ポール・クルーグマン「あわれな億万長者どの,尊大な思想とやらに犠牲者気分」

Paul Krugman, “Poor Billionaires, Victimized by Highfalutin Ideas,” Krugman & Co., March 28, 2014. [“High Fallutin’ Nazis,” The Conscience of a Liberal, March 18, 2014]


あわれな億万長者,尊大な思想とやらに犠牲者気分

by ポール・クルーグマン

MEDI/The New York Times Syndicate
MEDI/The New York Times Syndicate

さあ,また一人ご登場ですぞ.格差について語るヤツはどいつもこいつもナチだと思ってる億万長者どのがまた現れた.今回は,ホーム・デポの共同創業者ケン・ランゴンだ.これについて,ぼくはとくに有用なことは言えない.言えることは,こういう連中はいっぱいいるにちがいないって所見くらいだ.

つまりね,億万長者なんてそんなに大勢いないわけでしょ.「進歩派はヒトラーにそっくりだ」と信じてるばかりかそれをおおっぴらに発言しちゃう種族が複数例みつかったってことは,億万長者のかなりの割合がこの考えを共有してるとみてまちがいない.ただ,そうした人たちは思ってることを口にしてないだけなんだよ.

でもよかった,幸い現代アメリカじゃあすごい富があってもすごい政治的な影響力をふるうわけじゃない――よね?

『ニューリパブリック』の新しい記事で,ジョナサン・コーンがランゴン氏について書いてる(LINK).これを読んで,「ブルームバーグTV」でもまさに同じヤツがご大層な発言をしていたのを思い出した.あのとき,ランゴンは読者諸賢やぼくの「尊大な思想」を糾弾した.この発言(や他の類似の発言)から,ウォール街の「マクロ正典」が現実で全面的に失敗したくせに相変わらず流通してる謎をとく手がかりが手に入ると思う.

さて,ランゴン氏はいったい何に対して激怒してたんだろう?

いやまあ,もちろんぼくが対象だ.でも,おそらく「尊大な」思想全般に激怒していたわけじゃあない:実際,ランゴン氏がバカなわけがない.たとえば在庫管理の情報システムなんかの話だったら,ランゴン氏は物事によっては専門的・技術的でいくらか知識が必要なのもあるってことを受け入れる用意があるにちがいない.

実は,彼が激怒してた対象は2つあるんだとぼくは見てる.1つは,他の問題とちがって経済学を理解するにはいくらかの専門知識が必要になるかもしれないってこと.これはお金持ちの間であまりにもありがちな問題だ.たぶん,とりわけ自力でのしあがった人間ではとくにそうなんだろう:彼らはこう考える――「自分がこうして金銭的に成功をおさめたってことは,自分はちゃんと経済システムを理解してるってことだ」.そして,マクロ経済は個々の企業戦略の総和につきないって考えに気色ばむんだ.

彼が激怒してる対象の2つ目は――こっちは右派の正典の根っこにあるものだとぼくは見てるんだけど――「ときに希少性がものを言わないこともある」ってことだ.右派の人たちの多くにとって,「生産的な人々の生産する意欲がしぼめば繁栄もしぼむ」ってことは事実じゃなきゃいけない――とにかく事実じゃなきゃいけないんだ.

需要の欠如こそが問題な場合もあるってこと,うまくいっていないのは十分な努力がなされていないからじゃなくてシステムの機能不全のせいだって考えは,彼らにとって忌むべきものだ.それだと,個人的な才能や美徳(の欠如)に関係ない理由で成功したり失敗したりすることもあるってことになる.そんな話は,ランゴン氏みたいな連中にとって――個人的な成功はすべてみずから勝ち取ったものだと信じてる連中にとって――ひどく侮辱的に聞こえてしまう.

「いまは経済が不況にあって,赤字支出しても民間支出を押しのけることにはなりませんよ,いまお金を刷ったからってインフレが昂進してあんた方が苦労して勝ち取った財産が損なわれることにはなりませんよ」なんて言うヤツがいても,ランゴン氏みたいな連中はそんな主張に耳を貸さない.まして,証拠に注意を向けたりなんかするわけがない.

連中は,これを個人に向けた侮辱だと受け取って,尊大なたわごとを吐きはじめるんだ.

© The New York Times News Service


【バックストーリー】ここではクルーグマンのコラムが書かれた背景をショーン・トレイナー記者が説明する

億万長者には格差論議が迫害に見える

by ショーン・トレイナー

いまやアメリカの格差は先進国で最高水準にある.その潜在的な政治的影響をめぐって,論争が展開中だ.

2008年景気後退の前に,すでに所得格差は1920年代以来見られなかったところまで拡大していた.また,近年の研究から,今般の金融危機以来,所得の伸びは圧倒的多数が所得者の上位1パーセントに流れ込んでいるのがわかっている.

