ジョセフ・ヒース「『啓蒙思想2.0』補足:政治家が嘘をつくことそれ自体は問題ではない」(2014年6月5日)

私は非自発的な嘘を、自らの立場を有利にするために発される「自発的」な嘘や「気休め」の嘘から区別したいと思っている。

On political lying
Posted by Joseph Heath on June 5, 2014 | journalism, politics

多くの評論家たちと同じように、私も「ポストトゥルース」と呼ばれる政治状況に対してたくさんの苦言を呈してきた。これに反応して、私に「政治に真実を」法への支持を求めた人もいた。「政治に真実を」法のアイデアはかなり単純なものだ。嘘を違法にすればいいじゃないか。選挙期間中に行った公約を実行しない政治家を罰すればいいじゃないか。

これは、「デモクラシー・ウォッチ」〔カナダのリベラル系市民団体〕が長い間推進してきたものでもある。このアイデアの最も代表的な支持者は、アンドリュー・コイン 〔カナダのコラムニスト(1969-)。ヒースは好意的に引用することが多い〕だろうが(例えばこの記事)、私はこのことをかなり意外に感じている。

私自身はこのアイデアを支持していない。なぜなら、政治における虚偽発言の問題は、法制度で扱えるほど単純なものではないと考えているからだ。とりあえず分かりやすい点を指摘すると、嘘をつくことと公約を破ることの間には、重要な違いがある。しかし不幸なことにこの違いは、「正直さ」、「誠実さ」といった概念によって曖昧になってしまう。政治広告における虚偽表示の規制などの、ターゲットがより明確で限定された法制であれば私も支持するだろうが、嘘一般の禁止を求めるのは悪い考えだ。なぜなら、以前CBCラジオの番組でも示唆した通り、「嘘はいたるところにありふれている」からだ(この発言は笑い種だった)。

『啓蒙思想2.0』ではこの話題についていくつかの箇所で言及しているが、これも人々を激昂させてしまった。その一例として以下に、私が先日読者から受け取ったeメールを示そう。

この本で私が本当にショックを受けたのは、ロナルド・レーガンの「作話症」を非難した後、〔カナダ自由党の〕ジャン・クレティエン〔カナダ自由党の政治家(1934-)、第26代首相〕の、あからさまで人を小馬鹿にしている嘘つきの政策を支持していたことです。

これは明らかな嘘じゃないですか。

あなたは245ページ〔邦訳(文庫版)p367〕で、GST〔goods and service tax、連邦付加価値税〕に言及してますよね。「カナダ自由党〔中道左派政党〕は公約でGSTを廃止すると掲げたが、よほどだまされやすい人でなければ真に受けなかった。自由党は政権の座につくないなや、当然のように公約を反故にした。」 [1]訳注:訳文は一部改変した。 と書いています。

嘘をつくことが正しいですって?!

勘弁してください。あなたは、自由党が当選するためなら、有権者に嘘をついてもいいと言うのですか? あるいは、だまされるのが下層階級の「だまされやすい」大衆(私の推測するところでは、博士号を持っていない人々のことをあなたは指しています)だけなら、嘘をつくことはOKだと言っているのでしょうか。

あなたが大学で学生に教えてる「倫理」とやらはそういうものなんですか?

A pledge against the GST | CBC.ca
〔GST廃止を公約として掲げるジャン・クレティエン:画像出典元

この論点〔政治における嘘の位置〕は更に明確化しておくに値するという点で、このメールをくれた読者は全く正しい(とはいえ、最後の行の文章は私が常々言われていることなので、笑ってしまったが。私は「あなたは倫理学者を名乗っているにも関わらず、[私の意に反する意見をここに記入]と言っていますよね」という非難をよく浴びるのだ。幸運なことに、倫理学センターのセンター長という私の肩書はあと約2週間でとれるので、このような「お前は偽善者だ」という非難を浴びやすい状況は長くは続かないはずだ)。

