ポール・クルーグマン「マンデルとマンデル」(2021年4月12日)

概要:ノーベル賞受賞者のロバート・マンデルが2021年4月4日に亡くなった。このコラムではポール・クルーグマンが、現代の国際マクロ経済学においてもまだその基礎であり続けているマンデルの初期の画期的モデルから、学者の間で物議をより醸したが影響はより小さかった後期の見解まで、経済思想と政策に関するマンデルの貢献の変遷を説明する。またクルーグマンは、ケインジアンの分析を開放経済に持ち込み、そして通貨圏を作る際の困難なトレードオフに光を当てたマンデルが、サプライサイド経済学とユーロの両方の生みの親とみなされるようになったことについても一つの説明を提供してくれている。

(訳者:原題は The Mundell Difference。何かにかけて初期と後期のマンデルの違いに触れたタイトルだと思いますが、その何かが何なのか分からないので上記のタイトルにしました。)

ロバート・マンデルが1963年に発表した論文 “Capital mobility and stabilization policy under fixed and flexible exchange rates”(固定および変動為替レートの元での資本移動と安定化政策)の冒頭は奇妙な文章となっている:”The world is still a closed economy, but its regions and countries are becoming increasingly open”(世界はまだ閉鎖経済だが、しかしその地域や国々は次第に開放されつつある)。

「まだ」?マンデルは、惑星間貿易が行われて世界全体が閉鎖経済ではなくなるような未来でも考えていたのだろうか?まあおそらくは考えていなかったろうが、もし考えていたとしてもそれはいかにも彼っぽい事だった。4月4日に亡くなったマンデルは、時代の先を行く経済学者だったのだ。

たとえば、彼の重要な論文は大恐慌や第二次世界大戦中に国際取引に課せられた規制の多くがまだ残っていた時代に書かれたものだった。英国の為替管理はサッチャー政権になるまで続いたし、フランスは1989年まで為替管理を廃止しなかった。けれどマンデルはこれらの論文の中で、資本、そしておそらく他の生産要素についてもその流動性が高い世界を想定していた。じつのところ彼の安定化論文では完全な資本の流動性を仮定していて、各国の収益率が均一化されるように資金が瞬時に移動するとされていた。

その後の数十年、資本の流れが急増し固定為替レートが変動相場制に移行していく中で、マンデルの研究は必要不可欠なガイドを提供した。

以下において私は、マンデルの経済思想と政策への貢献について説明を試みる。

最初に断りを入れておくが、マンデルの思想の軌跡はこれを厄介な試みにしている。彼の経済学界での影響力のほとんどは、彼が非常に若いときに書いた一握りの素晴らしい論文に由来している。彼の公の場での知名度のほとんどは、キャリアの後半で行った、しばしば彼の初期の研究と相反するような議論に由来したものだ。

もちろん、偉大な経済学者達も時とともにその意見を変えるものだし、新しい情報が入ってくればそれは当然である。しかしマンデルは、その知的スタイルを一変させたのだ。もし彼のノーベル賞受賞講演を誰が書いたか知らずに読んだとしたら、数十年前にあの小さくてピリリっとしたモデルを考案したのと同じ人だとは想像がつかないかもしれない。

とにかくまずは、現代の国際マクロ経済学においても基礎でありつづけているそのモデルたちから初めていこう。

ルーニー・テューンズ [1]原文は”Loonie tunes”で、”Loonie”とはカナダの1ドル硬貨の名称で、当然ながらワーナーアニメのルーニー・テューンズ ”Looney tunes”とかけている。

マンデルがノーベル賞を受賞した時、多くの経済学者たちと同じく、私も彼の最も影響力のある研究はカナダの経験に触発されていたらしい事を指摘した。だが振り返ってみると私は過少評価をしていたのかもしれない。マンデルの国際マクロ経済学への3つの主要な貢献のすべての基礎にはカナダのモデルがあった事はまず間違いない。

すでに指摘したように、1950年代後半や1960年代前半においては、資本移動は大体において広範な規制をうけ制限されていた。しかしマンデルは完全な資本移動の世界を仮定することが有用だと考えていた。これは分析の明晰さの為でもあるが、それが「国際金融が向かっていると思われるステレオタイプ」であるからでもあった。そしてカナダは「金融市場が巨大なニューヨーク市場に大きく支配されて」おり、と彼は書いた。すでにほぼその状態に達しているのだ、と。

