ノア・スミス「インターネットは断片化したがっている」(2022年12月17日)

世の中のみんなを1つの部屋に放り込んでうまくいくわけがない

5年前,同僚の Dayv といっしょにビールを1杯やってたときのことだ.ぼくは Twitter をぐりぐりスクロールしながら,ドナルド・トランプの最新暴挙にみんなが憤慨してるのをしげしげと眺めて,こんなことを言った.「あのさ……15年前,インターネットは現実世界からの逃避先だったじゃん.いまは,現実世界の方がインターネットからの逃避先だよね.」 すると Dayv が,「それ,ツイートしなよ!」 ――で,そうした.この凡庸な所見が,ものすごくウケた.他のどのツイートよりも人気だ.ウェブのあちこちのコンテンツ工場で,これが無限に引用されつづけてる

あの他愛ない所見が,どうしてここまでたくさんの人たちに響いたんだろう? いま,インターネットから逃げ出す必要が感じられる理由は,わかりやすい.スマートフォンによって,インターネットが物理的にみんなの体にぴったりとついて回るようになった.いまでは,どこに行こうと,インターネットがついてくる.画面にならぶ色とりどりのアイコンはいつでも「ほらほら,これを開きなよ」と手招きし,自分がいま誰としゃべってようと何に取り組んでいようと,そんなものうっちゃって最新ポストを確認するようにうながしてくる.他方で,かつてインターネットが現実世界からの逃避先だった理由を思い出すのは,それよりもむずかしい.

子供のとき,はじめてインターネットにアクセスできるようになったぼくが真っ先にやったのは,自分と同じものが好きな人たちを見つけることだった――自分の好きなSF小説やテレビ番組や『ダンジョンズ&ドラゴンズ』TRPG などなどが好きな人たちをぼくは探した.ネットの初期に,オンラインでやることといったらそれだったんだ―― Usenet でも IRC でもウェブフォーラムでも MUSHes でも MUDs でもどこでもいいから同好の士を見つける場所が,インターネットだった.現実生活は,どうにもそりが合わない人たちともやりとりをしなきゃいけない場所だった――現実生活では,こっちの政治的な考えが気に食わない同僚だの,「まっとうな仕事」に就けと口うるさく言ってくる親だの,高級車を乗り回す人気者の同級生だのと,付き合わなきゃいけなかった.インターネットに行けば,他のバカたちにまざって自分も同じバカでいられた.アニメファンでも,リバタリアンの銃器マニアでも,孤独な40代クリスチャンでも,まだ自分を隠してるゲイの子でも.コミュニティは,現実から逃げ込む非常口だった.

そして,2010年代に,そんなインターネットが変わった.その変化を可能にしたのはスマートフォンではあったけれど,たんにそれだけのせいだけじゃない.なにが変わったかと言えば,ごく一握りの極度に中央に集約されたソーシャルメディアを中心に,インターネットでのやりとりが回り始めたんだ.Facebook や Twitter がそういうソーシャルメディアで,少しあとで Instagram も加わった.

ビジネスの観点から見れば,この中央集約は,初期のインターネットからの自然な延長だった――「人々はネットでつながっていった,じゃあさらにもっとつなげてやればいいじゃないか.」 「誰だって Facebook に個人ページをつくればすむのに,わざわざ自前のサイトにホームページをつくらなくてよくない?」「誰でも Twitter で 直に話しかけられるんだから,わざわざ IRC チャットルームで相手を探し出すまでもないでしょ?」 世界の誰も彼もを単一のネットワークに入れて接触できるようにすること,それが携帯電話システムでぼくらがやったことだ.誰でも知ってるとおり,ネットワークの価値は,ユーザー数の二乗に比例して増大する.だから,世の中の社交まるごと全部を2つか3つのプラットフォームに中央集約してやれば,巨額の利益を上げつつ,もっとしあわせでもっとつながった世界がつくれるって寸法だ.

