Hiroyuki Motegi, Yoshinori Nishimura, Kazuyuki Terada, Retirement and changing lifestyle habts , (VOX, 25 September 2015)
退職が健康に及ぼす影響の良し悪しは、未だ明らかでない。本稿では、それがポジティブなものである可能性が高い事を示す日本発の新たな実証結果を検討する。日本では、高齢者は退職後に飲酒喫煙量を減少させる。それは人びとに同僚と一緒に飲酒喫煙する傾向が有る為で、したがって同結果はその大部分を一種のピア効果に負うものである。
ここ数十年の間に、先進国の多くは出生率低下と人口高齢化の問題に直面してきた。人口の一部が高齢化するにつれ、社会保障および福祉に掛かる費用は増加し、国家予算を侵食するものとなる。日本もこの様な高齢化の進む人口を抱える国の1つである。その為の費用の一部を削減する為に、日本政府は国民基礎年金受給資格年齢を60歳から65歳に引き上げている。しかしながら、多くの企業は60歳前後の定年退職を設けており、その結果、多くの高齢者が年金の受給が始まる前に定年退職の年齢を迎える事になっている。目下日本政府は、企業に定年退職の年齢を既に迎えた高齢者を再雇用するよう、労働市場への介入を通した働き掛けを行っている。
この再雇用促進政策が副次的影響を伴うものとなる事も十分考え得る。考えられる懸念の1つに、定年退職の年齢を迎えた後も労働を継続する事となる高齢者の健康への影響が在る。例えば、労働が高齢者の健康に良いものなら、この一連の動きは医療費の削減にも繋がろう。他方、労働が高齢者の健康に悪い場合には、懸案の副次的影響は 『悪い』 ものとなると考えられるのであり、要するに医療費の増加に繋がることとも成り得る。高齢者が継続して労働する場合の生じてくる健康への影響は重要である。そこで我々は本再雇用促進政策の評価査定を行うことにした。
退職が健康に及ぼす影響
過去数十年の間に、退職と健康の関係を調査する幾つもの研究が現れてきた。しかしながら、退職が健康に及ぼす影響に関しての統一的見解は存在しない。
- 幾つかの研究は、健康状態へのポジティブな影響を精神的健康または肉体的健康と定義する限り、退職はこれを有するとの結論を出している (Charles 2004、JohnstonとLee 2009)。
- 他方、退職の影響は全く無い、或いはネガティブなものであると結論付ける研究も存在する (RohwedderとWillis 2010)。
こういった結論の違いは何故生じるのだろうか?
これらの違いを解き明かす鍵は、退職が健康に影響を及ぼす際に辿る経路に在る。退職が健康に及ぼす影響に不均一性が有る [heterogeneous] 事も、十分考え得るのである。そうであれば、こういった研究が異なった結論に至ったのも、高齢者の健康に影響を及ぼしていたファクターが、各研究において、退職後に不均一に変化していた為であるかもしれない。
近時、退職の健康への影響の背後に在るメカニズムを分析するという困難な課題に取り組む者が現れてきたが、その中でもEibichi (2015) は重要な研究成果となった。著者は本論文の中で、退職が健康に影響を与える理由の説明を行っている。本研究はドイツにおける健康行動と時間の使い方の変化を分析したものである。我々もまた、生活習慣の変化 – これには 『健康行動の変化』 (Eibichi 2015) との類似性がある – は、退職が健康に影響を及ぼす際に辿る重要な経路の1つで在ると考える者である [訳注1]。
事実、医療研究によって現在までに健康と生活習慣の関連性が確認されている (Jemalら2008)。これらの研究結果に依れば、もし生活習慣と退職の間に因果関係が在る場合には、前者の変化は後者が健康に影響を及ぼす際に辿る経路の1つであるとも考えられる為、同変化は、退職が健康に及ぼす影響に関して統一的見解が存在しない理由を説明するものなるかも知れないのである (図1を参照)。図1に示したメカニズムの下では、高齢者が退職後に健康行動を変化させる場合には、退職が健康に及ぼす影響も自ずと違ってくるだろう。
図1. 退職・健康間の仮定的関係
仮説・研究設計・研究結果
我々は、健康に影響を与える可能性の有る生活習慣 – 飲酒・喫煙・運動・睡眠など – に対する退職の影響を分析した。退職後の飲酒喫煙の影響 [訳注2] に関して、我々は次の様な2つの仮説を設定した:
- 第一の仮説は、退職前の人びとは職場でのストレスの為に飲酒や喫煙を行う、というものである。もし職場でのストレスの為にこの様な飲酒喫煙が行われているのならば、退職し、職場のストレスから解放された彼らがこういった行為を行う頻度は低下するものと考えられる。
- 第二の仮説は、人びとが職場の同僚らと飲酒や喫煙を行うのは、その同僚らがそうしたがるからである、というものである。我々はこれを 『ピア効果』 と呼ぶ事にする。
我々の考えでは、日本においてはこのピア効果こそが、人びとが職場で飲酒や喫煙を行う理由を説明する為の鍵となる。高齢者がもし職場のピア効果の結果として飲酒や喫煙を行っていたのであれば、退職後には飲酒や喫煙の程度を減少させるものと思われる。というのは、高齢者も退職した後には同僚らと顔を合せる機会が無くなると思われるからである。
日本にはビジネス人の間で同僚や取引相手と仕事の後に飲酒を行う慣習が在る。その結果、上記の第二仮説が日本における飲酒行動を繙く上で鍵となる仮説となる。我々の記述統計の結果を見る限り、退職が生活習慣に影響を及ぼす事は十分考えられる事態の様である。
図2. 日毎の平均消費煙草本数・平均アルコール摂取量 (グラム)・ 平均睡眠時間 (時間)
原注: F = 女性; M = 男性.
