金利への下落圧力を縮小させることができる。そうすることで、金融政策のコントロールが保たれる。重要なことは:

・財政赤字は金利に対して下落圧力をもたらす;

・債券売却はオーストラリア中央銀行の目標金利水準に金利を維持させる;

 

以上より、債務マネタイゼーションというコンセプトは全く不合理だ。一旦オーバーナイト金利が設定されたら、中央銀行はその目標を維持するのに必要な流動性変化の分だけしか政府証券を取引しない。中央銀行は準備預金をコントロールできないので、債務マネタイゼーションは全く不可能だ。中央銀行が財務省から政府証券を購入し、同時に政府支出が増加した場合を想像してほしい。超過準備の存在によって、中央銀行が同量の政府証券の売却を強いられるか、オーバーナイト金利がサポート水準まで下落するのを看過するかのどちらかになる。金利設定型金融政策のロジックから鑑みると、これはマネタイゼーションというより、単に中央銀行が仲介者として働いたに過ぎないのだ。

究極的には(訳注:政府支出が十分以上に増加した場合)、民間主体はそれ以上の現金・債券の保有を拒絶するかもしれない。債務発行がなければ、金利は中央銀行の設定するサポート下限(ゼロかもしれない)まで下がることになるだろう。これも明らかなことだが、民間部門がミクロレベルで政府証券なしに不要な現金を解消したかったら、民間部門の消費レベルを引き上げるしかない。現在の租税構造においては、このことは全体での貯蓄需要を減らし、民間支出を拡張し、財政赤字を減らし、最終的には、貯蓄需要が低い水準であり続ける限り、民間雇用レベルの上昇と必要な財政赤字の低下という形でポートフォリオがリバランスすることになるだろう。政府にとって、実物の限界を超えて経済を拡大する動機がないことは明らかだ。政府支出がインフレを起こすかどうかは、名目需要増加を満たすような経済の実物産出拡張能力に依存している。財政赤字の大きさそれ自体で決定するのではない。

 

この記事の主要な結論についてまとめておこう。

・中央銀行は自身の政策志向に基づき短期金利を設定する。実務的には、(マクロ経済学の教科書でクラウディングアウトとして描かれている神話とは対照的に)財政赤字は金利に下落圧力をかける。中央銀行はこの圧力に対して、政府債券を売却することで対抗でき、これを行うと政府が国民から借入を行ったのと同じことになる。

・借入を行わない(訳注:国債売りオペを行わない)ことのペナルティとしては、その国の回廊(corridor)の底への金利下落が生じる。回廊の底は、中央銀行が準備預金付利を行わない場合は、ゼロである。例えば日本は、国民からの借入(訳注:国債売りオペ)以上の支出によって形成した財政赤字を通じて、何年もの間ゼロ金利政策を維持することが出来た。このことは、政府支出が国民からの借入から独立して政府支出が可能であることと、国民からの借入というのは政府支出より順番的には後に発生するのだ、ということも示すことになる。

・政府債務発行というのは、財政政策固有の行為というよりは、金融政策手段である。

・会計的観点から見ると、財政黒字が示すのは、政府が何を行ったかであり、何を受け取ったかではない。(訳注:財政黒字は単に民間の金融純資産の除去を行っただけであり、それを通じて政府が何かを獲得することはないということ)

 

端的に言うと、我々は「連邦政府の赤字創出は有害であり、将来世代に負債を残す」という考えを否認する必要があるのだ。政府はあるプラスの短期金利の維持を選択してきているし、現金システムから生じる金利下落圧力に対して債務発行を必要としている。このシリーズの次の記事であるDeficits 101 Part 4ではなぜ短期金利が(現在の日本やアメリカのように)ゼロあるいはその周辺に維持されるべきかについて議論するつもりだ。

 

ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日)

Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017

 

