現代金融理論 (Modern Monetary Theory; MMT) は、経済学の「学派」だ。「学派」で私が意味しているのは、MMT が主流からみずから分離している、ということだ。いろんなアイディアの集合としての MMT には好きな部分もたくさんある。主要な安定化ツールとして財政政策と金融政策のどちらを使うべきかという重要問題については――私個人は〔金利の〕下限にないときは金融政策に向かうべきという主流の見解をとるものの――いつでも開かれているべきだと思うし、金融政策の方が必ずすぐれているととにかく決めてかかる主流経済学者が多すぎる。それに、ある種の「雇用保証」タイプの方式のアイディアには魅力を感じている。また、銀行システムが需要をつくりだすために有している自律性がどれだけあるか主流が認識できていない場合がよくある〔のも彼らが指摘するとおりだ〕。なんならもっと続けてもいいけれど、要点はもうおわかりだろう。この結果、私はおそらくたいていの主流派経済学者よりも MMT のいろんなアイディアに首をつっこもうとしてきた。
私にわかるかぎり(日本語版)では、MMT には、標準的な主流のツールを使って提示できないものはひとつもない。ただ、主流のマクロ経済学でミクロ的基礎が幅を利かせていることで、もっとちがったやり方でマクロ経済学をやりたい人たち(MMT 経済学者のような人たち)が大勢排除されてしまっているのも承知している。私がミクロ的基礎の覇権を嫌っている理由については、以前別の場所で述べたことがある。そういう理由があるので、「MMT は(あるいは他のどんな学派も)主流の一部になるべきだ」とは主張できない。なぜなら、ミクロ的基礎の覇権があることでそれはいまのところ不可能だからだ。[1]
これを踏まえてもらった上で言うと、ときに、MMT は学派の陥りがちな危険をたくさん示しているように思う。主流にやたら敵対的になりがちだったり、指導的な人たちの(全員ではなく)一部には「真理は MMT にしか見つからない」「主流が言ってることはなにもかも間違っている」と追随者たちに思わせる向きもいる。そんな命題はばかばかしすぎるけれど、ときどきそう信じる人がいる理由は理解できる。ずいぶん昔のことだけれども、学生のときにこう言われた――「新古典派経済学は根本から欠陥があるんだ、そのうちクーン的な科学革命がおきて他のにとってかわられるよ。」 じぶんの政治的な直感にしたがって、あれだけ重要で有用な知識を無視してすませるのがいかに容易かは、私も知っている。
マクロ経済学についてブログを書いていると、MMT の支持者たち(MMT屋さんたち)と遭遇しないでいるのはとてもむずかしい。つい最近だと、トランプ減税について書いたときにまた遭遇した。さて、めずらしくそのポストでは、トランプ減税を論じる方法を2つにわけて検討した:ひとつは、金融政策でインフレを制御する主流の考え方で、もうひとつは、財政政策でインフレを制御する MMT の考え方だ。
このポストには、ツイッターで一部の MMT屋さんたちの批判が寄せられた。とはいっても、MMT 説を誤解していたからではなくて、主流の説について述べた部分で、減税によってつくりだされる赤字は所得の世代間分配を変えうると論じていたからだ。さて、このアイディアは標準的なものではあるけれど、混乱させることもある。というのも、閉鎖経済では実物の資源(産出)を時間をまたいで移転できないからだ。重複する世代の枠組みでどうすればこれがなされうるか、ここ(日本語版)で示している。個別の開放経済でなら、これがどうやって起こりうるか理解するのならずっとかんたんだ。国内で産出された財だけでなく海外の財もひとつの世代が消費できるからだ。
この話がちょっと抽象的に思えるとしたら、それは重要でもある。以前、「マーガレット・サッチャーがやったいろんな失敗のひとつは、北海からの税金をノルウェーのように国家の資産ファンドにせず消費者に与えてしまったことだ」と論じたことがある。このため、のちの世代は北海石油の利益を得られなくなった。お金を借りて減税することで、政府は国家資産ファンドをつくりだすことの真逆ができる:将来世代は、返済すべき政府債務をより多く受け継ぐことになる。
私のブログを批判する MMT屋さんたちは、こうした世代間移転は不可能だと言った。可能な理由を最善をつくして説明しようと試みたものの、それへの反応は、知的な否定から単純な罵倒(お前はネオリベラルだ、労働階級のことをまったく気にかけていない、など)までさまざまだった。
