「人類がなしとげた記念碑的な技術的偉業に目をくらまされてはいけない」――アセモグル & ジョンソン
いたるところで「2023年の最重要ビジネス書」のリストに『技術革新と不平等の1000年史』が挙がっていたのは,意外でもなんでもないだろう.まず,著者たち自身の経歴からして,比肩する者がいない.ダロン・アセモグルのことを経済学界の発電所と呼んでも,本人の実績にばかばかしいほど釣り合わない:
それに,アセモグルは国々の発展を制度から説明する説の主要な提唱者でもある.これまでに,アセモグルは『国家はなぜ衰退するのか』やその続編の『自由の命運』(ジェイムズ・ロビンソンとの共著)という有名な本で,この説を展開してきた.ぼくが「包摂的制度」や「収奪的制度」がどうのって話をしてるときには,アセモグルが言ったことをそのまま伝えてる.
もう一人の著者であるサイモン・ジョンソンは,経済政策に関する一般向けのいろんな本を出していて,ぼくのお気に入りも何冊かある.とくに,Jump-Starting America(ジョナサン・グルーバーとの共著)や 13 Bankers(ジェイムズ・クワックとの共著)がお気に入りだ.科学への支出を増やす必要があるとか,金融業界の行き過ぎを抑制する必要があるって話をぼくがしてるときには,ジョンソンの話をそのまま伝えてる.
本書が注目の的になって当然だった第二の理由は,ものすごく時宜を得てる2つの思潮をまとめている点にある: (1) この数年のあいだにアメリカ社会で大きくなってきてるテック系企業に対する不信,そして (2) AI を原動力とした自動化をめぐる不安の波.『技術革新と不平等の1000年史』は,この2つの不安をつむぎあわせて,まずまずまとまったかたちにしてる――なんなら,テクノロジーへのいろんな恐怖の総まとめといってもいい.どうやら,これが世に出た時期は華々しいまでにちょうどよかったらしい.なにしろ,ChatGPT その他の生成 AI の到来とぴったり合致していたからね.
ただ,こういう強力な追い風をぜんぶ受けて登場した本だってことを考えると,『技術革新と不平等の1000年史』の反響がいかに小さいかってことがちょっと意外だったと言わざるを得ない.もちろん,これは〔反響をはかるデータではなく〕逸話ではあるけれど,出版されてから9ヶ月経っているのに,誰かが本書やそのアイディアに言及するところを聞いたおぼえがあんまりない.もちろん,「AI によって人間が仕事を奪われる」と恐れている人たちのためのハンドブックの座に本書が収まることを著者たちが意図しているのは明白だ.ちょうど,格差を心配してる人たちのハンドブックの座にトマ・ピケティの『21世紀の資本』が収まったり,技術停滞を懸念してる人たちのハンドブックの座にロバート・ゴードンの『アメリカ経済成長の終焉』が収まっりしたのと同じ流れになるのを,著者たちは意図していたはずだ.でも,その狙いが実現したかっていうと,そうは思わない.
なんでだろう? ひとつには,タイミングは思ったほどよくなかったのかもしれない.ぼくらが暮らしてるのは「盲目のテクノ楽観主義」の時代だとアセモグルとジョンソンが断定してる(ハードカバー版 p.24)のと反対に,AI のよくない面に関する議論や警告でインターネットは溢れかえっている.一般人工知能のリスクをめぐる懸念の結果として,OpenAI からサム・アルトマンが追い出されかける結果になった.AI が多様性を支持しないのではないかという恐れから,Google が爆笑ものの対処をとることにもなった.大衆監視やディープフェイクなどなどへの恐れは人々のあいだに広まっている.それに,もちろん,「AI によって大量失業がうまれる」という考えはもういたるところに見かける――ぼくが出かけたサンフランシスコのテック系イベントはどれもこれも,ほぼもれなく,ずばりこれを主題にした議論の場を設けていた.なんと,ダンスパーティですらだよ.
ようするに,『技術革新と不平等の1000年史』は,大反響を巻き起こすにはちょっとばかり出番が遅くて,みんなで同じ話を口を揃えて叫んでるなかに,またひとつ異口同音の声を加えただけに終わったのかもしれない.
ただ,それだけではなくって,ぼくとしてはこう言わざるをえない.本書は……なんというか,うん,あまりよくないと思うんだよ.この一文を,ぼくは尻込みをしつつ書いた.だって,サイモン・ジョンソンはぼくの個人的な友人だし,アセモグルは名声ある天才だ.それに,二人ともこれまでにあれほどのすぐれた本を書いてきている.2014年いらい,幅広く否定的な書評を書くのはこれがはじめてだ.それに,10年前とくらべて,ぼくはあまり戦闘的なブロガーでなくなってもいる.ぼくとしては,本書を辛辣に批判したくはなかった.なんといっても,本書の主題はいいものだし重要だ.それに,著者たちは正しいところに心を傾けている頭脳明晰な人たちだもの.
ただ,本書の中身が結論を支持する結果になっているとはぼくには思えない.本書が語ろうとしているのは,独りよがりな技術者たちがよからなぬテクノロジーを発明して,その過程で労働者たちを痛めつけているという物語だ.でも,そこで引用されている歴史上の事例は,当の物語を支持してない.本書が採用している「権力・力」(power) の定義はとても疑わしい.本書の定義だと,開かれた民主的社会での説得は脅しという扱いになる.特定のテクノロジーがおよぼす影響について結論を決めてかかっているように見えることも多いし,生産性成長の役割についてはゴチャゴチャで混乱した物語を語っている.そして,その中核をなす主張はといえば――人間を用済みにするのではなく補強する方向へイノベーションの舵を取るよう起業家たちを社会が後押しできるという内容だけど――しっかり支持されてはいない.
つまるところ,『技術革新と不平等の1000年史』は読者を納得させるのに失敗してる.