いずれにせよ、確かに私は〔政治における〕嘘に対して大変微妙な立場をとっており、そのことについて『啓蒙思想2.0』ではきちんと述べていない。これは一つには、私がまだ詳細を詰めて考えていないことが理由である。いつかこのテーマについて学術論文を書くかもしれないが、しかし今はとりあえず、この問題について考えるための正しい枠組みと考えているものについて簡単に説明させてほしい。

まず最初に、私の発言からも明らかなはずだが、「OK」か「OKでない」かで分けてしまうのは、嘘の問題について考えるにあたって最も適した語彙というわけではない(その両極の中間地点を示す、「ややOK」といった用語を導入するなら話は別だが)。私は、嘘について「許容可能である」と「許容可能でない」の間の程度問題として評価しがちだ(哲学者や弁護士の読者のために書いておくが、私がここで言っているのは、「正当化可能」であるということではなく、「許容可能」である、ということだ。嘘はいついかなる場合も間違っているという道徳的立場もあるかもしれないが、ここで扱っている興味深い問題は、嘘は状況によっては許されるかどうかということだ)。

さて、私は、政治において嘘をつくことが明らかに許される状況があると考えている。なぜなら〔政治家は〕役割に強いられて嘘をつかざる得えないこともあるからだ。「内閣の連帯」は、これの最も典型的な例かもしれない。ジャーナリストが内閣の国務大臣のところに行って、「あなたは首相の発言を支持していますか?」とか、「たった今提出された法案を支持しますか?」と聞いた場合、唯一の正しい答えは「イエス」だ。「ノーコメント」と言うことさえ、首相への異議としてニュースバリューを持ちかねない(これは、妻が夫に対して「私太ってる?」と聞くのに似ている。男性ならみんな知っているように、この質問に対する正しい答えは唯一つだ。正しい答えを出すまでに長い間を置いてしまうことすら、正しくない応答となる)。

ジャーナリストと政治家の、歌舞伎舞台のような奇妙な掛け合いがよく見られるのはこのためだ。政治家は、その役割に特有の理由のために、特定の質問に対しては決まった答えしか返すことができない(たとえそれが真実でないとしても)。そしてジャーナリストは、政治家が返す答えも、それが真実でないことも、そして政治家がそうした答えを返すほかないことも知っているのに、その質問を繰り返し繰り返し問い続けるのだ(ときどき、ジャーナリストがこんなことをするのは、政治家がもがく様を見たいだけだろうと思うことがある)。私の意見では、こうした種類の嘘は完全に許されてしかるべきだ。このような状況では、嘘をつくほかない質問を投げかけることで、私たち社会が政治家に嘘をつくことを強いているのだと私は思う。これはただの舞台であって、関係者はみなそのことを知っているのだ(舞台の外にいる知識の乏しい有権者の中には、このことが理解できてない人がいるかもしれないが、そうした有権者は、嘘をつかれているというより、政治家の発する言葉を解釈する正しい方法を知らないのだ、と私は言いたくなってしまう)。とにかく私の考えとしては、これは「罪のない嘘」の政治バージョンである。「嘘をつくな」という規範が、それとは相容れない別の規範に抵触する以上、この種の嘘は完全に許容可能であり、正当化可能ですらあるかもしれない。

以上の話と密接に関連するが、より評価の難しい状況がある。それは、対立を包含する民主主義制度における野党の役割と関連しており、そしてこの問題については、民主主義の理論家の中でも意見が食い違っている。思想家によっては、野党の役割は政府に反対することであり、自らの熟慮された考えを提唱することでは必ずしもないとされている。この考え方に沿えば、野党にとって最優先事項は、政権から疎外されている人の感情や見解を(野党がそれを共有しているかどうかに関係なく)代弁して、立法府にその声を届けることになる。

さて、大抵の場合において、野党の「本音」と、野党が〔立法府に〕届けることを期待されている「国民感情」との間に、そこまで激しい緊張関係はない。しかし、世論と専門家の間で意見が大きく異なる場合などに限れば、両者に乖離が生じてしまう場合がある。この問題について考えるときにいつも私の頭に浮かぶのは、カナダでGSTを導入すべきか否かという問題を巡って起こった議論である(『啓蒙思想2.0』で私がGSTの議論を例に用いたのはこのためだ)。

