最低賃金について経済学者たちが考えを改めた理由
1994年に,デイヴィッド・カードとアラン・クルーガーが画期的な研究を発表した.最低賃金を大幅に引き上げても,(大半の経済学者の予測に反して)失業が増えないというのが,その内容だった.カードは,多くの同僚たちに能動的に無視された.彼らは,最低賃金が雇用をつぶすという理論に深く傾倒していた:
「どんなところでも賃金をいかなる水準にでも設定できる自由な裁量を人々に与えているのだ」と我々の研究に反対した経済学者たちは考えて,気分を害した.(…)その後,私は最低賃金の研究文献から距離を取った.理由はいくつもある.第一に,最低賃金の研究の対価として,私は多くの友人を失った.たとえば,長年つきあいのあった人々,私が最初の職を得たシカゴ大学で会った人たちのなかには,ひどく憤慨したり失望したりした人たちがいた.その人たちから見ると,あの研究を公表することによって,経済学全体の理念に対して裏切りを働いているように思えたのだ.
こうした反対は,実証主義者によってお気に入り理論を反駁された理論家たちの憤慨に尽きるものではない点に注意しよう.彼らの怒りは,政治的・イデオロギー的な部分があった.カードが言う経済学者たちは,自由市場の守護者を自認していて,カードの研究によって計画経済の支持者たちに救いの手が与えられると考えたんだ.
でも,その後の二~三十年で,面白いことが起きた――カードやクルーガーのような実証主義者たちが経済学という研究分野を席巻するようになって,彼の最低賃金研究に反発していた学者たちはどんどん少なくなっていき,その声もだんだん小さくなっていった.経済学という専門分野が変化するとともに,最低賃金に関する経済学者たちの信念も変わっていった.
変化実際には,2つの変化があった.経済学者たちは,格差のような話題に以前よりも関わるようになった.公共経済学の分野のグラフを見てもらおう(公共経済学は,税や政府支出のようなことを扱う分野だ):
コンピュータ化のおかげで,実証的な経済学研究がこの分野を制覇した――この分野は,以前より信用がおけるものになり,もっと注意深くなった.
▲変化する経済研究の性質: 経済学のトップ学術誌に掲載された論文のさまざまな手法が全体に占める割合.
水色: 理論研究 / 淡いグレー: シミュレーションと理論 / 濃いグレー: 実証(データを借用) / 青: 実証(独自データ)/ 緑: 実験
同じ時期に,経済学者は最低賃金についての自分たちの信念を改めた.この投稿の冒頭にのせたグラフを見てわかるように,最低賃金はたくさんの雇用をつぶすと考える経済学者の割合は,70年代後半には圧倒的多数だったのに,2010年代半ばにはそこそこの少数派になっている.このデータは,Arin Dube のプレゼンの旧バージョンから引用した.もっと最近のバージョンからスライドを引用しよう:
これはすごく劇的な変化だ.そして,見てのとおり,この変化はカードとクルーガーが例の有名な研究をやる前から始まっている.だから,こうした変化をもたらした理由として,経済学者たちがイデオロギー的な考えを変えたことによる部分がどれくらいあって,証拠が山のように蓄積されたことによる部分がどれくらいあるのか,すぐにははっきりわからない.
ともあれ,証拠は山のように蓄積されていた.
証拠1年ちょっと前に,イギリス政府の依頼で,これまでに集まった証拠の要約をDube が執筆している.移民については大量の論文を見ていったけれど〔翻訳記事〕,今回は手短に Dube を引用するだけですませよう.彼はこう書いている:
合衆国では,最低賃金が雇用におよぼす影響を検討する良質な研究が大量になされてきた.全体として,こうした集まった証拠からは,比較的におだやかな影響が低賃金雇用におよぶことが示されている.(…)合衆国の各地の州で,賃金中央値のおよそ 59% までの雇用であれば,最低賃金の影響は小さいことが最良の証拠からうかがいしれる.(…)本報告のために実施された研究では,合衆国で最低賃金が高い上位7つの州では,労働力のおよそ 17% が最低賃金で底上げされている.そうした州でも,雇用への影響は同じくおだやかなものとなっている.合衆国を検討した研究すべてが,雇用への影響が小さいと主張しているわけではない.顕著な反例もある.だが,証拠の重みを考慮すると,雇用への影響はおだやかだ.
