「しあわせに暮らせる場所は,この世に2つだけ.我が家と,パリだ.」――アーネスト・ヘミングウェイ
地上で最高の都市はどこだろう? 「ニューヨーク市」って答える人がいても,笑い飛ばしたりはしない.いまなお名目上は世界最大の経済大国で金融ハブの役回りをしているニューヨーク市は,他のどこの都市でもかなわないほどの経済力を有しているし,地球上の名もなき数百万もの人々にとって,いまでもあそこは夢の都市だ.「上海」って答えが返ってきたら,ぼくとしては懐疑的になってちょっと口を「へ」の字に曲げてしまうかもしれない.とはいえ,富と権力の中心としていずれ中国が先進諸国を圧倒する定めにあると思ってる人にとっては,上海はなるほど論理的な選択だろうね.
でも,実のところ,最高の都市といったら東京だ.
かくいうぼくは,またまた東京にいくべく支度を調えてるところだ.今年は,これで三度目になる.今度はじめて東京を訪れるっていう友人たちがいて,ちょっと案内してくれないかって頼まれてしまった.そんなの断れっこない.ぼく自身がまるではじめて東京にいくような魔法の体験をちょっとばかり味わうには,これはいい機会だ.一度も東京に行ったことがないって読者は,そろそろ行ってみよう.
言葉を連ねてみても,東京で実際にすごす感覚をぎこちなく手探りしてもらう程度にしかならない.語ろうと思えば,語れなくはない.表参道の静かなバーでココアを頼むと,工芸品みたいなココアが出てくる.その情景は,まるで暖色フィルターでもかけられたかのようだ.桜の花々が咲き誇る神社に隣接した静謐な公園をぶらぶらと散歩してみたり,中年の常連客たちが十八番を熱唱するなか,小さなパブでぎとぎとのフライドチキンにかぶりつきつつ安ビールをすすったり,無料のギャラリーを訪れてみたら多くのプロの展覧会が恥じ入りそうなほど見事な芸術作品をどこかの大学生が展示しているのを見つけたり,静かな花壇を埋め尽くすような花々のカーペットのなかに立って遠くに目をやると木々が立ち並ぶシルエットの向こうに真新しい摩天楼がそびえていたり, ランタンに照らされ丸石で舗装された狭い路地裏をどうにかこうにか通り抜けた先で,〔立ち飲み居酒屋によくあるスタイルで〕樽の上で食事したり――そういう経験を語ってもいい.
いま挙げたのは,どれもぼくが前回の旅行でやったことだ.べつに,とりたてて珍しい体験でも特筆すべき経験でもない.どれも,東京で暮らす日々のほんの一端だ.そして,東京での生活は,なんだかプカプカと流れていくように感じられることもある.1981年のとある小説のタイトルにあるように,「なんとなく,クリスタル」だ (“inexplicably crystalline“).
いまの東京は1981年の頃とはちがうし,20年ほど前に大学生だったぼくがはじめて東京に来て目を見開いて口をぽかんとさせてた頃からも変わってる.東京は生きた結晶で,新たな物体がひっきりなしに継ぎ足されていく塊だ――新しいビル,新しい文化,新しい体験が,絶えず現れては東京という塊にびたびたくっついていく.前に,春の東京を訪れたとき,友人の住宅の近くに新しい摩天楼が建設中だった.そのときは10階ほどの高さだったのが,秋にまたやってきたときにはもう完成していて,営業を開始してまだ汚れ一つないそこで紅茶を飲んでるぼくがいた.
ひとつチャートを見てもらうと役立つかもしれない:
多くの大都市は,みずからを展示物にした博物館になっていく.新しい変化・発展がないことが,かつての栄華の日々へのオマージュになる.東京は,いっこうにそんな様子を見せない.高齢化が進み経済の停滞した国にありながら,東京はみずからを鼓舞して,東京だからこそできることを次々に切り開いていく.
東京のすばらしいところはたくさんあるけれど,その筆頭は,建築環境だ.そして,それが他のすべてを束ねている.モールやアウトレットストアや高層オフィスビルが建ち並ぶ幹線道路にはさまれた地域やそこから奥にはずれた地域には無数の狭い裏通りが入り組んでいて,そこには住宅やレストランや小さな独立系店舗がごちゃまぜにひしめき合っている.そのレイアウトは,こんな具合だ:
大半の都市では,小売店はたいてい地上階に店舗を構えていて,上の階は住居になっている.東京にもそういう建物はあるけれど,小売店の大多数は「雑居ビル」にある――東京と聞いて人々が思い浮かべがちな,複数の階層に複数のテナント小売店の空間があって,ビルの横に大きな看板が並んでいる情景,あれをつくっているのが雑居ビルだ.
