Absent-mindedness as dominance behaviour
Posted by Joseph Heath on September 5, 2017 | academia
父はむかし、私にある話をした。その何年も前に、父は大学教授としてサスカチュワン大学 [1]訳者注:カナダ・サスカチュワン州にある州立大学。 のセントトーマス・モア・カレッジで歴史学を教えていた。父は車を運転して仕事に行き、駐車して、授業を教えに教室へ向かったものだった。しかし家に帰る時、自分がどこに駐車したのか思い出せない事がしょっちゅうあった。サスカチュワン大学は縦横無尽に拡がっている広大な駐車スペースを有する大学の一つだったので、父は何度も自分の車を探してさまよう事を余儀なくされたものだった。
父の教授としての生活は、かつて望んでいたものと比べるとはるかに失望するものへと変わった。それに加えて、同僚とのあらゆる種類の軋轢に巻き込まれていることに父は気が付いた。軋轢があまりにひどくなったので、ある日父はやっとのことで大学を辞職した。辞表を出して駐車場に向かい、辺りを探し回って車を発見し、家まで運転し、二度と大学には戻らなかった。父の話で愉快なのがここからだ。その後の人生の中で、自分の車をどこに停めたのかを忘れたのはその時が最後だった、と父は断言したのである。
つまり、「うわの空状態」は、なぜか「大学教授であること」と結びついている。うわの空であることは父の知能とは一切関係がなく、父の社会的役割がもたらしたものだ。大学教授であることを辞めた日に、父のうわの空状態も止まったのだが、これは父が意図的にやったのではない。念押ししておくが、数十年経ってからやっと父は自分が物事を忘れなくなっていることに気づいたのだ。
私がこの父の話を持ち出したのは、うってつけなまでに典型的な沢山のうわの空状態の教授たちと一緒に仕事をしているからだ。ある(元)同僚はとりわけ、愛嬌たっぷりの尊大なうわの空状態の教授として振る舞うことにかけて完璧なキャリアを築いてきた。彼は、ある金曜の夜に私に電話してきて「君はまだ我が家に来ていないみたいだが、どうしてだい?」と尋ねてきた。彼は妻からディナーパーティにお客を招待する役割を与えられていたが、お客の招待を即座に忘れてしまい、その後に自分が招待を忘れていることも忘れてしまっていたのだった。幸い私は忙しくなかったので、慌てて彼の家へと駆けつけた。
うわの空状態の教授たちと一緒に仕事をすることは、いつもそこまでおもしろいわけではなかった。最初に大学に雇われた時、私は運転免許証を持っておらず、受け持ったクラスのいくつかは遠くの郊外キャンパスにあった。都心部で私と研究室をシェアしていた尊大な教授は「同じ日程で自分も車でそのキャンパスに行くから、君も同乗しないか」と寛大にも誘ってくれた。ある朝、彼は遅刻した。私は〔彼を待って〕無為な時を過ごし、焦燥を重ね、授業に遅れることに不安を募らせた。授業に間に合う望みが完全に潰えるまで、遅れに遅れることになった。やっとのことで、私は彼がどこにいるのか誰彼構わず訪ねて回った。「えっ!? 『尊大な人』は学会で、この街にいませんよ」と言われることになった。
我々の小さなカーシェア協定はこれででおしまいになった。
さて、誰かを職場まで一緒に乗せて行くと約束してから、すっぽかすような行為は、「クズ野郎の行い」と周知されているだろう。これは、人様への義務や他人のお気持ちに完全に無関心であることを開陳したことになる。ところが、大学教授がこれをやると、その振る舞いはお茶目だとか、場合によっては天才の仕草だとみなされる。私の同僚だと、彼は重要な哲学的思索に耽るのに忙しかったので、自信の行いが他者にどう影響を与えるかのような事象に関しては、些細で取るに足らないので、当然考える暇はなかったのだ、ということになる。
こうした一連の事象は万事、タルコット・パーソンズ [2]訳者注:アメリカの社会学者。精神病に罹った人を、社会的な「役割」の観点から論じたことで知られる。 が精神病を考察したのとまったく同じやり方でもってして、大学教授のうわの空状態は考察せねばならないのだ、と私を納得するに至らせた。本質的に、このようなうわの空状態は、社会的逸脱の一形態なのだ。基本的には誰もがうわの空状態が大好きだ。なぜならそれはあらゆる種類の社会的義務をサボることを許すからだ。(もう一つ付け加えると、私の同僚には、年がら年中会議をすっぽかしたり、数時間遅れて姿を表しては「5時に集まるとみんなで決めたはずだったのになあ…」と言う人たちがいる。どいつもこいつも早めに会議に来ることなんてないのに、集まる時間を忘れてしまったとしれっと言う。)もっと一般化すれば、物事を思い出すには一定量の努力を必要とするので、単純に怠惰になった上で忘れっぽくなってしまったほうが、明らかに気楽である。我々がこんなやり方で万事を振る舞わない最大の理由は、ほとんど人は、もしこんなことをすれば他者から制裁を受けるからだ。うわの空状態とは結局、愚かさの別形態であり、普通の人が、車の駐車場所を忘れるとようなことをすると、そのことで人は制裁を受ける。人様から「何であんなことしたの、馬鹿なの?」と言われることになる。人様から愚か者や無能とみなされないために、人は自分の車をどこに留めていたのかを覚えておくような努力をするように動機付けられている。
ところが、大学教授になることは、あからさま、もしくは根本的に愚かである疑いから逃れる非常に良い方法になっている。大学教授が愚かな振る舞いをしたら、人は大学教授に「オーマイガー、君は本当にバカなんだな」とか「そんな馬鹿げたことはやめろ」とは言わず、代わりに「また空想にふけっているんだ」とか「より重要な思索をしているに違いない」と、大学教授を正当化しはじめる。言い換えると人は大学教授にフリーパスを与えるわけだ。大学教授になることは、愚かだとみなされることから免れる事ができるだけでなく、もっと愚かになることの社会的ライセンスも得ることになる。
フロイトから我々への教えが一つあったとすれば、人の「非自発的」であったり「無意識の」精神的活動とされているものは全て疑ってかかるべきだ、ということである。動機付けられた忘却は、フロイトが挙げた最も重要な例の一つだ。〔人が自身の〕意図や約束を忘れてしまうことについて、フロイトは『日常生活の精神病理学』で以下のように書いている:
概して忘れっぽい人であると知られていて、街頭で私たちに挨拶をしない事を近視の人たちを私たちが許すのと同様にそのことを許される人たちがいる。そのような人々はすべての小さな約束を忘れる。彼らは承諾したすべての仕事を実行しないまま放っておく。彼らは些末な諸々の事において自らが頼りにならないことを示し、同時に彼らのしたわずかな約束違反を悪く受け取らないことを我々に要求する。すなわち、彼らは我々が彼らの欠陥を個人的性格のせいにすることを望んでおらず、むしろ器質性の異常へと関連付けることを望んでいる。私自身はこうした人々の一人ではなく、また選択的忘却の中からその根底にある動機を発見する目的で、そのような人々の行為を分析する機会に恵まれなかった。先走って言う事はできないものの、しかし類推から推測すると、ここにある動機は他人に対する尋常ではない大きさの暗黙の軽視であり、器質性の異常というものを自分の目的のために悪用しているのである [3]訳者注:このパラグラフは、高田珠樹[訳]『フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学』, 岩波書店, 2007年. を参考にした。 。
以上を考慮した上で、私に被害を与えてきたうわの空状態の同僚教授について思い出せる限り全て思い出して反芻してみた。同僚らが私に不利になるうっかりミスを行ったのは何度だろう? 逆に、同僚らが自身の利益を高めることになっているうっかりミスを行ったのは何度だろう? と自問自答してみた。例えば、同僚らは私に借金した事実を何度忘れたのだろう? 逆に、私が借金している場合、同僚らは何度忘れたのだろう? と。前者に「いつも」、後者に「決してない」と少し誇張して言いたくなってしまう。そしてどんな場合でも、大学教授には少額であっても絶対にお金を貸してはならない、との即興の教訓を得た――貸したお金は二度と返ってこないからだ。もし大学教授に金を貸した人が帳簿をつけ始めてみれば、大学教授はうわの空状態になることで、通常は半々くらいで貸した人に不利益を与えていることに気づくはずだ。しかしながら、貸した人に不利益を与える以上に、大学教授は不特定多数に頻繁に不利益を与えているし、幾つかの場合は、不特定多数を非常な困難に陥れている。
追加してもう一つ。男性教授は女性教授よりはるかに悪辣である。このことは、社会的逸脱理論で非常に適切に説明可能だ。女性教授は教室でうるさい生徒を黙らせるのが男性教授より困難になっているのと同じ理由で、金を借りてすっぽかすのが男性教授より困難になっている。女性教授は「何であんなことしたの、馬鹿なの?」との反応を男性教授よりされやすいか、こうした反応を男性教授より恐れている。そのため、女性教授は、厚かましさに関しては男性教授より図太くないのだ。
ピエール・ブルデュー [4]訳者注:フランスの社会学者。文化資本と社会階級の関係について論じたことで有名。 は、美意識の領域では「イデオロギーは天性の嗜好になる」と名付けて、よく皮肉っていたものだ。人は〔美意識の領域では〕自身の「嗜好(好き嫌い)」を、まるで単純に付与されたり、自明のものであったり、天与のものであるかのように想定して扱うことになる。にもかかわず、この「嗜好(好き嫌い)」は、自身の階級的立ち位置や熱望している地位に、偶然ぴったり適合する――奇跡的に! うわの空状態に関しても同じく当てはまる。人は、うわの空状態を、自身の脳の形質であり、自身では制御不可能なものとして扱う。それでいながら、うわの空状態の特性を誇示する人は、自身が特権的社会的地位にいて、自身の記憶のうっかり間違いから不利な帰結を被らない偶然を自覚することになる――奇跡的に!
美意識とうわの空状態の両方のケースで妥当な説明は、人は地位を巡る競争と支配のゲーム内にいて自身の「動作」を決めているということだ。人がこのゲームを理解しているかは、しばしば暗黙のものになっており、故に〔ゲームに基づいて〕計算された内在的動作もあけすけになっていない場合がある。にもかかわず、シンプルに誰が得をしているのかの分析を行えば、何が行われているのかが十全に露わになる。この分析のおかげで、私はうわの空状態が、本質的には男性のマウント行動の一形態であると見做すようになり、マウントようなものとして対応するようになった。こうして気付いたことで、私は職場における社会的な力学を本当に適切に把握できるようになったのである。
※訳注:本エントリはラッコ氏の下訳を元にWARE_bluefieldが補筆・構成を行った完成させたものを投稿している。
References
↑1 | 訳者注:カナダ・サスカチュワン州にある州立大学。 |
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↑2 | 訳者注:アメリカの社会学者。精神病に罹った人を、社会的な「役割」の観点から論じたことで知られる。 |
↑3 | 訳者注:このパラグラフは、高田珠樹[訳]『フロイト全集〈7〉1901年―日常生活の精神病理学』, 岩波書店, 2007年. を参考にした。 |
↑4 | 訳者注:フランスの社会学者。文化資本と社会階級の関係について論じたことで有名。 |