よってカナダの経験がマンデルが国際経済における資本移動と一般的な要素移動の役割に早くから一貫して注目していたことに貢献したという推測は妥当なものに思える。この注目は1957年に彼が発表した”International trade and factor mobility”(国際貿易と要素移動)においてすでに明らかだ。今でも広く読まれているこの論文は、貿易が要素移動を代替することができ、その逆もまた可能であると論じている。

カナダの特徴は資本移動を許している事だけではなかった。カナダは、為替が変更可能ではあるものの固定されている世界の中で、金融政策の独立性を確保するためにやらねばならぬ事として、ルーニー(カナダドル)の変動相場を長期間にわたって認めていた点で際立っていた。マンデルが変動相場制下でのマクロ経済政策に早くから注目していたのは、このカナダならではの経験があったからなのは確実だろう。これは、当時の多くの国においては学問的な想像でしかなかったが、マンデルの母国にとっては生々しい現実だった。

また、ルーニーを変動させるというカナダの決定は、1963年の論文で示唆された、資本の移動な自由、固定為替レート、実効的な金融政策、この3つのうちから2つしか選択できない「不可能な三位一体」の具体的な例を提供している。

また、マンデルの母国であるカナダには、1960年代にも、そして現在でも特別なものである事がある。カナダの普通ではない経済的地理だ。カナダの国土は広いが、その気候のせいで、人口の大部分はアメリカとの国境のすぐ北側の、狭いがしかし非常に長い地域に住んでいます。バンクーバーとトロントは2,000マイルも離れている。事実上、カナダは自国よりアメリカに近いのだ。

カナダの地理はマンデルが1961年に発表し、影響力の点で彼の安定化政策の論文に匹敵する論文”A theory of optimum currency areas”(最適通貨圏の理論)のビジョンに明らかに影響を与えている。マンデルは変動相場制がカナダにとってあまり意味がないのではと懸念していた。カナダの東西で経済基盤があまりにも異なっていた事、そしてそれらが単一の労働市場を構成していない事の2つの理由からだ。これから自然に要素移動が、国が独自の通貨を持つべきか及び/あるいはその通貨の変動を許容すべきかどうかを決定する重要な要因であるという考えにつながった。

このように、マンデルにとって事実上カナダの経験が、市場がまだ解放されつつある状態の世界において開放経済でのマクロ経済学はどのように機能するのかという疑問を考えるモチベーションとなった。マンデルの答えから、私たちはどんな事を学んだのだろうか?

開放マクロ経済学

安定化政策に関する1963年の論文が、一般にマンデル・フレミングモデルと呼ばれるものについてのマンデルの貢献をなしている。Boughton(2002)は、Flemingの同様の内容の1962年の論文の方が先にでたわけで本当はフレミング・マンデルモデルと呼ぶべきであると、そして分析の多くはジェームズ・ミードの初期の研究にも見られると主張している。この議論を無意味なものとして否定するつもりはない。しかし大抵の人が引用するものとなったのはマンデルのモデルだ。これは、そのモデルがドラマチックな政策の「フック」、金融政策と財政政策の効果は為替レートの体制に決定的に依存するという主張を提供したからだ。

具体的には、マンデルの分析は、金融政策は固定相場では全く使えないが、しかし変動相場においては、従来の経路ではなく、為替レートを通じて効果を及ぼし非常に効果的になる事を主張した。一方、財政政策は、固定相場では有効であるが、変動相場では財政拡大により純輸出が抑制され、景気刺激効果が相殺される。

これらの結果は現実にはどうだったのだろうか。高い資本移動性と固定相場の組み合わせは、明らかに国内金融政策を完全に役たたずにする。欧州の為替レートメカニズムでは、ドイツ連邦銀行が欧州通貨制度全体の金融政策を決定していることを誰もが当然と考えていた。

変動相場制下での金融政策のスーパー強化も多かれ少なかれ確認された事実である。例えば、英国のインフレ抑制のためにサッチャーが行った金融引き締めは、製造業の競争力を低下させたポンドの大幅な高騰を介して英国経済に大きく影響を与えた。しかし、変動相場制の下でも、金融政策は金利に影響を与えているようだ。

財政面はあまり明確にはなっていない。これは一部には、マンデル・フレミング・モデルの前提である「変動為替相場下で通貨供給量は一定である」という前提が、実際の政策を説明するものではなく、また実際にそうだった事がこれまで一度もないからだ。実際には中央銀行は金利を目標としており、この事が財政政策の金利への影響を、貨幣需要の変化による機械的な結果というよりも政策対応の関数にしている。

