ビル・ミッチェル「MMTと『力関係』について- Part 2」(2021年6月10日)

Bill Mitchell, MMT and Power – Part 2”, Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, June 10, 2021

〔Part1はこちら。〕

本エントリは、「現代貨幣理論(MMT)と力(power)」というテーマで展開しているシリーズのPart 2である。「MMTは、〔制度的または社会的な〕力関係(power relations)を説明していないから不完全な理論である」という主張をよく目にする。

批判者の中には、このことを「MMTはインフレについても全く説明がない」という主張に結びつけて語る人もいる。そして、そうした力関係がどのようにしてインフレを引き起こすのかを全く理解していないのであれば、MMTはインフレに対する解決策を提案することができないとして、〔MMTが提示する〕雇用のバッファー・ストック(緩衝在庫)などの概念を批判し始める。これらの批判は、政策論争の保守側からではなく、いわゆる「左派」からのものである。もっとも、このような中傷をしている一部の論者が、実際にどの程度「左派」的なのかは疑問だ。これらの批判の問題点は、彼らがMMTとは何かを理解するのに、明らかに不完全なアプローチを採用していることである。この原因はおそらく、MMTの批判者が文献を十分に読んでいないだけでなく、一部のMMT支持者が我々の研究を紹介するやり方にも問題があるからである。

Part 1では、経済学(economics)という学問が、社会経済(political economy  [1]政治経済と訳していない理由についてはPart1を参照。 から、あたかも〔社会的な〕「力」のないところに存在するかのような狭義の「経済(economy)」に焦点を当てた狭い学問へと発展していった経緯を検証した。また、MMTが貨幣と実物経済の結びつきを無視しているという、左派の批判者がよく口にする主張を読者に向けて否定した。MMTが何でもかんでも説明する理論であることを期待するような批判者にも疑義を呈した。 いつも言っているように、MMTが今週のサッカーの勝敗を予測することはできないからといって、そんなことを批判しても批判にならない。「MMTはレンズ(lens)である」という説明(narrative)は、あたかも価値(values)と事実(facts)をきちんと分離できるかのような話として捉えられているが、Part 2ではこの話を広げて、少し混み入った議論をする。また、MMTにおいてインフレに関する主要な理論に力(power)の要素がどのように組み込まれているかを説明する。

記述(description)と理論(theory)

多くのMMT支持者(および批判者)は、MMTは単なる現実の記述(description)に過ぎないという認識にいつの間にか陥っている。
これは我々の研究をずいぶん矮小化する言い方だ。
もし我々が貨幣システムの現実をより良く記述することだけをしていたならば、我々の知識はそれほど進んでいなかっただろう。
何かを観察することと、その観察結果を多かれ少なかれ正確に伝えることは同じことである。
「記述」の話のもう一つの例は、「MMTは会計上の関係について説明しているに過ぎない」というものである。例えば、〔MMTは〕国民会計の枠組みから部門別収支を導き出し、政府部門の赤字(黒字)と非政府部門の黒字(赤字)は必ず等しくなると結論づける。
MMTは確かに会計上の整合性を利用して分析の枠組みを構築している面もある。これは異端派経済学におけるストック-フロー(stock-flow)の伝統の一部である。ストック-フローの分析は、モノのフロー(flow)とそれが期間ごとに流入する(flow)ストック(stock)との間の整合性を確保する。
例えば、ストックとフローが対応していない場合(これは主流派のマクロ経済学の問題点である)、それによって誤った推論が行われることになる。
つまり、「政府部門の赤字(黒字)は、非政府部門の黒字(赤字)とぴったり等しい」という主張は、自明の理であり、常に真なのである。
このレベルでは、「財政黒字は国民貯蓄を表し、政府が将来のために貯金箱の支出能力を高めることができる」という考え方に反論することができる。
既に会計レベルの時点で、「財政黒字は非政府部門の金融資産を破壊する」ことはわかっている。
また、政府の能力の「記述」が明らかにするのは、家計は消費を先送りし、将来のより高い消費の可能性を生み出すことによって貯蓄をするのに対し、通貨を発行する政府は、家計と同じような意味でのいわゆる「貯蓄(save)」はしないという点である。
財政的に(financialy)制約された家計は、その目標〔=将来の消費〕を達成するために貯蓄をしなければならない。
通貨を発行する政府は、自国の通貨で売られているものがある限り、先立って何をしたか〔お金をどれだけ使ったかどうか〕に関わらず、いつでも好きな時に支出することができる。
通貨を発行する政府にとって、財政黒字が将来に支出する余力を与えることは決してない。
このように、記述的な正確さは強力な洞察をもたらす。
もっとも、経済学は政策を形づくるので、政治的な学問である。そして政策には記述を超えた因果関係の理解が必要だ。
記述レベルでは、一貫会計(consistent accounting)は、政府が財政赤字を増やした場合、非政府部門の黒字が増加することを明らかにする。
しかし、答えを出すのにもっと骨が折れる問題は、「どのような行動パターンがこのような会計関係(accounting relations)を生み出すのか」ということである。会計は、物事が起きた結果を測定するに過ぎない。
我々が理解したいのは、何が起きているのか、そしてなぜそれが起きているのかということだ。
雇用を増やしたいと考えている政策立案者は、そのためにはどうすればいいのか、それを実現するにはどのような投資が必要なのかを知る必要がある。
そこで、部門別収支に話を戻すと、興味深い問題は、常に会計上の真理に従うよう部門別収支の諸部門を動かす要因は何なのかということである。
ここで「理論(theory)」が必要となるわけだ!
これについては、ブログ記事「Understanding what the T in MMT involves(MMTのTが何を含んでいるかを理解する)」(2018年9月20日)で詳しく説明した。

