サイモン・レン=ルイス「国家がなすべきことを変えずに国家を縮小させるのは経済学的に意味をなさない」(2022年11月1日)

[Simon Wren-Lewis, “It makes no economic sense to keep shrinking the state without changing what the state is meant to do,” Mainly Macro, November 1, 2022]

前任のクワーテンによる法人税減税を取り消して所得税減税を無期限延期すると,新財務相のハントが発表した.その一方で,国民健康保険料の増額取り消しは取り消さなかった.これを受けて,「緊縮 2.0」の論議がずいぶんと盛んになっている.将来にありうる公共支出の削減に「緊縮 2.0」というラベルを当てはめるのが好ましいかというと,私はあまり自信がない.2010年以降になされた公共支出削減を「緊縮」と呼んだのは,いくらか理にかなっていた.というのも,よりによって景気循環の間違った時期に公共支出を削減しようというしろものだったからだ.あのときの支出削減は,〔ケインズの〕『一般理論』から我々が学んだことすべてを無視していた.『一般理論』からとりこまれて現代の洗練されたマクロ経済学に結実している知見を,なにもかも無視してなされたのだ.あの支出削減は,たんに公共サービス利用者の状況をいっそう悪くしただけではない.国民所得を減少させることで,誰も彼もの状況を悪化させた.そうした所得減少の一部は,おそらく,永続的だろう.

9月に発表された政府支出削減には,これは当てはまらないだろう.なぜなら,いまの景気循環の局面があのときとちがうからだ.なるほど経済が好況に沸いているという実感はないかもしれない.だが,イングランド銀行はいま利上げをしている.労働市場で需要超過が起きていると考えての対応だ.一次近似として言えば,公共支出が削減されればされるほど,イングランド銀行による利上げの必要は減る.よって,政府支出削減は,必ずしもみんなの所得を減らすとはかぎらない.この点は,2010年以降の支出削減と異なる.その意味で,今回のは「緊縮 2.0」ではない.たんなる公共支出の削減だ.

それ以外にも,2010年以降の状況と9月に発表された公共支出削減には,重大なちがいがある.それは,公共サービスの状況と,貧困の度合いだ.2010年以降に起きたことに加え,名目値で設定された近年の政府予算がインフレで絞り上げられ,さらに,民間に比べて公務員の給与の伸びはずっと少ない.このために,公共サービスの大半は,いま危機的な状況にある.以前にも述べたように,これ以上の削減について語るのは恥ずべき行いだ.削減どころか,支出増加について語ってしかるべきなのだ.

公共サービスで最大の項目となっている,医療をとりあげよう.救急搬送や普段の診察・治療の待ち時間は記録的な長さに達している.これを短くするために,「国民保健サービス」(NHS) や社会福祉は,切実により多くのお金を必要としている.そうしたお金には,看護師・医師・ケアワーカーたちに給与を支払ってこれ以上の離職に歯止めをかける分も含まれる.また,必要な看護師・医師の訓練・育成に着手するためにも,もっと多くのお金を割り振るべきだ.自国の市民たちの厚生に心を配る政府であれば,およそ,計画された医療支出を削減することなど考えられない.

だが,医療は例外ではない.裁判の遅延も,記録的な水準に達している.警察も,犯罪の解決件数が減ってきている多くの/大半の学校は,来年度の人員を削減しなくてはならなくなるだろう.なぜなら,高騰したエネルギー価格の支払いのために,お金がなくなっているからだ.公共投資や〔インフラなどの〕維持費用を削減すれば,将来に問題を引き起こすことになる:Institute for Government の推計では,学校・NHS・裁判所・刑務所の維持費の未処理分は,37億ポンドにのぼる.同じく,実質所得が下がりつつあるうえに食料・エネルギー価格の高騰で実質所得が絞られているなかで福祉支出を削減することなど,まともな政府なら考えられない.

どうやら,「公共支出の削減は避けられない」と口にするのがメディアにいる多くの人々にとっては流行らしい.この手の発言からは,公共サービスで進行中の事態を当人がまったくわかっていないことがあらわになるのに加えて,こうした発言は非常に党派的でもある.しかも,それに劣らず重要な点として,「削減以外に選択肢はない」という考えは虚偽にすぎない.他にもはっきりした選択肢はある.それは,増税だ.

政党政治の闘技場で繰り広げられる公共支出の増減をめぐる論争に慣れすぎてしまって,初歩の経済学を忘れてしまう危険がある.民間部門で生産されたモノについては,そうやって提供されるモノの量が買い手の選好を反映しているのは当たり前だし有益でもあると,私たちは考えるものだ.「では,どうして消費全体のなかでしかじかの割合が食料と飲料に使われた一方で,衣類にはまた別の割合が使われたのでしょう」とたずねれば,自明かつ正しい答えが返ってくる――「そういう割合は,イギリスの消費者たちの平均的な選好を反映しているんですよ.」

さて,医療の提供についても,教育についても,治安についても,それぞれをどれくらい望むのかについて,人々にはさまざまな選好がある.国家が自らの仕事を適切に行っているときには,コスト(税金で支払われる)と利用可能な資源とを勘案しつつ,こうしたさまざまな公共サービスに支出額を割り振って,人々の選好と必要を反映させる.政治プロセスにそんなことができるのかどうか疑う人もいるかもしれないが,我々が手にしている証拠からは,おおよそできていることがうかがい知れる.例として,医療を考えよう.人々が裕福になり寿命がのび,医療にできることが進歩していくにしたがって,OECD 諸国の大半で,医療支出は安定して増えてきた.医療提供で国家が果たす役割はそうした国々でさまざまにちがっているにもかかわらずだ.