これまで定番のように書いてきたことの一つに、「MMTで世界は変わる」症候群とでもいうべき、読者や第二世代MMTブロガーが犯しがちな誤りがある。

あるいは「世の中を良くするために、原則をMMTに変える必要がある」症候群とも言えるだろうか。

MMTがレジームチェンジを求めているという考えは間違いで、そういう考え方ではMMTの核の問題意識から乖離してしまうことになる。

このブログ記事では、そういった症候群やMMTの考えの発展の様々な側面を俎上に上げているが、この作業によって、MMTの核の(初期の)研究者たち(Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler)が1990年代前半にマクロ経済学のより良い方法を構築に着手したときに抱いていた鮮明なアイデアを、読者たちに提供するのに役立ちたいと思っている。

ポイントは、

「MMTは、学問の世界における経済学の思考法のレジームチェンジではあるが、実際の金融システムの運用法のレジームチェンジというわけではない」

というところである。

『MMTが論ずるのは「現実が何か」ということであって、「現実がどうあるべきか」ではない』という事実を受け入れるためには、MMTの学術的研究によって明らかとなった政策運用上の原則と、MMTの思想的価値観をきちんと区別する必要がある。

私は最近、2001年に有名な進化生物学者エルンスト・マイヤーが書いた”What Evolution Is”という本を読んだ。マイヤーは彼の研究分野の創始者であり、現代における生物多様性の考え方に確実に大きな影響をもたらした。

彼は進化の世俗的な説明の強調に影響を及ぼした。1 1999年のインタビューで、彼はこう質問された。

 

EDGE(オンラインマガジン)のインタビュアー: 科学者のコミュニティの多数の人々の持つダーウィニズムの影響にも拘わらず、あまりに多くの人々が神を畏怖し、”8日間の創造”を信じているというこの国の現実を、あなたはどう説明しますか?

マイヤー: その質問に対して”上品”な回答は出来ないということはおわかりでしょう。

インタビュアー: この場では、上品でない回答、配慮のない回答を歓迎しますよ。

マイヤー: 彼らは最近の女学生の集団をテストしただろうか? 彼らは「メキシコがどこにあるか」を質問しただろうか? あなたはほとんどの子供たちが「メキシコがどこにあるのか」を知らないということをご存知だろうか? 私はただ事実を描出するためにそう言っている……こういう発言をするのをお許し願いたいのだが、平均的なアメリカ人は、あらゆることに対して驚くほどに無知です。もし彼らがもっと情報を得たなら、どうして進化論を否定することができるでしょう? もし進化論を受け入れないなら、生物学上の事実のほとんどは意味不明になる。私は国全体がなぜここまで無知なのかは説明できませんが、事実として無知はそこにあるのです。

 

こうした洞察は私がマクロ経済学に対して抱いている考えとほとんど一緒だ。この論点には後にすぐに立ち戻る。

 

進化に関する彼の説明は興味深く、他のアイデアの発展の経路についても応用が利く。それには経済学のアイデアも含む。

ある意味, マイヤーの仕事は彼の分野において既存の権威ある学者たちからの反抗の後に「レジームチェンジ」を成し遂げたと言える。言い換えると、彼の進化に関する議論それ自体が、アイデアが発生して、「受容されない状態」から「広範に受容される状態」へと移行する経路そのものを辿ったと言えるのである。

マイヤーの研究に従えば、進化とは、新奇性のことであり、新種への変化である。そして、変化は蓄積するものだ。

我々の理解は、経時的プロセスにおいて、我々を袋小路に追いやったり、新しいアイデアが現実に対して試されたときに生まれる脱出路を覆い隠してしまったりする。

しかし、これらの認識上の「失敗」は重要だ。なぜなら、そうした間違った認識が関心事についての現実を理解するのに役に立たないとき、より優れた考え方で物事を観察できるようになるのに役立つ他の情報を供給してくれるからである。

経済学においては、私は主流派理論の大部分を「偽物の知識」を呼ぶようにしている。この点についてより詳しい議論を知りたい方は、The failure of economics-reality and language- という私の記事を読んでほしい。