その2つのうち,巨額の利益の方はたしかに実現した.Facebook は向かうところ敵なしの巨大企業になったし,あの悪名高いおそまつ経営にもかかわらず Twitter も競争のなかで地位を保ってどうにか利益を上げられている.でも,2010年代の中央集約が大きく進むと,すぐにぼくは気づきはじめた.「かつてぼくが知っていたインターネット,ぼくが愛していたインターネットが,なんだかおかしくなってるぞ.」

はじまりは,Facebook フィードだった.いにしえのインターネットでは,あっちの掲示板ではこういう自分,こっちのチャットルームではこういう自分という具合に,場所ごとに自分のちがった側面を表に出せた.でも,Facebook フィードでは,知り合いの誰も彼もに対して同じ自分でいないといけなかった.2010年代中盤に社会不安が起こると,これがいっそう悪化した――自分の投稿のコメント欄や他の場所で,リベラルの友達や保守の友達が交わす政治論議を見なきゃいけなくなった.友人関係や,さらには家族の絆すら,そういう論議で壊れてしまった.

当初は,Twitter なら Facebook ほどひどくないように思えた.のぞまないなら自分の素性を明かさなくてよかったからだ.でも,全世界の誰も彼もが同じ場所に放り込まれているという点では,Twitter の方がはるかに極端だった.たしかに家族や友達は Facebook でケンカしてるかもしれないけれど,少なくとも,匿名のナチや匿名の共産主義者,ゲーム・ジャーナリズムに憤慨してる匿名の変人がランダムにやってきて怒り心頭でよこすコメントの波をかぶらなくてもすんだ.

2010年代のはじめ頃からしばらく,Twitter といえば,ソーシャルメディアの有害さや嫌がらせと初期インターネットの自由言論の理想との戦いの場だった.ところが,2016年以降,そういう戦いはもはや問題にならなくなった.理由は単純で,かつて過激なネット荒らしたちが開拓した有害行動といやがらせと同じパターンを,このプラットフォームにいる誰も彼もが採用したからだ.2019年にはすでに,憤慨した図書館司書や Saturday Night Live ファンや歴史学教授に集団吊し上げにされてもおかしくなくなっていた.怒れる群衆から身を守る方法はただひとつ,自分も怒れる集団の一員になってしまうことだった.Twitter はまるで牢獄みたいに感じられる場所になった.そして,牢獄で生き残りたければ,ギャング仲間が必要だ.

それまで分散したインターネットでは十数年にわたって起こらなかったことが,中央集約されたインターネットで起きたのは,どうしてだろう? 実のところ,〔ネット上には〕ナチや共産主義者なんて前からずっといたし,ありとあらゆる有害な荒らしやどうかしてる連中も昔からいた.でも,そういう連中も疎まれる存在でしかなかった.なぜって,かつてなら,そういう連中が現れても,そのコミュニティがそいつらを気に入らなかったら,管理者がアク禁にすればすんだからだ.性格・人となりがコミュニティに合わなければ,ふつうの人たちがアク禁を食らうこともあった.かくいうぼくも,一度か二度,アク禁を食らったことがある.そういうものだったんだ.アク禁になったらなったで,あちこち渡り歩いてみて,また話し相手を見つけるまでのことだった.

コミュニティの管理は有効に機能する.これは,初期インターネットで圧倒的に正しい教訓だった.なぜ有効に機能するかっていうと,現実生活での他人との交わりを写し取ったものだからだ.現実生活では,社会集団に合わない人はそこから排除される.それに,インターネット警邏の仕事をとてつもなく大勢のボランティアたちに分担してもらうのも,管理が有効に機能する理由のひとつだ.掲示板をたのしい場所に保つ労力を,ボランティアたちがタダで提供してくれる.なぜって,彼らにとってコミュニティを維持するのは,好きでする仕事だからだ.そして,なぜ機能するかといえば,いまいる掲示板が気に入らなかったら――そこの住人がトゲトゲしすぎだったり,管理が手ぬるすぎてコミュニティが荒らしにのっとられてしまってたりしたら――たんにそこから立ち去って別の掲示板を見つければいいからだ.偉大なるアルバート・O・ハーシュマンの言葉を借りれば,「離脱」の選択肢はいつでもそこにある.