で,いろんな研究結果を集約したグラフが,下に掲載したやつだ.このグラフで,プラスの値は「最低賃金で雇用が増えた」ことを意味する.他方,マイナスの値は,「最低賃金で雇用が減った」ことを意味する:
次の点に留意しよう.大半の研究では,最低賃金の影響は小さいという結論が導かれている一方で,最低賃金を引き上げると雇用がつくりだされるという結論が導かれている研究も多い.
それどころか,かえって雇用が増える結果になる明快かつ単純な理由がある.それは,「買い手独占効果」というやつだ.ここで,経済学初歩をおさらいして,最低賃金の基本的な理論をみておこう.
理論低賃金雇用の市場が競争的な場合――つまり,いろんな企業が競って従業員を雇用しようとしていて,さらに,労働者たちも雇用を得ようと競争しているとき――この労働市場は古き良き需要-供給グラフで表せる.この競争的な世界では,最低賃金を設定すると,強制的に市場よりも高い割合で企業にお金を払わせて,雇用主と被雇用者のあいだにくさびを打ち込むことになる.理論上は,これによって失業が産み出される.「最低賃金は雇用をつぶすぞ」と世間で言うときには,たいてい,この理論を念頭に置いている.
▲赤線: 労働供給 / 青線: 労働需要 / 紫の横線: 最低賃金水準
これはこれでいい.でも,労働市場が競争的ではないとしたらどうだろう.雇用主の一部に,巨大で力が強いのがいたり,あるいは,なんらかの方法で協調して賃金を低く維持していたり,あるいは,あっちの雇用主からこっちの雇用主に勤め先を切り替えるのがすごく難しかったりしたら,どうだろう.
その場合,最低賃金はむしろ雇用をつくりだす.最低賃金を設定することで,《企業》は賃金を引き上げざるをえなくなり,それによって働く人が増える.こんな具合だ:
▲ オレンジの線: 架空の労働供給 / 赤線:《企業》の限界コスト / 青線: 《企業》の限界収益
これを買い手独占モデルという.「買い手独占」とは,「買い手がひとりしかいない」という意味で,ここでは巨大で強力な《企業》を指す.上のグラフを見てもらうと,最低賃金によって経済が完全雇用に近づいているのがわかるよね――最低賃金が雇用をつくりだしているわけだ.
さて,現実世界では,そのものズバリの買い手独占にお目にかかることは,ほぼない.でも,1つ目のグラフと2つ目のグラフの中間ならよくお目にかかる.雇用主たちは完全な市場支配力をもってはいないけれど,いくらかの市場支配力ならもっている.だから,よほど高すぎないかぎり,最低賃金によって雇用がうみだされうる.
これで,最低賃金で雇用増加効果が生じているのを一部の研究が見出す理由の説明がつく.それに,最低賃金研究の大半で,プラスでもマイナスでもごく小さな影響しか雇用におよんでいないのが見出される理由も,これで説明できるだろう.
言い換えると,「最低賃金は雇用をつぶすか?」という問いには,明確でいつでも変わらない答えがないってことだ.答えは,最低賃金がどれくらい高いかでちがってくるし,賃金の趨勢がどれくらい高いかでちがってくるし,問題にしている地域の労働市場によってちがってくるし,地域の雇用主がどれくらい力をもっているかでちがってくる.それに,おそらく他の要因にも左右される.たとえば,景気後退にあるかどうかでもちがってくるだろう.
さて,もうすぐ大統領に就任するジョー・バイデンは,15ドルの連邦最低賃金を提案している.これは,雇用をつぶすだろうか,それとも,増やすだろうか? 全米一律の政策は安全だろうか,それとも,賃金がおのずと他より低くなっている地域にとってはよくない作用が生じるだろうか?