基本的な考え
『技術革新と不平等の1000年史』は,経済学書のなかでも「圧倒的な権威のある一冊」の部類に入る.『21世紀の資本』や『アメリカ経済成長の終焉』,あるいはブラッド・デロングの『ユートピアへの蝸牛の歩み』(邦訳なし)の仲間だ.そういう本でありながら,話はしょっちゅうとっちらかっている.著者たちは,この歴史を語るのにのめり込むあまりに,中心的な主題にひとつひとつの出来事を結びつけるのを忘れているように思えることも多い.というか,そういうところこそが本書でなにより面白くてわくわくする部分だったりする.それでも,『技術革新と不平等の1000年史』を一揃いの中核的なアイディアにまでかみ砕くとしたら,それはこういうものだ:
#1. テクノロジーの革新が人間の幸福におよぼす影響は,そうした革新をどう利用するかという社会的な選択しだいで決定的にちがってくる.
#2. そうした選択を決定するのは社会における力関係で,ここ数十年というもの,テック系企業の創立者やベンチャーキャピタリストたちの力によって好ましくない方向に舵取りをされてきた.
#3. 社会が発明するさまざまなテクノロジーのなかから,便益をより広く分配するタイプを選択することは可能だ.労働者を代替するテクノロジーを避けて,労働者を補完するテクノロジーを発明すればいい.
本書でいちばんよく知られているのは,この最後の点だ.なにしろ,このうえなく大胆で,いちばん独創的で,なによりも物議をかもす主張だからね.でも,まずは他の2点について,ちょっと話をしようか.
疑わしい歴史記述
テクノロジーが社会におよぼす影響はその技術の性質だけでは決まらず,ぼくらがどんな使い方を選ぶかによって変わってくるという考えは,ごく当然で,自明と言っていい.これほどの豊かさを産み出してきた工業テクノロジーも戦争ではいろんな破壊的な用途に利用されてきたかってことは,誰だって知ってる.遠くの都市に暮らしてる友達とビデオ通話できるカメラテクノロジーは,政府が市民にスパイ行為を働くのを可能にしてるのと同じ技術だってことも,誰もが知ってる.少なくとも理論上はテクノロジーが確実に悪用されず善用されるようにはかる膨大な法体系・国際協定・社会規範が存在していることは,誰もが知ってる.
でも,「テクノロジーが悪しき目的のために利用されうる」ってことは,単純な自明の理のはずなのに,アセモグルとジョンソンがこの原則を例証するために挙げているいくつかの事例はすごく奇妙なやつだ.たとえば,序章では,「分かち合われた繁栄のようなものをひとつももたらさなかった新たな技術革新」と称するリストが挙げられている.そのリストの5つ目はこれだ:
19世紀末に,ドイツの科学者フリッツ・ハーバーが人工肥料を開発した.これは,農業の生産量を飛躍的に伸ばす発明だった.その後,ハーバーら科学者たちは同じアイディアを転用して化学兵器を開発する.これは,第一次世界大戦の戦場で数十万人もの死者や障害者を産み出すこととなった.
ハーバー=ボッシュが「分かち合わたれた繁栄のようなものをひとつももたらさなかった」という考えは,どうにも雑な主張だ.窒素肥料は人類の存在にとってものすごく重要で,もっとも一般的な推計だと地球上の全人口の約半数,つまり35億人ほどがこのテクノロジーのおかげで維持されている.でも,それと同じ化学反応の転用で化学兵器がつくりだされて,特定の戦争での全死者のわずかひとにぎりの死因になったからといって,人類の半分に文字どおり命をあたえてるテクノロジーが「分かち合わたれた繁栄のようなものをひとつももたらさなかった」んだと,アセモグルとジョンソンはあっさりと言ってのけている.読者が口あんぐりになって当然の明らかに間違った主張だ.彼らの主張を支えるなら他にもっとマシな例示が無数に存在しているのに,よりによってこれが選ばれている.
残念ながら,『技術革新と不平等の1000年史』のあちらこちらで,歴史事例のなかからこういう風に疑わしい事例が選ばれている.たとえば第6章では,こんなことを書いている:
[生産性には力があると考えると]産業革命の初期段階でテクノロジーが急速に発展したのにともなって賃金は上昇したはずだと考えたくなる.だが,そうはならずに大多数の人々の実質賃金は停滞した.
アセモグルとジョンソンの結論はこうなっている――紡績業の各種テクノロジーは労働者の作業を自動化する方へ偏っていたために,1700年代イギリス労働階級を窮乏化させた.でも,まったく同じ紡績業は他のどこの国でも産業化の初期段階で中核を占めていた.中国が世界の衣料品の大半を製造するようになり2000年代後半にはそのシェアがピークを迎え,いまにいたっている.1995年には,衣料品が中国最大の輸出品カテゴリーだった.
でも,イギリスにはじまった機械式織機の産業テクノロジーの末裔を中国の衣料品労働者たちが手に入れたその時期に,彼らの賃金は急上昇を見せている――中国経済全体の賃金の急上昇と同じようにね.同じことは,バングラデシュにも当てはまる――バングラデシュといえば,衣料品産業に猛烈に注力した国だ.バングラデシュは,従来の自動化テクノロジーのすべてを利用できた.そして,同国の所得は1990年から3倍にも増えている.
(余談だけど,これまでずっとテクノロジーを怖がる人たちを蔑む言葉に「ラッダイト」を使ってきたのに,アセモグルとジョンソンが元祖ラッダイトを蘇らせようという試みを明言しているのは,なんだかおもしろいね.彼らによれば,ラッダイトが「織機にみずからの生計が壊されてしまうと恐れたのは正しかった」そうだ.このことがあったので,今回の書評の副題を「ラッダイトたちの聖書」にしようかと考えたけれど,この用語について回るマイナスの含みが強すぎるし失礼だろうと判断してやめておいた.)
本書に登場する3つ目の疑わしい事例は,パナマ運河の物語だ.アセモグルとジョンソンは,パナマ運河を建設した労働者たちの残酷な搾取を叙述して,同プロジェクトが「壮大な失敗」だったと言い放っている.残酷だったのは確かに現実だ.でも,本書では,広く様々な人たちに繁栄をもたらすことに運河のテクノロジーそのものが失敗したという理由として,これが引き合いに出されている.実際には,その逆が事実だったように思える.運河のおかげで,いまのパナマの人々が享受している生活水準は,同じ中米の近隣諸国よりもずっと高い.だからって,人間の犠牲というコストを払う値打ちがこういう経済的な便益にあったと言いたいわけじゃない.ただ,運河のいろんな問題点はその建設に関連しているのであって,運河をつくったテクノロジーそのものから来る便益の不公平な分配に関連しているわけじゃないのは明らかだと思える.もっと人間を大事にする労働基準を採用して運河が建設することもできたんじゃないだろうか? 著者たちはその点に考えを及ぼそうとしない.とにかく,パナマ運河プロジェクトがまるごと失敗だったと言い切るだけで,パナマの繁栄に言及すらしない.