我々は計量経済分析を行い、データの裏付けを得た仮説を明らかにした。退職のもつ生活習慣への影響を分析する為、分析には『くらしと健康の調査 (JSTAR)』 を用いた。これは日本国内の50歳以上の高齢者を対象としたパネル調査であり、諸外国にも、例えば中国の 『健康およびリタイアメントに関する長期調査(CHARLS)』、英国の『英国における高齢化の縦断的研究 (ELSA)』、韓国の『高齢化研究パネル調査 (KLoSA)』、インドの 『インドにおける縦断的高齢者調査 (LASI)』、ヨーロッパの 『欧州における健康、加齢及び退職に関する調査 (SHARE)』 などといった類似調査が在る。以下に我々の調査結果をまとめる:
- 第一に、高齢者は退職後に喫煙量・アルコールの摂取量を減少させている。
それだけではない。休日における睡眠時間には変化が見られない様だが、週日における高齢者の運動頻度および睡眠は増加を見せている。これは、高齢者が退職後に生活時間の配分を変えた事を示唆するものである。
- 第二に、職場ストレスの程度などの様々なファクターを考慮し調整を通じて、本ピア効果が、日本では退職後の飲酒や喫煙の程度を減少させる上で重要な役割を果たしている事が判明したのである。したがって、我々は第二仮説の方を支持する事になる。
高齢者が退職後に生活習慣を変えるに至る経緯は如何なるものか
我々の調査によって、本ピア効果が日本における退職後の生活習慣の変化を説明する上で鍵となるファクターである事が判明した。しかしながら、我々はこの結論が普遍的なものであるとは考えていない。日本以外の多くの国では、ビジネス人が仕事の後で同僚を伴って飲酒する事は、あまり無い。したがって幾つかの国では、退職後も人びとの生活習慣は変化せず、結果として退職後も健康状態に変わりはないかも知れない。こういった可能性が示しているのは、退職が健康に及ぼす影響が様々な研究において一定しない理由を解き明かす上で、生活習慣の変化という経路が重要となるかも知れないという事である。我々は引き続き、退職後の健康に影響を及ぼしている可能性の有る諸経路にみられる行動変化、及び様々な国での退職後の健康変化の態様、これら双方を確認して行きたい。その手始めに、続く研究では、合衆国、欧州、韓国、及び日本で見られる退職後の生活習慣の変化ついて、その比較を試みたい。
参考文献
Charles, K K (2004), “Is Retirement Depressing? Labor Force Inactivity and Psychological Well Being in Later Life,” Research in Labor Economics, 23: 269–299.
Eibich, P (2015), “Understanding the Effect of Retirement on Health: Mechanisms and Heterogeneity,” Journal of Health Economics, 43: 1–12.
Jemal A, M J Thun, L A G Ries, H L Howe, H K Weir, M M Center, E Ward, X-C Wu, C Eheman, R Anderson, U A Ajani, B Kohler and B K Edwards (2008), “Annual Report to The Nation on The Status of Cancer, 1975-2005, Featuring Trends in Lung Cancer, Tobacco Use, and Tobacco Control,” Journal of the National Cancer Institute, 100(23): 1672–94.
Johnston, D W and W S Lee (2009), “Retiring to the Good Life? The Short-term Effects of Retirement on Health,” Economics Letters, 103(1): 8–11.
Motegi, H, Y Nishimura, and K Terada (2015), “Does Retirement Change Lifestyle Habits?” RIETI Discussion Papers 15-E-068
Rohwedder, S and R J Willis (2010), “Mental Retirement,” Journal of Economic Perspectives, 24(1): 119–138.
訳注1: 原文: “…We also consider that the changes in lifestyle habits, which are similar to ‘changes in health behaviour’ (Eibichi 2015), and could be an important channel through which retirement influences health.”
訳注2: 原文: “Regarding the effect of smoking and drinking on retirement, we propose two hypotheses:”。しかし文脈からすると、”..the effect of retirement on smoking and drinking,…” の書き損じかもしれない。その場合翻訳は “退職が飲酒喫煙に及ぼす影響に関して、我々は2つの仮説を設定した。” となる。