主流派理論は、金融システムの運用方法を理解するのに役に立たない。主流派の説明やキャラクタリゼーションはただ明確に誤りである。そして体系的に一つの”神話”はリンクしていき、他の部分を「論理的だが無価値な一連の体系」へと補強・強化していくことになる。

しかし、正しく評価すればどうやっても「ただ明確に誤っている」と評するしかない主流派が、なぜ今日のような立場を得ているのだろうか?という疑問を持ったならば、その疑問への探求は洞察に満ちている。なぜならイデオロギー、そしてその思想が果たしている既存のパワーエリートを強化する役割についての世界に入っていくからである。

「自由市場」というコンセプトの採用が、エリートにとって実物資源と所得が得られるポジションの維持に役立っているのは明らかだ。

この話に関連して、The Nationに最近(March 6. 2017)載った興味深い記事…Our political economy is designed to create poverty and inequality がある。

故に、いかに主流派経済学が戯言めいているとしても、その”役割”を理解することは重要で、それによって、なぜ”より優れた”考えが 「思想競争」において優位性を獲得することに奮闘しなくてはならないことになっているのかが理解できるようになる。

そのような「思想競争」の例はたくさんある。

私は以前、アメリカ人生物学者のJoseph Altmanの奮闘について記述したことがある。

この点についてより深い議論を知りたいなら、私のブログのWhatever – its either employment or unemployment buffer stocks という記事をお読みいただきたい。

彼は神経生物学の専門家で、1960年代に成人のニューロン新生を発見した。彼は成人の脳が新しいニューロンを創造することを示したが、その考えはその当時強く拒絶された。

かの研究領域のパワーエリートたちは、新しいアイデアからの挑戦を受けた。

他の科学者(Elizabeth Gould, 1999年)がこれを”再発見”したことで、ようやく流行することになったのだ。ニューロン新生はいまや神経科学の最重要領域の一つとなっている。

なぜAltmanの発見は約30年もの間無視されてしまったのか?

2008年にExperimental Brain Researchに掲載されたThree before their time: neuroscientists whose ideas were ignored by their contemporaries という記事で、Charles Grossはこう書いている。

「…”ニューロン新生はない”というドグマは広範に保持され、当時最も有力で指導的な立場であった霊長類発達解剖学たちによって精力的に防衛された。」

既存主流派の支配権が脅威にさらされるとき、パラダイムは変化を拒否するのである。

以前、私はJacques Cinq-Marsについて調べたことがある。彼はフランス系カナダ人の考古学者で、”ユーコン川岸と岩陰遺跡における氷河期時代の狩猟者の痕跡”の調査のためのフィールドワークを行った人物だ。

彼は、1977年から1987年に北西カナダのBluefish Cavesで行った調査と、その後の分析により、2万4千年前からその地域に人類が生活していたことを立証した。

その発見は、当時の主流見解に挑戦するものであった。Clovis-First theoryと呼ばれる見解では人類が”アメリカ”に到達したのは1万3千年前ということになっていた。

Heather Pringleの最近(2017年3月7日)の記事 From Vilified to Vindicated: the Story of Jacques Cinq-Mars は、この論争についての分かりやすい紹介をしてくれている。

2013年の3月、Natureの社説 Yong Americansは、Cinq-Marsが彼の発見を公表し、”あらゆる科学の中で最も辛辣で、そして非生産的な論争の一つ”の導火線に火をつけたとき、何が起きたかについて描写している。Cinq-Marsは:

「論争相手たちからの酷い批判に耐えなくてはならなかった。彼らは彼の言うことや彼の証拠を公平に聞こうとはしなかった。Clovis以前の史跡の報告に対抗してClovis-first modelを支援した科学者たちは、学識不足の見本のようだった。」

