出生率は重要な経済問題だけれど,レトリックの海域には危険がいっぱい.
“Between Scylla and Charybdis” by Cea., CC BY 2.0
出生率という話題は,とても扱いにくい.子供をつくるかどうかを決めるのはごく個人的な問題で,その判断に政府が介入すべきじゃない.でも,それと同時に,全体としての人口の増加は,一国の経済にとってすごく重要だ.そういうわけで,経済の観点で出生率について書きたいと思ったら,「みんなの選択の自由を侵害するのを主張してるんじゃないんですよ」ってことをはっきりさせて執筆する必要がある.
ざんねんながら,こういうアプローチをとらない人たちもいて,自分の(たいてい右翼的な)文化政治の得意ネタに出生率の話を使ったりする.そういう事例には,こういうのがある:
出生率の話を書くときにぼくにとっていちばんの心配事は,このなかの1つ目からたいていやってくる.ぼくが書いてる文章を知ってる人たちならご承知のとおり,ぼくが伝統主義者でも優生思想家でも民族ナショナリストでもない.ところが,「出生率が高くなる方がアメリカ経済の将来にとってはいいことだ」と書くと――先週の『ブルームバーグ』にそう書いたんだけど――「ノア・スミスのヤツ,分娩室に行けって女性に指図してるんだな」なんて思われるんじゃないかと心配になる.当たり前だけど,柳澤伯夫みたいに思われるのはごめんこうむりたい――柳澤は,厚生労働大臣だった2007年に,女性のことを「産む機械」呼ばわりした人物だ.
実を言うと,総じてのぞましい各種の傾向がもたらす副産物として出生率が低下している場合はよくある(いつでもそうとはかぎらないけれど).国が豊かになっていくと,生まれる子供の数は減っていく.同じことは,人々全般についても当てはまる.教育水準が上がったり,子供の死亡率が下がったり,避妊の手段が手に入り安くなったりするのは,どれもいいことだ.そして,こうしたことにともなって出生率は下がっていく傾向がある.出生率低下が経済問題になっている国々とは,教育水準・所得・健康水準がよくなってきた国々だ.教育・所得・健康にのぞましい傾向が見られるのは祝福すべきではあるけれど,その一方で,高齢化にともなういろんな課題にどう取り組むべきかも考えないといけない.
1990年代から2000年代にかけて,アメリカでは短期的ながら出生率が豊かな国の平均を上回った時期があった.みんな,これにはほんとうに励まされた――ライバルたちがただただ縮んでいくなかで,アメリカは成長に成長をつづけていく未来がそこに予見されそうに思えたんだ.みんなの年金基金は潤沢になり,インフラを更新し続ける費用をまかなうのに十分な税金が入り,住宅価格は安定して上がり続ける――そんなすてきな時代が来るんじゃないか.ぼくも,この楽観論を抱いていたひとりだ.
ところが,2010年代にアメリカの出生率は下がった.だいたい,豊かな国の平均値まで戻ってしまった.
80年代後半から00年代後半までのミニ・ベビーブームを振り返ってみると,終わる定めにあった当たり前の理由があったのがわかる.『ブルームバーグ』コラムでは,そういう理由の一部を簡潔に解説しようと試みた.
80年代後半から00年代後半にかけて異例なほど堅調な出生率が見アメリカで見られたのは,なぜか.(他にも理由はあるけれど)その理由のひとつは,これだ――ヒスパニック系のの出生率がいくぶん高かったからだ.めちゃくちゃに高かったわけじゃないけれど,白人・黒人・アジア系の出生率よりも高かった.こういう他のグループは,約 2.1 の「置換水準」と同じか,これを下回っていた:
経済面では,これはぼくらの国にとっていいことだったんだよ.でも,そのまま続くわけがなかったし,続いてくれるなんて期待すべきでもなかった.なぜなら,同時に,ヒスパニック系アメリカ人は所得と教育の階段をだんだん上ってきていたからだ.
【「階段をどんどん上る」――近年,他のどの集団よりもヒスパニック系の所得が急速に伸びている(2014年から2019年のあいだに世帯所得の中央値が伸びた割合の推定を示す)】
【人種・民族集団別に見た,18歳~24歳の高卒者の大学進学率】
所得と教育水準が高くなっていくのは,どちらもいい傾向だし,喜んでしかるべきだ.たしかに,出生率の低下にはつながった.でも,それはヒスパニック系アメリカ人ひとりひとりの個人的な選択だ.ぼくらみたいに政策について考える人間は,個人の選択を尊重しないといけない.たとえ,出生率低下で生じる経済面での課題に取り組む方法を考える場合であってもだ.もっと子供を産みたいと望んでいるのにとても費用をまかなえない家庭があったら,子ども手当とか児童保育への助成金を出したりして,政府の政策を使って支えるべきだ.でも,「キミたちはもっと子供を産む必要がある」なんて人に指図してはいけない.