ところが,Twitter からは離脱する先がなさそうに思われた.「逃げるって,どこに逃げるんだよ?」 ジャーナリストにとっては,Twitter は分刻みでどこよりも最新ニュースが出てくる情報源だ.一般人にとっては,どこかのジャーナリストが言っていることに「それはちがう」と思って,面と向かってピシャリと言ってやりたくなったとして,そんなことのできる場所は Twitter 以外どこにもなかった.政治問題や文化問題でなにか論議の騒ぎを起こしたいと思った人が,最大の影響を及ぼしたければ,Twitter こそおあつらえ向きの場所だった.Twitter の類似サービスを立ち上げるだけなら,かんたんだ――これまでに右派は何度か試みたことがある.Gab, Parler, Truth Social といった右派系のソーシャールネットワークが立ち上げられた――けど,元祖 Twitter のネットワーク効果はどうにも追い越せなかった.しかたなく,いったんそうした右派系 SNS に向かった人たちも,今日ひとり,明日またひとりと Twitter に舞い戻ってきて,〔たとえば気に食わない意見やけしからないとされる発言などに〕引用 RT で他人に馬乗りする中毒になったモブどものふるまいを耐え忍びつつ,ふたたび戦場に身を投じることになった.

Twitter の経営陣には,これを変えるつもりがない.なるほど彼らも「言論の自由」がどうとか聞こえのいいことは語ったかもしれない――誰だってそうだ――けれど,彼らが本当にのぞんでいたのは,お金を儲け続けることだ.プラットフォームのあっちこっちを細々といじり回しこそしたけれど,目玉機能である引用リツイートには手をつけなかった.Twitter のプロダクト管理トップは,これを「馬乗りメカニズム」(dunk mechanism) と呼んだ.その馬乗りこそがビジネスモデルだった――「うそでしょ」と思うなら,いろんな研究論文を参照してみるといい.〔他人の〕悪しき行状や不愉快なふるまい・憤慨によって Twiter の積極利用がうながされることが,そうした研究で示されている

https://twitter.com/emollick/status/1594384754534670337
これがソーシャルメディアがはまってる罠だ――もっと広げて言えば,ぼくらみんながはまってる罠でもある: (1) 〔いやがらせなど〕不快な言動がユーザーに利用をうながす.そうした不快な言動を減らすと,広告販売数も参加も減少する(広告をみるのと引き換えにサービスを利用している場合には広告販売が減り,そうではない場合には参加が減少する). (2) 不快な言動は疫病のように広まる.他の人々の不快な言動によって,ユーザーは不快な言動をするようにうながされ,ネットワークをろくでもない場に変える.

ツキが悪くて無能な Twitter 社経営陣には,これよりすぐれたモデルは考えつかなかった.そこで,彼らはとにかくこのビジネスモデルにしがみついた.コミュニティの管理につながるものには,なんであろうと一貫して抵抗した――ブロック済みユーザーのコメントをスレッド表示から消したり,スレッドからリプライをユーザーが除去できるようにしたりといった変更を,彼らはいやがった.

一方にはネットワーク効果から利益を上げやすい状況があり,もう一方には他人の悪行・不愉快なふるまいに対する憤慨の高まりがあるなかで,Twitter という巨大ソーシャルメディアプラットフォームは,〔不適切投稿の削除などの〕中央集約的な管理に舵を切った.案の定,これはうまくいかなかった.モデレーターたち当人にとって不可能な作業だっただけでなく,監視と管理にともなって,経営陣は自社の政治的な見解・立場を押し出す必要が生じた.そして,Twitter の立場はやや中道左派寄りだったために,とくに保守派は憤慨した.一方,管理は不可能だと認識していた Facebook は,ニュースフィードからまるごとそうしたコンテンツを取り去る決定を下した〔Facebook は,旧来の「ニュースフィード」を「フィード」にあらためて政治的なコンテンツの表示を減らすよう方針を変えた〕.もちろん,Twitter にはそんなことできなかった.

