Thinking seriously about regulation
Posted by Joseph Heath on July 7, 2014
ダニエル・カーペンターの本“Reputation and Power Organizational Image and Pharmaceutical Regulation at the FDA(評判と権力:FDAの組織的心証と医薬品規制)”を読み終えたところだ。「十全に魅力的な本である」とまでは言わないが、FDA(米国食品医薬品局)の歴史について書かれた700ページの本としては、かなり良い本である。私がこの本に関心を持ったのは、去年の秋、3ヶ月ほどの間に、2人の人間からこの本を勧められからだ。まったく別の機会、まったく別の2人から「君は、このFDAについての700ページの本を読むべきだよ」と言われる驚くべき可能性を考慮した以上、これは素晴らしい本に違いない、と思ったわけだ。
2人もの人間にこの本を勧められたのには理由がある。行政の裁量権と、“public servant(公務員)”はその裁量権をどのように実施しているのかに、私が関心を持っているからだ(ここを参照)。私は、政府の行政機関について研究しているのだが、規範的な政治哲学において行政機関は深刻なまでに理論化されていないとの見解に沿った研究となっている。この研究に基づいた行政機関へ幅広い関心の一環としてFDAに関心を寄せることになった。
もっとも、カーペンターの本は、ある研究プロジェクトの一部であることで、私個人の関心を超えて、興味深い本だ。もう少し詳しく説明しよう。この本は、アメリカにおける、とある学者の集団(多くがトービン・プロジェクトに参加している)が行っている最近の試みの一環として出版されている。この学者集団は、「規制」について真剣に考えることで、過去50年に渡って「規制」をめぐる議論を支配してきた、古臭く、それでいて高度にテンプレ化された理論(「いわゆる“公共の利益”と“レントシーキング”には対立が存在する」や「規制の虜」理論)を打破しようとしている。
まずは、古臭い議論において、「規制」はどのように機能しているのか大まかに説明しておこう。以下古臭い「公共の利益」理論のあらましである。
・「規制」は市場の失敗に対応するために必要である。
・市場での競争は、一定のルールに従って行われる――最も最小限のルールは、財産権と契約法によって定められたものである。
・しかし、多くの場合、市場のルールは、健全な形での競争――全ての人に利益をもたらす競争を促進するのには不十分である。
・財産権は制度的に不備を抱えている。この不備は、企業が汚染のような負の外部性を生み出すのを許容してしまっている。
・他には、情報の非対称がある。情報の非対称は、消費者が十分な情報を保持していれば購入しないであろうものを購入させるように誘導するかもしれない。
・なので、「賢明にして慈悲深い政府」は、市場参加者がこういった戦略を採用するのを防ぐために、ルールの調整や、新しいルールを課すことで介入する。
・この政府の介入意図は、NHLのようなスポーツ団体が、競技の改善を目的に、ルールを調整するのとそれほど変わらない。
(私のお気に入り事例は、2008年のホッケーでの「ショーン・エヴリー・ルール」の導入である)
ところが、この「公共の利益」理論は、実証的な記述というよりも、「規制はどのように機能すべきか」についての規範モデルにすぎない――国家がなんらかの規制を導入すれば、公共の利益になるかもしれない理由を説明しているフィクションに過ぎない。従って、「政治家や官僚は、政府の職員として、十全な知識を持たず、不十分な情報しか持たず、完全な善意の人物でないにも関わらず、『公共の利益』の把握になぜ成功しているのだろう?」、「彼らはこの『公共の利益』を、立法を通じて促進するのにどのようなインセンティブを保持しているのだろう?」といった、実施経験的、あるいは制度的な観点からの重要な疑問が膨大に浮き上がることになっている。実世界における規制は、「公共の利益理論」が推奨するものより遥かに非最適なものとなっていると考えるべき多くの理由が明らかに存在している。