要するに、理論(theory)の領域に踏み込んだ時点で、記述(description)の次元をはるかに超えているのだ。そして理論は社会の力関係に対する見方にも示唆を与える。

「MMTはレンズ」であるという説明

MMTは、不換貨幣システムの機能と、そのシステムの中での通貨発行政府の能力、そしてその能力を様々な形で使用して起きる結果をよりよく理解するためのレンズ(lens)だという説明の仕方を始めたのは私だ。
他のMMT提唱者もこの枠組みを採用し、今では当たり前のように使われている。
このレンズの枠組みは、私が時折見聞きするような、「MMTは純粋に記述的なものである」という主張とは別物である。
私が「MMTは、通貨システムの仕組みをよりよく理解するための優れたレンズである」と紹介したとき、このフレーズで重要な意味を持つのは「理解(understanding)」という言葉である。
それは単なる記述(description)ではない。理解するためには、因果が生じるプロセスを把握する必要があり、その後には理論化が必要になる。
なので、初めてMMTの話を聞く人々に説明する際に私が重視するのは、MMTを「適用する(apply)」「(〜に)切り替える(switch to)」「導入する(introduce)」制度と見なすべきではないと強調することである。
私が言っているのは、MMTは不換貨幣システムの真の(本質的な)動態を見ることができるレンズだということだ。
このレンズは、通貨発行政府に与えられた選択肢と、(ユーロ圏のように)通貨発行能力を放棄した場合の結果をよりよく理解(understand)するのに役立つ。
そして、このレンズは、新自由主義のイデオロギーによって被せられたベールを取り除き、真の問題と政治的選択肢を白日の下にさらす。
MMT的な理解に基けば、「政府はお金がなくなってしまうから、より良いサービスを提供できない」というような発言が、すぐに誤りであることがわかる。
このような理解(understanding)は、私たちが政治家に問う質問や、政治家が与えることのできる回答の許容範囲を変えることになるだろう。この意味で、MMT的理解は民主主義の質を高めるものである。
だがもちろん、私はこの説明がある程度はぐらかしていることを十分に承知していた。
この枠組みを導入したとき、私はそれが試行錯誤によって生まれた手段である点を明確にしている。「レンズ」という言い方をすれば、MMTが左派なのか右派なのか、あるいはそれ以外の何かかという、非建設的でキリのない、詰まるところ不毛な議論を阻止できることに気づいた。
もちろん、価値中立な発言など存在しないことも明らかにした。
私が見る際に用いるレンズは、私の社会経済的背景、ジェンダー(社会的性差)、教育レベル、肌の色、背の高さ、私たちの視点を形成し左右する条件となる他のすべての要因によって、あらゆる面で色づけされている。
大学で哲学を学んで間もない頃、「客観性(objectivity)」と「主観性(subjectivity)」を切り離すことができるかどうかについて、延々と議論していたことを思い出す。出てきた結論は無論、「価値はあらゆるものに存在している」。
しかし、それを認識したからといって、「すべては相対的なものだから、絶対的なものはない」と宣言する必要はない。
すべてのものに意味がなくなるような、ポストモダンの陥没穴にハマる必要はない。
しかし、貨幣システムの存在論的特徴に焦点を当てて説明を単純化することと、現在MMTと呼ばれている知識体系の中に、より深いレベルの探求が組み込まれていることは別の話である。
社会科学では、一つのことに集中するために、物事を分離しなければならない。
よって、私が「レンズ」のアナロジー(比喩)を導入したとき、私は自覚的に他の多くの重要な問題を捨象していたのだ。
最近、私が企画・運営した最初のMOOC〔講座〕は、MMTの範囲内にある多くのトピックをカバーする入門コースだった。
しかし、このコースでは多くのことが省略されていて、現在構築中のフォローアップコースの方でより大きく、より意味のある詳細情報を取り上げる予定だ。

