多くのミレニアル世代がヒラリー・クリントンではなくゲイリー・ジョンソンに投票しよっかなーと軽く考えている件でポール・クルーグマンがお怒りだ.彼はいくつも論点を出して述べている.そのうちの1つを引こう:
ただ,ほんとにびっくりするのは,環境について[リバタリアン政党の]綱領が述べていることだ.綱領をみると,いかなる種類の規制にも反対すると言っている.そのかわりに綱領は法廷に訴えればいいのだと主張している.みんながすってる空気や飲んでる水を巨大企業が汚染することにならない? 訴えればいいじゃん:「法廷で被害が証明でき数量化できるなら,被害者への損害賠償が求められねばならない」 大企業が雇う高額報酬の弁護士チームにふつうの市民が立ち向かっていくわけだ――なにか問題があります?
これは,正しい批判の真逆だ.古典的なリバタリアニズムの主な問題とは,十分な汚染を許さない点にある.マレー・ロスバードが何度も繰り返し主張したように,リバタリアンの理論では,汚染とは禁止されるべき暴力的な侵犯の一種とされる.「へえ,でも実際問題として,ひとたびああいう特殊利害グループがそれぞれに〔法廷で〕言い分を言い始めたら?」 歴史を見ると,19世紀のもっと政府が制限されていた時代には,予測しがたい地域的・訴訟による制限手法を敬遠したがったのは大企業の方だった.それよりも,そうした企業は全国レベルでもっと体系的な規制アプローチをとろうとした.この経緯については,相当な研究がある.筆頭はモートン・ホゥウィッツの『現代アメリカ法の歴史』だ.
これについて考えてもらうと,標準的な産業組織制度と合致するのがわかる.確立された既存勢力は,予測しやすい先行投資の高額な固定費用というかたちをとる規制を好む.それによって新規参入を阻みたいからだ.また,ある程度までなら,そうしたコストを消費者や労働者に転嫁できる.〔リバタリアン体制の〕「そっちはこっちを訴えられるかもしれないし,できないかもしれない」という制度は,失うものが少なくて資本の乏しい新規参入者にとって好ましいのだ.
というわけで,純粋なリバタリアン体制のもとでは,大企業は下級裁判所によって立場を危うくされるかもしれない状態におかれないよう保護してもらうのと引き替えに,連邦政府に体系的な規制の実施を求めるだろう.この理由を挙げて,「法廷重視のリバタリアン体制は機能しがたいし,もしかすると瓦解して現状と大差ない結果に終わるのではないか」と論じるなら,それはそれでけっこう.
その方が,もっと面白いコラムになるだろう:「リバタリアンの見解は維持できない,汚染する側の負担が重くなりすぎるのだ.」 ――とはいえ,サンダースを熱烈に支持する層がこれで動かされるかどうかはぼくにはわからないけど.
クルーグマンが言ってるリバタリアニズム批判のなかには,議論不足に思える部分もある:
もし親が子供に教育を受けさせたいと思ったり,カルトの教義を教え込みたいと望んだなら――なんの問題もない〔とリバタリアンは考える〕.
近年まで何十年にもわたって,義務教育であるにもかかわらず高卒率は70パーセントを下回っていた.国による放置状態から親が子供を救う場合は,その逆の場合と少なくとも同程度によくあるように思える.
それに,「カルト」に属す親たちから子供を引き離す現状の政策ってなんだろう? 子供の養育権を争う裁判で異常な宗教が一要因になることはある (pdf).でも,殴打や性的虐待のような具体的な害を示す証拠がないとき,一般的にアメリカ政府は親やカルトなどから子供を引き離さない.この点でドイツとノルウェーは少しちがっている.よくもわるくも,おおよそこれがアメリカ式なんだ.ゲイリー・ジョンソンが当選するまでもない.
ところで,ゲイリー・ジョンソンはちょっぴりだけどヒラリー・クリントンを助けている.きっと『ニューヨークタイムズ』の読者ほどじゃないだろうけど.