ブランコ・ミラノヴィッチ「ソ連建国の背景について」(2022年8月21日)

ボルシェビキのソ連建国の父たちにとって最重要事項だったのは、当時のソ連構成国の政治的安定性ではなく、その開放性だったのだ。

Why was the Soviet Union created?
Posted by Branko Milanovic on Wednesday, August 21, 2022

プーチンは、目下ウクライナでの戦争に先立つ形で様々なイデオロギー的攻撃を行い、ウクライナの現在の国境線についてレーニン、スターリン、フルシチョフに責任があるとして国境〔という国際問題〕のパンドラの箱を開けただけでなく、1922年12月のソビエト社会主義共和国連邦の創設についての議論を再び呼び起こした。(プーチンによるソ連の三大指導者への非難は次のようなものだった。レーニンはドンバスにいる多数派のロシア人を無視してドンバスをウクライナに「贈与」した。スターリンは第二次世界大戦後にポーランド東部をウクライナに「贈与」した。フルシチョフは1954年に「理由はともかくとして」クリミアのウクライナへの「贈与」を決定した。)

ソビエト連邦創設の背景にあるイデオロギーは、多くの人々、特に若者の間ではほとんど理解されていない。マーク・カッツが最近ナショナル・インタレスト誌に掲載したとある記事は、基本的には良質なのだが、そこで彼は「プーチンはレーニンを非難するのではなく、ウクライナの民族主義に対してより融和的なアプローチを取れば、ロシアの長期的利益につながるというレーニンの認識を教訓とするべきである」と主張し、プーチンによるレーニン批判を退けている。

しかしこうした指摘は、レーニンが「ロシア(原文ママ)の長期的利益」を考えていたと決めつけているだけでなく、ソ連成立に至るカッツの著しい無理解を示している。レーニンの思想と著作を知っている人間であればこんな主張はできないはずだ。とはいえ、ソビエト連邦の創設に話を戻そう。ソビエト連邦創設にあたっての最大の功労者はレーニンではなくスターリンである。スターリンは周知のとおり、民族問題人民委員としてボルシェビキ指導部の中で民族問題を担当しており、当然ながら民族に基づく共和国から構成される新たな連邦〔つまりソビエト連邦〕の創設の責任者となっていた。(この連邦には、設立当時は、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンからなるトランスコーカサス連邦と、ロシアSFSR、ウクライナ、ベラルーシの6つの共和国が含まれていた。)この連邦の創設について、スターリンは次のように語っている。

「最後の3つ目の事実もまた連邦の創設を要請するものであり、ソビエト政権の構造と階級的性質と結びついている。ソビエト体制は本質的には国際的であるために、あらゆる形で大衆の間に連邦という意識を形成させ、それ自体が大衆を自ずと連邦実現の道を進むよう駆り立てる。資本、私有財産、そして搾取は人々を分裂させ、相互に敵対し合う陣営に分断させる。例えばグレートブリテンやフランス、そしてポーランドやユーゴスラビアの様な小規模の多民族国家にさえも調停し難い国内矛盾を生じさせ、それがこうした国家の基礎を蝕んでいるのだ。私が言いたいのは、向こう、つまり西洋では、国家が資本主義的民主主義によって統治され、私有財産制に基づいており、まさにこの国家の基礎が国民間の対立と闘争を助長しているのだ。それに対してここソビエトにおける体制は、資本ではなく労働に、私有財産ではなく共有財産に、そして人間による人間の搾取ではなく、搾取そのものとの闘いに基づいており、まさにこの体制の本質的構造が、労働者大衆の間で、単一の社会主義的同朋の連邦を目指す自然な努力を促しているのである。」

当時のスターリンのいくつかの出版物、演説、インタビューの中でも、これと非常に似た発言が繰り返されている。リンク先のここで読めるため、少なくともいくつかは読むことをお勧めする。私がここで主張したいのは、ウクライナ〔の国境線〕を一方的に定めた連邦創設の背後にあるイデオロギーは、カッツの示唆するような国家としてのなんらかの安定化を目的としてはおらず、連邦はただ単純に社会主義革命に伴う国家と階級の矛盾の終焉の反映にすぎないということだ。したがって、連邦の創設は資本主義支配から解放された人民による「自然な」闘争の帰結、そして最も重要なのは、遅かれ早かれ〔同様に資本主義支配から解放されて〕自由になる可能性のある世界の他全ての地域に対して開かれた国家体制だった、ということである。ソ連は自己完結した単一国家としてではなく、社会主義が広がるにつれて成長し、ヨーロッパの全ての国、うまくいけば世界の全ての国を包括するような拡張可能な国家として構想されたのだ。