レンズと価値の間にきれいな境界線が存在しないことは、何を論ずるにしても明らかだったはずである。

MMTと力(power)

インフレーションのプロセスに関するMMTの説明を見てみよう。
MMTにはインフレについての理論がないという馬鹿げた命題については、こちらのブログエントリ-「I wonder what the hell I have been writing all these years(私は一体今まで何を書いてきたのだろうか)」(2013年2月12日)で議論した。
MMTはインフレを無視しているという主張を最初に展開した人物は、今でも同じ主張をしているーーただのしつこい嫌がらせだ。
しかし、MMTには精緻なインフレ理論が埋め込まれていることは明らかである。

ここに示されている私たちの教科書 [2]William Mitchell, L.Randall Wray, Martin Watts, Macroeconomics, Red Globe Press, 2019. のパートDの1ページ目には、3つの章が含まれている。これらの章では、主流派理論とは対照的なインフレ理論を展開している。


私たちは、過去の「インフレーション」理論の一部を継承し、それは現在MMTの中核的な研究の一部となっているが、新しい部分もある。
私の博士研究の主要な命題(バッファーストックなど)は、現在ではそのインフレ・アプローチの一部となっており、失業とインフレの関係についての「新しい」考え方を示しているので、個人的には多少の自負がある。
MMTでは、主流派のフィリップス・カーブを、雇用のバッファーストックに置き換えている。
つまり、MMTのインフレについての語り方は、レンズ以上のものなのだ。
そして、もっと深く掘り下げることも可能だ。
MMTの知識体系に対する私の貢献は、1970年代の学部時代にさかのぼるが、それまでに私はマルクスや関連する他の作家の著作をほとんどすべて読んでいた。
もっと深い理由を話すと、そうした著作には、MMTがインフレの因果関係を構築する方法に組み込まれた経済階級と力(power)の理論があるからだ。
MMTによるインフレの説明は、デマンドプル(需要牽引)〔インフレ〕の概念を明らかに組み込んではいるが、MMTの分析はそれよりもずっと先に進んでいる。
昨日触れた英国ガーディアン紙の記事(2021年6月7日)ーー「Price rises should be short-lived – so let’s not resurrect inflation as a bogeyman(物価上昇は短期間で終わるはずだーーだからインフレを厄介者として復活させるのはやめよう)」ーーで、私はこう書いた。

名目支出の伸びが生産能力を上回る場合、支出するのが公的機関、非政府機関であるかを問わず、すべての支出はインフレリスクを伴う。完全雇用に達すると、政府は支出の伸びを抑制しなければならず、民間の購買力を抑制するために増税する必要があるかもしれない。しかし、失業率が高く、賃金の伸びがほぼ横ばいの現状では、完全雇用への道のりは遠いと言わざるを得ない。