4つ目のあやしげな事例は,日本について語られている物語だ.第8章で,アセモグルとジョンソンは日本企業をこう述べて称賛している.「新しいタスクの創出と自動化とを組み合わせている」.アメリカの自動車企業とちがって,日本の自動車企業はみずからの労働力を削減しなかった点を彼らは述べている.でも,日本の製造業の賃金は,他のあらゆる部門の賃金を同じく,1990年代の前半から低下し続けている.他方,アメリカの賃金は停滞しつつも低下はしていない.なので,アセモグルとジョンソンの物語はデータに適合しない.
5つ目の事例は第7章にみつかる.この章で,アセモグルとジョンソンはこう述べている.「ヘンリー・フォードは」自社の労働力と「より協力的な関係を」発展させた点で「先駆者だった」.いったい,彼らの言う「より協力的な関係」は,乱暴者を雇って労組活動家を暴力で脅して黙らせたこととどんな具合に整合してるんだろう.たしかにフォードは効率向上のためにより高い賃金を払った.でも,労働者の代表との交渉では,フォードは容赦なく横暴なふるまいを見せた.
こういうあやしげな事例をもっと引用することもできるよ――ぼくの手元にある『技術革新と不平等の1000年史』は,余白にみっしり書き付けたいろんなメモのインクで青く染まってる――でも,いちいち挙げていったら,この書評は何十ページにもなってしまう.それじゃあ,みんなは最後まで読み通さずに放り出してしまうよね.ただ,あやしげな事例があまりにも多いので,『技術革新と不平等の1000年史』は腰を据えて批判的な目で読まないといけない種類の本になってしまっている.
出典は?
本書でいろいろと挙げられている事例には他のも難点がある.それは,脚註や巻末註がないことだ.本書は,ひとつひとつの具体的な主張を支える特定の研究を引用していない――たいていの本はそうするのに.そのかわりに,本書は巻末に文献についての小論を配置してる.その小論で多くの出典が言及されているけれど,たいていはどの主張にどの出典が対応するのかわかりづらいし,ときに対応させようがない場合もある.その結果として,複数の出典を網羅的に探っていって著者たちが特定の論点をどこで得ているのか突き止めるか,それとも,あきらめて著者たちがデータを正確に言い表していると信頼するか,どちらかの選択をしないといけないことがたびたびある.
たとえば,第1章で著者たちはこう問いかけてる――「もしも(…)AI によって途上国の数十億人が窮乏化したらどうだろうか?」 そして,こう断定する.この懸念は「妥当」だという「証拠は積み上がってきている.」 でも,AI によって数十億人が窮乏化する脅威にさらされるっていう証拠は,どこにあるんだろう? わずかしかわかっていないテクノロジーに関して述べるには,びっくりするほど強い主張を彼らは語ってる.それでいて,例の文献に関する小論にはなんの出典も見つけられない.ぼくが知ってる実証研究のひとつに,Acemoglu, Autor, Hazell & Restrepo が 2022年に出した論文がある.「AI と雇用:オンライン求人からの証拠」というやつだ.その要旨はこう結ばれている:
本研究では,職業レベルでも産業レベルでも,職場へのAI の導入度合いと雇用・賃金成長に明確な関係は見出されなかった.このことから,現時点で AI は一部のタスクで人間を代替しているものの,労働市場全体ではこれといって検知できる影響を及ぼしてはいないことがうかがえる.
なので,AI が数十億人を窮乏化に追いやる脅威になっているっていう山積みの証拠がこの論文には含まれていないのは間違いない.でも,だったら著者たちがさっきの主張を立てるときにどの論文に依拠していたのか,ぼくには見つけられない.
というか,本書の下地になってるアセモグルの論文の多くを読んだことがあるおかげで,著者たちが主張してることとデータがかみ合わない箇所がそれとわかってしまう.たとえば,第8章でアセモグルとジョンソンはこう主張してる――過去20~30年で「デジタル・テクノロジーは分かち合われた繁栄の墓場になった.」その章で,近年広がってきた格差の無視できない部分が職場にデジタル・テクノロジーが導入されたことに起因している.でも,ぼくはアセモグルとレストレポが書いた2020年の論文「ロボットと雇用:アメリカ労働市場からの証拠」も,その前の2017年ワーキングペーパー版も読んだことがあるので,この主張に懐疑的になった方がいいとわかってしまう.
アセモグルとレストレポは,狭義の自動化の範疇すなわち産業ロボットが雇用と賃金の減少と関連していることを見出した.でも,経済政策研究所 (Economic Policy Institute) のラリー・ミシェルとジョシュ・バイヴェンズが述べているように,従業員の職場に「IT資本」全般がどれほど導入されているか――つまり雇用主が ITテクノロジー全般にどれだけ投資しているか――によって生じた影響をアセモグルとレストレポが計測したときには,雇用と賃金に生じた影響はゼロかプラスなのが見出されている.2020年版の論文から,当該の表を引用しよう:
IT資本によって雇用と賃金に生じたプラスの影響の推定値は,最初のワーキングペーパー版に出てくる(表 A9).
さて,だからといって,コンピュータやインターネットが大量失業や賃金停滞を起こした要因ではなかったとは言えない.ひょっとすると,要因だったのかもしれないね.アセモグルとレストレポの2020年論文がたんに間違っているってこともありうる.というか,そのワーキングペーパーが2018年に出てきて以来,他の多くの研究は,ロボットによるマイナスの影響についてアセモグル & レストレポと矛盾する結果をもたらしている.そうした論文は,どれもが,特定の産業や企業に着目している――人口集団間の格差と自動化に関するアセモグルとレストレポの2022年フォローアップ論文も同様だ.自動化が経済成長・絶対賃金・経済内部の産業構成におよぼす全体的な影響は単純にわかっていない.