しかし、中央銀行はどうして金利を操作できるのだろうか?マンデルのオリジナルのモデルでは、完全な資本移動性が、たとえ変動相場制下であっても通貨間の金利の均一化を保証している。これは明らかに正しくない。2008年の金融危機以降だけでも、2011年にはFRBが利上げしないのにECBが利上げしたし、2015年から2019年にかけては逆にFRBが利上げする一方でECBは金利を据え置いていた。

そう出来る理由は、完全な資本移動性があっても為替レートが変化すると予想される場合には金利は異なる事ができるからだ。これは、マンデルの弟子であるルディガー・ドーンブッシュが、1976年に発表され名声を得た論文”Expectations and exchange rate dynamics”(期待と為替レートダイナミクス)で指摘しているポイントだ。そのモデルはマンデル・フレミングの基礎の上に組み立てられている。一般に、期待を考慮すると、特に投資家が為替レートがある正常な水準に戻ると期待している場合には、Mundell-Flemingの結果は軟化する。金融政策は為替レートと共に国内の経路を通じても機能し、財政政策は純輸出を通じて部分的なクラウディングアウトをもたらすだけとなる。しかし、国際経済学者が為替レートの期待値の意味を考えるようになったのは、マンデルの最初の分析の切れ味の鋭さによるものであった。

つまり、マンデルは開放マクロの全ての答えというわけではなかったのだが、しかし彼が変動相場制下でマクロがどのように機能するかについて、より鋭く、より現実的な評価へと分野を押し進めたのだ。

マンデルとドーンブッシュについては、更に私としては、彼らが開放マクロ経済学にある種のメタ効果をもたらしたと言っておきたい。というのも、ゆっくりした価格調整を伴うIS-LMタイプのモデルが興味深く、刺激的ですらある結論を生み出す事を彼らが示したからだ。このことが、均衡マクロが上げ潮にのっていた時にすら国際経済学を比較的ケインジアンにとどめる効果を持っていた。更に言えば、この分野を比較的まともなものに保たせていた。

そしてここには、当然ながら、いくらかのこの世の皮肉がある。マンデルは最終的にサプライサイド経済学の守護聖人として採用されたわけなのだから。それについては後ほど。

通貨圏

安定化政策や為替制度に関する研究と同様、最適通貨圏に関するマンデルの論文はドラマチックで切れ味鋭い分析を提示し、これが他の人々を刺激して多くの更なる分析を生み出した。この更なる分析は、マンデルの当初の前提を超えた考察をもたらし、またマンデルの当初の主張を幾分和らげた。しかし、実質的な出発点を提供したのがマンデルだった。

マンデルの元々の主張について考えてみる一つの方法は、彼が実質的に問うた事だ:何が国を意味のある経済単位にするのか?国が本当にそういった単位であってようやく、国は変動相場制から利益を得ることが出来る。

マンデルの答えは、実は彼以前の研究の中ですでに出されていた。彼の主張の多くは、何を探しているのか理解してさえいれば、ミルトン・フリードマンの1953年の為替レートの柔軟性を主張するエッセイの中に見つかる。しかしマンデルは多くの経済学者に、高い要素移動性、特に一国が単一で統合された労働市場を持つと見なされるほどの労働移動性が鍵であるという考え方を紹介したのはマンデルだ。マンデルは、この基準をカナダが満たしていないと示唆していた。

後の研究では別の基準も示されるようになった。1963 年、ロン・マッキノンは、最適通貨圏は開放的すぎない程度に大きい事が必要だと、つまり経済の中で非貿易財やサービスの生産に充てられる割合が高いことが必要だと主張した。その数年後、ピーター・ケネンが通貨同盟内の特定の地域へのショックを相殺できる財政統合の重要性を主張した(Kenen 1969)。

ユーロ危機への対応もこのリストに追加され、銀行行政統合 [2]原文”banking union”. の重要性、そして、Paul De Grauweによる、即座に古典としての重要性を確保した論文(De Grauwe 2011)の中で中央銀行の最後の貸し手として行動する意思があることが強調されるようになった。

通貨統合の条件のリストが拡大するにつれ、議論も白と黒からグレーの濃淡へと変化していった。初期の研究はかなり単純なYes or Noの基準を提供してくれるようだった:この奇妙な条件を満たせる時そしてその時のみ通貨同盟を形成すべし、と。経済学におけるたいていの議論と同様、これは最終的にトレードオフの分析へと、通貨圏内の各地域への非対称なショックのコストを軽減すると思われる最適通貨圏の為の様々な要因についての基準をともなった単一通貨のメリットとコストの比較へとなっていった。