この話は少し込み入っているが、基本的には以下のような経緯をたどった。ブライアン・マルルーニー〔カナダ進歩保守党の政治家(1939-)。第24代首相〕は、いつものことだが、物わかりの良すぎるあまり付けを払わされていた。保守系政治家として、彼は税に反対していた。しかし彼は、非効率な税にも反対しており、カナダで昔導入されたままの製造売上税に対しても、ひどく非効率的であるという理由で反対していた。よって彼の経済顧問は、VAT〔value added tax、付加価値税。日本における消費税〕(これはGSTと同じものだ)に切り替えるよう提言した。〔保守派にとって〕不幸なことに、GSTは、その効率性から多大な税収をもたらし、カナダを(ヨーロッパで見られるような)福祉国家へと変容させてしまう危険性を孕んだ税となっていた。よってマルルーニーは、GSTが余りにも大きな歳入をもたらさないことを確実にするために、GSTを可視化する(レジで加算されるようにする)ことを選んだ。そのため、それ以降、政府がGSTの税率を上げることは難しくなった。

不幸なことに、〔マルルーニーによる〕この追加的な戦術は大変な効力を発揮し、カナダ中の反税感情を爆発させた(この怒りは、とりわけ、カナダ改革党の台頭を促した)。その結果、自由党もNDPも、奇怪なポジションに追い込まれてしまったのである。両党は元々GSTに賛成してきた。両党は、そもそも必ずしも税に反対していたわけではなく、またGSTを昔の売上税よりもはるかに優れた税だと考えてもいたので、様々な点で〔マルルーニ―の所属していた〕カナダ進歩保守党よりもGSTを支持していた。結果として、政府はカナダの歴史において最も不人気な税を導入し、国民がみな怒っているのにも関わらず、連邦三党〔進歩保守党、自由党、NDP〕はみな本音ではGSTを支持している〔GSTに反対する主要政党が存在しない〕、という状況になってしまった。このような状況で、野党〔自由党、NDP〕はどのような支持態度を取ればよいのだろう?

私の心の片隅には、「ぐだぐだ言うな、正しいことをしろ」(〔GST導入という論点においては〕政府を支持し、その政策が優れていることを国民に知らせろ)と言いたい気持ちがある。多くの人々は、それは非現実的だと考えているかもしれない。それどころか、野党のこうした態度は間違っており、信奉している政策に関係なく政府に反対することが野党の仕事だ(弁護人の仕事は、クライアントである被告人が有罪か無罪かについて考慮するよりも、クライアントを弁護することであるように)と考える人も多い。この考え方によれば、自由党は本音ではGSTに賛成していたとしても、〔政府がGSTを導入しようとしている場面ではそれに〕反対すべきであり、それが正しい行動となる。

とにかく、私が『啓蒙思想2.0』の245ページ〔邦訳(文庫版)p367〕で上記の2文(「カナダ自由党〔中道左派政党〕は公約でGSTを廃止すると掲げたが、よほどだまされやすい人でなければ真に受けなかった。自由党は政権の座につくないなや、当然のように公約を反故にした。」)を書いたときに考えていたのはそういうことだった。御覧の通り、この文章は少し解説が必要である。私の考えは、〔当時野党だった〕自由党がGSTに反対していたのは、(特に国民の多くがそれに対して憤慨しているような場合において)野党の仕事は政府に反対することだというただそれだけの理由によるものだった、ということだった。もはや野党でなくなれば、政府の行うこと全てに反対するのは自由党の仕事ではない。