つまり,自動化は人々を貧しくしているのかもしれないし,あるいは,人々を全体として豊かにしているのかもしれない.自動化テクノロジーに関する自説を裏付けるデータを著者たちがどこで見つけたのか,とにかく知りたい.とくに,著者の一人がみずから行った研究のなかでも指折りに有名な論文がその主張と矛盾してるとなれば,なおさらデータの裏付けがどうなっているのか知りたくなる.
まとめよう.脚註や巻末註は,まちがいなく世界に利便をもたらしたテクノロジーだ.たしかにたまにちょっと面倒くさくはあるけれど,著者たちはぜひ註を入れるべきだね.
「力」(”power”) の疑わしい定義
閑話休題.本書の中核となる説に話を戻そう.
疑わしい事例は出てくるものの,テクノロジーが平均的な人々の得になったり損になったりする使われ方をされうるのは明らかだ.とはいえ,テクノロジーの使い方を社会はどう選択するんだろう? アセモグルとジョンソンの答えは「力」(”power”) だ.この単語は,本書の原題にも入っている〔Power and Progress,『力と進歩』〕.でも,力って,なんだ? 第3章で,アセモグルとジョンソンは,同語反復のような定義を採用している:
力とは,個人や集団が明示的または暗黙裏の目的を達成する能力の問題である.もし2人が同じ1斤のパンを欲しているなら,いずれがこれを手に入れるかは力によって決まる.
この定義を使った場合,なにか観察された結果の理由が力ではないって結論はいったいどうやったら下せるだろうね? 同じ1斤のパンを2人がほしがっていて,片方がパンを手に入れると,これは「力」の結果ってことになる.なぜって,誰がパンを手に入れたかによって「力」が定義されるからだ.この種の定義は意味論的には妥当だけど,実証的には役立たずだ.「ある出来事が起こる原因になったものはなんであれ力である」ってかたちで定義しても,因果関係を切り分けたことにはならない.たんに,そいつに新しい呼び名をつけただけだ.
ここまで果てしなく広い定義をアセモグルとジョンソンが採用したのには理由がある.この定義によって,説得と強制もひとくくりに「力」という単一のカテゴリーに入れられるからだ.
テクノロジーがもたらす便益の分布を力が決定した歴史上の事例として著者たちが挙げているものを見ていくと,テクノロジーの便益を誰かが自分たちのものにしたときに法律を用いた場合も暴力による脅しを用いた場合も出てくる――アメリカ南部で綿繰り機によって奴隷所有者が利益を増やした例もあれば,中世イギリスで小作農から余剰農作物を領主がぶんどった例もある.これらは,強制の事例だ.なるほどぼくらが普段の会話で「力」というときに意味してることと合致する.
でも,アセモグルとジョンソンは,説得も力の形態だという議論にも多くの時間を割いている.著者たちが引き合いに出しているのは,18世紀イギリスと21世紀アメリカのテクノ楽観主義者や事業家が企業優遇政策を実施するように世間の人たちを説得している事例だ.その手段はいろんな記事だったり演説だったり会話だったりとさまざまだ.1970年代に格差が拡大した理由を著者たちがどう説明しているかというと,ようするに,弁の立つ技術者たちがうまいことアメリカ社会を説得して,それまでの労働者優遇制度を弱体化させるとともに,人間の労働力を補完するのではなく置き換えるテクノロジーに自分たちが投資することを許容させたのだと言っている.
そうしたテクノ楽観主義者たちが考えていた企業優遇の未来像が優勢になった正確な理由について,著者たちは口をつぐんでいる――「単純でうまい話の支えがあっていかにももっともらしく聞こえるアイディアほど広まりやすい」とは言うけれど,「この[説得の]プロセスには少しばかりランダムなところがある」と認めて,こう言い放つ――「ちょうどいいときに,ちょうどいい具合の響きがするちょうどいいアイディアを得るのは,途方もなく幸運なのだ.」
これにはちょっとびっくりしたと認めざるを得ない.〔マルクス主義者のアントニオ・〕グラムシめいたなんらかの文化的覇権の理論(か,少なくともグラムシやその手の著者たちへの言及)が出てくるものと予想してたんだ.でも,その代わりに,著者たちはちょっと肩をすくめてひとえに運の問題と言って済ませてる.〔IT産業で働く若い専門職を典型とする〕ITニキ (techbros) がホントに上手い具合の記事を書いてみたら,どういうわけかそれが世間を席巻してしまうというわけだね――たぶん,少なくとも,運が尽きて世間が掌をひっくり返すまでは.
というか,正直に告白すると,力と説得に関する章には始めから終わりまできょとんとしっぱなしだった.アイディアをやりとりする非暴力的な市場で偶然に成功を収めることを,奴隷制や封建制と同じ概念カテゴリーに括った方がいい理由がぼくには理解できない.これは,物事の理解も解決ももたらさないように思える.もしかすると,綿繰り機っていう歴史上の事例から,自由放任経済の広まりをどう説明したらいいかという知見がいくらか得られるかもしれない.でも,単純に両者に「力」というラベルを貼ってみても,「格差を拡大してしまうことをするように社会が説得されることがある」という問題の筋道立てた解決方法は浮かんできそうにない.
とはいえ,アセモグルとジョンソンが推奨する解決方法をなにも持ち合わせてないってわけじゃない.著者たちは,労組や労働法みたいな制度の強化をのぞんでいる.ただ,彼らの主なアイディアは,テクノロジーの革新が向かう方向を変えて,労働者を置き換えるのでなく補完するテクノロジーの方に進ませることだ.
