The golden age of ideological politics in Ontario
Posted by Joseph Heath on April 1, 2014
不満を抱いた有権者――特に若者――による、主要な政党間に「違いがない」ので投票にする気にならない、との不満たまに聞くことがある。私は、こういった不満にあまり共感を持てないできた。特にカナダでは。ここでは主要政党間に非常に大きなイデオロギー的な隔たりが存在するからだ。もちろん、どの政党も、特定個人の固有の好みに応じようとはしていないだろう――結局、政党は大衆政党であり、数百万の人々の要求と要望に応じようとしている。ただそうはいっても、政党の意見表面が、非常に異なっているのを観察できていない人は、おそらく少し注意散漫だ。
これが顕著に具現化しているのが、今のオンタリオ州である。私が、このオンタリオ州の現状について想起したのは、ダニエルがケベックの実情について不満を鳴らしているのを読んだからだ。「ケベックでは、分配の公平性を中心軸とした伝統的な右・左の線引ではなく、(分離主義vs.連邦主義の)建国来の線引に頑固なまでに偏向してしまっている」とダニエルは毒づいている。実際、ケベックの政治制度は(ADQやCAQやQSの台頭によって [1]訳注:ADQ、CAQ、QSは全てケベックの地域政党 )「標準化」しそうになる度に、「標準化」は一度限りの選挙で終わってしまい、古い建国来の中心軸に引き戻されてしまっているようだ。
対照的に、オンタリオ州の有権者は、3つの政党に極めて分かりやすい選択肢を保持している。3政党は、次期政権を樹立する可能性を有しており、3政党は、左右のイデオロギーを中心軸にした、明確に定義可能なポジションに立っている。これは、社会正義の基本的な問題に「関心を持つ」人(ないし、市場経済における国家の役割に関して確固たる見解を持つ人)からしてみれば、ある意味黄金時代となっているのだ。オンタリオ州においてNDP(新民主党)は正真正銘の左派政党であり、自由党は正真正銘の中道政党であり、保守党は正真正銘の右派政党である。ここで「正真正銘」とは何を意味するのかを、オンタリオ州において政治的議論を支配してきた問題、すなわち「公共交通機関」を俎上に載せて解説してみよう。
GTA(グレート・トロント・エリア〔カナダの首都圏〕)における交通状況は、集合行動問題の教科書的な事例となっている。この30年で、GTA地域の住民数は、およそ350万人から600万人以上に膨れ上がっているが、交通インフラは基本的に拡張されていない(幹線道路、公共交通機関のいずれでもだ)。結果、通勤時間が長期化している(今では、1日平均往復で65~80分だ)。政府主導によるなんらかの対応がなければ、状況が改善する見込みは無くなってしまっている。問題は、一般市民は、行動を変えるためのインセンティブを欠いていることにある。なぜなら、道路の使用は――消費の時点では――無料だからだ。
これは、誰か一人が車で移動すると、その度に他者的には渋滞が増える、つまり「負の外部性」が生み出されていることが意味されている。逆に、車に乗る代わりに公共交通機関を利用する人が増えれば増えるほど、渋滞は緩和され、「正の外部性」が生まれることが意味されている。標準的な「公共経済学」では、負の外部性に(道路使用量や渋滞料金の)価格付けを行い、さらに(公共交通機関への政府支出によって)正の外部性を助成し、外部性を内部化することが解決策となっている。
このような状況下では、州政府は、純粋な効率性の向上を、達成できる立場にある。C.D.ハウの最近の研究では、GTAの渋滞の年間コストは、一人当たり473ドルと見積もられている。これは、州政府が税か通行料を課し、その税収を新しいインフラに投資することで、渋滞を緩和し、社会厚生を拡大できる巨大な余地があることが意味されている。(道路通行料を公共交通期間への投資資金に使えば、なんと名高い一石二鳥を達成できるチャンスとなっているのだ――最初の課税、続けての支出を通して、社会厚生を2度改善できる)