したがって、「公共の利益」という考え方や、現実に規制を行う際の意思決定において「公共の利益」を考慮すれば、なんらかの判断材料を与えてくれるかどうかに関して、多くの疑問の余地がある。(実際、「制度論」として「公共の利益」を率直に支持している人を見つけるのは困難だ――これが最も妥当な見解だろう)。ところが〔「公共の利益」論が現実にそぐわない事実は〕、一連の疑問をさらに追求し、現実世界の規制について実証的な情報を集めての懐疑論を展開に至らなかった。その代わりに、規制国家への批判者達を魅了してきたのが、〔現実世界の〕バカバカしいまでに否定的な戯画となってる、いわゆる“regulatory capture(規制の虜)”理論である。この「規制の虜」理論の見解に従えば、規制は公共の利益とは全く関係がなく、規制はどこまでいっても公共に対する陰謀である。この理論によれば、規制が存在するのは、組織化された利権集団が、競争を制限したり、非生産的な〔財産や権利の〕譲渡を達成するために、国家の競争力を利用しようとするからである。そして、利権集団が「規制の虜」に成功するのは、小規模化して纏まった利害関係者は、拡散化し纏まっていない利害関係者より、集団行動で大きな能力を発揮するからである、とされている。
この「レントシーキング」的見解に従えば、カナダの酪農供給管理システムのようなものは、全てが規制への〔既得権益者による〕干渉の典型例になる。カナダの酪農供給管理システムは、生産を制限するだけなく、酪農ビジネスへの参入を制限することで、乳製品の価格を上昇させることで、割当を保持している農家へレント(既得権益)を付与している。こういったレントによって、乳製品は開かれた市場競争の条件下よりも高価格になり、消費者から農家への非生産的な所得移転となっている。酪農農家が、こうしたレントを維持できているのは、農家は組織化されているが、消費者は組織化されていないからだ。なので、この制度を解体しようとした政治家は、非常に組織化された根強い抗議活動に脅かされることになる。一方、消費者は、牛乳1リットルに1ドル「多すぎ」に支払うだけでは、騒ぐには十分でない。(実際、カナダにおいて、乳製品カルテルに反対するロビー活動を現実に行っていると私が耳にしたのは、大手ピザチェーンだけだ。彼らは、大量のチーズを購入しているからである――これは、結託した利害関係者に対して効果的に行動するには、他の結託した利害関係が必要であるという、〔レントシーキング理論の〕通説的な主張を裏付けている。)
酪農の供給管理における政治問題で観察できるように、「レントシーキング」理論には明らかに一理ある。しかしこの理論を一般化して、環境保護法や消費者保護法を含む全ての規制にまで、これと同じパターンに沿っているとしてしまうのは、かなり乱暴な主張だ。さらに、右派の政治家達は、規制緩和の根拠に、この「規制の虜」の寓話を40年以上に渡って利用してきている。もっとも、果たして彼らの内のどれだけがこの寓話を実際に信じているか甚だ怪しい。右派がそれほどまでに、この「規制の虜」を気にしているのなら、規制機関への人事任命において、被任命者が規制対象の利害からできる限り距離があるように確実に履行しようと、非常に慎重になっていると思われる。ところが、右派政党は、正反対のことをする傾向がある。産業界と非常に密接な関係を持つ人物を規制機関に押し込み、「規制の虜」を積極的に促進しているように見えるのだ。
思うに、こうなってしまっている理由の一端が、「規制の虜」理論には、規制を改善する方法についてのロジックが明らかに存在していないことにある。この理論の中核において、規制は、単なるレントシーキングの実践となっており、解決策は規制の撤廃しかありえないことになっている。「規制の強化」というのは、この理論の観点からは、矛盾を孕むことになる。この理論は、規制機関に対してある種の不健全なシニシズムを助長している。
ここで、この古い議論から一歩引いて、良識的な見解を採用するとしよう。「市場の様々な失敗を是正するには、規制の導入が必要となっている。しかし、そのような規制を創設するには、“machinery of government(行政機構)”を適切な方法で調整するのが困難となっている。行政機構が、様々な特定の利権集団に取り込まれており、規制による介入の目的が蝕まれてしまう危険性が常に存在しているからである」といった見解である。この仮定に立つと、単純にしてリアリスティックなツッコミを入れたくなるかもしれない。「公共の利益に役立つ規制を履行保証しようとするなら、どうすればよいのだろう?」「“規制の虜”はどのようにして起こるのだろう?」「また、どのような条件が、“規制の虜”が発生する可能を多かれ少なかれ、高くしているのだろう?」「規制機関が“虜”になった場合を、どうやって判別すればよいのだろう?」「“罠”に嵌った状況から、どう修繕すればよいのだろう?」「規制機関が、公共の利益の委任を推進する上で、どのような力が、それを効果的、それとも非効果的にするのだろう?」といった疑問である。
こういった一連の疑問こそが、トービン・プロジェクトが集団で取り組んできた問題だ(例えばここ)。驚くべきことに、こういった問題に対して、本格的で実証的な研究はほとんど行われていない。(“規制の虜”理論の支持者達は、実証的な調査を行わずに、ほぼ完全に先験的な推論の合成に依存してきたのだ――彼らは、一連の経済学のモデルに準じて、罠の現実性を『演繹』していたに過ぎない。)