ハンマーを手にしてるとなにもかも織機に見えてしまう
「こうした説得力を備えていると,自分は正しいと納得してしまいがちだ」――アセモグル & ジョンソン
過去6年にわたって,アセモグルとレストレポは一連の理論論文を書いてきた.そのなかで,労働者の雇用と賃金に新テクノロジーが影響しうる筋道を彼らは提示している.基本的に,そうした筋道はすごく古いアイディアを風変わりな言い方で焼き直したものになっている――ようするに,こういう話だ.資本は労働力を置き換えることもあるし補完することもある.資本が労働力を置き換えた場合には資本家が勝つ.なぜって,資本家は労働者のかわりに機械を使えるようになって,その分だけ人々に払うお金を減らせる.でも,資本が労働力を補完した場合には労働者が勝つ.その新しい機械で作業するのに資本家は労働者を雇うしかなくて,しかもいい賃金を払わないといけない.アセモグルとレストレポは,この理論的な場合分けにもう少しだけ細やかな差異をつけている.それでも,つまるところは,機械が人を置き換えるのか,それとも(人々がもっと生産できるようにしたり新しいことをできるようにして)機械が人の能力を強化するのかって話だ.
『技術革新と不平等の1000年史』は,この理論のレンズでテクノロジーの歴史を分析しようと試みてる.18世紀イギリスみたいにテクノロジーが急速に進歩しつつも労働者の賃金はあまり伸びていないように見える時代には,人間の労働力を置き換える機械を技術者が発明したことにその主な原因があるんだとアセモグルとジョンソンは論じている.他方で,19世紀後半みたいに賃金がぐんぐん伸びている時代には,人間がこなす新しいタスクを創出する機械を技術者が発明したんだと,著者たちは論じている.
この議論を読んでいると,たまに,とってつけた説明のように思えるときがある.たとえば,電力のテクノロジーは労働者にとっていいものだったとアセモグルとジョンソンは引き合いに出している.なぜいいものだったかっていうと,人々が働ける新しい産業をたくさん創出したからだ.でも,電力が人間の労働力を置き換えた場合もものすごくたくさんなかったっけ? 電灯はろうそく製造の労働を減らしたし,電動の食洗機や洗濯機や乾燥機はみんなの家事を自動化した.他にも同様の例はたくさんあるよね.このタスクの自動化で減った分よりも電力で創出された新しいタスクの方が上回ってるって,どうしたらわかる?
また,産業化したイギリスで19世紀後半に賃金が伸び始めたのは,蒸気船と電報が――織機とちがって――「労働者にできるタスクと機会の集合を拡大した」からだと著者たちは論じてる.ぼくに理解できるかぎりで言うと,これは論拠のない主張だ.どうして,メッセージ配達人がやってた作業を電報が自動化した分よりも,電報オペレータという新雇用創出の方が大きいってわかるの? 第8章で,アセモグルとジョンソンは通信テクノロジーによって格差が拡大したと非難している.格差が広まったのは,通信テクノロジーによって〔アメリカなど先進国から〕中国その他の国々に雇用が海外委託できるようになったからだと,著者たちは言う.どうして電報のときと真逆の影響を現代の通信テクノロジーは及ぼしたの?
さらに第6章では,初期の合衆国がとったイノベーションの方向をアセモグルとジョンソンは称えている.アメリカの企業は技能をもつ労働力の不足を補ったのだと著者たちは言い,エンジニアのジョセフ・ホワイトワースの言葉を引用している――アメリカは「産業のほぼあらゆる分野で機械の支援を求め」ている.第7章では,著者たちはこう述べている.アメリカでは交換可能な部品が使用されていた.これは,「なによりもまず生産プロセスを簡素化しようという努力であり,それによって職人的な技能をもたない労働者たちが高品質の製品を生産できるようにすることが目指されていた.」 でも,1700年代に技能のない人たちが織物を生産するのを助ける動力付き工具をイギリスが使用していたのと,どこがどうちがうんだろう? 両者のちがいは,説明されずじまいだ.
同じコインの裏面で,創り出すタスクよりも自動化するタスクの方が多い事例として現代の情報テクノロジーをアセモグルとジョンソンは挙げている.でも,IT が創り出してるありとあらゆる新しいタスクはどうなんだろう――スマホアプリ開発者や,ウェブデザイナーや,デジタルメディアマーケターや,コンテンツモデレータなどなどはどうなんだろう? インターネットですっかり自動化されてなくなったタスク(百科事典セールス員とか)よりも,こうした仕事が経済的に重要でないというのは,どういう理由があるんだろう?
ひとつの答えは,これだ:アセモグルが考えてる自動化の理論こそがいま進行中の主な事態なんだと仮定してしまえば,マクロ経済のいろんな結果から特定テクノロジーの影響を推論できる――賃金が停滞しているなら,それはタスク創出を上回るタスク自動化が起こったからにちがいない,というわけだ.でも,アセモグルの理論はいま経済で進行中の主な事態ではないかもしれないと疑ってる人たちからすれば,証明はすっかり終わってるという言い分は,ちょっと不満が出るところだ.それだと,とってつけた説明のように感じられる.
生産性はいいの? わるいの?
実は,『技術革新と不平等の1000年史』に登場する歴史上の事例については,著者たちとはちがう物語を語ることもできる.主な代替物語は,生産性についての物語だ.
生産性の向上が自動化によるものだとしたら,労働者にはその便益は見えないとアセモグルとジョンソンは繰り返し論じている.労働者を置き換えるテクノロジーの発明を許容するよう社会を説得するのに技術者が主に使う悪辣な物語の一つとして彼らが引いているのは,生産性がおのずと労働者たちを底上げするというアイディアだ――これを「生産性バンドワゴン」と彼らは呼ぶ.
でも,その「生産性バンドワゴン」物語が事実だとしたら,どうだろう?
行き過ぎた自動化が賃金の停滞につながった事例として著者たちが挙げている主な歴史上の時代は2つある――18世紀イギリスの初期産業革命と,1970年代以降のアメリカだ.18世紀のイギリスでは,織機のような織物機械が人間の職人にとってかわった.(註記: 第8章で著者たちが言っていることにはひとつ誤りがある.「実質賃金の下落は(…)アメリカ労働市場のトレンドで大きな部分を占めてきた」と著者たちは言うけれど,実際には,各種の手当てを含めると,実質の1時間あたり報酬は1973年以降ちょっとばかり減速しつつも一貫して伸びてきたし,いまも伸び続けている.)
でも,アセモグルとジョンソンは,この2つの時代は生産性成長も緩慢だったと述べている.もしかして,生産性も停滞していたから,この2つの時代に賃金も伸び悩んでいたってこと?