〔医療や教育のように〕同じサービスを国家と民間の療法が提供しているときに,この問題ははっきりとみてとれる.以下に載せたグラフでは,2003年以降の生徒一人当たり支出を公立学校と私立学校との比で示してある(データの出典は IFS).

公立校を利用する人とそうでない人とで,よい教育への選好は大きくちがっているのだろうか? その可能性を除外した場合,公立校を利用している人々は,自分の親たちが税金で支払ってもいいと思うだけの水準の教育をいま受けていないことが,このグラフからはうかがえる.もっと一般的なことを言えば,税金と公共支出の増加をのぞむ人たちの方が,その2つの減少をのぞむ人たちよりもはるかに多いのがわかっている.

特定のサービスを国家と民間のどちらが提供すべきかをめぐっては,きわめてまっとうな論議がある.国家の規模をめぐる論争は,つきつめれば国家がやることをめぐる論争のはずだ.だが,そうしたサービスを誰が提供するかがひとたび決まると,国家が提供するそうしたサービスは,その国の市民の選好や必要を反映した水準に定まるはずだ.よって,公共部門が提供するサービスにどれだけ多く(少なく)費やすかにはっきりした限度がある.政府支出がその下限を下回っている場合には,提供が必要とされているサービスを提供するという義務を政府が果たせていない.

救急救命 (A&E) の順番待ちをしながら人々が次々に亡くなり,犯罪事件の被害者たちが裁判開始まで1年以上も待たされ,飢えに泣く学童たちについて校長たちが語っているいま,今日の国家が提供するものとして受け入れうる水準を現状が大きく下回っているのは明らかだ.これが政治的な発言だというなら,それは国家規模についての発言ではなく,政府の失敗についての発言だ.[1]

目下のさまざまな問題の多くがそうであるように,この政府の失敗もキャメロン/オズボーン政権期に発端がある.サッチャーが政府の役割をいかに縮小させたかを思い起こしつつ,彼らは同じことをやりたがった.だが,国家の役割を縮小させるためにサッチャーがやったことの多くは,さまざまなタスクを公共部門から民間部門に移すことだった.たとえば,エネルギーや水道の提供がそうだ.キャメロン/オズボーンは,そうした民間への移行をほんのわずかしかしていない.かわりに彼らがやったのは,それまで国家が提供していたものに利用できる予算をとにかく減らすことだった.あたかも,サッチャーが水道事業の民営化には取り組まずに,一日当たりに人々が使える水量を割り振ることだったかのような話だ.

「(公共サービスであろうと再分配であろうと,老いも若きも関係なく)GDP に占める政府支出の割合や税の割合は,しかじかの恣意的な数字を下回らなくてはいけない」「そういう割合が増えているなら,それは公共支出が多すぎることを示しているのだ」と言っている人たちにも,同じことは当てはまる.公共サービスについて語るとき,こういう言い草は,家計でこう言うのに等しい――「我が家の所得に占める外食費の割合は,この恣意的な数字以下に抑えなくてはいけない.」 現実には,所得が増えていくにしたがって外食に使われる割合は増えていく.同じく,所得が伸び平均寿命が長くなり,医療が発展するのにともなって,国民所得のうち医療に使いたいと人々がのぞむ割合も増えていく [2].医療を国家が提供しているため,そうやって医療に使う割合を増やす方法は,増税によって公共支出の増加をまかなうこと以外にない.

ジャーナリストたちは好んでこんなことを言う――「イギリスの有権者たちは,アメリカと同水準の税金を払っているのに,欧州並みの公共サービスをのぞんでいる.」 だが,この比較は理屈に合わない.なぜなら,アメリカでは医療の大半を民間が提供しているからだ.実際には,イギリスの税金は欧州諸国の大半よりもずいぶん低い.その理由は,2010年以降の保守党政権がこう考えてきたことにある――税率を低くすることにとりつかれるあまりに公共サービスを非常におそまつな水準や明らかに危険な水準にまで落としても,自分たちは痛い目にあわなくてすむだろう,と [3].9月の財務相の発言や将来の政府予算をめぐって道理の分かった論議をしようというなら,私たちの公共サービスをまともな水準にまでもどすためにどんな増税がなされるべきかについて論じなくてはならない.

原註

[1] 国家が費用を負担しつつ一部のサービスは民間部門が提供すべきだと考えるなら――現政権の考えはそれに近いようだ――次の点を受け入れなくてはいけない.すなわち,その選択肢の方が国家にとっては高くつくという代償が伴うという点だ.なぜ高くつくかといえば,民間部門は利益を上げる必要があり,しかもその分は効率を上げることで相殺されないのが通例だからだ(かりに相殺されることがあるとしても).もちろん,医療の分野では,こうしたサービス提供の民間委託と不十分な資金提供とが組み合わさると,保険にもとづく制度への移行が進みはじめるかもしれない.そうした戦略が不誠実だという話は,もっとも軽い問題を言っているにすぎない.それよりも深刻な問題は,それによって人が死んでしまうということだ.

[2] 残念ながら,パンデミックによって,このリストに「新感染症が登場した場合に」という句を付け足す必要があるかもしれない.ここで,ほぼ指摘されないままになっている論点がある.それは,コロナウイルスがエンデミックになったなら,GDP に占める医療の割合を増やす必要があるという点だ.もしそうしなければ,コロナウイルス関連以外での医療サービスの悪化が避けられない.

[3] サッチャーが減税できた理由の一部は,北海油田による収入を運用せず公有資産を売却したことにある.

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