●Tyler Cowen, “Does Milton Friedman believe in free will?”(Marginal Revolution, September 29, 2003)
ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)が、つい最近のインタビュー [1] 訳注;「つい最近」とは言っても、2003年時のもの。で、次のように語っている。
「私たちは、ある意味では、決定論者だと言えますが、かといって、運命に翻弄されてばかりというわけでもありません。しかしながら、自由意志論の正しさを申し分ないかたちで立証できるかというと、おそらくできないでしょう。」
個人的にかねてより感じていることなのだが、このインタビューで論点となっているような(「運」の役割を巡る)話題は、成果に応じて報酬が決まる市場メカニズムに対して大きな挑戦を投げ掛けるものだと言えるだろう。働く人々が自らの手で生み出した価値を受け取るに「値しない」ということになれば [2] … Continue reading、再分配政策に対して倫理的な観点から反対することは難しくなることだろう。
いつもは歯切れのよいフリードマンも、「運」(luck)の役割については煮え切らない様子だ。
「我々夫婦の半生を振り返った回顧録を数年前に出版したのですが、その本のタイトルは、『Two Lucky People』(『幸運な二人』)です。運の問題についてはどうにかしなきゃいけないという意見があるかもしれません。平等主義(egalitarianism)を是とする議論も、結局のところは、運の問題を放置していてはいけないというところからきています。例えば、こんなことが言われます。『生まれつき目が見えない人は、本人に何かしらの落ち度があってそうなったのだろうか? そんなわけはない。目が見えないのは、偶然(運)以外の何物でもない。それなのに、どうして苦しまないといけないのか?』。もっともな意見ですし、その感情もよくわかります」。
それでは、「運」は公共政策に対してどのような意味合いを持っているのだろうか?
「それは非常に難しい質問ですね」と語るフリードマン。そして、運に恵まれただけと思っていても、実はそうじゃない可能性も完全には否定できないと付け加える。「おそらく同意していただけるでしょうが、たまたま運が良かっただけと思っていても、実はそうじゃないという場合もあるでしょう。高い報酬を得ているのは、能力が優れているから、あるいは、一生懸命努力したから。でも、周囲から妬まれて「運のいい奴」(lucky bastard)との評価を下されるなんてことがあるわけです。成果の違いのすべてが運によるものだとは限らないのです」。