古くからの歩行者用地域や,「横町」という路地や,高架下などなど,さまざまな都会の小売り用スペースと合わさって,雑居ビルは他にない都市生活体験をつくりだしている.たいていの都市では,「ここに行こう」と目的地を決めてからそこに向かうか,地上階のレストランやお店が建ち並ぶ街路をブラブラ歩いたりする.東京では,たんに近所に出かけるだけだ.渋谷や新宿をはじめ,千ものいろんな最寄りの地域に出かける――キミはただそこにいて,いりくんだ迷路をさまよい,あっちこっちの雑居ビルの階段を登ったり降りたり,路地をうろうろと歩き回ったりする.小売店がすごい密度で集まっていることで,「どこかに出かける」のから「どこかにいる」への相転移が生じる.(もちろん,お気に入りのお店や何かに立ち寄って,そこの友達に「やあ」と顔を見せるのも忘れちゃいけない)
小売りがものすごく密集しているおかげで起こることは他にもある:密集してるために,都市の住宅地が物静かなんだ.ニューヨークだったら,地上階の小売りは都市のあちこちに散らばってる.だから,すてきな住宅地に暮らしていたとしても,たいてい,通行人やタクシーや配送トラックがあたりを動き回ってる.東京でとびきり名物となってる買い物向け地域である渋谷では,世界でいちばん人混みの激しい交差点から10分も歩けば,ほぼ無音で人気のない住宅街にたどり着く.(一部の)住宅スペースと商業スペースは,利用区画規制なしで分離されてる.
この見事な都市設計がいったいどうやって実現したのかを語ると,長くややこしい話になる.それに,どれかひとつの情報源に当たっただけでは,きっと答えはわからない.最初の一歩に好適なのは,Jorge Almazán, Joe McReynolds, & Naoki Saito の Emergent Tokyo だ.この本では,歴史上の偶発的な要因の数々や賢明な政策上の選択が組み合わさっていまあるような東京がつくりだされたことを述べている.もっと短く済ませたいなら,McReynolds (2022) を読むといい.それと,有名ブログ Urban kchoze が投稿した日本の土地利用規制に関する記事と,日本の住宅の価値が減少していく理由に関する Koo & Sasaki (2008) の論文も読もう.さらに,都市計画専門家でありサンフランシスコの政治家 Bilal Mahmood による旧Twitterでの連続投稿スレッドも見てみること.
とりあえず,こう言っておけばいいだろう――政策と歴史が混ざり合って東京をつくりだした.第二次世界大戦の空爆とその後の再建,中央集権化された強力な官僚機構,強い貸借人保護,強い家族所有の小規模企業部門をはじめ,東京をつくったさまざまな要因は,おそらく,日本以外のどこでも再現できそうにない.というか,日本の大半の都市ですら無理だろう.東京に出かけて,東京を体験し, 東京に感嘆することはできる.さらには,東京からいくらかすぐれた教訓を学ぶこともできる.でも,他のどこであっても,東京を再現するのは無理だ.
この世に東京はふたつとない.それは,パリがふたつとないのと同様だ.
これは,定性的な話だけでなく定量的な話としても事実だ.東京の規模ときたら,想像もおよぼない.3700万人を超える人々がいる東京は,「都市部」で比べても「首都圏」で比べても,現存する人類最大の都市だ.それが正確にどういうことなのかを,ぜひとも理解しておきたい.東京都の住人の人口密度は,ニューヨーク市の半分ほどだ――1キロ平方あたりの人口密度は,ニューヨーク市では 11,316 人なのに対して,東京では 6,169人だ.なぜそうなってるかっていうと,この「人口密度」は,東京で眠る人々の密度を数えているからだ.東京にいる人たちを数えて出てきた数字とはちがう.東京都の住人の人口密度がニューヨークほど密でないのは,東京で働いたりお買い物したりおでかけしたりする人たちのうちものすごく大勢が,東京都の外に暮らしているからだ.
「じゃあ,なんでそれほど大勢の東京人がその公式の境界の外に暮らせてるの?」 なぜって,電車のおかげだ.日本は電車を中心に都市を建設している.そして,東京ほど電車が多い都市は他にない.都心の地図をちょっと眺めてみよう:
そして,東京全体の地図も見てみよう.まるで抽象画みたいだね:
東京の電車は,次々に駅に来る.そのおかげで,出かけるときに予定を考えなくてすむ.たいていは,ただ駅に向かえばいい.そうすれば2分ほどで電車がやってくる.山の手線は,一日ほぼずっととぎれなくグルグル回ってる円のようなものだ.