これは微妙な立場だけれど,正しい立場だとぼくは思ってる.ざんねんながら,『ブルームバーグ』コラムでは,誰でもわかるようにその微妙なところをうまく伝えられなかった.コラムでは,こう書いた:
出生率低下には,他のものぞましい原因がある.それは,ヒスパニック系アメリカ人がアメリカの標準的な出生率に同化してきていることだ.2007年に,ヒスパニック系アメリカ人女性は,白人の似たような人たちに比べて約 67% も子供を多く産んでいた.2018年になると,その差は 20% 未満にまで縮んでいる.これは,移民の子孫たちが首尾よく文化的に統合されてきているしるしでもあり,ヒスパニック系の人たちのあいだで経済的な上向きの階層移動がなされているしるしでもある.
この段落を読んで,ヒスパニック系の出生率低下はいいことだと言ってると解釈した人たちが一部にいた――つまり,ぼくのことを優生思想の持ち主か民族ナショナリストだとその人たちは考えたわけだよ.
Welcome to the United States, where a white liberal can publish a eugenicist diatribe in @bopinion on Wednesday, and mock silly white liberals on Twitter by Saturday: https://t.co/mIXfuBRqhU pic.twitter.com/suwuNF8kQ4
— Mo Torres (@motorresx) May 8, 2021
https://platform.twitter.com/widgets.js
合衆国にようこそ.この国では,水曜に優生思想の暴言をブルームバーグで公表して,土曜にはアホな白人リベラルをこきおろせるんだぜ.
どうしてこんな風にコラムを読むことになったのかは,わかる.ここ4年ほど,アメリカでは優生思想の持ち主たちが権力の座について,その権力で移民を迫害したり移民しようと思ってる人たちを痛めつけてきた.さらに,いわゆる「大置換」(“Great Replacement”) の思想が政治的右派イデオロギーの中核になってしまった.ぼくがどういう著作活動をしてきたか知らなければ,きっと,さっきの段落を読んで「こいつはステーブン・ミラーやタッカー・カールソンの同類だな」と結論を下してもおかしくないんだろう.
ぼくのうかつな言葉えらびをさらに悪化させたのが,Twitter だ.あの段落ひとつを読んだだけだと,『ブルームバーグ』コラムの目的は読み取れないだろう.その目的とは,A) 移民流入の増加,B) 親たちへの経済的支援(これはヒスパニック系と黒人の親たちに偏るはずだ),この2つだった.つまり,ヒスパニック系の人口増加を抑圧するどころか,これを加速させる政策を主張してたんだけど,そんなことはあの段落からわかるはずもない.あのコラムで呼びかけてたのは優生思想ではなくて,優生思想の持ち主たちにとっての悪夢だったんだよ.
でも,この Twitter 時代には,こういうことに文筆家は直面する.どの段落を書くときにも,「この段落しか目にしない人たちがいるかもしれないぞ」と心得ておかないといけない――とくに,課金の壁がある文章だと,だれかのツイートで抜粋されたところしか読めない人が大半だ.悲しいことに,ぼくの言葉選びのせいで,「アメリカにまたひとり優生思想の持ち主が登場したぞ」とTwitter 読者の一部に思い込ませる結果になってしまった.
(「同化」という単語を使ったことで,一部の人たちの神経を逆なでしたらしい.「同化」と聞くと,おぞましい強制的な文化的順応が思い浮かぶ人たちは大勢いる.「経済条件が平等になるにつれてライフスタイルが自然と同じところに収束すること」をぼくは言わんとしてたんだけど,この人たちにはそういう風に受け取られない.)
ともあれ,高齢化の問題は消え去ろうとしていない――アメリカにとっても,そして,世界の大半の国々にとっても.マジメに,包括的なかたちで経済政策の話をしようってときには,移民流入も出生率も取り上げなくてはいけない.でも,その話をするにあたっては,個人の選択を尊重しないとダメだし,タッカ・カールソンやステーブン・ミラーみたいな人たちの思う壺にならないようにはからう必要もある.これをうまくやりきるのは難しいし,今回の件では,のぞましいかたちで書けなかった.でも,やってやれないことはないと思う.