こうした考えに立って、オンタリオの州首相キャスリーン・ウィン〔自由党選出〕は、公共交通機関を改善させるための支出を目的とした、増税に関する「大人の議論」を行う時が来たと宣言した。
むろん、税金を題目に「大人の議論をしてくれてもよいではないか」と提案することは、悲喜劇めいてユーモラスだ。アンチ税金の「憤激」は、野党にとってマタタビのようなものであり、この件では、今のところ新民主党も保守党も、抵抗することができていない。故に、新民主党の党首アンドレア・ホーウィッチと保守党の党首ティム・フダックは共謀して、(少数派リベラルの)州政府が公共交通機関のためになんらかの新規財源を得ようとするのを妨害している。
新民主党と保守党が反対しているのには、2つの理由がある。1つ目の理由は、純粋な戦略的打算である。課税に賛成するより、反対したほうが、得票が多く得られるのだ。税金が何に使われるかなどお構い無しだ。故に、ホーウィッチとフダックの両者は、「州民は、何の負担もなく新しい公共交通機関のインフラを得られますよ」とのデタラメ路線を採用することになってしまっている。ただ、戦略的打算とは別の2つ目の理由が存在している。純粋な党派的イデオロギーである。このイデオロギー故に、両党は、自党の基本原理を他の原理より優先割当し、潜在的な効率改善の見送りを躊躇しない。
私が話したいのは、2つ目の党派イデオロギーの違いについてだ。ただ、1つ目のデタラメ路線を片付けておく必要がある。ティム・フダックは「州政府は無駄を削減すれば、税負担無く地下鉄を作るのが可能ですよ」と約束している。アンドレア・ホーウィッチは「新民主党は、一般・勤労層へ課税せず、法人へ課税することで地下鉄を作ってみせます」と約束している。「無駄」と「法人税」は、ハッキリ言ってしまえば魔法の帽子である。そこから、政治家は好きなものを何でも取り出すことができる。保守派が「無駄を取り除いて“効率化”することで、事業を賄いますよ」と言っている時はどんな場合でも、中位投票者に向けて「あなた方は負担しなくていいですよ」と言っていると同義なのだ。一方、新民主党が「法人税を上げることで、事業を賄いますよ」とか「“法人税の抜け穴を防ぐ”ことで事業を賄いますよ」と言っている場合だと、これも「あなた方は負担しなくてもいいですよ」の暗号になっている。この件に関心を払っている人は皆「市民は負担しなければ、新しいインフラを得ることができない」のを知っているのだが、政治家は事実の明言を避けるのを目的にデタラメ路線を単純採用している。そういった意味ではこれらはデタラメの極地でしかない。
さて、1つ目の理由を処理して脇に置けたので、対立の根底にある、政治イデオロギーが実際にどう違っているのかに話を移すことができるようになった。この件で特筆すべきは、公共交通機関の提案に、新民主党が声高に攻撃を行っており、市民の多くが困惑していることにある。特に、ホーウィッチが文字通りロブ・フォードと結託して、場合によってはフォードそのものの発言を行っていることは、トロントの左派の多くを仰天させている [2] … Continue reading 。(何せ、公共交通機関の計画の中核を巡って、カナダの左派が利害関係に翻弄されているを観察できることはそうそうないだろう。)
ホーウィッチが基本的に市場での価格決定の原理を拒否しているのには理由がある。政府が、市民に自身が消費している社会的費用の支払いを強制することは、彼女的には、逆進的な税のように見えているのだ。故に、彼女からすれば、道路の有料化は、カナダの一般的な勤労家庭(例えば車を運転するようなタイプ)に負担を課すことになるので、容認できない。ホーウィッチは、交通渋滞の問題を改善するには、富裕層が負担せねばならないと考えているのだ。「新しい公共交通機関は建設しない」、「新しい公共交通機関を建設することで、交通網の受益者に建設費を負担してもらう」の選択肢を与えられたら、彼女は新しい公共交通機関を建設しない方を支持することになる。