開き続ける格差に警戒を強めて,これまでリベラル系の評論家たちは,富裕層や企業リーダーたちが自分の利害にばかり関心を集中する傾向を批判してきた.評論家たちには,この傾向が問題をいっそう悪化させているように感じられているのだ.

3月18日,「ポリティコ」はアメリカ人富裕層に対する批判的な姿勢が政治的な牽引力をつけているかどうかを調査する記事を出した.記者たちは,政治家や評論家などさまざまな人にインタビューをしている.そのなかに,修繕チェーン「ホーム・デポ」の共同創業者で億万長者のケネス・ランゴンもいた.

「機能していなければいいんですけどね」とランゴン氏はリベラル系の主張について語った.「というのもですね,1933年にさかのぼれば,言葉こそちがえど,まさにそれこそドイツでヒトラーが言っていたことだからですよ.嫉妬や妬みをあおったりそれを成功のもとにしているようでは,社会がもちませんよ.」

ランゴン氏のコメントはすぐさま,ある発言との比較をまねきよせた.去る1月に,億万長者のベンチャーキャピタリストのトム・パーキンスは,『ウォールストリートジャーナル』の編集者に宛てた手紙でこう記している.「ファシストのナチスドイツが戦争に向かう途上でやはり「1パーセント」すなわちユダヤ人にとった姿勢と,アメリカでいま進歩派が1パーセントすなわち金持ちにとっている姿勢が類似している点に注意を促したいですね.」

ランゴン氏もパーキンス氏も,1930年代ドイツの例を引き合いに出したことを謝罪した.だが,両者とも,富豪が迫害されているという考えの方は撤回していない.

ランゴン氏のコメントに反応して,『ニューリパブリック』編集長ジョナサン・コーンは「左翼ポピュリズムが主に妬みと嫉妬に関わるものという考え方」に反論している.

「おそらく,最低賃金引き上げや公共輸送機関への支援拡充や国民皆保険制度といったことを求める進歩派やその支持者たちは――そうした施策を富裕層への税率引き上げでまかなうことになるとはいえ――誰かを罰してやろうと躍起になっているわけではないのだ」とコーン氏は記している.

© The New York Times News Service

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  1. 読みやすい訳をありがとう。

    「マクロ経済は個々の企業戦略の総和につきない」は僕にはすぐにピンとこなかったので、「過ぎない」の誤植かとまず思って、いや違う、文脈から「尽きない」だと思い直して、原文を見ると、
    macroeconomics may be more than the sum of individual business strategies.
    直訳すると「マクロ経済は個々の企業戦略の総和を超えたものかもしれない」
    つまり、
    「マクロ経済は億万長者のおじさんたちの頑張りだけでは説明できないものがあるんだよ」と、学者に言われると、おじさんたちは腹が立つということですね。

    1. お手間をとらせます.この箇所は直訳でもよかったのかもしれません.趣旨はまさにおっしゃるとおりですね.

  2. マクロ経済学は経営学と正反対になるから経営者が怒るわけですな。

    日本でもこの20年間そうでした。企業経営者は会社を経営する要領で国家財政にくちばしを挟み続け、そして、失われた20年を招き寄せたんです。経営学では不況期には経費を削り、人員を削減するのが正しい処置だが、経済学では、不況期には財政支出を故意に増やし、人員を雇い続けることによって全体の景気を拡大するわけだ。

    その経済学で好況を演出した中で経営者が利益を増やしたのだと言われたら、日夜頑張って利益を出した経営者の努力は正当に評価されなくなってしまうと考える、それが経営者だ。

    しかし、それもやがて利益が上がらなくなることによって事実によって分からされるだろう。

    低所得者ばかりになれば、企業がどれほど努力しても売り上げは上がらなくなるからだ。米国経済は図体が大きいけれども、貧乏人の所得を上げない限り総需要は減少する。
    それが、これから始まると予想する。

  3. 大人たち。親たち。
    自分だけは、自分の家族だけは、世の不条理から守ろう、逃れようとする。
    世の不条理を正そうとしない。
    むしろ、世の不条理を利用しようとする。
    そのようにして、自らの責任を果たしてきたような達成感に浸る。
    世の不条理を批判することは、
    不条理を悪用して達成した自らの人生を否定することになる。
    そして、世の中は、ますます、不条理になる。
    彼らは敬われるべきだろうか?
    でも、彼らが、我々を育ててくれた。

    世を去ろうとしている老人に、ユダヤ人の虐殺の是非を聞いても無駄だ。
    老人というものは、自分がいかにヒトラーに忠誠を尽くして
    勲章を三つももらったかを自慢したいものだ。
    でも、愛する人を奪われ、絶望に追い込まれた人々に、
    「自分は指導部に言われて実行しただけだ」と言い訳して
    笑顔で握手しようとしても、納得できるだろうか?

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