サイモン・レン=ルイス 「名目賃金は実質賃金とちがう――それがイギリスで重要な理由は」(2018年5月30日)

[Simon Wren-Lewis, “Nominal wages are not real wages, and why it matters in the UK,” Mainly Macro, May 30, 2018]

この記事は,先日のクリス・ディロウのツイートを敷衍したものだ.この件についてもっと書いておく値打ちはあると思う.ここには,左翼・右翼を問わず広く誤解された問題が映し出されているからだ.次のグラフを見てもらおう.1948年からの総所得のうち,従業員報酬が占める割合と企業利益が占める割合を示してある.あくまでイギリスについてのグラフであることに留意してほしい.アメリカでは事情が異なる.



1948年までさかのぼってあるのは,賃金が占める割合が変わりうることを示すためだ.賃金の割合は1950年代から20世紀末まで低下していった.60% から 50% への低下だ.だが,その同じ期間に,企業利益の割合は上昇していない.20%近くでだいたい一定していた.パズルを埋めるのに足りないパーツ,すなわち,この期間に労働分配率が低下した分に対応するパーツは,間接税,自営業,法人化していない企業の所得だ.

ここで述べたい要点はこれだ――総所得に賃金が占める割合も企業利益が占める割合も,過去15年間で変化していない.これにより,よく見聞きする2つの神話の間違いがわかる.

【神話 1: 移民によって実質賃金が低く抑えられている】

1990年代の終わりに,EU圏外から大量の移民が入ってきた:同時に,総所得に賃金が占める割合は増加している.その次に移民流入が増えたのは2004年以降で,このときは EU 圏内から多くの移民が入ってきた.そして,労働分配率にはなんら目につく変化は生じていない.なるほど移民の流入は名目賃金を押さえつけてきたかもしれない.だが,そうやって低下した名目賃金によって,生産物価格は低下することとなり,実質賃金は変わらないままだった.このことは,移民流入が実質賃金になんら顕著な影響をもたらさなかったという計量経済学の証拠と合致する.

この証拠は,よく2通りのかたちで軽視されている.ひとつは,労働者の「生活実感」と一致しないといって軽視されるかたち.だが,その実感に反映されているのは労働者たちの名目賃金に移民流入がもたらした影響か,あるいは生産性成長の欠如とポンド安か,そのどちらかだ.可能かどうかで言えば,移民流入によって企業が生産性を高める手法への投資意欲を減らしたということもありえる.だが,それよりもっとありそうなのは,移民流入によって企業はイギリス国内で生産できるようになったということだ.移民流入がなければ,そうした企業は国外で生産していたことだろう.移民流入に関する直観が誤解のもとになっているかもしれないほかの理由については,こちらを参照されたい.

実質賃金と移民流入とにはつながりが「あるにちがいない」と一部の人たちが論じるときには,単純な需要と供給をもちだすかたちもある.これはただただ間違っている:移民の流入によって労働供給の曲線は移動するが,同時に,需要曲線も移動する.もうちょっとだけ洗練された議論では,こんな風に主張する――「移民が流入すると直後に労働供給の方が大きく動く一方で,需要曲線はそれを埋め合わせきるほどには動かない.なぜなら,投資には時間がかかるからだ.」 だが,もしもそれが事実なら,移民流入の期間に続いて一時的に実質賃金が下がったあとに利潤分配率が上昇するはずだ.そして,そんなことは起きていない.

【神話 2: 実質賃金が下がったのは雇用主に比べて労働者が弱いからだ】

グローバル金融危機 (GFC) とその後の景気後退いらい,名目賃金成長が減速しているのは労働市場が低調だからかもしれない.だが,データを見ると,雇用主たちはこの機に乗じて利潤分配率を増やしてはいない.賃金が下がった分はそのまま生産物価格の低下に当てられているのだ.

実質賃金がいま低くなっている主な理由は2つある:金融危機いらい生産性がほとんど成長していないことと,ポンド安によって輸入品のコストが上がって消費者物価も上がっていること,この2つだ.

べつに,労働市場が見かけほど低調ではないと言っているのではない.グローバル金融危機いらい,多くの分野で雇用条件は悪くなっている.ここで言わんとしているのは,実質賃金は名目賃金だけでなく物価にも左右されるということだ.そしていまイギリスでは賃金を低く抑えた分を製品価格を抑えるのに回すよう十分強い圧力がかかっているように思える.これによって,実質賃金と生産性の関係は変化しないままになっている.

ここで1つ指摘すべきことがある:賃金が総所得に占める割合は賃金中央値と異なる.ここで検討した Pessoa & Van Reenan による研究が示しているように,1972年から2010年まで,平均報酬に比して賃金中央値は下降している.賃金以外の手当の上昇や格差の拡大がその理由だ.格差拡大のかなりの部分は,最上位のごく数パーセントの所得を反映している.

「名目賃金の低下分が製品価格の低下にそのまま回されるなら賃金をめぐる労働者の力が弱まるのはよい場合もある」ということを左派に納得してもらうのは難しい場合が多い.なぜこれがよいことかと言えば,それによって中央銀行は需要を押し上げ,それによって,インフレ率を一定に保ちつつもさらに産出を増やすことができるからだ.これによって,持続可能な失業率すなわち NAIRU(インフレを加速しない失業率)は低下する〔インフレを気にせずに失業率をさらに減らせる余地ができる〕.さらに,財の市場がきわめて競争的だったなら,賃金の低下分はそっくりそのまま価格の低下に回される見込みが大きくなる.国外との貿易に開かれた経済では,これはいっそう起こりやすくなる.

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