FDAについてのカーペンターの本は、以上のような最近の広範な潮流〔古い規制理論への実証による反駁〕に沿ったものであり、非常に重要な観点に立っている。カーペンターは著作で、(「権力」と「評判」の関係性)概念を理論的に明示化しようと試みている。ただ、彼が特段に明示化に成功しているように私には思えなかった。それでも、彼が暗黙に理論を構築しているものに関しては非常に興味深い。カーペンターが確信しているコア概念は、「FDAのような組織が新しい状況に直面した時、どのような手法(つまり産業に対して積極的になるか、妨害主義的になるか、対立的になるか、懐柔的になるか、無関心的になるか、といったことである。)の決定に関しては、『組織の文化』が非常に強力である」との概念のようだ。
例えば、サリドマイドの大惨事に関するカーペンターの考察から、私は非常に多くを学んだ。サリドマイド事件についての大枠は既に知っていたが、アメリカではサリドマイドによる先天異常が一件も発生しなかったことに、FDAが貢献していたことは知らなかった。一方で、〔FDA所属の〕科学者(フランシス・ケルシー)は、サリドマイドの承認阻止にあたって、少し幸運に恵まれてもいる。彼女は、サリドマイドが先天性異常を引き起こす疑惑について、確たる理由を保持していなかったのだ。彼女は、サリドマイドを推進していた製薬会社に不信感がある、との些細な懸念から、サリドマイドの承認を渋っている。彼女は承認を長期間に渡って引き伸ばしたが、結果的に、サリドマイドが広く使われていたヨーロッパで先天性異常が現れ始めた。このことで、ケルシーは国家的英雄となり、以後20年に渡って、FDAは実質的にアンタッチャブルな威信と権威を得ることになった。
カーペンターの本には、FDAが70年代に、レアトリル/アミグダリン(アプリコットの種から抽出され、誇大宣伝された抗癌剤)の販売の承認を却下し、世論から圧力を受けたことへの興味深い考察もある。これは以下のような出来事だ。FDAは、〔レアトリルが癌に効くとの〕世論からの巨大なキャンペーン(薬の大規模な密輸入の拡大や、瀕死の当事者だったスティーブ・マックイーンらセレブからの圧力等を含んでいた)に対して毅然とした態度を取り、大規模な臨床試験でこの薬には効果がないことが明らかになり、最終的にはFDAの正当性が証明された、というものだ。
この件は、〔製薬会社が〕プラチナベースの化学療法剤を、承認を求めてFDAに最初に提出した際の、FDAの組織としての懐疑的な立場を取ることに繋がっている。つまり、FDAは、新薬の迅速な承認を求める世論からのプレッシャーに直面した際、抵抗する傾向を強めたのである(これは結果的ではあるが間違いであった)。繰り返すが「組織がなぜ、そんな行動を取ったのか?」を理解するには、その組織の経路依存を観察することが鍵となっている。
このカーペンターの本を読んだ人は概して誰であれ、『規制の虜理論』が「規制がどのように機能しているのか」について一般的に説明できていると、真面目に受け取ることができなくなると私は思う。ハッキリ明らかになっているのは、FDAはいかなる時も、「公共の利益がどこにあるのか」について、そして同様に「付与された委任の解釈余地における頑健な裁量権」について強固で独立的な構想を抱いていたことにある。(私の研究目的に関したものだと、FDAが政府から1962年にハッキリとした委任を受ける前に、「薬の有効性に対して、FDAは政府機関として薬を研究するのにコミットして責任を果たすべきだ」と自己正当化した方法についての、カーペンターの考察は、特に興味深い。)カーペンターは、FDAの業務がうまく行っているかどうかについては、実際にはどちらの側にも立っていない。FDAの〔新薬の〕承認プロセスがフラストレーションを溜めることになっている様に、カーペンターが少し手加減しているのではないかと、私は疑っている。にもかかわらず、この本は、FDAが自身の業務をどのようにに施行しているのか(「迅速に対処するか? それともゆっくりと対処するか?」、「法律尊重主義なのか? 柔軟な法解釈主義なのか?」、「問題が起きる前に事前対処的なのか? 事後対処的なのか?」、etc…)について、非常に明確に描き出している。以上観点において、カーペンターのこの本は、規制というテーマにおける重要な学問的営為の一例となっており、これは過去の学識において著しく欠けてけていたものである。
”著しく賭けていた” 欠け ”が耳に挟んだのだ、大手ピザチェーンだけ” 挟んだのは ”瀕死瀕して当事者と” 死に瀕して ”迅速性に対処する” 迅速に対処する 迅速性に重きを置いて対処する
”撤廃しかありない” ありえない