Cinq-Marsが研究による発見を公表したときに、彼が学術界から受けた批判と圧力を、Heather Pringleが次のように描写している。

「Cinq-Marsの受けた仕打ちはスペイン異端審問になぞらえられるひどいものだった。カンファレンスでは、聴衆たちはCinq-Marsのプレゼンにほとんど耳を貸さず、提示した証拠はぞんざいな扱いを受けた。他の研究者は礼儀正しく耳を傾け、その上でCinq-Marsの能力について疑問を呈した。結果はいつも同じだった…Canadian Museum of Historyの自分のオフィスで、Cinq-Marsは心を閉ざして苛立った。彼のBluefish Caves調査の資金は尽きていき、結局彼のフィールドワークはだんだん失速し、絶えてしまった。」

現在の研究は「人類はClovis文明よりずっと前にアメリカに到達した」という彼の最初の主張を裏付けている。しかし、真実かどうかは問題ではなかった。それがこの研究分野の支配的見解に対する挑戦だったことが重要だった。

Pringleが書いているように、「今日、数十年後になって、Clovis first modelは瓦解した」。それは完全に偽物の知識だったのだが、実績と影響力を築き上げたのである。

最初のアメリカ人に関する主張の結果として輝かしい実績を上げ、強力な社会的地位を築き上げた高給取りの教授たちは、突如白眼視されるようになった。偽物の知識を喧伝していたのだから。

その抵抗のインパクトは、いまだになくなってはいない。

Pringleはこう書いている。

『この重要な問題について、主流の考古学者たちは反対意見を蔑ろにしたのだろうか? もしそうしたなら、それは北アメリカの考古学にどんなインパクトを齎しただろうか? Clovis以前の史跡に対する強烈な批判は、ぞっとするような影響を生じ、新しいアイデアを抑制し、より早期の史跡の研究を妨げたのだろうか? テネシーのヴァンダービルト大学の考古学者で、チリの史跡であるMonte Verdeの主任研究員であるTom Dillehayが考える回答は明白だ。Dillehayはこう回想している。科学界の雰囲気は「明らかに有害で、科学を妨害したのだ」と。』

同様に、政策担当者が主流派経済学が提示する偽物の知識を信奉することで、多くの人々が不必要な失業や貧困に苦しむはめになっているのであろうか? その答えは明確にyesだということになる。

元の話題に戻る前の最後の例えは、ごく身近なものだ。ヘリコバクター・ピロリについての話だ。もし私が何について書こうとしているのかを知らないなら、びっくりする話だろう。偽物の知識の維持によって利権を確立した人々による新しい知見への抵抗の具体例として。

このケースは、巨大な製薬会社は、疑いもしない患者に不必要な薬を強要し、患者が信頼する医師たちを圧力下に置き、患者を無知なままにし続けることによって巨大な利益を得ることができるということを示している。

当時の主流の研究者たちは、潰瘍が”精神的混乱”によって生ずると考えていた。(下のNew Yorkerのリンクを見てほしい)

このNew Yorkerの記事(2003年3月3日)Marshall’s Hunchは、かの論争における興味深い洞察を与えてくれる。

その記事は、1983年にMarshallが彼の研究を最初に発表したときの様子を詳しく書いている。

「…ブリュッセルの感染症のエキスパートたちの集まりの中で発表された。聴衆は軒並み重鎮ばかりだった…Marshallが話すのを終えたとき…科学者たちはくすくす笑い、ひそひそと話し、首を横に振り、デビューが大失敗に終わった年若い同僚に対して少し当惑した……」

一人の科学者は、Marshallの理論は「これまで聞いた中で一番バカげたもので、この男は気が狂っているのかと思った」と言った。

Marshallにとって不幸だったのは、製薬会社の大物であるGlaxo(SmithKline)が、医師たちが胃潰瘍と診断した人々にZantacを売りつけて莫大な利益を得ているという点だった。その薬はあくまで緩和剤で、症状(痛み)を和らげるだけのものだった。

