ジョセフ・ヒース「『啓蒙思想2.0』著者自身による紹介」(2014年4月18日)

進歩的な政策課題を前進させるための唯一のアプローチは、合理的な議論が広がっていく可能性を高めるために、政治的言説のあり方を変える方法を探ることだ。

Enlightenment week wrap-up
posted by Joseph Heath on April 18, 2014 | Uncategorized

私の著作『啓蒙思想2.0』が刊行されてから1週間が経ったが、大変有意義な1週間だった。これは、本書の内容から多くを抜粋して掲載してくれた「オタワ・シチズン」誌と「ナショナル・ポスト」誌に大きな恩を負っている(「オタワ・シチズン」は先週の金曜日に、「ナショナル・ポスト」は今週の間ずっと)。しかし、掲載は抜粋だったため、それを読んだ一般読者を、「一体全体この本はどういう内容なんだ?」と不思議がらせてしまったかもしれない。

そういうわけで、抜粋掲載されたものがバラバラではないことを示すために、一連の抜粋がどのように関連し合っているかを説明してみよう。

本書では、昨今の政治における非合理主義の台頭に、多くの人が懸念を抱いていることを述べるため、ジョン・スチュアートによる「正気を取り戻すための集会」 [1]訳注:集会におけるスチュワートのスピーチはここで視聴することができる。Stewart: “We Live in Hard Times, Not End … Continue reading をまず最初に取り上げた。スチュワートだけが正気を取り戻そうと訴えたわけではない。

一方同時期に、理性は役立たずとか、私たちはどうしようもないほどバイアスに囚われているなどと教える心理学者たちの本がたくさん出版されていた(ダニエル・カーネマン、ダン・アリエリー、そしてもちろんそうした心理学者たちの研究を一般の人にも普及させたマルコム・グラッドウェルの『第1感』)。結果、政治において理性の役割をもっと大きくしていこうと訴えようにも、「既成」の理性概念は役に立たなくなっていたのである。それどころか、デイヴィッド・ブルックスのような人達は、最近の心理学の文献を挙げながら、「見よ、保守派は正しかったのだ。リベラリズムは合理主義者のうぬぼれに過ぎなかった。保守主義者は人間心理をよく理解しており、ヒトの本性を向上させるようなご大層な計画は失敗する運命にあると見抜いていたのだ」などと宣っていた。

そこで、本書の第1部は、20世紀の心理学と認知科学の知見を取り込んでアップデートされた理性の概念を示すことを目的にしている。このアップデートされた理性概念は、オリジナルの啓蒙思想の理性概念より明らかに穏当なものとなっている(そしてこのパートは本書において最も哲学的な部分だ。私の見解は、マイケル・ダメット、キース・スタノヴィッチ、アンディー・クラークの知見を融合させたようなものとなっている)。もう一つ、この第1部で心を砕いたのは、理性は、どうしようもなくバイアスに囚われており、力不足であるかもしれないが、それでも自らの誤りを見つけ訂正することができる唯一の認知システムであるのだから、人間の幸福にとって不可欠だということを示すことにあった。

本書第2部では、時代が進むにつれ政治的言説が実際に非合理的なものになっていっているのか否かという問題を取り扱っている。この問題は、簡単そうに見えるが、意外に取り扱いが難しい。このパートでは、私が「懐古主義」と呼んでいる、文化全般は常に衰退していくという思考に陥らないよう、大変な注意を払っている。懐古主義は概して、加齢による自分自身の変化(例えば、シニシズムの高まり)を、周囲の文化の変化と誤認してしまうことに関係している。この問題を回避するために、私はちょっとした文化進化モデルを開発した。この文化進化モデルによるなら、人間の不合理性を利用する文化的イノベーションは、生き残り繁栄する可能性が高くなり、それゆえ文化内に蓄積、あるいは「プール」されてしまう。よって〔不合理性を利用する文化的遺伝子は蓄積されていく一方なので〕合理性を保つことは時間の経過と共に困難になっていく。広告についての本書での手短な考察は、この傾向の一例となっている。