初期の産業革命について言えば,実際のところ労働分配率は下がらなかったと論じている研究者たちもいる.たとえば,Crafts (2020) ではこう書かれている:
産業革命期に,労働者一人あたりの実質 GDP よりも実質賃金の伸びは遅かった.だが,その差はこれまでに主張されていた数字よりも大幅に小さい.実質賃金は1770年から約 12パーセント伸びたのに対して,実質 GDP は約 16パーセントの伸びた.第二に,1830年より前の労働生産性の伸びはかなり緩慢で,1770年以降の60年で1年あたり平均 0.4パーセント未満となっている.それでも,人口動態の圧力を考慮すると,産業化以前の基準でみてこれは非常によい結果だった.第三に,相対価格が変化し,輸出可能な製品がより安価になったために,長期的に実質の賃金は実質消費所得よりもいくぶん速い伸びを見せた.第四に,GDP に占める利益の割合は1770年には 17.2パーセントだったのが,1860年には 31.3 パーセントにまで増えたが,これは地代の占める割合の減少が関わっており,労働分配率はほとんど変わっていない.第五に,成長会計のレンズをとおして見ると,次の点に証拠が見いだせる.すなわち,蒸気機関がようやく本格化した1830年から1860年のあいだに,全要素生産性 (TFP) は年率 0.6~0.8パーセントで緩慢な加速しかしなかった.
まとめると,ここにあるのは金持ち有利の成長ではなく逆説的に緩慢な生産性成長の物語のように見える.いま AI に関して心配されているような,「新しい汎用テクノロジーで生産性成長が加速した一方で所得分布が大きく変動した」という物語が産業革命に当てはまらないのは間違いない.
1970年代以降のアメリカについて言うと,格差は確かに拡大した.でも――みんなが耳にした話とはちがうかもしれないけど――給与はおおむね生産性に後れをとらずに伸びてきた.自動化で賃金は以前よりも不平等になったかもしれない(これが Acemoglu & Restrepo 2022 論文の論証だ).でも,国全体のパイに占める労働者の取り分が穏やかな低下を示したのは,おそらく,土地の価値上昇の問題だ.それはつまり,全体の賃金停滞も大半が近年の生産性成長の鈍化に起因しているってことだ.
というか,アセモグルとジョンソンも生産性の停滞を自動化のせいだっていってるんだよね.第8章で,著者たちはこう書いている.「自動化による生産性の上昇分は,つねにいくぶん限定的かもしれない.」 人間をお払い箱にしつつもそれによって生産性を大して高めはしないテクノロジーを,「一応の自動化」(so-so automation) という用語で著者たちは呼んでいる.著者たちの主張によれば,人間のいろんな能力をよりよく活用するテクノロジーは生産性成長を加速させつつ,賃金上昇と格差縮小ももたらすんだという.
はぁ,なるほど……じゃ,どうして,それを本書の中核に据えてないの? 「人間にそっくり取って代わろうとするテクノロジーよりも人間を補完するテクノロジーの方が生産性にも広範な繁栄にもこんな風にすぐれてる」って議論ですごく興味深い本が書けそうじゃないか.そんな本があったらぼくならぜったいに読むのに! でも,アセモグルとジョンソンはそんな本を書く選択肢はとらなかった.かわりに,彼らは生産性に関心を注ぐことに警告して,そんな議論は強欲で口達者な IT ニキ連中が使ってる魅惑的だけど危険な物語なんだと主張した.ぼくの見立てだと,これは著者たちの全体的な物語を弱めている.
メニューはどこ?
『技術革新と不平等の1000年史』全編を通して著者たちが語っているのは,起業家たちが選択できる「テクノロジーのメニュー」についての話だ.一方では,企業は自動化に投資して労働者たちを置き換え,格差を拡大し,賃金上昇を低迷させられる.もしかすると,その家庭で生産性を下げたりするかもしれない.他方で,企業は人間にこなせる新しいタスクを創出するテクノロジーに投資する選択肢もとれる.その場合には,賃金を上昇させ,格差を縮小させることになる.起業家たちは強欲および/あるいはエリーティズムから前者を選びがちで,企業が後者を選ぶように後押しするのは社会の利害関心なんだという物語を,彼らは語っている.
でも,あれこれの新しい産業が誕生した事例を称賛しつつ引き合いに出すとき,「どうして起業家や技術者が既存産業のコスト削減にいそしまずにそういう新しい産業の創出を選んだのか」って理由を,著者たちはいっこうに説明しない.ぼくなら,基本的にこう想定する――「蒸気船や電報や交換可能な部品や自動車や電力や電話を発明して商業化した人たちの動機は,機械式織機や計算機やインターネットを発明して商業化した人たちを突き動かしたのと同じだっただろう.」 それはないって言うなら,どうして? 政府や労働組合が起業家たちを動かして「テクノロジーのメニュー」から選択肢 B じゃなく選択肢 A を選ばせた事例って,あったのかな?
アセモグルとジョンソンが労組の力を論じてるのは,労働者の訓練の話をしている文脈でのことだ.第7章で,彼らはこう書いている:
それどころか,[1960年代に]労働組合にとって中心的な問題となっていたのは労働者の訓練だった.新しい機械を操作してそこから便益を得られるのに必要な技能水準にまで労働者を確実に引き上げる訓練提供の条件を加えるように労組の人々は要求した.
これって,イノベーションの方向に影響を及ぼすって話とはずいぶんちがうよね.これは,労働者たちが集団で企業を突き動かして人的資本に投資させて,イノベーションがすでに進んでいた方向に労働者たちがついていけるようにはかろうとしたって話だ.
ぼくに理解できるかぎりだと,労組や政府が起業家や企業を突き動かして,労働者の利益になるようテクノロジーがたどる道筋を選ばせたと思われる事例なんて本書にはひとつも出てきてない.というか,ぼくの知るかぎり,エンジニアや起業家や企業や投資家がもっと労働者たちの利益になるようにとテクノロジーを創出する方を選んだ事例すらひとつも本書には出てこない.