医師は定期的に高価な大腸内視鏡検査2 を潰瘍があるかどうかを’見る’だけの検診を行い、痛みをコントロールする場合はZantacその他を処方する、という単純なルーチンに当時の患者たちは乗せられていた。

これらすべては不必要であるとMarshallは示してしまった。

現在、Marshallの発見は医療セクターでの常識となっているが、この発見を抑圧して自身の市場を守ろうとする巨大な製薬会社の影響下にあった一般開業医たちにそのメッセージが届くまでには長い時間がかかった。

これらの話(及び私が書ききれないもっと多くの話)はレジームチェンジと関係している。新しいアイデアや説明が広く認知されている主流派と真っ向対立すると、事実が新しいアイデアを支持していることが自明となるまで中傷に晒されるという事が示されている。

(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。

典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。

Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。

そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。

一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。

支配的な集団は、Irving JanisがGroupthinkと呼ぶものに嵌りこんでしまい、新しい考え方を提案する人に対し、まず最初に中傷を仕掛けてしまう。

Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshal及び様々な研究領域における数えきれないほど多くの人々の仕事が、パラダイムシフトが起こり得ること、そしてその変化が不可避になるまで大衆たちから反発を受けたことを示している。

全ての新奇なアイデアがこの類の煉瓦壁に直面するわけではない。しかし、専門家たちがGroupthinkに嵌ってしまったり、とりわけ、地位やお金の危機(特に、商業的な危機)があったりするとき、抵抗は強烈で、かつ長引くものになる。

さて、どう考えても、上で論じた着想はそれぞれの分野のレジームチェンジにつながったと言えるだろう。

いくつかのケースでは、対決を受けたレジームは新しい知識の一部に割り当てられた(たとえばClovis社会の年代)が、それ以外では、古い知識に関係する多くの主張が「宙に浮く」こととなった。

また他のケースでは、知識が一から十まで偽物であるのに、その学問分野の支配が維持される。メディアや、専門的地位や昇進、学術基金へのアクセス、そしてその他外部者を真実から遠ざけるために築かれたさまざまなカムフラージュをコントロールすることによって。

主流派経済学は後者のカテゴリーに合致するケースだ。それは偽物の知識であり、元からずっとそうだった。しかし、研究職のGroupthinkはとても強固で、強制力が強い。その地位に対抗したことのある人なら、私の言いたいことが分かるだろう。

私は一度、ある権威あるカンファレンスで私のマクロ経済学観についての招待講演を行ったことがある。(発表者のバランスを取るために、私はケインジアン枠扱いで呼ばれたそうだ。ケインジアンではないのに!)

まあとにかく、私が発表を終えると、参加者の一人が(客寄せ口上のような耳障りな声で)”みなさん、今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!”とコメントした。彼はそのあとほとんど何も言わず、ただ聴衆の笑いを取ろうとしただけだった。それが真剣な専門家たちの意見交換会の中で起きたことである。

いじめ以外の何物でもない。私の労力は大いに笑われた。しかし私はすでに上級教授で、このタイプの無視は長年経験していた。アヒルの背中に水をかけるような無意味な行いだ。私はこういったことに慣れていたのである。

私が研究を始めた頃、私の初期の雑誌投稿に対する査読報告は、一文ほどのものだった。(どれだけ長くても数ページ程度) それらは大抵こう書かれていた。「著者は明らかにLipseyの教科書の第一章を読んでいないか、理解していない。」 Lipseyの教科書は当時の有名な主流の教科書で、主流派マクロに進むための下らないことが書かれていたのだが。

それは間違っていなかった。私は論文の内容が非常に厳密であることを確実にするためには長い時間をかけていたし、その結果は正しかった。私はこれは挑戦なのだと考えていた。