この連邦〔の構想〕をより魅力的なものとするのが、新たな国々を受け入れるだけでなく、加盟国の脱退も認めるという「開放性」であった。したがって、「連邦は専ら自発性の尊重をその特徴とするべきであり、全ての共和国は連邦から脱退する権利を保持していなければならない。よってこの自発性の原則は『ソビエト社会主義共和国連邦の結成に関する条約』の基礎とされなければならない」。これはスターリンによる主張だが、レーニンはこの「二重の開放性」をさらに強く唱えていることでよく知られている。

つまりボルシェビキのソ連建国の父たちにとって最重要事項だったのは、当時のソ連構成国の政治的安定性ではなく、その開放性だったのだ。この点においてレーニン、トロツキー、スターリンおよび全指導部の意見は完全に一致していた。連合国家として新たに出立したソビエト連邦は、最終形態ではなく、むしろ初期形態だったのだ。ボルシェビキは、ドイツ、オーストリア、ハンガリーにおける革命の成功を常に期待していた。たとえその革命が上手くいかずとも、最終的にはこれらの国々が新たにソビエト共和国(ボルシェビキ側の呼称)として共に連邦国家を形成することを期待していたのだ。注目すべきは、「ソビエト社会主義共和国連邦」という国名には、地理的名称が一切含まれていないことである。アメリカ合衆国はソ連と幾分か似通った道筋で創設されたが、建国者たちはその国名に地理的区分の名称〔つまり「アメリカ」という名称〕を含めた。しかしソビエト社会主義共和国連邦はその限りではなかった。

このことを踏まえると、1949年に毛沢東がスターリンに、中国のソ連への加盟を提案したことも十分理解できる(スターリンは熟慮の末この提案を退けたのだが)。ソ連への加盟は、当時世界中の共産主義者の多くが抱く「普通の」考えだったのだ。ユーゴスラビアで共産主義革命が成功した時には多くの人が「次のステップはソ連に加盟することだ」と考えた。1960年代に、私の父の友人たちが、1940年代にはユーゴスラビアはすぐさまソ連の次なる共和国に加盟申請するであろうと当然のように考えていた、と会話していたことを思い出す。

共産主義のイデオロギーやソビエト連邦の創設につながった〔政治的〕力学についてほとんど知らない今の世代には、このことは理解し難いかもしれない。しかしソビエト連邦ではなく欧州連合に置き換えて類推すれば、理解しやすくなるだろう。EUは〔ソ連と〕同様に超国家的、イデオロギー的な産物であり、現在ヨーロッパの多くの地域では各国が最終的にその連合に「加盟」すると考えることが「自然」な流れであると考えられている。共産主義者の間でも同様に、各国が〔資本主義支配から〕自由になれば、ソ連に「加盟」することが「当然」の流れだと考えられていたというわけだ。

イデオロギーの同質性が国家を含む他全ての忠誠よりも重要であると見做されていた歴史的前例は、他に少なくとも2つ考えられる。一つ目は、キリスト教帝国は不可分であり、唯一のものと考えられていた先例だ。ローマ教皇がシャルルマーニュに王位を譲渡し、キリスト教第二大皇帝を誕生させたとき、コンスタンティノープルの皇帝は衝撃を受けた。唯一の『キリスト教』が2つの異なる帝国に分化したのは受け入れ難いことだったのだ。もう一つの事例はイスラム教で、これも当初は世界中の全てのイスラム教徒が唯一つの政治連合体であるカリフ制に統合されるだろうと考えられていたのだが、その夢想もすぐさま立ち消えた。しかし共産主義とソビエト連邦の場合と同様に、〔国家を超えた共同体を〕創始した人らのイデオロギー的動機を理解するのは重要だ。今の我々が妥当だとする思惑を過去に遡及してはならない。そうした考えを当時の人達は単に持っていなかったのだから。

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