15ドルの連邦最低賃金さて,Dube の文献レビューでは,賃金中央値のおよそ6割未満であれば〔かりに月給5万ドルが中央値なら3万ドル未満であれば〕,一般に最低賃金は無害だと考えていいと提案している.合衆国の労働者が週にかせぐ金額は,いまだいたい 994ドルだから,週40時間労働だと仮定すれば時給 24.85ドルだ.その6割というと,約 14.91ドルとなる.つまり,15ドルは安全な最低賃金のほぼ上限だ.でも,アメリカ経済は COVID-19 から回復して賃金も上がってくると予想されるし,バイデンの15ドル最低賃金はまちがいなく段階的に導入されると予想されるから,関連する法律が施行される時点では,おそらく15ドルは全米の「安全」水準以下に収まっているだろう.さらに,インフレのおかげで,年を追うごとに15ドル最低賃金はいっそう「安全」水準を下回るようになっていく(最低賃金はぜひともインフレ調整すべきなんだけど,それはまた別の話).
ともあれ,それは全米で均した水準だ.じゃあ,地域別の水準ではどうだろう? おのずと賃金が(そして生活費が)高い大都市では,15ドルはまったく問題にならないだろう.でも,カンザスみたいな小さい年だと,おのずと賃金が(そして生活費が)もっと低くて,連邦政府が15ドルを義務づけると大きな問題になりうる.
さいわい,高すぎる最低賃金を設定しても小都市がそんなに困らないと考えるべき理由がある.それは,小都市では雇用主もそれほどたくさんいないから,買い手独占力も強くなりがちだってこと.さっき見ておいたように,買い手独占力が強いほど,最低賃金は危険でなくなるし,場合によっては雇用を増やすことだってありうる.
Azar et al. による最近の研究は,この単純な理論的直観を裏付けている.この研究では,雇用主がより少ない市場では――雇用主の市場支配力がより強くなると予想される市場では――最低賃金が雇用におよぼす影響は,より無害または有益なものになるのが見出されている:
本研究では,より集中した労働市場〔より多くの企業が市場を支配している状況〕では(…)最低賃金によって,顕著にプラスの雇用効果がもたらされることが見出される.集中度の低い市場では最低賃金の引き上げによって労働者の雇用が減少するのが見出されるのに対して,労働集約度が高くなるほど〔市場を支配する雇用主が少なくなるほど〕最低賃金が誘発する雇用の変化はマイナスでなくなり,きわめて集中した市場ではプラスになるとすら推定される.
ということは,賃金がおのずと低い小さい町だったら,そもそも雇用主の力がより強いため,最低賃金の危険は減少するってことだ.一方,雇用主がたくさんいて労働市場がより競争的な大都市では,おのずと賃金が高いために,最低賃金の危険は減少する.
つまり,どっちにしても15ドルの連邦最低賃金はかなり安全かもしれない.
もちろん,バイデンの政策は――かりに可決されたとしても――いろんな保護条項を加えられるだろうとぼくは思う.おそらく,何年もかけて段階的に導入されるだろう.都市水準での最低賃金は,たいていそうやって導入される.おそらく,小規模事業者やスタートアップその他は部分的に適用除外されるだろう.景気後退のあいだは政府が最低賃金を下げられる政策もあった方がいい.安全な方に寄せるために,売り手独占による軽減効果がはたらくにも関わらず,地域の趨勢的な賃金がじゅうぶん低い場合には町が連邦最低賃金の適用を部分的に除外される政策もあっていい.(現に,バイデンの計画は賃金中央値の伸びに合わせて将来の最低賃金を調整するようになっているから,いずれ,コストが低い地域がさらにこの最低賃金から除外されるだろう.)
ともあれ,ここでの総論としては,かつて経済学者たちが考えていたより最低賃金はずっと安全だ.そして,安全な理由については,かなりよくわかっている.この件については,経済学者たちはおおいに考えを改めている.
証拠が明快なら,本物の科学者は証拠にしがたうものだ.
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