これがデマンドプルの論拠だ。
支出は生産能力に比べて過剰になり得る。
しかし、私はその記事の後半でこのようにも書いている。

恐怖を煽る人々は、1973年10月のOPECの値上げを指摘し、世界の原油価格が1972年の1バレルあたり平均2.48米ドルから1974年には11.58米ドルに上昇したとしている。しかし、1970年代のようなインフレが発生する見込みはほとんどない。そこで、強力な労働組合と価格決定権を持つ企業が、原油価格上昇による実質所得の減少をお互いに転嫁しようとドンパチを繰り広げた。しかし、原油価格とインフレの関係の強さは、1990年代に入ってから弱まった。労働者がこのような分配闘争を行う能力は、不安定な仕事の増加、失業や不完全雇用の継続的な悪化、賃上げ要求を行う労組の能力を低下させる悪質な法律によって制限されている。

これがわれわれのインフレ理論における経済階級と力(power)の側面である。
いわゆる「マークアップ(値上げ)合戦」と呼ばれるもので、資本と労働という強力な経済階級が、利用可能な生産所得から得られる実質所得を守り、増加させるために、あらゆる戦術を駆使する。
そして、この勢力争いが抑制されず、(雇用への悪影響を相殺するために)拡張的な財政・金融政策によって調整されると、インフレ・スパイラルが発生する。
この枠組みを使えば、ギグ・エコノミーの台頭、独立した契約者の従業員への置き換え、労働組合に対する労使関係法上の攻撃など、過去数十年の資本主義貨幣経済の発展の多くを理解することもできる。
よって、「MMTは勢力争いや制度的現実をその理論体系に取り入れていない」という趣旨の非難はみな明らかに間違っている。
その勢力争いにどのように対処するかということは、個々のMMTer(MMT論者)にとっては全く別の問題であり、その人がもつ特定の価値観を反映したものである。
失業とインフレに対するMMTのアプローチを説明した12のブログ記事があるので、こちらを参照し議論を追ってもらいたい。
さらには、その続編を5つのパートに分けて以下のとおり投稿している。
  1. Buffer stocks and price stability – Part 1(バッファーストックと物価の安定 – Part 1)」(2013年4月26日)。
  2. Buffer stocks and price stability – Part 2(同Part 2)」(2013年5月10日)。
  3. Buffer stocks and price stability – Part 3(同Part 3)」(2013年5月17日)。
  4. Buffer stocks and price stability – Part 4(同Part 4)」(2013年5月24日)。
  5. Buffer stocks and price stability – Part 5(同Part 5)」(2013年5月31日)。
財政政策優位の問題

過去30年ほど支配的だった金融政策は、効果のない安定化政策ツールであることが明らかになり、また、そのような限界にぶち当たるまで金融政策を推し進めたことで、年金基金のリターンが損なわれるなど、さまざまな意図しない結果が生じている。このためMMTでは、財政政策優位に立ち返るよう提唱している。
多くの人は、財政政策の優位を取り戻すことで、新自由主義時代の負の結果(緊縮財政偏重による公共インフラ整備への影響、公共サービスの低下など)を改善することができると考えているが、調達政策の既存の偏りや、政府がエリート既得権益集団に取り込まれてしまうことで、所得や富の不平等が悪化し、真の社会経済的問題が持続してしまうという現実的な危険性がある。
財政政策は所詮、道具に過ぎない。チェーンソーを使えば、森林警備隊員の骨の折れる仕事を省くことができるし、熱帯雨林を枯らすとは限らない。だが、使い方を間違えれば破壊をもたらす。問題は、財政政策の優位がプログレッシブな政策の推進にとって必要条件でしかないことだ。
ソーシャルメディアでは、私たちの研究に対して、「お前たちはエスタブリッシュメント(体制)側の一員であり、利益を確保したいだけだ」といった批判を受けることが多々ある。
全く的外れな批判だ。
しかし、社会における既存のパワーバランスが、財政政策の現れ方に影響を与えることは事実であり、財政政策優位の時代が人びとの生活を向上させるという確証はどこにもない。

この点については後で詳しく書くが、これはそうした「力(power)」の議論の一側面である。

結語

MMTが制度的な力(power)の問題を無視しているとの主張は、全くの嘘話である。

財政政策優位に関する私の懸念については、別の記事で詳しく説明する。

今日はここまで!(了)

 

References

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1 政治経済と訳していない理由についてはPart1を参照。
2 William Mitchell, L.Randall Wray, Martin Watts, Macroeconomics, Red Globe Press, 2019.
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