この状況が続くなかで,ぼくはある傾向に気づきはじめた.人々がニュースや政治や公共問題についての論議を Twitter でやるのをやめて,ずっと小さなフォーラムでそうした話をするようになってきているっていう傾向だ――最初は Twitter の DM グループに移り,その後は WhatApp, Signal, Discord に議論の場は移されていっている.そうした人たちも,Twitter アカウントは維持してるし,公開でちょっとしたことは言うけれど,本心からの意見を明かす場は,友人どうしやイデオロギーが共通している知人どうしの信頼できる集団という非公開の場所に移っていっている(あとは,ときたま経済ネタを書くブロガーで,イデオロギーに関して寛容で右派にも左派にも受け入れられている誰かさんとか).ゆっくりとだけれど,いにしえのインターネットが教えてくれた真理が再発見されつつあるみたいだ――つまり,「ふさわしい話し相手を自分で選んだときの方が議論はうまく運ぶ」って真理が.

で,そこにイーロン・マスクがやってきた.

マスクの登場は,隕石直撃みたいなものだった.Twitter という硬直した恐竜世界のコミュニティもいろんな規範も,この隕石直撃でメタメタになった(その基本的な機能はまだ無事だとしても).近頃は,Twitter を開くと,マスクの最新動向に完全に界隈がのめり込んでいるのを目の当たりにする――今日は自分を批判したジャーナリストを恣意的にbanしたかと思うと,昨日は昨日で自分のプライベートジェット機を追跡したアカウントをbanしていたりする.明日も,また新しい展開が待っているはずだ.

これまで主流メディアの「宿題デスク」としての Twitter の評判を高めてきたジャーナリストたちは総じて左派寄りだった.マスクのもとで行われている右派寄りの中央集約的な管理で,そうしたジャーナリストたちが Twitter から離脱していくことになるのかはまだわからない.それに,広告主たちがこのプラットフォームを見捨てることになるかも,もっと全体的に,他の代替サイトに人々が移っていく結果になるのかも,今後の問題だ.コアユーザー全般が Twitter 離脱を決めたら,このプラットフォームはすごく急激に廃れていくと予想した方がいい

ただ,ここで興味を引くのは次の点だ――そういうたぐいの脱 Twitter を予想している人たちも,Twitter に代わる単一の統合されたプラットフォームが新たに登場するとは思っていないらしい.元祖 Twitter の外観や機能とそっくりなものを余所につくるのは単純だけれど,その新生 Twitter にみんなが移住していくと思っている人はいないらしい.「いざ Twitter が廃れたら,未来に待っているのは断片化した世界だ」と誰もが予想しているように思える.

あくまで「もしかしたら」ではあるけれど,それはもしかしたらぼくらが教訓を学んだからかもしれない.もしかすると,インターネットは断片化したものである方がうまくいくとぼくらは認識しているのかもしれない.

ジャック・ドーシーが書いているように,中央で集約されたメディアは,全世界の人類の集合意識で実施された一大実験だった.これは,現代版バベルの塔,『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」だった.たしかに,これは一部の人たちがお金を稼ぐ方法ではあったけれど,同時に,人類をひとつにまとめる実験でもあった.「もしかすると,みんなでひとつの部屋に集まっておしゃべりできたら,そして,エコーチェンバーやらフィルターバブルやらをみんな取り払えたら,いつか意見の一致に到達して,戦争と憎しみと誤解の旧世界なんて,昔の思い出になってしまうんじゃないか.」

実験は失敗に終わった.人類は,全世界の集合意識なんてのぞんでいない.ぼくらは,合理的なベイジアン信念更新でいつか合意に達するような存在でもない.同じ情報を受け取っても,ぼくらはまとまるどころか二極化しがちだ.意見がちがう相手からなじられたところで,自分のフィルターバブルから抜け出たりはしない――いっそう自分のバブルに閉じこもって,誰が自分に怒鳴りつけているアイディアだろうと拒絶してしまうのがオチだ.〔引用RT などのかたちで〕相手に馬乗りでドヤつけられて考えを変えた人なんていない.Twitter での憎しみ・嫌悪や毒は,ときに,個人らしさを求める瀕死の悲鳴みたいに感じられることがたまにある.進化によって手に負える範囲を超えた人数の人たちに同意するよう集団思考によって絶え間なく求められて死に瀕してる個性の叫びみたいに聞こえることがある.