このすごい利便性にくわえて,日本の電車は静かで快適で迅速かつ安全ときている.あれほど大勢の人たちが郊外から都心に通勤して,さらに郊外に帰宅できるワケも,理解に困らない.
それに,東京都心での生活がまるで夢のように感じられる理由の一端も,電車にある.「自動車こそ自由の源泉だ」と思っているアメリカ人は,日本の電車システムからもたらされるものすごい解放感を体験したことがないんだ.都心のどこかにいるとき,そこからほんの2~3ブロックも歩けば駅が見つかる.そして,最寄り駅で下車すれば,そこからまた徒歩数分で目的地にたどり着ける.渋滞や事故の心配もないし,どこに駐車しようかと頭を悩ませることもない.
ただ,突き詰めて言えば,都市をつくるものは建物でも電車でもない.都市をつくるのは人だ.日本の他の地域の人たちと比べて,東京人はちょっぴり控えめなところがある.都心の規模がとにかく大きくてせわしないために,ペースは速くないといけない.でも,それは相対的な話だ.東京もまた日本の一部で,日本と言えば,店員にちょっと道を尋ねたらわざわざ紙に地図を描いてくれたり,道案内に通りを1ブロックいっしょに歩いてくれたりする国だ.それに,ぼくらが西洋で慣れ親しんでいる社会に比べて,日本の社会はずっと平等主義的だ.これは,相続税が高くて,公共財が豊富で,他にもいろんな文化的要因があるおかげだ.もっとも,そういった要因はかるく理解できるものではないので,ここでは立ち入って説明できない.
東京では,およそありとあらゆる人たちに出会える――会社の重役とか,芸術家とか,教授とか,起業家とか,おのぞみならヤクザにだって会える.東京みたいな安全な都市のすばらしいところをひとつ挙げると,見ず知らずの人と会ってもとくに危険ではないって点がある.東京にはほのかに共有の感覚がある.そういう感覚をおぼえる大都市は,ほんのわずかしかない.共有スペースとなると,共有の感覚はいっそう強い.
さて,こんな話を聞かされた人もいるかもしれない――「東京の底流にある「みんないっしょにいるんだ」というこの感覚は,人種的・民族的な同質性の産物だ」とか,「〔外国人である〕キミがほんとうに日本人に受け入れられることはないよ」とか.日本について語られるこういう話を信じてる人たちとおしゃべりするときには,ぜひ強く言いたい助言がある:どうか,ほんとにどうかお願いだから,そういう人たちの誤解を正さないでおいてほしい.ほんとのことを知ってしまったら,ああいう人たちも日本に出かけていって,ただでさえすでに観光客でごった返してるのがいっそうひどくなってしまうかもしれないじゃないか.ぜひとも,ああいう人たちにはずっと幻想にとらわれていてもらおう.
ありがたいことに,彼らとちがってぼくらはもっとよく知ってる.日本は,2010年代前半に移民流入への門戸を前より広げて,すごい猛スピードで多様になってきている.とはいえ,日本がもれなく多様化しているわけじゃない.日本の大半は,いまもかなり均質だ.なぜって,たいていの外国人は東京に向かうからだ.それと同じコインの裏面として,東京そのものはすごく急速にまぎれもなく多様な都市へと変化してきている.5年前の記事を紹介しておこう:
(さらに,この「8人中1人」という数字には,日本の市民となっている人種的マイノリティは数え入れられていない.そうしたマイノリティは急速に増加している)
この多様性といまの観光ブームが合わさったおかげで――日本への観光旅行はパンデミックが終わってからまた復活してきている――東京では,あちこちの街角やお店やレストランで,地球上のあらゆる言語を耳にする.というか,この数年で東京で顕著に悪化したことがひとつあるとしたら,それは観光旅行客による混雑だ.東京がすてきなせいで,誰も彼もがやってくる.ぼくとしては,彼ら観光客に文句は言えない.