このアプローチは時の試練に耐えただろうか?2012年に私が論じたように、ユーロへの移行は最適通貨圏理論についてのある種のテストを提供してくれた。欧州は通貨圏の為のほとんどの基準を満たしていない:労働力の流動性は限られており、財政統合はほとんどなく、銀行行政の統合はいまだ達成されざる夢でしかない。これはアメリカとは非常に対照的だ。アメリカは大陸規模の通貨圏を運営しているが、しかし労働力の流動性の高さと、地域ごとの景気後退において提供されるその地域経済への事実上のセーフティネットの両方を備えている。

案の定、ユーロ圏は2010年から2015年頃まで深刻な困難に見舞われた。ユーロ支持者は、単一通貨の利点がこれらの問題を上回ると主張するだろうし、ユーロ離脱の仕組みは非常に難しいので、深刻な困難を抱えた国ですら連合にとどまった。しかしこれで、最適通貨圏というフレームワークの有用性は確認されたようなものだろう。

しかし、奇妙な事がユーロへの道の途上でおこった:多くの経済学者がユーロに懐疑的な理由として最適通貨圏理論を持ち出していたにもかかわらず、マンデル自身は熱狂的な支持者となり、(正当性は疑わしいが)「ユーロの父」と呼ばれるようになったのだ。さらに、サプライサイドの反ケインズ主義者達が、国際マクロ経済学をほぼケインズ主義的に保つことに貢献した初期の研究を行った経済学者を、自分たちの知的創始者だと宣言したのだ。

マンデルの知的な旅のこの部分をどのように理解すればよいのだろうか。

マンデル2.0

マンデルの後年の知的展開を追跡するのは彼の初期の仕事のそれと比べてはるかに困難だ。マンデルはものを書き残す事を止めてしまったので。マンデルの後年の考え方について世間が信じていることの多くは彼自身が書いたものではなく、彼の見解についての他人の説明、特にジャーナリストのジュード・ワニスキが1975年に発表した『Public Interest』誌の記事”The Mundell-Laffer hypothesis – a new view of the world economy”(マンデル-ラッファー仮説-世界経済の新しい見方)に由来する。

しかし、マンデルはこれらの説明に異議を唱えなかったし、彼が実際に書いたもの、特にプリンストン国際金融セクションのエッセイ”The dollar and the policy mix: 1971”(ドルとポリシーミックス:1971)などは、これらの記事の一般的な趣旨と同じであり、またそういったものがどこから来たのかを示しているように思われる。そして、開放経済にケインジアンの分析を持ち込み、通貨圏を作る際の難しいトレードオフを強調した彼が、サプライサイド経済学とユーロの父となった経緯をなんとか再現できるのではと思う。

私が考えはこうだ。マンデルは、1960年代のある時点で、通貨の減価は効果がなく無駄であると考えるようになった。一物一価の法則が常に成立するだろうからと。ワニスキーの説明によれば、彼は「通貨の減価には実質的な効果はない、減価した国の物価上昇をもたらすだけだ」と考えていた。このように考えると、最適な通貨圏は全世界であるとなるし、単一通貨を採用できるならどんな為替レートでもいいとなる。よってユーロだ。

しかしその頃、マンデルは米国の赤字収支によって危険に瀕されていたドルの国際的な役割について懸念していた。1962年に発表した論文”The appropriate use of monetary and fiscal policy for internal and external stability” (内外の安定の為の金融・財政政策の適切な利用)において、対外赤字と失業に直面している国、これは1970年代初めのアメリカの状況だったが、そういった国は金融引締め政策と拡張的な財政政策を組み合わせるべきだと彼は主張していた。そう、彼はアメリカにその組み合わせを処方していたのだ [3]金融引締めと拡張的な財政というのは80年代アメリカの実際のポリシーミックス。

この分析についていえば、拡張的な財政政策は支出の増加でも減税でもどちらでもよいとなる。しかし1960年代が過ぎてゆく中で、マンデルは税金、とりわけインフレが人々をより高い税率へ押し上げてゆくために高まる限界税率が経済成長を阻害しているとの確信を深めていったようだ。そのためマンデルは、金融引締めと減税の組み合わせを提唱するようになった。それゆえ、彼は「サプライサイド経済学の父」と呼ばれているわけだ。

マンデルの見解のこの描写が、彼の代表的な研究の純粋な明快さを欠いているように思えるなら、冒頭で述べたようにそれは彼の知的スタイルが変化したからだ。彼の1971年に発表されたドルについての論文の論旨を要約するのは簡単じゃない。それは、米国のグルーバルリーダーシップについての推測や、ミルトン・フリードマンの自然率仮説の再提示、そしてその他6つほどのトピックの間をさまよっている感じだ。もし気に入ったならば、変幻自在と呼べるだろうし、気に入らなければぼんやりしているとなるだろう。

