●Diane Coyle, “Poverty, fear and loathing”(The Enlightened Economist, November 2, 2013)
この前の休日に、(イギリス労働党の政治家である)アラン・ジョンソンの自伝(『This Boy』)を読んだ。自堕落な夫に見捨てられて、若くして亡くなった母。自分もまだ十代だったにもかかわらず、母の代わりにジョンソンの面倒を見てくれた姉。そんな二人に対する愛情が吐露されている感動的な一冊だ。1950年に西ロンドンで生まれたジョンソンの先に待っていたのは、極貧生活だった。寒さとジメジメとした湿気に耐えねばならず、賃貸の住まいは狭くて、空腹続きで、借金漬けで、着るものは古着しかなくて、水道の蛇口からは冷たい水しか出ず、電気代も払えない。そんな極度の「欠乏」を味わい、その体験を書物のかたちで声にすることができる例というのは――あるいは、その声に注目が寄せられる例というのは――、珍しい。ジョンソンが自らの体験を声にすることができたのも、その声に耳を傾けてくれる聴衆が存在するのも、彼が労働組合での活動を通じて政治の世界で成功を収めたからこそなのだ。ジョンソンの口から語られる物語は、悲しくもあり励みにもなる「一族の物語」(ファミリー・サガ)の傑作であると同時に、物質的な貧困の中での暮らしを活写した唯一無二のルポルタージュでもある。本書でも明らかにされているように、勤勉で強い意志の持ち主――ジョンソンの母(リリー)がまさしくそうだった――であっても、我が子を周囲の環境から守ることはなかなかに難しい。我が子を空腹から救い出せずにいるとなれば、我が子を路上で蔓延(はびこ)る暴力から守れずにいるとなれば、親としては胸が締め付けられるような思いに襲われるに違いない。
『This Boy:A Memoir of a Childhood』
ジョンソンが味わったような貧困は、もはや過去の話・・・と考えるのは間違いだろう。1950年代や1960年代と比べるといくらかマシになってはいるが、貧困の実態を正確に掴(つか)むのは多くの人にとって依然として難しいままのようだ。フードライターのジャック・モンローが自らの体験を踏まえて語っているように、誰もが容易(たやす)く貧困に陥る可能性があるわけだが、貧困に陥る誰も彼もが大衆紙で叱責の対象となる「貧困者像」に当てはまるかというと、そういうわけじゃない――少なくとも、モンローは当てはまらない――。乏しい収入で生計を立てている人々の暮らしについて腰を据えて考えるのが避けられ、貧困者に対する嫌悪感や批判的な態度が醸成(じょうせい)されるのはなぜなのか? ジョセフ・ラウントリー財団の所長を務めるジュリア・アンウィンが近々出版予定の素晴らしい本(『Why Fight Poverty?』)――私が編集長を務めるPerspectivesシリーズの一冊――の中で強調しているように、その理由は、貧困に対する想像力の欠如に、貧困に対する恐怖心が組み合わせるせいなのだ。
『Why Fight Poverty?:And Why it is So Hard (Perspectives)』
貧困という現象に向き合う時に密(ひそ)かに付き纏(まと)う「感情」に着目するというのは、目の付け所が鋭いと言えよう。貧困に対して無意識のうちに抱かれる恐怖心は、貧困を減らすための試みを阻む障壁となっているのだ。ジョンソンの自伝と併せて、是非とも一読されたい。