しかし多くのより繊細な若い研究志望者たちは、そうした批判によって潰されていただろう。自信を打ち砕かれ、研究意欲が棄損されることによって。

経済学の専門家たちは乱暴だから、急所攻撃を食らっても生き残るため分厚い皮を持っておく必要がある。

Modern Monetary Theory(MMT)はこうした意味でのレジームチェンジを目指している。MMTは、支配的な経済学理論の嘘や欺瞞に直接的に対抗し、システマティックで首尾一貫した代替的な理論を提供している。

当初、我々は無視された――我々(上述した小さいグループで行った)の研究の少なくとも最初の10年の間はそうだった。

最初は、経済学の中でも先進的な分野(ポストケインジアン)が我々を批判しはじめた。――その主な理由は、彼らが類似のカンファレンスに参加していたからだ。MMTはポストケインジアンが未だ受け入れていた新自由主義のいくつかのコンセプトに挑戦するものなので、ポストケインジアンは我々に対して敵対的だった。

そしてメッセージがより広範に伝わるようになるにつれて、’第二世代’MMTerがより発言力を持つようになり、数も増え、現在は主流派経済学者からの攻撃を受けるようになっている。

最近の攻撃については When mainstream economists jump the shark and lose it completely という記事で書いておいた。

これらの攻撃はより広範囲に広がっているが、それは我々の一連の考えが発展の次のステージに達していることを示している。

専門家たちの中の新自由主義的なGroupthinkerたちは現在、世界金融危機への対処の大いなる失敗の結果として、主流派経済学の価値観によりいっそう多くの人々が忌避感を抱き始めており、それによって彼らの地位が弱まっていることに気づき始めている。

しかし主流派経済学の失敗が明らかになると、衆愚政治的な動きが彼らのレジームを守るためのあらゆる防御策を講じ始めた。メディアでMMTにマウンティング攻撃するのもこれだ。

尤も、私が今まで話してきたそうしたレジームシフトは、ブロゴスフィアで主張されている’MMTが採用されれば世の中が良くなる’といった主張とは異なるものだ。

そういった類の所感は、十分な数の政治家を説得できれば’MMTレジーム’へのシフトが出来るという意味になってしまう。

理解すべきポイントは、MMTは、不換紙幣(fiat currency)金融システムがどのように運営されるかという仕組みへの理解、および現代金融経済において政府が行うことが出来る中心的な役割への理解に役立つ思索の体系であるということである。

現代金融経済は、貨幣(money)を財とサービスに対する支払いの計算単位として利用している。重要なのは、その貨幣が不換紙幣であり、交換できるのはそれ自体だけ(訳注:古い紙幣を持ち込んだら新しい紙幣に替えてもらえる、くらいの意味かと)で、政府には(例えば金本位制、ないし後期金本位制のように)金(gold)に交換する法的義務はないというところである。

主流派経済学の論評ではたいてい無視されるのが、1971年8月におけるブレトンウッズ体制の崩壊である。ブレトンウッズ体制は、1944年7月に有名なブレトンウッズ会議で合意された金融システムで、参加国の中央銀行にUSドルに対する固定為替相場の維持を要求するものだった。

そのシステムは機能しないことが証明され、ニクソン大統領がUSドルの金への互換性を破棄し、ほとんどの国は不換紙幣システムへと移行した。

不換紙幣システムの中では、政府は特定の不換紙幣を発行する独占的な権利を持つ。

その上、不換紙幣は、税の支払いおよび政府の要求する他の財政的請求に受け入れられる唯一の単位であり、このことが政府の政策手段の範囲を決める。

我々は、政府がただの’大きな家計’ではないことを知っている。家計は、通貨(currency)の利用者であり、支出に際して事前に通貨を調達しなくてはならない。翻って政府は、通貨の発行者であるので、もし(増税を)望むとしても、まず支出(民間銀行の銀行口座に貸方記帳)があり、このことにより借方記帳するということになっている。

はっきり言えることは、不換紙幣発行者である政府は、いかなるときも発行通貨(currency of issue)による支払い能力を持つという事である。

MMTはさらに、国定貨幣(State Money)(不換紙幣)の目的が、実物的な財・サービスを非政府主体(大部分は民間)から政府(公的)主体へとスムーズに移行することであることも教えてくれる。