さて、3つ目のケースはもう少し微妙だ。これは、政治家が戦略的・政治的思考に従って行動しなければならず、それゆえ自らの発言を著しく制限されているような状況と関係している。このような場合、政治家は、「嘘をつくほかない」とまでは言えないとしても、真実を述べることは明らかに政治的な自殺行為になるだろう。例えば、NDPの党首は「今回は首相になる望みがないわけですが、この選挙戦で何を達成したいと思っていますか?」という質問を選挙の度に記者から受けている。実は私には、この質問を聞く意味が(政治家に嘘をつくことを強いて苦しめる以外には)理解できない。なぜなら、それに対して返せる答えは、「私は勝つために選挙に出ています」以外にないからだ。NDPの党首がそれ以外の答えを言っているのを聞いたことがない。

同様に、ジャーナリストが選挙期間中、政党の連立に関して政治家に質問をするとき、彼らは嘘をつくことを政治家に強いているのである。なぜなら、〔選挙後に〕××党と連立を組むことを考えていると認めることは、支持者が連立先の党に投票することを許可しているようなものだからだ。戦略的思考に則るなら、選挙日前には連立について何も語るべきではない。ジャーナリストはそのことを十分理解しているが、しかしどういうわけか、連立について繰り返し繰り返し質問するのを決して止めない(これは結果的に、政党が連立を組むのを難しくするという歪んだ帰結をもたらす。ジャーナリストの奇妙な習慣が、民主主義システムの適切な運営を妨げている実態についての興味深い例だ)。

それから、それがメディアの過剰反応を引き起こしてしまうというだけの理由で、真実を言うことが政治的な自殺行為になる場合もある。最もハッキリした例は、私の考えるところ、アメリカにおける宗教信仰に関連している。バラク・オバマが神を信じているとは、私にはとうてい思えない。だから、ワシントンDCに移る際に彼が述べた「教会に入信」しない理由は、全くもって正直なものではなかったのではないかと疑っている。同時に、これを罪深い嘘だとも思えない。「税」に関する状況は、これとかなり似ていると私は考えている。私はCBCのラジオで、ロブ・フォード 〔カナダの保守系政治家(1969-2016)〕がトロント市長選に出た際、「地下鉄の設置」と「減税」を公約に掲げたことにそれとなく触れた。地下鉄設置に莫大な費用がかかることを考えれば、どちらかの公約は破られるだろうと思われた。そして、最終的にフォードは増税に賛成票を投じた〔つまり、地下鉄設置をとって減税の公約を破棄した〕。私はこの件についてあまり怒りを感じることができない(とはいえ、これは私の政策選好が邪魔しているのかもしれない。私は地下鉄のためならもう少し税金を払うにやぶさかでない)。

私は、上に述べたような事例の全てを、ある意味で「非自発的」な嘘として分類したいという誘惑に駆られている。政治家は、様々な理由で、嘘をつかざるをえないように強いられているからだ。私は非自発的な嘘を、自らの立場を有利にするために発される「自発的」な嘘や「気休め」の嘘から区別したいと思っている。しかし、両者の違いはつまるところコストの多寡の問題に過ぎないので、哲学的にはこのような区別のつけ方は望ましくないということも承知している。非自発的な嘘の事例全てにおいて、政治家は真実を言うこともできたのであり、〔「非自発的」というのは〕真実を言うことの政治的なコストが余りに高かったということに過ぎない。そして失ってしまった便益はコストであるから〔つまり、「政治的に有利になるための嘘をつかないことで失う利益」も、高くはないとは言えコストとして勘定できるから〕、政治的に有利になるための嘘と、非自発的な嘘との間に原理的な違いは存在しないと思われる [2] … Continue reading

ここまで〔政治における嘘について〕様々に言及してきたが、これらはそこまでバラバラの案件ではない。「シュードロップス」〔不祥事〕や嘘が暴露された(あるいは公約が破られた)とき、私たちはそれに対してどこまで怒る権利を持っているのかという問題も、関連して興味深いと考えている。例えば、有権者のうち約30%は、私の同僚が「フォード・ネーション」 [3] … Continue reading と呼ぶ層であり、一貫して「公共サービスの拡充」、「減税」、「均衡予算」への支持を表明している。だから、この3つの公約全てを掲げる政治家は必ず現れると思うが、そうした政治家もほぼ確実に、3つの公約のうち少なくとも1つは破らざるを得なくなることにいずれ気付くだろう。しかし、そうなったときに私たちはどれくらいそれに対して怒る資格を持っているのだろうか? もしあなたが、「丸い四角」が欲しい、それ以外は認めないと言ったとする。そして私が、「丸い四角」を持ってくることを約束したとする。このとき、あなたは自分が望んだよりもそれが丸くない、あるいは四角くないという理由で失望したとして、それは本当に私の責任だろうか?

