中国についてぼくが考え違いをしていたことに,為替レートがある.2010年前半に,ぼくはこう予想していた――「バラッサ・サミュエルソン効果〔散髪みたいな非貿易財よりも自動車みたいな貿易財の生産性が高い国は物価が高くなる効果〕により,ドルに対する人民元の実質為替レートは強く価値が上がるだろう.」 そうはならなかった.さらに,中国を訪れた後でも,その理由はいまひとつわからずにいる.それでもいちおう,中国に行ってみて気づいたことについて,いくつか書いてみよう.
そうそう,ちょっと言い添えておこう.人民元の価値が実質で上昇するという予測は,中国〔のモノやサービス〕がかつてにくらべてもっと安くなくなるという予測にひとしいってことだ.
- 中国はいまだにとても物価が安い.それはどうも賃金には関係ないらしい〔賃金は急速に伸びている割にそこまで他の物価はそこまでではない〕.北京の地下鉄料金はだいたい55セントだ.ニューヨーク市のだいたい5分の1でしかない.北京地下鉄の年間利用者40億人にニューヨーク市の地下鉄と同じ料金をかけたら,年間の収益が20億ドルから10億ドルにハネ上がるわけだ.だからこそ,アメリカと中国の GDP を市場の為替レートで比較するのはてんで無意味になってしまう.購買力平価で比べた場合ですら,アメリカの方がずっと豊かだ.ただ,市場価格の落差を見ていると,実際の米中のちがいを過大評価してしまう.実際の産出でみた中国の総 GDP は明らかにアメリカより高い.(ちなみに,北京の地下鉄はニューヨークの地下鉄よりはるかにいい.)
- 地下鉄に当てはまることは,バス・タクシー・長距離列車にも当てはまる.どれもアメリカの基準で見ると馬鹿馬鹿しいほど安い.たぶん,5分の1くらいだ.中国の交通システムの「産出」をアメリカの価格におきかえると,とんでもない額になる.コストの大半を飛行機の機体とジェット燃料が占める飛行機だと,その差は小さくなる.
- 賃金は急激に上昇してる.2000年代の序盤,北京で掃除と料理をやるお手伝いさんの時給はだいたい70セントだった.いま,同じお手伝いさんは時給3ドル50セントかせぐ.購買力平価でみると,これはアメリカの最低賃金に近い.でも,ニューヨークや LA だったら,この種の労働者は全国の最低賃金よりはるかに多く稼ぐ.だから,中国の非熟練技能労働者の生活水準はアメリカよりもずっと低いわけだ.
- 散髪はすごく労働集約的な仕事だ.中国で散髪してもらったとき,同じ店でも2001年の料金は1ドル20セント,2012年は4ドル,そしてごく最近の中国旅行では6ドル90セントだった.チップはないので,アメリカで払う料金の半分を少し下回る.とはいえ,中国の名目賃金は急速に上昇している.政府はこの点について嘘をついてはいない.
- 名目賃金は急速に伸びている(疑わしい政府データを当てにしなくてもこれはわかる).このため,中国の名目 GDP が急速に伸びていることもわかる.だから,実質 GDP 成長をめぐる議論は,インフレがどうなっているかの論点で戦われることになる.
- 中国のインフレ率データを疑う理由を,ぼくは持ち合わせていない.理容師以外に目を向けると,前回 中国を訪れたときに比べて,たいていのモノはそんなに高くなっていない.レストランの料理は相変わらずめちゃ安い.ただ,アメリカに比べると,個別の料理ごとに値段のばらつきはずっと大きい.なぜなら,アメリカに比べて,コスト全体に労働が占める割合がずっと小さいからだ.野菜炒め一皿で2ドル50セント,肉料理で5ドル,海鮮料理一皿で10ドルってところだ.価格は税込みで,チップはいらない.
- 2009年に,天津市の高速鉄道に乗ったときの料金は8ドルだった.驚いたことに,いまもこれはだいたい同じまま変わっていない.中国では,明らかにごく穏やかなインフレしか生じていない.都市部に暮らす中国人の生活水準を抑えている最大の制約は,住宅だ.そして,皮肉にも,資本主義的な香港でこそいっそうそうなっている.香港では,住宅こそが社会主義的な部門だ.
中国のインフレがごく穏やかなことと,名目賃金が急速に伸びていることを考え合わせると,実質 GDP が急速に上昇しているのはすぐにわかる.このことを知るのに,政府データを当てにする必要はない.だが,あちこちの都市を(あるいは田園部を)見て回った人ならわかるだろう――中国は前よりもずっと発展している.
じゃあ,どうしてぼくが予想したようにバラッサ・サミュエルソン効果は影響を及ぼしていないんだろう? ぼくにはよくわからない.ただ,購買力平価での比較がとても重要な理由については,Econlog の方に新しい記事を書いておいた.その記事で指摘しているのはこういうことだ――日本円の実質為替価値は1994年以降に急激に高くなっている.そうすると,市場為替レートを信じるならこう結論づけるしかない:「日本は,世界市場でも指折りにひどい不況をいままで経験してきた.」 実際には,日本はそこそこうまくやっている.でも,それは購買力平価で見たかぎりでの話だ.
ぼくらはついつい中国通貨をドルに比較して考えがちだ.でも,中国経済は〔アメリカより〕日本の方にずっと似ている.日本も中国も,東アジアの工業製品輸出国だ.人民元と円に着目すると,1994年以降に巨大なバラッサ・サミュエルソン効果が生じている.人民元は,日本円に対してはげしく価値を上げてきた.少なくとも,円に対してはそうだ.
ということは,どうやらぼくのマチガイは,ドルの強さを予測したことではなかったようだ.1994年に,日本のような国々がアメリカからの旅行客にとってずっと割安なところになるなんて予測していなかった.当時,日本はかなり高かった.
もしかすると,アメリカがグローバルなテック系産業を支配しているかたちが,説明の一部になるのかもしれない(アメリカの株式市場が他国の市場よりいい成績をあげている理由もそこにありそうだ).ともあれ,中国の為替レートに関してはぼくは間違っていた.
ぼくにとってとりわけ意外だったのは,北京の大気汚染がひどくなかったことと,権威主義体制の度合いがぼくの予想よりもずっとひどかったこと,この2点だ.大気汚染の方は,たまたまだったのかもしれない.ひょっとして,10月1日の式典に合わせて工場が閉鎖されていたのかもしれない.北京の空気は徐々にきれいになってきている.ただ,ぼくが中国を旅したときに思ったほどには劇的にきれいになってはいないのかもしれない.
中国の権威主義体制は気まぐれで変わるようなものではない.ただ,それすら,〔サムナーが訪れたときには〕きたる10月1日〔国慶節〕に向けて少しばかり強化されていたのかもしれない.その要点は,実際に何をやるかにあるのではなくて(実際にやってることはアメリカでぼくらがやってることと大差ないことも多い――無駄にセキュリティチェックをやったり監視カメラをつけたり),治安維持態勢の圧倒的な規模にある.これはものすごく気が滅入る思いをした.(もちろん,それだって中国東部での話であって新疆ウイグル自治区はそれよりはるかにひどい.)