以上観点だと、ホーウィッチは、私が「正真正銘の左派的見解」と見なしているものを擁護している。効率性(集団行動問題を改善する)と、平等(公共サービスの為に富裕層により多く負担させる)間の対立を検討すれば、ホーウィッチは効率性よりも平等を優先させる。ホーウィッチは、再分配を伴わない方法で社会問題を解決するくらいなら、集合行為問題は我慢しても良いと思っているのだ。
保守党サイドだと、我々は、ティム・フダックを〔投票選択肢として〕保持している。フダックは、保守党内の過激派の人身御供になっているジョン・ベーナーのような人間なんだ、と主張している人もいる〔訳注:フダック本人は新しい公共交通機関を作りたいのに、保守党内の過激派の為に本意に反した行動を取っている、との意味〕。しかしながら、フダックは、トロントの財界から激しい圧力に晒されている(特に、商工会議所は、市の渋滞問題の解決を切望しており、解決のために新しい税負担を望んでいる)にもかからず、公共交通機関の為の新規財源についての真剣な検討を拒絶しているのだ。これはつまるところ、「俺は基本的に何も作らないぞ」とコミットしたのに他ならない。(フダックが、マイク・ハリス政権の一員だったのを留意するのは重要だ。選挙を経て成立したマイク・ハリス政権は、エリントンの地下鉄計画を中止に追い込んでおり――これは現在の渋滞問題において、看過できない原因となっている。)
保守派にとって何よりも大事なのが、車を好むことだ。保守派の多くは、未だに「小規模な街メンタリティ」を保持しており、公共交通機関を貧しい人の為のサービスと見なしている。故に、保守派は、公共交通機関に政府の財源を使用するのは、基本的に施しであり、生活保護の支給とさして変わらないと考えている。また、保守派の多くは、大規模な公共交通機関を、車が可能にした個人の自主性の精神を弱体化させる集産主義者達の陰謀と見なしている。そして最後、保守派の多くは、税への非常に強い嫌悪感を持っている。税によって最終的に自身が便益が得ようと、得まいと、物事に支払いを強要されるのを嫌っているのだ。
上記〔保守派の見解を〕纏めて少し一般化してみると、「保守派は個人の自主性や自由にコミットメントしている」としても曲解ではないだろう。このコミットメントは、保守派を、あらゆる形態の交通手段の中で、車の選好に至らせることになる。なので、保守派は、「効率性」か「個人の自由」かの選択を与えられた場合、自由を選択する。保守派は、「集合行為問題を解決するために、好きな時に好きな場所でドライブする自由を少し放棄せねばならない」との選択肢を突きつけられたなら、自由の維持を選択する。たとえ、その自由が、渋滞で立ち往生し、排気ガスを吸い込み、トークラジオを視聴し、緩慢と怒りを募らせる自由でしかないとしてもだ。
以上を政治哲学の用語で置き換えてみると、3つの基本的な原理に還元できる:1つ目は「厚生(ないし効率)を高める」。2つ目は「平等を高める」。3つ目は「個人の自由を高める(ないし維持する)」である。十分に高いレベルで抽象化して定式化すれば、誰もがこの3つ全てを承認する。政治的イデオロギーの違いが表面化するのは、対立が生じ、人々がどれか1つの選択を余儀なくされた場合だ。オンタリオ州では、自由党は一貫して効率性を支持し、新民主党は平等を支持し、保守党は自由を支持してきている。
不幸なことに、何らかのプロジェクトにおいて、3つの内1つの原理を優先すべき状況となったら、政党は3方向にほぼ分裂してしまい、結果的に集団麻痺状態になってしまう(公共交通機関への反対で、新民主党と保守党が同盟を組んでしまう有様に最も激的に示されている)。地方選挙がうまく行けば、この集団麻痺を正常化してくれるだろう。選挙での正常化を別にすれば、現行の政治状況に関して言うべき不満は多くあるだろうが、「政党間にイデオロギー的“広がり”が欠如している」と言うのは不満とならない。実際、今はこれ以上ないまでに、選択肢が明確であり、これ以上ないまでに、政治的イデオロギーにおける根本的な違いを、3政党が類型的形状として具体化しているのだ。
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