いずれにしてもそれは経済学大学院のシラバスに載るようなものではなかった。既に述べたように、マンデルは価格粘着性に、よって大体においてケインジアンマクロ経済学に背を向けるようになったのだが、彼の生徒であるルディ・ドーンブッシュはオーバーシュート論文によって粘着価格を開放経済マクロの中心にとどめるのを助けていたのだった。

そしてマンデルの主張、あるいは彼の主張だというワニスキーの主張、減価には実質的な効果がないという主張は、ドーンブッシュによって暗黙のうちに否定され、彼のもう一人の教え子であるマイケル・ムッサが1986年に発表した論文”Nominal exchange rate regimes and the behavior of real exchange rates: Evidence and implications” (名目為替レジームと実質通貨の動き:証拠と含意)の中で明確に却下された。ムッサは、名目為替レートの変動は、物価の変動によって相殺されるどころか実質為替レートの変動を一対一で引き起こしているらしいこと、そして実質為替レートのボラティリティーは為替レートレジームによって劇的に変化することを示し、逆の因果関係は否定できるらしきことを示した。ムッサが論じたように、実質為替レートの動きはゆっくりした価格調整を示す明白な証拠を提供している。

初期と後期のマンデルの間の文章スタイルの違いと、後期マンデルの主張の明白な実証的失敗が、経済学的言説におけるマンデルの特異な役割を説明している。マンデルの初期の研究は、研究や政策モデルの重要な構成要素であり続けているし、半世紀を経てもなお日常的に引用されている。彼の後期の見解は、政治家や政策起業家達からは称賛されたが、プロの経済学者達からは基本的に無視されてきた。明らかに、経済学はモデルに従うのであって、人に従うのではないのだ。

しかしそのモデルたちは本当に画期的で息を呑むようなものであった。国際マクロ経済学は大部分、マンデルが建てた家なのだ。たとえ彼自身は去り、別の場所に住むことを選んだとしても。

参照文献

Boughton, J (2002), “On the origins of the Fleming-Mundell model,” IMF Working Paper 02/107.

De Grauwe, P (2011), “Managing a Fragile Eurozone” VoxEU.org, May.

Dornbusch, R (1976), “Expectations and Exchange Rate Dynamics,” Journal of Political Economy 84: 1161-76.

Fleming, M (1962), “Domestic financial policies under fixed and floating exchange rates”, IMF Staff Papers 9: 369–379

Friedman, M (1953), The Case for Flexible Exchange Rates”, in Essays in Positive Economics, University of Chicago Press.

Kenen, P (1969) “The Theory of Optimum Currency Areas: An Eclectic View”, in R Mundell and A Swoboda (eds), Monetary Problems of the International Economy, University of Chicago Press.

Krugman, P (1999), “O Canada,” Slate.

Krugman, P (2012), “Revenge of the optimum currency area”, NBER Macroeconomics Annual Vol. 27.

McKinnon, R I (1963), “Optimum currency areas”, The American Economic Review 53(4): 717-725.

Mundell, R (1957), “International trade and factor mobility,” American Economic Review 47(3): 321-335.

Mundell, R (1961), “A Theory of Optimum Currency Areas”, American Economic Review 51(4): 657–65.

Mundell, R (1962), “The appropriate use of monetary and fiscal policy for internal and external stability,” IMF Staff Papers 9: 70-79.

Mundell, R (1963), “Capital Mobility and Stabilization Policy under Fixed and Flexible Exchange Rates,” Canadian Journal of Economics 29: 475-485.

Mundell, R (1971), “The dollar and the policy mix,” Essays in International Finance, no.85.

Mundell, R (2000), “A reconsideration of the Twentieth Century,” American Economic Review 90(3) 327-340.

Mussa, M (1986), “Nominal exchange rate regimes and the behavior of real exchange rates: Evidence and implications,” Carnegie Rochester Series on Public Policy 25: 117-214.

Wanniski, J (1975), “The Mundell-Laffer hypothesis, a new view of the world economy,The Public Interest No. 47.

References

References
1 原文は”Loonie tunes”で、”Loonie”とはカナダの1ドル硬貨の名称で、当然ながらワーナーアニメのルーニー・テューンズ ”Looney tunes”とかけている。
2 原文”banking union”.
3 金融引締めと拡張的な財政というのは80年代アメリカの実際のポリシーミックス。
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