タイラー・コーエン 「経済学のポピュラー書の背後に潜む神学的な立場」(2008年2月19日)

●Tyler Cowen, “What I really think of the new popular economics books”(Marginal Revolution, February 19, 2008)


経済学のポピュラー書(一般読者向けに書かれた経済学の読み物)の隆盛をテーマにした記事をスイスのアート雑誌であるDuに寄稿したばかりだ。私の本業は言うまでもなく経済学だが、経済学のポピュラー書の背後にどのような哲学的神学的な立場が潜んでいるのかにも興味を引かれてしまう。件(くだん)の記事ではそのあたりのことも話題にしたのだが、残念ながらドイツ語に訳されていて、ネットでも読めない。そこで、原稿の一部だけでも以下に引用しておくとしよう。

まずは、『ヤバい経済学』(レヴィット&ダブナー著)について。

『ヤバい経済学』の背後にひっそりと潜んでいる神学的な立場は、「原罪」の観念を強調するそれである。『ヤバい経済学』は、嘘つきの話で溢れている。「人間は嘘をつくが、データは嘘をつかない」というのがこの本のモットーと言えよう。

・・・(中略)・・・

ナイーブな楽観主義に手痛い一撃を食らわすのが、レヴィット&ダブナーの二人の狙いだ。改心する必要があることを読者に訴えかけて、この世の中からナイーブさを追放せよと提案しているのだ。人類は、原罪を背負い込んでいることを認めねばならないし(本の表紙カバーを飾っている「かじられたリンゴ」の画像 [1] … Continue readingを思い出すがいい)、ユートピア的な夢想なんて諦めねばならないし、科学によって立証された冷厳な事実を受け入れねばならない。つまりは、「人間の堕落」という逃れられない現実を受け入れよと説いているわけだが、それで終わりではない。『ヤバい経済学』は、日常生活の中で出くわす可能性のある「人間の堕落」や「嘘」に対して前もって心の準備をさせてくれているのだ。『ヤバい経済学』があらかじめ警告してくれているおかげで、現実の中でどんなことに出くわしても(日々の暮らしの中で「人間の堕落」や「嘘」を目の当たりにしても)がっかりせずに済むのだ。

著者の一人であるダブナー――『ヤバい経済学』の文章を執筆した(ライターを務めた)のは彼だ――には、自らの神学上の立場を省みた著書があると知っても、何ら驚くには当たらないだろう。ダブナーはユダヤ人の血を引いているが、彼の両親はカトリックに改宗していて、ダブナーも幼い頃からカトリック教徒として育てられた。しかしながら、年齢を重ねるにつれて、ユダヤ人としての痕跡を再発見し、ユダヤ教に改宗するに至る。その歩みを辿った魅力たっぷりの作品が『Choosing My Religion:A Memoir of a Family Beyond Belief』だ。ダブナーの心を捉えて離さない主要な関心事は神学の問題であり、ダブナーにとっては神学の問題こそが『ヤバい経済学』――大勢のアメリカ人の琴線に触れた一冊――を執筆する上での背景になっているのだ。

次に、ティム・ハーフォードの作品(『まっとうな経済学』と『人は意外に合理的』)について。

ハーフォードの語り口は、いつだって穏やかだが、シニカルな(冷笑的な)面が顔を覗かせることも珍しくない。ユーモアも時に交えながら、読者を元気付けてくれる。世の中のアイロニーも見逃さず、人間が嘘をつく生き物であることも否定しない。しかしながら、嘘をつくなんていう微罪は、ハーフォードが指揮する道徳的な舞台の上では、本筋から外れた小さな事件に過ぎない。ハーフォードが指揮する舞台では、出世街道をひた走りながら、ほどほどの幸せを手にするのも可能だし、ちょっとした徳を積むことだって可能なのだ。ハーフォードの話に耳を傾けていると、快楽主義(ヘドニズム)にも居場所があることに気付かされる。彼の最新作(『人は意外に合理的』)では、開幕から「合理的なアレ(皆まで言わなくてもわかるだろう。アレだアレ)」 [2] 訳注;「合理的なアレ」というのは、「合理的なフェラチオ」のこと。というのがあり得るかについてああだこうだと論じられているのだ。

言うなれば、アメリカ流の「原罪」の観念よりも、イギリス流の「世俗主義」の側に立っているのがハーフォードなのだ。ハーフォードがフィナンシャル・タイムズ紙で連載しているコラム(“Dear Economist”)を読むとわかるように、・・・(略)・・・人間が欠点を抱えているのはどうしたって避けられない現実と見なされているものの、その欠点にも暖かい眼差しが送られている。ハーフォードが指揮する道徳的な舞台の上では、何事も一方的に手厳しく断罪されたりはしないのだ。

レヴィット&ダブナーの二人に比べると、ハーフォードは、「『見えざる手』のメカニズム」により強い関心を持っているように見える。『ヤバい経済学』では、ごくありふれた見た目のあれやこれやの裏に「人間の堕落」が潜んでいることが相次いで告発されている。その一方で、ハーフォードの『まっとうな経済学』では、「人間の堕落」の証拠に見える振る舞いが寄り集まると、まずまずの結果がもたらされる――人道的でさえもある結果が時としてもたらされる――可能性がしきりに説かれているのだ [3]訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事も参照されたい。 … Continue reading

他にも色々と論じているが、引用するのは次で最後にしよう。

経済学のポピュラー書が備えているそれぞれの色合いが一番鮮明になるのは、セックスが話題になる時だ。『ヤバい経済学』ではどうなっているかというと、セックスは、神聖な行いではなく、犯罪者(予備軍)をこの世に産み落とす行いとして描かれている。・・・(略)・・・その一方で、ハーフォードの作品ではどうなっているかというと、セックスは、ちょっとした性的な喜びを与えてくれる行いとして描かれている。称賛されるような類の喜びではないが、喜びであることには変わりない。アメリカ人である私からすると、ハーフォードの作品にはイギリス色が強く出ているように感じてしまう。

References

References
1 訳注;「かじられたリンゴ」の画像にはアダムとイブの楽園追放の物語を想起させる意図があると言いたいのだろうが、原エントリーのコメント欄でも指摘されているように、コーエンのこの指摘には不正確なところがある。『ヤバい経済学』の表紙を確認すると、リンゴはかじられているわけではなくスライスされていて、その中味がリンゴではなくオレンジになっている。物事を深く突き詰めていくと、表面的な見た目(リンゴ)からは想像もできないような意外な真相(オレンジ)に突き当たる、というようなことが言いたいのかもしれない。どうしてリンゴとオレンジの組み合わせなのかというと、「リンゴとオレンジを比較する」(compare apples and oranges)という英語の慣用句からきているのかもしれない。比べようのないもの同士を比べるという意味だが、「表面的な見た目」と「真相」があまりにかけ離れている様を表現するのに、「見た目はリンゴで、中味はオレンジ」というイメージはもってこいと思ったのかもしれない。
2 訳注;「合理的なアレ」というのは、「合理的なフェラチオ」のこと。
3 訳注;この点については、本サイトで訳出されている次の記事も参照されたい。 ●アレックス・タバロック 「経済学者の間で脈々と受け継がれる『既成道徳の転倒』という伝統芸」(2016年7月25日)
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