この移行のために政府はまず徴税する。徴税により発行通貨の需要が発生する。非政府主体は、納税及び全体での純貯蓄に必要な資金を獲得するため、実物財・サービスを売りに出して、必要な通貨と交換しようとする。これはもちろん、非雇用者たちが労働を売ろうとするようになることをも含む。明白な結論として、失業は、全体での政府純支出が、納税の必要性と全体純貯蓄の欲求を満たすには少なすぎるときに起こるということが言える。

この分析は、政府の支出の限界 3 も設定する。政府支出が納税可能になる分だけ十分になされなくてはならないということは明らかだ。それに加えて、民間の貯蓄意欲に合わせる必要がある。

もし政府が納税と非政府部門の貯蓄欲求をカバーするのに十分な支出を行わなかったなら、その不足分は失業として現れるだろう。

この問題の根本は常に、政府純支出がその時の民間支出(貯蓄)決定に対して適切ではないことにあるのだ。

それぞれの国(あるいは複数の国によるブロック)では不換紙幣による支出能力をそれぞれ違う方法で構築・利用している。ユーロ圏メンバーの国は、フランクフルトに支出能力を自主的に委譲し、純支出に関して厳しいルールを自国自身に課している。

他の国々は違う形で発展している。

しかしポイントは、いつの時代も、どの国においても、金融システムはMMTが描写し説明している形で運用されているということである。

MMTは現実と非常に強い関係を持っている。一方で、主流派経済学は、現実の大部分を扱えない。

したがってMMTへと移行すること自体がより良い世界であると考えるのは、現実への誤解に基づいている。すべての形態及び規模の金融システムは、既にMMTに準じて運用されているのである。

よって、”もしMMTが導入されれば”とか、”MMT政策の下では”とか、”MMTが規範になるとき”という風に、『MMTは、もし社会がより啓発されれば、移行することのできるレジームであり、真に進歩的な政府に新しい範囲の政策手段を開拓するものである』と暗に意味しているかのようなコメントを読むと、この点が誤解されているということがわかるのである。

こうした誤解は、他のコメントにもある。特に、Job Guarateeに関するコメントだ。そうしたコメントではMMTとは進歩的な教義であるとか、あるいは経済政策決定における左派的なアプローチであるということになっている。あるいは、MMTがなかなか紹介されないのは、既成秩序を維持しようとする右派の陰謀だ、とされている。

こうした発言は善意からのものであるし、MMTがその理論の進む先に提案している政策手段のいくつかに、人々が純粋に魅了されているということは分かっている。

けれどもそのような理解は、私が「Job Guaranteeのような提案への教条的で不合理な抵抗」と考えていることと同類なのだ。

つまり、「進歩的政策によって資本家の搾取の軛から自由になれるMMT的世界へ我々は移行すべきである」というような考えは、完全に間違っている。

事実として、我々は既にMMT的世界に生きているのである。我々はいつだってMMT世界の中で関わりあっているのだ。アメリカでも、オーストラリアでも、ユーロ圏のどの国でも、金融システムはMMT的体系の中で運用されている。

だから、MMT的世界と一般に呼ばれているような新しい理想郷へ向かうなんていうことはあり得ない――我々は既に、MMT的世界に居るのだから。

MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。

この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。

新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。

というのは、政策決定と非政府部門の意思決定の因果と結果の理解から我々の注意をそらすために、保守派が推進した一連の連結された神話を暴く、という意味である。

保守派の政治家や企業家たちが、「政府はお金を使い切っており、そのため失業者に対してこれまでと同レベルの給付支援をする余裕はない」と主張しているとき、MMTはそれが嘘であり、それとは別の指針が存在するに違いないということを気づかせてくれる。