これひとつだけの話ではないけれど,移民流入によって,東京の食文化はすでにとてつもなく豊かになっている.日本は,料理界のメッカだ.日本にやってくるシェフたちがあまりに多いおかげで,イタリア本国よりも日本のイタリアンの方がすぐれている.それに,すでに世界級だったアートも音楽もファッションも,〔移民流入で〕いっそう活力を増している――ぼくの意見では,ニューヨーク市すら超えている.本腰を入れて取り組んでいるアーティストや著作家や音楽家なら,かつてはパリに出向いただろうし,そのあとはニューヨークがそういう行き先だった時代もあった.いまや,ますます東京が行き先になっている.ぼくの予測では,今後20年で,いろんなトレンドや思想は東京で生まれて世界に広まるようになっていくだろうと思う.
日本人が〔外国人の〕キミを受け入れるかどうかって話について言えば,答えはこれだ――「キミが彼らの言葉を話せば,日本の人たちはとてつもなく温かく接してくれることが多いし,密接な友人関係をつくるのは難しくないよ」(日本に住むなら絶対に日本語を話せるようになるべきだ).そりゃ,なにかにつけて人種差別的なことを人前で叫んで回ってたら,相応の報いは受けるよね.でも,これを読んでいるキミがそういうタイプの人じゃないなら,問題ないはずだ.
ただ,正直に言うと,東京はいまやかなりの世界的な都市になっているから,短期だけ滞在していても,あっさりと国際色豊かな人たちと付き合いがはじまったりする.桜の見頃を控えた3月にやってきたときは,ぶらぶら歩き回っては,公園のあちこちでピクニックしてる人たちの輪にまぜてもらったりした(東京ではありがちなことだ).そうやって話をしていると,どうやらピクニックの面々の多くは世界各地から東京大学にやってきた AI 研究者だとわかった.彼らは熱心に汎用人工知能のリスクについて議論を交わしていた.いやはや,どうやっても出くわさずにすまないことってのはあるものだね.
東京は,世界経済の中心地ではない.日本の金融ハブではあるけれど,北米のニューヨークやヨーロッパのロンドンと同じようにアジアの金融の中心地になりえてはいない.かつて香港はそういう中心地だった.いまはおそらくシンガポールに軸は移っている.それに,東京はシリコンバレーのようなテクノロジー関連の起業を育む場所にもなっていない.じゃあ東京はなになのかって言うと,1世紀前のパリのような存在になっている――世界でいちばん美しい都市,夢と文化とロマンスの流動する場所だ.そういう評判はあちこちで耳にする:
Bilal Mahmood:
今月はじめて東京にやってきて,もうこの都市にメロメロになってる.
自動車進入禁止の街路や都市の上層部,多目的地域,地下街,公共交通機関.
ぼくらの商業地区を復活させるには,都市のインフラを根本から考え直す必要がある.そのすべては,まず街路の設計からはじまる.
Gearoid Reidy リーディー・ガロウド:
はじめて東京を訪れた人たちや久しぶりに東京にやってきた人たちの多くから,こういう考えをよく耳にしてる.ここは世界最高の都市だって話だ.
だからって,東京によくない面がないわけじゃない.停滞する日本のご多分に漏れず,東京の貧困率は愕然とするほど高い.多くの東京人は,かつかつで生活の収支を合わせながら,静かな絶望のなかで暮らしている.東京の並木道のきらめきもあちこちのカフェも完璧に美しく仕上がっているけれど,集合住宅の多くは小さく,その設備も粗末だ.一方で,ほどほどの所得を稼いでいる住人たちは,あまりにも退屈でつまらない重労働を耐え忍んでいる場合が多い.彼らが身を置く古くさくて重苦しい企業文化は,昇進や自己改善の余地をほとんど残していない.東京は,休暇の旅行でやってきたりアメリカ人としての給料で生活するならすばらしい場所だ.日本の出世競争にはまり込んでいる現地の人間にとっては,そんなに麗しいものではない.
ただ,国レベルで対応すべき問題はある.日本の他の地域は停滞を続けるなかでも,都市としての東京は世界最高の都市にまで上り詰めている.東京は猛烈に改善を続けて,その建設された環境の美も都市計画の効率も文化と商業の質・多様性も,毎年いっそう切磋琢磨していっている.
自分の目でこの都市を見たことがないなら,人間が集まって暮らす中心地が果たしてどれほどのものになりうるのかを,その人はまだ深く感じ取れていない.ぼくと同じく,そして,はじめて東京を目の当たりにしたぼくの友人たち全員と同じく,キミもまた,ひとたび東京を訪れてから故国の都市に戻ったときには,「この都市も現状とはちがうものになりえるんだ」って認識を得ているはずだ.
[Noah Smith, “Tokyo is the new Paris,” Noahpinion, July 17, 2023; translation by optical_frog]