EU離脱のおかげで、この手のやりとりには慣れている。とはいえ、ここには重要なちがいもある。私は MMT を攻撃していたのではなく、主流の見解では物事がどういう仕組みになっていると考えるかを概説していただけだ。つまり、彼らの学派や政治を攻撃していたわけではない。彼らが防御的になる理由はなかった。ところが、彼らのなかには、MMT屋ではないというだけで私が明らかに敵だと思った人たちがいた。まさにこういう部族的な態度に、経済学における諸派分立の危うさが映し出されている。もうひとつは言語だ。MMT屋さんたちは物事を記述する独自の方法をもっている。そのため、「税金を財源にした政府支出増加」のようなことを言うと、食ってかかられてしまう:MMT によると、税金は決して〔政府〕支出の財源にならずむしろそのあとに続くのだ、とかいうような話になっているのだ。べつにからかおうとしているわけではないし、彼らがやろうとしていることも理解できる。だが、学派があれこれと分立しているときに大きな問題になるのが別々の言語で語ることだ。とくに、自分たちの言語だけが正しい言語だと言い張るときには問題は大きくなる。
もうひとつの問題は、学派政治的になりがちな点だ。その結果として、ポール・ローマーの表現を借りれば、あまりに頻繁に科学的な言論に政治的な言論がとってかわるようになる。こうした MMT屋さんたちの一部には、私が主流の経済学者だからネオリベラルにちがいないと映る。あたかも、主流であることとネオリベラルであることが不可分であるかのようだ。〔そうなると〕赤字は世代をまたいで所得を再分配するというアイディアは、経済学の言明から政治的な言明に移行してしまう。それがどうやって起こりうるかを示すモデルを提示すると、当該の論点にとってどうしてその現実主義の欠如が重要なのかということが特定されないまま、そういうモデルは非現実的だという話になってしまう。
残念なことだ。こういう MMT屋さんたちは明らかに政治的な関心から経済学に関心を抱いているのだから主流のアイディアと MMT のアイディアの両方を論じてくれればすばらしいと思う。そのあまりに、彼らを相手に Twitter で時間を費やしすぎてしまった。「主流はネオリベラルだ、時間のムダだ」と彼らに吹き込んでいる人々は、ほとんど犯罪的だ。そうした態度はこういう熱意と関心の無駄遣いにつながってしまうからだ。
べつにこんな風にならずにすませることはできる。MMT の研究者たちやその支持者たちとよい議論もたっぷりかわしてきた。彼らとの議論を興味深いと思っている。彼らは物腰が穏やかで攻撃的でない。けれども、MMT の指導的な人たちみんながそういう物腰を後押ししているわけではない。なかには、こういう風に書く向きもいる:
「もうレン=ルイスはずっとツイッターに張り付いてればいいよ。それが好きみたいだし。そうしててくれれば他のを読む時間を節約できる」
さらにわるいことに、ここでは繰り返さないけれど、こう書いた彼は、労働党が MMT のアイディアではなく他ならぬ私と Jonathan Portes の研究に基づく財政規則を採用したことに腹を立てている。実際、私は彼が言及しているやりとりをまったく楽しんでいなかった。時間のムダだったしもっと早くやりとりを打ち切るべきだった。ともあれ、さきほど述べたように、あれほど興味深くて、彼らにとっては政治的に有用でもある知識にみずから閉じこもる人たちを見ると残念に思う。
すでに述べたように、現行の主流派が排他的だからといってマクロ経済学のなんらかの学派に属すことは非難しない。多くの MMT屋さんたちは開放的だし、MMT の一部の人たちとの議論は、少なくとも私にとっては興味深い。ただ、不幸にして一部には MMT を一種のカルトにしたがっているらしき人たちもいる。MMT だけにしか真実は見えていなくて主流はなにもかもネオリベラルで間違っていると考えるカルトだ。そうした人たちは、彼らの政治思想ゆえに追随者をひきよせているけれど、彼らはその追随者たちを精神の閉ざされた改宗者に変えてしまう。これは実に残念なことだし、完全に不必要なことでもある。MMT は自立できるだけの力を持ち合わせているし教条ではなく開かれた精神による思考を促すだけの力もあるのだから。
原註 [1]: 主流が他の学派を排除する側面は、これにかぎられないように思う。主流の学術誌には、多岐にわたって全体を見渡すかたちで政策や歴史を論じるだけの紙幅が少なすぎる。大半の主流経済学者のようにモデルを使ってあれこれの問題を論じるやり方を私はたまたま好んでいるけれども、ときには現実で重大な事柄から遊離していないか確かめるのが有用なこともある。