・Peter Singer, “Excellence in opera or saving a life? Your choice.“, Washington Post, September 8, 2015.
慈善団体に寄付をするアメリカ人は多いが、寄付をしようと思っているチャリティ団体について少しでも調査を行う人は少ない。寄付の大半は心理学者が「温情的寄付”warm glow” giving」と呼ぶものだ。…ある人が10ドルだか20ドルだかを慈善団体に快く寄付するとき、その理由は、慈善団体の目的を助けたいと真剣に思っているからというよりも寄付が自分の気持ちをよくするから、ということである可能性のほうが高い。
社会的な期待に応えるということも、寄付という行為の別の部分の動機となっている。私たちは慈善団体や教会やモスクやシナゴーグが私たちに対して期待していることに応じようとするし、大学の友人から彼女がどれだけ母校に寄付しているかということを伝えれられた時にも反応する。愛する誰かかが乳ガンで亡くなってしまったとすれば、ピンクリボンを買った時に大半の人は熱心に賛成してうなずいてくれる筈だ。乳ガンの研究について既にどれほどの資金が投入されているか、私たちの寄付が与える価値がより高くなるような別の寄付対象があるかどうか、それらを訊ねる人は少ないだろう。
今日では、効果的な利他主義者たちがこれらの難しい問題を訊ねている。私たちが支払う金で最大の善を行うことができる慈善団体に私たちは寄付するべきだ、と彼らは主張する。だが、その考えに尻込みする人もいる。それぞれ異なる目的を持った慈善団体が数多く存在するというのに、最善を行える慈善団体を指定することなんてできるのだろうか?発展途上国で数百万人の子供を病ませて殺しているマラリアなどの病気を予防するという目的と、動物たちの苦痛を減らすという目的と、地域のホームレスを助けるという目的と、新しいオペラハウスを建てるという目的と…慈善団体の目的はこれ程までに多様なのに、違った団体に寄付した時に生じる異なった結果を比較すること自体、本当に可能なのだろうか?
私たちがそれぞれに抱いている根本的な価値観について議論することは不可能である、と多くの人が考えている。今日の言葉で言えば、価値観は “情熱”に依存しているのだ。だが、情熱は導き手としては頼りない。反ワクチン運動家だって、人権団体で働いている人々と同じくらい情熱的であるかもしれないのだ。
しかし、特定の地域や部族的な利益を超えて普遍的な視点を採用するという考えの中には、倫理の合理的な根拠が存在している。ある人の人生には他人のそれに比べて幸福や悲惨を経験する可能性が多く含まれているという証拠が存在しない限りは、私たちは全ての人々が…そして、全ての感覚ある存在が…苦痛を避けられてできるだけ多くの幸福や充足感が得られるように、平等に配慮するべきなのだ。
この基礎的な原則からは、私たちは発展途上国にて極限的貧困の状態にある人たちのために活動する慈善団体へと寄付を集中させるべきだ、ということが導かれる。なぜなら、どんな金額であっても、最も助けを必要としている人々を助けることでより多くの善が行えるからだ。例えば、私たちが救えることのできる発展途上国の乳幼児の生命の数は、アメリカや他の先進国で救えることのできる乳幼児の生命の数よりも多い。安価な金額で予防したり治療したりすることができる病気のためにアメリカの乳幼児が死ぬということは珍しいが、同じ病気で発展途上国の乳幼児たちは未だに死に続けているからだ。
同様に、若年死を防ぐことではなく苦痛を防ぐことを目的にするとしても、アメリカにいるホームレスを助けることは、発展途上国の人々の苦痛を防ぐこと…例えば、米国の基準からすれば非常に安価な手術ができないために産科瘻を患っており、体を清潔にすることが不可能なために出産以後は一生に渡って社会から除け者にされる若い女性の産科瘻を治して彼女を助けること…に比べてコストが高い場合が多い。
動物の苦痛も重要な問題だということについては私たちの大半が同意するが、動物が感じている苦痛と人間が感じている苦痛を比較することはずっと難しい。他の豚たちと一緒に畜産工場の中に押し込まれた豚が感じる苦痛と、予防可能な様々な種類の人間の苦痛とをどうやって比較することができるのだろうか?私には答えがわからないが、しかし、動物の苦痛を減らすことは人間の苦痛を減らすことよりもずっと安価に行えるとすれば、動物の苦痛を減らすことは選択肢として正当なものであるように思え始める。特に、肉の消費量を減らすことは温室効果ガスを減らすことやその他の環境や健康に関するベネフィットももたらすのだから。
しかし、どうして苦痛を減らすことが他の物事…例えば、オペラ作品の素晴らしさ…を上回ると言えるのだ、とあなたは訊ねるかもしれない。
自分の家族の健康が危険に晒されている時にオペラ作品の素晴らしさが自分にとってどれだけ重要であるか、自問自答してみるといい。大して考える必要もないだろう。一部の物事は、より差し迫った必要性が満たされていない限りは優先順位を考慮することもできないようなものなのだ。だが、普遍的な視点からは、私たちにとっての差し迫った必要性が持つ重要度は他の人々にとっての差し迫った必要性が持つ重要度と同じである。自分が愛する人々の健康のためにはオペラによって得られる最高レベルの素晴らしさを犠牲にしてもよいと思っているが、遠く離れた人々の健康のためにはオペラの素晴らしさを犠牲にしないとすれば、私たちは行えるはずの最善を行っていないということになるのだ。