つまり,「テクノロジーのメニュー」がほんとに存在してるという証拠はここにはない.自分が創出して商業化する発明がいろんなタスクを自動化する以上に新しいタスクをつくりだすのかどうかを技術者たちや実業家たちが前もって知っていたのかも,はっきりわからない.そうすると,格差や賃金低迷の問題に対する解決案として著者たちが推してるものに関して,厳しくて厄介な問いが浮上してくる.
官僚たちは IT ニキ連中へのチェックとして機能するの?
第11章で,アセモグルとジョンソンは解決法の案を提示していってる.格差と賃金停滞は「テック系億万長者と彼らのアジェンダ」によって「メニュー」から間違ったテクノロジーが選択されてしまったことに起因していると結論を下した彼らは,民主的な人民の力によって IT ニキ連中を労働者増強の経路へと追い込むよう提唱している.
そうは言うけれど,どうやってやるのか,まるっきり不明だ.アセモグルとジョンソンも,テクノロジーのイノベーションが進む道筋の「方向転換」がものすごく困難な要求だってことは認めている:
いろんなデジタル/テクノロジーの使われ方と賃金・格差・監視への影響を決めるのは,[気候変動への影響を評価するのよりも]ずっと難しい.(…)さらに,デジタル・テクノロジーによる自動化とそれ以外の用途を区別するのも難しいことを考え合わせると,自動化への課税も現時点では実用的でない.
それでいて,著者たちは「できる」と主張するんだよね.でも,その詳細に関しては,ムカムカするほどぼんやりしている:
〔あるテクノロジーが〕自動化テクノロジーであるという紛れもないしるしはある:付加価値に占める労働者のシェアを減らすというのがそのしるしだ.つまり,ひとたびそうしたテクノロジーが導入されると,資本のものになる付加価値が増える一方で,労働者のものとなる分は減る(…).これにもとづいて考えるなら,労働者側のシェアを増やすテクノロジーは,その使用や開発に助成金を出すことで奨励できる.
でも,実際にテクノロジーが発明される前にあらかじめ見極めるにはどうしたらいい? 労働者側のシェアを増やすのか減らすのか,事前にどうやって知ればいい? これは,たんに当て推測の対象をあっちからこっちに変えただけだ――新タスク創出 vs. 自動化〔から労働者シェアの増減に当て推量を切り替えただけだ〕.
つまるところ,どっかの部屋でなんらかの官僚が――経済学者が? 政府エンジニアが? ブロガーが?――まだ存在してもいないテクノロジーがもたらす経済的な影響を評価しようとがんばるわけだ.
6月の記事で書いたように,これはおそらく不可能な課題だ.世界のトップ専門家たちのなかには,「ほんの数年で AI が放射線科医にとってかわる」と考えていた人たちもいたけれど,新しい AI ツールがオンラインに次々と登場してきても,放射線科医への需要はますます旺盛になった.あの技術者たちは間違ったわけだ.
それに,経済学者だって,同じくらい間違えそうだ.たとえば,アセモグルは,有害な自動化の事例として産業ロボットを一貫してこきおろしている.これは,レストレポとの共著で2020年に出した論文にもとづいている.その論文で,ロボットをより多く購入する企業ほど人間の雇用数が少ないことを著者たちは見出している.でも,他の大勢の経済学者たちは,アセモグルとレストレポの研究を踏襲してそれと真逆のことを見出している――ロボットの採用〔の増加〕は,個別企業あるいは個別産業での雇用数の増加と正の相関を示しているというんだ.2022年にぼくがつくったリストを載せよう:
こうした研究のごく一部を列挙する:
#1. Mann & Püttmann (2018)――アセモグルとレストレポが(…)相関に着目しているのに対して,この論文では因果関係と特定しようと試みている.ここで目を向けているのは,ある産業内での自動化に関連した特許だ.これを自動化空間におけるイノベーションの代理変数として,その産業で雇用が増加しているか減少しているかを調べている.この論文の発見は次のとおり:「全国での自動化テクノロジーが進歩すると,地域の労働市場での雇用にプラスの影響が見られる.」ただし,どんな分野でもそうなっているわけではない.
#2. Dixon, Hong and Wu (2021)――著者たちは,カナダにおけるロボットの採用に着目している.これで見ているのは,個々の会社の水準でのロボットの採用だ(あるいは,経済学者の用語だと「企業」(firm)).この論文では,ロボットを多く採用した会社ほど人員も多く採用している.また,その一方で,そうした企業は製品・サービスの品質も向上している.
#3. Koch, Manuylov and Smolka (2019)――この論文では,スペインの製造業者の企業レベルのデータに着目している.この研究によれば,ロボットの採用は,産出と雇用の双方で大幅な増加と相関している.
#4. Adachi, Kawaguchi and Saito (2020)――この論文では,40年間にわたる日本企業のデータを検討して,さっきの論文と同じ結果が見出されている.
#5. Eggleston, Lee and Iizuka (2021)――著者たちが着目したのは,日本における介護施設でのロボット採用で,ロボットを使うと雇用が大きく増えていることが見出されている.ただし,従来の看護師の労働時間は短くなる結果ともなっている(それにともなって給与も減少している).
#6. Hirvonen, Stenhammar, and Tuhkuri (2022) ――この論文では,フィンランドのテクノロジー助成金制度に着目している.同制度は,フィンランド企業での多岐にわたる先進テクノロジー採用を増加させた.それにともなって雇用が増加したことがこの研究では見出されている.
実際のところ,この時点でトレンドははっきりしている.ようするに,アセモグルとレストレポの主張と逆に(…)ロボットの採用は企業の水準でも地域の水準でも雇用増加と相関している――そしておそらくはその原因となっている.
なにが起きてるかっていうと,ロボットをより多く使う企業ほど,そのロボットを保管する業務で人間をより多く雇用しているんだ(しかも従来の人間の労働者も維持している).これこそ,これまで何度か押し寄せてきた自動化の波で見られていたことだ――人々は新しい役割を見つけ出し,ロボットは彼らの生産性を高め,その給与は上がる.製造業の分野でロボットをとりわけ多用している国々を見てみると,どうやら,この好循環が国全体の水準ですら起きているらしい.