私が以上述べてきた事例における嘘は、全て完全に許容可能か、実質的に許容可能なものである。許容可能でないとはどういうことか、許容可能と不可能の間にあるグラデーションはどんなものか、といった問題は完全に別の案件であり、私もこの問題について少し考えているが、それがとても複雑な問題であると理解するところまでしかたどり着いていない(もし私がこの問題についてもっと真剣に取り組むつもりであれば、初めにシセラ・ボク [4]訳注:アメリカの哲学者、倫理学者(1934-)。アルバ・ミュルダール、グンナー・ミュルダール夫妻の子ども。『嘘の人間学』に目を通していただろうが、恥ずかしながら未読である)。

しかし、ここまで述べてきたことで明らかになっているように、私は政治的な嘘については、ダフ・コナッチャー 〔デモクラシー・ウォッチの創設者〕 やアンドリュー・コインよりも遥かに甘い態度をとっている。私が本当に悩ましいと思っているのは、嘘よりもむしろ、現在の政治的議論において、主張を理性的に評価されることを避けるために用いられている、より深く体系的な戦略の方である。現在起きている現象を、「嘘」や「不正直」、あるいは「ウンコな議論」(bullshit)といった既存の語彙で語るのは不適切であると私が言い続けているのはこのためだ。スティーヴン・コルベア [5]訳注:アメリカのコメディアン(1964-)。「ザ・コルベア・レポー」などの風刺番組で活躍。 の言う「真実っぽさ」(truthiness)は、この問題を最もよく言い当てた言葉である。これは、「真理の規範」が、「効果的な応答の規範」とでも呼ぶべきものに体系的に置き換わっている状況と関連している。この戦略の実行にあたっては必ず嘘をつくことになるが、そこでつかれる嘘それ自体は私にとって本当の問題ではない。私を悩ませているのは、むしろ〔そうした嘘の背景にある〕理性を直感に置き換えようとする企みの方である。

References

References
1 訳注:訳文は一部改変した。
2 訳注:「非自発的な嘘」も「政治的に有利になるための嘘」も、「その嘘をつかない(真実を述べる)ことで失う利益」というコストを考慮した上での嘘と捉えれば、両者の間に違いは存在しない(あるのはコストの多寡という違いだけ)、という意味。
3 訳注:カナダの保守系テレビ局、サンニュースネットワークの政治討論番組「フォード・ネーション」にかけて、熱狂的な保守系有権者のことを指したものと思われる。「フォード・ネーション」という番組名は、本エントリでも言及されているカナダの保守系政治家、ダグ・フォード、ロブ・フォード兄弟に由来する。
4 訳注:アメリカの哲学者、倫理学者(1934-)。アルバ・ミュルダール、グンナー・ミュルダール夫妻の子ども。
5 訳注:アメリカのコメディアン(1964-)。「ザ・コルベア・レポー」などの風刺番組で活躍。
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3 comments
  1. “またGSTを昔の消費税よりもはるかに優れた税だと”… sales tax は、その前に出てきた箇所と同様「売上税」と訳すほうがよいのではないでしょうか。
    “ザ・コルベア・レポー” 「ト」が抜けていると思います。

    1. コメントありがとうございます。sales taxについてはウッカリしておりました。訂正しておきます。ご指摘感謝です。colbert repotについてなんですが、コルベアレポーが正式な名称らしいのでそちらを採用させていただきました、(参照 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%A2#%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC )

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