第2部では、インテリの押し付けてくる「突飛な空論」より、直感を信じるべきだと主張する「常識保守主義」の台頭も論じている。カナダ人は、直観や「勘」の特権視がどれほど右派の共通イデオロギーになりつつあるかを理解することで、近年のカナダ政府のわけの分からない振る舞いをよく理解できるようになると私は考えている(例えば、ジェイソン・ケニーの数週間前の行動を考えてみよう。ケニーは、いんちきな統計データを根拠にして派遣労働者政策を擁護して、非難を浴びた。これは、政府がカナダ統計局に対して、(ドラコン流〔古代アテネの立法者で、苛酷な刑罰を定めたことで有名。〕の)苛酷で、恣意的にも思える予算削減を行い、良質なデータを見つけることがますます難しくなった後に起こった出来事であった。悪質なデータを使っていると経済学者に批判されたとき、ケニーは以下のような反論を行った。「表計算ソフトの前に座って、抽象的なデータを基に世界を解明しようとする経済学者たちに勧めたいのだが、私がいつもしているように、実際に現実の世界に飛び出して、雇用主たちと話してみてはどうだろう」。雇用・社会開発省の大臣が、全国的な統計を見る代わりに、自ら外に出て集めてきたいくつかの体験談を基にして政策を考えているというのは、かなり面食らわされる事実だ。ケニーは狂っているようにさえ見えるが、こうした主張が、幅広い政治的イデオロギー〔常識保守主義〕の一環であることがわかれば、これは不思議でも何でもないだろう)。

最後に、第3部では、これらの問題に対して私たちがどう対処すべきなのかを扱っている。左派は、右派による直感的には説得力があるが根本的には非合理な政治活動に遭遇すると、私が「砲火には砲火を」と呼んでいるタイプの応答をしたいという誘惑に駆られやすい。このアプローチをはっきりと支持する論者の代表格が、ジョージ・レイコフ [2]訳注:アメリカの言語学者(1941-)。メタファーについての研究で知られており、政治的発言も積極的に行っている。 である。(カナダでは、NDP〔新民主党〕の戦略にこの傾向がはっきりと見て取れる。NDPは人々の怒りに訴える一方で、極めてナンセンスな「ポピュリスト」的な政策を採用している。銀行のATM手数料への規制を要求したり、住宅暖房の一般消費税(財・サービス税)の免除を求めたり、といった政策である。ジェフリー・シンプソンは、こうした政策を取ることがなぜ悪手なのかを指摘した素晴らしい記事を書いている)。本書で私は、こうした左派の戦略が、その場しのぎの悪手というだけでなく、必然的に〔左派を〕自己破滅に至らせることを示そうとしている。なぜなら、政治的立場によって土台となっているものが異なっているからだ。最も進歩的な政治的立場は、理性に訴えかけるアプローチに基礎を置いており、その政策を直感に沿うような形で定式化できるということはめったにない。特に、大規模な集合行為問題(環境保護から、公共交通機関の設置まで)を解決するための政策は、結局人間の行動の相互作用の仕組みに対する理性的洞察を必要とする。私たちは大抵、直感的な反応の多くを抑えるように要求されるのである。

進歩的な政策課題を前進させるための唯一のアプローチは、合理的な議論が広がっていく可能性を高めるために、政治的言説のあり方を変える方法を探ることだと私は考えている。これはもちろん、多くの人々が既に求めてきたことでもある。しかし、そうした人々は未だに「啓蒙思想1.0」を前提にしており、理性を個人的なものとして捉えているため、「もっとよく考えろ」とか「もっと教育が必要だ」といったことしか言えなくなってしまっている。私は、理性は適切な環境でなければきちんと機能しないということを強調する形で理性概念をアップデートすることで、やや独創的な理性の理解を提示している。それゆえ、私は議論や熟慮を行う環境の整備に焦点を当てて、「合理性の政治」を求めているのだ。

本書は、「スロー・ポリティクス」宣言によって締めくくられている(なぜなら、理性の重要な特徴の一つは、それが大変遅いことであり、政治的言説全般の即時反応化は理性の働きを阻害するからである)。この宣言が奇妙なものに聞こえるとしたら、それはこれが実は「スロー・フード」宣言のパロディだからである。読者が冗談の通じる人であるといいのだが。

References

References
1 訳注:集会におけるスチュワートのスピーチはここで視聴することができる。Stewart: “We Live in Hard Times, Not End Times”。スチュワートのスピーチの邦訳はここで読める。Rally to Restore Sanity (ジョン・スチュワートのスピーチ全訳)- 日記のようなもの
2 訳注:アメリカの言語学者(1941-)。メタファーについての研究で知られており、政治的発言も積極的に行っている。
Total
1
Shares

コメントを残す

Related Posts