Why it is not the crisis of capitalism
Posted by Branko Milanovic – Friday, October 11, 2019
最近、「資本主義の危機」に関する記事や書籍が雪崩のごとく出版され、資本主義の終焉や崩壊を予言している。〔私のような〕1990年代を知る人は、あの当時との奇妙な類似を見い出す。当時のヘーゲル主義者らは、「ついに歴史の終わりが来た」と文献で論じたものだった。90年代の「歴史の終わり」論は、間違いだったことが後に証明された。今回の資本主義の終焉・崩壊論はどうか。私見では「事実誤認」に当たる。これらは、資本主義の問題を誤診しているのである。
資本主義は「危機」など迎えてはおらず、実態は正反対なのだ。資本主義は、かつてないほど強大化している。地理的な広がりでもそうだが、全く新しく市場が創造されたことや、分野の拡大(これまでの歴史ではまったく取引の対象になっていなかった、余暇やソーシャルメディアなどの商品化等)においてもそうだ。
地理的に、資本主義はいまや全世界における支配的な(あるいは唯一の)生産様式となっている。民間部門が労働力の70%以上を雇用しているスウェーデンでも、85%を雇用しているアメリカでも、付加価値の80%を(資本主義的に組織された)民間部門が生産している中国においても、その生産様式は資本主義だ。これが東欧やロシアにおける共産主義の崩壊以前、あるいは中国がまわりくどく「改革開放」と呼ぶもの――これは実際には社会主義を、資本主義的生産様式に置き換えたものである――に乗り出す以前だと、明らかに実態は現状とは異なっていたのである。
またグローバリゼーションや技術革新によって、かつては存在しなかった無数の市場が生み出されている。個人情報の巨大市場、自家用車や住宅のレンタル市場(Uber・Lyft・Airbnbなどが現れるまで、こうした領域は資本化されていなかった)、自営業者のためのレンタルオフィスの市場(WeWork以前には存在しなかった)も登場した。さらに高齢者や子どもやペットを世話する市場、料理を配達する市場、買い物代行市場など多くの市場が生み出されている。
こうした新たな市場の社会的重要性は、新しく資本を創造し、それまで価格のつかなかったものに値段を付け、単なるモノ(使用価値)を商品(交換価値)へと変貌させることにある。こうした資本主義の拡大は、アダム・スミスやカール・マルクスによって論じられた18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパにおける資本主義拡大と、基本はほぼ同じだ。ひとたび新しい市場が生まれれば、そこで扱われる財や活動にはすべて「影の価値」がつく。このことによって、私たちはすぐさま家を借すようになったり、自家用車をタクシーにするわけではないのだが、活用しなければ被る財務上の損失を、自覚するようになる。(状況の変化や、相対的価格の上昇によって)、〔自己所有する財やサービスの〕価格が割に合うものになったとしよう。すると、私たちの多くは新しい市場に参加し、この市場を強固なものとするだろう。
これらの新市場は、そこで一日中働くことを滅多に要求されないという意味で、断片化されている。したがって商品化はギグ・エコノミー化を伴う。ギグ・エコノミーでは、私たちはサービス供給者である――午後はピザ配達員になれる――と同時に、かつては貨幣経済に組み込まれていなかった多くのサービス(すでに述べたように、掃除、料理、看護)の購入者でもある。よって個々人がすべてのニーズを市場で満たすことが可能になるものの、長期的には家族の有用性や存続可能性といった、大問題が発生する。
とはいえ、資本主義がこれほどあらゆる方向に拡大しているのであれば、私たちはなぜその危機を語りたがるのだろう? 理由は、豊かな欧米諸国だけが停滞しているという事実にある。欧米諸国の停滞は、世界全体を苦しめるはずだ、と仮定されているのだ。しかしこれは間違った考え方だ。仮定が成り立たない理由は、欧米の停滞はグローバリゼーションによってもたらされた利益が、不平等に分配された結果であるためだ。これは19世紀のグローバリゼーションにおいて起きたことと同様だ。当時はその利益をヨーロッパ人が不釣り合いに刈り取っていたのである。
新しいグローバリゼーションの発作が始まったとき、とりわけ欧米では、「歴史の終わり」のすぐ後ということもあって、グローバリゼーションは政治的に「売り」込まれた。グローバリゼーションは豊かな国と、その国民にもっぱら利益をもたらすだろうと前提されていたのだ。しかし結果は逆であった。とりわけ恩恵を受けたのは、中国、インド、ベトナム、インドネシアなどアジアの人口が多い国だった。グローバリゼーションに不満が募っているのは、欧米の中間層が抱いている期待と、自身の所得が伸び悩んでいる事の間に横たわるギャップのせいであり、これはグローバルな所得水準において欧米の中産階級が没落していることと同義なのだ。故に、〔欧米ではグローバリゼーションに対する不満を誤って取り違えて〕資本主義に対する不満であると、誤診しているのである。
別の問題も起きている。まさしく高度資本主義の特徴でもあるが、社会におけるあらゆる(ないし、ほぼあらゆる)活動が、市場で行われるようなアプローチに置き換わり、政治もビジネス活動に変貌を遂げてしまったのだ。原理上、政治とは、我々の余暇がそう見なされていないことにもまして、市場取引の領域とは見なされていなかった。しかし、社会も政治も市場取引の領域と化した。この市場化で、政治はますます腐敗した。今や政治も、他の活動と同じように扱われているのである。政治家によっては、在任期間中、あからさまな汚職をしないかもしれない。それでもその人物は、辞めてから、政治活動から得たコネや知識を使って金儲けを行うだろう。こうした政治の商品化のせいで、主流の政治や政治家へのシニシズムと幻滅が広がっている。
したがって、資本主義そのものは危機を迎えていない。危機は、グローバリゼーションの影響に不平等なムラがあることと、伝統的に「ビジネスに馴染まない」とされてきた領域への、資本主義の拡大にある。言い換えれば、資本主義は力が強くなりすぎてしまった。そのため人々の根本的価値観と、場合によっては衝突するようになったのだ。これからも資本主義は、多くの、未だ商業化されざる領域を征服し続けるだろう。それが嫌なら、資本主義をコントロールし、資本主義の「活動領域」を以前の場所にまで縮小しなければならないだろう。