とはいえ,人間それぞれの個人らしさは死に絶えないだろう.死にかけているのは,中央集約されたソーシャルメディアの方だ.ソーシャルメディアのネットワーク効果は強い.でも,無限に強力なわけではない.最近の調査によれば,アメリカの十代の子供たちのうち,Facebook を利用してているのは3分の1にすぎない.10年前は7割以上だったのに比べて,大幅に減少してる.それに,イーロン・マスクに買収される前から,Twitter にいる十代の子供の割合は 33% から 23% にまで減少していた.

中央集約されたソーシャルメディアのかわりに台頭してきているものは,いくつかある.第一に,TikTok と YouTube だ.どちらにもコメント機能はあるけれど,全体として,どちらもテレビやラジオや伝統的な一方向のプッシュ型メディアにずっと近い.コンテンツは,ユーザーによる共有ではなくてアルゴリズムによって提示される.第二に,Snapchat と Instagram.どちらも,公開での議論よりも個人どうしのやりとりに向いたつくりになっている.さっきの調査には Snapchat も Instagram も含まれていなかったけれど,個別の逸話は全体的な利用傾向から,チャットアプリの方が人気になってきつつある印象がある――WhatsApp, Signal, Discord などなどがこの代表だ.

いま台頭しつつあるこういうアプリやプラットフォームに共通しているのは,断片化だ.考えが似ている人たちを選んで自分から参加しているのであれ,コミュニティで管理されたグループであれ,アルゴリズムで提示された動画フィードを視聴することで自然といろんな集団が断片化したのであれ,こうしたアプリはすべて,自分がどういうものに接してどういう人たちとしゃべりたいかにもとづいて人々を隔てる方法になっている.

こうして,古のインターネットが復古されている――とはいえ,原初のかたちそのままでの復活ではなくて,栄光ある断片化された本質部分の復活だ.みんなは,Twitter のことを他に代えがたい開放空間だと言ってる.「だって,Twitter は『町の広場』だから.」 でも,現実世界だったら町の広場がひとつきりってことはない.町なんていくらでもあるからだ.そして,人がどこかの場から離脱できるときにインターネットはうまく機能する――つまり,そこの町長が気に入らなかったり,そこの文化がいやだと思ったりしたら,別の町に引っ越せばいい.だからって,意見がちがう相手とは誰も話をしない世界が必要だってことにはならない――分厚い外壁のかわりに,ぼくらに必要なのは半透性の細胞膜だ.そして,みんながあちこちの場をいろいろと試してあっちの掲示板からこっちの掲示板に移動できる断片化したインターネットは,そういう細胞膜を提供するのにこのうえなく適している.社会での意見の不意一致は,進歩のために必要だ.でも,そういう意見の不一致がいちばん建設的になるのは,信頼のきずなと親しみと半プライバシーで媒介されているときだ.ぼくらを仕切る境界は,しょっちゅうせめぎ合うだろうけれど,それでもなんらかの境界は必要だ.

もしかすると,いつの日か,人類がひとつの集合意識になる用意がととのうかもしれない.でも,2010年代の実験から,その日が今日ではないってことがわかる.もう一度,インターネットを逃げ場にしよう――自分の仲間をみつけてたのしくやれる場にもどそう.また,何千ものいろんな言語を一度にしゃべることを学ぼう.バベルの塔を崩壊させよう.

[Noah Smith, “The internet wants to be fragmented,” Noahpinion, December 17, 2022]
Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts