ピーター・ターチン「ズボン着用の文化進化:後編」(2012年7月10日)

論点は、文明化が進んだヨーロッパで、チュニックからズボンへの切り替えが、「重装歩兵(ホプライトゥ)」が「騎士(ナイト)」に置き換わった後に生じている点にある

前編はこちら

古代ギリシャとローマは、優れた重装歩兵(ホプライトゥ)を生み出したが、騎兵は実に哀れな存在だった。たしかに、一部の兵士(たいていは富裕層)は、馬に乗っていた。彼ら上流階級は、ローマ人の間で「騎士(knights)」――「エクィテス(equites)」と呼ばれ、これはラテン語で馬を意味するエクウス(equus)から来ている。彼らは、伝令係に従事していたと考えられており、戦闘で決定的な役割を果たすことはなかった。一方、ローマの最大の敵だったハンニバルは、騎兵の活用法を知っていた。ヌミディア人の騎兵がカルタゴ側で戦っている限り、ローマは何度も敗北した。ローマがカルタゴとの戦争で勝利できたのは、最後の戦いとなったザマの戦いだけである。興味深いことに、ヌミディア人は、ザマの戦いの直前に寝返っている

やがてローマ人は、合理的で効率的な騎兵を導入しなければならないことに気づいた。当初、騎兵は補助的な部隊とされ、ローマ市民以外が担っていた。帝政期(紀元前一世紀以降)になって、ローマ人は騎兵を効率的に用いるようになった。しかし、乗馬でチュニックを履くのは不便だ。そこで、ローマ騎兵はズボンを履くようになった。(このズボンは、「ブラッカエ(braccae)」と呼ばれ、ケルト語から来ている。「ブラッカエ」という言葉は、後の「ブリーチズ〔19世紀まで西欧で使用された半ズボン〕の起源となった〕)。ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパは乗馬して戦う戦士「騎士(ナイト)」が支配するようになった(この移行は、紀元前8世紀頃のカロリング朝時代に起こった)。そのため、ズボンの着用は、身分の高い男性と結びつき、徐々に他の男性にも広がっていった。なお、ここで話しているのは、地中海文化についてである。北ヨーロッパでは言うまでもなく、少なくとも鉄器時代からケルト人とゲルマン人の両者はズボンを履いている。

つまり論点は、文明化が進んだヨーロッパで、チュニックからズボンへの切り替えが、「重装歩兵(ホプライトゥ)」が「騎士(ナイト)」に置き換わった後に生じている点にある。歴史的に、乗馬とズボンとの間には、非常に強い相関関係がある。例えば、日本では、伝統的な服装は着物だが、戦士階級(サムライ)はダブダブのズボン(スカートを分けたような特徴を持つこともある)、袴を履いていた。北米では、ヨーロッパ人が馬を伝える(正確には再導入。馬は北米原産だが、人類が北米の最初に到達してから、狩猟によって絶命に追いやった)前には、文明化されていたアメリカ先住民は、キルトを履いていた。

カホキア族の上流階級

しかし、大草原のインディアンが乗馬するようになると、キルトを履いていたインディアンもズボンを履くようになった。ズボンについてのもう一つの相関関係は、男性との関係である。一般的にズボンは男性しか着用しない(ないし、最初にズボンを履くようになったのは男性である)。この〔男性がズボンを履く〕習慣において目立った例外が、ギリシャのアマゾネスだ。言うまでもなく、アマゾネスは、乗馬と弓矢で高い技術を持っていたことで有名だ。

ズボンを履いたアマゾネス

上で上げた事例は、乗馬とズボンの着用に関係性があることを、状況証拠ではあるが示している。しかし、別の事例として、この関係性を示す直接証拠がある。

紀元前5世紀から3世紀にかけての中国は、戦国時代として知られている。戦国時代は、紀元前221年に秦の始皇帝によって統一されるまで続いた。戦国時代は、中央アジアに住まう新しい「夷狄」が中国の平原地帯の辺境に到達した時代でもあった。これら夷狄は、胡(あるいは、戎蛮、戎狄、匈奴、蛮夷)と呼ばれ、乗馬した弓の使い手であり、当然ながらズボンを履いていた。当時の中国人はローブを着ていた。

胡は即座に、騎兵が歩兵より優れていることを示し、中国の支配者は、遊牧民への防衛、さらに他の文明国家との戦いに勝利するために、この軍事技術の習得の必要性に気づいた。その一人であった、趙の君主であった武霊王は、趙の軍隊の重要な要素として騎兵の育成に熱を上げた。しかし、武霊王は、指揮官達が、馬上でも普段の宮廷服を着ており、そのままでは騎手として非常に効率が悪いことに気づいた。武霊王は、「夷狄」の服(つまりズボン)を着るように命じた。しかし、騎手達は、その命令を拒否した。

そこで、武霊王は、自ら模範を示すことにした。しかし、これは非常に難しい決断だった。想像してみてほしい、現在において、ズボンから、サロン(巻きスカート)に切り替える必要があったとしよう、アメリカ大統領が模範を示したとする。大統領は再任されるだろうか?

戦国時代に書かれた歴史書『戦国策』によると、武霊王は、政務を補佐していた肥義に以下のように告白したとされている。
「今、私は胡服を着て騎射し、民を教育しようとしているが、世間では私のことをとやかく言っているのであろう」。
肥義は決断を履行することを促したが、武霊王は次のように嘆いた。
「私は胡服を着ることを決めかねているのではない。天下の人々が私を嘲笑することを恐れているのだ」。
しかし、武霊王は「狂人の楽しみは、知者から見れば哀れに見える」と思いを巡らせた後、長い目で見れば、この“夷狄”の服装を採用すれば、軍事的効率は高まり、領土拡大を拡大できる見込みが高くなる利益に繋がると判断した。
「世が私を嘲笑しようとも、胡地と中山とは私が必ずや手に入れて見せよう」

このように考えた武霊王は、宮廷でズボンを履くようになった。しかし、この改革は、彼の叔父を始めとする、多くの大臣を含む、保守派からの大きな抵抗にあった。そこで起こった論争が、『戦国策』に書かれている。武霊王によるイノベーションへの反論は以下のようなものだった。

「王が当初からのありようを変えて、習俗に囚われることなく胡服を着させて世俗を無視なさいますことは、民の教化と礼を広めることには繋がりません。また服装が奇抜ですと、気持ちも調和を失いますし、習俗が廃れては民情にも影響が出ます。政治に携わる方は奇妙な服は着ることなく、中国が蛮夷に近づかぬようすることは民を教化し礼を行き渡らせることではないためです」『戦国策』より

この歴史書から長々と引用したのは、文化的な慣性に逆らうことがいかに困難であるかの素晴らしい洞察を与えてくれるからだ。前編で指摘したように、社会的要因は、単なる快適さの考慮よりも優先される。オバマ大統領が、サロン(腰巻きスカート)を着て一般教書演説を行えば、共和党はアメリカの民主主義の根幹を揺るがす行為だと批判するだろう。

最終的には、中国では、文化的集団淘汰のプロセスによってズボンが勝利した。騎兵(とズボン)を採用しなかった国や、採用が遅すぎた国は採用が早かった国に破れた。北西部に位置し、中央アジアの騎馬民族から最大の圧力を受けていた半夷狄国家だった秦が、最も効率的な軍事機構を進化させ、戦国時代の他の国家を制圧して、中国を最終的に統一したのである。

〔訳注:『戦国策』の訳文は、英語から重訳せずにこのページの訳を参考にしている〕

[Peter Turchin, “Cultural Evolution of Pants II” cliodynamica, 10 July, 2012]
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