MMTはこのように、現実への理解について学ぼうとしたり、それまで問おうと思うことも出来ず、それどころか無関係であった疑問への問い方を学ぼうとしたりする人々に、その力を与えてくれる。

以前は、政治家が「政府はお金を使い果たした」とか「政府はクレジットカード満額まで使い切った」と発言すれば、情報の無い人々はそうした発言を尤もだと捉えてしまっていただろう。

しかしMMTのフレームワークを理解すれば、そのレンズによって人々は”お金を使い果たす”という錯乱を却下し、逆に、政府が特定の政策手段を用いたがらない理由を知ろうと欲するようになるだろう。

これまで、政治家とそのアドバイザーは、(彼らが操作対象としている)一般市民が適切に知らない・理解していない偽物の経済学的議論を用いて新しい政策手段や政策方針を即座に却下してきたが、MMTは、そうして却下されてきた政策手段・政策方針の実現可能性を政策論議に導入する。

MMTはかのように、我々が生きている世界の金融システムがどのように運用されているかということと、通貨発行主体(curreny-issuing)であり、我々の幸福を志向すべき政府が、どのような潜在能力や政策手段を持っているか、ということを理解するためのフレームワークなのである。

MMTは、政府の通貨発行能力(currency-issuing status)(為替操作能力や中央銀行による金利設定能力を含む)を実際の統治体から分離したらどんな結果を齎し得るかということを理解するのにも役に立つ。

後者に関して我々は、MMTのレンズによって、ユーロ圏が構成国に非常に悪い結果を齎す形で失敗した理由をクリアに理解することができる。

また、MMTは左派でも右派でもない。

MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。

私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。

どんな立場からであれ、思想的信念というのは、価値観と、その価値観から進展して提示される政策的処方箋によって明らかになるものだろう。

MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。

例えば、失業率上昇に直面している政治家が「政府にはこれほど多い失業を解決するほど職を提供するだけの財政的余地はない」と発言しているとき、MMTのレンズを通じてそのコメントを考察すると、「政府には、必要以上に失業率を高く維持したい理由がなにかあるに違いない」ということが即座にわかるだろう。

我々はそこに’隠された’指針があるということがわかる。なぜなら、我々の理解では、政府には通貨発行能力(currency-issuing capacity)があるために、その財政的余地というのは利用可能な実物資源で決定するからである。もし大量の失業があるなら、そこには利用可能な実物資源が存在するということがわかる。

では、なぜ政府は彼らを雇って生産的用途に利用しないのだろうか?

そのとき焦点は「その理由が何か」というところに移り、その疑問は、例えば、政府が完全雇用維持のために通貨発行能力を利用するのを拒否することによって随伴的に生じるであろう影響への考察に繋がるだろう。

逆に、MMTに感化された右派の政治家が、賃金を抑圧し、利益(右派政治家はこれを労働者の尊厳etcより価値が高いと考えている)を高めるために、大量の失業の予備を確保するという欲望を実現しようとするとき、彼らは財政赤字の削減を提案するだろう。なぜなら、MMTの知的訓練によって、それが彼らの目標を達成する手段であると分かるからである。

MMTは、我々の価値観を政策選択を通じて社会へ適用した結果どうなるかについてしか教えてくれない。そうした価値観は、どんな政治的ないし思想的性質でもありえるのである。

私はこの議論がこのタイプの問題について論争している人々の助けになることを望んでいる。

来週、私は”メランションが大統領になった場合のフランスの最初の100日間”を予測するブログを書くつもりだ。

右派の経済学者は、まるで日々の稽古のように、既に偽物の知識を交換している。実に滑稽だ。私は彼らよりもう少し真面目にやるつもりだ。

今日はこれでおしまい!

  1. ここでいう「世俗的な説明」は、「神話的な説明」(神が万物を創造したという神話に基づく説明)に対する対義語である []
  2. 上部消化管内視鏡の間違い? []
  3. 文中では下限がフォーカスされているが、「それ以上支出すればインフレになる」という意味での上限も存在する []