製造業からカメラを引いて視野を広くとると,Hötte, Somers, & Theodorakopoulos が書いた 2022年のレビュー論文はとても興味深くて,ありとあらゆる自動化テクノロジーに関する文献を検討している.その研究結果を解説している記事はここで読める.Hötte et al. の論文では,自動化がたしかに人間の雇用にとってかわる一方で,その効果よりも「回復」効果の方が勝っているのを見出している――つまり,人々は新しい仕事を見つけ出すんだ.また,彼らの所得はその結果として総じて上昇している.
というわけで,うん,官僚たちが――エンジニアであれ経済学者であれ何であれ――諮問委員会をつくって企業や発明家がつくりたがってる新テクノロジーの候補をいちいち全部評価できるなんて可能性は,ないね.つまり,官僚の諮問委員会をつくるにはつくれるし,いろんな新テクノロジーの計画を検討してみたりあれこれと決定を下したりはできる.でも,実際問題として,それはダーツを投げるようなものだ.それに,企業にとってはものすごくコストの高い課税にもなる.なぜって,彼らの意思決定プロセスにものすごい遅延をもたらすからだ.他方,中国にいるライバルたちはそういう遅延をまったくさせられずにすむ.
ようするに,アセモグルとジョンソンが推してる解決法になんの望みもぼくは見えない.『技術革新と不平等の1000年史』でこのアイディアがずいぶんあやふやな言葉で提示されているのをみるにつけ,どうも,この解決策が実地にどう機能するかを慎重に考えたようには思えない.
とくに,こうした解決策に比べて優れていそうな上にはるかに単純なやり方がある:それは,事後に労働分配率を上げる政策だ.共同決定 (co-determination) や部門別団体交渉といった労働市場のいろんな制度だとか,資本所得課税を財源とする賃金助成みたいな直接介入だとかを用いれば,予想しがたいものを予想しようとする専門家たちの委員会を必要とすることなく,労働分配率を上げられる.自分たちのイノベーションが労働分配率を上げやすいのか下げやすいのかについて,もしも起業家たちにいくらかなりと先見の明が本当にあるのだとしたら,こうした政策はアセモグルとジョンソンが非難しているタイプのコスト削減へのピグー税のようなものとして作用するだろう.たとえば,賃金助成を行えば,企業としては,労働者に支払える市場レートが高くなればなるほど,政府からもらえる払戻金が大きくなる.労働者を補完・補強するテクノロジーが存在して自分が新しい労働者を雇用できるようにするテクノロジーが存在するなら,賃金助成はそうしたテクノロジーを創出するインセンティブをもたらす.
ともあれ,まるっきり新しい社会制度の創出ではなくてこういう単純な政策こそが,経済学者たちが最初にとろうとする解決法のはずだとぼくは思う.
古い物語,新しい物語
この書評の冒頭で,『技術革新と不平等の1000年史』は AI をめぐる怒濤のような恐怖のさなかで時宜を逃してしまったかもしれないって語っておいた.ただ,それとは別のかたちでも,この本は登場の時期を間違ったかもしれない.他でもなく Acemoglu & Restrepo (2022) が説明しようと試みてる賃金格差は,2010年代前半から拡大を止めて横ばいになっているんだよね.
その一方で,パンデミック後のインフレでいったん中断を挟みつつも,実質賃金はいま力強く伸びてきてる.それに,生産に従事する非管理職の労働者たちの賃金は,管理職の人たちよりも堅調な上昇を示してる:
他方,働き盛りのアメリカ人の雇用はかつてないほど高い水準にあるし,失業率も記録的な低水準になっている.いまアメリカで仕事に就きたいと思ってる人は,雇用を見つけられる.
こうしたことすべてが,まさに AI が爆発的に向上した時期に起きてる.ImageNet 論文で予測 AI は 2012年に全米を席巻したし,生成 AI の基礎テクノロジーは2017年にトランスフォーマー論文で創出されたし,大規模言語モデル (LLM) と AI 画像生成プログラムで2022年~23年に生成 AI はすごく広まった.繰り返そう:こうした人工知能の商業化と実装のほぼすべてが起きたちょうどそのときに,賃金は上昇し,格差は横ばいか縮小していて,雇用は堅調になってるんだよ.
もしかすると,AI はまだ雇用をツブすほど大きくなってないだけかもしれない.もしかすると,あと2~3年も経てば,ぼくらはみんなして失業したりしみったれた日銭のために働いてたりするのかもしれない.あるいは,ひょっとすると,AI は従来のタスクをすっかり自動化してしまうのではなくて,タスク生産性を向上させたり新しいタスクをつくりだしたりするタイプのテクノロジーだったりするのかもしれない.はたまた,もしかしたら,アセモグルはなにかモデルで間違いをおかしていて,さらに理論と実証の探求を進めていけば,格差を拡大させてしまう自動化の主要な役割に関する彼の結論はひっくり返るのかもしれない.ぼくにはよくわからない.
ただ,なにがいま起きているのであれ,AI を気に病んでる人たちはこれでちょっと立ち止まって考えるきっかけが得られるはずだ.これは,メニューにはなかった.2012年に舞い戻ったとしよう.当時の人たちに,物体を認識したり言葉を模倣したり美しい美術を創り出したりできる新しい機械がもたらす影響を予測してみてよってお願いしたとしたら,どうだろう.きっと彼らは,それまで30年も味わい続けてきた格差拡大がターボブーストするだろうって想定するだろう.そして――少なくともいまのところは――そういう予測は完全に間違っている.
ぼくにとって,この思考実験は新テクノロジーが経済に及ぼす影響を予想しようとする愚かさの例示になっている.また,『技術革新と不平等の1000年史』が2018年に出ていたらもたらしただろう大反響がいま起きなかったもうひとつの理由も,うかがえる.当然だけど,ぼくらの経済問題がなにもかも解決されたわけじゃない.でも,もしかすると,あらゆる憤慨や悲観の水面下で,自分たちの経済のなにかがいい方に転換していることをアメリカ人は感じ取っているのかもしれない.そして,ひょっとすると,そう感じ取っているために,2010年代に馬鹿売れした悲観的経済物語への関心をちょっとばかり薄めてるのかもしれない.
[Noah Smith, “Book review: ‘Power and Progress’“, Noahpinion, February 21, 2024]