このところ,疫学の片鱗に触れる機会がいつもよりも増えてる.理由はみなさんご承知のとおり.ぼくが触れてるのは,疫学分野のほんの隅っこでしかないのは理解してる.今回の話は,べつに疫学への不満をぶちまけるつもりで書いてるわけじゃない.経済学だって,似たような問題に苦しんでいるんだから.ただ,ぼくらに提示されてる主流の疫学モデルに見受けられる限界を少しばかり書き留めておきたい.
#1. そうした疫学モデルは,短期の弾力的な変化よりも長期の弾力的な調整の方が強力だという点を十分にわかっていない.短期的には,世間の人たちは対人距離を維持するけれど,長期的には,我が身を守るのにいちばん効果的な対人距離の維持方法をみんなが学習していく.あるいは,クレジットカードを追加したりいちばんいい宅配サイトを学習したりしたら,「食事の半分は宅配ですませる」のから「食事をすべて宅配ですませる」方に切り替える人たちが出てくる.この点で,疫学モデルはあまりに悲観的なものになってしまう.どうやら,この点では「自然災害の経済学者が疫学者について不満を言う」のはおおむね正しそうだ.この問いについては,経済学モデルの方が実際にうまくやれる.ただし,経済学者なら誰のモデルでもかまわないわけではない.
#2. 疫学モデルは,公共選択に関わるさまざまな考慮事項を十分に取り込んでいない.たとえば,ある疫学的な対策を進めようとしても,政治的には実行不可能かもしれない.すると,その対策を進めようとする過程でさまざまな調整が加えられていく.なかには,我慢の足りない政治家たちが繰り出す政策として,愚かな調整が加えられることも多々あるだろう.ぼくが目にしてるいろんなモデルには,この点が織り込まれていないし,たいていの経済学的なマクロモデルにもそうした要因は織り込まれていない.公共選択論というかなり独立した分野があるにもかかわらずだ.〔分野をまたいだ〕統合は難しい.ともあれ,さっきの #1 ではあまりに悲観的になっていたのとは逆に,今度は〔こうした要因を取り込まないことで〕疫学モデルはあまりに楽観的になってしまう.疫学者たちにしてみれば,「政治事情を織り込むのは自分たちの科学研究やモデルの目的ではない」と抗議したくなるところかもしれない.だが,こうした要因は予測するうえで意味がある.もしも,政治事情に手を触れずにいようとしたら,大きく間違えることになる.
#3. モデル内の行為者たちが当のモデルを知ったうえで行動すると,モデルのふるまいが変わってしまうというルーカス批判.疫学者たちは,この点を重々承知しているようだ.近頃のケインジアンマクロ経済学者たちよりもよほどわかっている.ただ,多くが「だから言わんこっちゃない」という態度の表明になっていて,いまひとつ,モデル全体についてループの閉じた解を見つけ出そうとしていない.これは本当に難しい.マクロ経済学でも疫学でも同様に難しい.それでも,ルーカス批判をよく考慮しないままでは,予測を歪めてしまう.経済学では実際にそうなっている.
また,疫学モデルはサム・ペルツマン風のリスク相殺効果も織り込んでいないようだ.「マスクを着けなよ」とみんなに呼びかけるのは,実にけっこう.ところが,マスクを着用した結果,みんなが前より安心感をおぼえると,外出を増やしてしまう.すると,みんながマスクを着用し始めた当初こそ安全性が高まるものの,のちにみんなの行動が調整されることで安全性が下がって,差し引きで相殺されてしまう.「いや,自分たちが計測してる変数にそうした要因は織り込み済みだ」と疫学者は主張するかもしれない.でも,安全性を改善するのに利用しうる手法すべてでそうした変数が一定なわけではない.理想では,完全には透明でないかたちで人々の安全性が高まってくれればありがたいと思うかもしれない.そうすれば,〔「みんなの安全性が高まったからぼくがもっとお出かけしてもいいだろう」とはなりにくいので〕変化に反応して無思慮な行動を増やすことはないものね.〔わかる人にはわかる不透明な部分を残す〕シュトラウス的な次元は,いまのところ疫学モデルには見当たらない.ただ,多くの疫学者たちは世間に向けた修辞では「素朴シュトラウス主義者」としてふるまい,真実全体を明かすことなくぼくらにとってよいことを伝えているのだと言う人はいるかもしれない.シュトラウス主義者の経済学者は,少しばかりもっと巧妙だ.
#4. 最初はあれこれと失敗が生じることから,選択バイアスがかかる.初期のモデルは,武漢のデータで調節されている.だって,他にやりようがないものね? 次にイタリア北部.これもやっぱりひどい失敗例だった.少なくとも平均的には,最初に見えるのは失敗例だ.このため,モデルのなかには当初あまりに悲観的になりすぎるものがあったかもしれない.最近だと,ドイツ・オーストラリア・アメリカ南部の州は,〔そうした悲観的モデルで〕予想されるほどには急激に「感染爆発」していない.初期のモデルがそうしたデータすべてを利用できたなら,おそらく,今日の状況全体をもっとよく予測していることだろう.ただ,初期には失敗例の方が目につきやすいのは偶然じゃない.
次の点にも留意しよう.最悪の状況になっている国々(メキシコ,ブラジル,もしかするとインド)のなかには,十分にデータが揃っていないでモデルに有用な入力をもたらしていない.このため,そうしたモデルは割とよいデータポイントをたくさん拾い上げすぎる一方で,「脱線」からのデータを十分に拾い上げていないかもしれない.これによって,モデルが過度に楽観的になってしまう.
この #1-#4 のなかでは,#1 が実際に当てはまる批判にいちばん近いと思う.残りは,どちらかというと,しっちゃかめっちゃかで不完全な世界で科学をやることに関する所見といった方が近い.ともあれ,議論で疫学モデルが持ち出されたときには,こうした限界を念頭に置くことだ.ただ,それよりもっと大事な点は,疫学モデルを批判する人たちが疫学モデルのこうした限界を指摘するタイミングかもしれない.疫学モデルにかかっているいろんなバイアスには,楽観的に偏らせるものも悲観的に偏らせるものもあるなかで,議論で引用される批判がなんらかの目的のために都合よく選別されている場合がとても多い.
そういうことが起こるのは当然だ.
さて,締めくくりに,誰もあえてたずねる様子のないぶしつけな質問を少しばかり書いておこう.嘘偽りなく,ぼくは次の質問への答えがわからないんだよ:
このブログの読者なら知っていることだろうけど,念のために言っておくと,主流の疫学者たちによる都市封鎖の勧告をぼくはいままで批判していない.ただ,いま並べた疑問はたずねてみる値打ちがあるように思えるんだ.